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佐藤千恵さんという女性が生きた1960~1980年代時代 [独り言]


私以外の人で佐藤千恵さんと言われてもピンとくるはずもない。
同姓同名は多いのだが、私にとっての佐藤千恵さんは「あの人」しかいない。

私や友人たちは、彼女の事を「千恵」と呼んでいた。

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1988年3月26日、午前7時30分、佐藤千恵さんは上野の永寿病院で逝去した。
享年28歳。
病気を患ってのことだった。
エネルギーの塊のような人だったから、
もっと生きたかっただろうと思う。

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当時の私は、神様とは残酷だな・・と思った。

彼女は私が大学時代に知り合った友人で、大学時代の私に多くの影響を与えてくれた人物だ。
当時の私にとって彼女はある種の「ディーバ」であり、自分とは次元の違う感覚を持った人物だった。
本当に興味深い人だった。

千恵さんが亡くなってから2018年で30年が経過するが、今でも時折彼女の事を思い出す。
元気印の千恵さんが今でも生きていれば58歳になっていたはずだ。


佐藤千恵さんが58歳になっていたとしたら今頃何をしてどのように生きていただろうか?と思う事がある。

きっと素敵な熟女(笑)になっていただろうと想像する。

さて、時は1988年3月21日に遡る。
当時学芸大学の目黒郵便局裏にあった私が仕事をしていたオフィスに千恵さんの友人のAMさんから電話連絡が入る。この日は祝日だったが私は仕事で事務所にいた。

電話の内容は千恵さんが危篤だという知らせだった。

電話を切ると私は群馬の友人H君に連絡を入れて事情を伝えた。


実は、彼女はこの2年以上前から病気と闘っていた。
彼女が相当深刻な状態だというのを知ったのは、その前々年の1986年12月に京都大学病院に入院し手術をすると聞いた時だった。
これを知ったのは祖師ヶ谷大蔵で行きつけだった平八という飲み屋のマスターからだった。


実は彼女は1985年に結婚をしている。
旦那さんは赤坂にあったレストランで料理長をしていた人物だ。
現在その店はないが、銀座には本店らしき店があるようだ。
彼と私は大学時代に千恵さんを通じて知り合ったが、
結婚後の彼女が私や他の男友達を連絡を取り合う事を良しとしておらず、
我々は結婚が決まった時期を境にしてちょっと微妙な関係になっていた。


しかしその日は意を決して旦那さんの自宅に連絡を入れ状況を把握するに至った。

聞かされた状況は私の想像を超えていた。

その直後、京大付属病院に入院していた彼女から1通の手紙が届いた。
手術が12月10日頃に行われることなどが書かれて、
先々の希望にも満ちていた。
その手紙は今でも手元にある。


実は手術の内容とは体の一部の切断だった。
私はそれを知り、身が引きちぎられるような気持ちになったのと、
残酷な神の差配を恨んだ。
そして年末で慌ただしい世間をよそに雪深い京都に立ち寄り彼女を大学の友人S君と2人で見舞った。

正直見舞いに行くこちら方が辛いような気分でもあったのだが、病室の彼女は気丈でそれだけが本当に救いだった。
それでも体の一部を失った千恵さんが辛くなかったはずはない。

しかし彼女は私たちとの会話の中でネガティブな事を一切言わなかった。
あれが彼女の強さであり素晴らしさだろうし、私が彼女に羨望を向けた部分かもしれない。
(内心は辛くて苦しかったに違いない・・)


病気の発端が何だったのか?は分からない。

彼女は体の一部にちょっとだけ大き目のアザがあり、以前からそれを気にしていたが、
ある時それを除去する手術を受けたようだ。
病気の発症とアザ手術の因果関係は分からない。

それでもこれが何等かの起因だったかもしれないと今でも思っている。



京都への見舞いの翌年、一度だけ彼女の自宅(つまり旦那さんとの住居)を訪れたことがある。
彼女から来て欲しい連絡があったからだ。この時期彼女はリハリビをしており、時折街に出る事もあったと聞いていた。
当日、旦那さんは仕事でいなかった。

旦那さんと私や私の男友達とは微妙な関係であることを知っていたから、
そうした時間を避けるようにして出かけたと思う。
時間は彼女の指定だったかもしれない。


部屋の中の彼女は寝室に引かれた布団に一人で横たわっていたが、病気の影響は傍目にも分かるほどだった。
目の前の彼女の様子は、もうリハリビや街歩きができるような感じではなかった。
ほんの数日前、吐血したことも教えてくれた。
正直辛い気持ちで一杯になった。

