SSブログ

1983~84年 ローディー時代の景色 Part-10 (最終回) [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

変動期 1984年春~初夏:
最終回 


120129ヨロシタM (15)_S.JPG

1980年代の乃木坂時代のヨロシタミュージックがあったマンション。
写真右の2階部分(201号)だ。
3階左部分は発足当時のMIDIレコードがあった場所。
このマンションの5階右(501号)には、やのミュージックがあった。
1階の101号を事務所の楽器倉庫として使っていた。
なお当時の壁面は白色だった。ただ外観は全く変わっていない。

(2012年1月撮影)


       

 当時の私が以下に起こる事情を完全に理解していたとは思っていないし、どうしてそういった経緯になったのかも分からない。とにかくそれは1984年の春、多分3月頃だっただろうか、それは突然起きた。
憲司さんは当時のマネージメント事務所であったヨロシタミュージックを離れる事になったのだ。
ここまでにどんなやり取りがあったのかについて私は内情に精通していない。
当時から30年近く経ち、それなりの人生経験を積んだ私が当時を推察すると、色々な想定は考えられる。
しかし全て憶測の域を出ないので私の見立てについては割愛する。
いずれにしても憲司さんがヨロシタミュージックを離れて一時的にせよ個人管理(自営)に切り替えるという判断があったという事実は確かだ。

私にとっては事件とも言うべきこうした一連の出来事で、当時はこれが起きるまで色々と知らなかった経緯が詳らかになった部分は多々ある。私が当時
毎日楽器車に積んで運んでいたミュージックマンのアンプは、憲司さんの所有物ではなく、ヨロシタ所有の楽器を借りていたということなどだ。そのためアンプは事務所に返却となった。その返却の現場に憲司さんも同行して来た。
その後のスタジオ仕事の際は、同じアンプを別途ヨロシタからレンタルするか、ヨロシタ以外のレンタル楽器店から借りるような不便な状況になった。
実は、レンタルアンプは、色々な場所や環境や様々なミュージシャンによって使用されるため、スタジオのような音にこだわる環境で利用するには余り適切とは言えない。他人の使用癖のようなものが付いてしまうのだ。
また機材の個体差があるのでミュージシャンの音作りにも影響がある。
こうした状況に私は戸惑っていた。

今でも記憶にあるのは、ヨロシタの楽器セクションのチーフでシンセ・プログラマーのF氏が私に「とっつぁんの事を余り悪く思うなよ」というセリフだった。とっつぁんのとは当時の憲司さんの担当マネージャーのT氏の事だ。私が彼に対してそうした感情を抱くだろうとF氏が推察する理由は幾つあった。Part-7で書いたが、そもそも私は長い間を経てのリストラ対象者だったし、どうやら雇用初期からそうだったようだ。そういう意味で当時の私の人生は薄氷を踏んでいるような状態だったと言えるだろう。
そして彼からの継続的な解雇通達の経緯に私が好感を抱けないでいたのも事実だった。
それでも後年になると、
氏の辛い立場も一定程度理解できるようにはなったし、彼自身にもこの経緯の中で色々と想う処はあったが、長期間に渡る解雇への不安はストレスだった。

こうした環境下、憲司さんが事務所を離れる事情になったのは、私としても穏やかならざる状況だった。しかしこの件で突然のように私のリストラ案は霧消し、憲司さんから直接、雇用継続を伝えられる。
憲司さんにとって私の再雇用は消極的選択だったかもしれない。新しいボーヤを探す手間や教育を考えれば私の方がまだマシだったのだろうという判断だったのだろうと思う。
それでも私は嬉しかったし、
消極的選択だったとしても良かった。
私にはまだこの仕事を続けたい強く気持ちが強くあったからだ。


この頃から憲司さんの私に対する様子が少し変化してくる。いつもは一線を置いて殆ど会話らしい会話も無いままに接していたのだが、次第に私に対して声をかけてくれるようになった。
私はそれが嬉しくて舞上がってしまったので、変な質問(「海と山とどっちが好きですか?」)なんていう恐ろしくバカみたいな質問をしてしまったこともあった。
その位舞い上がって緊張していたのだ。
私と憲司さんとの間には、犯す事の出来ない上下関係が存在していた。
しかしそれは私にとってごく普通の事でもあったし、苦痛でもなかった。

いずれにしてもこの時期憲司さんは、事務所の後ろ盾なしで個人の御旗で仕事をこなさなければならなかった。
とは言え、憲司さんの力量は業界内で一定の評価を得ていたので、マネージャーが居なくなったという事以外に表面的な変化はなかった。
しかし私がマネージャーの立場をカバー出来るほどの能力を持った人間でなかった点はどうにもならなかった。
いかんせん経験もなく知識もない。
ボーヤ時代の1年ちょっとで分かった事は本当に僅かだったからだ。

振り返れば、T氏側にも色々な思いや事情があったのだろう。満を持して発売したソロアルバム「外人天国」の売上が色々な意味で影響をしたかもしれない。
音楽業界に限らず、結果が全ての部分があるのだが、販売結果は冷酷にそれを突き付ける。本質的な意味で憲司さんを一番好きで認めていたのはT氏だったから、それ故に担当者としては苦悶・苦悩があったことだろうと思う次第だが推察の域を出ない。

 いずれにしても、T氏は1984年の夏前にはヨロシタを辞職した。彼はその後音楽業界で仕事をした形跡が見当たらない。

丁度その時期である1984年の6月のある日、憲司さんは突然のように実家のある神戸へ戻ると宣言し、ご家族を含めて帰って行った。ヨロシタを辞める事、T氏の退職、神戸への帰還はある意味で予定せざるセットだったのだろう。

これはご自宅が事業をしており、長男である憲司さんがご自宅の事業継承の問題を解決しなければならなかったという事情だとも聞いている。

当然この件で私は失職するのだが、憲司さんは私の身の上を案じてくれ、翌月分の給与を保証してくれた上に、不要となったギターを2本を譲ってくれた。
私は過分な対応に対して感謝の意を示し、彼と家族を羽田空港にお送りした。

当時憲司さんと頻繁に仕事をなさっていたキーボーディストの中村哲氏が、当時の憲司さんとのお付き合いについてインタビューで語っていらっしゃる。これを読んで氷解した部分も多い。リンク先に飛んだら、ちょっとスクロールダウンしてください。記事は下の方にあります。

【キーボード/バンマス・中村哲さんの話】
http://www.1101.com/omura/2001-03-25.html

ここに記載されているインタビューを読むとちょっと切ない気持にもなる。憲司さんの中で色々な想いや考えが交錯して戦っていただろうと思った。


加えて憲司さんと交流も仕事も深いお付き合いだった日本の至宝とも言えるドラマー「村上”ポンタ”秀一氏」の著書、「自暴自伝――ポンタの一九七二→二〇〇三」には、私の知らなかった憲司さんの記述がそこここに見られる。憲司さんの記述だけでなく、70年代から現在に至るまでの日本の音楽業界の中心を生きて来た方の興味深いお話が満載だ。

私にとって憲司さんの記述部分は非常に興味深いものだった。
この本に書かれている憲司さんは、私が直接知らない部分に多数触れているが、1年半ほど憲司さんと時間を過ごした私は、これを読んで”ああ、そうだったんだ・・”と思う部分が数々あった。

