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石破茂氏が掲げる石破ビジョンは、トップを狙う人がやってはいけない書き方。 [独り言]


2018年9月20日、自民党総裁選挙がある。

私は党員でないため特に選挙に参加できる立場にないが、

日本の行く末を考える観点から興味を持って見ている。


さて、今回石破茂氏が立候補した。


私は自分の人生経験から、トップに立つ人間の発言、ビジョン、言動に注目している。

つまり、どういう発言やビジョンを語る人間がトップとしてふさわしいかは、

こうしたアウトプットからある程度判断可能だからだ。


さて、上場企業で働いている管理職レベルなら当然のように要求されることがある。

事業計画を作る事だ。

そしてその計画は具体的であることを求められる。

またトップに近くなればなるほど高度でポイントを絞った計画を要求される。


さて、石破さんの総裁選に対するビジョンは以下から見る事が可能だ。




ポストアベノミクスとしては、以下が掲げられている。


◎デフレに後戻りしないマクロ経済政策の継続

◎格差是正、真の地方創生、技術革新、新しい時代の要請に応じた人材強化に重点を置き、財政規律にも配慮した経済財政運営

◎検証なき膨張を続ける現行の成長戦略を見直し、成長力の底上げに資する戦略に再編

◎経済政策の一貫性とリスク対応の機動性確保のため経済金融総合対応会議(日本版NEC)を創設


その他、地方創生、社会福祉、人生100年時代、国の構築という全5分野44項目に渡って

ツラツラと書いてあった。

そして最後に信頼回復100日プランがあった。


石破ビジョンには特徴が1つある。


主要5項目の中に数字が一切ない。


「ポストアベノミクス」を見ても分かるが、数値目標が書いてないのだ。

あれをする、これをすると言葉が綺麗に並んでいるように書いてはあるが、

具体的に何を目標にするか記載がない。


どこかでこんな感じのものを見た記憶があるが、

小池百合子東京都知事も似たような感じだった。

小池知事の手腕を見て分かるように、殆ど成果がないどころか、

都政を後退させている元凶にもなっている。


加えて、石破氏の各分野は非常に項目数が多い。


上場企業で働いている管理職が事業計画を作る際、

ポイントを絞らず総花的で数値目標がなかったらどうだろうか?

絶対に役員決裁を通らない。


国家ビジョンも同様だ。

いくら国家が様々な事を行っているとはいえ、全部を同じレベルに進める事は出来ない。

予算配分が違うからだ。


従って石破ビジョンの44項目は余りに多すぎる。

つまりこれはポイントを絞り切れてないという事だ。

(政策利害関係者から刺されないようにアリバイ的に入れているかもしれないが・・)


トップリーダに必要な素養として、ビジョンを掲げる事、優先順位をつける事、

そして具体的目標を設定することがある。

企業なら優先する事業を絞り、売上と利益の目標設定をすることだ。


国家も同様だ。

政治の主要ポイントは経済と安全保障だ。

その土台なしに他の事など成立しない。


石破氏がポストアベノミクスをビジョンの冒頭に持ってきているということは、

アベノミクスの課題があると考えている訳で、

それらを石破ビジョンならどうするか?と書かなければならないはずだ。

GDPは? 失業率は? インフレ率は? 国債発行額は? 税収は? 等々だ。
もちろん消費税後の景気対策もあるだろう。


デフレに後戻りしないとあるのだから、当然そのために設定すべき数値目標があるだろうが、書いてない。


言い方を変えれば、全く設定目標がないということになる。

企業の事業計画なら突き返されるレベルで、初歩過ぎて痛々しい。


おまけに石破ビジョンには外交政策、安全保障に関しては1文字も見えない。

防衛大臣をやった人物とは思えない。何故なのだろうか?


数値が見える部分をあえて言えば、「100日プラン」だけだ。

100日で信頼回復させますという点のみ数値目標が見える。

従って石破氏に見えているのはこの点だけなのだろう。


ちょっとキツイ言い方になるが、

石破ビジョンは、具体的には何も考えていないと言って良いに等しいものだと判定できる。


石破氏は、政策通と知られた人物と聞いているが、

このように中身のないものをよくも公表したなあ・・と驚く。

これでは政策通という看板は下ろさなくてはならないだろう。


少なくともこれが日本のトップを選ぶ選挙というなら、
自民党も大した人材が居ないと思われても仕方ない。


特に安倍首相は、過去5年半の総理在籍中に経済、外交で一定の成果を出してしまっている。

もちろん課題はあるのだが、経済と安全保障については過去の政権にない安定感で運営されている。

その人物と戦う気概があるのなら、何故もっとレベルの高いビジョンと目標が出せなかったのか?

これが石破氏の限界なのだろうか?


憲法改正について、石破氏は長い時間かけて党内議論に参加をしてきている。

しかし議論の先に具体的にいつ改正を、どのようにやるのかを打ち出した事が一度もない。

彼のセリフは大抵決まっていて、「党内議論が尽くされていない」だ。

彼は自分の方針や考え方に合うまで議論から根拠を探しているようにさえ見える。


進次郎氏の支持動向が話題になっているが、

仮に彼が現段階の石破氏支持を表明したら、進次郎氏の将来に暗い陰を落とすだろう。
進次郎氏はこの程度のビジョンで良いというのか?という事だ。

進次郎氏はマスコミから石破支持について言及を避けるようになっているが、

将来を考えるならしばらく大人の対応をしていた方がいいだろう。


現時点で総裁選は勝負あったと言っていいだろう。


我々が憂うのは、3年後のポスト安倍時代に自民党トップに相応しい人材がいるかどうかだ。

現在の野党の体たらくでは、二大政党制になる気配すらない。

石破氏は今回で終わりだろうし、進次郎氏ではまだ不安があり、野田聖子氏に関しては論外だ。


さて日本の未来は一体どうなるやら。


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『カメラを止めるな!』パクリ騒動の解決方法を勝手に伝授。 [独り言]

