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平田輝 「夢の涯てまでも」 (阪神淡路の震災の日の記憶) [Discography]

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  平田輝さんは沖縄出身のミュージシャンだ。 1995年1月16日、現在でもバンド活動をしている彼が1995年3月に東芝EMIから発売した彼の4thシングル曲「夢の果てまでも」を編曲させて頂いた。
実は、私にとってメジャーレーベルからの発売の音源のアレンジ仕事はこれが最後になったので、色々な意味で思い出深い。この曲のレコーディングは1995年1月16日の昼12時から翌17日朝6時までかかって完パケさせるという超強硬スケジュールの仕事だった。
こんなパツパツの仕事を頼めるエンジニアは数少なく、私の友人である早乙女正雄氏に依頼した。当時の私はシンセプログラマーから作編曲等の仕事の移行を上手く乗り切れないまま36歳になろうとしていた。
実際キャリア的にはかなり切羽詰まっており、口糊をしのぐために通信カラオケの音源開発の仕事を中心に収入を得て、シンセプログラマー関係の仕事を合間に行なっているような体たらくの時代だった。

彼からアレンジの仕事を依頼された時は有難かったが、彼のマネージメントと話をすると予算がかなり厳しかったので、自宅でプリプロをしてレコーディングに望む事にした。
こうした状況を勘案すると、1994年の12月には自宅で少しつづプリプロを初めていたはずだ。この時期は、パイオニアが開発していたB-MAXという通信カラオケ機器のMIDI音源開発のチームで仕事をしていた関係で、10-18時は赤坂乃木坂付近のパイオニアの関連会社であったQテックの特設スタジオに定時出社していた。(この話はいずれ行う予定)

それ故アレンジ作業は自宅に帰った夜の時間帯が作業の主になっていたと思う。アレンジを進める中で追加のキーボードとギターダビングのミュージシャンの手配をしてもらい、1995年1月16日はカラオケ業務に休みをもらってレコーディングに望んだ。
当時の私は、事務所のマネージメントを離れていたが、レコーディングに対応できるシンセ関係の楽器を保有していた理由は忘れてしまった。
多分楽器類は私が事実上保管したまま月日が過ぎていたのだろう。いずれにして、当時築地本願寺の近くにあったスタジオでレコーディングが開始された。残念ながらスタジオ名は失念した。この年の3月20日には、スタジオ側の築地本願寺周辺で「オウムサリン事件」が勃発することになる。当時はそういう時代背景だった。

 とにかく1日でオケ作り、歌入れ、ミックスまでやらなければならなかったので12時から録音が開始できるよう機材搬入は午前中から開始した。私は自分でワゴン車に機材を積んで自宅を出発、スタジオで機材を地下に下ろし、楽器の組立をし、録音を始めたのは昼の12時過ぎだったろう。ボーヤも居ないので全部自分でやらなければならず、体力的にも精神的にもキツカッたが、自分の置かれている立場がそういうことなので致し方ない。
決められた時間内にレコーディングを完了するために事前にシーケンス・プログラムを組み、スタジオ内で作業するのは極最小限度に留める戦略だった。アレンジの方向性は、野太いロック調の楽曲イメージに、若干の対比をつけるため、イギリス的(STING+U2的)でロック+ワールドミュージック系サウンドの色付けをする感じで作業を進めていた。

レコーディングに入ったが、プリプロでリズムセクションを数種の音色とパーツで細かくプログラムしたために各パーツを録音するのに時間がかかった。リズムはタイトな音を選び、ノイズ系の音を混ぜたりした。ノイズ系音源は、中東の歌姫オフラ・ハザの音源に刺激されて自分で開発した音が組み込んである。BASSはM-1のプリセット音源であるフレットレスベースを使用した。
夕刻の段階で予定よりも1時間半程度遅延し始めていた。夜の帳が下りてからギターのダビングとキーボードのダビングをそれぞれ行ったが、シンセブラス・セクションのアレンジが、当初の見込みを大きく外していた事がスタジオ内での作業で分かり、そのためアレンジの変更を余儀なくされ、キーボードの方と急遽アレンジを直す。これに深夜時間を取られたのが痛かった。後年聞いてもブラス・セクションのアレンジは心残りの出来になっているが、この辺りは私の実力のなさを表している。

