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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-3 [ボーヤ時代 1983年]

【ローディー生活の開始:1983年2月】 

PITINN.jpg


最近若い層の中に1980年代へのオマージュを示す動きがあると聞いた。
1980年代を20代で過ごした私から言わせればリアルタイムの時代だから、懐かしがられているのは不思議な感覚だが知らない世代にはそうなのかもしれないとも思う。
1980年代の空気を言い現す言葉は中々難しいが、個人的な言葉に集約すれば
「キラキラした時代」だったと表現出来るだろう。
それに反して私の20代は人生でも最も貧乏な時代で(この先老後は分からないが・・)、決してキラキラしていた訳ではない。それでも若いから心の中はウキウキしていたように感じている。

社会の空気、特に音楽業界は「キラキラしていた」というのが私の印象だ。
YMO、山下達郎氏、大瀧詠一氏など、70年代は燻っていた本物のミュージシャンたちのヒット、またコピーライターの出現、芸術文化を押し出した西武グループの仕掛け、シンセサイザーの発展とコンピューターミュージックの出現と定着、マッキントッシュの進化とパソコンの普及でデジタル化を始めた一般人の生活、SONYのWALKMANのヒットなど、明らかに70年代とは違う文化やアイテムが生まれ、それが生活に影響を及ぼした点で総じて80年代はキラキラしていた時代だと言っていいだろうし、実はその原点は70年代の才能群にあったと言って良い。

その根底には高度経済成長後のオイルショックによる経済低迷を乗り切り、
未来に対する希望が人々に通底していたからだろう。
そういう意味で80年代はかなり楽天的で退廃的だったし、その最大のオチがバブル経済とその崩壊だったように思う。

さて、この時代六ソと同じビルの地下にあった老舗ライブハウス
PIT INN。数々の伝説のライブがあったこの場所の前で、この時期の私は殆ど毎日のように店の前で楽器を下ろし、ビル共用のエレベーターで5階のスタジオまで運んでいた。

残念ながらこの歴史的なライブハウスがあったビルは建て替えられてた後、コンビニなどのテナント向けのビルになっている。現在PIT INNの面影は、新しいビルの1Fに当時地階にあった
PIT INNや上階にあったスタジオやオフィスに通じるエレベーターがそのままの位置で更新されている部分だけだ。
私は数あるPIT INNのライブレコーディングの中でも山下達郎さんの「It's a poppin' time」というアルバムが一番好きだ。


実はここで見る機会を得たライブはそう多くなく、殆ど仕事絡みでしか来なかった。最後に来たのも90年代中盤だったように思う。
20代前半の当時は金もなく時間も自由じゃかなったからだ。
振り返ると80年代の私は仕事以外のライブを殆ど見る事が出来なかったように思う。

PITINNでの少ないライブ鑑賞の例の中で印象にあるのは、ギターリストの故・杉本喜代志氏ライブでゲストが間寛平氏と山下達郎氏というマニアックなラインナップのライブだった。
杉本喜代志氏はスタジオミュージシャンとしてはファーストジェネレーションとも言える世代の方である。JAZZ畑の職人ギターリストであり、達郎さんのアルバムにも幾つかの作品で登場する人物だ。


(近年の元PIT INN周辺の様子は下段に写真を掲載した)

余談だが、2018年4月から会社の都合によって、私の職場は某大手レコード会社の傘下に入り、私もその会社の社員として転籍になった。
その職場があるのは旧六ソと呼ばれたスタジオがあったビルの近隣だ。
人生はあざなえる縄の如し、人生万事塞翁が馬という言葉があるが、23歳~24歳にかけて毎日のように通った場所の近くに、30年余を経て「戻る」ことになるのだ。
そしてその会社は、22歳の春にアルバイトの応募をして落とされた会社なのだ。何の因果かと思うが、私は意図せずに自分の青春の憧れと志の一部を叶えることになるのだ。しかし今となっては特にそれに対する感慨もないのだが・・・。


