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時代遅れを感じたスター・ウォーズ [独り言]

「時代遅れを感じたスター・ウォーズ」というタイトルは、 スター・ウォーズの大ファンには不遜だと思っている。 名作を貶すな!と言われるかもしれないが、 その理由は以下に書くので読んで頂ければと思う。

また、あくまでも主観なのでお許し頂きたい。


スター・ウォーズ、最後のジェダイを見た。 封切りから2週間以上経っていたが、会場は満員だった。 今回少し違和感を感じたのでそれについて書こうと思う。 スター・ウォーズはエピソード3がスタートしてから40年経過した。 ご存知のように SF映画の中でも最も成功した作品だ。


しかし40年を経過し今回の作品を見てスター・ウォーズがついにSF作品としては 時代遅れになってしまったと感じるに至った。 それは一体どういう意味か? なお以下に記載する事は 1部ネタバレがありますからご注意ください。 皆さんはご存知だと思うが日本においても2020年にはAIが運転する自動車な公道を走るようになる。 また様々なものがAIを使って自動化される。我々がこれから生きる世の中は 一昔前までのSF映画が描いていた世界以上の世界を生きることになる。


そんな中今回見たスター・ウォーズは40年前の設定からどうしても抜け切れない部分がある。 例えば反乱軍の戦闘機だ。戦闘機にはパイロットがいる。 しかし現代において徐々にではあるが戦闘機にはパイロットが不要の時代になっている。 いわゆるドローンを使ったものだ。


実際の戦闘現場ではAIが判断して敵を殲滅するような兵器も生まれている。 現実では既にこのような戦闘行為を現実としている時代において SFの映画の中でパイロットが生死をかけながら戦うと言うのはちょっと古めかしくないか? と言うよりもSFの世界においてはすでに非現実的だとも言える。


戦艦をバリヤーで防御できる技術を持つ反乱軍が、戦闘機にわざわざパイロットを載せ 人的資源を失いながら戦うというのはどうにも理解に苦しむのだ。

もちろん映画の演出としては感動を呼ぶのだが、私には逆に醒めてしまった部分だ。


またローラ・ダーン演じる反乱軍の司令官が敵陣へ突っ込んで行く際、 自分自身がパネルを操作をして艦艇を反転させ敵艦隊に突っ込もうとするシーンがあるが、 SFの世界においてこうした描写はあまりにもアナログ的と言え、 見ていた私はこの部分にも興ざめしてしまったのだ。 (久しぶりにローラ・ダーンが見れた点は良かったのだが・・


Googleホームだって音声認識で様々なことをやってくれる時代なのに スター・ウォーズほどのSFがマニュアル的操作と言うのはあまりではないか。


実際この文章だってiPhoneの音声認識を使って書いている。 われわれの身の回りの世界では自動運転や自動走行が一般になりつつある。 未来を描いているはずのSFがこうした現実から後退した世界感を使って描いているのは 40年前の設定を変えられない部分があるにしても 少し興ざめするような部分だろう。 もちろんフォースを持つジェダイの末裔たちがライトセーバーで戦う演出だって 古色蒼然としたものだと言えなくはないが、スター・ウォーズの様式美であり否定はできない。


しかし40年前に気にならなかったこうした部分が気になり始めてきたのは、 かつてはファンタジーだった演出の一部が現実に現れてきたからだろう。 そういう意味で我々はかつてSFが描く世界を日常にし始めている。


たかだか十数年前に公開されたマイノリティーリポートの犯罪予知にしても、 映画とは違う方法だがアメリカの警察で実際の利用が開始している。 何という時代になったのか?とも思う。


そういう意味で私にとってスター・ウォーズは今回で十分だという感覚だ。 SF映画の制作者には大変な時代が来たと思う。


今後の続編が制作されるらしいが、制作陣はワクワクする未来を描いて次世代に繋いで欲しいと願う。

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映画・映像表現と音楽に共通するドーピングの蔓延について。 [独り言]


先日スターウォーズ ~最後のジェダイを見に行った。
スターウォーズシリーズは1970年代後期に始まり40年を経てまだ続いている。
ルーカスという稀代の才能が生んだストーリーの賜物なのだが、
私は上映前の予告編に大変な失望を感じた。

