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映画・映像表現と音楽に共通するドーピングの蔓延について。 [独り言]


先日スターウォーズ ~最後のジェダイを見に行った。
スターウォーズシリーズは1970年代後期に始まり40年を経てまだ続いている。
ルーカスという稀代の才能が生んだストーリーの賜物なのだが、
私は上映前の予告編に大変な失望を感じた。

この日、予告編は5作品ほどが上映された。


たまたま編成的な理由もあったのだろうが、共通していたのは4作品がCGを中心として描かれた映画だった。
実写中心の映画はスリー・ビルボードという作品だけだった。
CGを使った映画はどれも似た様なテイストで個性が見当たらなかった。
タイトルさえも記憶に残らない。
金太郎飴のような予告編だった。


SF作品にしろファンタジーにしろ実写にしろCGは映像表現に欠かせない時代になった。
CGの無い時代は、美術さんが絵筆で背景や追加画像を描き実写に組み込んで撮影していた。
1950年代に制作された「風と共に去りぬ」は見事に実写と書き割りを融合させていたが、
こうした手法は80年代になるまで続く。



70年代後半に出現したスターウォーズは光学処理を使った特殊効果が主体だったが、
80年代において「TRON」によって映画界に出現したCGだが、背景や追加効果以外の利用が可能性を見せつけた点でエポックメイキングだった。
そしてCGが特殊効果の一部だった時代を一変させたのは90年代のジュラシックパークとターミネーター2からだろう。
ここから加速度的にCGの技術は進み現在に至る。



しかし昨今はCGで描がかれる映像表現が余りにも増加し、表現方法に限界が無くなったため、
見る側としては逆に想像力を掻き立てられなくなり、
私に限れば、最近の映像表現がとても物足りない感じがし始めてきている。

以前なら実写で撮影するような映像でさえもCGで代替し始めており、リアリティーが薄く、
おまけにどんなに優れたCGでもCG臭さが消えないために見ている間に興ざめしてしまうのは私だけだろうか?

確かにCGによって映像表現が圧倒的に向上してくれた部分があるとは思っている。


しかし不要なほどのCG量は、感覚的に馴染まない部分が顕著であるというのが私の感想だ。

不要なCGによって過剰な表現になってしまったり、出演者の容姿を直したり、
実写可能な映像でさえもCG化する事までしており、本当にそこまで必要なのだろうか?とさえ思う。
ハリーポッターやスターウォーズ、アバターなど、CGが無くては成立しない映画はともかく、
CGを使わない方が映画として良いなと思う作品にも過剰利用されている現状を見ていると、
映画関係者にはCGの在り方についてもう少し考えなおして欲しいと思っている。



実は音楽にも同様の事が起きている。


昨今はPro Toolsのお蔭で、音楽制作において相当な事が可能になっている。
端的な例は、オンチの唄でもある程度上手い歌手のように歌わせる事が出来るというものだ。
これは音質を殆ど変えないでピッチや表情を直すアプリの登場から業界内で頻繁に使われるように
なったのだが、実際の本人の実力の唄とは全く違うパフォーマンスに出来上がる。
またコーラスに至っては、同じテイクを張り付けて終わりという現場もあるし、
コーラス隊で呼ばれた歌う側がそれを要求する不埒な現場さえもある。



こうした「ドーピング的な修正」は80年代からあったのだが、昨今は細部に渡って細かく修正が可能なため、
本人の実力以上の歌唱効果を得る事が可能だ。
しかし人によっては本人の再演が不可能だったりするから意図が全く分からない。

昨今、ライブにおいても歌入りのカラオケで誤魔化すパフォーマンスするのがまるで当たり前のようになり、
何処までが実力なのかも分からない時代なのだ。それで入場料1万円とかを支払って客は喜んでいる。



CMやポスターなんかもそうだが、昨今レタッチと呼ばれる修正が当たり前になっている。
皺を消したり顔の輪郭を変えたり、エクボまで取ったりと、ちょっとやり過ぎだろうと思うくらいだ。
アメリカではモデルの撮影時とポスターの出来栄えの違いが顕著過ぎて社会問題にまでなった。