「頑張れ」って言葉があれほど無意味な言葉だというのは初めて知った。

この頃、彼女は自分の寿命を悟っていたのかもしれない。
だから私を呼んだのだろうと思っている。
呼んだとしたら私だけではないだろうが、かつての友人たちは大学卒業でバラバラになっていた。


この時も辛いとか何だとかは一言も口にしなかった。
吐血の事もちょっと他人事のような口調だった。


また大好きな酒を私と一緒に飲めるようになるために頑張るよって言ってたな。

彼女との生前の会話はこれが最後になってしまった。


彼女と最後に面会したのは永寿病院の病室だった。
事務所で危篤の報を受け取ってから出かけたはずなので、3月22日だったろうか?
群馬の友人のH君も一緒だったはずだ。

彼女の自宅に赴いてから約6か月程度の期間が開いていただろう。
明けの正月には年賀状が届いていたので、少しづつ元気になっているのだろうと勝手に思っていた。
そのため3月21日の危篤の報には驚きを隠せなかった。

病室のベッドに横たわっていた千恵さんは機器や管に繋がれた状態でかなり意識が混濁しているような感じだった。
私の預かり知らぬ間に彼女は状態を悪化させ死の淵にいた。

ホンの一瞬だったが、ベッドで寝ていた千恵さんがグワっとしたような感じで瞼を開け、私と友人のH君らと視線が合った。
そして私の方に向かって千恵さんは私たちに手を伸ばすような仕草をした。
名前を呼んだがそのまま力尽きて目を閉じて気を失うように眠りについてしまった。

私にとっての生前の彼女の姿はそれが最期となった。

この時点でもって数日だろうと言われていた。

私は友人が死に向かっている姿を目の当たりにしながら、自分の心のどこかが冷たく死んでゆくのを感じていた。


危篤の報から5日目の1988年3月26日朝、私は経堂の自宅のアパートの部屋で何かに引き込まれるような感覚で目を覚まして、目先にあった時計を見た。

7時30分だった。

そしてその直後の7時35分頃、自宅の電話が鳴った。

ずっと病院に詰めていた女性友達からASさんだった。
千恵さんの逝去を知らされた。
午前7時30分だったそうだ。


あの感覚は何だったのだろうか?と今でも考える。

死に行く彼女は私やH君にお別れの挨拶に来たのだろうか?と・・・。
私はこの摩訶不思議な感覚を経験した事はそれ以来一度もない。

だから「魂」はきっとあるのだろうと思っている。


死去の翌日には告別式、その次の日に葬儀が行われた。
千恵さんの旦那さんが喪主だった。彼とは本当に久しぶりに会った。
我々と彼との間には微妙なものがあったが、当然だが葬儀ではそうした感情は封印されていた。
彼とは会話らしい会話もしなかったと思うが、彼の悼みは良く理解できた。
彼も私たちと同じで千恵さんのことを大好きだったからだ。


遺体が焼かれ骨になった千恵さんと対面した時、言い知れぬ寂寥感があった。
ああ、もうこの世に戻ることはないんだな・・という感じだ。
欧米の埋葬の風習に火葬が少ないのは、そういう感覚があるのだろうと思った。

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彼女の白黒写真の遺影がどこか私にリアリティーさを欠く感じに映っていた。

大学時代の友人やその他の関係者で骨を拾い骨壺に入れた時は悲しみを通り越していて
感覚が無かった。
あんなに元気で美しかった彼女がこの世から忽然と消えてしまった・・、そういう感じだった。

葬儀の間、私は全く泣けなかった。
悲しいという感覚を超える感覚はあれが初めてだったかもしれない。
悲しすぎて泣けない・・、そんな感じだった。
もしくは現実であることを私の内面が拒絶していたのかもしれない。


時折彼女を思い浮かべ、楽しく過ごす事の出来た大学時代をパステルカラーのような景色の中に蘇ることがある。私の学生時代、あんなに印象的な女性はいなかった。


彼女は現在でも初婚相手の墓地に埋葬されている。
埼玉県東松山市にある昭和浄苑内だ。
彼女の墓参りはこれまで何度か友人としている。
それでも決して私の住まいから近くないこともあり、ここ16年ほどは行っていない。


結婚相手の旦那さんはその後再婚しているようなので、
彼女の遺骨は実家の墓に戻せばいいだろうとも思うが、
私の出る幕ではないからそういう意見だけを述べておく。


あれから30年が経過し、私も58歳になった。
切りもいいので2018年3月中に彼女の墓参りをしようと思っている。
彼女の誕生日が3月だからだ。同じ58歳同志で話もしてみたいじゃないか。
群馬の友人で元カレのH君も同意してくれた。
H君は大学時代の友人で唯一定期的な連絡を取り合う仲だ。


この記事を書こうと思ったのもそんな時期に合致していたのは偶然とは言え奇遇だ。
千恵さんが天国から呼びかけていたのだろうか?

