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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-10 (最終回) [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

変動期 1984年春~初夏:
最終回 


120129ヨロシタM (15)_S.JPG

1980年代の乃木坂時代のヨロシタミュージックがあったマンション。
写真右の2階部分(201号)だ。
3階左部分は発足当時のMIDIレコードがあった場所。
このマンションの5階右(501号)には、やのミュージックがあった。
1階の101号を事務所の楽器倉庫として使っていた。
なお当時の壁面は白色だった。ただ外観は全く変わっていない。

(2012年1月撮影)


       

 当時の私が以下に起こる事情を完全に理解していたとは思っていないし、どうしてそういった経緯になったのかも分からない。とにかくそれは1984年の春、多分3月頃だっただろうか、それは突然起きた。
憲司さんは当時のマネージメント事務所であったヨロシタミュージックを離れる事になったのだ。
ここまでにどんなやり取りがあったのかについて私は内情に精通していない。
当時から30年近く経ち、それなりの人生経験を積んだ私が当時を推察すると、色々な想定は考えられる。
しかし全て憶測の域を出ないので私の見立てについては割愛する。
いずれにしても憲司さんがヨロシタミュージックを離れて一時的にせよ個人管理(自営)に切り替えるという判断があったという事実は確かだ。

私にとっては事件とも言うべきこうした一連の出来事で、当時はこれが起きるまで色々と知らなかった経緯が詳らかになった部分は多々ある。私が当時
毎日楽器車に積んで運んでいたミュージックマンのアンプは、憲司さんの所有物ではなく、ヨロシタ所有の楽器を借りていたということなどだ。そのためアンプは事務所に返却となった。その返却の現場に憲司さんも同行して来た。
その後のスタジオ仕事の際は、同じアンプを別途ヨロシタからレンタルするか、ヨロシタ以外のレンタル楽器店から借りるような不便な状況になった。
実は、レンタルアンプは、色々な場所や環境や様々なミュージシャンによって使用されるため、スタジオのような音にこだわる環境で利用するには余り適切とは言えない。他人の使用癖のようなものが付いてしまうのだ。
また機材の個体差があるのでミュージシャンの音作りにも影響がある。
こうした状況に私は戸惑っていた。

今でも記憶にあるのは、ヨロシタの楽器セクションのチーフでシンセ・プログラマーのF氏が私に「とっつぁんの事を余り悪く思うなよ」というセリフだった。とっつぁんのとは当時の憲司さんの担当マネージャーのT氏の事だ。私が彼に対してそうした感情を抱くだろうとF氏が推察する理由は幾つあった。Part-7で書いたが、そもそも私は長い間を経てのリストラ対象者だったし、どうやら雇用初期からそうだったようだ。そういう意味で当時の私の人生は薄氷を踏んでいるような状態だったと言えるだろう。
そして彼からの継続的な解雇通達の経緯に私が好感を抱けないでいたのも事実だった。
それでも後年になると、
氏の辛い立場も一定程度理解できるようにはなったし、彼自身にもこの経緯の中で色々と想う処はあったが、長期間に渡る解雇への不安はストレスだった。

こうした環境下、憲司さんが事務所を離れる事情になったのは、私としても穏やかならざる状況だった。しかしこの件で突然のように私のリストラ案は霧消し、憲司さんから直接、雇用継続を伝えられる。
憲司さんにとって私の再雇用は消極的選択だったかもしれない。新しいボーヤを探す手間や教育を考えれば私の方がまだマシだったのだろうという判断だったのだろうと思う。
それでも私は嬉しかったし、
消極的選択だったとしても良かった。
私にはまだこの仕事を続けたい強く気持ちが強くあったからだ。


この頃から憲司さんの私に対する様子が少し変化してくる。いつもは一線を置いて殆ど会話らしい会話も無いままに接していたのだが、次第に私に対して声をかけてくれるようになった。
私はそれが嬉しくて舞上がってしまったので、変な質問(「海と山とどっちが好きですか?」)なんていう恐ろしくバカみたいな質問をしてしまったこともあった。
その位舞い上がって緊張していたのだ。
私と憲司さんとの間には、犯す事の出来ない上下関係が存在していた。
しかしそれは私にとってごく普通の事でもあったし、苦痛でもなかった。