『カメラを止めるな!』パクリ騒動の解決方法を勝手に伝授。



私も『カメラを止めるな!』を見て感動した人間だ。

パンフも買った。今年度最高傑作だと思う。


そのパンフの中の文言にちょっと気になっていた部分あった。

上田慎一郎監督が、映画の題材としてある舞台から着想を得てオリジナルの舞台関係者である脚本家と企画開発をしていたと書いてあった事だ。


そして以下のニュースが出た。


『カメラを止めるな!』はパクリだ!原作者が怒りの告発



ああ、やはりな・・と感じた。

その後、以下の記事が出る。


『カメラを止めるな!』原作者が語る「僕がどうしても許せないこと」



記事を読む限りだが、『カメラを止めるな!』は、

元劇団主宰者で演出家の和田亮一氏(32)が主催した舞台『GHOST IN THE BOX!』に基づいて製作されていると主張する。

上田慎一郎監督が着想を得たものは、この舞台と一致しているようだ。


また和田氏の主張によれば、映画製作側のプロデューサーから、原案利用契約書(権利買取)が提案されたとある。


さて映画のオフィシャルサイトには以下の反論が掲載されていた。



ネット記事(元は雑誌のFLASHらしい)を要約すると上田監督は、『GHOST IN THE BOX!』の演出家である和田氏と脚本家のA氏(パンフにも出てくる荒木駿氏だろう)の2名に許諾を取ったのではなく、B氏という許諾権限のない人物に映画化の趣旨を伝えただけだという。ネット情報によれば、荒木駿氏には許諾を取ったが和田氏には取ってなかったという記述もあるが、当事者間でどのように伝えられたのかについての詳しい記述はない。

また公開当初の映画のクレジットにはA氏とB氏の名があったが和田氏のクレジットはなかったようだ。

和田氏の主張では、7月18日(つまり公開後)に原作のクレジット要求。翌日、上田監督からは「『企画開発協力 劇団PEACE 和田亮一』でいかがでしょうか」と返事が来たものの、製作にいっさい協力していなかった和田氏はあくまで「原作」の形を主張した。後日、映画製作側からは再編集するのは困難でクレジットを断られたという。その後弁護士に相談し、再度『原作』のクレジットを要求。その後、市橋プロデューサーから原案利用契約が提案されましたが、権利を買い取る内容だったという。


なるほど、これはモメる案件だなと思いました。グレーゾーンの多い分野だからだ。


映画の公式サイトの声明を読んで1つの違和感を持った。
声明では、舞台著作を侵害した事実はないと言っているのにも関わらず、クレジットを含めた条件や対応を協議中という点だ。舞台劇に着想を得た点は公式サイトが認めており、これはその通りなのだろう。


普通に考えられるのは、映画製作側も100%相手を突き放すほどの論拠を持っていないのだろう。

つまり、心当たりがあるという訳だ。


それも和田氏の説明を見れば、なるほど、双方、主張が全く違うんだな・・ということが分かる。

今回の問題の根底は、「舞台劇から着想を得て映画化したのにも関わらず、舞台劇の著作者に対する許諾処理を適切にしていなかった」点だ。この責任は市橋氏という映画プロデューサーと上田監督にある。

和田氏の取材発言が正しいと仮定すれば、市橋プロデューサーが原案利用契約を送付した時点で、本映画には「原作もしくは原案があると認識していた蓋然性」を持つ事になる。
原作か、原案かでもめている部分はあるが、いずれにしても100%オリジナルという映画側の主張根拠の大きな部分は崩れてしまっている。


私のように映像の輸入と制作、運用、著作権の仕事を長くやっている人間からすると、本件は興味深い点が多い。

今も昔も同じだが、クリエイターほど著作権について無知、無関心な人たちはいない。

知っているように振る舞うクリエイターも多いが、実務的な部分について殆ど無知だ。

だから権利処理は、実務経験者に相談したり、対応してもらう必要がある。
今回市橋プロデューサーがその役割を担っていたはずだが、どうやら仕事に漏れがあったと言っていいだろう。

今回のトラブルの遠因にはそういう背景が見え隠れする。
つまり「権利処理をキチンと詰め切っていない」ということだ。
元々アイデアという著作権で保護されない部分を参考にして作るという行為と、翻案(原作に依拠して作る)とは雲泥の差がある。

ネットの記事そのものがどの程度正確なのか不明だし、大抵の場合、週刊誌の記事は事実を膨らませてショッキングな見え方で書くので情報確度が不明だ。

弁護士の方が分析した記事は参考になるので読んで欲しい。


「カメラを止めるな!」は著作権侵害か?
https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20180823-00094178/

簡単に言えば、アイデア部分だけで表現上の本質的特徴が似ているとは言えない可能性を指摘しています。
つまり突き詰めると、裁判しないと分からないかもしれない・・という事です。

なので、私が以下に書く記事は、あくまでも最悪の場合、つまり原作・原案と言われる舞台著作を侵害した形で映画が製作されていたと仮定した想定への対応として書くことにする。
また現在分かっている事実は、公式サイトの声明だけなので、そこの記述の意図も参考にする。

1つだけ先に行っておくと、裁判すると双方疲弊し、費用もかかり、時間もかかり嫌な思いをします。それでも戦うならやればいいが、個人的には裁判を避ける方向性で落とした方が良いと思っている。