この日、予告編は5作品ほどが上映された。


たまたま編成的な理由もあったのだろうが、共通していたのは4作品がCGを中心として描かれた映画だった。
実写中心の映画はスリー・ビルボードという作品だけだった。
CGを使った映画はどれも似た様なテイストで個性が見当たらなかった。
タイトルさえも記憶に残らない。
金太郎飴のような予告編だった。


SF作品にしろファンタジーにしろ実写にしろCGは映像表現に欠かせない時代になった。
CGの無い時代は、美術さんが絵筆で背景や追加画像を描き実写に組み込んで撮影していた。
1950年代に制作された「風と共に去りぬ」は見事に実写と書き割りを融合させていたが、
こうした手法は80年代になるまで続く。



70年代後半に出現したスターウォーズは光学処理を使った特殊効果が主体だったが、
80年代において「TRON」によって映画界に出現したCGだが、背景や追加効果以外の利用が可能性を見せつけた点でエポックメイキングだった。
そしてCGが特殊効果の一部だった時代を一変させたのは90年代のジュラシックパークとターミネーター2からだろう。
ここから加速度的にCGの技術は進み現在に至る。



しかし昨今はCGで描がかれる映像表現が余りにも増加し、表現方法に限界が無くなったため、
見る側としては逆に想像力を掻き立てられなくなり、
私に限れば、最近の映像表現がとても物足りない感じがし始めてきている。

以前なら実写で撮影するような映像でさえもCGで代替し始めており、リアリティーが薄く、
おまけにどんなに優れたCGでもCG臭さが消えないために見ている間に興ざめしてしまうのは私だけだろうか?

確かにCGによって映像表現が圧倒的に向上してくれた部分があるとは思っている。


しかし不要なほどのCG量は、感覚的に馴染まない部分が顕著であるというのが私の感想だ。

不要なCGによって過剰な表現になってしまったり、出演者の容姿を直したり、
実写可能な映像でさえもCG化する事までしており、本当にそこまで必要なのだろうか?とさえ思う。
ハリーポッターやスターウォーズ、アバターなど、CGが無くては成立しない映画はともかく、
CGを使わない方が映画として良いなと思う作品にも過剰利用されている現状を見ていると、
映画関係者にはCGの在り方についてもう少し考えなおして欲しいと思っている。



実は音楽にも同様の事が起きている。


昨今はPro Toolsのお蔭で、音楽制作において相当な事が可能になっている。
端的な例は、オンチの唄でもある程度上手い歌手のように歌わせる事が出来るというものだ。
これは音質を殆ど変えないでピッチや表情を直すアプリの登場から業界内で頻繁に使われるように
なったのだが、実際の本人の実力の唄とは全く違うパフォーマンスに出来上がる。
またコーラスに至っては、同じテイクを張り付けて終わりという現場もあるし、
コーラス隊で呼ばれた歌う側がそれを要求する不埒な現場さえもある。



こうした「ドーピング的な修正」は80年代からあったのだが、昨今は細部に渡って細かく修正が可能なため、
本人の実力以上の歌唱効果を得る事が可能だ。
しかし人によっては本人の再演が不可能だったりするから意図が全く分からない。

昨今、ライブにおいても歌入りのカラオケで誤魔化すパフォーマンスするのがまるで当たり前のようになり、
何処までが実力なのかも分からない時代なのだ。それで入場料1万円とかを支払って客は喜んでいる。



CMやポスターなんかもそうだが、昨今レタッチと呼ばれる修正が当たり前になっている。
皺を消したり顔の輪郭を変えたり、エクボまで取ったりと、ちょっとやり過ぎだろうと思うくらいだ。
アメリカではモデルの撮影時とポスターの出来栄えの違いが顕著過ぎて社会問題にまでなった。

私はこれらを「クリエイティブ的過剰ドーピング」だと思っている。


現代の映画・映像、音楽も過剰ドーピングがまるで当たり前の時代になっていると言っていいし。
客も知ってか知らずかそれで良いように振る舞っている。
駅で見かけるポスターやCM映像なんてツルツルの顔しているが、ちょっと気持ち悪い位だ。
またアイドルやK-POPのライブなんてダブルトラックドーピングだらけだ。

