SSブログ

1983年2月 ローディー時代の景色 Part-4 (再改訂版) [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:生活問題編

大村憲司セット1983-2.jpg


上図は1983年3月当時の大村憲司氏のギター・セッティング図だ。実はその後このシステムは83年中盤以降もう少し改善されるが、改定されたバージョンは下の写真だ。写真は接続等の情報保存のために当時撮影したものだ。
残念ながらブラックボックス内は、専門家による配線等が処理されており、どんなシステムかを図解出来る能力がなく悪しからずだ。



1983年3月当時に使用していた信号分岐ボックスは、ROLAND製の青い色のものだったが製品型番は忘れた。今にして思うとあの分岐ボックスは音質に対して良い影響を与えていなかったと思うが、当時は全く知識がないのでそんな心配も対応もして上げられなかった。
ヴォリューム・ペダルも製品型番を失念した。
ギターアンプはこの型番で合っている。
引継ぎ当時は何の事やらさっぱりだったが、今にして思うとシンプルな配線だと分かる。一時期憲司さんがアンプの左右のバランスをかなり気にする時期があったが、事務所でこうした点に詳しい人間にも解明ができなかった。きっと憲司さんにしか分からないほど微妙な違和感だったのかもしれない。

いずれにしても、私の能力では各機器の本当の中身に関して100%把握する能力はなかった。
機材についてちょっとコメントすると、ROLANDのSDE-2000は国産初のデジタルディレイだ。それ以前はアナログ・ディレイ(YAMAHA製品)しかなく、遅延時間を任意に設定できなかったので、このディレイマシンの登場は革命的で大幅な進歩だった。
この機械では1mm sec単位で遅延時間の設定が出来た。またROLAND 320 DEMENSION-Dは、アナログ回路で作られたコーラスイフェクターだ。4つのモードを持っていてモードの組み合わせが可能だった。2012年にまでなるとアプリになってしまったが・・・。

EFFECTORS_S.JPG 


1983年後半~1984年にかけてアップデートしたイフェクター類。
各イフェクターの接続組み合わせをスイッチングによって出来るように改造。
また右下の「DELAY&CHORUS」のスイッチは、
ROLANDのSDE-2000とDEMENSIONのON&OFFに対応したもの。

--------------------------------
 


 レコーディング時の仕事と言えば、レコーディング前に楽器セッティングをし、ミュージシャンの周辺関係を仕事のしやすいようにする事や、ギター担当なら弦の交換(憲司さんはスーパースリンキーだった)、またミュージシャンのタバコ(憲司さんはセーラムライトのメンソールだった)を買いに行ったり、食事の際にお茶を出したりといった程度である。指示があれば、楽器のメインテナンスを外部業者に出すためのお使いも含まれる。ミュージシャンにOFF(休み)がある場合、コンサートなどを見る場合などは会場まで送ったりすることもある。
業務時間は昼前~深夜もしくは早朝にかけてで、スタジオ業務が終わり、ミュージシャンを安全に自宅まで送り届けるまでが1日の仕事である。

ローディー仲間の殆どは当時月給
5~6万円程度で雇われていたと記憶している。こうした同僚(?)で共通して困っていたのが「風呂」と「食事」の問題だ。
当時私は風呂付きの家に住んでおらず、また労働が深夜に及ぶのに加えて肉体労働であったため夏なんかは汗をかくために非常に困った。
今の人には信じられないだろうが、当時の私の家には個人電話がなく大家さんからの取次だった。またクーラーなんていう文明の利器などは一般的な賃貸アパートには常設されていない時代だった。そういう意味で、風呂なしの私の家は、特に夏場辛い訳なのだ。

現在は無くなってしまったのだが、渋谷の神泉町交差点近くで、現在の株式会社YUSEN(有線)の本社ビルがある辺りに深夜1230までやっている風呂屋があったが、仕事柄、この風呂屋の閉店時間にさえ間に合わない事が多く「風呂」の問題は大きな生活上・精神上の問題となっていた。
解決方法としては自宅の流し台でお湯を沸かして体を拭く程度で済ますか、近所に住んでいる風呂付の友人宅にお願いする方法しかなく、今考えるとよくこの環境で仕事が続いたと思う。若かったんだなあ・・という感じだ。
それだけ音楽業界での生活を続けることへの意思が強かったのだろう。ちなみにドラマーの故・青山純さんのローディーは、彼の自宅の風呂を借りて汗を流す事が出来ていたそうなので、ローディーの境遇としてはかなり親切にされていたようだ。