いずれにしてもこの時期憲司さんは、事務所の後ろ盾なしで個人の御旗で仕事をこなさなければならなかった。
とは言え、憲司さんの力量は業界内で一定の評価を得ていたので、マネージャーが居なくなったという事以外に表面的な変化はなかった。
しかし私がマネージャーの立場をカバー出来るほどの能力を持った人間でなかった点はどうにもならなかった。
いかんせん経験もなく知識もない。
ボーヤ時代の1年ちょっとで分かった事は本当に僅かだったからだ。

振り返れば、T氏側にも色々な思いや事情があったのだろう。満を持して発売したソロアルバム「外人天国」の売上が色々な意味で影響をしたかもしれない。
音楽業界に限らず、結果が全ての部分があるのだが、販売結果は冷酷にそれを突き付ける。本質的な意味で憲司さんを一番好きで認めていたのはT氏だったから、それ故に担当者としては苦悶・苦悩があったことだろうと思う次第だが推察の域を出ない。

 いずれにしても、T氏は1984年の夏前にはヨロシタを辞職した。彼はその後音楽業界で仕事をした形跡が見当たらない。

丁度その時期である1984年の6月のある日、憲司さんは突然のように実家のある神戸へ戻ると宣言し、ご家族を含めて帰って行った。ヨロシタを辞める事、T氏の退職、神戸への帰還はある意味で予定せざるセットだったのだろう。

これはご自宅が事業をしており、長男である憲司さんがご自宅の事業継承の問題を解決しなければならなかったという事情だとも聞いている。

当然この件で私は失職するのだが、憲司さんは私の身の上を案じてくれ、翌月分の給与を保証してくれた上に、不要となったギターを2本を譲ってくれた。
私は過分な対応に対して感謝の意を示し、彼と家族を羽田空港にお送りした。

当時憲司さんと頻繁に仕事をなさっていたキーボーディストの中村哲氏が、当時の憲司さんとのお付き合いについてインタビューで語っていらっしゃる。これを読んで氷解した部分も多い。リンク先に飛んだら、ちょっとスクロールダウンしてください。記事は下の方にあります。

【キーボード/バンマス・中村哲さんの話】
http://www.1101.com/omura/2001-03-25.html

ここに記載されているインタビューを読むとちょっと切ない気持にもなる。憲司さんの中で色々な想いや考えが交錯して戦っていただろうと思った。


加えて憲司さんと交流も仕事も深いお付き合いだった日本の至宝とも言えるドラマー「村上”ポンタ”秀一氏」の著書、「自暴自伝――ポンタの一九七二→二〇〇三」には、私の知らなかった憲司さんの記述がそこここに見られる。憲司さんの記述だけでなく、70年代から現在に至るまでの日本の音楽業界の中心を生きて来た方の興味深いお話が満載だ。

私にとって憲司さんの記述部分は非常に興味深いものだった。
この本に書かれている憲司さんは、私が直接知らない部分に多数触れているが、1年半ほど憲司さんと時間を過ごした私は、これを読んで”ああ、そうだったんだ・・”と思う部分が数々あった。

私がこのような言い方をするのが良いか迷うが、憲司さんは音楽に対して本当にピュアだったのかもしれないと思う。
プロの音楽業界の世界は純粋な音楽好きの集団というよりも音楽商業的な集団の方が勝る部分が大きく、純粋な音楽好きとしては、音楽商業的な現実に苦しんでおられたのかもしれないと推察している。

いずれにしてもご興味のある方は一読をお勧めします。

自暴自伝 (文春文庫PLUS)

自暴自伝 (文春文庫PLUS)

  • 作者: 村上 “ポンタ”秀一
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2006/06
  • メディア: 文庫



2017年2月に発売予定の「
大村憲司のギターが聴こえる/ギターマガジン編集部」も期待の本だ。 実は、この本の著者の方(本書は共著で数名によって書かれている)からこのブログを読んで頂き参考にさせて頂いたというご連絡があった。

こんな勝手な事を書いたブログが多少なりとも誰かのお役に立ったようで恐縮している。当然、私はこの本を予約しているが後日サンプル本が送付されてきた。その流れでこの著者の1人の方と連絡を取る機会に恵まれた。

前述した事だが、その方は、1983年4月に大村さんのボーヤの面談を受けていた方だ。これは、私が大村さんのボーヤになって一カ月後なので、私は働き始めて早々の時期にリストラ対象者になっていたという訳だ。
当時の私は相当仕事が出来ないヤツだったというのが評価だったのでしょう。残念ですがそうだったのかもしれません。
それでもそんな出来ないヤツが35年近くもエンタメ業界で働けたのは単に運が良かっただけなのだろうと思う。