割り切りの良い言い方をすれば、それらに価値を見出せばそれを価値だとも言えるのだが、
人間技でない部分が優れている事で価値とするならば、別に特別なタレントに頼らなくてもいいのだろうとも思う。


昨今、AIアイドルも出現しているが、現状でも人間はただの「素材」と化している訳で、
本当にそれでいいのだろうか?と訝る。

私はエンタテインメントへの基本は、並外れた人間技と才能への畏敬だと思っている。
将棋や囲碁の世界で圧倒的な能力でAIが勝っても、全く感動をしないのはそういう事だ。

またAIが分析したレンブラントの絵を見ても、心を揺さぶられないのはそこには人間技がないからだろう。
ゴッホ展でキャノンが作った立体再現プリンターの絵を見たが、技術的面への驚きはあったが、感動には至らなかった。
人間には機械と比較して物理的な能力限界があるが、常人を超えたいる人たちのパフォーマンスだから感動や喜びがあるのだと思う。



スポーツも同様だ。
機械と人間がスポーツで闘い、機械が勝っても感動を呼ばないだろう。
だからスポーツには厳格なドーピング対策がある。
しかしエンタメにはない。

並外れた人間技と才能を持った人間は、数十万人に1人程度しか出現しないから価値がある。
そうしたフィジカルの凄さこそがエンタテインメントの価値の源泉であろうが、昨今は見る影もない。

実際、映画・映像や音楽の世界ではこれらについて「ドーピング」と受け止めていないが、
私には「過剰なドーピング」に思える。


昔の作品にも技術を頼りにした部分が多いが、それでも最後の肝は人間技が引き取っていた。
昨今の作品にはそういう息遣いが感じられないのだ。

AI時代に入り誰でも同じようなパフォーマンスが出せるとなれば価値は自然と落ちて行くだろう。

価値のないものに過剰な修飾を施しても当たり前なら、もはや心を動かされないだろう。
踊る阿呆に見る阿呆というが、ちょっと次元が違い過ぎないか?

最近のロックバンドや若手歌手の生歌を聞いていると、音源とライブの違いの凄さはちょっと酷過ぎないだろうかと思う。
特に歌のピッチの揺れ方は度し難い。


映画にしても、上手い役者の演技を邪魔するような特殊効果は見ていて辛いほどだ。
古い例で恐縮だが、仮にThe  Eaglesがライブでホテル・カルフォルニアを生でレコードのような演奏出来なかったら、彼らのレコードを買い、ライブにいくことはないだろう。

さて、スターウォーズ ~最後のジェダイは、SF作品であり、特殊効果を前面に出す事で地位を得てきたのだが、もはや映像を見ていてもワクワクしなくなったのは、観客の私が今の技術なら当たり前だと感じているからだろう。


そういう意味では不幸な時代になった。新しいターウォーズを見ていてあれ以上の何を期待して良いのか
私にはもう分からなくなった。3DもIMAXも本質ではない。
私にはこの手に対して飽きが来てしまったと言っていい。

エンタメは本質を磨く時代から技術に逃げる時代になってしまっているのだろうか?

ここ最近、映画なら昔の映画を見るし、音楽ならオールディーズものを中心に聴くようになったは、
ドーピングレスのエンタメを欲求する背景があるのかもしれない。
単純に昔を懐かしんでいるというより、昔のものの方が圧倒的に人間技として良く出来ていると私の感覚が言っているのだ。



先日ザ・ビートルズのドキュメント映画、「Eight day the week」を見た。
彼らが生身の体から生み出す新しいメロディーや音楽にどれ程の民衆が虜になったのかが良く分かるが、
その根底には並外れた人間技と才能への畏敬があったのだと思う。

レンブラントの絵をAIが解析して書いた新しい絵は、技術的には興味深いがそれ以上でもそれ以下でもないことは述べた。
技術的要因を多用した映画や音楽が人間技の欠片もないとは言わないが、想像力を掻き立てる何かを失っている点については、制作者側に立ち止まって考えて欲しい部分だ。




私は古い人間なので、オールドファッションが好きなのだろうと言われれば全く否定しない。
ここ何十年もゴッドファーザーや地獄の黙示録、大脱走やエンゼル・ハート、羊たちの沈黙、アマデウスに
匹敵するような映画らしい作品が見当たらないのは寂しい限りだ。

音楽に転じれば、私の20代は、桑田佳祐氏や山下達郎氏、大瀧詠一氏、坂本龍一氏などの素晴らしい才能に囲まれていたが、現代の若手のミュージシャンの中に彼らに匹敵し、なおかつこの先30年をリードできる人材は何名いるのだろう?
ギリギリ星野源氏位だろうか?



