あるコンサートに行って感じた違和感。 [独り言]
先日、私が中学時代からファンであるアーティストAさん(イニシャルではなくただの記号として記します)のライブに行ってきた。昨年も2回行き、ここ10年近くはコンスタントにAさんのライブに行っている。
Aさんが現在ツアー中なので、あえてアーティスト名を伏せて感想を書きます。
またツイッターを見ると例外なく好意的な感想ばかりなのだが、私はあえて批判的な感想に終始してしまうので予めご容赦願いたい。
今回はAさんの通常動員からすればかなり小さ目の小屋のツアーが始まったからだ。いわゆるライブハウスよりは大き目だがホールよりはかなり小さめという感じだ。
そんなAさんのライブ企画に興味をソソラレて、チケットを申し込んだ。一番行きたかった小屋は抽選に2回漏れ、別の都内の小屋で当選したので同伴者と行ってきた。
同伴者はここ10年位Aさんのライブに一緒に行っている人物だ。
ステージにメンバーとAさんが登場し、演奏の布陣が見てとれた。今回は小屋も小さいため昨年のホールツアーと比較してメンバーで3名少なく、またキーボード以外のメンバーは全員新しいミュージシャンだった。編成構成はドラムス、ベース、ギター、キーボード、歌(+ギター)。
1曲目が始まった。Aさんの名曲の1つだ。そしてその後もAさんの名曲群が演奏される。しかし私は1曲目開始直後から違和感を感じており、それがずっと解消されなかった。1曲目開始直後の違和感の象徴的だったのはいつもAさんが弾いているギターにコーラスがかかっていたことだ。これは過去10年近くライブで見聞きして初めてだったと思う。
何故Aさんのギターにコーラスがかかっているの?? まずそこから引っかかってしまった。そのままの方がいいのに・・。
その後も素晴らしいセットリストが進むのだが、全く楽しくない。何故だろう?
1部と2部構成だったが、2部の最後の曲が終わるまでずっと違和感が消えなかった。
モヤモヤしたままだったのだ。
今回のツアー、小屋を小さく設定しただけでなくいつもとは違うミュージシャンを使って人数も違う編成でパフォーマンスしていた。
AさんのMCでの説明もあったがこれは意図的なものだ。
終演後、会場を出て帰路につく途中で同伴者がポツンとつぶやいた。
「なんか、ピンと来なかったね・・」
私はその言葉を聞き思わず「えっ、そう思ったの?」と聞き返した。
実は同伴者にAさんの音楽を紹介したのは私だが、ここ10年近く私よりもAさんの音楽を聴く程なっていた。同伴者が私とAさんのライブに行くようになったのは前述したようにここ10年程度だが、絶頂期は知らないまで多少の変遷を経験している人だ。同伴者はめったに批判的なコメントをしない人物なのだが、その人が一言ピンと来なかったと言うのを聞いたのは私にとって重い言葉だった。
「私もピンと来なかったんですよ・・、何でしょうね? この違和感は・・。気の抜けたビールみたいだったよね」と返答した。同伴者はちょっと笑ったまま答えなかった。
私は違和感の正体を考えてみた。
まず、バックの演奏者が大幅に変わった。Aさんの説明では若いミュージシャンと一緒にいつもとは違う小さめの小屋でやってみようというライブコンセプトだったようだ。それはそれでいいのだが、バックのメンバーが変わり編成人数が減るということは、各自の演奏力が高くないと演奏全体がまとまり難いと言うデメリットがある。
従って各自の演奏の「繋ぎ」的な音像を作るために演奏力の高いミュージシャンであることが要求される。ライブを通じて感じた違和感の1つがバンドの演奏力のなさだったと思っている。
少なくともAさんが通常のライブで一緒にやっているバックミュージシャンは一流と言えるレベルなのだが、今回のキーボード以外のメンバーは全員30代~40代前半までの人たちだ。メンバーの経歴も調べてみたが、なるほど・・という感じだった。少なくとも経歴を見る限り、いつものメンバーとは経験しているミュージシャンの層が全く違う。
私のような見方をしていた観客は多分居なかったと思うが、メンバーの出音(楽器を鳴らす力)や演奏構成力が圧倒的に足りないと思った。
音はPAされているのでそれなりに出力されているのだが、楽器があるべき姿として鳴っていないのだ。
フォーリズムを構成するメンバーの楽器が鳴ってないからバックの音がひ弱で貧弱なのだ。キーボードだけはいつものメンバーなのだが、鍵盤だけでどうにもなるはずもない。そこにAさんの唄とコーラスのかかったギターがいる。
いつもならもっと歌えているAさんの唄は、バックの貧弱さに足を取られているかのように貧弱さを露呈しており、時折ピッチも外してしまう。年齢によって歌が昔ほど歌えないAさんにとって今回のパフォーマンスはちょっと致命的にも思えた。
特に私の同伴者はAさんが今までのように歌えていなかった点に不満をもっていたが、その理由の1つにはバックメンバーの選定ミスがあったと思っている。カラオケ屋で経験があると思うが、歌唱というのはバックの音の密度やグルーブに信じられないほど影響を受ける。
1曲目の名曲の歌い方も、私の視点からは手抜きのように思える感じだった。リハーサルでもしているのかな?と思うような感じで、あれが本番の歌い方だとしたらちょっとリラックスし過ぎだと思った。
そうなのだ。何かAさんの今回の唄には「魂」が感じられなかったのだ。
「魂」が感じられなかったのは本人の責任が一番大きいが、バックの演奏がAさんの唄をサポートしエネルギーの度合いを上げられなかった点もあるだろう。これは先ほど記したカラオケ屋の話と同じだ。
Aさんはどのように理解しているか分からないが、若いミュージシャンたちはいつもの一流のミュージシャンたちの半分程度のレベルで、残念ながらAさんのレベルとは釣り合わなかったのだと思う。
若いミュージシャンたちは30代後半から40代前半だと思うが、残念ながらこの年代のミュージシャンは本当に上手くて要求の厳しいミュージシャンたちとセッションをしてきた経験が圧倒的に少ない世代だ。
従って全体的な技量も落ちる。またデジタル時代のレコーディングが主流になってからのミュージシャンであるため、アナログ録音時代の人々よりも演奏技量の細部の詰めが甘いため、特に少人数のライブでの技量の甘さが露呈しやすい。
私と同伴者はそうした違和感の総和を感覚的に感じてライブを見ていたのだ。実際私はライブを見ながら演奏のダメ出しをしているような状態だった。(だから楽しいはずがない)
同伴者は私のような経験のない人間なので、私のような分析をできないが、明らかに同じような違和感を感じた点において凄いなと思うと同時に、質の劣化を直観的に理解していたのだろう。
2011年に日本でのライブ活動を復帰させた八神純子さんのライブを初めて見た時、一番の違和感はバックの演奏力のなさだった。八神さんは自分のピアノだけで十分歌える人物なので歌への違和感は全くなかったが、バックの演奏の貧弱さと物足りなさは以前ブログにも書いた。
その後八神さんは日本でのライブ活動が想定よりも集客できることで自信を得て、バックのミュージシャンの選択も一流どころになった。当然だが、一度一流と演奏したら二度と二流とは出来ない。2011年にやっていたバックとのコンサートはなくなり、現在は村上ポンンタ秀一氏などのお歴々とセッションをしている。彼女のレベルなら当然だろうと思う。
一流のミュージシャンと二流のミュージシャンの間には限りないギャップが存在する。
今回Aさんは残念ながらミュージシャンの質を落としてしまったことでご自身の唄の質まで落としてしまったようだ。バンマスでキーボードの方がその変化に一番気が付いているかもしれないと思う。
この先、ツアーは夏まで続くようだが、次のツアーは是非とも元のバックメンバーに戻してホールツアーとして再開して欲しい。ミュージシャンは自分のやることに飽きてしまって時折やらなくていい事をするが、Aさんに置かれましては今回の件を最後に、元のクオリティーに戻すようにご配慮願いたいという感じです。
特に来年は大事な周年が待っておりますから。
何となく世情をつぶやく・・。 [独り言]
昨今、安倍政権がちょっと危うい。
だからと言って特定野党の支持者でもない。
いわゆる浮動票行動をする人間だ。
野党にしても素晴らしい政策や行動をしてくれるのであれば、当然応援するし、
自民党政権でも同様だ。もちろん反対の事も起こる。
その予告をつらつらと他の事を含めてつぶやくので、興味があればお読みください。
なお、政治的な話をすると色々なご意見を頂くと思うので、コメントについては一旦当方側で引き取るつもりです。
また仮にコメントを頂いても当方側から反論等をするつもりもありません。
あくまでも個人的なつぶやきですから。人を傷つけない範囲で自由に意見が言えるのが日本です。
さて、私は中道の人間だと思っている。
だが、だからと言って全く思想信条が無い訳ではない。
例えば若い頃は天皇の存在に何となく違和感を持っていたが、学校の歴史教科書を離れて自分で歴史の勉強して掘り下げると日本にとって天皇の存在が背骨だと理解できるようになってきた。
これは国家教育がそうさせたのではなく自分で勉強して得た結論だ。歴史的事実を読み解くと、万世一系を事実として信じるのは難しいが、日本は天皇というシステムを途切れなく維持してきたことは事実であり、それが日本の歴史に欠く事の出来ない影響を及ぼしている点は疑いない。
従って共産党のように天皇制を否定する考え方は全くない。
少なくとも日本国にとって、天皇の存在を否定した歴史を日本国民が語る事は出来ないと思っているからだ。
共産党のように自衛隊の存在を否定したり、左翼系のように暴力装置などというのは言論の自由だが、
北朝鮮を見ても判るように安全保障としての軍隊を保持しない国家では安心して暮らせるはずもない。
自衛隊反対派には安全保障の対案があるだろうか?
一定の議論を経たらそういう部分に終止符を打って現実の安全保障に資する議論に移る時だと思っている。
仮に歌舞伎町のど真ん中に自宅があったとしよう。
暴力団や怪しい半グレ集団や外国人犯罪勢力に囲まれて暮らす事を余儀なくされてたとすれば、
自宅や周辺に厳重なセキュリティーをするだろう。
今の日本国のおかれている状態はそういうことなのだ。
かつての社会党は非武装中立を掲げていたが、こういうファンタジーを現実の政治に持ち込む辺りのセンスのなさが流れを汲んだ社民党の凋落の証だろう。暴力団や怪しい半グレ集団や外国人犯罪勢力に囲まれてセコムを解除したらどうなるか理解できそうなものだろう。
リベラル系の弱点は理想論と現実社会の間への落としどころを見つけられないという点だろう。
ただ旧リベラル系政権の擁護を1つだけしておけば、労働者の地位向上への貢献だろう。
中には暴力的な対応をした時代もあり、彼らの活動や過程の全てに賛同する訳ではないが、
資本側が労働側に強いていた不当な労働環境の大幅な改善においては一定の評価すべきだろうと思っている。
実際、我々はその積み重ねの恩恵の上で生きている。
さて、自衛隊に話を戻す。
憲法学者が憲法の仔細微細な解釈から自衛隊の存在そのものに反対する意見は分からなくはないが、
歴史的要請によって発生し存在を容認され(容認されてないと言う人もいるが多数ではない)定着しているものを、法的理屈だけを振りかざして現状を否定しても生産的でも建設的でもないだろう。
理屈の先に何か具体的な施策があるというのだろうか?
