あるコンサートに行って感じた違和感。 [独り言]
先日、私が中学時代からファンであるアーティストAさん(イニシャルではなくただの記号として記します)のライブに行ってきた。昨年も2回行き、ここ10年近くはコンスタントにAさんのライブに行っている。
Aさんが現在ツアー中なので、あえてアーティスト名を伏せて感想を書きます。
またツイッターを見ると例外なく好意的な感想ばかりなのだが、私はあえて批判的な感想に終始してしまうので予めご容赦願いたい。
今回はAさんの通常動員からすればかなり小さ目の小屋のツアーが始まったからだ。いわゆるライブハウスよりは大き目だがホールよりはかなり小さめという感じだ。
そんなAさんのライブ企画に興味をソソラレて、チケットを申し込んだ。一番行きたかった小屋は抽選に2回漏れ、別の都内の小屋で当選したので同伴者と行ってきた。
同伴者はここ10年位Aさんのライブに一緒に行っている人物だ。
ステージにメンバーとAさんが登場し、演奏の布陣が見てとれた。今回は小屋も小さいため昨年のホールツアーと比較してメンバーで3名少なく、またキーボード以外のメンバーは全員新しいミュージシャンだった。編成構成はドラムス、ベース、ギター、キーボード、歌(+ギター)。
1曲目が始まった。Aさんの名曲の1つだ。そしてその後もAさんの名曲群が演奏される。しかし私は1曲目開始直後から違和感を感じており、それがずっと解消されなかった。1曲目開始直後の違和感の象徴的だったのはいつもAさんが弾いているギターにコーラスがかかっていたことだ。これは過去10年近くライブで見聞きして初めてだったと思う。
何故Aさんのギターにコーラスがかかっているの?? まずそこから引っかかってしまった。そのままの方がいいのに・・。
その後も素晴らしいセットリストが進むのだが、全く楽しくない。何故だろう?
1部と2部構成だったが、2部の最後の曲が終わるまでずっと違和感が消えなかった。
モヤモヤしたままだったのだ。
今回のツアー、小屋を小さく設定しただけでなくいつもとは違うミュージシャンを使って人数も違う編成でパフォーマンスしていた。
AさんのMCでの説明もあったがこれは意図的なものだ。
終演後、会場を出て帰路につく途中で同伴者がポツンとつぶやいた。
「なんか、ピンと来なかったね・・」
私はその言葉を聞き思わず「えっ、そう思ったの?」と聞き返した。
実は同伴者にAさんの音楽を紹介したのは私だが、ここ10年近く私よりもAさんの音楽を聴く程なっていた。同伴者が私とAさんのライブに行くようになったのは前述したようにここ10年程度だが、絶頂期は知らないまで多少の変遷を経験している人だ。同伴者はめったに批判的なコメントをしない人物なのだが、その人が一言ピンと来なかったと言うのを聞いたのは私にとって重い言葉だった。
「私もピンと来なかったんですよ・・、何でしょうね? この違和感は・・。気の抜けたビールみたいだったよね」と返答した。同伴者はちょっと笑ったまま答えなかった。
私は違和感の正体を考えてみた。
まず、バックの演奏者が大幅に変わった。Aさんの説明では若いミュージシャンと一緒にいつもとは違う小さめの小屋でやってみようというライブコンセプトだったようだ。それはそれでいいのだが、バックのメンバーが変わり編成人数が減るということは、各自の演奏力が高くないと演奏全体がまとまり難いと言うデメリットがある。
従って各自の演奏の「繋ぎ」的な音像を作るために演奏力の高いミュージシャンであることが要求される。ライブを通じて感じた違和感の1つがバンドの演奏力のなさだったと思っている。
少なくともAさんが通常のライブで一緒にやっているバックミュージシャンは一流と言えるレベルなのだが、今回のキーボード以外のメンバーは全員30代~40代前半までの人たちだ。メンバーの経歴も調べてみたが、なるほど・・という感じだった。少なくとも経歴を見る限り、いつものメンバーとは経験しているミュージシャンの層が全く違う。
私のような見方をしていた観客は多分居なかったと思うが、メンバーの出音(楽器を鳴らす力)や演奏構成力が圧倒的に足りないと思った。
音はPAされているのでそれなりに出力されているのだが、楽器があるべき姿として鳴っていないのだ。
フォーリズムを構成するメンバーの楽器が鳴ってないからバックの音がひ弱で貧弱なのだ。キーボードだけはいつものメンバーなのだが、鍵盤だけでどうにもなるはずもない。そこにAさんの唄とコーラスのかかったギターがいる。
いつもならもっと歌えているAさんの唄は、バックの貧弱さに足を取られているかのように貧弱さを露呈しており、時折ピッチも外してしまう。年齢によって歌が昔ほど歌えないAさんにとって今回のパフォーマンスはちょっと致命的にも思えた。
特に私の同伴者はAさんが今までのように歌えていなかった点に不満をもっていたが、その理由の1つにはバックメンバーの選定ミスがあったと思っている。カラオケ屋で経験があると思うが、歌唱というのはバックの音の密度やグルーブに信じられないほど影響を受ける。
1曲目の名曲の歌い方も、私の視点からは手抜きのように思える感じだった。リハーサルでもしているのかな?と思うような感じで、あれが本番の歌い方だとしたらちょっとリラックスし過ぎだと思った。
そうなのだ。何かAさんの今回の唄には「魂」が感じられなかったのだ。
「魂」が感じられなかったのは本人の責任が一番大きいが、バックの演奏がAさんの唄をサポートしエネルギーの度合いを上げられなかった点もあるだろう。これは先ほど記したカラオケ屋の話と同じだ。
Aさんはどのように理解しているか分からないが、若いミュージシャンたちはいつもの一流のミュージシャンたちの半分程度のレベルで、残念ながらAさんのレベルとは釣り合わなかったのだと思う。
若いミュージシャンたちは30代後半から40代前半だと思うが、残念ながらこの年代のミュージシャンは本当に上手くて要求の厳しいミュージシャンたちとセッションをしてきた経験が圧倒的に少ない世代だ。
従って全体的な技量も落ちる。またデジタル時代のレコーディングが主流になってからのミュージシャンであるため、アナログ録音時代の人々よりも演奏技量の細部の詰めが甘いため、特に少人数のライブでの技量の甘さが露呈しやすい。
私と同伴者はそうした違和感の総和を感覚的に感じてライブを見ていたのだ。実際私はライブを見ながら演奏のダメ出しをしているような状態だった。(だから楽しいはずがない)
同伴者は私のような経験のない人間なので、私のような分析をできないが、明らかに同じような違和感を感じた点において凄いなと思うと同時に、質の劣化を直観的に理解していたのだろう。
2011年に日本でのライブ活動を復帰させた八神純子さんのライブを初めて見た時、一番の違和感はバックの演奏力のなさだった。八神さんは自分のピアノだけで十分歌える人物なので歌への違和感は全くなかったが、バックの演奏の貧弱さと物足りなさは以前ブログにも書いた。
