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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-9 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

1983年11月~12月:
人事と神戸チキンジョージ
 
       

 以前のブログ(1983~84年 ローディー時代の景色 Part-7)でも書いたのだが、記録によると私はT氏(マネージャー)から11/17に2度目の解雇予告を受けている。最初の解雇予告が7月だからそれから約3-4ヶ月程度経過した時期だ。2回も解雇予告されている事実を見ると、当時の私は随分とトンマな人間だったようだ。

当時の私の日記には、この時のやり取りが「最後通牒」と書いてあるので、この時はかなりハッキリ言われたはずだ。しかし結論を言えば私は解雇されなかった。それはPart-10に記載する件と関係しているのでそちらに譲る。


この年の12月の仕事納めの時期、神戸のライブ仕事から戻り、T氏から憲司さんのギターを富ヶ谷の自宅に保管のために入れる作業をすることになった際、富ヶ谷のマンション前で落ち合ったのだが、その際にも念を押されるように解雇の話をされた。
ただ当面後任が見つかるまではやって欲しいというような曖昧な趣旨を聞かされた事実があるので、”クビは切るが後任が来るまではお前でいいやって”いう適当な感じの印象がある。
つまりこの時点で私の後釜は見つかっていなかったと推察される。それでも解雇予告を受けていたのは私の仕事ぶりが余程レベルに達していなかったのだろう。
当時の私は雇用上の立場も弱く、”分かりました・・・”としか言えなかった。今にして思えば随分な予告だな・・と思うが、当時はそう思っても言えない感じだった。人事権者はいつも強者側なのだ。
おまけに私はそもそも雇用直後には使えないという評価をされていた人間だ。

私はその後、様々な人生経験をして、一部上場会社で管理職とかやり始めるようになってから理解出来たことは、当時のT氏がマネージメントをする地位者としての所作や考え方について、合理的な訓練を受けてなかったのだろうと思われる節があったという点だ。
音楽業界はこうした部分について現在でも原始的な業界なので、特に彼だけの問題ではないのだが、当時とは言え、非常に残念な点であった。

そういう意味では体育会系の監督・コーチ連中も似ている。訓練を受けていない人間がマネージメントを経験するのは組織として結構リスクなのだ。

2013年初頭になって体育会系コーチ連中の体罰問題がにわかに勃発したが、根幹的原因はマネージメント、コーチングの基本的教育を受けていない連中が成功体験や見よう見まねの手慣れでマネージメントをやっているからに他ならない。
2018年に日大のアメフト部による不正プレーに関して監督、コーチが責任を取る事態になったが、彼らはマネージメントとして全く「教育」を受けてこなかったのだろうが、意外とそういう人材は多いのが実態だ。

音楽業界も体育会系も実は似たような部分があり、それは現在でもまかり通っている。つまり未だに原始的手法を受け次いでいる部分があるのだ。
マネージメントになるためには、特に免許は不要だが、自分の経験でも一定のマネージメント研修を受けた方が無難だとは思う。アーティストマネージメントであっても、部下へのマネージメントであっても定型的に押さえるべき部分はあり、こうした教育があれば随分と方法論も変わったのではなかっただろうかと思う。

当時の私の仕事ぶりがT氏や憲司さんから見ていてこの上なく不十分だったというのも事実なのだろう。私の”頑張っています”は個人的主観の問題で、客観的評価は「クビ」だった訳で、その点については申し訳ないという気持ちだし、致し方ないと思っている。
加えて私も若くて相当至らない人間だったことは否定のしようがない。
ただ、当時の音楽業界の体質が体育会系で封建的だっとしても、人事系の話は軽々しく扱うものではないのはどの分野でも当然なはずだ。
ボーヤは確かに取り替え易い職種だ。
当時は私の代わりも沢山いた。
テレビ業界のADにも匹敵する下級労働階層だからだ。(今のADは中々成り手が居ないので以前よりは大事に扱われているようだが・・)

私は後年(40才頃)になって、とあるオーナー会社系の音楽事務所から、不当とも言える人事判断によって辞職を余儀なくされるが(直接の原因は、CDジャケットの文字校正ミスで印刷代がかさんだことが理由)、こうした経験から人事を軽く扱う人間や組織にはトラウマや不信感がある。そのため私も人事をしなければならない場合、様々な面で気をつけるようには心がけてはいる。

こうした経緯が私の後々の様々判断や対応に影響をした部分があるのは言うまでもない。仕事上、誰かが辞めなればならない事情が厳然としてことは致し方ない事ではあるが、そうであるならそれ相当の説明や対応をすべきなのが雇用側の最低限度の節度であり責任であると思う。