私が大学生だったのはまだネットも携帯も無い時代。
従って彼女の個人的なデータは現在のネット上には全くないだろうと思う。
実際検索しても彼女の情報は皆無だ。

彼女の声やしゃべり方は今でも私の耳に残っている。
スマホで動画が簡単に撮影できる時代なら、沢山の想い出を動画や音声で残していただろうし、その記憶を再確認出来ただろう。
しかし1980年代初頭ではそれは叶わぬ時代で、彼女の動画や音声は全くなく、写真と記憶のみだ。

そして考えた。

それなら私が残してあげればいいだろうと。


だからここに「彼女がこの世に存在した記録」を残すことにする。

佐藤千恵さんは確かに1988年3月26日まで存在していたのです。
タイムスリップして彼女に会えるなら、やはりあの話をするだろう。


例のアザは手術するな・・と。

少なくともそれをしないチャンスがあれば違う人生があったかもしれないと・・考えてしまう。


これから書く事は1979年以降に起きた私と千恵さんと彼女の友人たちの想い出話だ。



佐藤千恵さんは静岡県磐田市出身だ。
1960年3月10日生まれだ。
自営業の家庭で、地元もで名士の家だ。
一度だけ彼女の実家に行ったがいわゆる裕福な家庭の子だ。

私と彼女の出会いは、1979年、大学時代に遡る。

当時大学二年生だった私は、学校の喫茶室に目立った女子集団がいることを知っていた。
女子集団は美形揃いだし、品も良かった。
しかし彼らと共通の友人もおらず、なかなか知り合う機会が無かったのだが、
とあることから友人を通じてやっと彼女たち一群を知り合うようになった。
その中に佐藤千恵さんがいた。


当時の彼女は、ファッショナブルで、モデルような体形をしていて、また誰彼構わない交友範囲の広さを誇っていた。

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(上の写真は確か、アクアスキュータムのコートを買った

直後の写真だったと思う。当時相当お気に入りのコートだった。

そのメーカーが現代になって倒産の憂き目にあると知ったら彼女は悲しむだろうと思う。)


またハデな見た目とは異なり料理が抜群に上手く、彼女が作ってくれた料理の多くは私の人生で初めて食べるようなものが多かった。
(例えば”ダイコンのサラダ”とか”ほうれん草のカレー”とか何とかパスタ等など)
あれだけの料理を作れる女性を未だに知らないと言える位だ。

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(いつもここで料理をして振る舞ってくれた。)


当時彼女は狛江のマンションに弟さんと住んでいた。
両親公認の京都にある有名大学を卒業予定で博報堂に内定していた彼氏と付き合っていた。
Kさんと言ったかな・・。


ある時、私と群馬の友人H君は、彼女の要請で彼女の実家に行ってある用事をするために
レンタカーを借りて実家のある磐田に向かった。
当時のお母さんの言葉から、Kさんとの結婚をとても望んでいることが分かった。
(今の人には信じられないかもしれないが、1980年代当時は、女性の結婚適齢期は25歳より前だった。)


帰路、渋滞に巻き込まれた事と、途中、小田原で高速を降りて海沿いを走るコースに変更した事で東京到着が深夜になってしまった。
3人にとってとても楽しい1日だったが、我々と別れたあとの深夜、彼女にはそうではない事件が起きた。


翌日学校に行くと彼女の顔や胸元にいくつもの青痣があった。
話を聴いてみると帰宅してみると狛江のマンションに彼氏がいて、
帰宅が遅かった事を問い詰められたそうだ。
その後今でいうDV系の事が色々とあったということだった。

私は女性にそういうことをする男を見た事が無かったので衝撃的な経験だった。

どうやら千恵さんの彼氏はとても束縛の強い人物だったのだ。
まあ、それを責めるのは酷だとは思っている。
そういう男が多いのは事実だからだ。

千恵さんは彼氏を愛していたのだが、彼の強過ぎる束縛にはかなり困っていた。
彼女はどちらかと言えばオープンな性格で自由人であり、束縛が似合うタイプじゃなかった。
酒に酔うとちょっとフワフワしてしまうのが玉にキズだったかもしれない。