日本の音楽シーンは、AKBや嵐、三代目でベスト10を席巻し、多様性を失った事で市場そのものが冷え込んでしまった。
彼らを選んでいるのも市場だが、この多様性の無さに音楽業界は危機感が無さすぎた。

これは20年を掛けて音楽業界が斜陽になり、有能な若いスタッフが入ってこなくなり、
有能だった団塊世代周辺のスタッフが消滅した事により、才能を見つけ育てる機関が失われ、
企画的でメディアと結びついたジャンルだけが生命線になってしまった事でバランスを欠くようになったのだろう。


これは映画も同様だ。
パシフィックリムやアベンジャーズが席巻しているのは市場の要求なのだろうが、
甘いお菓子ばかりの映画供給環境は音楽と同様で多様性がなく、大人の私には食い足りない映画ばかりだ。

また大型劇場の席巻によって、特に渋谷の地においても単館上映館が激減し、小さなニーズを引き取る環境が
減ってしまった事も私にとってツマラナイなあ・という感じだ。

しかしそれも時代の流れといえばそれまでだ。



ただ感覚的に言える事は、優秀な若いクリエイターの絶対数は、明らかに映画や音楽からは激減している点だ。
理由は分からない。
優秀なクリエイターが音楽や映画などの斜陽産業を避け、ITやゲームなどの分野に
行ってしまったからかもしれない。実際スマホのゲーム分野の市場は成長軌道にある。
成長軌道を作る新しい産業には才能のある若者が多くいるのが常だ。



彼らにとって、映画や音楽は魅力的で永続的な分野でないのだろう。
だから面白くなくなったと言えるのかもしれない。

しかしスマホのゲーム分野もいずれは飽和するかもしれないが、今の段階では分からない。

この年になると、エンタメに対して若い頃のように驚いたり感動したりするハードルが上がってしまう。
滅多な事で笑えないし、驚く事も少なくなった。

老化なのか?と思う時もある。

大抵のことを見聞き、経験してきたからなのだから仕方ないがちょっと寂しい気分にもなる。

ただ自然の営みにはまだまだ未知の領域があり、歴史、美術の分野には心を動かされる事も多く、
こうした部分にはこれから先、ジックリ取り組もうとは思う。
もう流行り廃りに惑わされず自分のスピードで生きる年齢だとも思っている。

音楽や映画の価値観については、35歳までに見聞きしたものが絶大な影響を与えてしまうという記事を
読んだ事があるが、そうかもしれない。



まあ、こっちがオッサンになって懐古趣味的になったということは多少の理由としてあるのだろうが・・・。




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ミュージシャンという生き方 [独り言]


中学高校時代、ミュージシャンは私の憧れの職業だった。
一時期私はミュージシャンを仕事にすることを目指して生きていた。
音楽業界で働く事に憧れを持っていたのはミュージシャンへの憧れと同等だった。

それから45年近くが過ぎ、ミュージシャンという職業を傍から俯瞰していると、
これほど過酷で生き残りが難しい職業であったろうか?と感じている。


正確ではないが、少なくとも70歳を超えて一線と言える場所で活躍しているミュージシャン(ソロ、もしくはグループ)は、加山雄三氏、吉田拓郎氏、小田和正氏、細野晴臣氏と言い切っていいだろう。
寺内タケシ氏も含んでいいかもしれない。
活動の幅はそれぞれ違うが、少なくとも彼らは1500~2000名以上のホール級を満員にし、ツアーをし、メディア露出等も定期的にある。

その下の年代になると矢沢永吉氏、井上陽水氏、さだまさし氏、山下達郎氏、森山良子氏、谷村新司氏、
南こうせつ氏、高橋真梨子氏、坂本龍一氏、中島みゆき氏、浜田省吾氏、桑田佳祐氏、
松任谷由実氏、THE ALFEE、矢野顕子氏、長渕剛氏、竹内まりあ氏、鈴木雅之氏、八神純子氏辺りが
妥当な線だろう。私の無知で漏れている人もいるかもしれないが概ね正しい範疇だと思う。
ちなみに演歌、歌謡界は除いてある。 