学者は毒にも薬にもならない理屈や論理を披露するのが仕事みたいなところがあるが、
折角頭が良いのだから自分たちの仕事がもう少し世の中に具体的に役に立つ方法を考えてもいいだろう。
三権分立という建前はあるが、人間の営みは必ずグレーな部分を孕む。
三権分立は現実社会において三竦みで決して理論のようには運営されていない。
その上でどうするのか?が学者諸氏の腕の見せ所だろう。
人間が日々を営む上でのそうした現実を無視してはならないし、同時にその事実と戦う必要がある。
人間が作る法律は完全無欠ではない。
完全であろうとすることは全く否定しないが、現実はそのようになっている。
そういうことを踏まえて現実対処をどうするか?が考えるべきことだろう。
信念は個別にあって良いと思うが、現実社会で実現不能な信念は宗教に近いと言うべきだろう。
現実に即さない根拠を正論として振りかざすだけでは課題解決しない。
だって「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」って書いてあるからだ。
そもそも民主主義とは民が中心というのが建前だ。
学者が総がかりで解釈しないと正しい解釈にならないような文章を国家の上位法にしていることからして可笑しいとも言える。平易に解釈して成り立つものでなければ本来の意味で立憲であろうはずもなかろう。
憲法第9条の解釈は国連憲章との連動性など様々な見方、意見があるが、一般庶民的な観点で言えばそういう事だ。
ただ第9条に自衛権確保のための軍事組織の保有について書いてあえて書いてなかったのは手抜かりだったと思う。
先ほど私は憲法第9条の解釈は普通に読めば軍隊の保持が違憲だろうと言った。
それは他国を攻めに行く事を前提とした軍隊であり、セコム行為を否定する訳じゃないと思っている。
つまり自衛権だ。でもそこがちゃんと書いてないからややこしい話になってしまった。
さて、自衛隊を違憲だとして扱えば、日本は安全保障的に丸裸になり、他国からの脅威に対応できない。日米安全保障でアメリカが守ってくれると考えるのは妄想に近い。彼らが日本を守るとすればアメリカの国益に叶うかどうかの時だけだ。
表向き独立国である日本が自分たちの意思で国民の安全と生命と財産を守れない国になるのは国民として不安に思えないか?
その過程でアメリカの関与があった事は事実だ。
残念だが、日本が戦争に負けた。それが全てだ。
法律的には継子扱いされ、心無い連中は自衛隊員や家族の存在すらも否定的に扱われてきた。
「軍」じゃなくて「隊」ってことだ。しかし海外では軍隊と言っている。
これはそうしないと違法な殺人集団扱いされてしまうからだ。
もちろん法律は言葉と定義の集積だから、言葉の選択は重要だと重々分っている。
そもそも日本国憲法の原文は英語だ。我々が知っているのは日本語だが、英語としての解釈を議論の遡上に上げている人は少数だろう。しかし重要な部分の解釈にこれだけの幅があるのはある意味悪文だと言っていい。誰にでも同じように分からない憲法ってそもそも何なのだ?という事を考えてみたことはないのだろうか?
それでも「隊」は「軍」じゃなから軍隊じゃない、「戦闘」行為は軍の行為で「武力衝突」は戦争行為の範疇ではない等を見聞きし、時間の無駄とも言える議論にエネルギーを注ぐのはそろそろやめようと思わなかったのか・・。
安倍首相が自民党の憲法部会をすっ飛ばしたのは、学者や政治家が集まって結論のない議論を延々として、
会議が目的化したような体たらくを真近で見ていてこれじゃダメだと思ったからだろう。
さて、自衛隊は違憲であり、完全に否定している人たちは、仮に災害、もしくは他国からの脅威によって自衛隊に助けられるような時があった場合、どのように対応するのだろう?
「お前らは憲法違反だから私を助けなくていい」って言うだろうか?
そこまで肝に据わった政治家、学者や民間人は居ないと確信している。
法整備と組織と運用でなされる。
極めて実務的な話だ。
いずれにしても憲法改正には国民投票が必要だ。民主主義国家だから議論すればいいのだ。
議員での可決上程すらもハードルが高いが、決めるのは国民投票だから上程なんて色々と何度もすればいいのだ。
憲法を金科玉条のように1ミリも触らない事を望む人もいるだろうが、
そういう人には前述した肝の据わりがあるかを確認したい。
あなた方は他国かの侵略があっても黙って死んでゆけるほどの覚悟があって言っているのか?だ。
私は嫌だ。
現在の自衛隊の状態は人権侵害だと思う。
そういう観点からも自衛隊の存在を正式に認めるべきだろう。
その上でシビリアンコントロールを厳格に利かせる実務構築が必要になる。
我々は明治維新以降に起きた数々の戦争によって軍部が暴走するのを体験している。
それは二度と犯してはならない。
正直言うと自衛隊という言い方も止めた方がいいだろう。
しかし日本国民は言霊集団なので、自衛隊が国民軍となっただけで騒ぎ出すに違いない。
無用なエネルギーを削ぐなら自衛隊でも構わないが本質論ではないのでどうでもいい。
そして日米安全保障条約と自衛隊も不可分だ。
さて長くなったが本論に戻ろう。
私は政治の大きな仕事の1つは国内経済の安定と安全保障だと思っている。
安全保障については上記した通りだ。
平和が維持できなければ経済活動はできないし、
また国内経済がある程度キチンとしていなければ社会は不安定になるからだ。
会社員なら分かるだろうが、事業計画を立てる時、トップマネージメントが戦略を示し、
実務者のである社員が戦術と実務を担う。
また戦略には会社の主たる方針が示され、極論それ以外に時間と資本とエネルギーを配分するなという事だ。
事に対処するという意味で優先順位を必要とする部分はある。
全てを等間隔でやると非効率だからだ。
上記のようにまず日本政府が優先してやるべきことは「国内経済の安定と安全保障」だ。
その上で他の政策等に手を伸ばす感じだろう。
私は安倍首相に対して特別に好きキライは無いが、少なくともこれまでの経済政策においては評価すべき点が多いと感じている。
外交について対米追従を批判する人が多いが、戦争に負けた日本の歴史を鑑みて
一番戦争していはいけないアメリカとの距離感に敏感でない政治家は日本を危うくするだけだ。
石原慎太郎氏は、「日本はアメリカの妾」と言い放ち、実際それは悲しいほどの事実だが、
それでもアメリカと事を構えるのは安全保障上不利だ。
それでも独立国としての矜持は見せて欲しいと願うが、そこに力点を置き過ぎると違う意味での国益を損なうのが現実であり、非常に歯がゆく難しい。
さて、経済面の成果だが、
まず、失業率は下がった。もはや下限値と言ってもいいくらいだ。従って2010年以降の自殺者は8000人近く減っている。
「従って」と言っているのは自殺者数と失業率には相関関係があるためだ。これは多くの経済学者が同意するだろう。株価は政権発足当時と比較して2.5倍近い。株価が上がった要因は日銀の金融緩和と言ってもいい。
福井俊彦、白川方明氏のように引き締め一辺倒が長いデフレの原因の1つであることは疑いの余地がないが、20年の長きに渡り庶民も企業もこれに苦しめられたのだ。
しかしデフレ状況はまだ完全に脱したと言えない。インフレ率は実質0.5%程度らしいので全く合格点ではないが、少なくとも10~5年前のデフレと比較したら改善傾向にあると言っていいだろう。
自分を振り返っても30代~40代が一番年収が上がる時期で、一番金を使いやすい。
その時期に非正規雇用者の年収は上がりにくく、また将来が見えにくい。
そうなれば当然金を使わないだろうし、使いにくいだろう。
またこうした傾向は正社員にも波及していると思う。将来が不安だから貯蓄に走る。
結婚もしないから消費への影響が大きい。結婚式をしない、車を買わない、家を建てない、故に家財道具も買わない。
大きな買い物をしない層が増えた事は経済面に与える影響は大きいだろう。
アベノミクスの効果に疑問を投げかける人達はこの辺りへの回答がないという点については
同意できる部分があるが、これは安倍政権だけの問題ではなく、
その前の政権からも続いていた問題だ。
同一労働、同一賃金問題があるが、私個人は、非正規労働者の規制改革を以前ような一部の職種に戻すべきだと思う。
非正規労働者はあくまでも例外とし、正社員労働を標準とし、その上で、働く側に選択枝を与えるような政策にした方が良くないだろうか?
同一労働、同一賃金問題の究極は、非正規労働者=正社員労働者だからだ。
この点において小泉政権下の規制緩和は誤りだったと思っている。
そういえば、黒田総裁の金融緩和やマイナス金利でハイパーインフレ懸念を声高に発していた政治家や経済学者が多数いたが、まだ0.5%程度なのにハイパーインフレ(1億%以上)になる訳がないのは議論の余地がない。
日銀による国債の買い入れを問題視する人たちがいるのは事実だが、現状長期国債の利率は2%に達していない。少なくともマーケットは日銀による国債の買い入れを全く問題視してないと見るべきだろう。
失業率の下落を団塊世代の離脱を理由にする経済学者もいるようだが、
過去のデータで見ると、どの時代でも同じ程度の数値で離脱者がおり、
失業率の低迷は政策にあるというのがフェアーだろう。
経済政策の成果を評価していたが、本家の日本経済新聞にその記事がそうした趣旨で載る事はなかった。
その中の意見には考えるべき課題があるのも事実だ。
しかし反リフレ派が長年やってきた、緊縮財政、消費税増税、金融引き締めによる経済効果はどうだったのか?