その後八神さんは日本でのライブ活動が想定よりも集客できることで自信を得て、バックのミュージシャンの選択も一流どころになった。当然だが、一度一流と演奏したら二度と二流とは出来ない。2011年にやっていたバックとのコンサートはなくなり、現在は村上ポンンタ秀一氏などのお歴々とセッションをしている。彼女のレベルなら当然だろうと思う。
一流のミュージシャンと二流のミュージシャンの間には限りないギャップが存在する。
今回Aさんは残念ながらミュージシャンの質を落としてしまったことでご自身の唄の質まで落としてしまったようだ。バンマスでキーボードの方がその変化に一番気が付いているかもしれないと思う。
この先、ツアーは夏まで続くようだが、次のツアーは是非とも元のバックメンバーに戻してホールツアーとして再開して欲しい。ミュージシャンは自分のやることに飽きてしまって時折やらなくていい事をするが、Aさんに置かれましては今回の件を最後に、元のクオリティーに戻すようにご配慮願いたいという感じです。
特に来年は大事な周年が待っておりますから。
何となく世情をつぶやく・・。 [独り言]
昨今、安倍政権がちょっと危うい。
だからと言って特定野党の支持者でもない。
いわゆる浮動票行動をする人間だ。
野党にしても素晴らしい政策や行動をしてくれるのであれば、当然応援するし、
自民党政権でも同様だ。もちろん反対の事も起こる。
その予告をつらつらと他の事を含めてつぶやくので、興味があればお読みください。
なお、政治的な話をすると色々なご意見を頂くと思うので、コメントについては一旦当方側で引き取るつもりです。
また仮にコメントを頂いても当方側から反論等をするつもりもありません。
あくまでも個人的なつぶやきですから。人を傷つけない範囲で自由に意見が言えるのが日本です。
さて、私は中道の人間だと思っている。
だが、だからと言って全く思想信条が無い訳ではない。
例えば若い頃は天皇の存在に何となく違和感を持っていたが、学校の歴史教科書を離れて自分で歴史の勉強して掘り下げると日本にとって天皇の存在が背骨だと理解できるようになってきた。
これは国家教育がそうさせたのではなく自分で勉強して得た結論だ。歴史的事実を読み解くと、万世一系を事実として信じるのは難しいが、日本は天皇というシステムを途切れなく維持してきたことは事実であり、それが日本の歴史に欠く事の出来ない影響を及ぼしている点は疑いない。
従って共産党のように天皇制を否定する考え方は全くない。
少なくとも日本国にとって、天皇の存在を否定した歴史を日本国民が語る事は出来ないと思っているからだ。
共産党のように自衛隊の存在を否定したり、左翼系のように暴力装置などというのは言論の自由だが、
北朝鮮を見ても判るように安全保障としての軍隊を保持しない国家では安心して暮らせるはずもない。
自衛隊反対派には安全保障の対案があるだろうか?
一定の議論を経たらそういう部分に終止符を打って現実の安全保障に資する議論に移る時だと思っている。
仮に歌舞伎町のど真ん中に自宅があったとしよう。
暴力団や怪しい半グレ集団や外国人犯罪勢力に囲まれて暮らす事を余儀なくされてたとすれば、
自宅や周辺に厳重なセキュリティーをするだろう。
今の日本国のおかれている状態はそういうことなのだ。
かつての社会党は非武装中立を掲げていたが、こういうファンタジーを現実の政治に持ち込む辺りのセンスのなさが流れを汲んだ社民党の凋落の証だろう。暴力団や怪しい半グレ集団や外国人犯罪勢力に囲まれてセコムを解除したらどうなるか理解できそうなものだろう。
リベラル系の弱点は理想論と現実社会の間への落としどころを見つけられないという点だろう。
ただ旧リベラル系政権の擁護を1つだけしておけば、労働者の地位向上への貢献だろう。
中には暴力的な対応をした時代もあり、彼らの活動や過程の全てに賛同する訳ではないが、
資本側が労働側に強いていた不当な労働環境の大幅な改善においては一定の評価すべきだろうと思っている。
実際、我々はその積み重ねの恩恵の上で生きている。
さて、自衛隊に話を戻す。
憲法学者が憲法の仔細微細な解釈から自衛隊の存在そのものに反対する意見は分からなくはないが、
歴史的要請によって発生し存在を容認され(容認されてないと言う人もいるが多数ではない)定着しているものを、法的理屈だけを振りかざして現状を否定しても生産的でも建設的でもないだろう。
理屈の先に何か具体的な施策があるというのだろうか?
学者は毒にも薬にもならない理屈や論理を披露するのが仕事みたいなところがあるが、
折角頭が良いのだから自分たちの仕事がもう少し世の中に具体的に役に立つ方法を考えてもいいだろう。
三権分立という建前はあるが、人間の営みは必ずグレーな部分を孕む。
三権分立は現実社会において三竦みで決して理論のようには運営されていない。
その上でどうするのか?が学者諸氏の腕の見せ所だろう。
人間が日々を営む上でのそうした現実を無視してはならないし、同時にその事実と戦う必要がある。
人間が作る法律は完全無欠ではない。
完全であろうとすることは全く否定しないが、現実はそのようになっている。
そういうことを踏まえて現実対処をどうするか?が考えるべきことだろう。
信念は個別にあって良いと思うが、現実社会で実現不能な信念は宗教に近いと言うべきだろう。
現実に即さない根拠を正論として振りかざすだけでは課題解決しない。
だって「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」って書いてあるからだ。
そもそも民主主義とは民が中心というのが建前だ。
学者が総がかりで解釈しないと正しい解釈にならないような文章を国家の上位法にしていることからして可笑しいとも言える。平易に解釈して成り立つものでなければ本来の意味で立憲であろうはずもなかろう。
憲法第9条の解釈は国連憲章との連動性など様々な見方、意見があるが、一般庶民的な観点で言えばそういう事だ。
ただ第9条に自衛権確保のための軍事組織の保有について書いてあえて書いてなかったのは手抜かりだったと思う。
先ほど私は憲法第9条の解釈は普通に読めば軍隊の保持が違憲だろうと言った。
それは他国を攻めに行く事を前提とした軍隊であり、セコム行為を否定する訳じゃないと思っている。
つまり自衛権だ。でもそこがちゃんと書いてないからややこしい話になってしまった。
さて、自衛隊を違憲だとして扱えば、日本は安全保障的に丸裸になり、他国からの脅威に対応できない。日米安全保障でアメリカが守ってくれると考えるのは妄想に近い。彼らが日本を守るとすればアメリカの国益に叶うかどうかの時だけだ。
表向き独立国である日本が自分たちの意思で国民の安全と生命と財産を守れない国になるのは国民として不安に思えないか?