そしてそれらの相談に乗っていたのが群馬出身のH君だった。
H君は私より1つ上だったが、一浪していたので学年が一緒だった。
いつもサスペンダー付きのジーンズとシャツを着て、Dr.スランプに出て来るお父さんのような感じだった。
H君は私より世間を知っていて、千恵さんも同じく大人な感覚の人だったので、
二人は見た目は合わない美女と野獣型なのだが価値観が合っていた。



今でも思い出すのが、狛江の彼女のマンションで3人で朝まで酒を飲みながら
何を話すでもない会話を永遠とやっていた事だ。
私の人生であんなに人と話をした時間はなかったかもしれない。

BGMの音楽は大抵ユーミンで、特に「ミスリム」や「悲しいほどお天気」がヘビロテだった。
ミスリムの1曲目の「生まれた街で」が流れてきた丁度その時に、東の窓の先の風景から太陽が昇ってきた時があるが、あのアルバムや曲は今でもあの当時の印象を私に残してくれている。
この時期は本当に楽しい時間を過ごしていたと思う。

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(20歳になったばかりの頃の千恵さん。)



その後、博報堂に内定していた彼氏とは別れ、H君と付き合う事になった。
相談している間に2人は同期し始めたようだ。

実は、私はこの間、何となく千恵さんに恋心を抱いていて、結局失恋してしまったのだが、
あの二人はそんな私を包み込んで変わらずに友達付き合いをしてくれた。


我々が住む祖師谷大蔵3丁目に千恵さんが狛江から引っ越してきたのは1981年頃だったであろうか?
私のアパートから30秒、H君の住まいから3分の場所。
少なくともこの時期から大学卒業までの間は、私とH君、そして千恵さんは殆ど毎日会って話をしていた。
彼女の部屋は私の2倍以上もあり、また風呂付で豪華な住まいに映っていた。
現在その場所には当時の建物はなく、別の一戸建てが建っていて往時を偲ぶ事は出来ないが、私には当時のアパートが見える。

また千恵さんの家には大学の友人も多数訪れ、来ればワイワイガヤガヤのミニパーティーが始まる。
料理は殆ど千恵さんが作るのだが、やり手の女将さんのように捌いていた。
彼女は来るもの拒まずだった人なので、彼女のアパートにはいつも誰かがいた。
大抵はH君がいるので、大学失業前までは殆ど毎日彼ら2人と会っては
飲んで話をしているような感じだった。
(ちなみにH君は酒が飲めない)

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千恵さんは酒に酔うと自分のベッドに潜り込んで寝てしまい、残った男の2人でその後を過ごす感じだ。

彼女はアメリカに留学経験があったこともあり英語がペラペラだった。
私の友人のN君が就職試験と面談で英会話が必要となった時、彼女はずいぶんとN君を教育していた。
あの時代で英会話に堪能な人は私の周囲では2人程度だった。


彼女はとにかく明るい性格だった。もちろん人間なのでネガティブにもなるのだが、彼女はそういう時でも
前向きだったし、明るく振る舞う人だった。
その後病気で辛い時期も同じだった。
私と会っている時には全く自分の苦境を言う事はなく、それは他の人にも同じだったようだ。
私は根暗な性格なので、楽観的とも言える彼女が眩しかった。

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(自宅で電話する千恵さん。当時は黒電話だった点に注目!)



当時の日記を紐解くと彼女やH君との事が色々と書いてあるが、今では取り留めもないようなことばかりだ。
3人でよく行った場所の1つが湘南海岸だった。
大抵は土曜の深夜に車を出して行き、134号線沿いのロイヤルホスト辺りで一晩中お代わり自由のコーヒーで
安く上げながら朝まで話す、そんな時間が当時の私には宝石のようなものだった。
話の内容は、同級生や友人の恋の話だったり社会情勢だったり、音楽の話だったりしたのだろうと思う。
音楽の話はよくしていた。
サザン、達郎、ユーミンなど、彼らの作る音楽、歌詞、メロディーをそれぞれがそれぞれの想いで語っている時代だった。



彼女は時折六本木のディスコに通っていた。
女友達と一緒だったり一人だったりだ。
我々の大学時代の友人の中に高級ディスコで働いていた男性OT君がいた事もあったかもしれない。
龍土町辺りにあったというパシャクラブという名のディスコだ。
私は行った事がなかったが、フライデーという雑誌に芸能人絡みの記事で登場したことがあり記憶している。
彼女から聞かされるディスコの風景は、当時の私には届かない大人の世界をもたらしてくれているようだった。


