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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(3) [独り言]

大瀧さんの自宅スタジオのコントロール・ルームは、コンソール、アナログの録音機(確かTASCAMの16chだったかな・・)、モニタースピーカーなどの機材関係と大瀧さんが入るだけのスペースしかなかったので、アレンジャーのTさんと私は部屋前の廊下に機材を置いて作業を補助させてもらった。

アナログのテレコにローランドのSBX-80から出力したSMPET信号を録音し、その信号をSBX-80に戻し、MIDI経由でNECのパソコンで動作していたカモンミュージックのシークエンサーを同期させて動かした。

PCの打ち込みは大瀧さんから譜面を渡されたアレンジャーのTさんが行い、音源出しは私がやったように思う。サンプラーはAKAIのS900だったろう。他に使った機材はYAMAHAのDX-7ⅡやRoland D-50辺りを使用してたと思われる。
作業をしながら大瀧さんが今回の音楽制作を頼まれた経緯を聞かせてくれたが、細かい話は記憶の彼方だ。


ランチの時間は、大滝さんが常連にしているというステーキハウスに連れて行ってくださった(と記憶している)。
このステーキハウスは水道橋博士の書籍の記載にも登場するが、大瀧さんが常連だったのは本で初めて知った。
結構なボリュームのステーキだったし、当時の私には物凄いごちそうだった。
食べながら何の話を聴いたかは殆ど記憶がないのだが、アレンジャーのTさんが「こいつ、大瀧さんの大ファンなのですけど、達郎さんも好きなんですよ。なっ!」と話を振ると、大瀧さんが「達郎ねえ・・、そうかあ・・、達郎はねえ・・」と達郎さんについて何かをお応えになった事はうっすら記憶しているが、達郎さんへのコメントの中身は忘れてしまった。
覚えているのは大瀧さんは達郎さんを「達郎」と呼んでいた事だ。私は心の中で、”そうかあ、大瀧さんにとって達郎さんは「達郎」なんだ・・、凄いなあ・・”と思っていた事と、大瀧さんの喋り方が達郎さんとそっくりなトーンなので、ひょっとしたら達郎さんの声やしゃべりって大瀧さんの影響があったのかな???何て考えながら聞いていた。

今考えると、大瀧さんの名盤、名曲の数々について根掘り葉掘り聞きたい事は山のようにあったはずなのだが、目の前のご本人にそんな事を聴いて良いのかどうかに迷っていたため、全く聞けなかった。
私のこの躊躇の理由は、それ以前に読んだことがある竹内まりやさんのインタビューに由来する。
その昔、達郎さんが初めて竹内まりやさんと仕事をした時、竹内まりやさんはSUGAR BABEのライブに出かける位、ミュージシャンとしての達郎さんが好きだったので、スタジオで出会った達郎さんにサインをお願いしたらしい。
すると達郎さんは彼女に対して、”プロの仕事の現場でミーハーな事は止めなさい”と窘めたというのだ。
私はそれを読んで、そうだよなあ・・と思ったのだ。

それでもあの時、大瀧さんが提唱していた分母分子論や作品の作られる過程なんかをご本人からお聞き出来ていればと思うと残念だ。
実際、私はご本人を目の前にして結構緊張していたんだと思う。


レストランの支払いは大瀧さんがなさった。


午後は引き続き作業を続行。何曲の作業をやったのかまでの細かい記憶はないが、
作業途中のお茶の時間に、コロンビア時代に出した作品のレコーディングのお話しをしてくださった記憶はある。
「あの、えっほえっほっていうヤツは、ここの廊下にマイクを2本立てて向こうの方から移動しながらやってもらったんだよ」とか、
「ここでねえ、デビュー前の鈴木君(ラッツ&スター)に歌ってもらったんだよ・・、達郎にもここでコーラスやってもらったしねえ・・」など、
多くのファンが聞いたら倒れそうなエピソードを現場で聞く事が出来た私はどれだけ幸せだったか・・。

録音作業で覚えているのは、AKAIのサンプラーで私が持っていたウッドベースの音を出した際に大瀧さんが、
「このウッドベース、結構ピッチいいねえ、本物だとこういうピッチにならないんだよねえ・・。これはいいねえ」と話されていたことは記憶している。


さて、変な話だが、この日の写真は一枚もない。
今考えると惜しい気もするのだが、仕事場にカメラを持って行って記念写真を撮らさせて下さいというような行為をするのは仕事の環境下では自分として良しとしなかったからだろう。
これは前述の件に由来することだ。
それはそれで正しい行動だったのだが、今となっては、自分が日本のロック史の現場の目撃者の1人となっていた事を考えると記録として写真を残しておけばよかったとは思う。


