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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-2 [ボーヤ時代 1983年]

【ローディー生活の開始:1983年2月】

六ソでの面接: 

六ソ-Lobby-2.jpg

六ソこと、ソニー六本木スタジオには特別な感慨がある。
私の音楽業界人生が始まった場所であり、私が愛した大瀧詠一氏、山下達郎氏の音楽の多くはここで生まれたからだ。
閉鎖された現在は往時の姿を見る事が出来ないが、このスタジオで作られた音に刻まれていると言っていいだろう。
昨今は独り自宅でも音楽が作れるような時代だが、その影響で長年培われてきた生音の録音技術は低迷しているという。
私の感覚では50歳以下で若くなればなるほど生音の録音経験や技術は廃れていると感じている。
生楽器の録音は、一流のフロントミュージシャンやスタジオミュージシャンなどからあれこれ厳しい要求を経て鍛えられる代物だ。トッププロの要求は仔細微細で厳しいし、彼らの感覚値は我々とは違って繊細だ。
従って特に技量の高いスタジオミュージシャンが録音現場で活躍しなくなった現代、余程の例外を除いて20代や30代では往時の録音技術や演奏技量を維持出来ないだろうと思う。
同じような音をしていても、音に込められている情念やパッションは再現し難い。
またアナログ時代に蓄積された技量は世代を超えて引き継ぐのが難しい。
プロツールスがあればある程度自宅でそれらしい音が出来るような時代においては、この世代が自分たちの音を確立するしかないだろう。ただ、我々より上の先人が確立した技術や方法論はそれなりに根拠のあるものであり、こうした手法を学ぶ意識がある若いエンジニアがいれば幸いだ。

さて、1983年2月のある日(多分2月14日か15日だったような気がする)、私はヨロシタ・ミュージックのT氏(周囲は”とっつあん”と呼んでいた)との電話連絡後、面接のために東京・六本木のPIT INNと言う老舗ライブハウスが地下にあったビルの5階に入っている六本木ソニースタジオへ出向く。
このスタジオは業界内では「六ソ」と呼ばれており、山下達郎氏、大滝詠一氏などの大物ミュージシャンがヒット作品を制作した今では伝説的な場所だ。

面接の指定時間は13時だったろうか? この日は小雪の舞う寒い日であった。時間通りに現場に行き、六ソのロビーに足を踏み入れる。
広さは20畳ほどだったろうか。薄い茶系のソファーが一帯を占めていた。
プロのスタジオということでちょっと興奮気味だったかもしれない。そこで初めてマネージャーのT氏に会う。音楽業界でマネージャーをやっている人間に会うのは、はしだのりひこ氏とクニ河内氏に次いで3人目に出会う業界人だった。
(なお、はしだのりひこ氏は、2017年12月2日、72歳でご逝去された。)

多分初対面で社交的な挨拶をしたのだろうと思う。
そして私は暫くの間ロビーで1人待たされた。
様子の分からない世界だったから緊張感があったと思う。
やがてスタジオの出入口にあるエレベーターを降りてきた大村憲司氏と思われる人物が現れた。
黒いセーターに黒いズボン、また室内なのに何故か黒いマフラーをしていた彼は、T氏につぶやくような挨拶をすると、そのままBスタジオに入って行き暫く出て来なかったと思う。どの位待ったか忘れたが、やがて大村憲司氏がスタジオから現れ、ロビー入り口のゲーム機のテーブルを挟んで面接となる。(図面の左下の赤い○の位置)
彼はあまり表情を表に出さずに私の面接に望む。彼との面接では履歴書を見ながら非常に簡単な質問に答えただけだったと思う。そして大村氏は私に以下のような事を念を押すように言った。

「必ず挨拶をする(周囲を含めて)」「時間厳守」、そして待遇は1ヶ月7万円、2月末までに今のローディーが辞めるので、それまでに引き継ぐ事。
簡潔であった。
そして後をマネージャーのT氏に委ねスタジオに消えて言った。T氏は明日から来るように言い、今日は帰って良いと言われる。私は待遇を聞いてちょっと心が揺らいだ。1ヶ月7万円は前職よりもやや低い給与で、計算してみると生活を維持する上でかなりギリギリの金額でだったからだ。
実際、前職にはあった健康保険などの社会保障も全く何もない。私にとって事実上大幅な減収を意味する。
従ってそれらを勘案すれば手取りはご想像の通りなのだ。