 次に大きかった問題は「食事」だった。
これまた今の若い人にはちょっと考えられないだろうが、
1983年当時、まだコンビニという便利な代物が東京都内に一般的にはない時代だった。(セブンイレブンは開業していたが都内でもかなり遠隔地的なところだった。
当然だが、当時は携帯もネットもないし、Eメールは専用の高額端末のみでしか送受信出来なかった。
また日常の職場が六本木という、当時の私のような低所得層の人間が毎日の食事をするには余りにもかけ離れた土地柄だったことが生活を維持するのに重くのしかかった。


通常昼メシは自衛のために自宅で米を炊いてオニギリなんかを作って出かけていたが、夏の場合、夕食を作って持参しても食事時まで品質が持たない事がままあった。

今でも忘れられないエピソードがある。六ソで19時からのセッションのセッティングが終わったが、機材トラブルが多発してなかなか夕食を取る事が出来ず、そのため食べる頃になって取り出した夕食の弁当が腐ってしまっていたために、残念ながら泣く泣くスタジオのゴミ箱に捨てた事があった。当然その日は夕食抜きになった。

それを見て「何やってんだ・・」とつぶやき、馬鹿にしたような薄笑いして私を見たある人物、そう、マネージャーのT氏の顔は今でも忘れられない。
食い物の恨みは本当に恐ろしいものというがその通りだと思う。
それ以来私は、その教訓を生かして金の無い若者には自分の出来うる範囲の中で奢るようにしている。
食い物で恨みを買わない方がいい。
一生記憶に残る。
私にはその位印象が強い出来事だった。
あのシーンは今でも脳裏に焼き付いている。本来は誰のせいでもないのだが、食い物にまつわる悲しい記憶は永遠と残るものだ。

当時の六ソに常設してあった配達可能なメニューは、一番安いメニューでも「焼き鳥弁当」
850円だった。確か「鳥源」という店だっただろうか。
今でも存在するこの店のメニューをこの年齢(50歳過ぎ)になって改めて見ると、結構リーズナブルに見えるが、当時の私には全く手が届く感じがしなかった。
またこの弁当は
20代前半の私の腹を満たしてくれるような量ではなく、ご飯の量は食べざかりの私には余りにも僅かな感じであり、殆ど飲み屋の締め程度のような代物だった。

当時の六本木界隈できちんとした夕食にありつくためには
1,200円以上(2010年代に直すと2000円以上の感じ)を払わないと賄えず、六ソでの夕食対応は常に頭痛の種だった。
スタジオには店屋物のメニューが常設されているが、特に驚いたのでは麻布十番の登龍という中華料理屋で、当時、普通のラーメンが1杯で
1,200円だったことだろう。(現在は1,800円) 
田舎者の私には想像もつかない金額だった。いつかリベンジで食べに行きたいレストランでもあるが、今でも1800円のラーメンは躊躇する代物だが、別に今更醤油ラーメンを1800円出して食べたいとは思わなくなった。どうせ場所代がコストに厚くのっているだけで中身が良くなっている訳でもなさそうだからだ。

登龍麻布十番店
 

 通常ミュージシャンたちは夕食には出前の弁当などを頼んでいたが、11,0001,500円が当たり前で、1日で1,000円の食費・生活予算しかない私には高値の華であった。
毎日彼らにお茶を出しながら彼らの食事を羨ましく感じたものである。未だにその記憶があるというのは、前述したように食い物の記憶の恐ろしさを如実に表しているのかもしれない。

現在の自分の夕食が
1食当たり1,000円を超える事はザラになったが、毎食その値段を支払う時、当時の事を思い出し、仕事や地位の違いもあるが、当時と隔世の感があるなあ・・とサメザメと思ったりするのである。ありがたいことである。

加えて当時の私の経済レベルでは、スタジオの自販機の100円で売っていた缶コーヒー(確かUCCだった)すら1日の何時の時点で買うべきかを本気で悩んでさえいた。これは周囲のローディー連中に共通していた悩みだ。当時の私の収入では11本が購入限度だった。