その過程でアメリカの関与があった事は事実だ。
残念だが、日本が戦争に負けた。それが全てだ。
法律的には継子扱いされ、心無い連中は自衛隊員や家族の存在すらも否定的に扱われてきた。
「軍」じゃなくて「隊」ってことだ。しかし海外では軍隊と言っている。
これはそうしないと違法な殺人集団扱いされてしまうからだ。
もちろん法律は言葉と定義の集積だから、言葉の選択は重要だと重々分っている。
そもそも日本国憲法の原文は英語だ。我々が知っているのは日本語だが、英語としての解釈を議論の遡上に上げている人は少数だろう。しかし重要な部分の解釈にこれだけの幅があるのはある意味悪文だと言っていい。誰にでも同じように分からない憲法ってそもそも何なのだ?という事を考えてみたことはないのだろうか?
それでも「隊」は「軍」じゃなから軍隊じゃない、「戦闘」行為は軍の行為で「武力衝突」は戦争行為の範疇ではない等を見聞きし、時間の無駄とも言える議論にエネルギーを注ぐのはそろそろやめようと思わなかったのか・・。
安倍首相が自民党の憲法部会をすっ飛ばしたのは、学者や政治家が集まって結論のない議論を延々として、
会議が目的化したような体たらくを真近で見ていてこれじゃダメだと思ったからだろう。
さて、自衛隊は違憲であり、完全に否定している人たちは、仮に災害、もしくは他国からの脅威によって自衛隊に助けられるような時があった場合、どのように対応するのだろう?
「お前らは憲法違反だから私を助けなくていい」って言うだろうか?
そこまで肝に据わった政治家、学者や民間人は居ないと確信している。
法整備と組織と運用でなされる。
極めて実務的な話だ。
いずれにしても憲法改正には国民投票が必要だ。民主主義国家だから議論すればいいのだ。
議員での可決上程すらもハードルが高いが、決めるのは国民投票だから上程なんて色々と何度もすればいいのだ。
憲法を金科玉条のように1ミリも触らない事を望む人もいるだろうが、
そういう人には前述した肝の据わりがあるかを確認したい。
あなた方は他国かの侵略があっても黙って死んでゆけるほどの覚悟があって言っているのか?だ。
私は嫌だ。
現在の自衛隊の状態は人権侵害だと思う。
そういう観点からも自衛隊の存在を正式に認めるべきだろう。
その上でシビリアンコントロールを厳格に利かせる実務構築が必要になる。
我々は明治維新以降に起きた数々の戦争によって軍部が暴走するのを体験している。
それは二度と犯してはならない。
正直言うと自衛隊という言い方も止めた方がいいだろう。
しかし日本国民は言霊集団なので、自衛隊が国民軍となっただけで騒ぎ出すに違いない。
無用なエネルギーを削ぐなら自衛隊でも構わないが本質論ではないのでどうでもいい。
そして日米安全保障条約と自衛隊も不可分だ。
さて長くなったが本論に戻ろう。
私は政治の大きな仕事の1つは国内経済の安定と安全保障だと思っている。
安全保障については上記した通りだ。
平和が維持できなければ経済活動はできないし、
また国内経済がある程度キチンとしていなければ社会は不安定になるからだ。
会社員なら分かるだろうが、事業計画を立てる時、トップマネージメントが戦略を示し、
実務者のである社員が戦術と実務を担う。
また戦略には会社の主たる方針が示され、極論それ以外に時間と資本とエネルギーを配分するなという事だ。
事に対処するという意味で優先順位を必要とする部分はある。
全てを等間隔でやると非効率だからだ。
上記のようにまず日本政府が優先してやるべきことは「国内経済の安定と安全保障」だ。
その上で他の政策等に手を伸ばす感じだろう。
私は安倍首相に対して特別に好きキライは無いが、少なくともこれまでの経済政策においては評価すべき点が多いと感じている。
外交について対米追従を批判する人が多いが、戦争に負けた日本の歴史を鑑みて
一番戦争していはいけないアメリカとの距離感に敏感でない政治家は日本を危うくするだけだ。
石原慎太郎氏は、「日本はアメリカの妾」と言い放ち、実際それは悲しいほどの事実だが、
それでもアメリカと事を構えるのは安全保障上不利だ。
それでも独立国としての矜持は見せて欲しいと願うが、そこに力点を置き過ぎると違う意味での国益を損なうのが現実であり、非常に歯がゆく難しい。
さて、経済面の成果だが、
まず、失業率は下がった。もはや下限値と言ってもいいくらいだ。従って2010年以降の自殺者は8000人近く減っている。
「従って」と言っているのは自殺者数と失業率には相関関係があるためだ。これは多くの経済学者が同意するだろう。株価は政権発足当時と比較して2.5倍近い。株価が上がった要因は日銀の金融緩和と言ってもいい。
福井俊彦、白川方明氏のように引き締め一辺倒が長いデフレの原因の1つであることは疑いの余地がないが、20年の長きに渡り庶民も企業もこれに苦しめられたのだ。
しかしデフレ状況はまだ完全に脱したと言えない。インフレ率は実質0.5%程度らしいので全く合格点ではないが、少なくとも10~5年前のデフレと比較したら改善傾向にあると言っていいだろう。
自分を振り返っても30代~40代が一番年収が上がる時期で、一番金を使いやすい。
その時期に非正規雇用者の年収は上がりにくく、また将来が見えにくい。
そうなれば当然金を使わないだろうし、使いにくいだろう。
またこうした傾向は正社員にも波及していると思う。将来が不安だから貯蓄に走る。
結婚もしないから消費への影響が大きい。結婚式をしない、車を買わない、家を建てない、故に家財道具も買わない。
大きな買い物をしない層が増えた事は経済面に与える影響は大きいだろう。
アベノミクスの効果に疑問を投げかける人達はこの辺りへの回答がないという点については
同意できる部分があるが、これは安倍政権だけの問題ではなく、
その前の政権からも続いていた問題だ。
同一労働、同一賃金問題があるが、私個人は、非正規労働者の規制改革を以前ような一部の職種に戻すべきだと思う。
非正規労働者はあくまでも例外とし、正社員労働を標準とし、その上で、働く側に選択枝を与えるような政策にした方が良くないだろうか?