世の中の仕組みを理解している今(60代)にして思えばこの条件を受け入れるは相当覚悟にいるものだ。
しかしとにかく音楽業界に入り込む方法として当時の私には他に選択肢が無かったので提示されたこの給与で生活設計するしかなく、腹を決めざるを得なかった。
1ヶ月7万円でも何とかなるだろうと思ったのは、大学時代は1ヶ月6万円で暮らしていたからだ。本来はこの7万円から年金等を支払ったりとせねばならないが、残念ながらとても年金は支払えないため諦め、健康保険だけは何とか支払っていた。

私の場合、収入が低いため健康保険料の支払いは最低限度で済んだ。月800円程度だったろうか。
しかし年金は金額が固定だったので支払える訳もなく、これについては前述のように支払いを諦めた。(これは後々ボディーブローのように効いてくるが当時は想像の域を出ていた。現在自分のの年金記録を見ると40代までの間、納めている期間が殆どないのは汚点とも言える。)

こういう無法者のような行為は、まだ若いが故に出来る冒険だったと言えるし、私の優先度は収入よりも音楽業界に入る方だった。
実はボーヤ仕事としては、月給7万円は高給の部類に入る。
他の同業者連中はこれ以下がほとんどだったからだ。
ミュージシャンがボーヤを雇っていたのは、それが可能な収入があったろうという点と、ボーヤを雇っていたのは少なくともある程度売れているミュージシャンだったという事実もある。
またそうしたミュージシャンは頻繁にスタジオで出会うため、ボーヤもいない状態で自分で楽器を運ぶというのは間違いなくプライドが許さなかっただろう。従って中にはちょっと無理をしてボーヤを雇っていただろう人も散見された。

さて、ボーヤは特殊な能力が要るわけでもないので相当に無能でもない限り仕事にありつけたというのが実態だった。
大卒の人間がなんでボーヤなのか?と言われた事もあったし、実際に経験してみて何を目的にここまでやっているか?という感じだったかもしれないが、当時はとにかく音楽業界に食い込もうと必死だったのだ。
後日T氏は採用された私に応募は何人もあったと言っていたが私はかなり疑っている。
実際そうだったかもしれないとも思うが、見栄だったかもしれないとも感じている。
後年の私の経験からすると、私もしくは極々少数しか応募しかなかっただろうと思っている。
当時ですらこの道を選択する人間は多くはなかったからだ。

実は、2017年1月になってある事実が判明した。このブログを通じて知古を得た、同年代の方が、実は1983年4月、つまり私が正式に働き始めてから1カ月後に憲司さんのボーヤの面接を受けていたことが分かったのだ。
彼曰く、当時内定が決まった会社(某大手新聞社)もあり、またT氏から金銭的な条件について中々ハッキリとした回答を得られなかったので、内定をもらっていた会社勤めを選択したということだった。
つまり私は働き始めてから1カ月程度の時点で使い物にならないと評価されていたらしいという事なのだ。
この事実は、その後ボーヤの仕事をする中で、私が経験した事実と一致するようになるが、それはこの後に記載する記事内を読むと分かってくる。

この事実を知った際、”そうだったかあ・・・”という感想と、そういう事があった割には、この後19年も音楽業界で生きて行けたのは奇跡だな・・・と思った次第だ。また自分の人生というものは、自分の力の及ばないところで変わったりしてしまう儚い部分がある事も体験した。


さて、当時に話を戻そう。
その日の内に採用が決まった経緯を見ても多数の応募から採用された感じは一切しなかった。いずれにしても、大卒上がりでローディー(ボーヤ)を選択するバカは私くらいだったという訳だ。(後日私だけでは無かったことを知ったのは上記記載の通り)

 翌日から住まいのあった世田谷区祖師谷大蔵3丁目から西麻布に居を構えていた憲司さんの自宅と六本木ソニースタジオへの通勤が始まる。
楽器車を預かって自宅傍に駐車場を預かったので、駐車場代やガソリン代は領収書清算で別途もらえた。世田谷区ということで月極め駐車場料金は結構高かったと思う。2万5千円だったろうか?