さて、話を戻そう。音楽業界で、特にレコーディングスタジオを中心とした制作現場で仕事をするようになってから分かったのであるが、レコーディングの仕事は、主にミュージシャンの予定を中心にして組み立てられる。
従って、例えば3カ月後にエリック・クラプトンが来日すると知っていてもその時期の予定が立たないため、チケットなんて買う事が出来ない。
毎日がそういう状況だったため、皮肉な事に、音楽業界に居た時代、仕事絡みを除いて、特に洋楽のコンサートを見るのは至難の業だった。

音楽業界で働いていた19年間で記憶しているものでも、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、ネビル・ブラザース、ドクター・ジョン、スティング、ジェネシス、マドンナ(初来日と2016年)、マイケルジャクソン(ソロの初来日)、ジャネット・ジャクソン、ピーター・ゲイブリエル、トレバー・ホーン、マイルス・デイビス&ハービー・ハンコック、ミックジャガー(ソロ)、スティーリー・ダン、シンディー・ローパー、デビッド・ボウイ、リンゴ・スター、ジョージ・ハリスン、ローリング・ストーンズ、クラプトン位で、決して頻繁というレベルではない。日本のアーティストで見ていたのは主に山下達郎さんで、好きだった井上陽水さんのライブは80年代において一度も行くことが出来なかった。
またライブに行ける場合でも、ミュージシャンを絡めて一緒に行くか自分の管轄下でレコーディングやライブなどの予定がない場合しか無理だった。

実際、音楽業界を出てからの方がミュージシャン等に時間を縛られる事が全く無くなったために自由度が増し、数的にも質的にも比べられないほど見る事が出来るようになった。そういう意味では音楽業界から去った40代以降の方が明らかにコンサートに行く時間を確保するストレスが無くなったし、ライブ鑑賞のチャンスが多くなっがのは誠に皮肉な話である。

さて、1983年とはどんな時代だったのか?
ちょっと時事の時系列を振り返り、当時のヒットナンバーのリストを入れておこう。


11 ARPANETIPに切り替わり、インターネット形成をはじめる。
1
9日 自由民主党の中川一郎が札幌のホテルで遺体で発見される。
1
31日 連続強盗殺人犯勝田清孝逮捕。
2
4日 アメリカの人気兄妹歌手グループ、カーペンターズのヴォーカリスト、カレン・カーペンターが急性心不全(拒食症の影響と思われる)のため死去。32歳だった。このニュースはショックだった。

2
24日 国鉄飯田線において初代湘南電車こと80系電車が運用終了。これに伴い戦後復興の象徴と言われた同電車が国鉄線から完全に引退した。
3
8日 ロナルド・レーガン米大統領が一般教書演説中に悪の帝国発言を行う。
3
28日 沖縄市にてコンサート中の人気歌手・松田聖子に、暴漢が凶器を使い暴行する事件が起こる。
4
4 NHK朝の連続テレビ小説第31作『おしん』放送開始。
4
15日 東京ディズニーランド開園。
5
23日 東京ディズニーランドに500万人目のゲストが来園。
6
13日 戸塚ヨットスクール事件で校長の戸塚宏が逮捕。体罰が問題になった。
7
15日 任天堂が「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)を発売。家庭用ゲームはこの時代に始まった。
8
7日 甲斐バンドが、東京新宿副都心都有5号地(現在の東京都庁舎がある場所)で野外コンサート-THE BIG GIGを開催。3万人を集める。

8
21日 フィリピンのベニグノ・アキノ元上院議員暗殺。

9
1日 大韓航空機撃墜事件。乗員・乗客269人全員死亡の惨事に。スパイ映画のような話だったが現実に起きた事に驚愕した。この年に起きた最も衝撃的事件だったろう。今のこの事件が起きてアメリカ機だったら、トランプは戦争を仕掛けるかもしれない。

9
25日 日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」終了。一時代の終了だ。
10
3日 三宅島大噴火。
10
9日 ラングーン事件。
10
12日 ロッキード事件の裁判の第一審で、田中角栄元首相に懲役4年、追徴金5億円の有罪判決。
11
9日 ロナルド・レーガンアメリカ合衆国大統領が来日。
12
27日 第2次中曽根内閣発足。新自由クラブとの連立(-1986722日内閣総辞職まで)。


 