彼女は何故かそういう場所が似合う女性でもあった。
彼女の妖艶な後光は、田舎者の私にはとても眩しいものだったと思う。

OT君は今でいうイケメン系の男性で大学でも女性に人気があった。
当時六本木に住んでいると言っていた。
彼はバイクが好きだった人物だが、ある日買ったばかりの高級バイクが盗難にあって
落ち込んでいた。大学生時代からホストクラブで働いていると聞いた事があるが、卒業後、彼の消息はいつの間にか知れずままになった。
多分彼は千恵さんが亡くなったことを未だに知らないかもしれない。


千恵さんがH君と付き合っている大学時代、3人でバイトをした経験がある。
交通量調査だ。
当時、学生にとって交通量調査は割のいいバイトだった。
このバイトは3日連続で1人当り36,000円をもらえるというものだった。
拘束時間は1日当り10時間。
当時私が友人から払い下げられて所有していた車を持っており、
その中に居ながらで出来るバイトだったので千恵さんを誘ったのだ。
千恵さんはバイト経験が無かった。しかし彼女には朝飯、昼飯を作ってもらう係になってもらい、
あとはH君と私が事実上のバイト作業を行った。
車内にずっといた千恵さんは、我々の話相手になってもらったり、暇な時間は後部座席で昼寝をしていてもらったりした。

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(バイト中の千恵さん)


実に楽しいバイトだった。
特に2日目には暴風雨が吹き荒れる天候で、車の中で仕事が出来て良かったと思った。
調査をした場所は勝どき橋の先にある交差点だったろうか?



私の大学卒業後の1983年、一度だけ彼女と2人でコンサートに行った事がある。
クリストファークロスの武道館公演だ。
見ていた場所は1階の東側の中段だったと記憶している。
彼女は私よりも洋楽に精通している部分があり、Steely Danを知ったのも彼女の自宅のステレオでガウチョを聞かされてからだ。
私が彼女と2人でコンサートに行ったのはこの時だけだったが、今でもフンワリと当時を思い出す。


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大学を卒業して結婚をするまでの短い期間だったと思うが、彼女は六本木のワインバーで働いていた。
交差点の近くだったと記憶している。
その店には1度だけ行った事があるが、彼女が働いていたのを見たのはその時限りだ。
ワインバーで働く彼女を見て私はちょっと複雑な気持ちになった事を記憶している。

彼女は大学を卒業してからまだ自分の中で何をやりたいとかやれたらいいかという事について
焦点が定まっていなかったのだろうと思う。ひょっとしてそんな自分に戸惑っていたのかもしれない。


大学卒業後、H君は群馬に戻り、千恵さんと彼は遠距離恋愛になった。
それが影響したのか、彼らは以前のような付き合い方が出来ないまま関係が自然消滅してしまった。
私は社会人になってからも彼女と比較的会っていたのだが、やがて千恵さんも大学卒業する年齢になった。
私も彼女も双方が社会人になると大学時代のように頻繁に合う事が減ってきた。
そんな中、ある日千恵さんから例の共通の知り合いであるシェフ君と結婚すると伝えられたのだ。


そうなんだ・・。

私は良いとも悪いとも思わずちょっと意外な告白を聴いていた。
千恵さんは、私や友人たちと関係性の良くない人物を夫に迎える事をちょっとだけ私に話ずらそうだった。
しかし、彼女なりの決断だっただろうから彼と私の関係は別にしてこれからも友達でいようと伝えた。

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上記の写真の机の位置からすると1983年~1984年頃だろう。
当時はサントリーホワイトが手ごろだった時代。



千恵さんの結婚に伴い祖師谷からの引っ越し作業は千恵さんからの要請で手伝わないことにした。
しかし荷物が片付き彼女が家の玄関を出る時、こっそりと別れの挨拶をした。
千恵さんの後ろ姿を見て、青春が消えて行くのを感じた。
千恵さんは我々より先に大人になってしまったかのようだった。

彼女がシェフさんとの結婚を決めた理由は知らない。
シェフさんは以前から彼女が好きで、相当なアプローチをかけられたということは風邪の便りで聞いた。
いずれにしても彼女は人妻になってしまった。

千恵さんが結婚式を挙げたという記憶がない。確か彼女の実家からは反対されていたような事を聞いていたし、友人連中とシェフ君とは折り合いが悪かったので、我々の知らないところで式を済ませたのかもしれない。