ところでその方の証言によれば、面接を受けた1983年4月当時、同年7月に予定されていた石川セリさんのライブ(憲司さんがアレンジャー)までに交代する予定だったらしく、どうやら私はこの時期にリストラされ交代される予定だったらしいとのことだった。

私が継続的にT氏からリストラ宣告を受けていたのは、こうした背景があった事が分かった。そう言えば丁度その時期の私は、担当マネージャーのT氏から、渋谷の神泉町角にあった喫茶店(現在はUSEN本社ビル)で仕事の事で説教をされ、何となくの言い方だが、他のヤツを探し始めているような事を言われた経緯をこのブログでも書いたのだが、どうやらその代わりの人とは、この著者の1人だったという訳だ。

40年近く経てその経緯を知った私は、人間万事塞翁が馬ではないが、遠い自分の人生が自分の知らないところで色々と動く様を感じた。
いずれにしても人生とはあざなえる縄の如しとは言うが、私の心に複雑な記憶が呼び起きた瞬間でもあった。

結局その方は、T氏からキチンとした金銭的な条件について回答をもらえなかったことと、当時、内定をもらった企業があった事でボーヤ仕事を断る訳ですが、彼がこの時点で受けていたら私はお払い箱になっており、その後の人生は随分と違ってしまったかもしれない。

推測だが、T氏がその方に金銭的な条件を示さなかったのは、彼の内定した企業よりもボーヤの方が遥かに収入が落ちるため、直ぐに断られると思っていたからだろうし、彼との交渉を引き伸ばしている間に彼以外に候補を探し、彼の存在を保険にしておきたかったのだろうと推察している。

この方と数十年後のこの年齢になってから知り合う事も不思議な縁と言えますが、当時私が本当にリストラされていたら、その後、音楽業界の先の道に進む事もなかったかもしれないし、また教授と仕事する機会も無かったでしょう。
当然だが、サザンとの仕事をする機会もなく、アミューズの方々に知り合う事もなかったら、その後にアミューズに入る事もなく、当然そこで知り合いになるべきだった人たちとも会わない訳ですから、現在働いている職場に入る事もなかった訳です。

そういう意味で、私の知らないところで起きていた事は、随分と私の人生を変えたという事になります。

人生とはこのように不思議な流れで進んでいる部分もあるのだな・・と思うと、自分ではままならぬ事が多いんだなと思う反面、「運」もあるなあ・・と思った訳です。
私は宝くじに当たる運は全くないが、実はそんなに運の悪い人間でもないのかもしれない・・ともちょっとだけ思ったりもしました。
しかし流れ流れて今の自分を見ると、その結論はまだ先かもしれないというのが心境です。

大村憲司のギターが聴こえる (レア・トラックス3曲収録のCD付) (ギター・マガジン)

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  • 作者:
  • 出版社/メーカー: リットーミュージック
  • 発売日: 2017/02/01
  • メディア: 大型本

 

2018年2月、以下の記事がネットに上がっていた。なかなかの選曲で聴きたいが、私はハイレゾを聴く手段を持っていないので残念だ。

 大村憲司、厳選されたライブ音源をハイレゾ配信決
https://www.barks.jp/news/?id=1000151839


さて、大村憲司さんというギターリストについて、一般にはスタジオミュージシャンという形でしか知らない方も多いだろうと思う。憲司さんのスタジオ仕事の中で伝説的に語られている1つが山下達郎さんの名曲「Solid Slider」のソロだ。

達郎さんによればあのソロは1発録り、つまりワンテイクだったという。また達郎さんはトッププロミュージシャンというのはそういう事が普通にできる存在とも言っている。更に、「War Song」のソロは色々と思案した達郎さんがこのフレーズをイメージ通りにできるのは憲司さんだけだと指名して演奏されているものだ。
それでも憲司さんのギターの凄さを一般の方に理解できるように説明するのは難しい。憲司さんの本の中に彼自身の記載部分があるのだが、「天才はかなりレベルの高い事を6割位の力でスっとやってしまうものだ・・」のような趣旨が書いてある。憲司さんのギターは確かにそういうレベルだった。

それでも、そもそも彼の音の凄さは説明で理解できるものではなく感じるものだ説明が難しい。歌の上手さと違いギターの凄さを理解するにはそれなりに色々な音楽を聴いて接する必要があることは確かです。私は真近で接するチャンスがあったため、特にそういう感覚を磨かれましたが、それでも憲司さんの音を聞いた方は他のギターリストとは違う1音の凄さに触れ感じる事だろうと思う。