数えてみれば分かるが、全部で30組は存在しない。多少範囲を広げても50~100組程度だろう。
彼らはロック・ポピュラーミュージック界のエリート集団と言っていい。


60年代~80年代前半にデビューし、キャリアを30~40年近く続け、現在でも一線でやれているフロントラインのミュージシャンはこの数程度しか存在しないという証だ。
小田和正氏に至っては70歳になってもアリーナ級を満員にしており、少なくとも彼と同じ年齢では最高動員数だ。
昭和22年生まれの彼の同年代出生数は、2,678,792人とある。
つまり、彼のようなミュージシャンの出現する確率は約260万分の1ということだ。
細野、吉田、小田氏の3名の出現確率は、90万分の1程度ということになる。
また60歳~69歳の出生数は約2,000万人強だが、上記を見て明らかなように
一線で生き残ったミュージシャン数は20組程度。つまり100万人に1組という感じだ。
だから概ねこのレベルの才能をもち持続性があるミュージシャンの出現する確率は50~100万人に1名と言っていいだろう。

凄い数字じゃないか・・。普通じゃない。



さて、先ごろ小室哲哉氏の不倫報道が週刊誌上に踊った。
著作権詐欺事件以降、小室氏の活動は火が消えたようだ。
90年代のブームの大爆発を知っている年代からすれば、今日の彼の活動状態は信じられないだろう。
小室氏は本件に絡んで引退を表明したが、YMOに憧れた彼がYMOの次の世代を担った第一人者だったことが疑いようがない。
(ちなみに個人的にはたかだか個人の不倫報道に絡む引退表明は唐突感が隠せない。別に引退しなくても良いと思うのだが、KEIKOさんへの贖罪を自分の職業を棄てる事で表したかったのかもしれないし、彼自身の体調の件もあったのだろう。還暦になる彼が自分の引退を会社員の定年退職になぞらえた発言があったが、彼の会見を見ていて往時を知る世代としては、輝きを失い弱った老人のようにも映る会見の姿は寂しいものだと思った。夢を与える側の仕事の只中にいる人物の現実的な課題を表に現した点で異例ともいえる会計だったが、彼に限らず私生活の問題や本人の体力、気力の減少は彼なりにあったようだし、それは我々と同じということなのだろう。)


2018年には還暦になり日本の音楽史にその名を刻んだキャリアを持っているような才能が、
先述したようなミュージシャンたちのように活躍を持続出来なかったのは何故なのだろうか?と訝る。

才能の違いと言えば簡単だが、彼が人並み外れた才能を持っている点において、過去の履歴から否定出来るはずもない。
しかし持続性が無かった点では上記の先輩たちと比較しても陰が薄くなる。
彼が尊敬する坂本龍一氏は、特にYMO後ソロでも成功し、その後映画音楽の分野でアカデミー賞を受賞するなどのキャリアを構築し、現在でも一線にいる。

坂本氏やそれに類するミュージシャンに備わっていて小室氏に無かったものは何だったんだろうか?


それを紐解く材料は小室氏の著作権に絡む詐欺事件にあるだろうと思う。


生き残っている大物ミュージシャンたちは、一見才能だけでやり続けているようにも思うだろうが、
実際はそうではない。彼らは常に自分の才能以外の見識や能力を総動員して戦っているし鍛錬もしている。

こうした事を否定するミュージシャンもいるだろうが、才能だけで生き残れるほどこの世界は簡単ではない。天からもらった才だけを使い、空から降ってくる音楽を捕まえるだけでは生き残れないという意味だ。

彼らの活動が無意識だけで継続できるはずもなく、我々同様に「頭で考え」「感性を磨き」「研究をし」「意識的に成果を作り出し」「分析し」自分の居場所の維持や新しい才能の出現と絶えず戦っている。