長い低迷とデフレ不況を生みんだ。
企業業績は先が見えずモノが売れないため賃金が下がり、非正規社員を数多く生み、新卒者の就職に多大な影響が出た。アベノミスクは完全ではないし、課題も多い。
こういう経営者普通キチンと評価される。
さて森本問題、加計問題に文書き換えや文書隠匿で本筋の政治が全く出来ない状態だ。
従って事の本質は、事務方の業務瑕疵であり、政権運営の本質とは直接関係ない問題だ。
それでも管轄大臣は責任があるので、内容に準じた処置をすればいいのだろう。
加計にしても近畿財務局の官僚がヘマをしただけだと分析している。
それ以上それ以下でもない。
計量経済学者の高橋洋一氏が言うように、元々曰くつきの土地だったのに、
最初から入札にすべき案件を随意にしたのが間違いだったということだ。
おまけに籠池夫婦というキャラの濃い人に役人が翻弄されたということもあったろうし、安倍夫人も余分な事を言ったりしてしまったのでマスコミの餌食になった。
籠池夫婦の長期拘留に人権問題を言う人々もいるが、ホリエモン、佐藤優に限らず警察や官僚組織に対して
無用にたてつくとこういう目に合うのは歴史が証明している。
不法な長期拘留には大反対だが、法律ギリギリで運用されたら手も足も出ないのが現実だ。
当事者からすればたまったものではないが、そういう事は生きる上で理解しておくべきだろう。
当時の担当官僚が把握していなかっただろうという高橋氏の推定は非常に納得感がある。
またマスコミ報道は加計学園の申請と認可を区別せずに論議しているが、特区としての役割は「申請」だけであり、「認可」は文科省の官僚が組織する別の部隊が管轄しており、ここには政治家が入れる余地がない。審議過程の議事録も公開されている。加計理事長は総理の友人だから怪しい、だから審議にも影響を及ぼしだに違いないというのは邪推が過ぎる。事実として分かっているのは「加計理事長は総理の友人」という点と特区によって50年間門前払いされていた「申請」をすることができるようになったという点だ。
こうした情報の発信現のほとんどはラジオやネットが中心でテレビや新聞ではほとほと薄い。
ラジオに関して言えば、放送局によって偏りがある点が仕方ないが、数局を聴いていればかなり広い幅で同じ問題の見方に接する事が可能になる。ラジオはテレビよりも1つの問題への対応時間が長い。
そうした情報を元にしてネット上で似たような情報へアクセスすれば、一定程度極端な論調から距離を置く事が可能になる。
さて文書き換え問題にしても大きく言えば政権に責任の一端はあるだろうが(つまり上部組織の監督者としての責任)、現場の連中の文書のやり取りまで全ての過程に関与している訳ではないのは、それなりの組織で仕事をした人間なら想像が付くだろうから、一義的には管理職の連中に責任がある。
時間の幅を拡げてみれば、民主党政権下においてもこうした問題があっただろうことは想像つく訳で、当時の民主党の大臣連中が現在の政権に言っているように全てを把握してやっていたのか?は言うまでもないだろう。
彼らも決裁文書を全て完全に把握して署名捺印しているはずだが、そんなヤツは会社でもなかなか見た事はない。
一部上場の社長が、自分の名前入りの契約書や決裁書を現場と同じ情報量で把握していたら仕事が回らない。
ポイントだけの把握で仕事を回せるから重要役職者は他の重要な仕事に時間を回せるのだ。
当然政治の世界も同様で、事務方がキチンとやるから政治が回せるのは道理だろう。
従って事務方に不備があると今回のようになる。
野党のこの点での追及は正論と言えども現実的ではない。
それにしても財務次官のセクハラ問題はタイミングもやっていることも対応もまずかった。
セクハラ問題は決して軽い問題ではないが、北朝鮮問題、外交、経済問題など様々な問題・課題をクリアーしなければならない中で、こうした問題の発生は事務方のトップとしては絶対に避けるべきことだったとだけは言っておこう。そのために財務省は東大法学部卒を採用しているのだろうが、今回の事で偏差値と性癖には関連性がないと分った。
安倍政権がここまで様々な問題に見舞われているのは先に書いた憲法改正に反対の勢力か消費税を確実に上げたい財務省だと思うのだが、財務省はトップの辞任問題もあるから、どうやら憲法改正に反対の勢力が工作しているという方に説得力があるようだ。しかし確証はない。
ここからが本論だ。
この先、安倍政権がどのような対応するかとマスコミの空気の作り方によって日本国民の未来に相当が影響が起こる。端的に言えば、岸田文雄氏、石破茂氏、はたまた野田聖子氏、小泉進次郎氏辺りがポスト安倍として
失業率は4%を超える域に上昇し、当然自殺者も増え、新卒者は氷河期を迎える。人々は貯蓄に走り更にモノが売れなくなり、企業業績は悪化し、給与が下がり、場合によってはリストラだ。
仮にそれが2020年の五輪後の経済低迷に重なれば相当なダメージがあるだろう。
安倍政権に問題があるのは分かったが、首相を交代してもいいが経済運営は継続してくれ、だろう。
もしくは安倍政権にそのままやって欲しいと言うだろう。
人によってはアベノミクスを急激にシフトチェンジしないと語る人もいるが、
マーケットは反アベノミクス派だというだけで将来を悲観しそれが市場に数値として織り込まれ現れる。
数々のスキャンダルについては、メディアの印象報道や化粧の厚い情報操作もあり、
全てが世間で言われているような感じだと思っていないが、それでもこれだけ色々と出てしまうと印象が悪い。
「森加計福田」「文書問題」と様々な課題の多い政権だが、国会がエネルギーを注ぐべき部分を整理した方がいいだろう。
今の野党の状態で連立過半数なんて維持できるはずもない。
希望の党と民進党が合併なんて話もあるが、つい昨年分裂したばかりじゃないか。
バカも休み休み言えって感じだ。だからあの連中は信用されない。
立憲ははなから政権を取る立場を放棄し、ヤジを飛ばしているだけの集団だ。
責任のある政党を自認するなら、政権を取った時にどういう政策を実現して行くのかを示すのが礼儀だろう。
(そういえば、河野外務大臣が一度だけ中国の再生エネルギーへの対応を見て日本の状態が危機的と発言したが、その後報道からは消されてしまった。多分、東京電力辺りから圧力があったのかもしれない。
そういう意味で野党にもチャンスがない訳じゃない。)
いっそ小泉さんがどこかの野党統一政党の党首になって、なかなかまとまらない野党の連中を引っ張れば
勝てる可能性だってあるのだが、野党には小泉さんのような人材がいないのが勝てない最大の理由だろう。
希望の党の時は民進党の腰の据わらない目先の議席が欲しい連中が小池さんに託したが大失敗。
野党の最大の問題は、リーダーと目される人材が全く見当たらないことだろう。
毎回投票先を迷う私のような人間にとって、共感する野党があったとしても入れたい人が自分の選挙区にいないなんていう経験をした人は多いだろう。
そしてそれは結果的に自民党を利する。欠席は現状維持の表れだからだ。
「政治は数だ」と言ったのは現在野党議員の小沢一郎氏だが、少なくとも野党結集をする意味では正しい理屈だ。
数が集まらなくてどうやって自民党と公明党の連立を崩せるというのだ。木を見て森を見ずの典型だ。
右から左までずらりといて、それぞれが丁々発止しているが、
ある一定のルール下で決まった点については大人の対応をする。
それは自民党という政党にいることのメリットが物凄いインセンティブになっているからだ。
だからあの辺の安定感は捨てがたい。
そのトラウマは、結局左派系政党には政府の舵を任せる事が出来ないと身に染みてしまった事だ。
左派系政党にも非常に優秀な議員が多いと思っているが、
いかんせん自己主張が強くチームプレイをする際に能力が劣る。
また菅政権にしろ鳩山政権にしろ、巨大組織運営の経験のない人たちが
突然ジャンボジェットのコクピットに座ってしまい、
どのボタンを押したら飛行機が動くのか分からなかったといった感じだ。
そういう意味で3.11の震災はそれらを恐ろしいほどに増幅させてしまった。
個々の理屈にエネルギーを注ぎ、大儀を忘れてしまう。
そういう事実を目の当たりしまったことは大きい。
少なくとも今の自民党政権は、外交的、経済的には圧倒的に上だろう。
政治家の人材が限られている中で選択しなければならないとすれば、
今の政権を放棄するのは国益に叶わないと思う。
政権を細かく交代すると外交的に不利であり、経済的には前述した通りだ。
政治家の不正行為があった確定的な証拠は見当たらない。
愛媛県前知事が言うようにもともと加計ありき進んでいたのは議論の余地がない。
理由はシンプルで加計だけが唯一手を挙げていたからだ。
文科省が長年に渡って獣医学部設置のエントリーを門前払いしていた事は本来的には法律違反行為だ。
この点についてマスメディアは全くと言っていいほど取り上げず、
前川氏という元の事務次官を悲劇のヒーローにして安倍首相に瑕疵があるように印象操作をしているが、
これはさすがにやり過ぎだろう。
想像力を逞しくする蓋然性があり、そう見たい気持ちも分からないでもないが、
本件は政治家が認可に関与できる部分が全くない事例であり、
無関係な事象を結び付けてさも本当であるかのような
フェイクストートーの挙証を求めるのは酷じゃないだろうか?
さて仮に自民が勝ってしまった場合、現行制度では民意があったと言える訳で、
そうなれば9月の総裁選挙は免除になるだろう。
私は安倍政権に全面的賛成をしている訳じゃないが、
少なくとも多くの日本国民は現在の経済効果を捨てられるほど勇気はないだろうというのが私の印象だ。
少なくとも共同通信の世論調査とはちょっと数値感が違うのは気になる。
https://enquete.nicovideo.jp/result/128
政権交代をして起こるだろう経済の混乱を本気で避けたいのなら
安倍政権が継続するのが経済、外交的には国益に叶うと思っている。
そんな訳があるはずないという方も多いだろうが、自民党でも少数派の左前の経済政策を取っている安倍政権であり、本来はリベラル野党が応援すべき政策だと言えるのだ。
野党の諸君も、本気で政権を狙って自分たちの政策に反映させたいのなら、自民を凌ぐ人材をリーダーにして結集すべきだろう。そうでなければ、永遠に「言うだけ番長」だと揶揄されるばかりに立場になるだろう。
追伸:
テレビ朝日に対して批判をした件について、その勇気を讃えたい。
報道関係者としては当たり前の行動だが、会社人としてはかなり勇気を必要とする。
格が上がるだろう。
ただ今回、記者会見して事実を公表した、これはぎりぎりセーフ。
テープ提供した事で職業倫理を問われていると言う声があるが、私はそうは思わない」。
つまり「今回(テレ朝が)記者会見をして事実を公表」「彼女の意をくんだテレビ朝日側の対応」をギリギリセーフとまとめたのだ。
自主的判断ではない。まずその点が問題だ。
また女性記者の取材の在り方、記者の上司がセクハラの訴えに耳を傾けなかった事実、テープ提供した事で職業倫理など問題だらけだが、後藤謙次氏はセーフをまとめた。
これらは小松アナとは違う見解だったようだ。
色々な意見があってもいいだろうが、今後「報道ステーション」を見るのは止めにすることに決めた。こんな人材で報道されても信用できないだろう。
だが小松アナには注目して行こう。
大きなお世話だと理解しているがオフィス北野・森社長の適正報酬額とは? [独り言]
オフィス北野の騒動もやっと沈静化してきた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180409-00000241-sph-ent
今回、軍団諸氏のSNS上の書き込みや発言でオフィス北野の経営状況が露出してしまった。
大物タレントさんのいる事務所としては異例の事態だ。
■ダンカンさん公表による「オフィス北野」の業績:
2013年 売上23億6100万円 利益9600万円
2014年 売上24億2300万円 利益4900万円
2015年 売上24億4500万円 利益5600万円
2016年 売上25億9300万円 利益1億1700万円
2017年 売上約24億円 マイナス500万円の赤字
上記の利益とあるのは営業利益の事だろう。
2012年度から2016年度までの5期は黒字、2017年度には僅かに赤字だ。
いずれにしてもオフィス北野の企業規模は24~25億円で、営業利益率は1%~5%程度となり、
企業としての利益率は決して高いとは言えない。
さてこの規模の企業のトップ経営者の報酬額はどの程度が適切なのだろうか?
ただ近い関係者の情報としてこの金額を参照するしかない。
さて、果たして彼が受け取っていたこの報酬は、
この会社の規模として適切だったのかを検証してみたい。
まず、比較対象がないと適正かが分からない。
そこで一部上場企業の経営者(代表取締役社長)で1億円以上を受け取っている企業のリストは以下にある。
さてこれらの企業の経営規模はおおざっぱに拾うと以下のようなものだ。
アシックス:売上4,000億円(連結) 営業利益195億円。
マブチモーター:売上1,469億円 営業利益240億円。
ライオン:売上4,100億円(連結) 営業利益270億円。
カルビー:売上2,520億円(連結) 営業利益288億円。
ミクシィ:売上2,007億円(連結) 営業利益89億円。
例外なく売上が1,000億円以上(連結)の規模があり、50億円以上の営業利益を出している。
実際、私がかつて所属していた企業は、売上1,000億円で営業利益が100億円程度だったが、
社長の報酬は1億円には遥かに届かないと理解している。
上場企業と違い、個人商店のような会社の場合、特に経営層の報酬制度は恣意的になりやすい。
上場企業の場合は、外部取締役を入れての報酬委員会があり、一定の範囲で管理されているが、
芸能界の事務所の場合の多くは非上場企業であり、報酬ルールの規定が曖昧になりやすい。
それでも株主はいるため、本来は株主総会を開催して議決するべき内容だ。
また2017年度がマイナス500万円になっているが、経営陣が一部報酬を返上すれば会社を赤字にするこはなかったのは明らかだ。
会社に赤字があると資金調達が困難になりやすい。それでも法人税を考えて赤字にしてしまう中小企業があるが、大抵の場合家族経営のような場合が多い。
500万円程度なら経営努力でいかようにもなる数字だ。
オフィス北野の社長が1億円近いということは副社長、専務クラスは数千万以上と推定でき、
報酬総額が営業利益を大幅に上回る事になりちょっと適切とは言い難いだろう。
そうした金額を含めるとかなりの額を裁量できたと考えられる。
500万円程度の赤字なら資産売却や報酬カットで対応できそうだが、
それらをしなかったのだろうか?