時間は夕刻近く、16時位だったと思う。
最初に入った時に見えた広い居間で音源のチェックを兼ねてプレイバックしながら休憩して時、当時中学生だった娘さんが帰宅してきた。

大瀧さんは娘さんにパパと呼ばれていた。どうやら翌日から修学旅行に行くらしくそんなお話しをなさっていた。
さて会話の途中で先ほどまで録音していた音源をプレイバックしている時、「君は天然色」で日本中に有名になったあの名物フレーズ「ジャンジャン、ンジャジャンジャン、ンジャジャンジャン」が奏でられた。

それを聞いた娘さんは間髪入れず、「パパぁ~ またこれなの??」と言うではないか!

私とT氏はそれを聞いて、心の中で「オイオイ、大瀧さんにそれを言うかぁ~」と思いながら苦笑しながら見守っていたが、大瀧さんは「いいの、パパはこれで!」と応え、娘さんにしか言えないその鋭い評論に一同は笑いに包まれたのだった。
この時の光景は鮮明に脳裏にある。
その娘さんが最近ご結婚なさったという報を聞き、私も歳を取る訳だ・・と思った次第だ。


今回のレコーディングで作った名物フレーズである「ジャンジャン、ンジャジャンジャン、ンジャジャンジャン」のサウンドは、サンプラーのオーケストラヒットや他の楽器群などのシンセサウンドを中心にして作ったのだが、大瀧さんの背中を見ながらスピーカーから音が流れて来た時は、本当に幸せで嬉しかった。

あれは言葉で言い表せないような幸福な時間だったと言っていい。

あの時の譜面の「絵ずら」は何となく記憶に残っている。結構オープンコードなんだなあ・・って思ってみていた。
作業は夜にまで及んだが、ちょっと遅めの夕食を取る頃には終了。

この日にファイナルミックスまでやったかは定かではないが、多分音素材の録音のみでミックスは後日大瀧さんがお独りでやられたのだと思う。

夕食は大瀧さんが大好きな野球でも見ながら店屋物ということで、確か、トンカツかカツドンか何かを注文して頂き、昼間に見せてくれたプロジェクターのある部屋で広島、巨人戦を見ながら皆で身ながら夕食した記憶がある。
確かこの部屋はサラウンド仕様になっていたはずだ。また部屋にはレーザーディスク類とVHS類が棚にビッシリと保管されていたと記憶している。

そう言えば大瀧さんって無類の野球も好きだったっけなんて思いながら一緒に野球を観戦していた。
当時、50inch以上のスクリーンで見ることが可能なプロジェクターの存在は非常に珍しく、私は初めて大瀧さんの部屋で体験したが、投手の投げる変化球の軌跡が物凄くハッキリと見えたのには驚いた。

とにかく大瀧さんは新しいテクノロジーを自分で手に入れて使う事が大好きだったようだ。

そうこうし、夕食も終わり、機材を撤収し、帰宅の途へ着いた。
楽器車のヘッドライトに映った大瀧さんの見送っていた姿がまだボンヤリ脳裏にある。


私の大瀧さんとの体験はここまでだ。
この時の音源が何処にあるのか? 
大瀧さんの死後、誰かに発見されて管理されているのかは私には分からない。
大瀧さんのことだからキチンと保管していただろうと思う。


大瀧さんは、お話をする時のテンポや仕事をする時のテンポは私が会った他のミュージシャンの誰とも違っていた。本当に不思議なオーラを持った方だったし、とても魅力的な方だった。
会話の端々に触れていると、音楽とそれを取り巻く環境との化学反応や現象に興味を持たれていた方だったように思う。
また本当に色々な音楽や映画に万遍なく触れているのが会話をしているだけで良く理解できた。

今にして思うと、たった1日だけだったがなんとも贅沢な体験が自分の人生にあったことかと思う。


私は宝くじやチケットの抽選には全く当たらないが、こういう運は多少あるみたいだ。


大瀧さんという偉大なミュージシャンが生きている時代に生まれた自分の幸運も含めて。




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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(2) [独り言]


私は、自分で大瀧さんのファンだとか言いながら、当時の私は大瀧さんのミュージシャンとしての来歴や全ての活動を完全に知り抜いていた訳ではなかった。
既に聴いていた音源は「はっぴえんど」関係、コロンビアから出ていた作品数枚、
そして「A LONG VACATION」と「EACH TIME」というところだ。
80年代に入って、来場者全員にFM電波で飛ぶイヤフォンモニターを装着させた画期的なライブをやっていたが、応募の抽選に漏れて入場出来なかった。確か中野サンプラザホールで開催されたと記憶している。