同一労働、同一賃金問題の究極は、非正規労働者=正社員労働者だからだ。
この点において小泉政権下の規制緩和は誤りだったと思っている。
そういえば、黒田総裁の金融緩和やマイナス金利でハイパーインフレ懸念を声高に発していた政治家や経済学者が多数いたが、まだ0.5%程度なのにハイパーインフレ(1億%以上)になる訳がないのは議論の余地がない。
日銀による国債の買い入れを問題視する人たちがいるのは事実だが、現状長期国債の利率は2%に達していない。少なくともマーケットは日銀による国債の買い入れを全く問題視してないと見るべきだろう。
失業率の下落を団塊世代の離脱を理由にする経済学者もいるようだが、
過去のデータで見ると、どの時代でも同じ程度の数値で離脱者がおり、
失業率の低迷は政策にあるというのがフェアーだろう。
経済政策の成果を評価していたが、本家の日本経済新聞にその記事がそうした趣旨で載る事はなかった。
その中の意見には考えるべき課題があるのも事実だ。
しかし反リフレ派が長年やってきた、緊縮財政、消費税増税、金融引き締めによる経済効果はどうだったのか?
長い低迷とデフレ不況を生みんだ。
企業業績は先が見えずモノが売れないため賃金が下がり、非正規社員を数多く生み、新卒者の就職に多大な影響が出た。アベノミスクは完全ではないし、課題も多い。
こういう経営者普通キチンと評価される。
さて森本問題、加計問題に文書き換えや文書隠匿で本筋の政治が全く出来ない状態だ。
従って事の本質は、事務方の業務瑕疵であり、政権運営の本質とは直接関係ない問題だ。
それでも管轄大臣は責任があるので、内容に準じた処置をすればいいのだろう。
加計にしても近畿財務局の官僚がヘマをしただけだと分析している。
それ以上それ以下でもない。
計量経済学者の高橋洋一氏が言うように、元々曰くつきの土地だったのに、
最初から入札にすべき案件を随意にしたのが間違いだったということだ。
おまけに籠池夫婦というキャラの濃い人に役人が翻弄されたということもあったろうし、安倍夫人も余分な事を言ったりしてしまったのでマスコミの餌食になった。
籠池夫婦の長期拘留に人権問題を言う人々もいるが、ホリエモン、佐藤優に限らず警察や官僚組織に対して
無用にたてつくとこういう目に合うのは歴史が証明している。
不法な長期拘留には大反対だが、法律ギリギリで運用されたら手も足も出ないのが現実だ。
当事者からすればたまったものではないが、そういう事は生きる上で理解しておくべきだろう。
当時の担当官僚が把握していなかっただろうという高橋氏の推定は非常に納得感がある。
またマスコミ報道は加計学園の申請と認可を区別せずに論議しているが、特区としての役割は「申請」だけであり、「認可」は文科省の官僚が組織する別の部隊が管轄しており、ここには政治家が入れる余地がない。審議過程の議事録も公開されている。加計理事長は総理の友人だから怪しい、だから審議にも影響を及ぼしだに違いないというのは邪推が過ぎる。事実として分かっているのは「加計理事長は総理の友人」という点と特区によって50年間門前払いされていた「申請」をすることができるようになったという点だ。
こうした情報の発信現のほとんどはラジオやネットが中心でテレビや新聞ではほとほと薄い。
ラジオに関して言えば、放送局によって偏りがある点が仕方ないが、数局を聴いていればかなり広い幅で同じ問題の見方に接する事が可能になる。ラジオはテレビよりも1つの問題への対応時間が長い。
そうした情報を元にしてネット上で似たような情報へアクセスすれば、一定程度極端な論調から距離を置く事が可能になる。
さて文書き換え問題にしても大きく言えば政権に責任の一端はあるだろうが(つまり上部組織の監督者としての責任)、現場の連中の文書のやり取りまで全ての過程に関与している訳ではないのは、それなりの組織で仕事をした人間なら想像が付くだろうから、一義的には管理職の連中に責任がある。
時間の幅を拡げてみれば、民主党政権下においてもこうした問題があっただろうことは想像つく訳で、当時の民主党の大臣連中が現在の政権に言っているように全てを把握してやっていたのか?は言うまでもないだろう。
彼らも決裁文書を全て完全に把握して署名捺印しているはずだが、そんなヤツは会社でもなかなか見た事はない。
一部上場の社長が、自分の名前入りの契約書や決裁書を現場と同じ情報量で把握していたら仕事が回らない。
ポイントだけの把握で仕事を回せるから重要役職者は他の重要な仕事に時間を回せるのだ。
当然政治の世界も同様で、事務方がキチンとやるから政治が回せるのは道理だろう。
従って事務方に不備があると今回のようになる。
野党のこの点での追及は正論と言えども現実的ではない。
それにしても財務次官のセクハラ問題はタイミングもやっていることも対応もまずかった。
セクハラ問題は決して軽い問題ではないが、北朝鮮問題、外交、経済問題など様々な問題・課題をクリアーしなければならない中で、こうした問題の発生は事務方のトップとしては絶対に避けるべきことだったとだけは言っておこう。そのために財務省は東大法学部卒を採用しているのだろうが、今回の事で偏差値と性癖には関連性がないと分った。
安倍政権がここまで様々な問題に見舞われているのは先に書いた憲法改正に反対の勢力か消費税を確実に上げたい財務省だと思うのだが、財務省はトップの辞任問題もあるから、どうやら憲法改正に反対の勢力が工作しているという方に説得力があるようだ。しかし確証はない。
ここからが本論だ。
この先、安倍政権がどのような対応するかとマスコミの空気の作り方によって日本国民の未来に相当が影響が起こる。端的に言えば、岸田文雄氏、石破茂氏、はたまた野田聖子氏、小泉進次郎氏辺りがポスト安倍として
失業率は4%を超える域に上昇し、当然自殺者も増え、新卒者は氷河期を迎える。人々は貯蓄に走り更にモノが売れなくなり、企業業績は悪化し、給与が下がり、場合によってはリストラだ。
仮にそれが2020年の五輪後の経済低迷に重なれば相当なダメージがあるだろう。
安倍政権に問題があるのは分かったが、首相を交代してもいいが経済運営は継続してくれ、だろう。
もしくは安倍政権にそのままやって欲しいと言うだろう。
人によってはアベノミクスを急激にシフトチェンジしないと語る人もいるが、
マーケットは反アベノミクス派だというだけで将来を悲観しそれが市場に数値として織り込まれ現れる。
数々のスキャンダルについては、メディアの印象報道や化粧の厚い情報操作もあり、
全てが世間で言われているような感じだと思っていないが、それでもこれだけ色々と出てしまうと印象が悪い。
「森加計福田」「文書問題」と様々な課題の多い政権だが、国会がエネルギーを注ぐべき部分を整理した方がいいだろう。
今の野党の状態で連立過半数なんて維持できるはずもない。
希望の党と民進党が合併なんて話もあるが、つい昨年分裂したばかりじゃないか。