私はこれらを「クリエイティブ的過剰ドーピング」だと思っている。


現代の映画・映像、音楽も過剰ドーピングがまるで当たり前の時代になっていると言っていいし。
客も知ってか知らずかそれで良いように振る舞っている。
駅で見かけるポスターやCM映像なんてツルツルの顔しているが、ちょっと気持ち悪い位だ。
またアイドルやK-POPのライブなんてダブルトラックドーピングだらけだ。

割り切りの良い言い方をすれば、それらに価値を見出せばそれを価値だとも言えるのだが、
人間技でない部分が優れている事で価値とするならば、別に特別なタレントに頼らなくてもいいのだろうとも思う。


昨今、AIアイドルも出現しているが、現状でも人間はただの「素材」と化している訳で、
本当にそれでいいのだろうか?と訝る。

私はエンタテインメントへの基本は、並外れた人間技と才能への畏敬だと思っている。
将棋や囲碁の世界で圧倒的な能力でAIが勝っても、全く感動をしないのはそういう事だ。

またAIが分析したレンブラントの絵を見ても、心を揺さぶられないのはそこには人間技がないからだろう。
ゴッホ展でキャノンが作った立体再現プリンターの絵を見たが、技術的面への驚きはあったが、感動には至らなかった。
人間には機械と比較して物理的な能力限界があるが、常人を超えたいる人たちのパフォーマンスだから感動や喜びがあるのだと思う。



スポーツも同様だ。
機械と人間がスポーツで闘い、機械が勝っても感動を呼ばないだろう。
だからスポーツには厳格なドーピング対策がある。
しかしエンタメにはない。

並外れた人間技と才能を持った人間は、数十万人に1人程度しか出現しないから価値がある。
そうしたフィジカルの凄さこそがエンタテインメントの価値の源泉であろうが、昨今は見る影もない。

実際、映画・映像や音楽の世界ではこれらについて「ドーピング」と受け止めていないが、
私には「過剰なドーピング」に思える。


昔の作品にも技術を頼りにした部分が多いが、それでも最後の肝は人間技が引き取っていた。
昨今の作品にはそういう息遣いが感じられないのだ。

AI時代に入り誰でも同じようなパフォーマンスが出せるとなれば価値は自然と落ちて行くだろう。

価値のないものに過剰な修飾を施しても当たり前なら、もはや心を動かされないだろう。
踊る阿呆に見る阿呆というが、ちょっと次元が違い過ぎないか?

最近のロックバンドや若手歌手の生歌を聞いていると、音源とライブの違いの凄さはちょっと酷過ぎないだろうかと思う。
特に歌のピッチの揺れ方は度し難い。


映画にしても、上手い役者の演技を邪魔するような特殊効果は見ていて辛いほどだ。
古い例で恐縮だが、仮にThe  Eaglesがライブでホテル・カルフォルニアを生でレコードのような演奏出来なかったら、彼らのレコードを買い、ライブにいくことはないだろう。

さて、スターウォーズ ~最後のジェダイは、SF作品であり、特殊効果を前面に出す事で地位を得てきたのだが、もはや映像を見ていてもワクワクしなくなったのは、観客の私が今の技術なら当たり前だと感じているからだろう。


そういう意味では不幸な時代になった。新しいターウォーズを見ていてあれ以上の何を期待して良いのか
私にはもう分からなくなった。3DもIMAXも本質ではない。
私にはこの手に対して飽きが来てしまったと言っていい。

エンタメは本質を磨く時代から技術に逃げる時代になってしまっているのだろうか?