私がこのような言い方をするのが良いか迷うが、憲司さんは音楽に対して本当にピュアだったのかもしれないと思う。
プロの音楽業界の世界は純粋な音楽好きの集団というよりも音楽商業的な集団の方が勝る部分が大きく、純粋な音楽好きとしては、音楽商業的な現実に苦しんでおられたのかもしれないと推察している。

いずれにしてもご興味のある方は一読をお勧めします。

自暴自伝 (文春文庫PLUS)

自暴自伝 (文春文庫PLUS)

  • 作者: 村上 “ポンタ”秀一
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 文庫



2017年2月に発売予定の「
大村憲司のギターが聴こえる/ギターマガジン編集部」も期待の本だ。 実は、この本の著者の方(本書は共著で数名によって書かれている)からこのブログを読んで頂き参考にさせて頂いたというご連絡があった。

こんな勝手な事を書いたブログが多少なりとも誰かのお役に立ったようで恐縮している。当然、私はこの本を予約しているが後日サンプル本が送付されてきた。その流れでこの著者の1人の方と連絡を取る機会に恵まれた。

前述した事だが、その方は、1983年4月に大村さんのボーヤの面談を受けていた方だ。これは、私が大村さんのボーヤになって一カ月後なので、私は働き始めて早々の時期にリストラ対象者になっていたという訳だ。
当時の私は相当仕事が出来ないヤツだったというのが評価だったのでしょう。残念ですがそうだったのかもしれません。
それでもそんな出来ないヤツが35年近くもエンタメ業界で働けたのは単に運が良かっただけなのだろうと思う。

ところでその方の証言によれば、面接を受けた1983年4月当時、同年7月に予定されていた石川セリさんのライブ(憲司さんがアレンジャー)までに交代する予定だったらしく、どうやら私はこの時期にリストラされ交代される予定だったらしいとのことだった。

私が継続的にT氏からリストラ宣告を受けていたのは、こうした背景があった事が分かった。そう言えば丁度その時期の私は、担当マネージャーのT氏から、渋谷の神泉町角にあった喫茶店(現在はUSEN本社ビル)で仕事の事で説教をされ、何となくの言い方だが、他のヤツを探し始めているような事を言われた経緯をこのブログでも書いたのだが、どうやらその代わりの人とは、この著者の1人だったという訳だ。

40年近く経てその経緯を知った私は、人間万事塞翁が馬ではないが、遠い自分の人生が自分の知らないところで色々と動く様を感じた。
いずれにしても人生とはあざなえる縄の如しとは言うが、私の心に複雑な記憶が呼び起きた瞬間でもあった。

結局その方は、T氏からキチンとした金銭的な条件について回答をもらえなかったことと、当時、内定をもらった企業があった事でボーヤ仕事を断る訳ですが、彼がこの時点で受けていたら私はお払い箱になっており、その後の人生は随分と違ってしまったかもしれない。

推測だが、T氏がその方に金銭的な条件を示さなかったのは、彼の内定した企業よりもボーヤの方が遥かに収入が落ちるため、直ぐに断られると思っていたからだろうし、彼との交渉を引き伸ばしている間に彼以外に候補を探し、彼の存在を保険にしておきたかったのだろうと推察している。

この方と数十年後のこの年齢になってから知り合う事も不思議な縁と言えますが、当時私が本当にリストラされていたら、その後、音楽業界の先の道に進む事もなかったかもしれないし、また教授と仕事する機会も無かったでしょう。
当然だが、サザンとの仕事をする機会もなく、アミューズの方々に知り合う事もなかったら、その後にアミューズに入る事もなく、当然そこで知り合いになるべきだった人たちとも会わない訳ですから、現在働いている職場に入る事もなかった訳です。

そういう意味で、私の知らないところで起きていた事は、随分と私の人生を変えたという事になります。

人生とはこのように不思議な流れで進んでいる部分もあるのだな・・と思うと、自分ではままならぬ事が多いんだなと思う反面、「運」もあるなあ・・と思った訳です。
私は宝くじに当たる運は全くないが、実はそんなに運の悪い人間でもないのかもしれない・・ともちょっとだけ思ったりもしました。
しかし流れ流れて今の自分を見ると、その結論はまだ先かもしれないというのが心境です。

大村憲司のギターが聴こえる (レア・トラックス3曲収録のCD付) (ギター・マガジン)

大村憲司のギターが聴こえる (レア・トラックス3曲収録のCD付) (ギター・マガジン)

  • 作者:
  • 出版社/メーカー: リットーミュージック
  • 発売日: 2017/02/01
  • メディア: 大型本

 

2018年2月、以下の記事がネットに上がっていた。なかなかの選曲で聴きたいが、私はハイレゾを聴く手段を持っていないので残念だ。

 大村憲司、厳選されたライブ音源をハイレゾ配信決
https://www.barks.jp/news/?id=1000151839


さて、大村憲司さんというギターリストについて、一般にはスタジオミュージシャンという形でしか知らない方も多いだろうと思う。憲司さんのスタジオ仕事の中で伝説的に語られている1つが山下達郎さんの名曲「Solid Slider」のソロだ。

達郎さんによればあのソロは1発録り、つまりワンテイクだったという。また達郎さんはトッププロミュージシャンというのはそういう事が普通にできる存在とも言っている。更に、「War Song」のソロは色々と思案した達郎さんがこのフレーズをイメージ通りにできるのは憲司さんだけだと指名して演奏されているものだ。
それでも憲司さんのギターの凄さを一般の方に理解できるように説明するのは難しい。憲司さんの本の中に彼自身の記載部分があるのだが、「天才はかなりレベルの高い事を6割位の力でスっとやってしまうものだ・・」のような趣旨が書いてある。憲司さんのギターは確かにそういうレベルだった。

それでも、そもそも彼の音の凄さは説明で理解できるものではなく感じるものだ説明が難しい。歌の上手さと違いギターの凄さを理解するにはそれなりに色々な音楽を聴いて接する必要があることは確かです。私は真近で接するチャンスがあったため、特にそういう感覚を磨かれましたが、それでも憲司さんの音を聞いた方は他のギターリストとは違う1音の凄さに触れ感じる事だろうと思う。

 

(渋谷PARCOでのバイト~ヨロシタミュージックへ)

憲司さんの仕事が無くなった1984年7月から早くも人生2度目の失職(失業)した私は、大学時代の下級生の友人(女性)の紹介で渋谷PARCO PART-1の3階にあった「宝樹」というサンゴ宝飾品専門店のアルバイトで食いつないだ。当時の私は、その日が食えれば良い位の程度で生きており、先々を見通して生きていなかった。誠に能天気なヤツだった。

しかし1984年10月のある朝、一緒にアルバイトをしていたその下級生から自宅の大家さん宅に電話が入り(現代では想像できないだろうが呼び出し電話である)、出てみると「大変です! 店がありません」と言われた。
驚いて急いで渋谷の店に行くと、店舗が紅白の幕で覆われており、商品は全て無かった。
PARCOの管理部門に問い正すと「店長から言われてませんでしたか?」と連れない言い方をされただけで要領を得なかった。店は店長家族が昨夜の間に撤収していたのだ。

我々に対する説明は皆無だった。
そういえば、バイトをしている間、店に何度もかかって来ていた電話は街金からの借金返済の催促ばかりだったが、それがこの結果だった。完全に自転車操業だったのだろう。