バカも休み休み言えって感じだ。だからあの連中は信用されない。
立憲ははなから政権を取る立場を放棄し、ヤジを飛ばしているだけの集団だ。
責任のある政党を自認するなら、政権を取った時にどういう政策を実現して行くのかを示すのが礼儀だろう。
(そういえば、河野外務大臣が一度だけ中国の再生エネルギーへの対応を見て日本の状態が危機的と発言したが、その後報道からは消されてしまった。多分、東京電力辺りから圧力があったのかもしれない。
そういう意味で野党にもチャンスがない訳じゃない。)
いっそ小泉さんがどこかの野党統一政党の党首になって、なかなかまとまらない野党の連中を引っ張れば
勝てる可能性だってあるのだが、野党には小泉さんのような人材がいないのが勝てない最大の理由だろう。
希望の党の時は民進党の腰の据わらない目先の議席が欲しい連中が小池さんに託したが大失敗。
野党の最大の問題は、リーダーと目される人材が全く見当たらないことだろう。
毎回投票先を迷う私のような人間にとって、共感する野党があったとしても入れたい人が自分の選挙区にいないなんていう経験をした人は多いだろう。
そしてそれは結果的に自民党を利する。欠席は現状維持の表れだからだ。
「政治は数だ」と言ったのは現在野党議員の小沢一郎氏だが、少なくとも野党結集をする意味では正しい理屈だ。
数が集まらなくてどうやって自民党と公明党の連立を崩せるというのだ。木を見て森を見ずの典型だ。
右から左までずらりといて、それぞれが丁々発止しているが、
ある一定のルール下で決まった点については大人の対応をする。
それは自民党という政党にいることのメリットが物凄いインセンティブになっているからだ。
だからあの辺の安定感は捨てがたい。
そのトラウマは、結局左派系政党には政府の舵を任せる事が出来ないと身に染みてしまった事だ。
左派系政党にも非常に優秀な議員が多いと思っているが、
いかんせん自己主張が強くチームプレイをする際に能力が劣る。
また菅政権にしろ鳩山政権にしろ、巨大組織運営の経験のない人たちが
突然ジャンボジェットのコクピットに座ってしまい、
どのボタンを押したら飛行機が動くのか分からなかったといった感じだ。
そういう意味で3.11の震災はそれらを恐ろしいほどに増幅させてしまった。
個々の理屈にエネルギーを注ぎ、大儀を忘れてしまう。
そういう事実を目の当たりしまったことは大きい。
少なくとも今の自民党政権は、外交的、経済的には圧倒的に上だろう。
政治家の人材が限られている中で選択しなければならないとすれば、
今の政権を放棄するのは国益に叶わないと思う。
政権を細かく交代すると外交的に不利であり、経済的には前述した通りだ。
政治家の不正行為があった確定的な証拠は見当たらない。
愛媛県前知事が言うようにもともと加計ありき進んでいたのは議論の余地がない。
理由はシンプルで加計だけが唯一手を挙げていたからだ。
文科省が長年に渡って獣医学部設置のエントリーを門前払いしていた事は本来的には法律違反行為だ。
この点についてマスメディアは全くと言っていいほど取り上げず、
前川氏という元の事務次官を悲劇のヒーローにして安倍首相に瑕疵があるように印象操作をしているが、
これはさすがにやり過ぎだろう。
想像力を逞しくする蓋然性があり、そう見たい気持ちも分からないでもないが、
本件は政治家が認可に関与できる部分が全くない事例であり、
無関係な事象を結び付けてさも本当であるかのような
フェイクストートーの挙証を求めるのは酷じゃないだろうか?
さて仮に自民が勝ってしまった場合、現行制度では民意があったと言える訳で、
そうなれば9月の総裁選挙は免除になるだろう。
私は安倍政権に全面的賛成をしている訳じゃないが、
少なくとも多くの日本国民は現在の経済効果を捨てられるほど勇気はないだろうというのが私の印象だ。
少なくとも共同通信の世論調査とはちょっと数値感が違うのは気になる。
https://enquete.nicovideo.jp/result/128
政権交代をして起こるだろう経済の混乱を本気で避けたいのなら
安倍政権が継続するのが経済、外交的には国益に叶うと思っている。
そんな訳があるはずないという方も多いだろうが、自民党でも少数派の左前の経済政策を取っている安倍政権であり、本来はリベラル野党が応援すべき政策だと言えるのだ。
野党の諸君も、本気で政権を狙って自分たちの政策に反映させたいのなら、自民を凌ぐ人材をリーダーにして結集すべきだろう。そうでなければ、永遠に「言うだけ番長」だと揶揄されるばかりに立場になるだろう。
追伸:
テレビ朝日に対して批判をした件について、その勇気を讃えたい。
報道関係者としては当たり前の行動だが、会社人としてはかなり勇気を必要とする。
格が上がるだろう。
ただ今回、記者会見して事実を公表した、これはぎりぎりセーフ。
テープ提供した事で職業倫理を問われていると言う声があるが、私はそうは思わない」。
つまり「今回(テレ朝が)記者会見をして事実を公表」「彼女の意をくんだテレビ朝日側の対応」をギリギリセーフとまとめたのだ。
自主的判断ではない。まずその点が問題だ。
また女性記者の取材の在り方、記者の上司がセクハラの訴えに耳を傾けなかった事実、テープ提供した事で職業倫理など問題だらけだが、後藤謙次氏はセーフをまとめた。
これらは小松アナとは違う見解だったようだ。
色々な意見があってもいいだろうが、今後「報道ステーション」を見るのは止めにすることに決めた。こんな人材で報道されても信用できないだろう。
だが小松アナには注目して行こう。
大きなお世話だと理解しているがオフィス北野・森社長の適正報酬額とは? [独り言]
オフィス北野の騒動もやっと沈静化してきた。
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180409-00000241-sph-ent
今回、軍団諸氏のSNS上の書き込みや発言でオフィス北野の経営状況が露出してしまった。
大物タレントさんのいる事務所としては異例の事態だ。
■ダンカンさん公表による「オフィス北野」の業績:
2013年 売上23億6100万円 利益9600万円
2014年 売上24億2300万円 利益4900万円
2015年 売上24億4500万円 利益5600万円
2016年 売上25億9300万円 利益1億1700万円
2017年 売上約24億円 マイナス500万円の赤字
上記の利益とあるのは営業利益の事だろう。
2012年度から2016年度までの5期は黒字、2017年度には僅かに赤字だ。
いずれにしてもオフィス北野の企業規模は24~25億円で、営業利益率は1%~5%程度となり、
企業としての利益率は決して高いとは言えない。
さてこの規模の企業のトップ経営者の報酬額はどの程度が適切なのだろうか?