私が初めて「A LONG VACATION」を聞いたのは22歳の時だったが、
アルバム全体の出来の凄さに呆然とし、腰を抜かした記憶がある。
大瀧さんも達郎さんもアメリカンロックを共通にしているのだが、達郎さんとも全く違う独特なメロディーと世界観に圧倒され、本当に何度も聞いたアルバムだった。
後年坂崎幸之助氏が「君は天然色」のサウンドを解説した音声がYOU TUBEに上がっていて初めて知った事実に驚いたが、大瀧さんのサウンド構築のアプローチは本当に凄いなあ・・と思っていた。
当時にしても今にしても大瀧さんの音楽とはそういうものだったのだ。


「A LONG VACATION」が制作される過程は、発売30年後の記念イベントで自ら作ったラジオ番組風の音源で語っていたが、これについてはいずれ文字お越しをしようと思っている。
(この時の音声は「Road To A Long Vacation」というタイトルで、30周年記念時のイベントのために制作されたラジオ番組風の音声で、一時期YOU TUBEで聴けたが現在は見当たらない。素晴らし番組だったので残念だ。)


大瀧さんがコロンビア時代に発売したアルバム群はご本人が認めているように実験的な要素も多く、
一般的に訴求しにくい内容であったため、結果的に余り売れなかった。
そのため1970年代後期の時点で大瀧さんが経済的に困窮していた事実は、後のインタビューで知った。

コロンビアとの契約を満了する最後のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」がリリースされると時を同じくして、ON・アソシエイツ音楽出版のプロデューサー、故・大森昭男氏が大瀧さんに依頼し続けたCM音楽は、大瀧さんが考える次の時代の自分の音楽を発見する機会となり、これによって作品を貯める事が出来、やがてこの時期に作った音楽群が「A LONG VACATION」となって花開く過程は、後年、「A LONG VACATION」の30周年記念のイベント用の番組でご本人が語っていた通りだ。(掻い摘んで言えば、3年近くの間に依頼されたCM音楽の制作過程でアルバムの作品の骨子や方向性をつかみ、それをまとめたのがA LONG VACATIONだったということだ)


実は当時の私は、大滝さんとは初対面ではなかった。
ボーヤ家業を始めた1984年春、今は無き六本木ソニースタジオのロビーでで何度かお見掛けしていたからだ。
しかし面と向かってお話しする機会は今回が初めてだった。

大瀧さんは非常に包容力のある感じで出迎えて下さった。

一般的な意味でいうプロのミュージシャンにありがちな、相手を値踏みするような、ちょっと神経質そうな空気を細胞から発するような感じはなく、ごく自然で普通の感じを持った人と会う雰囲気だった。
確か、「遠い所をわざわざすまないねえ・・」みたいな事を仰っていたかもしれない。

ハウスの奥側にあった部屋には、あの有名な16チャンネルのアナログレコーディング出来るスタジオがあった。
これが噂の大瀧さんの自宅スタジオ「福生45」かあ・・と思いながら、持ってきた機材を搬入してセッティングした。

セッティング後、大滝さんはご自身の仕事場を一通り見せてくれたような気がする。

レコードコレクターとして名に恥じないコレクションが陳列していたレコード部屋、
録画された大量のVHSテープとレーザーディスク(まだDVDは無い時代だった)で占められた部屋、
当時はまだ珍しいかった50インチプロジェクターでテレビを見る事が出来る部屋など、
大瀧さんに関する噂の出どころとも言える伝説的な部屋の数々を目撃することになった。
確かテレビ室は当時では珍しい衛星放送も見る事が出来るようになっていたはずだ。


大瀧さんは自宅のスタジオでシンセやパソコンを同期させた形でのレコーディングした事がなかったので、
この日に進めたい作業の中身の概要を大瀧さんから聴き取り、
我々からこういう方法なら進めらそうですと伝えながら進行していったと思う。
と言っても、元々機材オタクの大瀧さんなので持ち込んだ機材に対する飲み込みは速かったと思う。

大瀧さんの自宅スタジオは小ぶりのコントロール・ルームとボーカルが録れるブースがあった。
コントロール・ルームはコンソールと16チャンネルのテープレコーダーがあり、
プロのスタジオにもあるようなコンプレッサー機器などもあったと思う。