1983年のヒット曲
わらべ「めだかの兄妹」
薬師丸ひろ子「探偵物語/すこしだけやさしく」
杏里「CAT'S EYE」「悲しみがとまらない」
松田聖子「秘密の花園」「天国のキッス」「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」  中森明菜「12の神話」「トワイライト -夕暮れ便り-」「禁区」。歌謡アイドルの最後の良い時代だった。
安全地帯「ワインレッドの心」
TheALFEE「メリーアン」(彼らの初ヒット作)
柏原芳恵「春なのに」「夏模様」「タイニー・メモリー」
YMO
「君に、胸キュン。」
EPO
「う・ふ・ふ・ふ」
岩崎宏美「家路」
上田正樹「悲しい色やね」
山下達郎「高気圧ガール」。時代の先端サウンドを提供していた印象があった。
村下孝蔵「初恋」「踊り子」
欧陽菲菲/やしきたかじん(競作)「ラブ・イズ・オーヴァー」。こういう曲もヒットしてた。
H2O
「想い出がいっぱい」
早見優「夏色のナンシー」「渚のライオン」
RATS&STAR
「め組のひと」。作曲家は後年自殺してしまった・・。
原田知世「時をかける少女」
ヒロシ&キーボー「3年目の浮気」
森進一「冬のリヴィエラ」(亡き大瀧さんの作品だ)
松任谷由実「ダンデライオン遅咲きのたんぽぽ」
大川栄策「さざんかの宿」「恋吹雪」
高田みづえ「そんなヒロシに騙されて」。サザンのカバーだが桑田さんは当初知らなかったそうだ。
田原俊彦「さらば夏」「シャワーな気分」「ピエロ」
サザンオールスターズ「ボディ・スペシャルII」。サザンは落ちる事を知らない勢いだった。
原由子「恋は、ご多忙申し上げます」
西城秀樹「ギャランドゥ」。この時の西城さんの腋毛の凄さをギャランドゥと言っていたのはユーミンだった。
2018年5月16日、西城秀樹さんが逝去された。63歳。まだ若いといえる年齢だがお悔やみを申し上げる。

長渕剛「GOOD-BYE 青春」
葛城ユキ「ボヘミアン」
小泉今日子「まっ赤な女の子」「艶姿ナミダ娘」「半分少女」
大橋純子withもんたよしのり「夏女ソニア」
郷ひろみ「素敵にシンデレラ・コンプレックス」「哀しみの黒い瞳」
河合奈保子「ストロー・タッチの恋」「エスカレーション」「UNバランス」
堀ちえみ「さよならの物語」「夏色のダイアリー」
風見慎吾「僕笑っちゃいます」
清水由貴子・小西博之「銀座の雨の物語」
伊武雅刀「子供達を責めないで」。ギャグテクノだったね。
松山千春「Sing a Song
柳ジョージ「ランナウェイ」(1961年・デル・シャノン「悲しき街角」の日本語カヴァー)
尾崎豊「15の夜」


この年は、YMOが散解し、The ALFEEが苦節10年を超えての初ヒットを飛ばした年だった。歌謡曲もまだまだ健在で、ニューミュージックやAOR系と呼ばれるものとマーケットが融合していた時代とも言える。
山下達郎氏の高気圧ガールは化粧品メーカーのタイアップだったが、時代の新しさを象徴するような
サウンドだった。
この曲は六本木ソニースタジオでレコーディング中に部屋からサビの部分が漏れて聞こえてきたことがあったので印象深い記憶があるのだが、キャッチーであるのに、新しいアカペラのアプローチを含んでいて聞いた時は衝撃的だった。
あの楽曲を作っていたのが達郎さんが30歳になったばかりというのを考えてみても、才能のある人間の凄さが分かるというものだ。

さて、個人ミュージシャンのローディーのという仕事とは当時ではいわゆる芸能界的にいう「ボーヤ」と同意義であると言えるが、業界では最下位のポジションだ。ボーヤ業務は、ミュージシャンの仕事やプラベートにまつわる身の回りの面倒を見る仕事が主だ。芸能界で言う「ボーヤ」の語源は「坊や」から由来しているともいう。芸能界には「ボーヤ」から出世してタレントになった方も多い、志村けんさんはその代表格だし、小松夫さんは植木等さんのボーヤからたった4カ月程度でタレントへの道に入り、その後独立した方だが、彼らのボーヤ時代の所得は当然のように低かった。
芸能界だと弟子扱いで働き、無給の人もいたんじゃないだろうか?と思う。