ただ近い関係者の情報としてこの金額を参照するしかない。
さて、果たして彼が受け取っていたこの報酬は、
この会社の規模として適切だったのかを検証してみたい。
まず、比較対象がないと適正かが分からない。
そこで一部上場企業の経営者(代表取締役社長)で1億円以上を受け取っている企業のリストは以下にある。
さてこれらの企業の経営規模はおおざっぱに拾うと以下のようなものだ。
アシックス:売上4,000億円(連結) 営業利益195億円。
マブチモーター:売上1,469億円 営業利益240億円。
ライオン:売上4,100億円(連結) 営業利益270億円。
カルビー:売上2,520億円(連結) 営業利益288億円。
ミクシィ:売上2,007億円(連結) 営業利益89億円。
例外なく売上が1,000億円以上(連結)の規模があり、50億円以上の営業利益を出している。
実際、私がかつて所属していた企業は、売上1,000億円で営業利益が100億円程度だったが、
社長の報酬は1億円には遥かに届かないと理解している。
上場企業と違い、個人商店のような会社の場合、特に経営層の報酬制度は恣意的になりやすい。
上場企業の場合は、外部取締役を入れての報酬委員会があり、一定の範囲で管理されているが、
芸能界の事務所の場合の多くは非上場企業であり、報酬ルールの規定が曖昧になりやすい。
それでも株主はいるため、本来は株主総会を開催して議決するべき内容だ。
また2017年度がマイナス500万円になっているが、経営陣が一部報酬を返上すれば会社を赤字にするこはなかったのは明らかだ。
会社に赤字があると資金調達が困難になりやすい。それでも法人税を考えて赤字にしてしまう中小企業があるが、大抵の場合家族経営のような場合が多い。
500万円程度なら経営努力でいかようにもなる数字だ。
オフィス北野の社長が1億円近いということは副社長、専務クラスは数千万以上と推定でき、
報酬総額が営業利益を大幅に上回る事になりちょっと適切とは言い難いだろう。
そうした金額を含めるとかなりの額を裁量できたと考えられる。
500万円程度の赤字なら資産売却や報酬カットで対応できそうだが、
それらをしなかったのだろうか?
週刊新潮には森社長の以下のようなコメントが掲載されていた。
『この業界はいつ何が起こるか分からない』という教訓を得た。
その思いから払えるときに払っておかないと、いつ従業員に十分な手当をしてあげられなくなるかわからない。
したがって経営が上手くいき黒字が出ているときはなるべく従業員への
給与・賞与を多くしそれが従業員のモチベーションにも繋がるし、ひいてはいい人材を集めることにもなると考えた」
なるほどと思わせる内容だ。
しかし違う言い方をすれば、『この業界はいつ何が起こるか分からない』ということなら、
会社を永続的にさせるため、経営者として何をすべきだったかについても思慮が必要だったという事だろう。
残念ながらオフィス北野は北野さん以外に大玉のタレントがいない。
ひょっとしたら森社長は北野さんの一代限りの事務所と割り切っていた部分があったかもしれない。
北野さん抜きで新しいタレントを育成し難かったのかもしれない推察はできる。
それでも従業員や所属タレントの未来・将来を見据えるなら、新しいタレントの育成や新しいビジネスの構築が
必要だったかもしれないと思うし、北野さんのいない時代への準備も必要だったかもしれない。
いずれにも経営者の仕事である。
業態は違うが、ソニーと比較してみよう。
2017年度の営業利益は約6,500億円(予想)で、社長の報酬は5~7億円程度だとされる。
営業利益に対する社長報酬率は、0.001%程度だ。
(企業規模が一定以上に大きいと利益と報酬の比率が極小的に変動する事実があることは記しておく)
ミクシィと比較してみても140万円程度しかない。
単純な数値比較の計算からだとこういうことになる。
つまり事業規模がないと高額報酬は経営に相当な負荷をかけてしまうということを理解して欲しいのだ。
役員報酬を含めた人件費の比率のあるべき料率は事業規模に関わらずある程度の範囲が決まっている。
たけしさんが辞める前の段階においてこれが経営上、適切な範疇だったかは検証しておいた方がいいだろう。
(誠にお節介な話だというのは理解して書いております)
さて、私の知り合いの会社を例の取って比較してみよう。
彼の会社はオフィス北野と殆ど同規模売上と利益で経営をしているのだが、
友人である社長の報酬額は約1,000万円だ。
1例だけでは全てを語れないが、つまりこれがこの規模の経営者の市場価値と言えるのだろうと思う。
大きな利益を会社に残す経営が求められるというのは想像に難くないのはお分かりだろう。
上場企業であれば本部長クラスで年収2,000万円はいるが、そのクラスになると部門だけで50~100億円以上を売上、営業利益も数億~10億円単位をたたき出すレベルだ。
かなり大きすぎると結論付けるしかないだろうと思う。
今後たけしさん抜きで、タレント数も減った会社での経営となれば、売上、利益共に激減することは想像に難くない。
仮に売上3億円、営業利益3,000万円程度だとすれば社長報酬の上限は700万円~1,000万円程度が妥当と言っていい。
芸能界の社長は激務なので少ないとも言えるが、報酬金額を上げるには経営の規模を拡大するしかないのは世界中同じだろう。
経営者としてもインセンティブが働くということになる。
たけしさんの離脱は経営的には大きな危機だが、これを期に新たな体制で会社を作り直すという事も可能であり、是非挑戦して成功をして欲しいと感じている。
今回の騒動の情報を見て、ふとそんな事を思った次第だ。
音楽著作権侵害裁判で活躍する「音楽分析官」とは? [独り言]
以下は、ネット版ローリングストーンズ誌の記事の一部を翻訳したものだ。
本来は記事の翻訳行為は翻案権を必要とするが、一定範囲内の引用をした上で評論すれば著作権法上の問題ないのでその体裁で本記事を書く。
元の英語の記事:
ここに記載されている内容の概要については、日本でも報道されているが、その詳細な中身までを解説した記事は見当たらない。なのでここで書いてみようと思った。