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「神戸チキンジョージ」の思い出。

チキンジョージ.jpg

震災の影響で当時とは場所が違うある。
当時は壁に落書きのようなペインティングはなかった。
現在でも様々な場所で落書きペインティングが見られるが、
書くにも見るにも値しないレベルが殆どだ。


12月憲司さんが神戸の名門ライブハウス「チキンジョージ」でワンマンライブをやることが明らかになり、リハが進む中、スケジュールも出る。「チキンジョージ」は生田神社の隣のビルの2階にあった。
1995年1月の震災の影響でビルが倒壊し、移転を余儀なくされたと聞いている。当時の「チキンジョージ」は、ビルの地下にキャバレーがあり、ミュージシャンやスタッフの楽屋がホステスさんと同じフロアーにあった。(それでもメンバー楽屋は別途あったと思うが・・)

ホステスさんの楽屋もライブハウス関係者の楽屋も同じ広さで、通路に沿って3畳程度の部屋がズラッと長屋のように並んでいた。楽屋の通路からは地下1Fのキャバレーの店内がまる見えで、下を覗くと酔っ払ったおっさん達がホステスさんのオッパイを揉んでいるという感じだった。
我々の行った日はクリスマスイヴだったので、三角の帽子を被ったおっさんとホステスが入り乱れており、私は”周囲は楽しそうでなんだかなあ・・”という感じで仕事に向かった記憶がある。この年は、山下達郎さんのクリスマスイブという曲が入ったアルバム「Melodies」が発売になった年なのだが、クリスマスイブが世間の定番になるのは5年後だ。

「チキンジョージ」は夕食に楽屋メシが出るのだが、これがとても旨かった。猥雑な環境やチキンライスなど、一度しか訪れなかった場所だがとても思い出深い場所だった。


チキンジョージ楽屋メシ-1.jpg

楽屋メシのイメージ
ざっくりとした感じだったが、
有りがたい夕食だった。



 
 

(1983年11月)

11月1日:憲司さんのソロアルバム「外人天国」が発売日。
13時~14時、六本木ソニースタジオロビーにて。(取材?)。
14時~24時、Bstで作業。アーティスト不明。


11月2日:
13時~15時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。
17時~18時30分、教授のサウンドストリート(NHK FM)にゲスト出演。
この時の放送は
1983年11月29日にON AIRされたようだ。YOU TUBEで探すと当時の音源が聴ける。
19時~24時、六本木ソニースタジオ、Bstで作業。アーティスト不明(多分岩崎雄一氏のアルバム?)。


11月4日:
13時~24時、六本木ソニースタジオBstでミックス作業。
アーティスト不明(岩崎雄一氏?)。


11月5日:
14時~、太平スタジオでFM東京の番組出演。
18時~24時、六本木ソニースタジオBstでミックス作業。
アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。


11月9日:
18時~24時、信濃町ソニー「S」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月11日:
18時~24時、信濃町ソニー「S」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月12日:12時~17時30分、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月14日:18時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月17日:Tさんより雇用についての最後通牒を受ける。どうやら年内一杯だろう。


11月18日:18時~24時、六本木ソニースタジオAstでリズム。岩崎雄一氏のアルバム。


11月19日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstでリズム。大江千里氏。
18時~24時、Bstでダビング。


11月21日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月22日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月24日:
19時30分~24時、六本木ソニースタジオAstでリズムの録音作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月25日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏。


11月26日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstでリズム。大江千里氏。
19時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月28日:
12時~18時、六本木ソニースタジオBstでリズム。大江千里氏。
19時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月29日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月30日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


(追記コメント)

先日このブログに岩崎雄一氏ご本人からコメントが寄せられておりました。facebookを調べて見ると現在北海道に在住で音楽活動をしていらっしゃるようでした。とても懐かしい気持ちになりました。岩崎さんは私を記憶していないと思いますが、当時のレコーディングについては記憶が鮮明のようでした。
もう30年を超える時代を経てのネット経由の袖摺りあうも他生の縁にほっこり致しました。


 

(1983年12月)

12月1日:
19時~24時、六本木ソニースタジオAstでリズム作業。岩崎雄一氏のアルバム。


12月2日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstでリズム作業。岩崎雄一氏のアルバム。
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。大江千里氏。


12月2日:
12時~18時、六本木ソニースタジオでダビング作業。大江千里氏。


12月6日:
19時~24時、六本木ソニースタジオAstで作業。アーティスト不明。


12月7日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstで作業。アーティスト不明。


12月8日:
18時30分~24時、六本木ソニースタジオAstで作業。岩崎雄一氏のアルバム。


12月9日:
12時~18時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。大江千里氏。
18時30分~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