「宝樹」の経営者の自宅は狛江にあり、下級生の友人と2人で給与の支払いを求めて尋ねたが、周囲には金融取り立て系のヤクザ風の人間が囲んでおり、事態の悪さを感じさせていた。また渋谷の労働基準監督署にも行って相談したが、全く何の役にも立たなかった。労働基準監督署っていう場所は全く役に立たないと実感した最初の出来事だった。

結局10月分の給料であった10万円は私にとっての未回収債権となった。私にとって社会人になって早くも2度目の無職状態。今思うととんでもない馬鹿野郎だが、チンピラ人生を送っているとこういう目に合うのだと理解した。

当時の私は蓄えが全く無かったので、このままだと翌月の生活費が全く無くなる事態に直面してしまった。
新しい仕事を見つけるのに窮していた私は、祖師谷大蔵の駅前の公衆電話から憲司さんがかつて所属していたヨロシタミュージックの楽器セクションのチーフのF氏に電話をした。
特に何かを当てにして電話をしたんじゃないと思うが、バイトの口でもあればと思ったのかもしれない。

電話に出たF氏は、「おお、久しぶりだな。お前何やってんの?」といつものように明るい声で電話に出た。
私は事情を説明すると「何でもっと早く連絡してこねーんだよ! しょうがねーな」と言葉使いはべらんめぇ調だが、彼らしいフランクで実直な話ぶりで私の実情を聞いてくれたのだ。

「お前が良ければ俺の楽器運びの仕事ならあるよ、どう? 最初はバイトだけどそれで良いなら明日からおいでよ!
」と言われ、私は即答で「お願いします」と答えた。
私はこの時、どれ程救われた気持ちになったか言い表せなかった。F氏に対してこの点について今でも大変に感謝している。

こうしてギリギリで次の職にありつくことが出来、この判断がその後暫くの私の人生の行方を変えて行くことになる。1984年11月のことであった。この時のF氏には感謝以外の言葉もない。F氏はその後、音楽学校で教えたり、シンセ関係のイベントを開催したり、音楽関係の著書を共著で出したりと活躍しているようだ。

宝樹_S.JPG

PARCO PART-1の3階にあったアクセサリー店「宝樹」。
この写真は店内のスタッフが常駐する場所から撮ったもの。
向かいの呉服店には女優の故・大原麗子氏も訪れていた。
宝樹は1984年10月に倒産し閉店。
私の10月分の10万円のバイト代は
回収不能の不良債権となってしまった。


2018年春になって1983~84年の当時の境遇を振り返ると、自分の一途さにちょっと驚く部分が多い。「若さ故…」と言われるが、当時の私のエネルギーは音楽業界とへの憧れとその世界で一旗揚げる事に夢中だったと言える。
生活面を見れば笑う位に金の無い日々だったし、時間も余り自由にならなかった。
現代の若い人には想像もつかないかもしれないが、今の基準で見れば誠にブラックな業界だった。それでも当時の私は滅私奉公を厭わなかった。
自分で選んで入った道だったし、とにかく音楽業界って場所や環境が大好きだった。従って辛い事や嫌な事は数多くあったが、不思議と辞めようと考えた事は一度もなかった。

しかしこうした無謀な挑戦は、余り今の若い人たちにはお勧めできない。
時代的に経済成長が大きかった事もあり、何とかなる時代だったし、将来への不安も余り無かったからだ。
しかし現代は低成長時代で特に高齢者になると殆どの人が生活を縮小せざるを得ない。

2018年を生きる若い人たちに言えるのは、君たちが老後を迎える年齢から死ぬまでを支えてくれるのは、老後に得られる金(年金とちょっとした労働による対価)とそれ以前に働いて得た金が「全て」という事だ。つまり年金を含んだ生涯年収だ。

現在の年金制度は現役世代の金を高齢者に右から左に渡しているだけだが、年金の支払い設計はこの先も問題ない。ただ、年齢が若いければ若いほど受給開始年齢が先に延ばされ、受給金額も減って行くことだけは覚悟しておくべきことだろう。それを見越した人生設計をしておかないと高齢者になってキツイ事になる。

現代における昔の音楽業界的な位置にいるのがスマホのゲーム業界とAI関係のIT業界
だろう。現在でも面白いほど業界が伸びており、当然そういう場所には才能が集まる。
従って注目の集まる所は更にビジネス規模が大きくなっている。
現代においてスマホのゲーム業界とAI関係のIT業界はそういう場所だ。
残念ながら音楽業界に私の時代のような未来展望はない。
そのため新しい血が入りにくくなり才能は枯渇し、面白い局面を切り出す役割を担えないだろうと思う。
残念なのだがそれが時代というものだ。
もう一つ言い添えれば、これからの時代は数学・理科系人材が優勢の時代となる。
数学、統計、プログラミングが世の中を渡るために強い武器となることは疑いない。
文科系には辛い時代となるだろう。


そういえば、ボーヤ当時、毎日のように通っていた六本木ソニースタジオの6階にあったソニー系の出版社に勤める女性と知り合いになったことがあった。
ある時、何となくお互いに悪くない感じを持つ段階にまで行ったのだが、私は彼女との距離を取ることにした。
それは当時の自分では金銭的にも時間的にもとてもデートなんてできないし、生活も不規則だったからだ。
加えて社会的な地位も何もないし、自分に自信を持てなかったのだ。
おまけに向こうの女性は会社の正社員だった。
今考えると残念な気持ちにもなるが仕方なかった。

これまでずっと金が無い話ばかりしているが、当時の自分が絶望なほど貧乏だとは思った事が一度も無かった。
稼いでいる以上に支出することは一切なかったのと、欲しくても買えないから欲しいとも思わなくなっていた。
またいつか何とかなると思っていたんだろうと思う。

前述したが、結構キツイ職場環境だったが、一度も辞めたいとは思わなかった。嫌な思い出もあるしキツイなと感じてもいたが、メンタルは不思議な位全く平気だった。
このブログを読むと鬱病的になりそうな感じもするが、そういうブルーな事になったことは一度もなかった。
不思議だ。

昨今の新入社員は環境の良い職場でもさえも2日で消えるらしいが、やりたい仕事や環境であれば、少々キツクても辞めないものだと思っている。
でも個人差もあるから断言できないがね・・。

実を言えば私の経験を今の若い人にしてほしいとも思わない。
言葉を選ぶ部分もあるが、あの業界にはまだまだ理不尽で不条理な部分は無い訳じゃない。
またそういう事で時間を過ごして浪費するのも良くない。例外的に徒弟制度はあるべきと思うが、AI時代が迫る中、不要な待遇を我慢してまで身につけなくてはならないものは少なくなるだろうと思う。

ホリエモンさんが言っていたが、寿司屋の見習いで10年は無駄だというのはある意味本質をついている。私はホリエモンさんと価値観の合わない部分が多いが、この点については完全に同意できる。
精神論的な部分を除けば徒弟制度は使う側が技術伝承の代わりに弟子を安い労働として使う側面があることは間違いない。

よく雑巾掛けから始めろというのは一面正しいと理解しているが、実務面的には全く無意味だと言っていいだろう。
親方からすれば暖簾分けを作る事は競争相手を作る事にもなるのだが、そういう構造を理解していても師匠と言われる人たちの「修行」の在り方はちょっとどうかな?と思う。