このコントロール・ルームにあった主要機材は、コロンビアとの12枚の契約時の契約金を原資にして
手にいれたものだったようが、当時はそこまで知りえなかった。
印象的だったのは、丁度デジタル録音機器が出始めた時代だったので、SONYから発売されていた持ち運び可能な業務用のデジタルレコーダー(シルバーで1辺20cmもないくらいの四角い機器だったような・・)と出始めたばかりの民生用のDATデッキがあったのを記憶している。当時はプロのスタジオにもまだ民生用のDATデッキが常設される前だったので、大瀧さんの機器へのアクセスはかなり早かったように思う。


つづく。

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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(1) [独り言]

大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(1)


私の人生でたった1度だけ大瀧詠一さんと仕事をする機会があった。
私の人生にとって相当に大きな出来事だったが、その割に記憶が風化し始めている。
あの日から30年も経過したこともあるだろう。

今となっては夢と幻のような感じだ。

ご存知の通り、大瀧さんは2013年12月30日、突然ご逝去された。
訃報に触れたその日、私はたった1日だけ(正確には半日強)だったが、
大瀧さんと過ごした日の事を年末の帰省中のバスの中で反芻したものだった。


当時の私は、教授(坂本龍一氏)がヨロシタミュージックとのマネージメント契約を離れて独立したため、
同社の楽器部門を法人化した小さな会社に転籍して働いていた。
大瀧さんと仕事をする機会を得たのはこの時代なので、年代は1988年だろう思う。
月日は正確に覚えていないのだが、多分4月後半だったろう。

その日は春の陽気でYシャツ1枚でも過ごせるほどの暖かく、季節的にはうららかな日だったと記憶している。

大瀧詠一さんとの仕事のチャンスは、当時シンセのプログラマーとして働いていた時代に
懇意にして頂いていたアレンジャーのTさん経由でもたらされた。
今にしても当時としても、大変に感謝の念で一杯だ。


この時の情報によれば、大瀧詠一さんが知り合いの女優さんからある仕事の依頼もしくはお願い事を受けていて、シンセ関連で助けてくれる人を探しているというものだった。
どうやら大瀧さんは、お知り合いの女優さんが主催・出演する舞台の音楽制作を引き受けたようなのだ。
また大瀧さんはその音楽制作を殆どタダ同然(多分ボランティア)で引き受けていたようだった。
確か、その女優さんの名前は吉田日出子さんだったような記憶があるがちょっと定かではない。
従って私たちへの依頼もボランティアが前提だったので、人探しに苦労をしていたらしく、様々な人経由して我々にお鉢が廻ってきたようだった。

大瀧さんは、本来なら生演奏で音楽の録音したかったようだが、経済的な状況が許さず、
ご自身のプライベートスタジオを利用してコンピューターミュージックで作ってしまおうと考えたらしいが、
さすがの大瀧さんもシンセのオペレーション等には長けていた訳ではなったようで、
その分野で助けてくれる人間で尚且つボランティアで出来る人を探していたようなのだ。


この話をT氏経由の情報として事務所から聞かされた時、私にとって大瀧さんの仕事場に行けてお仕事をさせて頂くような機会は人生に二度とないだろうチャンスだと考えたし、それに勝る好奇心もあったので是非引き受けたいとも思った。
幸い当時の会社は1つのチャンスと経験だからと無償業務提供を容認してくれた。
これも私にとってありがたい事だった。

私自身、元々大瀧さんのファンだったこともあるが、このオファーに参加できることは素直に嬉しかった。
そしてアレンジャーのTさんと共に福生にあった大瀧さんの仕事場があるスタジオ、通称「福生45」に行く事になったのだ。


当時の大瀧さんは、80年代前半に発売した「A LONG VACATION」と「EACH TIME」がミリオンセラーで大成功していた余韻が残っている頃で、その後、松田聖子さんらに曲を書いてヒットをさせていた時代でもあった。
70年代に早すぎた日本語ロックに挑戦していたことで燻っていた”はっぴいえんど”というバンドのメンバー各位は、つまり細野晴臣氏、松本隆氏、鈴木茂氏らはそれぞれYMO、作詞家、ソロギターリストとして世間に見える活躍をしており、やっとその才能を世間に知らしめて日の目を見ていた時代だった。

音楽業界内では、ミュージシャンもスタッフも含め、大瀧さんは憧れのミュージシャンであった。
当時においても大瀧さんは自分のペースでしか仕事をなさっておらず、殆ど福生から出てこないので「仙人」とも称される生活を送っていた方だった。これは当時では珍しく自分のスタジオを持った事が大きく影響していたと思う。