 

(渋谷PARCOでのバイト~ヨロシタミュージックへ)

憲司さんの仕事が無くなった1984年7月から早くも人生2度目の失職(失業)した私は、大学時代の下級生の友人(女性)の紹介で渋谷PARCO PART-1の3階にあった「宝樹」というサンゴ宝飾品専門店のアルバイトで食いつないだ。当時の私は、その日が食えれば良い位の程度で生きており、先々を見通して生きていなかった。誠に能天気なヤツだった。

しかし1984年10月のある朝、一緒にアルバイトをしていたその下級生から自宅の大家さん宅に電話が入り(現代では想像できないだろうが呼び出し電話である)、出てみると「大変です! 店がありません」と言われた。
驚いて急いで渋谷の店に行くと、店舗が紅白の幕で覆われており、商品は全て無かった。
PARCOの管理部門に問い正すと「店長から言われてませんでしたか?」と連れない言い方をされただけで要領を得なかった。店は店長家族が昨夜の間に撤収していたのだ。

我々に対する説明は皆無だった。
そういえば、バイトをしている間、店に何度もかかって来ていた電話は街金からの借金返済の催促ばかりだったが、それがこの結果だった。完全に自転車操業だったのだろう。

「宝樹」の経営者の自宅は狛江にあり、下級生の友人と2人で給与の支払いを求めて尋ねたが、周囲には金融取り立て系のヤクザ風の人間が囲んでおり、事態の悪さを感じさせていた。また渋谷の労働基準監督署にも行って相談したが、全く何の役にも立たなかった。労働基準監督署っていう場所は全く役に立たないと実感した最初の出来事だった。

結局10月分の給料であった10万円は私にとっての未回収債権となった。私にとって社会人になって早くも2度目の無職状態。今思うととんでもない馬鹿野郎だが、チンピラ人生を送っているとこういう目に合うのだと理解した。

当時の私は蓄えが全く無かったので、このままだと翌月の生活費が全く無くなる事態に直面してしまった。
新しい仕事を見つけるのに窮していた私は、祖師谷大蔵の駅前の公衆電話から憲司さんがかつて所属していたヨロシタミュージックの楽器セクションのチーフのF氏に電話をした。
特に何かを当てにして電話をしたんじゃないと思うが、バイトの口でもあればと思ったのかもしれない。

電話に出たF氏は、「おお、久しぶりだな。お前何やってんの?」といつものように明るい声で電話に出た。
私は事情を説明すると「何でもっと早く連絡してこねーんだよ! しょうがねーな」と言葉使いはべらんめぇ調だが、彼らしいフランクで実直な話ぶりで私の実情を聞いてくれたのだ。

「お前が良ければ俺の楽器運びの仕事ならあるよ、どう? 最初はバイトだけどそれで良いなら明日からおいでよ!
」と言われ、私は即答で「お願いします」と答えた。
私はこの時、どれ程救われた気持ちになったか言い表せなかった。F氏に対してこの点について今でも大変に感謝している。

こうしてギリギリで次の職にありつくことが出来、この判断がその後暫くの私の人生の行方を変えて行くことになる。1984年11月のことであった。この時のF氏には感謝以外の言葉もない。F氏はその後、音楽学校で教えたり、シンセ関係のイベントを開催したり、音楽関係の著書を共著で出したりと活躍しているようだ。

宝樹_S.JPG

PARCO PART-1の3階にあったアクセサリー店「宝樹」。
この写真は店内のスタッフが常駐する場所から撮ったもの。
向かいの呉服店には女優の故・大原麗子氏も訪れていた。
宝樹は1984年10月に倒産し閉店。
私の10月分の10万円のバイト代は
回収不能の不良債権となってしまった。


2018年春になって1983~84年の当時の境遇を振り返ると、自分の一途さにちょっと驚く部分が多い。「若さ故…」と言われるが、当時の私のエネルギーは音楽業界とへの憧れとその世界で一旗揚げる事に夢中だったと言える。
生活面を見れば笑う位に金の無い日々だったし、時間も余り自由にならなかった。
現代の若い人には想像もつかないかもしれないが、今の基準で見れば誠にブラックな業界だった。それでも当時の私は滅私奉公を厭わなかった。
自分で選んで入った道だったし、とにかく音楽業界って場所や環境が大好きだった。従って辛い事や嫌な事は数多くあったが、不思議と辞めようと考えた事は一度もなかった。

