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GLAY、結婚式で楽曲無償提供の誤解報道、勝手に補足説明 [独り言]

GGLAY、結婚式で楽曲無償提供の誤解報道、勝手に補足説明


4人組ロックバンドのGLAYが、結婚式でGLAYの曲の使用を無償で提供すると
2017年12月10日に公式ホームページで発表した。


ネットニュースを読むと、「楽曲提供無償」が目立つが「完全無償」でなくトラブル心配の声もとの追い報道もある。




本件について、目出度い結婚式での楽曲使用についてメンバーが表明してくれた気持ちは嬉しい事だと思う。
これは彼らの純粋な気持ちだろう。
同時に彼らの気持ちに寄り添うなら、もう少し周辺スタッフが噛み砕いて上げるべきだとも思う。


上記のGLAY公式サイトの「ブライダルでのGLAY楽曲の使用に関して」を読むと、正直言えば、素人の人には
何のことだか完全には理解出来ないと思う。
報道にあるようにメンバーは無償提供と言っているのに報道の言う「完全に無償じゃない」というのはどういう意味なのか?


問題は著作権の管理者が複数あることが事を複雑にしている。


凄く簡単に言うと、著作権には幾つか種類と権利の恩恵を受ける幾つかの対象者が存在する。
知らない人が分かるように以下に簡単に記載する。


音楽著作権の場合、ザックリ言うと①作家(作詞、作曲家)が持つ権利と、
②レコードを作った事に関係する権利の2つがある。
この2つの権利は管理団体が異なる。

また両方の管理団体は、権利者の預託範囲ないで使用料の管理(財産権)をしている。


日本において作家の権利管理は、JASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)とNEXTONEの2団体、
また、レコード会社が音源を作った事に関係する権利はCPRA(一般社団法人 実演家著作隣接権センター)が管理している。

今回、メンバーが使用料免除要望を出した部分は「CPRA」が管理する部分で、「JASRACとNEXTONE」ではないという事だ。


何故JASRACとNEXTONEは免除が出来ないのか?


難しい説明を省くが、JASRACとNEXTONEに対して信託登録された作家であるメンバーは、既にブライダルなどの場所で楽曲を使用する場合の使用料徴収権をこの2団体に一定期間自分たちの作品を預けている。
これを信託しているという。信託というのは、見かけ上、著作権を管理団体に譲渡し、徴収作業をする際、管理団体が権利者のように振る舞う事を著作権者が許可するような事をいう。

つまり、信託されているというのは、この2団体が作家と同じ権利を持った「状態」で使用者に対して使用料徴収業務が出来るという意味だ。
もっとかみ砕いていうと使用者に対してメンバーの代わりに使用料を払って欲しい(だって権利者だから!)と言える立場がこれらの管理団体ということになる。

従って既に登録済の楽曲はメンバーの著作権であるにも関わらず使用料の徴収に関して、取ってもいいとか取らなくてもいいなどのような自由にならない。

これは管理システム上等の問題で受付られないのだ。


何故か?


通常ブライダル会場を運営する会社が既存曲を利用した演出をする場合、JASRACとNEXTONEとは会場の規模や売上に応じて年間利用として包括した利用料の支払いを行う。その方が事務作業が低減できコストメリットもあるからだ。
通常ブライダル会場側は従量制的に支払うか、包括契約としての対価を1年分をまとめて払うため、仮にGLAYの曲が免除されても形式上、この2団体は使用料を受け取る事になり、管理団体が受け取った使用料は作家に分配しなければならない。
従ってGLAYだけを除外した作業が出来ないから使用料免除にするのが困難なのだ。


メンバーがそこまで知って発言していたかは怪しい。まあ、ミュージシャンはこういう部分に疎いからだ。
従って公式サイトに説明されているように「著作隣接権についての無償提供をさせて頂く運びとなりました。」という言い方になってしまうのだが、この説明では一般の人がピンとくるかは難しいと思う。


著作隣接権なんて聞いた事も無い人が多いだろうが、有体に言うとレコード会社が保有している原盤権と
レコードを作る際、演奏等に関わったミュージシャンたちが持つ権利の事だ。

実は著作隣接権も年間包括契約を採用しているが、使用量に従量した徴収も行っている。


そのためJASRACとNEXTONEと異なり運用に柔軟性があり、分配も同様のため無償対応出来たという事だ。

メンバーからすれば自分たちの想いの半分しか叶わなかったということだが制度上致し方ない。


もし自由に利用環境を設定してければ自分たちで管理すれば良いと思うが、
そのリスクとして知らないところで利用されても金を取りこぼす事を覚悟しなければならない。
また煩雑な管理体制を維持しなければならず、良くも悪くもJASRACとNEXTONのような団体に預けておいた方がメリットがある。

個人がブライダル等で使用する場合でも1曲辺り8,000円程度のJASRACとNEXTONEへの使用料支払いを求められる。


著作隣接権使用料も概ね同額なので、それなりの出費となる。
(詳しくは包括契約状況や使用環境等で異なるので各ブライダル施設にお問合せ下さい)


よく、自分が買ったCDだから個人で使っても関係無いと言い張る人がいるが、
CDを買い個人的な利用をする事とその著作権を別の環境下で利用出来るかどうかという事は全くイコールではない。他人が作ったものを利用するというのは対価が発生すると考えておく方が普通だと思っておいた方が良いだろう。

つまり、今回の件は、GLAYの曲をブライダルで使用すると「著作権使用料をブライダル会場経由もしくは個人で著作権管理団体に申請して支払いをしなければならないが、隣接権団体は免除となる」という事で、手間は半分になったが、著作権使用料は支払う必要があるという事です。