さて、舞台劇に着想を得て映画の台本を作り映画化すると著作権侵害になるのだろうか?
実はなかなか難しいテーマだ。着想を得たという言い方と原作を元に映画を作るという行為は別だからだ。
従って双方が著作権侵害の証明するとなれば、話し合いを経て、埒が明かなければ裁判をするとことになる。
この手の裁判は長期化するので最悪だが、最悪の場合はそうなる。

裁判となれば『GHOST IN THE BOX!』と『カメラを止めるな!』の脚本や舞台の内容、その他の資料を綿密に精査し、双方のストーリーや設定等が何%一致・類似し、何%が違うのか?という計量的な方法で突きつめて行くことになる。これは音楽著作権侵害でやる方法だが、音楽の場合だと音符の類似率をはじき出して判決する。

つまり映画製作側の主張する「オリジナルと言える部分」が映画の中でどの程度の比率を占めているのかを数値化して判断するのだ。また原作としての根拠が認められれば、許諾の過程も重要で、結局それらは証拠によってのみ立証される。「原作」なのか「原案」なのか、第三者による判定は上記のような過程を経ることとなるだろう。


仮に全体のストラクチャーや設定、セリフなどの大半が似ていると判断された場合、原作者は荒木氏&和田氏、上田監督は脚色者と判断されるだろう。従って著作権法において脚色された二次著作物は原作家も権利保有することになり、二次利用の許諾や氏名公表権についても問われる。


しかしこうした革新的なポイントについては、当事者で埒が明かない場合がこれは裁判等をしないと確定的な判断がされないケースが多い。
裁判は長期化し、双方疲弊し、いずれ裁判所から和解勧告が出るかもしれないだろう。

本来、原作から着想を得て別のストーリーを作る場合、原作権もしくは原案権という形でそれ相当の許諾を得る必要がある。
何故得るかと言えば、今回のようにトラブルになるからだ。

ちなみに後ほど語るが「アイデア」そのものは著作物ではない。
今回の言い方では、アイデアは「原案」に近い。
著作権には定義があって、著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう、と書かれており、当然舞台芸術や映画も著作権の保護対象だが、アイデアそのものは著作権の保護対象外だ。

映画製作側にとって若干不利だなと感じるのは、本映画が舞台を見てから着想を得ていることを認めている点だ。また和田氏の主張のように映画製作側が「原案利用許諾契約書」を提出している。このことから映画製作者側は、原案としての利用は認めるが、原作としては利用していないという意味だろう。

舞台関係者の誰かと映画製作者とが酒でも飲んでいる時の口上から出てきたアイデアを元にしているのなら著作権的には問題にならないのだが(アイデアを剽窃して点では非難されるだろうが)、映画製作者は既存の舞台から着想を得ていると公表しているし、途中段階まで舞台脚本家とも台本を作った記述がパンフに記載されている。
つまり映画側は、本映画作品が舞台著作の一部を原作として利用し、翻案して映画を作ったと認識していたと認定される可能性が極めて高いと言っていい。

逆説的に言えば、映画製作側が原案のみであとはオリジナルだと主張するのであれば、舞台著作の持つ情報や着想、プロットなしで全く同じような映画が作れたか?という事を証明しなければならなくなるだろう。
果たしてそれが可能なのかは考えてみる価値があるだろう。

さて、本来はどうしたら良かったのか?

何より大事だったのは、映画製作陣側が映画制作前に舞台の原作もしくは原案許諾を契約書までに落とし込む事だった。
それに尽きる。

理由は簡単で、今回のような事が起きるリスクがあり、実際にその想定とうりに起きたからだ。
インディーズ映画でそこまでするか?という人もいるが、結果的にはそこまでしておいた方が良かった訳だ。
万に一つのリスクだが、やっておけば今回のトラブルは回避できた。
特に今回のように想定外の大ヒットをしてしまうと、事後交渉になり条件を落とすのは簡単でない。
これは製作側の市橋プロデューサーと脚本家で監督の上田氏双方の課題だったし、それをやらなかったからこうした面倒な事になる。
つまりこの点で仕事をすべき人間が仕事をしていなかったということだ。
今回の問題、記事等から読み解ける和田氏の主張を参照しつつ、何が問題で、どうすればいいのかを説いてみよう。その上で、私が考えるまず穏便な解決方法を提案しよう。


記事情報だけで私がこうした発言をするのは何だが、『カメラを止めるな!』は、舞台『GHOST IN THE BOX!』を「原作」にして製作したと「一定程度」映画製作側が認めた方が自然だと考える。
原作か原案では、著作権に関わる問題が大きくなり、双方の争点になるだろうが、後々のビジネスを考えて妥協ポイントとした方がいいだろう。
これは市橋プロデューサーが和田氏に原案契約書を提出した事からでも、舞台が全くクリエイティブ上の埒外ではないことを認めているわけで、原作、原案は大きな選択だが、おそらく和田氏側は原案にしたら間違いなく裁判に持ち込むだろうから、原作を認め、利益シェアをした方が双方にメリットがあるという考え方だ。

さて、本件、どのような解決策があるのか列挙しよう。

①映画製作側が原作側の主張をある範囲で認め、改めて許諾条件を話合い、金銭的な条件を決める。
②映画製作側が原作側の主張を一切認めず、裁判で戦う。

③上記②の裁判を経て、双方の主張を戦わせたう上で示談をする。

④映画製作側が、原作側がグウの音も出ない程に自分たちのオリジナリティーを証明して納得させる。


いずれにしても、両者の話し合いと合意でしか解決しない。現状、これだけは避けられない。

加えて、現在の情報を総合すると、上田監督側が本映画を完全なオリジナルだと証明するのは相当困難だと推定される。つまり以下の方程式の証明を映画製作側が立証しなければならない。

『カメラを止めるな!』-『GHOST IN THE BOX!』=我々の見た『カメラを止めるな!』になるのか?