UCC.jpg


昼の搬入&セッティング直後にコーヒーを買って飲むと夜は買えなくなってしまう。搬入後は喉も乾いていて飲みたいが、我慢をしてスタジオの洗面所の水をがぶ飲みして凌いでいた記憶がある。
現代ならコンビニやファーストフードの充実で対処方法も様々だろうが、当時は本当に困っていた。
他人がこれを読むとどんだけ貧乏なんだと思うかもしれないし、人によっては給料の批判をしているのか??と取るかもしれない。
でも給料に不満を持った事は全然無かった。だいたい私はボーヤの中では結構もらっていた方だったのだ。

また、これを見て、凄いストイックだと感じる人もいるだろう。
当時は確かに生活がキツかったが、不思議の悲観的な思いで毎日を過ごしていた訳ではなったし、結構明るい毎日だった。
「夢を持つ」という麻薬はそれだけ強かったのだろうし、周囲のボーヤ連中も似た様な境遇であるか、私より苦労していたので相対的に平気だったとも言える。それでも50過ぎた今でも時折缶コーヒを買う際に当時の記憶がフラッシュバックする。

私が憲司さん宅に迎えに行くと、駐車場で待っている時間が長い時など奥様がコーヒーの差し入れをして頂くなどの気を使った頂いていた。こうした例は頻繁にあった訳ではないが、今でも心に染みて有難い記憶でございます。



(参考資料)

1983
年当時の家計簿:祖師谷大蔵3丁目に住んでいた時の私の経済状況:

月収入(税込):
7万円

---------

支出:アパート代25.000
食費:30.000円(1日1,000円見当)
光熱費(電気・ガス・水道):4.000
電話:なし(大家さんの取次ぎ)→今時の人にはこれが全然理解出来ないらしいが・・。
風呂代等:4.000円位(180×日数)
ローン(TEAC4chのテープレコーダー):月額7.000円×男の36回払いを返済中。
お小遣いもしくは貯金:殆どなし(貯金は五万円も無かっただろう)

支出総額:7万円(つまり全額支出)

-------------


 ちなみに厚生労働省の公表値による1983年の平均的なサラリーマンの年収は3,380,900円とある。当時の大学卒者の平均月収は132,200円。私の当時の月収は同じ大卒者平均の52%程度だったということだ。
2016年のレベルで比較すると学卒者の平均月収は202,900円らしいので、現代に換算すると105,500円位ということだ。年収計算でも126万円程度だから、現代においても完全な低所得者層だ。

誤解のなきように書いておきたいのだが、当時の私がもらっていた給与に不満をぶつけるために書いてい
るのではない。私はこの環境を自分で選択して仕事をしていたし、この条件で仕事を引き受けてもいた。
また、当時の自分が特に低所得者層だとも認識していなかった。月額7万円は学生時代の仕送りと同程度だったし、学生時代と同じ程度ならそれなりに生活することが出来たからだ。

また幸いなことに、携帯電話もネットもない時代だった。今の時代だったら悩ましい部分が多いかもしれない。
実際私の自宅には固定電話すらもなかった。部屋にはトイレだけはあるが、風呂はない。金銭的には豊かではなかったが、経済面を理由に精神的に追い詰められていた事は一度もない。

それでも今にして思えばよく耐えてたなー!!と思う。

でも当時の自分にはこれが普通だったし、私の友人たちもこれに毛の生えた程度だったというのも事実だ。

だた貯蓄はままならず、六本木のスタジオでの仕事の際の夕食問題は私にとって大変な悩みのタネだった。それでも若さ故なのか夢を見ていたからだろうが、必死に毎日を生きていたように思う。

私が世間並に近く収入を得られるようになったのは、20代後半のヨロシタミュージックで働くようになってからだった。(それでも同年代平均よりは下の収入だったが・・・)。
長時間労働だったこともあり、当時の金額で月額15~17万円近くもらっていた。元々月7万円の生活しかしていなかったため、当時の私にとって15万円というのは収入が二倍になったことを意味し、途方もない高給をもらっている感じで生きていた。
そのお蔭で26歳になってやっと風呂付のアパートに引っ越せた。(世田谷区宮坂三丁目)。