週刊新潮には森社長の以下のようなコメントが掲載されていた。
『この業界はいつ何が起こるか分からない』という教訓を得た。
その思いから払えるときに払っておかないと、いつ従業員に十分な手当をしてあげられなくなるかわからない。
したがって経営が上手くいき黒字が出ているときはなるべく従業員への
給与・賞与を多くしそれが従業員のモチベーションにも繋がるし、ひいてはいい人材を集めることにもなると考えた」
なるほどと思わせる内容だ。
しかし違う言い方をすれば、『この業界はいつ何が起こるか分からない』ということなら、
会社を永続的にさせるため、経営者として何をすべきだったかについても思慮が必要だったという事だろう。
残念ながらオフィス北野は北野さん以外に大玉のタレントがいない。
ひょっとしたら森社長は北野さんの一代限りの事務所と割り切っていた部分があったかもしれない。
北野さん抜きで新しいタレントを育成し難かったのかもしれない推察はできる。
それでも従業員や所属タレントの未来・将来を見据えるなら、新しいタレントの育成や新しいビジネスの構築が
必要だったかもしれないと思うし、北野さんのいない時代への準備も必要だったかもしれない。
いずれにも経営者の仕事である。
業態は違うが、ソニーと比較してみよう。
2017年度の営業利益は約6,500億円(予想)で、社長の報酬は5~7億円程度だとされる。
営業利益に対する社長報酬率は、0.001%程度だ。
(企業規模が一定以上に大きいと利益と報酬の比率が極小的に変動する事実があることは記しておく)
ミクシィと比較してみても140万円程度しかない。
単純な数値比較の計算からだとこういうことになる。
つまり事業規模がないと高額報酬は経営に相当な負荷をかけてしまうということを理解して欲しいのだ。
役員報酬を含めた人件費の比率のあるべき料率は事業規模に関わらずある程度の範囲が決まっている。
たけしさんが辞める前の段階においてこれが経営上、適切な範疇だったかは検証しておいた方がいいだろう。
(誠にお節介な話だというのは理解して書いております)
さて、私の知り合いの会社を例の取って比較してみよう。
彼の会社はオフィス北野と殆ど同規模売上と利益で経営をしているのだが、
友人である社長の報酬額は約1,000万円だ。
1例だけでは全てを語れないが、つまりこれがこの規模の経営者の市場価値と言えるのだろうと思う。
大きな利益を会社に残す経営が求められるというのは想像に難くないのはお分かりだろう。
上場企業であれば本部長クラスで年収2,000万円はいるが、そのクラスになると部門だけで50~100億円以上を売上、営業利益も数億~10億円単位をたたき出すレベルだ。
かなり大きすぎると結論付けるしかないだろうと思う。
今後たけしさん抜きで、タレント数も減った会社での経営となれば、売上、利益共に激減することは想像に難くない。
仮に売上3億円、営業利益3,000万円程度だとすれば社長報酬の上限は700万円~1,000万円程度が妥当と言っていい。
芸能界の社長は激務なので少ないとも言えるが、報酬金額を上げるには経営の規模を拡大するしかないのは世界中同じだろう。
経営者としてもインセンティブが働くということになる。
たけしさんの離脱は経営的には大きな危機だが、これを期に新たな体制で会社を作り直すという事も可能であり、是非挑戦して成功をして欲しいと感じている。
今回の騒動の情報を見て、ふとそんな事を思った次第だ。
音楽著作権侵害裁判で活躍する「音楽分析官」とは? [独り言]
以下は、ネット版ローリングストーンズ誌の記事の一部を翻訳したものだ。
本来は記事の翻訳行為は翻案権を必要とするが、一定範囲内の引用をした上で評論すれば著作権法上の問題ないのでその体裁で本記事を書く。
元の英語の記事:
ここに記載されている内容の概要については、日本でも報道されているが、その詳細な中身までを解説した記事は見当たらない。なのでここで書いてみようと思った。
この裁判は今後の作曲家や作詞家に少なくないだろう影響を与えるだろうし、特に日本の作品がアメリカ側の視点で引っかかったら相当な損害になる事は火を見るよりも明らかだ。実際日本のヒット曲のネタ元はアメリカの作品が多いからだ。
そういう意味に日本の音楽業界人は注意すべき内容だと思う。
まず本記事の趣旨は、①"Blurred Lines"という楽曲に対してMarvin Gayeの遺族が著作権侵害で訴えた事、②音楽分析学という職種がクローズアップされたこと、③更に著作権侵害には「曲の雰囲気」や「イメージ」が含まれるという驚愕の判決が下った3点だ。
(記事引用)
2015年3月、陪審員らはRobin Thicke, Pharrell WilliamとClifford "T.I." Harrisらに対して彼らが作曲したという"Blurred Lines"がMarvin Gayeの古典的名曲"Got to Give It Up,"の著作権を侵害したと評決を出し、Marvin Gaye側は、数億円の富を得ることになった。しかし、音楽業界関係者によれば、"Blurred Lines"の3月の上訴審での判決は、音楽分析学(forensic musicology)という小さな分野で働いている人々のより大きな影響を与えるだろうと言っている。
この論争が始まって以来、人々はforensic musicologist(音楽分析官)という仕事が一体何であるのかを知りたがっていたと、20年に渡ってこの分野で働き"Blurred Lines" の事件でも専門家の一人として携わり、Sandy Wilburは語る。
「この2年間は私にとって一番忙しい時期だったよ」。
彼を忙しくしていたのは、"Blurred Lines"のように明確な著作権違反がメディアに煽られたことによるものであったことは疑いの余地がない。
イギリスのロックバンドであるLed Zeppelinの“天国への階段”のように音楽分析官の助けによって著作権裁判に勝って逃げ切ったようなケースもあった。
しかし、、"Blurred Lines"の評決は、音楽業界に対して創造と模倣の線引きがどこにあるのかについて非常に大きな不確実性をもたらしたといえる。
また法廷弁護士や音楽分析官もどきの連中たちは、こうした流れを新しいビジネスに変えようとしていた。
⇒記事はMarvin Gayeの遺族がRobin Thicke, Pharrell WilliamとClifford "T.I." Harrisらに対して彼らが作曲したという"Blurred Lines"がGayeの楽曲の著作権侵害をしていると訴え裁判に勝ったというものだ。
ここで現れたのが聴きなれない業務をしている人間だ。英語ではforensic musicologistと書いてある。Forensicとは鑑識を指し、musicologistとは音楽分析をしている人のことだ。そのため私は音楽分析官と訳しておいた。日本には公式には存在しない職業で、私もこの記事で初めて知った職業だ。
音楽分析官についての記事(英語):
https://www.theguardian.com/money/2015/jan/20/how-become-forensic-musicologist
上記の記事を要約引用すると、音楽分析官とは、作家や音楽出版社への楽曲に関するアドバイス、また著作権裁判になどにおいては対立する楽曲を分析し、類似や相違を科学的、音楽的に行いコンサルタントを行うのが仕事だ。過去から現代に至るまでの幅広い音楽知識や広範な教養を必要とするとのことだ。
さて本編の記事を読むと分るが、今回の分析には驚くべき内容があった。
(記事抜粋引用)
'Blurred Lines'の判決以降、弁護士のクライアント(ミュージシャンたち)から“(自分の)この曲はあの曲に似ていると思うがどうか?”という電話が増え始めたとL.Aでエンタテイメント専門の弁護士としてDanger Mouse やPublic EnemyのChuck Dら の著作権関係のクライアントを務めているKenneth Freundlichは語っている。
この事件がキッカケで、音楽分析系の仕事が激増したよ。
イギリスにあるボストンバークレー音楽院のJoe Bennettの説明によれば、表面的に言えば音楽分析官の仕事は2つの曲を具体的に比較する事が仕事で、第一に、“客観的な類似性”、第二に著作が持つ“雰囲気の類推“を行うことだ。
音楽著作権に関する訴えがあった場合、原告被告の双方は普通音楽分析官に電話をし、問題の2作品を分析し、歌詞、メロディーやリズム、アレンジや演奏、コード進行やハーモニーに至るまでの詳細を調べる。もし不明瞭な疑義が生じれば、スペクトラム分析を実施してデジタルの指紋ともいうべき2曲の波形を見て解明を試みる。
⇒音楽分析官の仕事とは、原曲と新しい曲をあらゆる部分(メロディー、歌詞、リズム、コード進行、雰囲気)で比較して類似性を探し出すことだという。また不明瞭な部分は波形を使った比較を行うという。こうした仕事には専門的な音楽素養が必要であるという。
さて、実際に裁判ではどのような分析になったかが興味深い。
(記事抜粋引用)
実際"Blurred Lines"のケースでは予想外の展開があった。
音楽業界の専門家によれば、陪審員は、2曲の間の二次的な類似性を根拠に、通常の法律上保護されている歌詞やメロディーやその他の要素ではなく「ノリ」と「感じ方」を法律的に認めたかのように(判決を)行ったと語る。
"Blurred Lines"の被告側の証言をしたWilburは、'Got to Give It Up'のどのパートと比較しても2音連続で同じ音符は無かったと語った。
上訴審においては2対1で、3人の裁判官のうち1人は我々の主張に完全に同意してくれた。彼女は私と同じように、この判決によって「ノリ」と「感じ方」が著作権侵害の要素になってしまうことに恐れを抱いていた。
⇒ここで問題になっているのが、科学的に定量的に推し量れる証拠ではなく、定性的で感覚的な部分が証拠に採用され判決が下された点だ。これは日本の著作権訴訟における判決とは異なる部分だ。
日本において有名な裁判は「記念樹裁判」だ。
「どこまでも行こう」という楽曲の後発となった「記念樹」という楽曲がどこまでオリジナルでどこまでが著作権侵害なのかを争ったものだ。この裁判の記録を読むとかなり科学的に煮詰めた領域に限って検討されており、両曲の音符の類似性を数値化して判断している。
従ってアメリカのように「ノリ」と「感じ方」は証拠として一切採用していない。
日本での裁判は「記念樹」に剽窃を認め、原告の「どこまでも行こう」が勝っている。
アメリカの判決のように「ノリ」と「感じ方」が著作権侵害の要素とするならば、リズム構成、テンポ、楽器の使い方などを分析すれば説明できる。何となく似ているではなく、ここは似ている、ここは似ていないを裁くのが裁判ではないのだろうか?と思うが、アメリカは陪審員が評決を出すのでどうしてもそうなるのだろう。
さてアメリカの裁判に関わった関係者の一人はこう語っている。
「私はアーティストは賞賛に値すると思っています。ですから彼らと同じような感覚やスタイルを踏襲したいと思うでしょう」
しかし彼はこのように付け加えた。
「そのことで私は訴えられるのでしょうかね?」
⇒この人物の言いたい事は誰の影響も受けずノリや雰囲気も全くオリジナルの音楽以外は存在できないという意味なのか?という事だ。
(引用記事)
不確実性のためにアーティストたちやレコードレーベルは作品をリリースする前に著作権侵害のリスクの可能性について、これまでになく作品の鑑定を強化する必要性に迫られている。
「'Blurred Lines,のケース以降、やり方が全く変わってしまった。レーベルの側が自分たちで楽曲の鑑定が出来ないようば場合、私に依頼するケースが増加している」とWilburはいう。
「楽曲が発売される前の段階で、その楽曲が他の曲と似ていないと証明することを求められるのさ。レーベルの連中は相当慎重になっているよ」と付け加えた。
"Blurred Lines,"以前は、発売前の楽曲のリスク評価などという事は聞いたこともなかった。だが、レーベルや映画スタジオで働く音楽分析官たちにしてみれば、以前に比べて格段に神経質になっており注意を払っているという。
「音楽分析官が分析に関わる前に、法的な問題がありそうな楽曲は、実際に対応可能な反論や問題があるかどうかが分かります。 今のところ非常に曖昧さが多いのです。コード進行に似た点はないが、他の曲と雰囲気が似ているような場合、(曲の雰囲気を)変える選択をした方が無難ということになるのです。」
⇒判決が混乱を与えているのは明らかに定量的ではない部分が違反だと言われているからだ。ノリや雰囲気が著作権侵害であると言われれば、ロックンロールやブルース、ジャズなどの定型化されたジャンル音楽は全て著作権違反という事になりかねない。そういう意味でこの判決が今後著作権侵害のスタンダードになるのかは微妙だ。
Gayeの裁判では遺族側が勝訴をしたが、だからと言ってGayeの音楽が全く過去の作品やアーティストから何の影響も受けずに全てがオリジナルだった訳ではない。極論すればJAZZやリズムアンドブルース以降の音楽の全ては何等かの意味で過去の作品やミュージシャンの影響の上に成り立っている。
実際完全なオリジナル作品の方が皆無と言っていいだろう。それでも影響下の中に個々人のオリジナリティーを発揮し、ポピュラーミュージックは成立しているし、適度な影響であれば問題ないとしてきている。
そういう意味で記事の最後の言葉が一番腑に落ちるという感じがした。
もし'Blurred Lines'の裁判が正当化されたとすれば、ほとんど全ての楽曲に対して訴訟が起こるだろう。つまり全ての楽曲は他の楽曲と繋がりがあるからだ。だって我々は皆、過去の音楽に影響を受けているからね。
⇒この文章の言う通りだと思う。
人間が通常で歌える音域は2オクターブもない。つまり鍵盤24個分にも満たない中での順列組み合わせがメロディーの持つ数的な限界だ。その中で人間が良いメロディーと感じる音符の組み合わせ数は更に限られてくる。
全世界に数十億人がおり1950年代以降のポップミュージックの隆盛から約60年を経て似たようなメロディーに全く出会わない確率の方が数学的にあり得ないだろう。その限られたパターンの中で人間的なオリジナリティーがせめぎ合う。ミュージシャンは音楽の可能性は無限というが、表現的な可能性はともかく、音符の順列組み合わせには自ずと数学的限界があるのは自明の理だ。
楽曲の著作権侵害は剽窃の度合いの認定が難しい分野だが、結局は定量的な見地で判断するしかないだろう。
前述したように定性的(ノリや雰囲気)を主眼にすれば、JAZZやリズムアンドブルース、ロックンロールなんて全て著作権侵害になってしまう。Chuck Berryの"Roll Over Beethoven"とThe Beatlesの”I'll saw her standing there”を比較してThe Beatlesが著作権侵害をしているかを考えてみればそのおかしさが分かるだろう。
"Blurred Lines“を聴いてみたが"Got to Give It Up,"を下敷きにしたのは確かだろう。あれを完全な新作でオリジナルだというのは確かに言い過ぎだと思う。
しかし何をもってオリジナルと言えばいいのか難しい。先のChuck BerryとThe Beatleだけを見ても楽曲だけにフォーカスを与えれば、この世のほとんどの楽曲が孫、ひ孫のようなものだからだ。Marvin Gayeにしても過去の作品や音楽の歴史に支えられて上で音楽を構築していた部分があるだろう。Marvin Gayeの全ての作品が全く過去の下敷き無しで作られたはずもなく、Marvin Gayeだってそういう仲間の一人なのだ。そうなると"Blurred Lines“が"Got to Give It Up,"に似ているのは著作権侵害と言えるほどの罪なのか?という話にもなる。
Chuck BerryとThe Beatles、また他のロックンロールやブルーズなどを含め、俯瞰的な議論が必要だろうと思うが皆さんはどう思いますか?