3月に入ってからは憲司さんの楽器車での通勤が移動手段となる。
前任者の男性から少しづつ大村氏の機材に関する情報を伝達される日々が続く。大村氏(皆さんは憲司さんと呼んでいたので以後は憲司さんと記載する)は、通常でもギターを5-6台を移動させ、2台のミュージックマンのアンプ、そしてエフェクターボードとイフェクターユニットを1つのセットとしていた。

私のボーヤとしての仕事は、憲司さんを時間通り時間の場所に送り届け、加えて機器の管理と移動、セッティングを毎日するや彼の身の回りの様々なことをすることだった。また都内のスタジオを頻繁に移動するため、憲司さん所有のハイエースを運転し、最短で移動するための道も覚えなくてはならなかった。
それまで都内を運転した事が殆どなかったので、不慣れな運転と不慣れな道に当初は混乱の極みだった。
2月が終わると前任者は辞めた。
3月に入り私は一人きりとなり、毎日が慣れない業務だったため、緊張の連続だった。

ところで「ボーヤ」の言葉としての発祥は、戦後の占領下で活躍した日本人ジャズミュージシャンたちの身の回りの世話をしていた人たちがバンドのメンバーたちから「坊や」と呼ばれていた事から始まったと聞いている。
またこの呼び方は、この仕事をする人間の入れ替わりが激しく、名前を覚えるのがミュージシャンにとって煩雑だったのだと推測できる。
彼らは自分たちの身の回りを引き受ける人間を「ボーヤ」と呼んでいれば、間違いなかったからだ。私は「ボーヤ」という響きに少なからず差別的な響きを感じていたが、あの業界のヒエラルキーを考えれば無理もない。

「ボーヤ」はその仕事柄、個性が不要で個人識別は不要で記号的で良かったのだ。
名前を呼ばれないボーヤの存在は時代を経て80年代を生きていた私に受け継がれるが、私は少なくとも名前で呼ばれていた。

その中で、ザ・ドリフターズの「ボーヤ」だった志村ケンさんはその後に主要メンバーになったし、演歌歌手がデビューする登竜門は「ボーヤ」からというのが多かった。また村上(ポンタ)秀一氏なんかも、その昔、とあるドラマーのボーヤだったが、積極的で実力のあった彼はあっという間にその実力を認められ日本で有数のドラマーになってゆく。
また私の後に憲司さんのボーヤになった人の中からでも、音楽作家になった方がいるというから、当時のボーヤが次のステップへ移行するための機能はそれなりにあったと言って良いだろう。少なくとも私にとっては結果的にだが次へのステップになった事は確かだ。

そういう意味で、芸能、音楽業界で私より前の世代では、ボーヤ上がりから出世した人は少なくなかった。80年代で有名なボーヤは、ビートたけしさん率いる「たけし軍団」だろう。彼らもたけしさんの身の回りの世話から始まり、その中の数名は芸人として独り立ちしている。

(参考資料)

六ソ-A.jpg

六ソ(六本木ソニースタジオ)のAスタジオのコントロール・ルーム。当時のパンフレットからの写真だ。撮影者の右手前がスタジオへの入口となる。私は入室が可能だった場合、入口直ぐ右片隅で黙って丸椅子に座って作業を観察していた。
当時のコントロール卓はNEVE社製。24chのアナログテープレコーダーはANPEX社製を使用していたと記憶しているが、24chのテープレコーダーは、この写真内には写っていない。機器の居置き場所が写真の右手前の入り口右端であったからだ。

奥に見えるテープレコーダーは2チャンネル仕様のものだ。写真左方向には30~40畳程度の演奏用ブースがあり、4リズムなどが録音できるようになっている。憲司さんの最後のソロアルバムだった「外人天国」のリズムやダビングは全てここで行われたし、憧れだった山下達郎さんが、高気圧ガールや I LOVE YOUを録音していた事を思い出す。( I LOVE YOUはスタジオのドアが開いた時に録音中の音が漏れ聞こえて思わず興奮した思い出がある)
当時のアシスタントをしていたWさんという方は、その後ソニー乃木坂スタジオの部長さんをしていると噂で聞いている。

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六ソ-B.jpg

六ソのBスタジオのコントロール・ルーム。当時のパンフレットからの写真。コントロール卓はNEVE社製。この機種のEQは定評があり、アウトボードとして使用しているエンジニアが多かった。写真では見えないが右奥にはヴォーカル&ダビング・ブースがある。広さは3-4畳程度だったろうか。山下達郎さんがミックスダウン作業をしている時は、入り口の扉に「関係者以外入出禁止」という張り紙が貼られていた。


とにかく初期のローディー時代は、このスタジオに来る事が多かった。それ故色々困った問題もあったのだ。その辺りは次回以降に書こうと思う。

2016年10月、新大久保にあるFREEDOM STUDIOの年内閉鎖のニュースが飛び込む。当時はオフコース、アルフィーなどが拠点としていた名物スタジオだったが、時代の趨勢には逆らえないということか。残念。