さて、あれから30年余が経過し、何の因果か一部上場企業グループの社員に裏口から潜り込んだ私は、多少は人並みな生活をすることが出来るようになった。
ちょっと値段の張るコンサートにも平気で行けるし、日時もある程度行きたい時に行ける身分になった。
仕事も昔のようなヘビーな現場に行く事もなくなり、20代とは真逆の環境下で生きている。また職場が最初に面談を行った六本木のビルの傍に引っ越し、私の人生はまるで20代を逆になぞるかのようになっている。
それでも缶コーヒーを買うたびに昔の自分が1本のコーヒーを買うのに悩んでいた事は未だにフラッシュバックする。

私が音楽業界に居た時一番困ったのは、仕事のスケジュールがミュージシャンの予定に従って優先されるために、行きたいコンサートにすらなかなか行けない事が多々あった事だ。
チケット買っていてもスタジオ等の予定で直前になって覆る事が多く、前から予定して行けるライブは限られていた。
それが理由で80年代は殆どコンサートに行けなかった。
音楽業界にいるのにちょっと本末顚倒だなと感じていた。

コンサートにまつわる話で、40代に働いていたとある作家の事務所に居た時なのだが、当日になっても作家の行動予定がたたず、私の尊敬する山下達郎さんのライブに生き損ねる可能性が出て来た時があった。
夕方から作家がピアノの練習をするためスタジオに籠ったのをいいことに、私は作家に体調不良と訴えて早退を装い、コソコソと事務所を抜け出しライブに行った記憶がある。

仕事柄担当のアーティストの予定が優先するというのがこの業界のスタッフの掟だからだ仕方ない面はあるが、考えてみれば不自由な仕事をしていたと思う。
その不自由さは、そうした環境から抜け出る事の出来ない自分の不甲斐なさも一因があったとも思っている。

だから一旦業界を出て、そうした仕事から卒業をし、違う形でキャリア形成する
事が出来たのは本当に運に恵まれたと思うし、良かったと思う。

ありがたい事に現在では平日に有給を取って小旅行にも行けるし、例外を除いては自分で時間を差配出来る環境になった。
こんな贅沢は定年頃までで終わりそうだが、私の20代と50代はまるで鏡のように逆の環境にいるのが不思議だ。

60代以降についてはまだ分からない。正直悠々自適ってほど楽な状況ではない。出来れば70歳近くまでは何等かの仕事をして暮らせれば幸いだ。まあ、何とか自分にエッジを立てて頑張って行こうと思う。

音楽業界で働けた事は本当に良かったと思っている。でも現段階において、ミュージシャンに関わる仕事をしたいか?と問われてばNOと答える。
私個人にとっては十分なほど経験したし、私が彼らに出来る事はもう何もないと思っている。
今後は好きなミュージシャンの音楽やライブをお金を払って楽しむ立場で十分だ。
ただ、音楽を内包したエンタメビジネスには興味がある。残りの会社員人生や定年後はそういう分野に関わって行こうと思っている。

そして老後を経て死ぬときは私の祖母のように、あっという間に召されたいものだ。ピンコロですね。
延命治療、寝たきり、痴呆症になる前にはこの世にバイバイしたい。


追伸:


(憲司さんとの再会-1

憲司さんとの再会は、私がヨロシタミュージックに雇用され、年明けとなる1985年の正月に、ヨロシタ所有の楽器車を運転して、神戸の憲司さんの自宅に頼まれモノを届けるという際だった。会社の楽器車を使う事について、楽器セクションのチーフの藤井氏は懸念を示す。それは当然の懸念で、会社所有の車を個人の要望に応じて使用し、何かあった際の責任の所在を懸念したのだ。これは当然の懸念で、F氏としては「困ったなあ」と感じただろう。
しかしかつてお世話になっていた憲司さんの要望ということもあり、F氏は何かあった際の責任を自分が引き受けるという意思を固めてくれて、私に対して「運転にだけは気をつけてくれと」貸してくれた。無理なお願いをしたのだが、これには大変感謝しているし、そのため運転には非常に気を使った。
私は実家へ帰る際に楽器車で帰省し、多分年明けの1/4に神戸に向かったと思う。昼過ぎに神戸に行き、憲司さん一家に会い、所要を済ませ、その足で東京に戻ったと思う。憲司さんは交通費や高速代とお礼を含めてお金を渡してくれた記憶がある。東京の時とは違い、随分と温和で柔和な感じがした。
東京には無事戻り何も起こらなかった。その後憲司さんは私に手紙を書いて下さるなど、1985年に入っても多少だが交流が続いた。 


(憲司さんとの再会-2

いつだったのか確実な記憶がないが、神戸に戻った憲司さんが一時的に活動を再開した時期があった。当時の私はヨロシタミュージックでシンセ・プログラマーのF氏のアシスタントで生計を立てていた。憲司さんが一時的な活動を始めるというこの時期、憲司さんから直接頼まれて機材面のサポートをやったことがある。記憶している場面は、神泉町のMACスタジオで矢沢永吉氏のツアーに憲司さんが呼ばれたらしく、そのリハか、音合わせなのかは不明だがスタジオに楽器を持って行き、セッティングを手伝った事だ。矢沢氏を間近で見たのはこれが初めてだった。
彼がスタジオに入って来た際、「おはようございます」と反射的にいうと「こんにちわ」と答えた。インタビューで読んだ事があったが、彼は芸能界的な一日中「おはようございます」という挨拶の仕方を矢沢さんが嫌っていた事を思い出した。
結果的に憲司さんは矢沢永吉氏の仕事を辞退してしまう。この件は2001年、ひょんな事で矢沢氏の事務所の入社面接を受ける事があったが。時の矢沢さんの事務所の社長からこの件を聞いたので確かだろう。
またとある著名な日本人ジャズピアニストとのセッションの話が来ていて、新宿にあったPITINNで音あわせをしたが、これも憲司さんなりの判断があり辞退してしまう。当時憲司さんがステージから客席に移動つぶやいた一言は印象的だった。「俺がいなくても音楽、代わり映えしないだろう・・、意味ないよね」。

 

(憲司さんとの再会-3

実はこの再会の記憶には無かったのだが、当時のスケジュール帳の記載で判明した。
1989
年の秋、現在ではミスチルのプロデューサーである小林武氏のソロ時代のライブが渋谷クラブクアトロで開催され、彼のアルバムのシンセプログラムに私が関わっていた関係で私もライブに行った。その際に憲司さんご夫妻がおり久々の再会をしたという記録があった。
再会時の様子に関して細かい描写はないが、ご無沙汰しておりますという感じだっただろう。小林武氏は1988年と89年にソロアルバムをMIDIレコードから発売している。
1枚目はデュアリティー2枚目はテスタロッサと言っただろうか。残念ながらセールスは今ひとつだったと思う。
ソロミュージシャンとしての実績は今ひとつだったが、プロデューサー&ミュージシャン人生は、この後から”MYLITTLE LOVER” ”M.Children”と右肩上がりとなり、日本を代表するプロデューサーになったのはご承知の通りであり、彼ほどの才能の持ち主なら当然の評価とも言えよう。
 