ボーヤは頭脳労働的な部分は少なく、殆ど使用人もしくは小間使いというのが実態だ。それでも小松政夫さんようにクリエイティブなボーヤも数多くいたのだろうが、ミュージシャンのボーヤの場合は余りないと思う。

ボーヤの給料が安いという背景には個人雇いである点と、雇われているミュージシャンの技能を目の当たりにすることが出来るという利点があり、それを理由に給料が安いという部分があったかもしれない。しかし現代から見るとそれは単なる安く雇うための理由づけであるように思えるが、現代でもそういう建付けでローディーを募集している人がいるようだ。ただし現代では労基法がうるさいので最低賃金を切った雇用は法令違反になるため出来ないだろう。

「ボーヤ」家業は、昭和30~40年代の箱バンやGS系バンドのバンドボーイと呼ばれるような職業に似ているかもしれないが、当時のバンドボーイは用心棒も兼ねていたり、将来的にバンドのメンバーになるという夢があったので、80年代のボーヤはそれとはかなり異なる環境だろう。
実際仕事内容そのものは高度ではなく、主人であるミュージシャンの意図や意識にどれだけ応えられるかという部分の方が大きい。ボーヤ上がりでミュージシャンになった人間は皆無ではないが、
80年代はそれ以前よりもかなり減少したと思われる。
2012
年の時点においてこうした職業に従事している人間の数はかなり少なくなったと思うが、東京近郊ではまだ確実に存在している職業だろう。自分でやって思ったが、正直この仕事は人生経験にはなったが、キャリアとしては無に近いものだった。
ここから大きく出世すればまた違ったストーリーもあっただろうが、残念ながら私の人生には過去を美化できるようなスーパースター的な出来事は起こらなかった。

村上ポンタ秀一氏のWEBを見ると門下生募集とあるが、これはやはりボーヤ業務は、プロへの道をスタートさせる修行の一環と考えているのだろうと推察する。


http://www.ponta.bz/ponta-juku.html


 現代におけるミュージシャンの「ローディー」と言えば、いわゆるコンサートなどで活躍するプロの「楽器ローディー」だ。例えば㈱チームアクティブなどが運営しているコンサートステージなどで活躍する楽器専門スタッフであるローディーとは、技術的にも知識的にも私のやっていたローディー業務とは大きく異なる。
彼らは楽器だけでなく電気関係やトラブル等の対処への知識も豊富で精通しており、修理・メインテナンス等や複雑な楽器セッティングのプランなどもできる正真正銘のプロ・ローディー集団だ。
従って彼らは私のようなボーヤ系とは全く異なる職種だ。山下達郎氏のツアー・ロディーがいらっしゃる会社は、SHINOSというブランドでギターアンプの開発・製造出来る能力まであり、あの音にうるさい達郎氏がこれ1台でOKと言わしめるギターアンプを作って販売している。

SHINOS:
http://shinos.biz/index_artist.html


海外のプロのローディーだと、技術に加えてマーシャルのアンプを一人で3台持てる体格勝負のようなヤツがいるというような都市伝説を聞いたこともあるが、その手のローディーは運び屋専門ローディーかもしれない。

ローディー専門会社 チームアクティブ

 

 私のようなミュージシャンの個人雇いのローディーで、都市伝説的な人物と言えばドラマーの村上(ポンタ)秀一氏だろう。彼は数少ないローディー=ボーヤー上がりのミュージシャンで、ボーヤ時代も伝説的に優秀だったらしいが、最終的には師匠よりも売れっ子のドラマーになってしまったというから恐れ入る。それだけに彼は職人肌の筋金入りの人物であり、独特なドラミングとキャラクターは現代でも人気が高い。

当時私が生業にしていたローディーとは、前述のようにミュージシャンの楽器運びやセッティング、身の回りの世話(タバコを常に持っているとか個々のミュージシャンの嗜好によって様々な身の回りの世話ができるようにしておくようなことや食事の用意、その他の諸々雑事)、仕事場(主にレコーディング・スタジオ等)への送迎などが中心業務だった。