注:さて、これ以降に記載される内容は、立場によっては余り好ましいと感じない方もいらっしゃるかもしれないと推察致します。
この記事で誰かを不快にさせるつもりや暴露ものを書く意図は全くないのだが、余りに当時の事を正直に描写して書いていると当方が意図しないまでも、対象者の方々が不快と思うことがあるかもしれないという点は重々承知しております。

それ故、当時自分が記憶として起きた事が不快だったり違和感があったと思った事や人物に対しては正直にそのような表現をしている場合がありますが、勝手ながら単純に私個人の感想であり、記録と考えて頂けると助かります。

昨今過去の日本の音楽関係に関わる著作が何冊も出ておりますが、海外の同様な趣旨のものに比べて筆者の感情が不要に抑えられているように思います。トニー・ビスコンティーの近著「トニー・ヴィスコンティ自伝 ボウイ、ボランを手がけた男」を読むと、彼の視点から見える当時の音楽業界が赤裸々に語られており、他の著書と合わせて読むと関係者の関係や感情が立体的に分かります。ビートルズ関係の著書も同様に綺麗ごとだけではなく、事実であれば薬の事や性格的な事についてキチンと書いてあります。
そういう意味で、私の記述も誇張なく事実に即して書こうと考えております。


さて、2017年となった近代的な音楽業界にも私の記事に出てくるようなちょっと規格外な人たちは数多くいるようです。
実際、私の現在の部下は、とあるレコード会社からビックリするような扱われ方をした事がある。
業務提携先のレコード会社にいた50代になったその人たちは、ずっとそのやり方を当たり前だと思って生きて来たからだろう。
しかし同じ世代で音楽業界から出た私から言わせれば、音楽業界という狭い領域で通用する事が常識が世間一般とどう整合しているかくらいについてバランスよく学ばぶ機会があったろうに・・と思わざるを得ないほど常識のない連中に映ったことも事実だ。
昔はあれでも通用したかもしれないが、現在でも古いやり方を踏襲している辺りに今日の音楽業界の悲しいほどの斜陽さを顕著に表しているのだろうと感じた次第だ。

私と同じ50代になっても現場仕事から手を放す事が出来ず、若い連中の仕事を見ると一々自分たちのやり方を押し付け、ダメを出しているこの手のオジサンたちを見ていていると、正直言ってベテランの醜悪さえも感じた次第だ。

私は年齢が上になればそれなりの所作というものがあると考えている。
自分とは違うやり方があっても、明らかに誤りでなければ我慢して見守り、失敗につながる事が予見されれば適度に指導するという方が、フロントでやっている若い連中にとっても受け入れやすく、また仕事も廻り易くなるはずだろう。

従ってダメ出しオヤジたちに共通しているのは、いつも現場主義のため組織の上層部、つまり管理職には行けませんし、その点においては、音楽業界も一般企業も世間的な常識は多少は働いているのだろうと思います。

一度でも管理職とを経験すると分かりますが、現場から一歩退く勇気が必要になります。
また自分がやった方が早いと思いがちですが、それを我慢出来ないと組織を廻せません。
私は管理職を潤滑剤だと思っているので、どうやって潤滑するかだけを念頭に仕事をしておりました。

私のように一旦音楽業界から出て他者の仕事ぶりを俯瞰してみると、「特殊業界」という部分に胡坐をかいた前近代的な事が常識のようなまかり通り、時間の止まった部分が当たり前のようにまかり通っているのを不思議に感じておりました。
もちろんどの業界、業態でも多少独自のルールというものがあるのは承知しておりますが、音楽、芸能界というのはやはりちょっと異質でした。(まあ、それが面白いとも言えるのだが・・)

私の過去に出会った様々な才能のある人たちはある意味で非常に特殊な素養を持っていたと言っていいでしょう。アーティストとは良く言ったものです。
当時の私はその特殊さに憧れていたし、尊敬もしていたし、そういう世界で一旗揚げるという夢もあったので耐えられた、そういう訳だったのです。

そもそも自分で選んで飛び込んだ世界でもあり、周囲で働く同僚ボーヤたちも同じような環境だったので違和感無く仕事していたという感じでした。

ミュージシャンが大好きでしたし今でも好きです。
また当時、色々と苦痛を伴う事も多かったですが絶望したことも、一度も辞めようと思った事もありませんでした。
それほど憧れの業界であり環境だったのでしょう。魔法にかかっていたのかもしれません。
ブラック企業なんて言葉もここ数年で定着した語句ですから当時はありませんでした。
エイベックスの松浦社長が好きな事をやっているのなら時間も公私も関係ないというような趣旨を話していたが、その気持ちは良く理解出来ます。
しかしこの時代、音楽、芸能界だから我々は別人種だというような発想はそろそろ通用しない時代になっていると思っております。