(憲司さんとの再会-4

それから8年ほどが経過し、1997年だったろうか。私がその後、株式会社アミューズという大手芸能事務所で働いていた時期だ。新宿に日清パワーステーションというライブハウスがあった時代だ。
2
階座席では食事をしながらライブを楽しめるという新しいタイプのライブハウスだった。
ある日、徳武弘文さんらが出演し、大村憲司さんもゲストで出演するライブに当時私がマネージメント担当をしていたザ・サーフコースターズのギターの中シゲヲ氏(現在は中重雄)が出演することになった。この巡り合わせで憲司さんとの再会が出来た。約12年振りだ。(憲司さんの新しい本にはこの時の写真が掲載されている)

実は前述の「再会-2」の後、私は憲司さんが東京に再進出するする際、私に仕事に戻って欲しいというお話を頂いていた。その当時、シンセ・プログラマーのF氏の楽器アシスタントをやっていた時期で、シンセ関係をかなり覚え始めて仕事が面白くなり始めていた。こうした巡り合わせは私に大きな葛藤をもたらした。
F氏にも相談したが、決めるのは自分自身だと言われ決断に窮していた時だった。
相当色々と考えた末、結果的に私は憲司さんに対してお断りを入れた。
この決断に至る根拠は、様々な点がある。
そして当時住んでいた世田谷区経堂のアパートで正座をしながら恐る恐る電話した覚えがある。
当時の私にとっても大きな決断の時期であった。
憲司さんは私の決断を尊重してくれたが、これ以後1997年の日清パワーステーションまでの間、憲司さんと会う機会はなくなったことは事実だ。

日清パワーステーションでの再会は、私にとっては多少緊張感があった。お会いしてご挨拶をすると、「おお・・」と、以前と変わらないクールな感じで返事をして頂いたのを覚えている。
ライブ後の打ち上げ会場で本当に少しだけだったが、お話をした記憶が今でもある。そして私にとってこの日が憲司さんとの生前最後の出会いとなる。

日清PWS.jpg


日清パワーステーションがあった日清本社ビル
(東京都新宿区)



(憲司さんの葬儀)

1998年11月18日午後18時。私は青山にあるビクタースタジオでの打ち合わせを終えてキラー通りを外苑前駅に向かって歩いていた。携帯が鳴り出ると、ミュージックランドの横尾さんからだった。彼とはこの時期彼とはあまり連絡を取っていなかったので何だろうと思った。
「ランド(ミュージックランドのこと)の横尾ですが・・・」
私は横尾さんの声を聞き、久しぶりだねと答えた。
「憲司さんが亡くなったんだよ・・・」
私は絶句した。頭の中でそんなバカな、憲司さんが病気をしているなんて聞いたことないぞ・・と思った。
「何で・・」と聞いても彼も良く知らなかった。急死のようだ。私は電話を切り、かつて働いていたヨロシタミュージックに連絡をした。憲司さんの事を話すと事務所のスタッフも既に知っており、今から告別式があるという情報を聞く。私は当時務めていたアミューズに連絡を入れて、これから告別式に行くので会社には戻らないと伝言を残す。
場所は吉祥寺の安養寺(ご遺族からのご指摘で訂正)だった。告別式は既に始まっていた。ご遺族にご挨拶をし、憲司さんの遺体に対面する。棺の中の憲司さんは、昔と同じ感じのまま、ただ静かに眠っているようにしか見えなかった。
「何でなんだよ・・」と心の奥で呟いた。

ご遺体の脇には、常時使っていたクリーム色のレテキャスターと私が六ソのBスタジオで倒してしまったお気に入りのストラトが置かれていた。
私はそれを見て15年前の事を思い返していた。
私は余りの事に全く泣けなかった。
正直受け止められなかったとも言える。
告別式の翌日の葬儀会場(同じお寺)に急遽集まった業界関係者の方々の中には、教授(坂本龍一氏)がいらっしゃった。
そっと近寄り、つぶやくように”久しぶりです”とご挨拶をすると、彼はちょっとだけ私に視線を向け、黙ったまま2回私の肩を優しくポンポンと叩いて何も言わず去っていった。

Wikipediaにも記載があったが、会場にいらっしゃった後藤次利さんの男泣きには胸を打たれた。皆そういう気持ちだったはずだ。
ポンタさんの著書には、訃報を聞いた日のライブでは手が震えてしまって演奏出来なかったとあった。
葬儀には、Charさんや山下達郎さんなどもいらっしゃっていた。
私は最後のご奉公という気持ちでお手伝いをし葬儀の日を過ごして霊柩車を見送った。
当時マネージャーだったT氏は見かけなかった。居たのかもしれないが、目撃することはなかった。
憲司さんが亡くなった日の深夜は、獅子座流星群のピークの時間だったと聞く。
実はその夜、私も自宅の屋上で流星群を見上げていた。
私は知らずに憲司さんを見送っていたのかもしれない。
享年は49歳という若さだった。これが私との最期の再会となった。


(後日談)

 

120129ヨロシタM (8)_S.JPG



120129ヨロシタM (11)_S.JPG

赤坂ハイツの1階部分。当時と全く同じだ。
ここには楽器車等を4台も停めていた。
写真左奥が当時の楽器倉庫の部屋。
(2012年1月撮影)


かつて憲司さんが所属し、YMOや教授が所属し、日本の音楽業界に一時代を築いたヨロシタミュージックは、2011年の末までの状況としてはスタッフは働いておらず、登記だけは残るが実質的な業務活動は無くなった聞いております。 2016年の段階で音楽業界関係者でさえもこの事務所の存在を知っている人たちは僅かだろう。70年代から80年代はかくも遠い時間の彼方へ去ってしまったのだ。
乃木坂・広尾時代を経て、30年の歴史を持った会社だったが残念である。2017年になって当時の教授の運転手をやっていた方が交通事故で死亡し、彼のお別れ会をした際、かつてのヨロシタのメンバー等が集まったが、私にとっては懐かしさよりも何となく居場所がない感じがしたのは不思議だった。

私が音楽業界の初期を過ごした会社はヨロシタ以外に大蔵社長と共同出資で作った㈱ハイヤー&ハイヤーとF氏を社長として設立した㈱TOPの計2社あるが、そのいずれも現在は存在していないか活動停止をしている。私が音楽業界初期に私をはぐくんでくれた会社はいずれに存在しないのだ。
音楽業界とはそういう厳しい世界とも言える。
ヨロシタは今では当時入居していた建物だけが壁を塗り替えてひっそりとその面影を残しているだけだ。ヨロシタミュージックはやのミュージックと共にあり、YMO、坂本龍一、矢野顕子、ゆらゆら帝国、サニーデイサービス、ボガンボスなどを世に輩出してその役割を終えた。そういう意味で、社長の大蔵博氏は成功した音楽人と言える。
その大藏さんも2020年5月末、虹の橋を渡ってしまった。
ずっと自分のスタイルを崩さない人で、死に顔も生前のままだった。