『GHOST IN THE BOX!』から着想を得て作り上げた台本は、『GHOST IN THE BOX!』が無かったとしても同じようなインパクトを持った映画として成立出来たのか?という点だ。

例えば、アメリカドラマの名作「刑事コロンボ」の構成骨格は、ストーリー冒頭に殺人があり、視聴者側には既に犯人が分かっている。コロンボは犯人が気が付かないほころびを探し出して犯罪立証を成立するというものだ。
さて、このストーリー冒頭に殺人があり、視聴者側に犯人が分かっている部分は「単なるアイデア」なので著作権で保護されない。実際、コロンボ以前のミステリーでも冒頭に犯人が分かっていて、探偵が犯人を追い詰めるという形式の小説がある。
従ってコロンボのこの構成方法は、全く著作権違反ではない。

しかしどうやら映画は舞台の構成骨格だけで成立しているわけではないようだ。従って著作権の侵害を感じているからこそ、市橋プロデューサーは後出しの買取契約書を出したのだろう。
従って映画製作側として全面敗北のような形は簡単に受け入れられないと思うが、
本件は、映画製作者側にかなり歩が悪いと感じている。
だから、①で進めるのが良かろうと思う。
そうなるといずれにしても金銭条件の話になる。
どうしたらいいのか?


市橋プロデューサーは買取契約を提示しているらしい。でもそれは現状で無理というものだ。映画は大成功してしまったのに、許諾が後になるのは、映画製作者側のチョンボだからだ。不本意でも自分たちのチョンボを相手側に押し付けない方がいいだろう。


許諾額と印税料率は話合いになるが、製作前ならいざ知らず、

既に大ヒット作品になってしまった関係上、当初よりも金額が高くなる、

もしくは異なる通常の原作権許諾契約よりも別の条件を入れた契約形態になるのは仕方ないだろう。

原作権の相場は交渉で決めるしかない。それでも業界相場はあるからそれらが話し合いの基準にはなるだろう。


加えて意図せずとも無断と思われるような形で製作・配給した点についての賠償的な意味での金銭保証も支払う必要が出てくると思う。



仮にストーリーの基本設計が原作・原案通りで、脚色(翻案)によって映画のように手を加えられたとすれば、

本来的な意味で、舞台『GHOST IN THE BOX!』が原作もしくは原案であり、上田監督は、脚色者(シナリオライター兼監督)という立場になる。


さて、『海猿』等で知られる佐藤秀峰氏は、ヒット映画の『LIMIT OF LOVE 海猿』

(『海猿』シリーズ2作目。興行収入71億円)の原作使用料は、250万円であったと明かしている。

ただ、現在に関しては、原作使用料+成功報酬という契約にしており、

「ヤマザキさんの60~70倍貰ってる」とのことである(氏のツイッターより)。

つまり数千万円~1億円近いということだろう。

また、テルマエ・ロマエは、興行収入が60億円にのぼる大ヒットとなったが許諾料は100万円だったと知られている。

これがインディーズ映画だと10万円前後程度の世界になると言われてもいる。


参考記事:200万~400万円は妥当か、映画原作料のお値段 








さて、今回の件で私が間に立っていたらどう考えるか?

映画製作者側が、①で示したような示談交渉に応じるという前提だが、まず、金銭的な条件を幾つかのパーツに分ける。


原作(原案)許諾料、二次利用料、慰謝料もしくは買取りの4つだ。

但し、現状環境で買取契約は交渉対象にならないので排除する。(相当な金額を積んで買い取るなら別だが)


上記参考記事の200万~400万円は妥当か?、にある映画原作料のお値段を見ても分かるように、

日本映画化の原作権料は意外と高くない。(中国だと最低1,000万円からスタートすることが多い)

また、日本文藝家協会の規約第25条の「映画制作及び上映等における著作物の使用料は、

番組制作費や提供価格等を斟酌(しんしゃく)し、1000万円を上限として利用者と本協会が協議して定める」

という取り決めが、目安となっている。


当然和田氏は日本文藝家協会の登録メンバーでもないだろうし、言い値設定できるのだが、

今回は、原作許諾料を日本文藝家協会の規約第25条最低ラインの上限である100万円と置く。

なお、金額はエージェント費用を含んだものとして記載するので、作家の取り分は60~70%程度となる。


二次利用料、つまりDVD化、VOD化、番組販売等の利用における原作家への配分は、日本文藝家協会に参考となる規約がある。

例えばDVDであれば定価×出荷数×1.75%(もしくは卸売価格×出荷数×3.35%)で、

これは業界標準なのでこれを参考に出来る。1万円のDVD(セル)なら、175円前後が印税となる。

但し、1.75%は監督、シナリオ作家への分配原資になるため、全部が原作家に入る訳ではない。

本映画の作家関係者は日本文藝家協会会員じゃないだろうから、この規定に準じる必要はないが、目安になる。


本作の問題は、原作権の許諾を曖昧な状態で製作し、おまけに想定外に大成功してしまったことだ。
だが、映画の成功は結果論だ。だから大失敗という可能性だってあった点は忘れてはならない。