自由と不作法を履き違えてしまうと人格を疑われるでしょう。

エンタメ業界には、良くも悪くも世間ズレした人が多いと思います。
だからこそ大衆を喚起する幻想を作り出すことが出来る、と言えますが、現実社会に戻ってみると、まるで役に立たないような感覚を持ったまま生きている人も多数おります。

コロナ禍でライブ産業が、大打撃を受けた一因には、エンタメ業界特有の政治との距離感があったと言っていいでしょう。
業界が結束して政府の持つ予算を分捕ってくるためには、業界の政治力が必要ですが、エンタメ業界にはその準備が全くありませんでした。
これは業界の人たちが、ある意味で、反権力志向を基礎にして生きてきたことで、世間知らずのままであったと言っていいでしょう。

エンタメ業界や映像、アニメ業界に共通しますが、「好きだから若い連中の時間を搾取してもいい」ような風潮を蔓延させている業界は、遅かれ早かれ衰退するでしょう。
クリエイティブ的にはバカにしてきた中国でさえも、ゲーム業界に限れば人材の宝庫になっている時代です。
人口比から言っても今後スーパークリエイターが出る確率は高く、クリエイターの卵たちに過酷で無駄な業務環境を強いる日本の実情を見れば、早晩日本は優位性を失うだろうと思います。
少なくとも音楽だけを見ても現代のミュージシャンで30・40年後が見える逸材は殆ど見当たりません。これは業界が縮小しているのと同時にネット時代になり旧来のようなビジネスモデルが消失し、ミュージシャンを職業とすることが今の若者にとって魅力的でなくなっているのかもしれません。

音楽業界やエンタメ業界、さらに近年はゲーム業界には未だにブラックな空気が蔓延していますし、かつての私もその中でもがいていた一員でした。
計量政治学者の高橋洋一氏は、大蔵省時代、自分が必要と思った時間まで働く。時間的に早くても終わりなら終わり、遅くなっても必要ならやる、そういうのでいいのでは?と言ってましたが、そういう人たちがいても良いとは思うし、そういうエネルギーが生み出すパワーを全く否定しません。私もその一人でしたから。
だが、音楽業界にしてもゲーム業界にしても、アニメ業界にしても、クリエイティブ業界が持つ、「好きを人質にして搾取する」という業界構造はそろそろ改革した方が良いだろうと思うし、もうそういう前近代的な在り方に依存していては、業界が長く続かないだろうと思います。

当時においても私のような経験は音楽業界では珍しくもないが、一般的には余りない体験をしてきた訳でもあり、当時の記憶や記録、心中を出来るだけ客観的に留めておきたと思い書いております。また、現代においても似た様な世界で働いていたり、これから働こうと思う人への何等かのメッセージになればと思い書いております。私の時代にはSNSなんていう便利なものがなく、誰からも体験談を聞いたり参考にする人もいない時代でした。そういう意味でこれを読んでくれている人は、私の数十年の体験をほんの僅かな時間で間接体験出来、またそれについて考え、選択できる訳だから、こういう情報を取れる時代に生きていたら良かったなあ・・と思ったりもします。


それでも私にとってボーヤ体験は必要な事だったと思っておりますし、あれが無かったら今の私の人生はない訳ですから、様々な点において、私の人生に影響を与えてくれた人々は全て私にとって必要な人だった訳です。

ボーヤ上がりで音楽業界に20年近く居座った人は余り無かったんではないだろうか?と思います。
実際、私の周囲にいたボーヤ君たちは軒並み業界を離れて他の仕事をする事になりました。私の後に同じ仕事をしていた方で業界に残った方は少数いると聞いておりますが、やはり多数派ではありませんでした。

業界に入った事で私の好奇心をそそる様々な現場やミュージシャンたちとの仕事をする機会に恵まれ、そういう意味ではこの時代の苦労が多少は報われたのかもしれません。
でも長い人生を俯瞰すると私のような経歴を持つ事はお勧め致しませんが・・。(笑)


つづく


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井川恭一

初めまして。たいへん興味深く拝見しました。

2月にリットーミュージックから出版される、大村憲司さんの本の中で、
大村さんのヒストリー的な原稿を書かせていただいたのですが、
一部コロンさんのブログを参考にさせていただきました。事後報告になってしまい、申し訳ありません。

ほんとうに自分にとってはいろいろと考え深い内容です。
このブログに出会えて良かったです。

by 井川恭一 (2017-01-11 20:35) 

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