憲司さんは、ミュージシャンの中でも評価の高いミュージシャンだった。
「1音で圧倒するギター」という形容が正しいかもしれない。
こうしたギターリストの音に出会ってしまうと、他のギターには遂々辛口になりがちになる。
ギターリストとしての彼はそういう存在だったのだ。
またそういう音と時代に巡り合えたのは幸運だったと思う。
また私は、その後19年近く、音楽業界で働く事が出来、自分の中で一定の役割を終えた感じはしている。
若い時代に思っていたような成功は納められなかったが、私なりに満足感のある音楽業界時代だったと思っている。
何よりも40代に次のステップに移行する際、音楽業界時代の19年の経験知見が役だったのは私にとって幸運だった。
紆余曲折も多く、辛い時期も少なくなかったが、42歳という社会人としては中後期の段階での転職が上手くいったのは本当に救われた。私の人生の岐路はまさにここだったと言っていいだろう。


ヨロシタM110205 (1)_S.JPG

ヨロシタやMIDIレコードがある広尾の入り口。
メールボックス。
ヨロシタ、やの、セカンド、ミディ(レコード)の文字が見える。
2014年引っ越したためこの場所にかつての事務所はない。
また当時ここに居たスタッフはほぼ全員別々の場所で仕事をしている。

(2011年2月撮影)




さて思った以上に長々と書いたローディー(ボーヤー)家業の日常についてはこれにて終わります。もしこれを全部読んでくれた人がいらっしゃいましたら本当に感謝を申し上げます。
私としてはあの時代の記憶を残す程度のつもりで書いた次第です。当時の記録は詳細を極めておらず、行間の全ては記憶によって補わなくてはならないため、場合によっては記憶違いがある可能性も否定致しません。ただ私も段々と高齢者の年齢に近くなっており、どんどんと記憶の行間を埋めるのが難しい年齢になっていると自覚しており、一定程度の精度のある間に何らかの方法で記録を残して方がいいかもしれないと書きました。

読む方(特に私の職場を知る音楽業界人)によっては内輪話を書き過ぎだというご批判もあるかもしれません。T氏については多少辛辣な気持ちを表現しているため、御不快を抱く方もいらっしゃるかもしれません。それは甘んじてお受け致します。
しかし既に風化しつつある当時の音楽業界の景色や空気感や当時の私の置かれた環境はなんらかの形で記録しておいた方がいいだろうというのが私の考え方であり思いです。
個人的な意図を計れば自分の生きていた証を多少でも残したいということかもしれません。しかし、記録されない記憶は風化したままで消滅致します。
この時代に音楽業界を生きていた人々の多くは既に60歳を優に超える年齢になっております。
当時お世話になった方々や一緒に働いていた方々も私と同じように年齢を重ね様々な人生を送っております。フェイスブックなどを見ると私の周辺にいらっしゃった方々は旧交を温めている様子が伺えますが、私は彼らとほとんどボツ交渉です。
私の性格的な事もあるのだと思っているのですが、どちらかと言えば孤独癖の強いので、余り他人と交わるのが得意ではないようです。また当時の私は一番下の層に生きておりましたから、当時の知り合いは皆さん先輩的な存在で、決して友人という位置にはおりませんでした。再会してもそうした位置関係が保持された関係でいるのは私には居心地の悪さもあるというのはあるのかもしれません。
従って彼らと時間を共有することもなく、最近はフェイスブックも更新しなのでなお更です。でもそれでいいと言うが私なりの事実です。

さて、今から30年以上も前の出来事ですが、出来ればその時代の経験や記録を残しアーカイブ化し残して次世代にバトンを渡すのも必要というのが私の持論です。牧村憲一氏などはかなり精力的にそうした活動をなさっているようで、立派な事だと思います。
残念ながら私には彼ほどネタも実績もありませんがこういう形で残す事に致します。

今から30年以上前の時間を振り返り、音楽業界に入るために手段を無くした私がボーヤになった事が、後の人生選択として正解だったかは今以て分かりません。
先日(2017年2月)、六本木の飯倉の元ピットインがあり、六本木ソニースタジオがあったビルの跡地を通りかかりました。現在は新しいビルになり、1階はコンビニになっておりますが、元ピットインに続くエレベーターは真新しいものの同じ位置にあり、エレベーター前の敷地の当時と全く同じ傾斜のままありました。

ボーヤだった時代、この場所に毎日のように憲司さんと来て、独りで楽器を下し、狭いエレベータに押し込み、六ソに運び込んで楽器をセットし、永い待ち時間を過ごし、またセットをバラシてエレベーターで下し、煌びやかな時間になった六本木を横目で見ながら楽器を積んでいた私がいたのです。


あの当時から30年余、定年まで数年になった私は、現在の職場の親会社の意向でグループ企業内の某組織傘下で働く事になりました。
その会社のある場所は、20代前半の私が毎日楽器を下しては組み立てていた六ソの近くにオフィスを構えていたのです。

亀が生まれた場所に回帰して卵を産むかのように、私は自分の意思とは関係ない力で自分がスタートした場所に戻るというのは不思議な縁というか運命を感じる次第です。しかし私は卵を産める訳ではないのですが・・。

また、私の自宅の近所には30年前から営業しているレコーディングスタジオが存在するのですが、時折そのスタジオ前にハイエースを停め、楽器を下しているジーパンに黒のTシャツ姿の若者を見る事があります。彼らを見ていると昔の私と同じ格好をし、必死に楽器を移動させてます。
それを見ていると、昔の自分の姿が投影され、心の中で頑張れよ!って呟いていたりもします。

当時の私は能力も人脈も無かったのでボーヤでしか音楽業界に入る選択枝がありませんでした。
ボーヤ上がりでプロのドラマーやギターリストになったり、シンセのプログラマーやアーティストマネージャーになった人は少なからずいた時代だったのですが、そういう意味では私もその一人でした。
音楽業界では望んでいたような出世街道をばく進する事はありませんでしたが、自分の夢の半分位は叶える事が出来ました。長野県の田舎から上京して一人で業界に飛び込んだ私のような人間には半分でも十分だと思ってます。

しかし、もし今、音楽業界に入るために他の選択枝があったらと考えれば、やはりボーヤからは入りませんね・・。あの仕事は正直誰にもお勧め出来ません。


何故なら上記のような例外があったとしても、ボーヤの経験は殆どは次のステップ(キャリア構築)になりませんし、そもそもボーヤは人生上の有効なキャリアになりません。まかり間違うと人生の貴重な時間を無駄にしかねないとも言えます。

現代(2018年)でもこのような仕事が存在はしているでしょうが、経験者の1人としては人生において余り選択しない方が良い職業だと思ってます。(もちろんそこから夢のような出生を勝ち取った人もいるのは事実です。でも例外的と言っておきましょう)


しかし当時の私には必要な仕事でしたし、当時の経験はその後の音楽業界を生きる上で非常に貴重な時間であったのは間違いありません。ですから私個人に限っては正解だったと思ってます。
重要で貴重な経験と体験をさせてもらったと思っておりますがで、決して全てが愉快な経験であった訳でもありません。
特にミュージシャン個人にコミットするような労働形態になればなるほど、ミュージシャンの機嫌や判断に仕事が左右される場面が多くなり、客観的で効果的な対応が出来にくい場面に多々遭遇致します。

ミュージシャンたちには彼らの理屈や理念があるのですが、それよりもいい方法や効果的対応があったとしても、生理的な感受性の違いに対応しなければならない場面が多いからです。

それも仕事の内だと考えればヤレという事でしかないのですが、私にはそういう仕事をするのは、20年程度が限界だったという感じでした。
現在でもミュージシャンやタレントの現場で正面切って彼らの生理と対峙する仕事をしている人たちがおりますが、ご心境を推察するにご苦労が多いだろうと思う次第です。