唄入れと唄のセレクトを終えるとミックス作業に入る。作業的な確認が終わったのが朝5時過ぎだったろう。EMIの担当者と平田さんのマネージャーも徹夜で残って最後まで確認をしてくれた。早乙女君も時間のない中で楽曲を一定のレベルに引き上げてくれたので大変に感謝している。

1月17日の早朝、MIXの作業中に楽器の搬出をして車に積み込んでいたので、スタジオを出たのは5時40分過ぎだったろう。朝10時からカラオケの仕事で赤坂に行かねばならなかったので、早く帰ってちょっとでも寝たかった。新大橋通り沿いの築地本願寺が朝の光に輝くのを左に見えた頃にカーラジオをつけるとNHKが臨時ニュースをやっていた。(地震は5時46分に発生。東日本大震災は14時46分発生だった)
アナウンサーは、阪神・神戸地方で地震があったと淡々とした低めの声で報じていた。アナウンサーは、神戸支局の記者に電話をしNHK支局の周辺の状況報告をさせていたが、神戸支局の記者の声の様子では、事態の大きさを表していなかった。
私はこの2週間程前に東北地方で起こった震度5-6の地震で2名が亡くなった記事を思い出し、阪神・神戸地方の地震もそんな程度だろうと感じて自宅に戻ってつかの間の眠りについた。

寝ていた私の自宅の電話が鳴った。当時は携帯が普及していなかったので自宅は固定電話である。電話に出るとアメリカ・ロスの女友達からだった。

「ARE YOU OK? You've got a huge earthquake in Kobe.」

多分そんな言葉で始まっただろう。寝起きの私は、地震は阪神方面だから東京には全く影響ないと英語で言ったと思うが、彼女は今CNNで放送している映像を見ていたら高速道路が横倒しになっているんだ!!と喚き始めたのだ。
頭が全く起きてない私は、なんだか分からず自宅のアナログテレビをつけると、最初に出てきた画面が、阪神高速が横倒しになった下の写真のような映像だった。

阪神高速.jpg


 テレビでこの映像を見て事の重大さに気がついた。既に朝9時を過ぎていたので、ニュースを見ながら出勤の用意をし、自宅を出た。 地震のニュースが時間経過と共に被害者が増えて行く事を伝え、夕方までに3,000名を超える死者が報道されていたと記憶している。
この日は地震報道が気になって、仕事も手につかないような感じであった。阪神淡路大震災は、私の最後のメジャーレーベルでのアレンジ仕事の終了時期と重なったため、良く記憶している訳です。
その後、1995年3月20日、地下鉄サリン事件が勃発。勃発場所はこのスタジオの側であった。
当時日比谷線で六本木まで通勤していたが、事件の日は休みだったのか、この事件は朝のテレビのニュースで知った。もの凄い数のヘリコプターの音が上空でしていたのを記憶している。

「夢の涯てまでも」は住通チェーンTV-CMのタイアップがついていたが、残念ながら大きくはヒットせず、平田さんのキャリアをアップさせる手伝いは出来なかった。しかし色々な意味で思い出深い仕事であった。

平田SNG-2-2.jpg

「夢の涯てまでも」(TODT-3455)
(住通チェーンTV-CFイメージソング)
廃盤

(平田輝さん関連WEB)
http://hokorasya.jp/
http://www.hokorasya.jp/hirataakira/discography.html


★当時使用していた楽器の記憶:
シーケンスPC:マッキントッシュ クアドラ700
シーケンスソフト:Digital Performer
楽器・機器:SBX-80、AKAI S-1000、DX-7Ⅱ、ROLAND D-550、KORG M-1、ROLAND Sound Canvas

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スタッフ等クレジット:

エンジニア:早乙女正雄
シンセ・プログラム:関島雅樹
キーボード:不明(顔の記憶はあるが名前が出て来ない)
Eギター:不明(名前が出て来ない)
スタジオ:名前が出てこない

 


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