当時のミュージシャンを含めた音楽業界人で大瀧さんのファンや尊敬の念を表明する人々はそれこそ無数にいるのだが、実際に会ったり、コンサートを見たり、ましてや仕事をした人は非常に限られていただろう。
そもそもレコーディングスタジオでの本人の歌入れは絶対に第三者に見せない作業をするので有名だったし、
コンサートも滅多に行う事がなく、仕事の哲学もハッキリした方だったので伝説的な話は当時ですら多かった。


2018年になってたけし軍団の一員である水道橋博士さんが著した「藝人春秋2」を読んだのだが、高田文夫さんの紹介で大瀧さんの福生の仕事場に行かれた際の記述があったのだ。
彼が本の中で著していた光景は、私がご訪問させて頂いた時の光景そのままで懐かしい気持ちで読んだし、私の記憶に薄れていた部分を補ってくれて随分と助かった。


さて、当日、会社所有の日産のハイエースに楽器を乗せて一路福生に出かける。
Tさんは自分の車で現地に行ったと記憶している。
当時はカーナビなんて洒落たものも携帯電話も無い時代だったので、
事前に渡された住所と電話番号と簡単な地図が記されたファックスを見ながら運転した。

指定された福生市の米軍ハウスの一角の一軒家を借りた大瀧さんの仕事場と呼ばれる場所に到着したのは、
午前10時頃だったろうか?
初めて見る横田基地に沿った道を進んだ先のある一角に目的場所があった。
周辺には同じような規格の住宅が数多くあったように思う。
何か、アメリカのロスアンジェルスに来たような錯覚を覚えた。

(ちなみに当時の私はまだロスに行った事が無かったが、映画で見た感覚が刷り込まれたいたのだろう)

件の建物の中に入った時の事は鮮明に記憶している。
玄関を入ると20~30畳ほどはありそうな居間のように広い横長の部屋があり、
その右の一角には放送機器として使われているターンテーブル、テープマシーンが並べられており、
また奥の壁際の棚にはラップで包装された未使用と思われるビデオデッキや様々な機器が積まれており、
1機種当たりで2~3台は積まれていたように思う。
どうやら同じ機種を数台買い、保存用としていたようだ。

入口の左手にはソファーが置かれていたが、その他の場所は整然と機器に囲まれていた部屋と言って良いだろう。

大瀧さんが機材マニアである噂は以前から聞いた事があったが、視覚的にそれが分かるような部屋だった。

その入口から”こんにちわ”と声をかけると暫くしてジーパンと格子模様のアメカジなシャツを着たあの大瀧詠一さんが奥に続く廊下の入口に現れたのだ。
”わあ・・本物の大瀧さんだ・・” 

多分私はそう心の中で叫んでいたはずだ。
喜びと感動にうち震える心を抑えつつ、冷静を装って初対面の挨拶を終えた。



つづく。

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広瀬香美さんの突然の独立と芸名の使用について考えてみた [独り言]


広瀬香美さんが突然の独立騒動で久しぶりにマスコミと世間の注目を集めている。


「広瀬香美」芸名使えない…28日移籍発表も事務所が活動禁止を通告
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180601-00000006-sanspo-ent


広瀬香美「活動は今まで通り続けていきます」と反論
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180531-00225920-nksports-ent


これに対して元の事務所であるオフィス30はコメントを公開している。

www.officethirty.com/


オフィス30のWEBを見ると分るが、タレントは彼女一人だ。
事務所のページでは分からないが、実はこの住所は広瀬氏を全面に出したボーカルトレーニング学校「ドゥ・ドリーム」を運営している。
「ドゥ・ドリーム」の開校は2000年頃だったはずで運営にはオフィス30の社長の平野洋一氏も絡んでいるだろうと推察できる。
当然だが、住所が同じだからだ。

http://www.do-dream.co.jp/


2018年6月1日のWEB記事:
◎広瀬香美の移籍騒動、事務所が会見 2月から4度話し合いも交渉まとまらず
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/広瀬香美の移籍騒動、事務所が会見-2月から4度話し合いも交渉まとまらず/ar-AAy5viA#page=2


2018年6月4日のWEB記事:

広瀬香美代理人ファクス全文 一方的な『独立宣言』否定、2月以降話し合いを行ってきた




こうして見ると社長の平野洋一氏と広瀬香美氏は長年ビジネスを共にしてきたパートナーと言える。
デビューからの付き合いだ。
その彼女が長年のパートナーを袖にして独立した本当の理由は部外者の私には分からない。