従ってこの点については成功という結果を知った上での話として押さえておかねばならないだろう。

ここが今回の問題を複雑にしてしまっている。
何が言いたいかと言えば、原作家は権利を販売する時点で自身の利益確定できるが、

映像化の関係者はそうでないが、既に成功という結果が出ていて利益確定者がいるため、作家としてはそういう立場を取れないという事だ。


そうは言っても既に大成功していて利益確定を享受するのは、上田監督、製作会社、配給会社、DVDメーカー、配信先、番組販売先だ。だから原作者にもその利益享受を得たいという動機が出るのは仕方ないし、それを取り込めないと交渉にならない。


ここからが交渉の腕の見せ所になる。


今回のように原作権許諾という映画製作の根幹に瑕疵がある可能性出ていて、おまけに大成功してしまった場合、

製作者と原作者の現実的な落としどころを探るしかない。
要するに「金で解決」するしかないということだ。


その上で以下を提案しておきたい。


実は原作許諾は通常、映画上映という一次使用、つまり映画興行に対しての印税設定をしない。

今回、これを、特別に設定してもらおうという事だ。

理由は簡単で、原作もしくは原案の事後許諾をしたからだ。


以下が私が勝手に提案する計算式だ。


まず原作権使用料:100万円。


劇場興行に関する条件:

原作権利用料=【配給収入-(配給収入×0.2(配給手数料))】×7.7%

(配給収入=劇場興行総収入×0.5もしくは配給会社への総収入、総収入というのは鑑賞チケットとパンフ等の総収益のこと。)

なお、本来は配給収入の計算分母は、P&A費用(上映に関わるコストと宣伝費)を除くが、今回はそれをしない。
理由は今回の事情を踏まえ、P&Aは製作と配給が持ち、作家分配に不利にならないように配慮するためだ。またP&A費用を把握しようとすると、費用の改ざんの可能性が拭えず管理が大変なので除外させる方がいい。

また7.7%の設定は、二次利用権の通常設定(卸値への掛け率)に加え、

賠償的(慰謝料)な意味での3.35%を加味した。


書き直すと以下の通りだ。

かなり大雑把な数値だが、イメージ的には当たらずしも遠からずと思う。


劇場興行総収入:10億円(推定)

劇場収入:5億円(劇場取り分は興行収入の約50%と計算している)

配給収入:5億円(配給会社の売上)

配給手数料(20%):1億円

------------------------

小計:4億円。


原作権者取分:3,080万円(4億円×7.7%)


なお、配給と上田監督を含む映画製作側の取り分は、原作権者取分とP&Aの経費後となり、

経費比率は、双方の取り分比率で按分されると過程。

(配給側が全負担している場合もあるが、今回は按分とする)


これでどういう絵になるかと言えば以下だ。

なおP&A費用は150館公開から推定して6,000万円と仮定する。(もうちょっと多いかもしれないが・・)



◎製作側(上田監督含む)+配給取分=5億円。(監督への配分契約が不明なので両者を一体として考えておく)

◎P&A費用+原作権者取分=9,080万円


---------------------------------

小計:4.092億円。(製作側+配給の実取分)


映画興行終了時点での各位配分:


◎製作側取分:3.273億円(製作費300万円を回収後)

◎配給取分:8,184万円

◎原作権者取分(原作権販売分100万円を含む):3,180万円


もちろん、料率についての交渉があるだろうし、他の諸条件についても同じだ。

また上記は映画興行までの話で、二次利用料は別途入ってくる。


いずれにしてに、製作側が億単位の収入を得ることは疑いないし、原作側にもかなりの金が入る。

それ故に、製作側取分の10%程度の原作権比率は、十分に妥当性があると見ていいだろう。


インディーズ映画としては過去に例がない大成功を収めた原作家の方々には納得しずらい面もあるだろうが、

少なくとも上田監督が脚色して映画化しなかったら、

原作家の方々にこのような富が生まれるチャンスがなかったとも言える。
その点については、心情面で色々とあるだろうが、原作家側は配慮を見せた方がいいだろう。


加えて仮に映画製作前に許諾していたら10万円+α程度だった訳で、

このαも微々たるものだったかもしれないのだ。

先にも書いたが、興行の結果が見えてしまっているため話がややこしいが、キチンと話合えば双方にメリットが出ている話だと分かるだろう。
残念な経緯があってシコリが残るかもしれないが、結果的には全員WINWINになれるのだ。
だから金持ち喧嘩せずじゃないが、紳士的にやった方がいいと思っている。