しかしこうした無謀な挑戦は、余り今の若い人たちにはお勧めできない。
時代的に経済成長が大きかった事もあり、何とかなる時代だったし、将来への不安も余り無かったからだ。
しかし現代は低成長時代で特に高齢者になると殆どの人が生活を縮小せざるを得ない。

2018年を生きる若い人たちに言えるのは、君たちが老後を迎える年齢から死ぬまでを支えてくれるのは、老後に得られる金(年金とちょっとした労働による対価)とそれ以前に働いて得た金が「全て」という事だ。つまり年金を含んだ生涯年収だ。

現在の年金制度は現役世代の金を高齢者に右から左に渡しているだけだが、年金の支払い設計はこの先も問題ない。ただ、年齢が若いければ若いほど受給開始年齢が先に延ばされ、受給金額も減って行くことだけは覚悟しておくべきことだろう。それを見越した人生設計をしておかないと高齢者になってキツイ事になる。

現代における昔の音楽業界的な位置にいるのがスマホのゲーム業界とAI関係のIT業界
だろう。現在でも面白いほど業界が伸びており、当然そういう場所には才能が集まる。
従って注目の集まる所は更にビジネス規模が大きくなっている。
現代においてスマホのゲーム業界とAI関係のIT業界はそういう場所だ。
残念ながら音楽業界に私の時代のような未来展望はない。
そのため新しい血が入りにくくなり才能は枯渇し、面白い局面を切り出す役割を担えないだろうと思う。
残念なのだがそれが時代というものだ。
もう一つ言い添えれば、これからの時代は数学・理科系人材が優勢の時代となる。
数学、統計、プログラミングが世の中を渡るために強い武器となることは疑いない。
文科系には辛い時代となるだろう。


そういえば、ボーヤ当時、毎日のように通っていた六本木ソニースタジオの6階にあったソニー系の出版社に勤める女性と知り合いになったことがあった。
ある時、何となくお互いに悪くない感じを持つ段階にまで行ったのだが、私は彼女との距離を取ることにした。
それは当時の自分では金銭的にも時間的にもとてもデートなんてできないし、生活も不規則だったからだ。
加えて社会的な地位も何もないし、自分に自信を持てなかったのだ。
おまけに向こうの女性は会社の正社員だった。
今考えると残念な気持ちにもなるが仕方なかった。

これまでずっと金が無い話ばかりしているが、当時の自分が絶望なほど貧乏だとは思った事が一度も無かった。
稼いでいる以上に支出することは一切なかったのと、欲しくても買えないから欲しいとも思わなくなっていた。
またいつか何とかなると思っていたんだろうと思う。

前述したが、結構キツイ職場環境だったが、一度も辞めたいとは思わなかった。嫌な思い出もあるしキツイなと感じてもいたが、メンタルは不思議な位全く平気だった。
このブログを読むと鬱病的になりそうな感じもするが、そういうブルーな事になったことは一度もなかった。
不思議だ。

昨今の新入社員は環境の良い職場でもさえも2日で消えるらしいが、やりたい仕事や環境であれば、少々キツクても辞めないものだと思っている。
でも個人差もあるから断言できないがね・・。

実を言えば私の経験を今の若い人にしてほしいとも思わない。
言葉を選ぶ部分もあるが、あの業界にはまだまだ理不尽で不条理な部分は無い訳じゃない。
またそういう事で時間を過ごして浪費するのも良くない。例外的に徒弟制度はあるべきと思うが、AI時代が迫る中、不要な待遇を我慢してまで身につけなくてはならないものは少なくなるだろうと思う。

ホリエモンさんが言っていたが、寿司屋の見習いで10年は無駄だというのはある意味本質をついている。私はホリエモンさんと価値観の合わない部分が多いが、この点については完全に同意できる。
精神論的な部分を除けば徒弟制度は使う側が技術伝承の代わりに弟子を安い労働として使う側面があることは間違いない。

よく雑巾掛けから始めろというのは一面正しいと理解しているが、実務面的には全く無意味だと言っていいだろう。
親方からすれば暖簾分けを作る事は競争相手を作る事にもなるのだが、そういう構造を理解していても師匠と言われる人たちの「修行」の在り方はちょっとどうかな?と思う。