そういう意味で、影響を受けた作品と影響を与えた作品の線引きは難しく、お互い様と割り切った方が建設的なのか?それとも、曖昧な線引きを見える化するために裁判で決着をつけるのが良いのか?
これからますますオリジナルを名乗るのが難しい時代に何らかのルール化が求められる時期なのだろうと思う次第だ。
佐藤千恵さんという女性が生きた1960~1980年代時代 [独り言]
同姓同名は多いのだが、私にとっての佐藤千恵さんは「あの人」しかいない。
1988年3月26日、午前7時30分、佐藤千恵さんは上野の永寿病院で逝去した。
享年28歳。
病気を患ってのことだった。
エネルギーの塊のような人だったから、
もっと生きたかっただろうと思う。
当時の私は、神様とは残酷だな・・と思った。
当時の私にとって彼女はある種の「ディーバ」であり、自分とは次元の違う感覚を持った人物だった。
本当に興味深い人だった。
千恵さんが亡くなってから2018年で30年が経過するが、今でも時折彼女の事を思い出す。
元気印の千恵さんが今でも生きていれば58歳になっていたはずだ。
佐藤千恵さんが58歳になっていたとしたら今頃何をしてどのように生きていただろうか?と思う事がある。
さて、時は1988年3月21日に遡る。
当時学芸大学の目黒郵便局裏にあった私が仕事をしていたオフィスに千恵さんの友人のAMさんから電話連絡が入る。この日は祝日だったが私は仕事で事務所にいた。
電話の内容は千恵さんが危篤だという知らせだった。
電話を切ると私は群馬の友人H君に連絡を入れて事情を伝えた。
実は、彼女はこの2年以上前から病気と闘っていた。
彼女が相当深刻な状態だというのを知ったのは、その前々年の1986年12月に京都大学病院に入院し手術をすると聞いた時だった。
これを知ったのは祖師ヶ谷大蔵で行きつけだった平八という飲み屋のマスターからだった。
実は彼女は1985年に結婚をしている。
旦那さんは赤坂にあったレストランで料理長をしていた人物だ。
現在その店はないが、銀座には本店らしき店があるようだ。
彼と私は大学時代に千恵さんを通じて知り合ったが、
結婚後の彼女が私や他の男友達を連絡を取り合う事を良しとしておらず、
我々は結婚が決まった時期を境にしてちょっと微妙な関係になっていた。
その直後、京大付属病院に入院していた彼女から1通の手紙が届いた。
手術が12月10日頃に行われることなどが書かれて、
先々の希望にも満ちていた。
その手紙は今でも手元にある。
実は手術の内容とは体の一部の切断だった。
私はそれを知り、身が引きちぎられるような気持ちになったのと、
残酷な神の差配を恨んだ。
そして年末で慌ただしい世間をよそに雪深い京都に立ち寄り彼女を大学の友人S君と2人で見舞った。
正直見舞いに行くこちら方が辛いような気分でもあったのだが、病室の彼女は気丈でそれだけが本当に救いだった。
それでも体の一部を失った千恵さんが辛くなかったはずはない。
しかし彼女は私たちとの会話の中でネガティブな事を一切言わなかった。
あれが彼女の強さであり素晴らしさだろうし、私が彼女に羨望を向けた部分かもしれない。
(内心は辛くて苦しかったに違いない・・)
彼女は体の一部にちょっとだけ大き目のアザがあり、以前からそれを気にしていたが、
ある時それを除去する手術を受けたようだ。
病気の発症とアザ手術の因果関係は分からない。
それでもこれが何等かの起因だったかもしれないと今でも思っている。
彼女から来て欲しい連絡があったからだ。この時期彼女はリハリビをしており、時折街に出る事もあったと聞いていた。
当日、旦那さんは仕事でいなかった。
旦那さんと私や私の男友達とは微妙な関係であることを知っていたから、
そうした時間を避けるようにして出かけたと思う。
時間は彼女の指定だったかもしれない。
目の前の彼女の様子は、もうリハリビや街歩きができるような感じではなかった。
ほんの数日前、吐血したことも教えてくれた。
正直辛い気持ちで一杯になった。
「頑張れ」って言葉があれほど無意味な言葉だというのは初めて知った。
この頃、彼女は自分の寿命を悟っていたのかもしれない。
だから私を呼んだのだろうと思っている。
呼んだとしたら私だけではないだろうが、かつての友人たちは大学卒業でバラバラになっていた。
吐血の事もちょっと他人事のような口調だった。
また大好きな酒を私と一緒に飲めるようになるために頑張るよって言ってたな。
彼女と最後に面会したのは永寿病院の病室だった。
事務所で危篤の報を受け取ってから出かけたはずなので、3月22日だったろうか?
群馬の友人のH君も一緒だったはずだ。
彼女の自宅に赴いてから約6か月程度の期間が開いていただろう。
明けの正月には年賀状が届いていたので、少しづつ元気になっているのだろうと勝手に思っていた。
そのため3月21日の危篤の報には驚きを隠せなかった。
病室のベッドに横たわっていた千恵さんは機器や管に繋がれた状態でかなり意識が混濁しているような感じだった。
私の預かり知らぬ間に彼女は状態を悪化させ死の淵にいた。
ホンの一瞬だったが、ベッドで寝ていた千恵さんがグワっとしたような感じで瞼を開け、私と友人のH君らと視線が合った。
そして私の方に向かって千恵さんは私たちに手を伸ばすような仕草をした。
名前を呼んだがそのまま力尽きて目を閉じて気を失うように眠りについてしまった。
私にとっての生前の彼女の姿はそれが最期となった。
この時点でもって数日だろうと言われていた。
私は友人が死に向かっている姿を目の当たりにしながら、自分の心のどこかが冷たく死んでゆくのを感じていた。
危篤の報から5日目の1988年3月26日朝、私は経堂の自宅のアパートの部屋で何かに引き込まれるような感覚で目を覚まして、目先にあった時計を見た。
7時30分だった。
そしてその直後の7時35分頃、自宅の電話が鳴った。
ずっと病院に詰めていた女性友達からASさんだった。
千恵さんの逝去を知らされた。
午前7時30分だったそうだ。
死に行く彼女は私やH君にお別れの挨拶に来たのだろうか?と・・・。
私はこの摩訶不思議な感覚を経験した事はそれ以来一度もない。
だから「魂」はきっとあるのだろうと思っている。
千恵さんの旦那さんが喪主だった。彼とは本当に久しぶりに会った。
我々と彼との間には微妙なものがあったが、当然だが葬儀ではそうした感情は封印されていた。
彼とは会話らしい会話もしなかったと思うが、彼の悼みは良く理解できた。
彼も私たちと同じで千恵さんのことを大好きだったからだ。
遺体が焼かれ骨になった千恵さんと対面した時、言い知れぬ寂寥感があった。
ああ、もうこの世に戻ることはないんだな・・という感じだ。
欧米の埋葬の風習に火葬が少ないのは、そういう感覚があるのだろうと思った。
彼女の白黒写真の遺影がどこか私にリアリティーさを欠く感じに映っていた。
感覚が無かった。
あんなに元気で美しかった彼女がこの世から忽然と消えてしまった・・、そういう感じだった。
葬儀の間、私は全く泣けなかった。
悲しいという感覚を超える感覚はあれが初めてだったかもしれない。
悲しすぎて泣けない・・、そんな感じだった。
もしくは現実であることを私の内面が拒絶していたのかもしれない。
彼女は現在でも初婚相手の墓地に埋葬されている。
埼玉県東松山市にある昭和浄苑内だ。
彼女の墓参りはこれまで何度か友人としている。
それでも決して私の住まいから近くないこともあり、ここ16年ほどは行っていない。
彼女の遺骨は実家の墓に戻せばいいだろうとも思うが、
私の出る幕ではないからそういう意見だけを述べておく。
あれから30年が経過し、私も58歳になった。
切りもいいので2018年3月中に彼女の墓参りをしようと思っている。
彼女の誕生日が3月だからだ。同じ58歳同志で話もしてみたいじゃないか。
群馬の友人で元カレのH君も同意してくれた。
H君は大学時代の友人で唯一定期的な連絡を取り合う仲だ。
この記事を書こうと思ったのもそんな時期に合致していたのは偶然とは言え奇遇だ。
千恵さんが天国から呼びかけていたのだろうか?