お風呂が付いてあんなにうれしい事はなかったな・・・。冬のボーナスが出た時は、ビクターのS-VHSビデオデッキも買ったのだが、あれは27歳頃だったかな?(そのデッキはまだ家にある)。
私はこの頃になってようやく多少の支出を楽しむ事が出来るようになったのだ。
20代前半にはとても考えられない事だった。

ボーヤ時代の一番の出費は、デモテープを作るために買った
TEAC製のマルチテープレコーダー(4チャンネル録音できる代物)の36回ローンだったが、このために月のお小遣いなんかも全くなかった。それ故にCD(レコード)とかも殆ど買えたという記憶がないし、コンサートにもなかなか行けなかった。
(山下達郎さんだけはツアーだけは毎回金を工面して行っていた)
加えて女もいないし一体全体何が楽しかったんだろうねぇと思う程である。

50歳後半になった現在、幸いな事に平均所得よりも随分と稼げるようになった事で多少取り戻した感はあるが、それでも20代~40代初頭までの総収入は、同年代の平均以下だった。
これまでのトータル収入で考えると、金銭的には中の上位で終わりそうだが、夢に向かった事に対しては後悔はない。むしろやらなかったとしたら未だにモヤモヤしていたに違いない。


さてボーヤ時代に戻ろう。

2019年3月28日、ショーケンこと萩原健一氏が逝去した。68歳だった。
この報道でフト記憶が蘇ったのだが、
私は一度だけだが
六ソでショーケンに遭遇したことがある。
まだボーヤを始めて数か月程度だったと思う。
ある日の午後、私は入口のエレベータに近いソファに私は座っていた。
直ぐそばにあったエレベータの扉が開き、出て来たのはショーケンさんだった。
一人だけで来ていた様子で、スタジオのロビーで自分の入るスタジオを確認するため、
ちょっとキョロキョロしていた。
グレー系のスリーピースを来てネクタイをしていたのを記憶している。
私は憧れのショーケンさんが目の前に居るのと、
場所が判らない様子で困っていた感じだったので、ソファーから立った。
すると彼は、突然私の方に来て、直立不動から姿勢を前方45度にして、
「あの、大変スイマセンが、トイレはどちらになりますでしょうか?」と
あの例のちょっと掠れた声のトーンで聴いてきたのだ。

ドキドキした。

 

私は「そこの階段を上って右手にございます」と答えると、
「あちらですね」と右手で指し示して歩いて行った。

あんなにカッコイイ男性を見た事が無かったので、
流石に違うなあ・・と感心していた。

私にとってのショーケンさん体験はこれだけだ。
元々ザ・テンプターズのボーカリストとしてデビューし、
音楽畑から俳優畑に転身後、太陽にほえろ、傷だらけの天使で名俳優を確立した。
私とは時代の中の袖擦り合う程度の縁だった。

会った時期を考えると、1983年11月に発売された「もう一度抱いて c/wセクシー・ロンリー・ナイト」というシングル盤の歌入れだったのだろうと推察している。

改めてご冥福をお祈りいたします。

さて、私はスタジオの仕事中、私は待機中殆ど楽器の練習をした事がなかった。その理由は初めてのレコーディング現場で見たレコーディングセッションの際に集まったスタジオミュージシャン達の演奏を目の当たりにした瞬間、自分の実力ではとってもプロになれないなと思い知らされた。彼らの演奏能力や音楽の知識はそれまで自分が生きてきて見た中で群を抜いていたのだ。

コード進行とちょっとしたキメのフレーズしか書いてないような譜面を見ながら彼らの引き出しから出される音は、当時の私の想像を越えていたのであった。それほど私にはショッキングな出来事であった。ミュージシャンを目指すための近道として選んだローディーという職業は、逆に私をミュージシャンという夢から遠ざけて行ったのだ。それでもなんとか音楽業界で生きて行きたいという夢は消えた訳では無かった。

TEAC 244_S.JPG

当時の私としての最大の買い物TEAC-244(4chレコーダー)
これで沢山デモを作ったもんだ。
しかし1曲もヒットしなかった(泣・笑)



《当時のスケジュール》

 