また深夜にスタジオが終わり、ミュージシャンたちが六本木の飲み屋で一杯やって帰る時などは、早朝に彼らが帰るまで車の中でひたすら待ったものである。
六本木の飲食街が放つほの暗い照明が入り込む車内で、今のようにスマホで時間を潰す事が出来る時代ではなかったので全くやる事もなく、ただひたすらに夜の街の闇を虚ろに見ながら何時間も待っている間、さすがに
俺って一体何やっているんだろうという感覚があったのは事実だ。
今でも芸能界辺りではそういう光景があるのかもしれないが、ああいう経験の記憶は何となくネガティブに一生付きまとう。
実際この時は、本当に多少だったが自分の置かれた立場の惨めさを感じていた。それ故私は自分の部下や後輩連中にはこうした事を強いた事がない。師匠・弟子のような関係でこうした事がまかり通る古い世界もあるにはあるのだろうが、少なくとも音楽関係で働く人たちには全く不要なものだと今でも思う。

私は基本的に体育会系的で上が下に対して封建的で客観性もなく統率をする事に無批判な人間関係が余り肌に合わない。
昨今起きて問題になっている運動関係者、相撲界などの暴力問題は、こうした無批判な人間関係を上の人間が住みやすさを甘受している世界観に問題があると思う。要するに体育会系的上下関係は上の者にとって理屈抜きで居心地がいいのだ。体育会系の根源は軍隊にあり、体育会系にしている理由は兵士に人殺しを容易にさせるためなのだ。つまり洗脳し上官の命令を確実に実行させることを目的としているやり方なのだ。
一般社会においてこうした事をバカバカしいと感じない方に問題があるだろう。

とは言え年長者をキチンと敬うという精神は世の中を円滑に回すために必要だと信じている。要するに上に立つ人間の思想的・人間的な問題なのだ。

今にして思うと仕事そのものに高度な能力を必要とした業務内容は何一つない。ただ主人に対して気を使い、言われた事をキチンとこなし、目立たず、必要な時に必要な要件をこなせれば当面は十分なのだ。それでも当時の私にとってはそれがメシを食うための手段であり、生きるために必要であり、また自分が選んでで入った場所であり、音楽業界に深く入り込む不器用で唯一の方法だった。

 
 セッション・ミュージシャン(レコーディングスタジオで演奏するミュージシャン)にとってボーヤを雇っているということは一定の仕事量と財力を保持していることを暗示するため、そのミュージシャンの力量を示す象徴的な部分でもあったろう。

彼らの世界で最も望まれる形態は、個人付きの事務所を持つことか、せめてマネージャーを抱え、音楽以外の部分は自分の専属のスタッフに任せるといった感じだろう。
当時の私の仕事環境において、そうした形態を保持していたミュージシャンは坂本龍一氏や山下達郎氏のようなクラスだったということだが、彼らとて最初からそうなった訳ではない。自分の周辺にスタッフを配置するという事は、それだけの売上を確保できているからだ。


 いずれにしても、ミュージシャンで月額固定給のローディーを雇っているスタジオミュージシャンは例外なく「売れっ子」の人達である。当然仕事が切れ目なく入っていなければ固定給でローディーを雇えるはずもないからである。

固定給支払いを避けたいスタジオ・ミュージシャンの場合、音楽学校の生徒に声をかけて、スタジオを見せて勉強させてやるみたいな理由と食事代程度でごまかされる学生バイトが不定期に雇われるケースが多かったのは前述した。


 当時の一線級のスタジオミュージシャンが自分で楽器を運んでいる姿を見せたとしたらそれはある意味で十分な仕事量がないのと同義語でもあったろう。それ故、実力のあるミュージシャンに仕事が集中し、よって彼らは個人でもローディーを雇える訳でなのである。

例外的にパーカッション系のミュージシャンの中には常勤のローディーを雇わない売れっ子がいたが、彼にはコンガと小物程度しか運ぶ楽器がなかったから物量的に不要だったのかもしれない。