双方が欲張りになればなるほど落としどころが見えなくなる。

何度も言うが、製作の根幹である原作家の許諾で躓いたのは、監督を含む製作側の大きな瑕疵だ。この点は映画製作側の反省点だろう。


そういう意味を込めて助言をしておくが、この件を深堀して裁判にはしない方がいいと思う。

裁判になれば長期化し、手間がかかり双方に裁判費用の出費が嵩み、面倒で嫌な時間が経過し、

原作家の取り分も相当に減ってしまうだろうし、製作側も同様だ。

わざわざ弁護士を儲けさせるような行為に及ばない方がいいと思っている。


また原作家からすれば、色々な経緯があって許せない部分もあるのは理解を超えることじゃないが、

原作家の方たちも余り欲張らない方が良いだろうと思っている。

狭い業界で生きて行くにはそれなりの落としどころがあり、

冷静に現実的で未来志向の対応をすべきと思う。

これをチャンスに将来を切り開く機会とすべきで、適度な所で合意を見た方が得策でしょう。


加えて助言をしておくが、制作会社(上田監督含む?)は、出演者や関係スタッフに対して

自分たちへの収入からそれなりの額を彼らに分配をしておいた方がいいだろうと思う。

3億円を超える収入を個人で受けたら55%は税金で消える。

また法人で受けたとしても利益の20%以上(多分数千万円程度)は税金で消滅する。

それ位なら関係者に成功報酬的な支払いをして経費として控除し、

肝の太い所を見せておいた方が制作会社及び上田監督の今後の人生のためにプラスになるだろう。


ヘタをするとこれが最初で最後の大成功だってことにもなりかねないのだから。


まだ事実関係が不明な時点で勝手なブログを書いて大変に恐縮だが、

老婆心と思って許して欲しい。
今後の情報で誤りを訂正する予定だが、現状の情報から考えられるのはこんな感じだ。


あともう1点追加しておくと、今回のヒットの雫を個人収入でもらっている関係者各位は、国税から100%狙われているので、2019年、2020年2月の確定申告はキチンとなさった方がいいだろう。申告漏れを指摘されたりすると、名声に傷が付きかねない。

せっかくアットホームで素晴らしい映画を作ったのだから、皆さん、映画のイメージを壊さないように仲良くやってねと祈るばかりだ。


参考記事:騒動の『カメラを止めるな!』“原作”・“原案”どう違う? 専門家に聞く










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「募金」の手数料や使い道にまつわるモヤモヤ [独り言]

平成30年7月豪雨、熊本の地震、ちょっと前の東日本大震災など、ここ最近日本は大きな災害に見舞われている。

被災者以外の地域で暮らす人間として、こうした被災者に対して直接、間接的な援助を考える人が多いだろう。

ボランティアで現地に行かれ直接支援をなさっている方を見ていて、いつも頭が下がる想いだ。


さて直接支援出来ない人にとって、最も有効そうなのは「募金」だ。

額に関わらず募金した人たちは、自分の出したお金が被災者の助けになることを願っているだろう。


しかし募金した金がどのように使われ、本当に被災者を助けになっているのかを

募金した人間が知るすべが殆どない。


実際調べてみると募金という行為は、法的根拠や拘束力が殆どないと分かる。

そう、募金自体を法律的に拘束する文言は日本には存在しないようなのだ。

ホントなのか??


寄付した募金が遊興費に!? ・・・募金の使い道「寄付先の自由」って本当?



上記の弁護士さんの解説が正しいという前提でお話するが、

『募金というのは法律上「贈与」にあたります。簡単に言うと「お金をあげる」行為です。

お金をあげたのであれば、もらった人は自由に使っていいことになります。

ですので、原則論としては、募金によって集められた金銭は

もらった人が自由に使ってよいことになります。』という概念は

結構一般的に知られていない事だろうと思う。



また街頭で募金行為をする際は、本来は道路使用許可が必要だったりとか

目的外使用で募金すると詐欺行為となる可能性があるなど、

募金にまつわることで知らない事が結構多い。


使用用途も被災者支援と言っても、それに関わる活動に使う事も想定されるため、

どこまでが目的外かを定義するのが結構難しい部分もある。

加えて法人から法人が募金をうけ取った場合には、

その受贈益に対して法人税、住民税および事業税が課税され、

個人が受領すれば原則的には一時所得として所得税、住民税の課税されるらしい。



なるほど募金の正体は知らない事ばかりだ。


ところで日本赤十字社は義援金からは手数料などは一切取らずに全額を被災地へ届けていると宣言している。


日本赤十字社は義援金からは手数料などは一切いただかず100%全額を被災地へお届けしています




さて募金の手数料について、ホリエモン氏が以下のように吠えている。


ホリエモンが寄付金の手数料にうるさい人たちに苦言「どうしようもない奴ら」




個人的にはホリエモン氏の言う、募金を被災地に届けるために手数料がかかるのは当たり前、は、

全くその通りだ。手数なしで募金活動を円滑に進める事は出来ない。


私は手数料率が募金額の20%が適切なのか25%が適切なのかはどうでも良いと思っているが、

募金側がこうした手数料等についてモヤモヤする点において、一般的な意見に同調する。

ホリエモン氏から言わせればそんな奴らは募金するな!の一刀両断だろうが、

正直言えば、モヤモヤしないのは相当な少数派だと思う。

だからこの感覚は個々の違いでしかない。(つまり議論には馴染まない)