この裁判は今後の作曲家や作詞家に少なくないだろう影響を与えるだろうし、特に日本の作品がアメリカ側の視点で引っかかったら相当な損害になる事は火を見るよりも明らかだ。実際日本のヒット曲のネタ元はアメリカの作品が多いからだ。
そういう意味に日本の音楽業界人は注意すべき内容だと思う。
まず本記事の趣旨は、①"Blurred Lines"という楽曲に対してMarvin Gayeの遺族が著作権侵害で訴えた事、②音楽分析学という職種がクローズアップされたこと、③更に著作権侵害には「曲の雰囲気」や「イメージ」が含まれるという驚愕の判決が下った3点だ。
(記事引用)
2015年3月、陪審員らはRobin Thicke, Pharrell WilliamとClifford "T.I." Harrisらに対して彼らが作曲したという"Blurred Lines"がMarvin Gayeの古典的名曲"Got to Give It Up,"の著作権を侵害したと評決を出し、Marvin Gaye側は、数億円の富を得ることになった。しかし、音楽業界関係者によれば、"Blurred Lines"の3月の上訴審での判決は、音楽分析学(forensic musicology)という小さな分野で働いている人々のより大きな影響を与えるだろうと言っている。
この論争が始まって以来、人々はforensic musicologist(音楽分析官)という仕事が一体何であるのかを知りたがっていたと、20年に渡ってこの分野で働き"Blurred Lines" の事件でも専門家の一人として携わり、Sandy Wilburは語る。
「この2年間は私にとって一番忙しい時期だったよ」。
彼を忙しくしていたのは、"Blurred Lines"のように明確な著作権違反がメディアに煽られたことによるものであったことは疑いの余地がない。
イギリスのロックバンドであるLed Zeppelinの“天国への階段”のように音楽分析官の助けによって著作権裁判に勝って逃げ切ったようなケースもあった。
しかし、、"Blurred Lines"の評決は、音楽業界に対して創造と模倣の線引きがどこにあるのかについて非常に大きな不確実性をもたらしたといえる。
また法廷弁護士や音楽分析官もどきの連中たちは、こうした流れを新しいビジネスに変えようとしていた。
⇒記事はMarvin Gayeの遺族がRobin Thicke, Pharrell WilliamとClifford "T.I." Harrisらに対して彼らが作曲したという"Blurred Lines"がGayeの楽曲の著作権侵害をしていると訴え裁判に勝ったというものだ。
ここで現れたのが聴きなれない業務をしている人間だ。英語ではforensic musicologistと書いてある。Forensicとは鑑識を指し、musicologistとは音楽分析をしている人のことだ。そのため私は音楽分析官と訳しておいた。日本には公式には存在しない職業で、私もこの記事で初めて知った職業だ。
音楽分析官についての記事(英語):
https://www.theguardian.com/money/2015/jan/20/how-become-forensic-musicologist
上記の記事を要約引用すると、音楽分析官とは、作家や音楽出版社への楽曲に関するアドバイス、また著作権裁判になどにおいては対立する楽曲を分析し、類似や相違を科学的、音楽的に行いコンサルタントを行うのが仕事だ。過去から現代に至るまでの幅広い音楽知識や広範な教養を必要とするとのことだ。
さて本編の記事を読むと分るが、今回の分析には驚くべき内容があった。
(記事抜粋引用)
'Blurred Lines'の判決以降、弁護士のクライアント(ミュージシャンたち)から“(自分の)この曲はあの曲に似ていると思うがどうか?”という電話が増え始めたとL.Aでエンタテイメント専門の弁護士としてDanger Mouse やPublic EnemyのChuck Dら の著作権関係のクライアントを務めているKenneth Freundlichは語っている。
この事件がキッカケで、音楽分析系の仕事が激増したよ。
イギリスにあるボストンバークレー音楽院のJoe Bennettの説明によれば、表面的に言えば音楽分析官の仕事は2つの曲を具体的に比較する事が仕事で、第一に、“客観的な類似性”、第二に著作が持つ“雰囲気の類推“を行うことだ。
音楽著作権に関する訴えがあった場合、原告被告の双方は普通音楽分析官に電話をし、問題の2作品を分析し、歌詞、メロディーやリズム、アレンジや演奏、コード進行やハーモニーに至るまでの詳細を調べる。もし不明瞭な疑義が生じれば、スペクトラム分析を実施してデジタルの指紋ともいうべき2曲の波形を見て解明を試みる。
⇒音楽分析官の仕事とは、原曲と新しい曲をあらゆる部分(メロディー、歌詞、リズム、コード進行、雰囲気)で比較して類似性を探し出すことだという。また不明瞭な部分は波形を使った比較を行うという。こうした仕事には専門的な音楽素養が必要であるという。
さて、実際に裁判ではどのような分析になったかが興味深い。
(記事抜粋引用)
実際"Blurred Lines"のケースでは予想外の展開があった。
音楽業界の専門家によれば、陪審員は、2曲の間の二次的な類似性を根拠に、通常の法律上保護されている歌詞やメロディーやその他の要素ではなく「ノリ」と「感じ方」を法律的に認めたかのように(判決を)行ったと語る。
"Blurred Lines"の被告側の証言をしたWilburは、'Got to Give It Up'のどのパートと比較しても2音連続で同じ音符は無かったと語った。
上訴審においては2対1で、3人の裁判官のうち1人は我々の主張に完全に同意してくれた。彼女は私と同じように、この判決によって「ノリ」と「感じ方」が著作権侵害の要素になってしまうことに恐れを抱いていた。
⇒ここで問題になっているのが、科学的に定量的に推し量れる証拠ではなく、定性的で感覚的な部分が証拠に採用され判決が下された点だ。これは日本の著作権訴訟における判決とは異なる部分だ。
日本において有名な裁判は「記念樹裁判」だ。