まだ学生気分の抜けない私は、彼女が届かないほどの大人の世界に足を踏み入れて消えて行く感じがしていた。

しかし彼女の苗字は変わってしまったが、私にとってはずっと「佐藤千恵」なのだ。


結婚後、手紙などのやり取り以外は音信不通となった。
そしてある日、祖師ヶ谷大蔵の居酒屋で彼女が病気を患っていることを知らされたのだ。


前述したが、千恵さんが今でも生きていたらどこで何をしているだろうか?と思う。
誰かの幸せな奥さんになっていたのか? それとも料理の腕を生かして繁盛する料理屋さんでもやっていたのか? それとも美魔女になって有名になっていたか?
想像が尽きない。
強がりでハデに見えたが、実は古風なところがあり、気使いもでき、傷つき易い人だったから、誰か強い男が必要だったかもしれない。
彼女にはそういう支えが必要だったと思う。


私は社会人となってから大学当時、彼女やH君と語っていた夢の一部を叶える事が出来た。
そういえば千恵さんの夢って何だったのだろう?
聞いた事なかったな・・。
多分聞いたら”毎日美味しいもの作って食べて、良い酒のんで、楽しい友人に囲まれていたいだけ”なんて
言うかもしれないな・・・。

彼女だったら実現できていたかもしれない。


逝去から30年。
私もH君も随分と歳を取ってしまった。

28歳という若さで、まだ生きたいと言いながら亡くなっていった千恵さんを思い出すと
今でも心が痛い。
こっちはあれから30年も余分に生きてしまった感じがする。

若干25か26歳で発病し、約2年余の間病気と闘い死んで行ったのだ。
その間の千恵さんの心の葛藤を私は全て共有している訳ではない。
彼女の心中を察すれば、言葉もないという感じだ。
友人として何も出来なかったと言っていい。


私も還暦に近くなったが、やはり昔の知り合いで一番会って話をしたのは千恵さんだ。
昔話をしたら意外な事実を聴かされるかもしれないし、違った話もできるだろう。


私もやがて千恵さんのいる場所に行くことになる。
その時の千恵さんは28歳のままの若さと美しさと元気さで
私や友人たちを迎えてくれるのでしょう。
こっちはジジイやババアになってしまっているから大変だ。


佐藤千恵さん、今度あの世で出会ったら改めて本気で泣けるかもしれないと思う。
その時が来るまで・・・・。


佐藤千恵さん、君は本当に素敵な女性だったよ。


また逢う日まで。



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1982年2月に湘南海岸で車のヘッドライトを使って撮影した写真。

彼女が映っている中で一番好きな表情をした写真だ。














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昭和40年代の長野県伊那市の風景、小学校のスケート、日影区のアパート [独り言]

去る2018年2月17日、小平 奈緒さんが女子500mで日本のスケート史としては初めての金メダルを取った。

数十年前ではとても考えられないような女子スケートでの金だ。
彼女はたまたま私と同郷の長野県出身者なのだが、そういう意味でも非常に誇らしい。
ところで彼女は高校時代に伊那西高等学校に通っていると聞いた。伊那と聞くと懐かしさがあふれる。


実は、私は1962年以降の3歳頃から小学校4年生まで伊那市に住んでおり、竜東保育園~伊那東小学校に通っていた。

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(上)1965年春頃の伊那東小学校。現在でもここは残っていたように記憶している。


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上の写真は天竜川にかかる中央通りに通じる大橋の高遠寄りの風景だ。
背景の建物は現在はない。


当時住んでいたのは日影区に今でもある市営アパート群の一角だ。

この時代、冬季は今よりもかなり寒いため、近隣の小学校は校庭に水を張り凍らせて
スケートを体育代わりにさせていた。
現在の伊那の気候しか知らない世代にはとても想像つかないだろうが、少なくとも50年近く前の
1960年代~70年代初期までは確実に冬の小学校の校庭はスケートリンクとして活用できる時代だった。

当時の様子はこのブログに掲載した写真で確認して欲しい。

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1960年代初頭の伊那東小学校で開催された校内スケート大会の模様。
寒い中、1日外で行うイベント。
400m競争で1位で滑走中に転んでどん尻になった記憶しかない。

中央左の古い建物は古くからあった校舎だが、私が小学校3年生位の時に
建物ごと移動させたのち、解体したような記憶がある。



当時の伊那市の冬季の朝は、当たり前のように零下だし、日中でも一桁の下の方の気温は当たり前だった。

下の写真のように冬季に伊那でもこの程度の雪は当たり前のように積もっていた。


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伊那東小学校の生徒は、朝学校に来るとスケート靴に履き替えて校庭に出来ているスケートリンクで滑る。
一時限目前までだから8:30頃までは滑っていただろう。また体育の時間も基本的にスケート。
昼近くになるとさすがに溶け始めて危ないので、体育の授業でスケートをするのは昼前までだったと思う。
当時はまだ今のような革のスケート靴が一般的ではなく高価な買い物だったために、
家庭の経済事情が厳しい生徒は「ゲタ・スケート」なる、手製のスケートを履いて滑っていた。