ホリエモン氏のように全くそういう事が気にならないのなら、

懐具合と趣旨賛同の範囲でドンドン募金すればいいだろう。

ただ、ホリエモン氏が手数料を気にする人たちを「どうしようもない奴ら」と一刀両断する辺りは、

彼の人間的限界だな…と思う。


ちょっと話は逸れるのだが、彼はどちらかと言えば、

天才アーティストに近い思考感覚の方だと思っているが、

それ故に人を動かして事を成すのが苦手なタイプなのかもしれない。


この辺りは同じ天才型の孫正義氏とは正反対だと思うが、

ホリエモン氏は余り実務型ではないのかもしれない。

実際、ホリエモン氏の業績?で思い浮かぶのは、

フジテレビ買収の失敗、ライブドアの粉飾決算による収監(正直これは特捜の横暴だと思っている)などで、

孫正義氏のソフトバンクや三木谷氏の楽天などと比較し、

実体のある業績面において目立った成果が殆ど思い浮かばないのは不思議な気がする。

(著作が多いのは認識している)
あれほどの能力と才能が何かを結実させているように見えないのは、

きっと私が凡人以下だからかもしれない。


現在ロケット事業に参入しているが、発射すらままならない失敗続きだ。

小型ロケットビジネスの世界レベルはもっと先を行っているが、発射レベルで躓いているのは痛い。

こうした失敗も彼にとっては想定内だろう。個人的には商業化の成功に向かって欲しいと思う。

いずれにしてもこの事業の可否が、経営マネージメントとしてのホリエモン氏の手腕の見せ所だろう。


さて、話が逸れたので元に戻そう。

前述したが私は手数料率が20%が適切なのか25%が適切なのかはどうでも良いと思っている。

だが被災地への送付への原価がいくらかかり、間接費をどの程度賄うべきかについては

透明性を担保すべきと思う。透明性があれば手数料の設定は自ずから出て来る。


今でもたまに見かけるが、東京の主要駅前で何か災害があるたびに汚い募金箱を持って近づいてくる

顔色の悪くて服装もイケてない連中が有象無象にいる。

以前TBSが彼らを取材したが、この連中は全員ある組織からやとわれてアルバイトで募金をしている奴らだった。

中には外国人もいる。

おまけにこの募金が何に使われているかは全く不透明だ。

高齢者で社会免疫性の無い人たちは、彼らの口車に乗って結構なお金を募金している光景を見るが、

正直この連中は詐欺的募金集めをしていると言ってもいいだろう。


また、平成30年7月豪雨の共産党の寄付に対して松井大阪府知事が不透明だと噛みついていたが、

共産党の寄付箱には小さく「党の活動資金としても利用させてもらいます」とあり、

一般的な意味では、災害寄付に乗っかって活動資金調達をしていると感じられ違和感を拭えない。

松井大阪府知事がツイッターで噛みついたのもこの辺りで、募金の事後精算を公表するように促している。

当然だろう。


こうしてみていると、募金行為側として募金行為にモヤモヤするのは

使用用途のルールや会計の公開が全く法的担保されていないからだろう。

少なくとも他人から大義や目的のある行為で金を集める場合は、

集めた個人もしくは団体への会計の公開を担保させるべきだろうがそれすら法整備が無いのが現実だ。


そういう意味で、私は、街角や聞いた事もない個人・団体の募金活動には一切加担しないことにしている。

当然共産党の募金箱なんかには1円も入れない。

渋谷の駅前交差点辺りで災害直後になると有志の学生さんたちや知らない人たちが募金をしている姿を見て、

偉いなぁ・・と思う反面、募金の行方にモヤモヤするのは私の人間性の至らなさかもしれない。

企業が代理的に集める募金にしても、集めた金額が税制優遇の対象になるメリットを知れば、

どこまで趣旨に沿っているのかね??と疑問にも思ってしまう。


結局色々と調べてみると募金先として有力なのは日本赤十字社くらいしかなさそうだ。

もちろん日本赤十字社には色々な見方がある。

基本的には官僚組織なので、趣旨からは想像できないような高給取りもいれば

自治体との募金連携に対する軋轢も多々噂される。

それでもこういう所でも頼らないと最低限度の担保がある状態での寄付行為は難しそうだ。

少なくとも日本赤十字社には決算報告があり、概要はつかめる。

ただこれでも十分とは言えないだろう。(無いよりは遥かにマシだが)


日本赤十字社の歳入歳出の決算:




日本赤十字社の評判や口コミは?寄付先として、信頼できるかをチェック




結論:

寄付したの金の行く末にモヤモヤしないようにするなら日本赤十字社に直接預けた方がいいようだ。

もしくは自分を離れて行った金に頓着しないなら、ドンドン寄付しましょう。











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「自省録 / 中曽根康弘著」を読み始めて [独り言]

ちょっと硬い話をさせて頂く。


中曽根康弘氏は昭和を代表する政治家だ。

100歳を超えまだご健在でその影響力は多方面に渡っている。

田中、竹下政権下での金権政治の狭間で活躍した首相であり、

時代の生き証人として昭和政治の裏表を体感した数少ない人物だ。


その中曽根氏が著した「自省録」を読み始めた。

だいたい本というもは最初の10ページ位でその本の価値の有無を感じさせてくれる。


読み始めて数ページ、私は本を置いてしまった。


冒頭の書き出しは、小泉純一郎元首相が中曽根康弘氏を選挙の比例名簿から

事前の告知もなく外し、それを問い質すために小泉氏に説明を求めると、

「(あなたは)他に仕事もあるのだから・・・」の一点張りで、

ろくな説明もせず黙ったままだったという恨みつらみから始まる。

中曽根氏は、自民党の長老であり貢献者である大先輩の自分に非礼だと断じる。


当時の中曽根康弘氏はその功績から永久比例名簿1位を自民党から与えられていた。

同時に党の規則には70歳定年も謳っていたという捻じれたルールがあったようだ。

つまりダブルスタンダードだったのだ。

いずれにして中曽根氏は、永久比例名簿1位を得てほぼ永遠に議員となれる資格を手にしていた事になる。


私はこの記載を読み非常に違和感を持った。

まず、中曽根康弘氏の政治家としての功績は事実として認められるものだと言っていい。

また永久比例名簿1位を自民党から与えられていた経緯やそういう対応がどうかはともかくとして、

小泉純一郎元首相が事前に何の断りもなく名簿から外してしまったというのが本当なら、

自民党総裁としての手続きにちょっと瑕疵があるとも思った。

悪法も法であり、一定の民主的方法で決めたルールはルールだからだ。


しかし、それよりも私の違和感は中曽根康弘氏の考え方だった。

中曽根氏の主張は一貫して自分のような功績がありしかも小泉氏よりも年長である自分に対して、

このような扱いは非礼だといい、永久比例名簿1位は当然だといわんばかりだった。


確かに小泉氏は非礼だったかもしれない思う。

また悪法も法とは言えルールを変更する方法もスマートではない。

しかし中曽根氏があれだけの功績と人格を持っていながら自民党の永久比例名簿1位を当然のように受け、

そのポジション居座ってしまった点については彼の人間的資質の限界を見る思いがしたのだ。

そもそも選挙によって国民から選ばれる政治家が、自民党のルール変更とは言え、1議席を特別に与えるような形に当然のように乗っかってしまった中曽根氏の政治家哲学とはどのようなものなのだろうか??