そういう意味で今回のGLAY記事のは、一般的に馴染みのない話で説明が難しいが、少しでも助けになればと思い書きました。









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はしだのりひこさんの訃報に接して [独り言]

はしだのりひこさんの訃報に接して。


はしだのりひこさんが2017年12月2日、ご逝去された。
ニュースはネット経由で知った。


フォーク歌手、はしだのりひこさん死去…72歳
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171202-00050073-yom-ent


彼の訃報に接し、私は殆ど忘れていた中学時代からの彼との交流を思い出す。

40年近く前の話なので記憶の片隅になってしまっていた事はご容赦願いたいが、
はしださんは私の人生にとってプロミュージシャンとして初めて接した人物だった。

長野県の田舎の中学に通っていた14歳当時の私は、日本のフォークミュージックに傾倒していた。
小学校6年生から始めたギターもかなり腕前を上げ、オリジナル曲を作り始めていた時代だ。
夢はミュージシャンになることだった。
1970年代初期、はしだのりひこさんは信越放送のラジオのパーソナリティーをしており
土曜深夜帯に冠番組を持っていた。
「はしだのりひこのグリーンラブフォーク」というタイトルの番組だったと思う。

ラジオっ子だった私は、その番組のリスナーだった。
(当時の同世代の方の多くはラジオを聴きながらの受験勉強のご経験があるに違いない・・)

この番組はいわゆるオーディション形式を内包した番組だった。
はしださんとSBCのスタッフが長野県各地を移動し、
現地での番組収録をしながら音楽愛好家から出演の応募を募って演奏や番組を構成し、
各地の優勝者を決めるという内容の番組だったのだ。

IMG_20180725_0001 - コピー - コピー.jpg

上の写真は1977年の夏ころ、長野県飯田市の商工会議所の上階にあった小ホールで
開催されていた信越放送主催のグリーンラブフォークの公開収録の模様。
たまたま整理していた当時の写真集にあったのでデジタル化した。
当時の私は時折これにアマチュア参加者として出演していたが、田舎者の私にとって
憧れの音楽業界に接近しようとしていた時期だ。

またこのイベントの当時のゲストはなぎらけんいちさんなどで、彼らの音楽が聴け、
当時の私はそのライブを楽しんで聞いていた。
田舎の少年にとってその光景は眩しかった。

14歳のある日、私はこの番組の演奏者に応募して出演することになった。
地元のバスターミナルの上階で行われた公開収録に出演し、自作自演の曲を演奏することにしたのだ。
当時の私はミュージシャンになることに憧れていた。
だからプロの意見や聴衆の反応を知りたかった。

もう40年以上前であるため記憶が定かでないが、確か2~3回ほど番組に出演し演奏したと思う。
その内1回は優勝してはしださんのサイン入りのギターをもらった。
(今でも実家にある)



今振り返ると当時の私の演奏が賞賛に値するほど素晴らしいはずはないのだが、
オリジナル曲で挑んだという事や、まだ14歳だったという点を考慮されたのだと思う。
当時の私は目立ちたがり屋で出たがりの子供だったから、はしださんも面白がってくれたと思う。
実際その後、彼の番組にゲストDJ(喋る方のDJです・・。当時のDJはそっちの意味ですから。)として2週分の放送に出演する機会を頂いた。
今考えると無謀とも思えるし、当時の放送された録音も手元にないので正確に何を話したのかさえも殆ど記憶がない。
しかし田舎の中学生の私がラジオ番組に出演するという人生でも滅多にない「経験」があった事を思い出したのは、彼の逝去の報道がキッカケだった。私はこんなすごい経験を忘れていたのだ。

当時のはしださんはとても優しかったという記憶しかない。
シロウト同然の中学生と絡むのは、プロの彼にとって優しい事ではなかったと思う。
それは自分が音楽業界に入った事でようやく理解できた事だ。

当時の私は早口であったため、活舌が悪く、時折はしださんに注意をしてもらいながらの収録だった。

私が18歳になって大学に通うために東京に出て来た時期になってもはしださんとの交流が断続的にだがあった。
はしださんの事務所は原宿の竹下通り入り口に今でもあるマクドナルドの向かいに建っていたマンション内にあった。
私は時折事務所を訪問してご機嫌伺いをしながら、時折だったが彼の仕事をボランティアで手伝っていた。
記憶にあるお手伝いは、新宿厚生年金会館の小ホールで開催された企業慰安向けのコンサートだった。
当時そのライブで唄っていた曲の中で記憶があるのは「たとえば光」だったが、
現在ユニバーサルの音源として存在しているようだ。
なおその日、同じ会館の大ホールでは、レイナードスキナードが公演をやっていた記憶がある。


たとえば光





私とはしださんはそれ以降疎遠になってしまった。
理由は正確に憶えていないが、私が大学生活を謳歌し始めて
連絡をしたり事務所に行かなくなってしまったからだろう。
加えて彼の方からも何となく連絡がなかった事もあっただろうと思う。


私が音楽業界に入ってからもお会いする機会が無かった。
80年代以降、彼が地元の京都を中心とした活動をしていたためだろう。

それから40年以上の年月が流れた。


60代になったはしださんは、パーキンソン病などの闘病生活を送っていたという。
72歳という若さでご逝去されたが、最後まで人生と格闘していらっしゃったのだろうと推察する。
私も還暦が近くなり、病気がもたらす過酷さを痛感している。

自分の昔を振り返り、はしださんが私にくれた小さなチャンスは、本当に有難い事だったと今でも思う。
そう思いながら京都の方向に身体を向けて祈った。



はしださん、ありがとうございました。
安らかにお眠りください。












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