12月12日:
12時~18時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


12月13日:
18時30分~24時、六本木ソニースタジオで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏。


12月14日:
18時30分~24時、六本木ソニースタジオで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏


12月15日:
13時~24時、六本木ソニースタジオAstで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏


12月16日:
13時~24時、六本木ソニースタジオBstで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏


12月17日から22日昼まで憲司さん一家は神戸へ帰省。

12月22日:
18時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。
多分この日は本番最後のリハだったのでゲネプロをしたはずだ。約二ヶ月に渡って断続的に行ったリハはこの日が最後となる。アルバム発売に連動したライブは神戸のチキンジョージでの1度のみとなる。

ちなみにこの日はかつて憲司さんも参加していたYMOが武道館で散開ライブの日と重なる。
私は間接的に教授の事務所であるヨロシタ・ミュージックと関わりがあったが、YMOの最初の現役時代には、一度もライブを見ることがなかった。
また当時の私の立場や金銭状況やスケジュールでは、なかなか行きたいライブを見る事はままならなかった。20代でコンスタントに行っていたのは山下達郎さんだけだった。(それから38年余りたっても同じだが・・・)

あと、私のぼんやりした記憶では、1983年の12月に赤坂のTAMCOスタジオでレコーディングがあったと記憶している。ジューシーフルーツのレコーディングだったと思う。この記憶は後にメンバーでギター担当の柴矢敏彦氏と知り合ってから確認できている。
何故記憶が鮮明かと言うと、彼らはレコーディングの途中でTBSのザ・ベストテン年末特番の生出演で抜けたからだ。
またこのスタジオには岩崎雄一さんもいらっしゃった記憶がある。ジューシーの作業後に岩崎さんの録音作業があったのかもしれないが、何故か正確な記録が見つからず正しい日時を特定出来なかった。

尚、ジューシーのギターの柴矢さんはその後作曲家として数々のヒット作を生んだ。私とはサザンのライブ音源の製作の仕事の縁でお付き合いが始まり、その後は約10年ほどお付き合いが続く。
柴矢さんは2000年代になって「さかなさかなさかな~」というあの曲をヒットさせる。ちなみに唄っていたのは彼の奥さんで紅白にも出場をなさった。
(余談でした)



12月23日:
東京を午後に出発して、陸路で神戸へ移動。楽器車には山添氏、大井氏が同乗。
深夜23時30分に神戸チキンジョージに到着。予定よりちょっと遅れて到着。深夜だったため前日搬入は出来ず、諦めてそのままビジネスホテルにチェックイン。私にとって初めてのキャランバンという車で長距離を移動をしたライブだった。

12月24日:
憲司バンド、伝説のライブハウス、神戸チキンジョージにてライブ。メンバーは、憲司さんとドラムが(故)青山純氏、ベースが富倉安生氏、キーボードが中村哲氏の4名編成。
私はステージ上手で見守るが、演奏中に機材トラブルはなかったのでホッとした。お客さんは100~120名程度だったろうか?
ライブの仔細な内容の記憶は薄いが、外人天国のプロモライブだったため、アルバム中心の構成だったはずだ。

ライブ終焉後、何が理由かは忘れたが、マネージャーのT氏が我々が搬出&積み込み作業がモタモタしているように見えたのか、急に怒鳴り始める。楽器担当の山添氏や大井氏などは「怒鳴る位なら一緒に手伝えよ!・・・」とつぶやいていたが、慌ただしい中だったのでグっと堪えて誰もそれを口にしなかった。
そもそも彼が急に怒鳴った理由は未だに不明だが、楽器搬出を確認してからメンバーの打ち上げに出ようと考えていたT氏が、自分のイメージよりも搬出が遅くなっていた点で勝手にイライラしていたのかもしれない。

彼の立場を推察すると、正に進行中のメンバーとの打ち上げの席を仕切る人間が自分以外に居ないため、ミュージシャンを放置して迷惑をかけていると思ったのであろう。彼はそういう部分に責任感が強かったからだ。
また、同時に搬出についても責任をもって見守ってから、出来るだけ早く打ち上げ会場に行きたかったのだろう。でも体は一つしかない。責任感が強い彼は両方をキチンとしたかったに違いない。それはそれで理解できる。
しかしこれがイメージ通りに成立しない可能性まで予測して、一定の配慮をしていれば、他の方法論を取る事だって出来たのだ。
この問題の解決法は簡単だ。T氏が搬出作業に立ち会う必要がそもそもなかったのだ。山添さんという信頼できる楽器担当の人間が居たからだ。
マネージャーの彼として優先すべきはミュージシャンの打ち上げ現場の方で、それはその現場を仕切る人間がT氏以外に出来る人間はいないからだ。
今回のスタッフは楽器3名とマネージャー1名だ。役割分担は明確だ。

