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昭和40年代の長野県伊那市の風景、小学校のスケート、日影区のアパート [独り言]

去る2018年2月17日、小平 奈緒さんが女子500mで日本のスケート史としては初めての金メダルを取った。

数十年前ではとても考えられないような女子スケートでの金だ。
彼女はたまたま私と同郷の長野県出身者なのだが、そういう意味でも非常に誇らしい。
ところで彼女は高校時代に伊那西高等学校に通っていると聞いた。伊那と聞くと懐かしさがあふれる。


実は、私は1962年以降の3歳頃から小学校4年生まで伊那市に住んでおり、竜東保育園~伊那東小学校に通っていた。

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(上)1965年春頃の伊那東小学校。現在でもここは残っていたように記憶している。


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上の写真は天竜川にかかる中央通りに通じる大橋の高遠寄りの風景だ。
背景の建物は現在はない。


当時住んでいたのは日影区に今でもある市営アパート群の一角だ。

この時代、冬季は今よりもかなり寒いため、近隣の小学校は校庭に水を張り凍らせて
スケートを体育代わりにさせていた。
現在の伊那の気候しか知らない世代にはとても想像つかないだろうが、少なくとも50年近く前の
1960年代~70年代初期までは確実に冬の小学校の校庭はスケートリンクとして活用できる時代だった。

当時の様子はこのブログに掲載した写真で確認して欲しい。

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1960年代初頭の伊那東小学校で開催された校内スケート大会の模様。
寒い中、1日外で行うイベント。
400m競争で1位で滑走中に転んでどん尻になった記憶しかない。

中央左の古い建物は古くからあった校舎だが、私が小学校3年生位の時に
建物ごと移動させたのち、解体したような記憶がある。



当時の伊那市の冬季の朝は、当たり前のように零下だし、日中でも一桁の下の方の気温は当たり前だった。

下の写真のように冬季に伊那でもこの程度の雪は当たり前のように積もっていた。


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伊那東小学校の生徒は、朝学校に来るとスケート靴に履き替えて校庭に出来ているスケートリンクで滑る。
一時限目前までだから8:30頃までは滑っていただろう。また体育の時間も基本的にスケート。
昼近くになるとさすがに溶け始めて危ないので、体育の授業でスケートをするのは昼前までだったと思う。
当時はまだ今のような革のスケート靴が一般的ではなく高価な買い物だったために、
家庭の経済事情が厳しい生徒は「ゲタ・スケート」なる、手製のスケートを履いて滑っていた。


「ゲタ・スケート」とは、ゲタの歯の部分を取り去り、その部分にスケートの刃を固定したものだ。
鼻緒の部分を使って足を縛って固定するのだが、靴とは違い不安定で緩みやすい。
少なくとも私のクラスには1人か2人、「ゲタ・スケート」で滑っていた生徒がいた。

当時は多くの人たちが裕福ではなかったし、服が破れたりすると継いだりパッチを当てたりして
着ているのが普通の時代だったため、「ゲタ・スケート」を履いている子供が
差別対象になったりはしなかった。



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伊那東小学校。2008年4月撮影。咲いている桜は私が小学校一年生として

入学した際の記念樹だ。桜の咲いているところを見たのはこの時が初めてだった。
当時の面影はかなり濃厚に残っており、私もこの道を歩いて通学していた。


当時、一般的に普及していたスケート靴のメーカーは「SSK」だった。
「SSK」は野球用品のメーカーで有名だが、私にとってはスケート靴のイメージが遥かに大きい。

私の父は市役所の役人をやっていたので経済的に余裕があった方ではなかったが、
スケート靴は買ってもらえたし、母も時折近隣のスケート場で(大抵は湖が凍った場所を使っている)
スケートを楽しんでいた。


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上記は伊那西スケートリンクと名図けられていた伊那市西方にあった場所。


小平 奈緒さんは80年代の生まれなので、かなり温暖化が進み伊那でも冬の校庭に氷が張らない時代だったため、高校時代に伊那でスケートをしたことはないだろうと推察するが、
彼女がある時期、雪をたたえた仙丈岳などの南アルプスや中央アルプスなどの変わらない美しい景色を
見ていたかもしれないというのは何となく嬉しくもある。



当時私が住んでいた日影区は、現在のように舗装されておらず砂利道、土道だった。
牛車を使う農家も通行しているような場所で、至る所に牛糞が落ちているような時代だった。
現代の感覚では衛生上の問題を指摘されそうな感じだが、当時はおおらかな時代だったので
避けて歩いていた。(たまに踏んでしまうのだが・・・)

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写真上は、日影区の市営アパート前から市内に通じる道路。
まだ砂利道で舗装されていないのが分かる。
昔は大抵の道はこんな感じだった。



また市営アパートの前の段差は宅地開発前だったため森が茂っており、開発途中の山を切り崩した場所は
むき出しのままだった。子供時代の私はそういう場所に秘密基地を作って友達と遊んでいた。
現在の同所は全て宅地で埋め尽くされており、往時の様子とは随分違う。