以下は私のスケジュール関連を書きとめた日誌の記録に基づく当時の仕事の内容である。記録は19832月から始まっている。2月は見習いのため無給で引継ぎのみ。3月~正式採用)。
尚、私の手元に残っていたスケジュールは、憲司さんの外出が伴うものだけなので、憲司さんが自宅等とアレンジや曲書きをする部分は含まれていないのでご了承ください。


 

1983年2月:

22日:
大学時代の友人、故・佐藤千恵さんと武道館にクリストファー・クロスの初来日ライブを見に行く。良いライブだった。

(佐藤千恵さんは1988年3月に逝去した。28歳だった。)


2
16日:大村氏のローディーが決まる。マネージャーのT氏の簡単な面接後、夕方憲司さんの面接がある。場所は六本木ソニースタジオのロビー。


2
17日:12時~18時、六本木ソニースタジオ、スタジオ業務内容不明。東京は大雪注意報が発令。


2
18日:12時~18時、六本木ソニーSt、憲司さんのソロ・アルバム(外人天国)作業。


2
19日:PACO(ギター販売店)と松下工房(ギターリペアー会社)を廻る。松下工房は現在でも原宿に仕事場を構えている。


2
21日:12時~19時、六本木ソニーSt(A)、石川セリさんの録音。


2
22日:12時~1830分、六本木ソニーSt(A)、石川セリさんの録音。


2
23日:12時~18時、六本木ソニーSt(A)、石川セリさんの録音。オフコースの松尾氏の楽曲でのレコーディング。


2
25日:12時~18時、六本木ソニーSt(B)、憲司さんのソロAL作業。19時~23時は(Ast)に移動。石川セリさんの録音。


2
26日:憲司さんの車を私自身で運転し、都内のスタジオの場所を確認作業。


2
28日:12時~18時、六本木ソニーSt(B)、憲司さんのソロAL作業。19時~26時、テイチクスタジオにて石川セリさん録音。
楽器車が駐車違反のキップを切られる。駐在所の警官に職業を尋ねられてローディーだと答えると、もっとまともな仕事をしなさいと余分な事を言われ、私は本気でブチ切れた。
「俺はキチンと仕事をしている! お前に言われる筋合いではない!」と警官相手に激怒する。当時の官憲はこのレベルだったと思う。
この日の帰宅は朝
5時。


1983年3月:


31日:休み。一人で稲村ヶ崎に出かける。50歳を過ぎた2011年になっても同じような行動しているので笑ってしまう。

32日:14時~18時、ポリドール(目黒区池尻)で石川セリさんの録音。19時~24時、六本木ソニーSt(A)にて大江千里氏のデビューアルバムの録音。この日は歌入れ。大江千里氏は現在JAZZピアニストで活動中と聞いている。彼も色々苦労しているのだろう。

さて、当時のポリドールのスタジオは目黒川沿いの池尻近くにあった。レコード会社の本社ビルの地下がスタジオとなっていたのだ。
ユニバーサルとの合併による青山1丁目への移転まではここにあった。私が敬愛する井上陽水さんの初期の傑作は全てここで制作されている。残念だが現在は跡形もない。
結果的にこのポリドール・スタジオでの最後の仕事は、2001年、「千と千尋の神隠し」や北野武監督関連のサントラのベスト盤(KITANO BEST)の制作だった。歴史的な音楽を作ってきた場所の消滅は寂しいものだ。実は「KITANO BEST
」のポリドールでのマスタリング作業は余りいい思い出として記憶されていない。この話は18年を過ぎた時点でもまだホット過ぎるから書けない。