でも、おかげ様で私は多少タフな精神力を持った人間にはなりました。

いずれにしても、私の23歳からのボーヤ経験は、その後坂本龍一氏が所属するヨロシタミュージックへの入社を導きました。さらにサザンオールスターズや教授、その他の一流ミュージシャンたちとの仕事や海外レコーディング等の数多くの経験をさせてくれる呼び水となりました。
これらは全て20代中盤以降で30代になる前に自分の人生に起こった事実を考えてみれば、ボーヤを選択した事は、私に「実力以上の体験と経験の蓄積」を与えてくれましたと言えるでしょう。
そしてそれは今でも有効で掛買の無い経験となってます。

サザンとの仕事はアミューズ関係者との人脈を生み、30代半ばでアミューズに入って仕事をする上での端緒になりました。
そしてアミューズで仕事をしていた時に生まれた人脈は、その後40代初期で転職をする際に非常に重要な要素となりました。

現在の私が現在の会社でそれなりの人生を送れているのは、まさに40代初期の転職という難しい状況に橋を架けて頂いた人物のお陰なのですが、その人脈の構築の伏線は、元を質せばボーヤ時代から連綿と続いていたんだと分かります。
人生とはかように不思議なアヤでつながっているのだと感じさせてくれました。

ところで、人生中盤での架け橋をしてくれた方も2015年5月末で私が現在所属する会社を去る事になってしまいました。私にとって非常に残念な事ですが、致し方ありません。
彼とは今でも時折合って旧交を温めております。
 

また、私は紆余曲折しながら約19年近く音楽業界に居たので、ボーヤの経験が無駄になりませんでした。また何の因果か、2016年の声を聴いたとたん、私は再び音楽業界の仕事をする「ハメ」になりました。
でも私の目先は日本国内だけでなく、アジアに向いております。
日本の音楽業界はかつてのようなレコード会社主導ではなくなり、一般的には名前も知らないようなミュージシャンが数千人の動員をするような時代になりました。それも1組2組ではありません。またK-POPの台頭はこれまでの日本のポップス史になかった現象です。

オリコンのヒットチャートと時代の趨勢はこのようにかい離を見せておりますし、CDは売れない商品になってしまいました。CDの売れ行きは全く時代を映す鏡ではなくなりました。
そういう時代の音楽業界を過去の経験と知識では乗り切れないというのが私の現在の感覚です。かつてボーヤだった私が果たしてどこまでこのハードルを越えられるかわかりませんが、面白がってやるつもりです。

一点追加したい話があります。私はここ数年、K-POPのタレントにも関わる仕事をしておりますが、日本のレコードメーカーのAKB的販促活動を目の当たりにして幻滅した一人です。
現在の日本のレコードメーカーの連中は、AKB商法の延長戦上でCDの数を売る事にしか目的がなく、おまけに宣伝施策について他のアイデアが全くありません。
斜陽産業故にスタッフが高齢化し、若い視点が全くない状態です。

私の関わった案件で、あるファンが全国のCD販促会で1人で700万円余もつぎ込んだ事が分かりました。AKBでは1000万円単位はざらのようですが、私はさすがにメーカーの人間に、ちょっとこれは常軌を逸しているのではないですか?と質したのですが、メーカーの50代のH氏は、「買う人の問題ですから」の一言だった。

「買う人の問題?、買わせる仕掛けには問題ないのか?」と問いましたが、彼らは買う人の問題だと言い張りました。
「あなたは本気でそう思うの?」かと問いましたが、彼らは意見を変えませんでした。
いつからいい大人の集団であるレコード会社の連中は、こういう思考停止がまかり通るようになったのだろう?
私はこういう低レベルな連中と組みするのは自分の人生にとっての有効ではないなと思い、レコード会社との専属契約は変えられないものの、事業連携契約は破棄することにしました。

そういえばこのH氏は、レコード販売店に並ぶファンを見てニタニタしていた事を思い出しました。彼にとって自分の生き残りのためには他人の不幸なんぞはどうでもいいのでしょう。
私は非常に違和感を覚え、またもう日本のレコードメーカーと仕事をするのを止めようとハッキリ決めました。その後私は、メーカーと締結していた国内のレコード以外の案件での共同事業契約を更新せず、彼らを事業から排除する決定をしました。
また、CDの宣伝については一定の了解事項以外の販促活動を一切協力しないとも通達しました。
その後、提携先の韓国のマネージメント事務所から、新しいアーティストの日本のレコードメーカーとの契約について相談を受けた際、私は、メーカーとの契約は避けるべきと伝えました。日本のレコードメーカーには悪いが韓国の音楽業界は既にこの分野において日本を凌駕し始めていることを肝に銘じるべきだと思う。

K-POPはマニアなゾーンに客が存在しており、この韓国事務所は自社で音源も作り終えており、旧来のメーカーの制作力や宣伝力は全く不要である点と、流通については、コンビニやアマゾンを利用するなどの他の方法で幾らでも対処が可能であると伝えました。
また、メーカーと契約するとつまらない販促イベントに永遠と駆り出されるリスクもあり、絶対にやめるべきと進言しました。
客に何十万、何百万円も使わせるような仕掛けがアーティストとファンにとっていいはずはありません。この韓国事務所は最終的に私の意見を受け入れ、流通だけを日本の某社と締結し、そこを通じて殆ど宣伝なしの状態で発売をしました。
結果その数10万枚。オリコンにもチャートイン。

もうレコード会社なんていらないという典型的な実例を示してくれた訳です。レコード販売がメーカ-の専売特許だという時代は終了しているのです。
マネタイズするなら手段を択ばない今の策無きレコードメーカーの愚劣さは、いずれに自身の身の上に鉄槌として降りてくるでしょう。

スタッフが高齢化し、若い連中が魅力を感じない現在のレコードメーカー。
某レコード会社は2017年6月になってやっとライブ事業の部局を作ったようですが、10年遅れている。

レコード会社はCDパッケージビジネスの美酒に良い過ぎて、次のビジネスモデルを構築する事をせず現在に至っている。
ライブエンタビジネスは現状の時点でレッドオーシャン化しており、伸びしろは限界に来ている。

そういう意味で、音楽業界の半分は死んでしまったのだろうと思う。
レコード会社の人たちは、未だに自分たちが音楽産業を引っ張っていると思っているようだが、笑止千万。現在音楽産業を引っ張っているのはミュージシャン+アーティストと事務所の方だろう。

ライブ業界も日本全国の会場数に限りがありますから、伸びシロはありません。経済法則を考えれば、今後の日本の音楽業界は、少数が莫大に勝ち続け、それ以下は無残な状態になるはずだろう。

そういう業界で起こる事は、余り面白い話がありそうにないのは想像が付きそうです。それでも音楽業界に輝いていて欲しいという未だに気持ちはあります。

 


音楽業界にいて、自分の実力の無さに苛まれたり、生き方が下手だなと思った事もあります。
それでもあの頃の私には「あの選択」しかかありませんでした。
しかしそれもかなり遠い昔の話になり、ほろ苦く懐かしくセピア色になりつつあるという感じです。