記事には、「広瀬の主張は「このままではアーティスト生命が終わってしまう。コンサート会場が満員とならないことに事務所に責任がある」というもので危機感を抱いており会社の代表権を渡すようにという要求があった。」という記載があった。
一方平野氏は、代表権を渡さなかった理由について「免許の更新もわからないような世間知らずの人が代表取締役になって会社でフォローできるのか心配があった」と説明したようだ。

これだけの情報で何かを断定できないが、アーティスト側と経営側の意思の齟齬があったことは伺える。と言っても小さい事務所と想像され、社長とタレントの距離感は本来小さいとみるべきだ。それでもこうした意思疎通の齟齬が起きている。広瀬氏の一方的ではないという抗弁はちょっと「?」で、契約とは一定の条件以外では簡単に解除できないように書いてるあるのが普通だ。例えば倒産や横領など契約を持続させるのが著しく困難な場合に限られている。色々と話したけど言うこと聞いてくれないから契約継続は止めるけどよろしくね!っていう訳にはいかないのだ。

アーティスト側としては、「コンサート会場が満員とならないことに事務所に責任がある」という意味は、自分の実力であれば設定したコンサート会場が満員なるはずで、そうでないのは事務所が仕事をしていないという見方をしているということだ。
一方平野氏からすれば、世間知らずの彼女が事務所の経営を担っても結果に繋がらず事態を悪化させるだけと見ていたということだ。

まあ、双方にそれぞれの見方と理由があると思うし、双方の主張は双方として正しいかもしれないとも思う。

非常に俯瞰した冷静な言い方をさせてもらえれば、少なくとも広瀬さんのコンサート動員が彼女の想定通りになっていないのは、主に彼女が自分自身のマーケットバリューを見誤っている点と、仮に平野氏がそれに気が付いていたとしても長年のパートナーであり傷つき易いミュージシャンの人格に本音を突きつける事を躊躇した可能性があるのだと思う。

厳しい言い方だが、コンサート動員数は市場の意思を反映しており「絶対にウソ」をつかない。また本来、彼女のような30年近いキャリアを持つベテランになれば動員数は急に増えたり減ったりもしない。
動員数が想定以下ということはキャパ設定が実力値よりも大きすぎるか、仮にそんなに大きくない小屋を埋められないとすれば、それが現在の彼女の市場価値であるというだけなのだ。
一発屋のようなヒットでブームを作り、一時的に動員が伸び、急激に下がるケースもあるが、彼女はそれなりにヒットを出しており、歌も上手いのでやり方によってはコアファンを維持できるタイプだったと思う。

彼女のようなベテランになれば、一定の固定ファンがいるはずで、そこが中心的な客になる。
近作にヒットがあるとか、露出を多くして宣伝をしたとかテレビに出る出ないは殆どコア動員に関係がない。
コアファンは長年彼女の存在に対してコミットをしており、ずっとフォローしているため表面的な活動の浮き沈みに連動しない。B'zのファンクラブ会員数は25万人と言われているが、コアファンを持ったアーティストは流行に左右されない活動がしやすいし、ビジネスの計算もし易い。
従って彼女の動員数が伸びないのは、経年に渡ってコアファンを少しづつ喪失し、尚且つ周辺の浮動票を取り込めなかったと見ていい。
そしてこれまでの彼女の存在やコンサートが本当に市場に対して魅力的であれば、少しづつだが動員は確実に伸びる。ただこれには条件があり、毎年ある一定数のライブ活動を地道にやる必要性がある。

実際彼女クラスの活動歴を持つミュージシャンでライブ動員が安定している、もしくは伸びている人たちは例外なく大きな固定ファンを持っており、またファンがファンを呼ぶ。
私の大好きな山下達郎さんは、遂に二世代目のファンが現れ、加えて女性ファンが顕著に増え益々チケットが取れない状態だ。
つまりこうした動員の現象は昨日今日の活動で生まれる訳でなく、80年代から現在に至るまでの地道な蓄積だと言える。

彼女の立場としては事務所の努力不足が動員に繋がらないと言いたいのだろうが、ベテランアーティストの場合、宣伝や仕掛けをすれば大幅に動員が伸びる訳ではないのは前述した通りだ。