従って彼女の個人的なデータは現在のネット上には全くないだろうと思う。
実際検索しても彼女の情報は皆無だ。
彼女の声やしゃべり方は今でも私の耳に残っている。
スマホで動画が簡単に撮影できる時代なら、沢山の想い出を動画や音声で残していただろうし、その記憶を再確認出来ただろう。
しかし1980年代初頭ではそれは叶わぬ時代で、彼女の動画や音声は全くなく、写真と記憶のみだ。
それなら私が残してあげればいいだろうと。
だからここに「彼女がこの世に存在した記録」を残すことにする。
佐藤千恵さんは確かに1988年3月26日まで存在していたのです。
タイムスリップして彼女に会えるなら、やはりあの話をするだろう。
例のアザは手術するな・・と。
少なくともそれをしないチャンスがあれば違う人生があったかもしれないと・・考えてしまう。
これから書く事は1979年以降に起きた私と千恵さんと彼女の友人たちの想い出話だ。
佐藤千恵さんは静岡県磐田市出身だ。
1960年3月10日生まれだ。
自営業の家庭で、地元もで名士の家だ。
一度だけ彼女の実家に行ったがいわゆる裕福な家庭の子だ。
当時大学二年生だった私は、学校の喫茶室に目立った女子集団がいることを知っていた。
女子集団は美形揃いだし、品も良かった。
しかし彼らと共通の友人もおらず、なかなか知り合う機会が無かったのだが、
とあることから友人を通じてやっと彼女たち一群を知り合うようになった。
その中に佐藤千恵さんがいた。
またハデな見た目とは異なり料理が抜群に上手く、彼女が作ってくれた料理の多くは私の人生で初めて食べるようなものが多かった。
(例えば”ダイコンのサラダ”とか”ほうれん草のカレー”とか何とかパスタ等など)
あれだけの料理を作れる女性を未だに知らないと言える位だ。
(いつもここで料理をして振る舞ってくれた。)
当時彼女は狛江のマンションに弟さんと住んでいた。
両親公認の京都にある有名大学を卒業予定で博報堂に内定していた彼氏と付き合っていた。
Kさんと言ったかな・・。
ある時、私と群馬の友人H君は、彼女の要請で彼女の実家に行ってある用事をするために
レンタカーを借りて実家のある磐田に向かった。
当時のお母さんの言葉から、Kさんとの結婚をとても望んでいることが分かった。
(今の人には信じられないかもしれないが、1980年代当時は、女性の結婚適齢期は25歳より前だった。)
帰路、渋滞に巻き込まれた事と、途中、小田原で高速を降りて海沿いを走るコースに変更した事で東京到着が深夜になってしまった。
3人にとってとても楽しい1日だったが、我々と別れたあとの深夜、彼女にはそうではない事件が起きた。
話を聴いてみると帰宅してみると狛江のマンションに彼氏がいて、
帰宅が遅かった事を問い詰められたそうだ。
その後今でいうDV系の事が色々とあったということだった。
私は女性にそういうことをする男を見た事が無かったので衝撃的な経験だった。
まあ、それを責めるのは酷だとは思っている。
そういう男が多いのは事実だからだ。
千恵さんは彼氏を愛していたのだが、彼の強過ぎる束縛にはかなり困っていた。
彼女はどちらかと言えばオープンな性格で自由人であり、束縛が似合うタイプじゃなかった。
酒に酔うとちょっとフワフワしてしまうのが玉にキズだったかもしれない。
そしてそれらの相談に乗っていたのが群馬出身のH君だった。
H君は私より1つ上だったが、一浪していたので学年が一緒だった。
いつもサスペンダー付きのジーンズとシャツを着て、Dr.スランプに出て来るお父さんのような感じだった。
H君は私より世間を知っていて、千恵さんも同じく大人な感覚の人だったので、
二人は見た目は合わない美女と野獣型なのだが価値観が合っていた。
何を話すでもない会話を永遠とやっていた事だ。
私の人生であんなに人と話をした時間はなかったかもしれない。
BGMの音楽は大抵ユーミンで、特に「ミスリム」や「悲しいほどお天気」がヘビロテだった。
ミスリムの1曲目の「生まれた街で」が流れてきた丁度その時に、東の窓の先の風景から太陽が昇ってきた時があるが、あのアルバムや曲は今でもあの当時の印象を私に残してくれている。
この時期は本当に楽しい時間を過ごしていたと思う。
(20歳になったばかりの頃の千恵さん。)
その後、博報堂に内定していた彼氏とは別れ、H君と付き合う事になった。
相談している間に2人は同期し始めたようだ。
あの二人はそんな私を包み込んで変わらずに友達付き合いをしてくれた。
我々が住む祖師谷大蔵3丁目に千恵さんが狛江から引っ越してきたのは1981年頃だったであろうか?
私のアパートから30秒、H君の住まいから3分の場所。
少なくともこの時期から大学卒業までの間は、私とH君、そして千恵さんは殆ど毎日会って話をしていた。
彼女の部屋は私の2倍以上もあり、また風呂付で豪華な住まいに映っていた。
現在その場所には当時の建物はなく、別の一戸建てが建っていて往時を偲ぶ事は出来ないが、私には当時のアパートが見える。
また千恵さんの家には大学の友人も多数訪れ、来ればワイワイガヤガヤのミニパーティーが始まる。
料理は殆ど千恵さんが作るのだが、やり手の女将さんのように捌いていた。
彼女は来るもの拒まずだった人なので、彼女のアパートにはいつも誰かがいた。
大抵はH君がいるので、大学失業前までは殆ど毎日彼ら2人と会っては
飲んで話をしているような感じだった。
(ちなみにH君は酒が飲めない)
千恵さんは酒に酔うと自分のベッドに潜り込んで寝てしまい、残った男の2人でその後を過ごす感じだ。
私の友人のN君が就職試験と面談で英会話が必要となった時、彼女はずいぶんとN君を教育していた。
あの時代で英会話に堪能な人は私の周囲では2人程度だった。
彼女はとにかく明るい性格だった。もちろん人間なのでネガティブにもなるのだが、彼女はそういう時でも
前向きだったし、明るく振る舞う人だった。
その後病気で辛い時期も同じだった。
私と会っている時には全く自分の苦境を言う事はなく、それは他の人にも同じだったようだ。
私は根暗な性格なので、楽観的とも言える彼女が眩しかった。
(自宅で電話する千恵さん。当時は黒電話だった点に注目!)
当時の日記を紐解くと彼女やH君との事が色々と書いてあるが、今では取り留めもないようなことばかりだ。
3人でよく行った場所の1つが湘南海岸だった。
大抵は土曜の深夜に車を出して行き、134号線沿いのロイヤルホスト辺りで一晩中お代わり自由のコーヒーで
安く上げながら朝まで話す、そんな時間が当時の私には宝石のようなものだった。
話の内容は、同級生や友人の恋の話だったり社会情勢だったり、音楽の話だったりしたのだろうと思う。
音楽の話はよくしていた。
サザン、達郎、ユーミンなど、彼らの作る音楽、歌詞、メロディーをそれぞれがそれぞれの想いで語っている時代だった。
彼女は時折六本木のディスコに通っていた。
女友達と一緒だったり一人だったりだ。
我々の大学時代の友人の中に高級ディスコで働いていた男性OT君がいた事もあったかもしれない。
龍土町辺りにあったというパシャクラブという名のディスコだ。
私は行った事がなかったが、フライデーという雑誌に芸能人絡みの記事で登場したことがあり記憶している。
彼女から聞かされるディスコの風景は、当時の私には届かない大人の世界をもたらしてくれているようだった。
彼女は何故かそういう場所が似合う女性でもあった。
彼女の妖艶な後光は、田舎者の私にはとても眩しいものだったと思う。
OT君は今でいうイケメン系の男性で大学でも女性に人気があった。
当時六本木に住んでいると言っていた。
彼はバイクが好きだった人物だが、ある日買ったばかりの高級バイクが盗難にあって
落ち込んでいた。大学生時代からホストクラブで働いていると聞いた事があるが、卒業後、彼の消息はいつの間にか知れずままになった。
多分彼は千恵さんが亡くなったことを未だに知らないかもしれない。
千恵さんがH君と付き合っている大学時代、3人でバイトをした経験がある。
交通量調査だ。
当時、学生にとって交通量調査は割のいいバイトだった。
このバイトは3日連続で1人当り36,000円をもらえるというものだった。
拘束時間は1日当り10時間。
当時私が友人から払い下げられて所有していた車を持っており、
その中に居ながらで出来るバイトだったので千恵さんを誘ったのだ。
千恵さんはバイト経験が無かった。しかし彼女には朝飯、昼飯を作ってもらう係になってもらい、
あとはH君と私が事実上のバイト作業を行った。
車内にずっといた千恵さんは、我々の話相手になってもらったり、暇な時間は後部座席で昼寝をしていてもらったりした。
(バイト中の千恵さん)
実に楽しいバイトだった。
特に2日目には暴風雨が吹き荒れる天候で、車の中で仕事が出来て良かったと思った。
調査をした場所は勝どき橋の先にある交差点だったろうか?
私の大学卒業後の1983年、一度だけ彼女と2人でコンサートに行った事がある。
クリストファークロスの武道館公演だ。
見ていた場所は1階の東側の中段だったと記憶している。
彼女は私よりも洋楽に精通している部分があり、Steely Danを知ったのも彼女の自宅のステレオでガウチョを聞かされてからだ。
私が彼女と2人でコンサートに行ったのはこの時だけだったが、今でもフンワリと当時を思い出す。
大学を卒業して結婚をするまでの短い期間だったと思うが、彼女は六本木のワインバーで働いていた。
交差点の近くだったと記憶している。
その店には1度だけ行った事があるが、彼女が働いていたのを見たのはその時限りだ。
ワインバーで働く彼女を見て私はちょっと複雑な気持ちになった事を記憶している。
彼女は大学を卒業してからまだ自分の中で何をやりたいとかやれたらいいかという事について
焦点が定まっていなかったのだろうと思う。ひょっとしてそんな自分に戸惑っていたのかもしれない。
大学卒業後、H君は群馬に戻り、千恵さんと彼は遠距離恋愛になった。
それが影響したのか、彼らは以前のような付き合い方が出来ないまま関係が自然消滅してしまった。
私は社会人になってからも彼女と比較的会っていたのだが、やがて千恵さんも大学卒業する年齢になった。
私も彼女も双方が社会人になると大学時代のように頻繁に合う事が減ってきた。
そんな中、ある日千恵さんから例の共通の知り合いであるシェフ君と結婚すると伝えられたのだ。
私は良いとも悪いとも思わずちょっと意外な告白を聴いていた。
千恵さんは、私や友人たちと関係性の良くない人物を夫に迎える事をちょっとだけ私に話ずらそうだった。
しかし、彼女なりの決断だっただろうから彼と私の関係は別にしてこれからも友達でいようと伝えた。
上記の写真の机の位置からすると1983年~1984年頃だろう。
当時はサントリーホワイトが手ごろだった時代。
千恵さんの結婚に伴い祖師谷からの引っ越し作業は千恵さんからの要請で手伝わないことにした。
しかし荷物が片付き彼女が家の玄関を出る時、こっそりと別れの挨拶をした。
千恵さんの後ろ姿を見て、青春が消えて行くのを感じた。
千恵さんは我々より先に大人になってしまったかのようだった。
彼女がシェフさんとの結婚を決めた理由は知らない。
シェフさんは以前から彼女が好きで、相当なアプローチをかけられたということは風邪の便りで聞いた。
いずれにしても彼女は人妻になってしまった。
千恵さんが結婚式を挙げたという記憶がない。確か彼女の実家からは反対されていたような事を聞いていたし、友人連中とシェフ君とは折り合いが悪かったので、我々の知らないところで式を済ませたのかもしれない。
まだ学生気分の抜けない私は、彼女が届かないほどの大人の世界に足を踏み入れて消えて行く感じがしていた。
結婚後、手紙などのやり取り以外は音信不通となった。
そしてある日、祖師ヶ谷大蔵の居酒屋で彼女が病気を患っていることを知らされたのだ。
誰かの幸せな奥さんになっていたのか? それとも料理の腕を生かして繁盛する料理屋さんでもやっていたのか? それとも美魔女になって有名になっていたか?
想像が尽きない。
強がりでハデに見えたが、実は古風なところがあり、気使いもでき、傷つき易い人だったから、誰か強い男が必要だったかもしれない。
彼女にはそういう支えが必要だったと思う。
私は社会人となってから大学当時、彼女やH君と語っていた夢の一部を叶える事が出来た。
そういえば千恵さんの夢って何だったのだろう?