当時の経済状況を鑑みても、常勤のローディーを雇えたミューシャンは少なくとも当時の年収で1,000~2
,000万円近くはあったのだろう。当時憲司さんの仕事で一緒だった中村哲氏が仮に1年間休まずにある一定のスタジオ作業をこなしても上限2,500万円の年収程度が限界だ・・とつぶやいていたのを聞いた事がある話は前述したが、それでも月額のローディーを雇用することや移動車両を個人で持つ事は、ミュージシャンにとって相当な経済負担だったとは思う。

後年坂本龍一氏が彼自身を含めたスタジオ・ミュージシャンが狭い世界の中で、ランク争いのように自分の待遇をスタジオで見せつけるような所作にウンザリしたというようなコメントを残していた記憶があるが、超実力社会のセッション・ミュージシャンの世界では無意識ではあったにせよそうした面があったのだろう。


 ローディー仕事はとにかく待ち時間が非常に多い。スタジオの作業にもよるが一度レコーディングがスタートしてしまえば、スタジオ外のロビーでレコーディングの終了まで延々と待つしかなく、それがこの仕事の宿命である。ある意味待っているのが仕事とも言えた。この時間をどのように過ごすかはそれぞれに違う。今振りかえるとちょっと時間の使い方を無駄にしていた部分があったと残念に思っている。

大村氏がアレンジ仕事などを受けていた場合、彼が呼ぶスタジオミュージシャンは概ねメンバーが固定されていたので必然的に彼らのローディー達もとも親しくなっていった。
当時ドラムスは2013年12月3日に残念ながら故人となった青山純氏、山木秀夫氏、村上(ポンタ)秀一氏、ベースは富倉安生氏か高水(大仏)健二氏、キーボード(SAX)は中村哲氏という面々だった。
彼らには一部の人を除き全員個人雇いのローディーがおり、私と同じように身の回りの世話をしていた。一緒に過ごしている時間も長いので自然と彼らと色々な話しをする事になるのだが、多くは私のようにミュージシャンになるための夢を持っており、少しでも実際の現場に近づき仮にチャンスがあったら自分のデモ音源なんかをディレクターに渡して夢の実現を計りたいと考えて連中が殆どだった。

それ故ロビーではみんな楽器の練習をしたり色々な情報を交換している者が多かった。中にはその日の仕事で使っている譜面を見ながらレコーディング中の曲を聞いて演奏をコピーできるか確かめている奴もいたが、私を含め、概ね優れた才能を持ったヤツは居なかったと思う。

実際に彼らの中で音楽業界に一時的にでも残って活躍していた人物は、青山さんのローディーをやっていた米原君だけだったと思う。
彼は1980年代の後半の一時期、平山みきさんのバックでドラムを叩いていたからだ。彼の演奏はその昔六本木の龍土町にあった「インクスティック六本木」での平山みきさんのライブで見た。ある意味で出世頭だったともいえる。
ただ、当時の彼の演奏は正直プロとしてやるにはギリギリの感じだった。ライブを見て気になった点は、
彼はタムを回す時にリズムがキープ出来ない癖があったのでそればかりが気になってしまった。
彼が今何をしているかは不明だが、彼のことだから元気でいるだろう。


昨今、アニメーターの低賃金が話題になっている。彼らの平均年収は110万円程度だそうだ。NHKのクローズアップ現代での特集を見ていると、25歳のアニメーターが、「少なくともこの道は自分の判断で決めてやっているます。好きな仕事なので、出来れば一生やれたらと思ってますが、不安がある事は事実です」と回答していた。
「好きの搾取」と言われるこの現象は、古くは音楽業界だって映画業界だった同じようにあったし、今でもあるのだろう。
私もボーヤをやっていた時代、アニメーター氏と同じ様な考えが根底にあった。
しかし、50歳を過ぎた私が見て来た経験で言えば、現代において音楽業界を目指すためにボーヤをやるのは決して賢い選択ではなく、出来れば絶対に避けておいた方が良いという点と、アニメ業界で低賃金アニメーターを幾ら経験しても、ステップアップするためにキャリアになりにくいという点で、早くそこから抜け出す糸口を見つけないと人生を棒に振る可能性が高いだろうという点だ。
音楽業界だけに絞って言えば、現代において完全なる斜陽産業だ。
特にレコード会社に未来は全くない。ミュージシャンとして一生生活を維持できる才能を持った人がこれからも出るだろうが、昔に比べて音楽家として全人生を全う出来る確率は確実に下がっていると見ていい。
既に多くの才能が出現し、加えてAIが曲を書き始めており、人間と遜色のない曲を書くもの時間の問題だろう。そうなった時に人間のミュージシャンに残されたスキルとは演奏、もしくは歌唱が主体になると想像できる。
ライブエンタ関係も会場の数が決まっているため、日本市場が飽和しており、今後大きな成長の見込みがないので、新規参入しても得られる果実が少ない可能性が高い。日本に生きていると余り感じないだろうが、特に中国市場は拡大しており、中国のタレントやミュージシャンが得ているギャラは、日本の1桁、2桁違うのだ。日本はまだ1.2億人の市場がありそこそこ食えるのでそういう事実に疎いが、数十年単位で見れば、日本市場はトップの才能を維持・処遇出来ないほどになるのは時間の問題なのだ。
そういう業界は新しい才能が入り難く、新陳代謝が悪くなるため、悪循環を起こすだろう。多少希望があるとすれば、中国市場への進出位だろうか? しかし中国進出は才能だけでは無理で人脈面で工夫をしないと難しい。