私は良い時代の音楽業界を過ごす事が出来ました。そして私の実力以上に素晴らしい光景に出会う事も出来たのは、極めてラッキーと言っても過言ではないでしょう。そういう意味においても、乃木坂時代の空気は、私にとって懐かしいし愛しいのです。残念ながらそれを共有できる人達は殆ど周囲にいなくなりましたが・・。
また、私の音楽人生に偶然に手を差し伸べて下さった全ての方々に改めて感謝申し上げます。音楽が良い時代に音楽業界に関われて幸せでした。

最後に、2018年1月、私が20代に一緒に仕事をしていたある人物が亡くなりました。赤川新一君と言います。享年56歳。
まだこれからという年齢だったので考えさせられるものがありました。

当時の彼は、音響ハウスというレコーディングスタジオでアシスタントとして働いており、私が教授の「未来派野郎」というアルバムの仕事をしている時代、レコーディングで一緒になることが多かった人物です。

音に関しては彼独特の考え方があり、その後フリーのエンジニアとして活躍するようになり2000年代には自身のスタジオも持っていたと聞いております。
彼との仕事は1991年に行ったFLEXという広島のバンドのレコーディングが最後で、その後彼と私は残念ながら会う機会がありませんでした。
ただ下積み時代を共有していた人物だったので、彼の死は私の何かを揺さぶったのです。
突然の訃報に触れ驚いてもおりますが、彼の冥福を祈りたいと思います。

以下、彼のインタビュー記事がネット上に残っていたので、彼の生きた証と記憶を留める意味も含め、残しておこうと思います。

media.miroc.co.jp/magazine/people/shinichi_akagawa/

 

2020年5月31日、ヨロシタミュージックの創設者、大藏博さんが逝去なさった。71歳だった。このブログに書き綴ったように、大村憲司さんとの出会いからヨロシタミュージックに関わるようになった僕は、1984年11月からこの事務所でお世話になった。それから約10年近く、陰に陽に大藏さんの世話になった。大藏さんは自由人だったし、本物のミュージシャンを限りなく愛した人だった。矢野顕子さん、坂本龍一さんなど、彼らが世に出る過程で大藏さんが果たした役割は数えきれないと思う。 
10年近く世話になっておきながら、大藏さんの事を殆ど何一つ知らない。実際大藏さんは謎めいた人だったし、特に覚えているのはグルメな人だった。
面倒見もよくて、気に入ると私財をつぎ込んで支援するような所があった。だからオフィス経営者というより生粋のプロデューサーだったと思う。

71歳、まだ若いと云える年齢だったが、天に召してしまった。
僕が言えることは、20代~30代の僕に、随分と多くのチャンスを与えてくれた恩への感謝だろう。
面と向かって言ったことは一度もないが、改めてここで言っておきます。
本当にありがとうございました。
合掌。



長々お付き合い頂きまして誠にありがとうございました。


nice!(2)  コメント(10) 
共通テーマ:音楽

nice! 2

コメント 10

直

大村憲司さんの話、興味深く読ませてもらいました。webの日刊イトイ新聞なんかでも昔の事は読んでましたが、さらに細かい話があったんだな〜と。自分も大村憲司さんは一番好きなギタリストで、山下達郎さんのALL TIME BEST(OPUS)でも聴けるSOLID SLIDERやGULTYのギターソロなんか本当に素晴らしいな〜と思います。
by 直 (2012-09-26 11:58) 

匿名希望

同じくローディーとしての道を歩み始めたばかりの新米楽器テクニシャンです。

あまりの仕事の辛さ、あなた様も書かれている通り、給料の安さ、拘束時間の長さに
挫折しそうになっていますが
こちらのブログを拝見させて頂き
とにかく頑張ろうと思うことができました。

この場をお借りしてお礼申し上げます。
by 匿名希望 (2017-09-25 12:39) 

コロン

多少なりとも見知らぬ誰か様の参考や手助けになったのなら、幸いです。私の時代よりも音楽業界は先行きが難しいですが、ライブ産業は一定の市場がありそうですからご自身が許容できる範囲で頑張って欲しいと存じます。
by コロン (2017-09-25 13:40) 

大村悠二郎

こんにちは。先日はお会いできて、いろんなお話を伺えて嬉しかったです。
コロンさんのブログは本当に興味深く読ませていただきました。また機会があれば、お会いして色々とお話を聞かせていただきたいです。
by 大村悠二郎 (2018-11-19 14:09) 

コロン

大村様、過日はありがとうございました。また機会を見てよろしくお願いいたします。ではでは。
by コロン (2018-11-19 18:30) 

scotch_gibson

ネットサーフィンしてて、このブログを拝見させて頂きました。
内容を読む限り、私の青春時代の写し?(w)と思える様々なご体験。

TASCAM-244、私も使ってましたよ♪ 懐かしい~!
それで録ったチープデモ(w)で、音楽業界とも作家で10年ほど関わりました。
諸事情あって…放送スタジオ・エンジニアに移行、細々な生活です。
(斜陽産業の超末端下請けですからw)

大村さん、実は、私の友人だった堀内護さん(故人)の、
GARO時代のアルバム「吟遊詩人」にも参加されております。

今後、なにかご縁でも有れば面白いかもですね。
by scotch_gibson (2019-07-09 21:56) 

コロン

あらま。これも何かのご縁かも。メッセージ、恐縮です。
by コロン (2019-07-10 10:06) 

井戸賢生

大蔵博のここ1~2年の様子をお聞かせください。先月末亡くなったことを聞き、お悔やみを申し上げるとともに、彼は満足して死んでいったかを、知りたいのです。高校の同窓会には、体調がすぐれないにも関わらず、いつも出てきていました。彼は、そこの温かさを感じていたのだと思います。私は、結婚式も出席していましたし、お土産を貰えば、礼状も出していました(妻代筆)。又、5年後の同窓会を提案した幹事に向かって、「そんな先じゃあだめだ。大蔵が死んじゃっているよ」と私が言ったのが半年前です。私の女(妻以外)の引っ越しも手伝ってくれました。彼は私生活を語らなかった。昨日までは、普通の悲しみでしたが、今日、1つの電話がかかってきたことを知り、彼と彼の母親(面識有)は、不幸だったのではないかと、寒気が下のです。彼の事を教えてください。
by 井戸賢生 (2020-06-12 14:32) 

大村聖子

時はずっと休まずに秒を進め、永い長い経験を
積んでいる、(今もなお)
いろんな場面が浮かんでは消えながら
これらのドキュメントをいろいろな感情と
懐かしさと共に読ませて貰いました。
いろんなこと(こう表現するのがいい加減に思えるかも知れないけれど)知らなかったこと
細やかな記載で分かったこともあり、
これだけの熱意を持って記録的に書いてくれたことに
最大の感謝を伝えたいです。
そして、憲司の側に居てくれた時代にも貴方にありがとうと思っています。
これからも貴方の人生頑張ってほしいです。
ひとつだけ、訂正箇所は通夜、葬儀は高円寺ではなく
吉祥寺の安養寺でした。
来てくれて心丈夫でした。ありがとうね。

by 大村聖子 (2021-12-06 08:40) 

コロン

>吉祥寺の安養寺でした。
ご指摘ありがとうございます。修正を致します。

>最大の感謝を伝えたいです。
ありがとうございます。恐縮です。

by コロン (2022-01-05 11:35) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。