ミュージシャンと言えばチャラチャラした気楽な印象だけがあるかもしれないが、
職業として数十年を生き残ろうと思ったら実際はそういう訳に行かない。

相当にタフだし、相当にエネルギーがいる。成功している彼らは並外れているためそれが出来るのだ。
それでも60歳を過ぎれば歌手の場合、いつ歌えなくなるか・・という恐怖との闘いもある。また当然だが引退や残り時間とのせめぎ合いもある。これは誰もが同じだが、その場凌ぎでは出来ない事だ。


小室氏には厳しい言い方になるが、著作権に絡む詐欺事件の背景には、小室氏が過去の栄光を梃にして、
ピーク時の贅沢三昧な生活を維持するための身の丈以上の金を得ようとしたのかもしれないし、本分とはかけ離れたものに首を突っ込んでしまい、本来彼がプロのミュージシャンとしてやるべき仕事の源泉を蔑ろにし、地道にやって来なかったかもしれないと推察する。
また周囲に彼の行動ややり方をキチンと質すミュージシャンやスタッフにも恵まれなかったのだろう。耳の痛い事を言う人は遠ざけたくなるのが人情だが、時にはそれを受け止める器が人生を決定することもある。

少なくともこの時点での彼の躓きはキャリアを大きく棄損してしまったし、その後の活動にも影響を及ぼした。


小室氏のキャリアを総括すれば、TMネットワークで世に出て、Globe、安室奈美恵氏などを売り一世風靡したに尽きる。
彼自身がメンバーとして関わって売れたバンドはTMネットワークとGlobeだけであり、彼の音楽キャリアの源泉はそこにある。

残念ながらGlobeはKEIKOさんの病で活動が出来ない。

TMネットワークは何等かの理由で人前に出て来ないが、これはある意味で自己キャリアの否定をしているに等しい。小室氏に限らずTMネットワークのメンバーはソロアーティストとして市場価値がある訳でなく、常に他者との共存でその才能を発揮してきた。(これは多くのバンドメンバーに共通する点だ)

この辺りがソロ活動で生き残っているミュージシャンと決定的に違う点だ。
従って小室氏の活動にはかつてのバンドメンバーの協力が必要だが、長年実現していないということは
人間関係が切れてしまっているのだろう。

エンタメ業界のように成功例を出す事が稀で、なおかつ長期的な活動戦略が必要な業界において、価値のあるバンドでの活動が出来ないのは決定的に痛い部分だ。
長期的にはTMネットワークはいつでも再開できるようにしておきべきだった。核となる活動を失ったために時流に乗れない時期を迎え代替策がなくなり、本人の活動の限界が早まったと言っていいだろう。

冒頭に書いたミュージシャンたちを見れば分かるが、彼らは直近において新作のヒット曲はない。それもでやれているのはロイヤルティーの高いファンの支えがあったからだし、支持が切れないように自分の価値の維持に努めていた点も大きい。従って地道な努力の賜物と言っていいだろう。



このようにミュージシャンが長期に渡って高い価値を維持して活動を続けるのが、どれほど針の孔を通すようなものかお分かりだろう。
日本には数十名程度この孔を通った人達がいるが、いずれに独自の生き残り方法と個性を展開している。


ミュージシャンとして一線で生き残る事がこれほど難しいというのは還暦を迎え苦境の会見を行った小室さんが一番感じていることだろうと思う。

かつては一斉風靡した多くのフロント・ミュージシャンたちは、全国のライブハウスやカフェ程度の店を廻っての演奏活動やその他の周辺業務を支えにして生計を立てている。完全に音楽を中心中心とした活動で生きていると言えるのは、小田和正氏、山下達郎氏、井上陽水氏、矢沢永吉氏、坂本龍一氏など本当に極々僅かな人たちだけだ。

かつての人気者たちも年齢と共に地方の旅暮らしを余儀なくされ、体力的にも相当に堪えるはずだが、やり続けないと食えないし自分のパフォーマンスも衰える。
華やかに見える彼らにも、活動規模には様々なグラデーションがあり、羨むようなレベルにいる人達は非常に僅かな一部だけだ。


そういう意味で私のような凡人は、中高生時代に憧れたミュージシャンに「なれなくて」良かったかもしれない。私ではとても務まらなかっただろうと思う。(実際35歳で諦めた)

多くの音楽ファンは、オヤジバンドとかを一生やっていた方が普通の丁度いいのが音楽や演奏活動の世界だろう。




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