聞いた事なかったな・・。
多分聞いたら”毎日美味しいもの作って食べて、良い酒のんで、楽しい友人に囲まれていたいだけ”なんて
言うかもしれないな・・・。
逝去から30年。
私もH君も随分と歳を取ってしまった。
今でも心が痛い。
こっちはあれから30年も余分に生きてしまった感じがする。
若干25か26歳で発病し、約2年余の間病気と闘い死んで行ったのだ。
その間の千恵さんの心の葛藤を私は全て共有している訳ではない。
彼女の心中を察すれば、言葉もないという感じだ。
友人として何も出来なかったと言っていい。
私も還暦に近くなったが、やはり昔の知り合いで一番会って話をしたのは千恵さんだ。
昔話をしたら意外な事実を聴かされるかもしれないし、違った話もできるだろう。
私もやがて千恵さんのいる場所に行くことになる。
その時の千恵さんは28歳のままの若さと美しさと元気さで
私や友人たちを迎えてくれるのでしょう。
こっちはジジイやババアになってしまっているから大変だ。
佐藤千恵さん、今度あの世で出会ったら改めて本気で泣けるかもしれないと思う。
その時が来るまで・・・・。
佐藤千恵さん、君は本当に素敵な女性だったよ。
また逢う日まで。
昭和40年代の長野県伊那市の風景、小学校のスケート、日影区のアパート [独り言]
彼女はたまたま私と同郷の長野県出身者なのだが、そういう意味でも非常に誇らしい。
ところで彼女は高校時代に伊那西高等学校に通っていると聞いた。伊那と聞くと懐かしさがあふれる。
(上)1965年春頃の伊那東小学校。現在でもここは残っていたように記憶している。
上の写真は天竜川にかかる中央通りに通じる大橋の高遠寄りの風景だ。
背景の建物は現在はない。
当時住んでいたのは日影区に今でもある市営アパート群の一角だ。
この時代、冬季は今よりもかなり寒いため、近隣の小学校は校庭に水を張り凍らせて
スケートを体育代わりにさせていた。
現在の伊那の気候しか知らない世代にはとても想像つかないだろうが、少なくとも50年近く前の
1960年代~70年代初期までは確実に冬の小学校の校庭はスケートリンクとして活用できる時代だった。
1960年代初頭の伊那東小学校で開催された校内スケート大会の模様。
寒い中、1日外で行うイベント。
400m競争で1位で滑走中に転んでどん尻になった記憶しかない。
建物ごと移動させたのち、解体したような記憶がある。
当時の伊那市の冬季の朝は、当たり前のように零下だし、日中でも一桁の下の方の気温は当たり前だった。
伊那東小学校の生徒は、朝学校に来るとスケート靴に履き替えて校庭に出来ているスケートリンクで滑る。
一時限目前までだから8:30頃までは滑っていただろう。また体育の時間も基本的にスケート。
昼近くになるとさすがに溶け始めて危ないので、体育の授業でスケートをするのは昼前までだったと思う。
当時はまだ今のような革のスケート靴が一般的ではなく高価な買い物だったために、
家庭の経済事情が厳しい生徒は「ゲタ・スケート」なる、手製のスケートを履いて滑っていた。
鼻緒の部分を使って足を縛って固定するのだが、靴とは違い不安定で緩みやすい。
少なくとも私のクラスには1人か2人、「ゲタ・スケート」で滑っていた生徒がいた。
当時は多くの人たちが裕福ではなかったし、服が破れたりすると継いだりパッチを当てたりして
着ているのが普通の時代だったため、「ゲタ・スケート」を履いている子供が
差別対象になったりはしなかった。
当時の面影はかなり濃厚に残っており、私もこの道を歩いて通学していた。
当時、一般的に普及していたスケート靴のメーカーは「SSK」だった。
「SSK」は野球用品のメーカーで有名だが、私にとってはスケート靴のイメージが遥かに大きい。
上記は伊那西スケートリンクと名図けられていた伊那市西方にあった場所。
彼女がある時期、雪をたたえた仙丈岳などの南アルプスや中央アルプスなどの変わらない美しい景色を
見ていたかもしれないというのは何となく嬉しくもある。
牛車を使う農家も通行しているような場所で、至る所に牛糞が落ちているような時代だった。
現代の感覚では衛生上の問題を指摘されそうな感じだが、当時はおおらかな時代だったので
避けて歩いていた。(たまに踏んでしまうのだが・・・)
写真上は、日影区の市営アパート前から市内に通じる道路。
まだ砂利道で舗装されていないのが分かる。
昔は大抵の道はこんな感じだった。
むき出しのままだった。子供時代の私はそういう場所に秘密基地を作って友達と遊んでいた。
現在の同所は全て宅地で埋め尽くされており、往時の様子とは随分違う。
上の写真は、当時私の家族が住んでいたアパートで写真に見える棟だ。
背景には家がぎっしり建てられているが、先に掲載したスキーをしている
数年前に行って見たがみどり屋さんの場所には別の家が建ち、千代田屋さんは建物だけが残り廃業していた。
みどり屋さんの想い出は、メキシコオリンピックを見て感激した子供時代の私は、どうしてもメキシコシティーに行きたくなった。
そして母からみどり屋さんのおばさんの娘さんがメキシコに留学していると聞いたので、
おばさんにメキシコに行くための話を聴きに行った記憶がある。
まだ10円のカップアイスや当り付きのバーアイスが売っていた時代だが、当時の私にとっては
50円を超える買い物は相当なものだった。
千代田屋商店さん。2012年7月撮影。
子供の頃、この店は私のオアシスだった。
この家は現在でも同じ場所にあるようだ。
私は当時から譜面が全く読めなかったのだが、先生の弾いているピアノを見聞きしてマネるのが上手く、
結局4年間、私が譜面が読めないことを理解されず、結局私は初見では譜面が読めないままとなった。
伊那東中学校の校門前の様子。右奥の三角屋根のお宅が
ピアノの先生のご自宅。当時はこのようなデザインの家がなく
とてもモダンに見えていた。
(その後私の実家には同じデザインの家が建つ)
昭和40年代前半の伊那市の風景の一部でございました。
結局才能ある若者たちはヒップな産業に集まる [独り言]
私が青春を過ごした時代に憧れの産業は音楽業界だった。
特にレコード会社やアーティスト事務所は垂涎の場所であり、
実際に時代の先を作っていたのは明らかに彼らだった。
この年齢になると若い人たちの日ごろの興味どこにあるのかが疎くもなるが、
いわゆるフィジカルと呼ばれるCD販売の市場は2千億円程度で、
これはピーク時の1997年の1/4程度に縮小している。
反対にゲーム産業はこの10年で40%伸び1.7兆円規模に成長し、
特にスマホゲーム市場は約1兆円近い支配力を持っている。
昨今ヒット作品と言われても誰も歌えない100万枚ヒットと呼ばれる一連のアイドル作品や、
年間ベスト10チャートが3組程度に寡占化され、多様性を失ったチャート、
また配信チャートとCDチャートとの大きな情報乖離を見るにつけ、
明らかに音楽業界が部分的に劣化していることを感じる。
才能のある若い連中が集まっていないためだ。
ではどこにいるのだろうか?
現代において才能のある若い連中は、スマホゲームを開発している会社に集まっていると見ていいだろう。
かつて音楽産業が華々しい時代を考えれば、現代においてそれに該当するのがスマホゲームの産業だ。
なんたって1兆円を超える規模になっているのだ。今後更に伸びるに違いない。
好きな連中が好きなだけ時間とエネルギーを注ぎ自分たちの頑強なコダワリを込めている。
残念だが音楽産業はその役割を終え、位相を変える時代になっている。K-POPが日本で市場を作り始めたのは
その兆候と見て良いだろう。
そしてかつての音楽産業に匹敵するヒップさをもっているのは、スマホゲーム産業だということだ。
そして若い才能はそこを目指す。
ゲームだけでなくゲームから派生したグッズビジネス、ライブエンタやアニメ化等の事業も展開しており
映画産業と同じようなモデルで成長することになるはずだ。
そしてミュージシャンにおいては才能の絶対的な流入数の減少で更に厳しい。
私にとってミュージシャンとは未だに憧れの存在だが、現代の若者にとってはそうでもないということだろう。
そういう意味でこうした流れはいずれ繰り返されるのだろう。
今後大手レコード会社でも似た様な事が起こるだろう。
音楽産業にとって音楽配信とライブエンタが音楽ビジネスの二大柱になることは疑いようがなく、
CDは遺物になってしまうだろう。
そうなった場合、音楽産業はいずれアーティスト中心ではなく、外部のメディアと連合した形で
生き残りをかけることになるだろうと推測する。
またK-POPの台頭は日本のアイドル産業に外圧としてのしかかり、彼らとの連携が日本の芸能産業としての
生き残りを左右する時期がもう目の前だと言ってもいい。
エンタメ業界も新しい時代になったと思う。
時代遅れを感じたスター・ウォーズ [独り言]
映画・映像表現と音楽に共通するドーピングの蔓延について。 [独り言]
スターウォーズシリーズは1970年代後期に始まり40年を経てまだ続いている。
ルーカスという稀代の才能が生んだストーリーの賜物なのだが、
私は上映前の予告編に大変な失望を感じた。
たまたま編成的な理由もあったのだろうが、共通していたのは4作品がCGを中心として描かれた映画だった。
実写中心の映画はスリー・ビルボードという作品だけだった。
CGを使った映画はどれも似た様なテイストで個性が見当たらなかった。
タイトルさえも記憶に残らない。
金太郎飴のような予告編だった。
SF作品にしろファンタジーにしろ実写にしろCGは映像表現に欠かせない時代になった。
CGの無い時代は、美術さんが絵筆で背景や追加画像を描き実写に組み込んで撮影していた。
1950年代に制作された「風と共に去りぬ」は見事に実写と書き割りを融合させていたが、
こうした手法は80年代になるまで続く。
80年代において「TRON」によって映画界に出現したCGだが、背景や追加効果以外の利用が可能性を見せつけた点でエポックメイキングだった。
そしてCGが特殊効果の一部だった時代を一変させたのは90年代のジュラシックパークとターミネーター2からだろう。
ここから加速度的にCGの技術は進み現在に至る。
見る側としては逆に想像力を掻き立てられなくなり、
私に限れば、最近の映像表現がとても物足りない感じがし始めてきている。
おまけにどんなに優れたCGでもCG臭さが消えないために見ている間に興ざめしてしまうのは私だけだろうか?
しかし不要なほどのCG量は、感覚的に馴染まない部分が顕著であるというのが私の感想だ。
実写可能な映像でさえもCG化する事までしており、本当にそこまで必要なのだろうか?とさえ思う。
ハリーポッターやスターウォーズ、アバターなど、CGが無くては成立しない映画はともかく、
CGを使わない方が映画として良いなと思う作品にも過剰利用されている現状を見ていると、
映画関係者にはCGの在り方についてもう少し考えなおして欲しいと思っている。
昨今はPro Toolsのお蔭で、音楽制作において相当な事が可能になっている。
端的な例は、オンチの唄でもある程度上手い歌手のように歌わせる事が出来るというものだ。
これは音質を殆ど変えないでピッチや表情を直すアプリの登場から業界内で頻繁に使われるように
なったのだが、実際の本人の実力の唄とは全く違うパフォーマンスに出来上がる。
またコーラスに至っては、同じテイクを張り付けて終わりという現場もあるし、
コーラス隊で呼ばれた歌う側がそれを要求する不埒な現場さえもある。
本人の実力以上の歌唱効果を得る事が可能だ。
しかし人によっては本人の再演が不可能だったりするから意図が全く分からない。
何処までが実力なのかも分からない時代なのだ。それで入場料1万円とかを支払って客は喜んでいる。
皺を消したり顔の輪郭を変えたり、エクボまで取ったりと、ちょっとやり過ぎだろうと思うくらいだ。
アメリカではモデルの撮影時とポスターの出来栄えの違いが顕著過ぎて社会問題にまでなった。
現代の映画・映像、音楽も過剰ドーピングがまるで当たり前の時代になっていると言っていいし。
客も知ってか知らずかそれで良いように振る舞っている。
駅で見かけるポスターやCM映像なんてツルツルの顔しているが、ちょっと気持ち悪い位だ。
またアイドルやK-POPのライブなんてダブルトラックドーピングだらけだ。
人間技でない部分が優れている事で価値とするならば、別に特別なタレントに頼らなくてもいいのだろうとも思う。
昨今、AIアイドルも出現しているが、現状でも人間はただの「素材」と化している訳で、
本当にそれでいいのだろうか?と訝る。
将棋や囲碁の世界で圧倒的な能力でAIが勝っても、全く感動をしないのはそういう事だ。
またAIが分析したレンブラントの絵を見ても、心を揺さぶられないのはそこには人間技がないからだろう。
ゴッホ展でキャノンが作った立体再現プリンターの絵を見たが、技術的面への驚きはあったが、感動には至らなかった。
人間には機械と比較して物理的な能力限界があるが、常人を超えたいる人たちのパフォーマンスだから感動や喜びがあるのだと思う。
機械と人間がスポーツで闘い、機械が勝っても感動を呼ばないだろう。
だからスポーツには厳格なドーピング対策がある。
しかしエンタメにはない。
並外れた人間技と才能を持った人間は、数十万人に1人程度しか出現しないから価値がある。
そうしたフィジカルの凄さこそがエンタテインメントの価値の源泉であろうが、昨今は見る影もない。
私には「過剰なドーピング」に思える。
昔の作品にも技術を頼りにした部分が多いが、それでも最後の肝は人間技が引き取っていた。
昨今の作品にはそういう息遣いが感じられないのだ。
価値のないものに過剰な修飾を施しても当たり前なら、もはや心を動かされないだろう。
踊る阿呆に見る阿呆というが、ちょっと次元が違い過ぎないか?