「どこまでも行こう」という楽曲の後発となった「記念樹」という楽曲がどこまでオリジナルでどこまでが著作権侵害なのかを争ったものだ。この裁判の記録を読むとかなり科学的に煮詰めた領域に限って検討されており、両曲の音符の類似性を数値化して判断している。
従ってアメリカのように「ノリ」と「感じ方」は証拠として一切採用していない。
日本での裁判は「記念樹」に剽窃を認め、原告の「どこまでも行こう」が勝っている。
アメリカの判決のように「ノリ」と「感じ方」が著作権侵害の要素とするならば、リズム構成、テンポ、楽器の使い方などを分析すれば説明できる。何となく似ているではなく、ここは似ている、ここは似ていないを裁くのが裁判ではないのだろうか?と思うが、アメリカは陪審員が評決を出すのでどうしてもそうなるのだろう。
さてアメリカの裁判に関わった関係者の一人はこう語っている。
「私はアーティストは賞賛に値すると思っています。ですから彼らと同じような感覚やスタイルを踏襲したいと思うでしょう」
しかし彼はこのように付け加えた。
「そのことで私は訴えられるのでしょうかね?」
⇒この人物の言いたい事は誰の影響も受けずノリや雰囲気も全くオリジナルの音楽以外は存在できないという意味なのか?という事だ。
(引用記事)
不確実性のためにアーティストたちやレコードレーベルは作品をリリースする前に著作権侵害のリスクの可能性について、これまでになく作品の鑑定を強化する必要性に迫られている。
「'Blurred Lines,のケース以降、やり方が全く変わってしまった。レーベルの側が自分たちで楽曲の鑑定が出来ないようば場合、私に依頼するケースが増加している」とWilburはいう。
「楽曲が発売される前の段階で、その楽曲が他の曲と似ていないと証明することを求められるのさ。レーベルの連中は相当慎重になっているよ」と付け加えた。
"Blurred Lines,"以前は、発売前の楽曲のリスク評価などという事は聞いたこともなかった。だが、レーベルや映画スタジオで働く音楽分析官たちにしてみれば、以前に比べて格段に神経質になっており注意を払っているという。
「音楽分析官が分析に関わる前に、法的な問題がありそうな楽曲は、実際に対応可能な反論や問題があるかどうかが分かります。 今のところ非常に曖昧さが多いのです。コード進行に似た点はないが、他の曲と雰囲気が似ているような場合、(曲の雰囲気を)変える選択をした方が無難ということになるのです。」
⇒判決が混乱を与えているのは明らかに定量的ではない部分が違反だと言われているからだ。ノリや雰囲気が著作権侵害であると言われれば、ロックンロールやブルース、ジャズなどの定型化されたジャンル音楽は全て著作権違反という事になりかねない。そういう意味でこの判決が今後著作権侵害のスタンダードになるのかは微妙だ。
Gayeの裁判では遺族側が勝訴をしたが、だからと言ってGayeの音楽が全く過去の作品やアーティストから何の影響も受けずに全てがオリジナルだった訳ではない。極論すればJAZZやリズムアンドブルース以降の音楽の全ては何等かの意味で過去の作品やミュージシャンの影響の上に成り立っている。
実際完全なオリジナル作品の方が皆無と言っていいだろう。それでも影響下の中に個々人のオリジナリティーを発揮し、ポピュラーミュージックは成立しているし、適度な影響であれば問題ないとしてきている。
そういう意味で記事の最後の言葉が一番腑に落ちるという感じがした。
もし'Blurred Lines'の裁判が正当化されたとすれば、ほとんど全ての楽曲に対して訴訟が起こるだろう。つまり全ての楽曲は他の楽曲と繋がりがあるからだ。だって我々は皆、過去の音楽に影響を受けているからね。
⇒この文章の言う通りだと思う。
人間が通常で歌える音域は2オクターブもない。つまり鍵盤24個分にも満たない中での順列組み合わせがメロディーの持つ数的な限界だ。その中で人間が良いメロディーと感じる音符の組み合わせ数は更に限られてくる。
全世界に数十億人がおり1950年代以降のポップミュージックの隆盛から約60年を経て似たようなメロディーに全く出会わない確率の方が数学的にあり得ないだろう。その限られたパターンの中で人間的なオリジナリティーがせめぎ合う。ミュージシャンは音楽の可能性は無限というが、表現的な可能性はともかく、音符の順列組み合わせには自ずと数学的限界があるのは自明の理だ。
楽曲の著作権侵害は剽窃の度合いの認定が難しい分野だが、結局は定量的な見地で判断するしかないだろう。
前述したように定性的(ノリや雰囲気)を主眼にすれば、JAZZやリズムアンドブルース、ロックンロールなんて全て著作権侵害になってしまう。Chuck Berryの"Roll Over Beethoven"とThe Beatlesの”I'll saw her standing there”を比較してThe Beatlesが著作権侵害をしているかを考えてみればそのおかしさが分かるだろう。
"Blurred Lines“を聴いてみたが"Got to Give It Up,"を下敷きにしたのは確かだろう。あれを完全な新作でオリジナルだというのは確かに言い過ぎだと思う。
しかし何をもってオリジナルと言えばいいのか難しい。先のChuck BerryとThe Beatleだけを見ても楽曲だけにフォーカスを与えれば、この世のほとんどの楽曲が孫、ひ孫のようなものだからだ。Marvin Gayeにしても過去の作品や音楽の歴史に支えられて上で音楽を構築していた部分があるだろう。Marvin Gayeの全ての作品が全く過去の下敷き無しで作られたはずもなく、Marvin Gayeだってそういう仲間の一人なのだ。そうなると"Blurred Lines“が"Got to Give It Up,"に似ているのは著作権侵害と言えるほどの罪なのか?という話にもなる。
Chuck BerryとThe Beatles、また他のロックンロールやブルーズなどを含め、俯瞰的な議論が必要だろうと思うが皆さんはどう思いますか?
そういう意味で、影響を受けた作品と影響を与えた作品の線引きは難しく、お互い様と割り切った方が建設的なのか?それとも、曖昧な線引きを見える化するために裁判で決着をつけるのが良いのか?
これからますますオリジナルを名乗るのが難しい時代に何らかのルール化が求められる時期なのだろうと思う次第だ。