「ゲタ・スケート」とは、ゲタの歯の部分を取り去り、その部分にスケートの刃を固定したものだ。
鼻緒の部分を使って足を縛って固定するのだが、靴とは違い不安定で緩みやすい。
少なくとも私のクラスには1人か2人、「ゲタ・スケート」で滑っていた生徒がいた。

当時は多くの人たちが裕福ではなかったし、服が破れたりすると継いだりパッチを当てたりして
着ているのが普通の時代だったため、「ゲタ・スケート」を履いている子供が
差別対象になったりはしなかった。



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伊那東小学校。2008年4月撮影。咲いている桜は私が小学校一年生として

入学した際の記念樹だ。桜の咲いているところを見たのはこの時が初めてだった。
当時の面影はかなり濃厚に残っており、私もこの道を歩いて通学していた。


当時、一般的に普及していたスケート靴のメーカーは「SSK」だった。
「SSK」は野球用品のメーカーで有名だが、私にとってはスケート靴のイメージが遥かに大きい。

私の父は市役所の役人をやっていたので経済的に余裕があった方ではなかったが、
スケート靴は買ってもらえたし、母も時折近隣のスケート場で(大抵は湖が凍った場所を使っている)
スケートを楽しんでいた。


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上記は伊那西スケートリンクと名図けられていた伊那市西方にあった場所。


小平 奈緒さんは80年代の生まれなので、かなり温暖化が進み伊那でも冬の校庭に氷が張らない時代だったため、高校時代に伊那でスケートをしたことはないだろうと推察するが、
彼女がある時期、雪をたたえた仙丈岳などの南アルプスや中央アルプスなどの変わらない美しい景色を
見ていたかもしれないというのは何となく嬉しくもある。



当時私が住んでいた日影区は、現在のように舗装されておらず砂利道、土道だった。
牛車を使う農家も通行しているような場所で、至る所に牛糞が落ちているような時代だった。
現代の感覚では衛生上の問題を指摘されそうな感じだが、当時はおおらかな時代だったので
避けて歩いていた。(たまに踏んでしまうのだが・・・)

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写真上は、日影区の市営アパート前から市内に通じる道路。
まだ砂利道で舗装されていないのが分かる。
昔は大抵の道はこんな感じだった。



また市営アパートの前の段差は宅地開発前だったため森が茂っており、開発途中の山を切り崩した場所は
むき出しのままだった。子供時代の私はそういう場所に秘密基地を作って友達と遊んでいた。
現在の同所は全て宅地で埋め尽くされており、往時の様子とは随分違う。

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上の写真は、当時私の家族が住んでいたアパートで写真に見える棟だ。
背景には家がぎっしり建てられているが、先に掲載したスキーをしている

写真の背景と比べれば変化が分かると思う。


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アパートの共有公園付近からの様子。
当時はこの辺りで暗くなるまで遊んでいた。
2012年7月撮影。



市営アパート周辺には二軒の雑貨屋さんがあり、みどり屋さんと千代田屋さんと言った。
数年前に行って見たがみどり屋さんの場所には別の家が建ち、千代田屋さんは建物だけが残り廃業していた。
みどり屋さんの想い出は、メキシコオリンピックを見て感激した子供時代の私は、どうしてもメキシコシティーに行きたくなった。
そして母からみどり屋さんのおばさんの娘さんがメキシコに留学していると聞いたので、
おばさんにメキシコに行くための話を聴きに行った記憶がある。

千代田屋さんはとにかく夏のアイスクリームと大判の醤油せんべいを買った記憶が強い。
まだ10円のカップアイスや当り付きのバーアイスが売っていた時代だが、当時の私にとっては
50円を超える買い物は相当なものだった。

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千代田屋商店さん。2012年7月撮影。
子供の頃、この店は私のオアシスだった。


私は日影区の奥にあった中学校の前に建っていた三角屋根のお宅に住むピアノの先生からピアノを習っていた。
この家は現在でも同じ場所にあるようだ。
私は当時から譜面が全く読めなかったのだが、先生の弾いているピアノを見聞きしてマネるのが上手く、
結局4年間、私が譜面が読めないことを理解されず、結局私は初見では譜面が読めないままとなった。