特に歌のピッチの揺れ方は度し難い。
映画にしても、上手い役者の演技を邪魔するような特殊効果は見ていて辛いほどだ。
古い例で恐縮だが、仮にThe Eaglesがライブでホテル・カルフォルニアを生でレコードのような演奏出来なかったら、彼らのレコードを買い、ライブにいくことはないだろう。
そういう意味では不幸な時代になった。新しいターウォーズを見ていてあれ以上の何を期待して良いのか
私にはもう分からなくなった。3DもIMAXも本質ではない。
私にはこの手に対して飽きが来てしまったと言っていい。
ドーピングレスのエンタメを欲求する背景があるのかもしれない。
単純に昔を懐かしんでいるというより、昔のものの方が圧倒的に人間技として良く出来ていると私の感覚が言っているのだ。
彼らが生身の体から生み出す新しいメロディーや音楽にどれ程の民衆が虜になったのかが良く分かるが、
その根底には並外れた人間技と才能への畏敬があったのだと思う。
技術的要因を多用した映画や音楽が人間技の欠片もないとは言わないが、想像力を掻き立てる何かを失っている点については、制作者側に立ち止まって考えて欲しい部分だ。
ここ何十年もゴッドファーザーや地獄の黙示録、大脱走やエンゼル・ハート、羊たちの沈黙、アマデウスに
匹敵するような映画らしい作品が見当たらないのは寂しい限りだ。
ギリギリ星野源氏位だろうか?
日本の音楽シーンは、AKBや嵐、三代目でベスト10を席巻し、多様性を失った事で市場そのものが冷え込んでしまった。
彼らを選んでいるのも市場だが、この多様性の無さに音楽業界は危機感が無さすぎた。
有能だった団塊世代周辺のスタッフが消滅した事により、才能を見つけ育てる機関が失われ、
企画的でメディアと結びついたジャンルだけが生命線になってしまった事でバランスを欠くようになったのだろう。
これは映画も同様だ。
パシフィックリムやアベンジャーズが席巻しているのは市場の要求なのだろうが、
甘いお菓子ばかりの映画供給環境は音楽と同様で多様性がなく、大人の私には食い足りない映画ばかりだ。
減ってしまった事も私にとってツマラナイなあ・という感じだ。
理由は分からない。
優秀なクリエイターが音楽や映画などの斜陽産業を避け、ITやゲームなどの分野に
行ってしまったからかもしれない。実際スマホのゲーム分野の市場は成長軌道にある。
成長軌道を作る新しい産業には才能のある若者が多くいるのが常だ。
だから面白くなくなったと言えるのかもしれない。
滅多な事で笑えないし、驚く事も少なくなった。
老化なのか?と思う時もある。
大抵のことを見聞き、経験してきたからなのだから仕方ないがちょっと寂しい気分にもなる。
こうした部分にはこれから先、ジックリ取り組もうとは思う。
もう流行り廃りに惑わされず自分のスピードで生きる年齢だとも思っている。
読んだ事があるが、そうかもしれない。
ミュージシャンという生き方 [独り言]
一時期私はミュージシャンを仕事にすることを目指して生きていた。
音楽業界で働く事に憧れを持っていたのはミュージシャンへの憧れと同等だった。
これほど過酷で生き残りが難しい職業であったろうか?と感じている。
寺内タケシ氏も含んでいいかもしれない。
活動の幅はそれぞれ違うが、少なくとも彼らは1500~2000名以上のホール級を満員にし、ツアーをし、メディア露出等も定期的にある。
南こうせつ氏、高橋真梨子氏、坂本龍一氏、中島みゆき氏、浜田省吾氏、桑田佳祐氏、
松任谷由実氏、THE ALFEE、矢野顕子氏、長渕剛氏、竹内まりあ氏、鈴木雅之氏、八神純子氏辺りが
妥当な線だろう。私の無知で漏れている人もいるかもしれないが概ね正しい範疇だと思う。
ちなみに演歌、歌謡界は除いてある。
数えてみれば分かるが、全部で30組は存在しない。多少範囲を広げても50~100組程度だろう。
彼らはロック・ポピュラーミュージック界のエリート集団と言っていい。
60年代~80年代前半にデビューし、キャリアを30~40年近く続け、現在でも一線でやれているフロントラインのミュージシャンはこの数程度しか存在しないという証だ。
小田和正氏に至っては70歳になってもアリーナ級を満員にしており、少なくとも彼と同じ年齢では最高動員数だ。
昭和22年生まれの彼の同年代出生数は、2,678,792人とある。
つまり、彼のようなミュージシャンの出現する確率は約260万分の1ということだ。
細野、吉田、小田氏の3名の出現確率は、90万分の1程度ということになる。
また60歳~69歳の出生数は約2,000万人強だが、上記を見て明らかなように
一線で生き残ったミュージシャン数は20組程度。つまり100万人に1組という感じだ。
だから概ねこのレベルの才能をもち持続性があるミュージシャンの出現する確率は50~100万人に1名と言っていいだろう。
凄い数字じゃないか・・。普通じゃない。
さて、先ごろ小室哲哉氏の不倫報道が週刊誌上に踊った。
著作権詐欺事件以降、小室氏の活動は火が消えたようだ。
90年代のブームの大爆発を知っている年代からすれば、今日の彼の活動状態は信じられないだろう。
小室氏は本件に絡んで引退を表明したが、YMOに憧れた彼がYMOの次の世代を担った第一人者だったことが疑いようがない。
(ちなみに個人的にはたかだか個人の不倫報道に絡む引退表明は唐突感が隠せない。別に引退しなくても良いと思うのだが、KEIKOさんへの贖罪を自分の職業を棄てる事で表したかったのかもしれないし、彼自身の体調の件もあったのだろう。還暦になる彼が自分の引退を会社員の定年退職になぞらえた発言があったが、彼の会見を見ていて往時を知る世代としては、輝きを失い弱った老人のようにも映る会見の姿は寂しいものだと思った。夢を与える側の仕事の只中にいる人物の現実的な課題を表に現した点で異例ともいえる会計だったが、彼に限らず私生活の問題や本人の体力、気力の減少は彼なりにあったようだし、それは我々と同じということなのだろう。)
先述したようなミュージシャンたちのように活躍を持続出来なかったのは何故なのだろうか?と訝る。
才能の違いと言えば簡単だが、彼が人並み外れた才能を持っている点において、過去の履歴から否定出来るはずもない。
しかし持続性が無かった点では上記の先輩たちと比較しても陰が薄くなる。
彼が尊敬する坂本龍一氏は、特にYMO後ソロでも成功し、その後映画音楽の分野でアカデミー賞を受賞するなどのキャリアを構築し、現在でも一線にいる。
坂本氏やそれに類するミュージシャンに備わっていて小室氏に無かったものは何だったんだろうか?
それを紐解く材料は小室氏の著作権に絡む詐欺事件にあるだろうと思う。
実際はそうではない。彼らは常に自分の才能以外の見識や能力を総動員して戦っているし鍛錬もしている。
こうした事を否定するミュージシャンもいるだろうが、才能だけで生き残れるほどこの世界は簡単ではない。天からもらった才だけを使い、空から降ってくる音楽を捕まえるだけでは生き残れないという意味だ。
彼らの活動が無意識だけで継続できるはずもなく、我々同様に「頭で考え」「感性を磨き」「研究をし」「意識的に成果を作り出し」「分析し」自分の居場所の維持や新しい才能の出現と絶えず戦っている。
ミュージシャンと言えばチャラチャラした気楽な印象だけがあるかもしれないが、
職業として数十年を生き残ろうと思ったら実際はそういう訳に行かない。
相当にタフだし、相当にエネルギーがいる。成功している彼らは並外れているためそれが出来るのだ。
それでも60歳を過ぎれば歌手の場合、いつ歌えなくなるか・・という恐怖との闘いもある。また当然だが引退や残り時間とのせめぎ合いもある。これは誰もが同じだが、その場凌ぎでは出来ない事だ。
ピーク時の贅沢三昧な生活を維持するための身の丈以上の金を得ようとしたのかもしれないし、本分とはかけ離れたものに首を突っ込んでしまい、本来彼がプロのミュージシャンとしてやるべき仕事の源泉を蔑ろにし、地道にやって来なかったかもしれないと推察する。
また周囲に彼の行動ややり方をキチンと質すミュージシャンやスタッフにも恵まれなかったのだろう。耳の痛い事を言う人は遠ざけたくなるのが人情だが、時にはそれを受け止める器が人生を決定することもある。
少なくともこの時点での彼の躓きはキャリアを大きく棄損してしまったし、その後の活動にも影響を及ぼした。
小室氏のキャリアを総括すれば、TMネットワークで世に出て、Globe、安室奈美恵氏などを売り一世風靡したに尽きる。
彼自身がメンバーとして関わって売れたバンドはTMネットワークとGlobeだけであり、彼の音楽キャリアの源泉はそこにある。
残念ながらGlobeはKEIKOさんの病で活動が出来ない。
TMネットワークは何等かの理由で人前に出て来ないが、これはある意味で自己キャリアの否定をしているに等しい。小室氏に限らずTMネットワークのメンバーはソロアーティストとして市場価値がある訳でなく、常に他者との共存でその才能を発揮してきた。(これは多くのバンドメンバーに共通する点だ)
この辺りがソロ活動で生き残っているミュージシャンと決定的に違う点だ。
従って小室氏の活動にはかつてのバンドメンバーの協力が必要だが、長年実現していないということは
人間関係が切れてしまっているのだろう。
エンタメ業界のように成功例を出す事が稀で、なおかつ長期的な活動戦略が必要な業界において、価値のあるバンドでの活動が出来ないのは決定的に痛い部分だ。
長期的にはTMネットワークはいつでも再開できるようにしておきべきだった。核となる活動を失ったために時流に乗れない時期を迎え代替策がなくなり、本人の活動の限界が早まったと言っていいだろう。
冒頭に書いたミュージシャンたちを見れば分かるが、彼らは直近において新作のヒット曲はない。それもでやれているのはロイヤルティーの高いファンの支えがあったからだし、支持が切れないように自分の価値の維持に努めていた点も大きい。従って地道な努力の賜物と言っていいだろう。
日本には数十名程度この孔を通った人達がいるが、いずれに独自の生き残り方法と個性を展開している。
ミュージシャンとして一線で生き残る事がこれほど難しいというのは還暦を迎え苦境の会見を行った小室さんが一番感じていることだろうと思う。
かつては一斉風靡した多くのフロント・ミュージシャンたちは、全国のライブハウスやカフェ程度の店を廻っての演奏活動やその他の周辺業務を支えにして生計を立てている。完全に音楽を中心中心とした活動で生きていると言えるのは、小田和正氏、山下達郎氏、井上陽水氏、矢沢永吉氏、坂本龍一氏など本当に極々僅かな人たちだけだ。
かつての人気者たちも年齢と共に地方の旅暮らしを余儀なくされ、体力的にも相当に堪えるはずだが、やり続けないと食えないし自分のパフォーマンスも衰える。
華やかに見える彼らにも、活動規模には様々なグラデーションがあり、羨むようなレベルにいる人達は非常に僅かな一部だけだ。
そういう意味で私のような凡人は、中高生時代に憧れたミュージシャンに「なれなくて」良かったかもしれない。私ではとても務まらなかっただろうと思う。(実際35歳で諦めた)
多くの音楽ファンは、オヤジバンドとかを一生やっていた方が普通の丁度いいのが音楽や演奏活動の世界だろう。