私にとっては音楽業界の経歴としては終盤に関わった作品だが、
作業の進め方のコミュニケーションが久石氏との間で非常に難しい時期で混乱も多く、労多くして…という感じだった。
1つだけ個人的なエピソードを上げれば、あのCDのジャケットのアイデアは実は私である。デザイナーが当初持ち込んだアイデアは、全て久石氏に却下され担当として私は困り果てていた。そこで私が、コピー紙に油性ペンで2人の顔を半分づつ並べた絵を書いてデザイナーに「こんな感じでまとめてみらた?」と渡し、それをデザイナーがやったようにデザイン画を書き直してもら再度久石氏に提案したらそのままOKになったという訳だ。
この案を思いついたのは別に難しい話ではなく、KITANO BESTのサブタイトルはJoe Hisaishi meets Kitano Filmsだったから。2巨匠が出会っている作品として2人の顔出しは必然だった。
またジャケットは顔ほどユーザーに訴えるものはないことを私は知っていたからだ2人の顔を半分ずつ並べてみたということだ。
久石氏はこんな裏話について全く知らないが、私は仕事をスムーズに進めたいがためにやっただけで、決まる時はこんなもんなのだ。
このデザインは、顔さえ撮影できればあとはデザイン作業だけで作れてしまうから時間も金も最小限で出来る。
撮影は、天気の良い5月(だったか?)に広尾にある写真スタジオに、北野監督を招いて行われた。興味深かったのは、2人は撮影の待ち時間中、ほとんど会話をしなかったということだろう。
撮影時間は1時間もかからなかったはずだ。

もちろん私の名前でのデザイナークレジットはされてないがこれは事実である。まあ、今となってはどうでもいいことだ。


Joe Hisaishi Meets Kitano Film

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
話はローディー時代に戻る。

33日:19時~24時、六本木ソニーSt(A)にて大江千里氏の歌入れ。当時、ソニーのオーディションを勝ち抜いてデビューが決まっていた彼の姿が眩しく感じたものだ。大江千里氏のディレクターは太田裕美さんの旦那さんの小坂さん。


3
4日:12時~24時、ポリドール(目黒)3stで石川セリさんの録音。深夜130分帰宅。


3
7日:14時~21時、ポリドール(目黒)3stで石川セリさんの録音。


3
8日:15時~1830分、六本木ソニーStにてナチコの録音。1930分~24時、大江千里氏作業。深夜1230分帰宅。


3
9日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)、石川セリさんダビング作業。


3
10日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
11日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
12日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
14日:15時~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
15日:1830分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
16日:18時~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
19日:14時~18時信濃町ソニー3Stにて大江千里氏の歌入れ。1930分~24時、六本
木ソニー
St(B)にて大江千里の歌入れ。歌入れの時期は私に具体的な仕事はなく、ただ作業が終わるのをロビーでひたすら待っているという感じだ。本でも読んで知識を貯めるような頭も無かったので、この時間は無駄になったと反省している。 


3
21日:13時~、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏のミックスダウン作業。
山下達郎氏をスタジオで見かける。心の中が興奮するが冷静を装う。


3
22日:13時~、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏にEPOさんのコーラスを入れる。ミックスダウン作業は1830分から。

深夜作業が終わり、マネージャーのT氏に誘われ朝
4時から6時まで西麻布で飲む(私は憲司さんの車で移動しており飲めないので多分T氏に無理やり付き合わされたのだと思う)。
T氏は時折私をタクシー代わりにする事があったので正直辛かった。私をタクシー代わりに使っていたことは、憲司さんには内緒だった。
私の実際の雇用主はT氏(ヨロシタ)ではなく、憲司さんだった。本当は良くない事だ。
しかしヒエラルキー上、私には拒否権が無かったので付き合わざるを得なかった。
この日の帰宅は朝
7時。今考えると音楽業界人の時間感覚の異常な世界であり、これがその最初の兆候であった。今働いている会社で部下にこんな業務体系を強いたら、100%人事から突き上げられ、マネージメントから外されるなと思う。
でも当時は疑問にも思わないで働いていたし、音楽業界に人達は皆このような感じだった。この非日常的な行動様式こそが音楽業界の面白い部分でもあったのも事実なのだ。若かったな・・。


3
23日:13時~、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏のミックスダウン作業。裸のマドモアゼル、バランス、ポセイドンカレンダーの3曲。


3
24日:14時~18時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏のミックス曲のコピー作業。終了後、六本木の中華飯店にて打ち上げ。参加は大江さん、憲司さん、小坂ディレクター、船橋氏、Tマネージャー、伊藤氏(ソニーのエンジニア)、渡辺氏(ソニーのアシスタントエンジニア)。

二次会は庄屋。当然私は車の運転があり飲めないし、末席で黙って食べていた。当時はそういう立場だったのだ。

(今でも対して変わらないが・・・ 笑)



(つづく)


nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:音楽

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。