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上の写真は、当時私の家族が住んでいたアパートで写真に見える棟だ。
背景には家がぎっしり建てられているが、先に掲載したスキーをしている

写真の背景と比べれば変化が分かると思う。


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アパートの共有公園付近からの様子。
当時はこの辺りで暗くなるまで遊んでいた。
2012年7月撮影。



市営アパート周辺には二軒の雑貨屋さんがあり、みどり屋さんと千代田屋さんと言った。
数年前に行って見たがみどり屋さんの場所には別の家が建ち、千代田屋さんは建物だけが残り廃業していた。
みどり屋さんの想い出は、メキシコオリンピックを見て感激した子供時代の私は、どうしてもメキシコシティーに行きたくなった。
そして母からみどり屋さんのおばさんの娘さんがメキシコに留学していると聞いたので、
おばさんにメキシコに行くための話を聴きに行った記憶がある。

千代田屋さんはとにかく夏のアイスクリームと大判の醤油せんべいを買った記憶が強い。
まだ10円のカップアイスや当り付きのバーアイスが売っていた時代だが、当時の私にとっては
50円を超える買い物は相当なものだった。

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千代田屋商店さん。2012年7月撮影。
子供の頃、この店は私のオアシスだった。


私は日影区の奥にあった中学校の前に建っていた三角屋根のお宅に住むピアノの先生からピアノを習っていた。
この家は現在でも同じ場所にあるようだ。
私は当時から譜面が全く読めなかったのだが、先生の弾いているピアノを見聞きしてマネるのが上手く、
結局4年間、私が譜面が読めないことを理解されず、結局私は初見では譜面が読めないままとなった。


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伊那東中学校の校門前の様子。右奥の三角屋根のお宅が
ピアノの先生のご自宅。当時はこのようなデザインの家がなく
とてもモダンに見えていた。
(その後私の実家には同じデザインの家が建つ)


昭和40年代前半の伊那市の風景の一部でございました。



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コメント 4

かずや

はじめまして。80年代の音楽に興味あって拝見させていただきましたが、小生の母親が保育士として勤務していた保育園と時間が同じでしたので驚きました。1962~1970年くらいだったと聞いておりました。もしかするとコロンさんを母がお世話させてももらったかもれませんね。
by かずや (2021-08-10 21:40) 

コロン

コメント、ありがとうございました。
その可能性はありますかねえ・・。私の好きだった担当の保母さんは、唐澤キクミ先生と言いましたかねえ・・。
地元のお米屋の旦那さんとご結婚なさったと思います。
80年代の音楽にご興味があるのですね。
私が生きた時代でした。

ではでは。
by コロン (2021-08-19 11:24) 

かずや

母に聞いてみましたところ、唐澤先生は市保育園で園長まで出世した方で現在も伊那市で暮らしており、現在も交友関係で母の親友だそうです。
唐沢先生は優しく器の大きな偉大な人だと言っておりました。

ちなみの母は御子柴トモコという名前です。

73年生まれの小生は、小学生の頃ラジオから聞こえてくる音楽で育ち当時のシンセから作られる音に今も魅入られてます。

読み応えのある文章に感銘いたしました。
by かずや (2021-08-26 19:43) 

コロン

コメントをありがとうございます。
唐澤先生は園長さんにまでご出世なさったんですね。
素晴らしい情報をありがとうございました。
またまだご存命と伺い、嬉しい気持ちです。
先生が育てた子供である私ももう還暦を過ぎました。(62歳)
実は、まだ園児だった私は、唐澤先生が大好きで、子供ながら恋をしていたような感じでした。だからご結婚した時は、子供心にショックだったのを記憶しております。笑。
可能ならば、お母様を通じて先生によろしくお伝え頂ければと思います。

昭和34年生まれの私が保育園にお世話になっていたのは多分、昭和38年から40年位の時期だと思いますが、ネズミ色の園児服がクールじゃなくて泣いておりました。

ブログにも書きましたが、保育園の近くにある伊那東小学校の入り口から校庭に沿って校舎に向かう路にある桜の木は、私が入学時に植えたものですが、今でも元気に咲いているのを見て嬉しい気持ちになりました。

実は私は、80年代から90年代にかけてシンセサイザーのオペレーターをやっておりました。20代だった時に働いていたのが元YMOの事務所(その後は坂本さんの事務所となる)でしたから、その時代の音楽を生み出す仕事をしていた訳です。(YMOとは直接の仕事をしておりませんが、事務所には多くの楽器が転がっていました)
ソロになってからの坂本さんとは4年ほど仕事致しました。もう遠い昔ですね・・。だから私の名前もその時代のレコード(その後のCD)にクレジットされています。
あの時代と比較すると現代のコンピューターミュージックは恐ろしい程の進化を遂げております。
自宅でスタジオ並みの音楽を作る事も可能ですし、今は様々なツールで発信が可能ですからね。

昨今、伊那市からはKING GUEやFAITHなどの著名なミュージシャンが出ており驚いております。時代は変わりましたねえ。

ではでは。
by コロン (2021-09-01 21:52) 

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