私は正直ガッカリした。


何故中曽根氏は、永久比例名簿1位を提示された段階で、

自分やこれまで日本国の政治家としてやれることはやった、

これからは若い政治家諸君を大所高所から育て、

必要があれば相談に乗る、議席は国民のものであり、党や個人が支配すべきものではない、だから辞退する・・位のことが言えなかったのか?だ。


ひょっとしたら最初は辞退したのかもしれないが、

結果的にはその場所にいるからそれが事実として残るだろう。
つまり中曽根氏はそれで良いと思った訳だ。


中曽根氏は自分の才能や実績に相当な自信があったのだろうし、

永久に「現役政治家」としてやれると考えていたのだろうやりたかったのだろう。

しかしそれは群馬の選挙区から若い政治家が出現するポジションを奪う事になる点について中曽根氏は一切考えているように見えないし、言及もしていない。

中曽根氏は自分が居座る弊害については全く考慮していないように見えた。


私は本を置いてしまったのはそこだった。


会社でもそうだが、50歳を過ぎて定年までの間で、管理職以外の人間の身の処し方は難しい。

現場仕事は少なくなり以前よりも手持無沙汰になり、自分の役割が狭まった感じがするからだ。
正直辛い時期だ。

中には我慢できず若手の現場に不要に分け入って混乱を起こす連中も多い。

従ってそういう立場になれば、グッとこらえて若手のサポート役に廻れたり育成役が出来るかどうかが重要でもある。

これは人生哲学かもしれない。


中曽根氏にとって小泉氏は若手議員だ。

しかし当時の小泉氏はかつての中曽根氏と同じ「自民党総裁であり日本国首相」なのだ。

中曽根氏は本書の中で随分と小泉氏の自分に対する非礼を書き連ねていたが、

当時は一議員である中曽根氏の立場から日本国首相の小泉氏の立場への配慮は全く見られない。

書きっぷりだけで見ると完全に体育会系で、

目下で後輩なんだから先輩の自分に対して敬意を払えという感じだ。
つまり上から目線なのだ。

中曽根氏は、相手が総理大臣ではなく、ただの後輩議員だと思って接しているようだったと思う。

それは筋が違うだろう・・というのが読んでいた私の感覚だ。


中曽根氏は本書の中で、小泉氏は言葉足らずで「他に仕事もあるのだから・・・」とつぶやくだけで

説明らしい説明もせずにその言葉だけを言い残して事務所を出て行ったとあった。

官僚上がりで頭も良いはずの中曽根氏ならその時点で、

「ああ、自分で潔く身を引けと言っているんだな」と気が付くべきだったろう。
もしくはエリート官僚で総理大臣経験者である彼だからそういう事が思い浮かばなかったのかもしれない。

小泉氏のやり方は確かにスマートではなかったし、

氏が怒りをぶつけているのも多くは「情に欠けた行為」その部分だが、

前述したように、日本国首相に対しているという敬意が全く感じられない文面だった。
中曽根氏はだからこそ、わざわざ総理であり、総裁である小泉氏が来た訳だ。
しかし氏は体育会系単純思考で当時の小泉首相と対峙していただけなのだ。


もちろん小泉氏が事前の通達もなく中曽根氏をリストから外してしまったのは怒りを招く行為だと思うが、

100歩譲って中曽根氏の気持ちは理解できるとしても、自分の立場、相手の立場を踏まえて考え、

行動できるからこそ中曽根氏のような修羅場を踏んできた政治家に価値があると思わなかったのだろうか??


こうなると小泉氏は、あのような方法でも取らないと頑固な中曽根氏は

悪法を盾に永遠に居座り続けただろうという危機感からの行動とも考えられる。

つまり小泉氏は70歳定年の例外である中曽根氏を理屈では説得出来ないと考えたのだろう。

そもそも例外規定だし、特別扱いだからだ。
そもそもルール違反のルールならば、小泉氏がルール違反を承知で強制的な方法を取ったとも言える。


またこうしたやり方をマスコミに晒すことで中曽根氏が身を引かざるを得ない状況に追い込んだともいえ、

確かに中曽根氏からしたら非礼で腹立たしい事だったかもしれないが、

そもそも永久政治家という民主主義の本質では本来あり得ない状況に安住し、

その地位に恋々としようとした中曽根氏が「自ら招いた事態」とも言えるのだ。


そういう視点については中曽根氏からは全く言及がない。

多分本人には全く自覚がないのだろう。


本書の冒頭に書いてあるという事は、この件が氏にとって非常に重要な記憶であり伝えたい事だったと解釈できる。

しかし逆に言うと、氏はこの辺りに限界があった政治家とも受け取れなくもない。

少なくとも私にはそう取れたし、本書を読み進める上で逆効果だった。


結局私は「自省録」という本を冒頭数ページで読むのを止めた。

それより先に何が書いてあってもこの本から得られるものは無さそうだと思ったからだ。


本書にはかなり期待をしていたが、冒頭でつまずき、とても残念な気持ちだった。
最後に書いてあったら全部読んでから時間を無駄にしたと思ったかもしれないから

冒頭で良かったのかもしれない。


タイトルに「自省録(中曽根康弘氏)を読み始めて」と書いたのはそういう理由でした。










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