広瀬さんよりもちょっと先輩の八神純子さんは、結婚後L.Aに移住し子育てをし、日本での活動に20年近いブランクがあったが、6~7年前から日本でのレギュラー活動を開始し、現在では年に数万人単位で動員出来ている。
これは彼女の潜在的なファンが現在の彼女のパフォーマンスを評価した結果で、口コミで拡がった賜物だろう。彼女はここ最近新作のヒット曲は1曲もないが、ライブ動員は無関係に好調で、東京の2000名キャパでも不安なく満員にしている。

私も八神さんのライブには何度か言ったが、50歳を過ぎても衰え知らずの彼女の唄声は確かに聞く価値がある。広瀬さんのライブや彼女のパフォーマンスや声の維持がどの程度なのかは分からないが、いずれにしても動員数は絶対的な市場価値でウソをつかないし、突然増えたり減ったりもしないのだ。

「BLOGOS:広瀬香美 事務所移籍騒動の陰で立たされていた冬の女王の苦境 」
http://blogos.com/article/301695/


ミュージシャンの性質としては、大抵の場合、売れれば自分の実力、失敗はスタッフのせいと考える傾向がない訳じゃなく、そういう意味で動員の成果に関して事務所の対応を理由にしたいのだろうが、残念ながらご本人のこれまでの活動の累積や価値の問題であると言うのが事実に近いと思し、こうした戦略的視点をアーティストと共有し対応してこなかった事務所にも大きな責任があり、特に社長と所属タレント1名のような小規模であれば尚更で、双方に課題があったと思う。

広瀬さんは2006年の離婚直後から毎年ツアーを始めたようだが、ここ10年程度のライブの履歴を見る限り、ツアー数はランダムで、会場も大きくても1500人キャパからビルボードのような会場で、最大でも年14公演で少ない年だと3公演しかしていない。正直言うと、ここ10年の活動を俯瞰すると活動の戦略性が全く見えない。言い方は悪いが場所や公演数を見ていると彼女の思いつきを汲んだようなツアー編成をしているようにしか見えないのだ。
CDが売れなくなり、ミュージシャンの収入においてライブ活動が重要になり始めたという認識が拡がった2006年以降においてもライブ活動を活発にやっている印象がなく、もう少し戦略的によく考えてマメにツアーをしてファンの固定化に尽力していたら現在の結果も違っていたかもしれないと思う。
一般的に、ミュージシャンは40代をどのように乗り切るかで50代以降の成否が決まる。そういう意味で、彼女は40代に行っていた曖昧な活動で失ったと思われる潜在的なファンが多いと思われ、今から取り戻すのは相当に難儀だと言っていい。かの山下達郎氏は40代の時期に7年もライブツアーをしない不遇とも思える時期があったが、定期的な作品発表と毎週放送しているラジオ番組とファンクラブ(ファンクラブだけのライブを行った時期もあった)でコアファンを繋ぎ留めていた。


さて、今回の独立は彼女一人で出来る訳はなく、外部協力者の存在があるだろう。


広瀬香美氏の新しい事務所、Muse Endeavor .inc :
新Web → http://www.hirose-kohmi.com
会社Web→http://www.muse-endeavor.com


オフィス30のTOPページには「広瀬香美」の名前は、弊社代表取締役である平野ヨーイチ氏が命名した芸名であり,「広瀬香美」の芸名の使用権限は,弊社及び平野ヨーイチ氏に帰属しており,
弊社当社所属のアーティストとしての活動以外には,「広瀬香美」の芸名を使用できません、と主張している。

この文面を読む限り、平野氏の主張はそういうことなのだろう。

しかし、文面だけから判断できるのは、自分が命名したから会社と平野ヨーイチ氏に帰属しており、という理屈で法的な根拠が全く記載されていない。
平野氏の主張は、名付け親、育ての親を差し置いてふざけるな!という事だろうが、
その事と芸名が使用できないという事は残念ながらリンクしない。


もし平野氏の主張通り「芸名の使用権限は,弊社及び平野ヨーイチ氏に帰属しており」であれば、
少なくとも「広瀬香美」という名前は、商標登録等で権利保全がされているか、
マネージメント契約内で完全な形で名称としての権利が契約で保全されている必要がある。


実は、J-PlatPatという商標登録を検索できるサイトで彼女の名前を探してみたが出て来なかった。
という事は少なくとも商標登録はされておらず、この点での権利主張はできないと考えられる。

そうなると、「マネージメント契約書」での主張が必要だが、彼らのように長いパートナー関係だと
最悪の場合を想定した形の綿密に書かれたような契約書の存在は怪しかもしれない。
これはオフィス30だけではなく、日本の芸能事務所で高度なレベルの内容でマネージメント契約書を締結している法人は少数だ。
つまりこの件については言った言わないになる可能性もあるということだ。