ここ最近、映画なら昔の映画を見るし、音楽ならオールディーズものを中心に聴くようになったは、
ドーピングレスのエンタメを欲求する背景があるのかもしれない。
単純に昔を懐かしんでいるというより、昔のものの方が圧倒的に人間技として良く出来ていると私の感覚が言っているのだ。



先日ザ・ビートルズのドキュメント映画、「Eight day the week」を見た。
彼らが生身の体から生み出す新しいメロディーや音楽にどれ程の民衆が虜になったのかが良く分かるが、
その根底には並外れた人間技と才能への畏敬があったのだと思う。

レンブラントの絵をAIが解析して書いた新しい絵は、技術的には興味深いがそれ以上でもそれ以下でもないことは述べた。
技術的要因を多用した映画や音楽が人間技の欠片もないとは言わないが、想像力を掻き立てる何かを失っている点については、制作者側に立ち止まって考えて欲しい部分だ。




私は古い人間なので、オールドファッションが好きなのだろうと言われれば全く否定しない。
ここ何十年もゴッドファーザーや地獄の黙示録、大脱走やエンゼル・ハート、羊たちの沈黙、アマデウスに
匹敵するような映画らしい作品が見当たらないのは寂しい限りだ。

音楽に転じれば、私の20代は、桑田佳祐氏や山下達郎氏、大瀧詠一氏、坂本龍一氏などの素晴らしい才能に囲まれていたが、現代の若手のミュージシャンの中に彼らに匹敵し、なおかつこの先30年をリードできる人材は何名いるのだろう?
ギリギリ星野源氏位だろうか?



日本の音楽シーンは、AKBや嵐、三代目でベスト10を席巻し、多様性を失った事で市場そのものが冷え込んでしまった。
彼らを選んでいるのも市場だが、この多様性の無さに音楽業界は危機感が無さすぎた。

これは20年を掛けて音楽業界が斜陽になり、有能な若いスタッフが入ってこなくなり、
有能だった団塊世代周辺のスタッフが消滅した事により、才能を見つけ育てる機関が失われ、
企画的でメディアと結びついたジャンルだけが生命線になってしまった事でバランスを欠くようになったのだろう。


これは映画も同様だ。
パシフィックリムやアベンジャーズが席巻しているのは市場の要求なのだろうが、
甘いお菓子ばかりの映画供給環境は音楽と同様で多様性がなく、大人の私には食い足りない映画ばかりだ。

また大型劇場の席巻によって、特に渋谷の地においても単館上映館が激減し、小さなニーズを引き取る環境が
減ってしまった事も私にとってツマラナイなあ・という感じだ。

しかしそれも時代の流れといえばそれまでだ。



ただ感覚的に言える事は、優秀な若いクリエイターの絶対数は、明らかに映画や音楽からは激減している点だ。
理由は分からない。
優秀なクリエイターが音楽や映画などの斜陽産業を避け、ITやゲームなどの分野に
行ってしまったからかもしれない。実際スマホのゲーム分野の市場は成長軌道にある。
成長軌道を作る新しい産業には才能のある若者が多くいるのが常だ。



彼らにとって、映画や音楽は魅力的で永続的な分野でないのだろう。
だから面白くなくなったと言えるのかもしれない。

しかしスマホのゲーム分野もいずれは飽和するかもしれないが、今の段階では分からない。

この年になると、エンタメに対して若い頃のように驚いたり感動したりするハードルが上がってしまう。
滅多な事で笑えないし、驚く事も少なくなった。

老化なのか?と思う時もある。

大抵のことを見聞き、経験してきたからなのだから仕方ないがちょっと寂しい気分にもなる。

ただ自然の営みにはまだまだ未知の領域があり、歴史、美術の分野には心を動かされる事も多く、
こうした部分にはこれから先、ジックリ取り組もうとは思う。
もう流行り廃りに惑わされず自分のスピードで生きる年齢だとも思っている。

音楽や映画の価値観については、35歳までに見聞きしたものが絶大な影響を与えてしまうという記事を
読んだ事があるが、そうかもしれない。



まあ、こっちがオッサンになって懐古趣味的になったということは多少の理由としてあるのだろうが・・・。




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