いずれにしても今後の音楽業界は、間口が狭くなり、従って良い才能が見つかる確率が下がり、極度に低迷するだろうと思う。昨今はヒット曲が何かすら話題にならないし、アイドル系とアニメ系辺りしかオリコンの上位を占めない時代であり、もはや音楽産業は多様性を失っていると思っていいだろう。

P1070190-2.jpg
写真上下:元PITINNと六ソのあったビルの後の様子。
写真上の右手のエレベーターは当時の位置の再建されているようだ。
20121月撮影。


P1070191-2.jpg

写真はビル直ぐ横の道。
左手奥にあったスタジオの駐車場はビルの一部になっている。
当時、右手手前は高級ディスコだったはずだ。


私がボーヤ家業を始めようと思っていた1983年2月8日、70年代を席巻したTHE CARPENTERSVOCALであったカレン・カーペンター(Karen Carpenter)が拒食によって死亡するというニュースが飛び込む。天使のような歌声は私の青春を彩ったが、32歳という若さだった。もう過ぎ還暦の私からすると、何たる若さで素晴らしい才能が天に召されてしまったのかと打ちのめされる。
Fridayという写真週刊誌に掲載されていたガリガリの彼女の写真は心に突き刺さった。何が彼女を追いこんだのか? 分からない。

そう言えば、私が中学時代に自分の小遣いで最初に買った洋楽アルバムは彼等の5枚目のアルバム「NOW AND THEN」だった。あのジャケットは長岡秀星氏という日本人デザイナーが描いたスーパーリアリズムという手法の絵画だった。当時はあれが絵だなんて信じられなかった。
描かれていたカレンとリチャードは車(フェラーリ)に乗っており、背景に白い二階建ての家が描かれていたが、その家が当時のカーペンターファミリーの実家だったという話はかなり後になって知る。現在この家は別の人物が所有しているというが、外見はそのままのようだ。(以下の写真参考)
1997
年だったか、私がL.Aに一人で旅行に行った際、70年代にカーペンターズのツアー時のバックコーラスをやっていたアメリカ人の知り合いが、キャピタルレコード内のスタジオに連れて行ってくれて、レコーディング中のリチャードと引き合わせてくれた。見知らぬ私にもキチンと対応してくれたことでちょっとした感激の一瞬だった。
カーペンターズには80年代の波は来なかった。あの才能も彼も時代の波にのまれてしまったと言っていいのかもしれない。

Now and then.jpg

                  NOW AND THEN



Karen Carpenter.jpg
 
THE CARPENTERS
LeftKaren RightRichard)



(つづく)
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Log

こんにちは。宜しくお願い致します。ギターの杉本喜代志さんは御存命ですよ。病気療養の時期もありましたが、2020年に復活ライブを行っています。どなたかと間違えていませんか? 2017年死去と言う根拠が分かりません。
by Log (2021-04-23 07:24) 

コロン

大変に失礼致しました。別の方と勘違いしておりました。関連部分を削除いたしました。ご指摘、ありがとうございました。
by コロン (2021-05-25 11:07) 

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