もし契約書に「かなり正確」に使用権限について書いてあり、それが更新時にアップデートされて契約記載されていなければ、平野氏の主張は道義的もしくは一部が認められる可能性もあるが、ある弁護士のコメントには、独占禁止法の抵触もあり、認められるかどうかは法廷の判断次第になる公算があるといことで、全体的な法的根拠が薄い可能性を指摘され、彼女の氏名の使用そのものが可能、不可能は判然としない。

いずれにしても、明示的な契約書や知的財産の確保の保証と裁判所の判断、もしくは示談がないと話が落ちないということだ。

独立した広瀬香美氏が引き続きこの名前を使用したいなら、早々に商標登録を検討した方がいいだろうが、
仮に平野氏が名付け親だとすれば道義的な責任を負うことにはなると思う。
彼女の新オフィス設立とWEBページの出来具合を見るとまだ仮の状態だ。
事務所の住所も何もないので、オフィス30を飛び出して、独立をファイスブックで公表したところまで
やったということなのだろう。


狭い音楽業界で今回のような独立を成功させるためには、有力がバックアップがないと活動継続が難しくなる。
あの業界ではトラブルメーカーとは関わらないようにするし、信義の問題を気にするからだ。
ただ、平野氏には芸能界の大御所のようなパワーはなく、仮に広瀬香美氏のバックに業界内の強力な協力者がいた場合、穏便に事を収める方向に事が進むだろう。
いずれにしても、今回のような独立の仕方は彼女の今後のアーティスト活動において全くプラスに働かないという点は強調しておこう。
誰かにそそのかれたにしても、52歳にもなってこういう子供じみた対処をする人物が戦略的に物事を考えているとは思えず、もう少し慎重に事を運ぶべきだったろうと思う。

また平野氏の反論会見についても、彼自身、事務所の代表としてもっと慎重に対応すべきだったろう。
それは彼女への反論を公にする目的がどこにあったかを平野氏が深く考えていた様子が見当たらないからだ。
どういうことかと言えば、もし今後も彼が広瀬氏と共同して事に当たることを目的としていたなら、会見そのものは不要であり、加えて会見で彼女に関してマイナス情報を公表する必要はことさらにない。
当然だろうが、今後一緒にやって行くタレントのマイナス情報が市場にプラス効果を出すはずもない。自分で自分の関わるタレントを批判するのは愚の骨頂であることは分かるはずだ。

また彼女と永遠に決別することに加えて自分の立場の保身が目的なら今回の会見は中途半端だったとしか言えない。つまり平野氏の愚痴を会見で述べたような印象しか残らないということだ。
いずれにしても今回の会見は目的が全く不明で、意図を見失っていたとしか言えないのだ。
企業の大小に関わらず、組織の代表者が公に発言する際は、非常に思慮深く対応しなければならない。
広瀬氏が事務所の代表である平野氏に不満があるとすれば、こういう部分に象徴される点かもしれないと感じた次第だ。


加えて彼女が校長を務め、平野氏が経営陣にいるボーカルトレーニング学校「ドゥ・ドリーム」は、現在でも彼女の名前や肖像を表に出して運営している。
学校の住所を見ても、彼女が今後この学校に関わる事はなく、事業イメージ上の大黒柱を失ったと言っていい。
学校には先生もいれば生徒もいる。コースには彼女が自分で教えているものだってあるようだ。
そういう状況下、彼女は平野氏と対決する形で独立して去ってしまったのだが、今後、学校との関わりについては彼女と平野氏の課題になるだろうし、学校のイメージ損失のリカバーも必要となる。


今回の彼女の決断が先の人生において正解だったのか、他にやり方があったのか?は分からないが、
大抵の場合、こうした強硬手段を取ると環境整理に時間とエネルギーを使うハメになって
暫くは音楽活動に集中するには難しいだろうと思う。
部外者の私が勝手に助言を出来たとすれば、まず己の現状の実力を冷静に把握し、周囲の意見に耳を傾け、地道でも中長期の活動計画を立ててそれを地道に実行して行く環境を作り、ご本人もそれを受け入れてやれるように努力すべきという感じだろう。
ご自身で会社を経営すれば事態を改善できると思っているようだが、人間にはそれぞれ持ち分というモノがあり、よく考えて方が良いと思う。50歳を過ぎるという事はそういうことが自然と分かる年齢であり、分からないとすれば彼女はもうそれまでという事になる。


さてどうなるのやら。



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