IMG_20180108_0014.jpg

伊那東中学校の校門前の様子。右奥の三角屋根のお宅が
ピアノの先生のご自宅。当時はこのようなデザインの家がなく
とてもモダンに見えていた。
(その後私の実家には同じデザインの家が建つ)


昭和40年代前半の伊那市の風景の一部でございました。



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結局才能ある若者たちはヒップな産業に集まる [独り言]


私は1959年生まれだ。


私が青春を過ごした時代に憧れの産業は音楽業界だった。
特にレコード会社やアーティスト事務所は垂涎の場所であり、
実際に時代の先を作っていたのは明らかに彼らだった。


現代に目を移すと音楽業界は見る影もなくなった。

何故か?


この年齢になると若い人たちの日ごろの興味どこにあるのかが疎くもなるが、

日常の行動を見ているとどうやらその原因がスマホゲームにあるらしいと感じた。


実際に電通総研が発行した情報メディア白書を見ればそれが数値的に分かる。

2015年の音楽産業全体の規模は1.5兆円程度だが、ここ20年で25%マイナスだ。
いわゆるフィジカルと呼ばれるCD販売の市場は2千億円程度で、
これはピーク時の1997年の1/4程度に縮小している。


反対にゲーム産業はこの10年で40%伸び1.7兆円規模に成長し、
特にスマホゲーム市場は約1兆円近い支配力を持っている。

音楽産業の75%に匹敵するマーケットが1つの事業ドライバーで成立しているのだ。

私の時代に才能ある若者たちは音楽産業やその周辺に集まり時代を作る音楽を生み出した。

才能が集まるから当然のようにヒット作品が増え、更に才能が集まった。

昨今ヒット作品と言われても誰も歌えない100万枚ヒットと呼ばれる一連のアイドル作品や、
年間ベスト10チャートが3組程度に寡占化され、多様性を失ったチャート、
また配信チャートとCDチャートとの大きな情報乖離を見るにつけ、
明らかに音楽業界が部分的に劣化していることを感じる。


こういう現象が起きている原因は1つだろう。


才能のある若い連中が集まっていないためだ。


ではどこにいるのだろうか?


現代において才能のある若い連中は、スマホゲームを開発している会社に集まっていると見ていいだろう。

若くてアンテナが敏感でクリエイティブの高い連中が縮小マーケットを目指すはずがない。


かつて音楽産業が華々しい時代を考えれば、現代においてそれに該当するのがスマホゲームの産業だ。
なんたって1兆円を超える規模になっているのだ。今後更に伸びるに違いない。


現場でゲームを作っている人たちの行動を見聞きすると、それはかつての音楽制作現場とソックリだ。
好きな連中が好きなだけ時間とエネルギーを注ぎ自分たちの頑強なコダワリを込めている。


そう、かつて音楽産業が華々しい時代だったのは明らかに素晴らしい才能を吸引する市場と規模があったからだ。
残念だが音楽産業はその役割を終え、位相を変える時代になっている。K-POPが日本で市場を作り始めたのは
その兆候と見て良いだろう。


そしてかつての音楽産業に匹敵するヒップさをもっているのは、スマホゲーム産業だということだ。

そして若い才能はそこを目指す。


ゲームだけでなくゲームから派生したグッズビジネス、ライブエンタやアニメ化等の事業も展開しており
映画産業と同じようなモデルで成長することになるはずだ。


現在の日本のレコード会社において最大の問題は30代のスタッフの希薄化だ。
そしてミュージシャンにおいては才能の絶対的な流入数の減少で更に厳しい。

私にとってミュージシャンとは未だに憧れの存在だが、現代の若者にとってはそうでもないということだろう。

時代と言えばそれまでだが寂しい限りだ。


しかしスマホゲーム産業とて30年後にどうなっているかは分からない。
そういう意味でこうした流れはいずれ繰り返されるのだろう。

エイベックスは音楽制作部門をライブエンタ部門内に包括しているし、
今後大手レコード会社でも似た様な事が起こるだろう。


音楽産業にとって音楽配信とライブエンタが音楽ビジネスの二大柱になることは疑いようがなく、
CDは遺物になってしまうだろう。
そうなった場合、音楽産業はいずれアーティスト中心ではなく、外部のメディアと連合した形で
生き残りをかけることになるだろうと推測する。


またK-POPの台頭は日本のアイドル産業に外圧としてのしかかり、彼らとの連携が日本の芸能産業としての
生き残りを左右する時期がもう目の前だと言ってもいい。


エンタメ業界も新しい時代になったと思う。






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