搬出仕事は現場作業がコナレテいる山添氏に全て一任して、作業終了後に打ち上げ会場に公衆電話から(当時は携帯電話なんてモノが一般に普及してない時代)打ち上げ先の店に電話を入れて報告するようにすれば実務上全く問題ない。
そもそもT氏は搬出を一切手伝っていないのだから実務上は確認作業以外には彼が実務的には役に立つ部分はないのだ。

翌日の達郎さんのライブに参加するメンバーもいたので、楽器の事が多少気になっていたのかもしれないが、気持ちの問題はともかくいち早く打ち上げ会場に行く選択をするべきだった。
T氏の気持ちの部分は100%理解できるが、仕事の組み立て方を考えればこの方法が合理的で彼もイライラせず、我々も平和に搬出が出来て全て丸く収まっていただろう。マネージャーとはそういう事を予め組み立て実践する仕事を言う。

なんとか楽器を積み込んだ後、楽器担当チーム3名は、近所のお握り屋さんに入って楽器チームだけの非常に簡単な打ち上げをする。何を食べたのか、話したのか全く覚えていないがこれから運転する身で酒も飲めず食事だけで済ませた。
話ていた内容は、先ほどT氏から怒鳴れた事だったかもしれない。

機材担当の3名は、
翌日の12月25日の朝9時までに東京・中野サンプラザホールにドラムスとキーボードのメンバー機材を届けなければならなかったので、そのまま深夜に神戸を出発し徹夜で移動した。朝からセッティングを開始し、ライブ終了して寝ないでトランポまで行為は、当時も今でも完全に労働基準法違反だが、そんな事は誰も気にしてやっていなかった。
とにかくキーボードの中村哲氏とドラムの青山純氏が当時ツアー中の山下達郎氏のバンドメンバーだったから楽器を安全に届けなけば達郎さんのライブが出来ない。人様に迷惑はかけられないのだ。


深夜の高速道路を交代で運転しながら走った私たちは、なんとか中野サンプラの機材入り時間に間に合い、楽器を先方のクルーに渡し、無事業務を終える。
達郎さんの現場の現場担当のマネージャー(松本君って言ったっけな・・)から当日の達郎さんのチケットを手渡しで売ってもらい、一旦自宅に戻って仮眠をし、夜はサンプラザに戻り、達郎さんのライブを見ている。1984年だからFor Youの時代の達郎さんだったはずだ。
当時の私は、ワーキングポアだったので、かなり金は無かったはずだが、達郎さんだけはキチンと見ていたようだ。(それから35年以上経った今でも全く同じであるが・・・)。


前述したが、年末になって、憲司さんのギターを自宅に保管させて置くためT氏と合った。この時玄関先で、再度T氏より最後通牒のような解雇予告をもらった。私は暗い気持ちになった。
当時の自分の日記を読むと、”もっと頑張れるはずだ”と自分に言い聞かせ、”辞めるまでは必死に頑張ろう”と書いてあった。
不安の中で前向きに考えようとしていたらしいが、年末の空気が重いものだった事は確かだ。
しかし、彼からのしつこい解雇通告があったのにも関わらず、結局解雇されなかった。理由は次回に記述する事とする。

追伸:

大江千里氏はデビュー後しばらく売れなくて悩んでいたと聞いた。私が渋谷のパルコでバイトしていた時代に一度店舗前を通り過ぎ、声をかけた事があった。当時はまだ目が出ておらず、ちょっと元気が無かった。しかしその数年後、彼はブレークし、清水信之氏のプロデュースを受けた80年代中期~後期を担うミュージシャンになった。その彼は現在JAZZピアニストに自分の人生の指針を向けて活躍しているようだ。2000年代初頭、FMラジオのイベントで一緒になった事があったが、それ以来会う事も無くなった。時折彼の活動を見聞きするが、音楽に接した事はない。


つづく


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コメント 3

岩崎雄一

とても懐かしい話でした。
とてもよく覚えています
by 岩崎雄一 (2013-02-04 00:21) 

ギターショップGS

大変貴重なお話でした。
by ギターショップGS (2021-08-06 13:48) 

コロン

恐縮様です。
by コロン (2021-08-19 11:25) 

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