さて、あれから30年余が経過し、何の因果か一部上場企業グループの社員に裏口から潜り込んだ私は、多少は人並みな生活をすることが出来るようになった。
ちょっと値段の張るコンサートにも平気で行けるし、日時もある程度行きたい時に行ける身分になった。
仕事も昔のようなヘビーな現場に行く事もなくなり、20代とは真逆の環境下で生きている。また職場が最初に面談を行った六本木のビルの傍に引っ越し、私の人生はまるで20代を逆になぞるかのようになっている。
それでも缶コーヒーを買うたびに昔の自分が1本のコーヒーを買うのに悩んでいた事は未だにフラッシュバックする。

私が音楽業界に居た時一番困ったのは、仕事のスケジュールがミュージシャンの予定に従って優先されるために、行きたいコンサートにすらなかなか行けない事が多々あった事だ。
チケット買っていてもスタジオ等の予定で直前になって覆る事が多く、前から予定して行けるライブは限られていた。
それが理由で80年代は殆どコンサートに行けなかった。
音楽業界にいるのにちょっと本末顚倒だなと感じていた。

コンサートにまつわる話で、40代に働いていたとある作家の事務所に居た時なのだが、当日になっても作家の行動予定がたたず、私の尊敬する山下達郎さんのライブに生き損ねる可能性が出て来た時があった。
夕方から作家がピアノの練習をするためスタジオに籠ったのをいいことに、私は作家に体調不良と訴えて早退を装い、コソコソと事務所を抜け出しライブに行った記憶がある。

仕事柄担当のアーティストの予定が優先するというのがこの業界のスタッフの掟だからだ仕方ない面はあるが、考えてみれば不自由な仕事をしていたと思う。
その不自由さは、そうした環境から抜け出る事の出来ない自分の不甲斐なさも一因があったとも思っている。

だから一旦業界を出て、そうした仕事から卒業をし、違う形でキャリア形成する
事が出来たのは本当に運に恵まれたと思うし、良かったと思う。

ありがたい事に現在では平日に有給を取って小旅行にも行けるし、例外を除いては自分で時間を差配出来る環境になった。
こんな贅沢は定年頃までで終わりそうだが、私の20代と50代はまるで鏡のように逆の環境にいるのが不思議だ。

60代以降についてはまだ分からない。正直悠々自適ってほど楽な状況ではない。出来れば70歳近くまでは何等かの仕事をして暮らせれば幸いだ。まあ、何とか自分にエッジを立てて頑張って行こうと思う。

音楽業界で働けた事は本当に良かったと思っている。でも現段階において、ミュージシャンに関わる仕事をしたいか?と問われてばNOと答える。
私個人にとっては十分なほど経験したし、私が彼らに出来る事はもう何もないと思っている。
今後は好きなミュージシャンの音楽やライブをお金を払って楽しむ立場で十分だ。
ただ、音楽を内包したエンタメビジネスには興味がある。残りの会社員人生や定年後はそういう分野に関わって行こうと思っている。

そして老後を経て死ぬときは私の祖母のように、あっという間に召されたいものだ。ピンコロですね。
延命治療、寝たきり、痴呆症になる前にはこの世にバイバイしたい。


追伸:


(憲司さんとの再会-1

憲司さんとの再会は、私がヨロシタミュージックに雇用され、年明けとなる1985年の正月に、ヨロシタ所有の楽器車を運転して、神戸の憲司さんの自宅に頼まれモノを届けるという際だった。会社の楽器車を使う事について、楽器セクションのチーフの藤井氏は懸念を示す。それは当然の懸念で、会社所有の車を個人の要望に応じて使用し、何かあった際の責任の所在を懸念したのだ。これは当然の懸念で、F氏としては「困ったなあ」と感じただろう。
しかしかつてお世話になっていた憲司さんの要望ということもあり、F氏は何かあった際の責任を自分が引き受けるという意思を固めてくれて、私に対して「運転にだけは気をつけてくれと」貸してくれた。無理なお願いをしたのだが、これには大変感謝しているし、そのため運転には非常に気を使った。
私は実家へ帰る際に楽器車で帰省し、多分年明けの1/4に神戸に向かったと思う。昼過ぎに神戸に行き、憲司さん一家に会い、所要を済ませ、その足で東京に戻ったと思う。憲司さんは交通費や高速代とお礼を含めてお金を渡してくれた記憶がある。東京の時とは違い、随分と温和で柔和な感じがした。
東京には無事戻り何も起こらなかった。その後憲司さんは私に手紙を書いて下さるなど、1985年に入っても多少だが交流が続いた。 


(憲司さんとの再会-2

いつだったのか確実な記憶がないが、神戸に戻った憲司さんが一時的に活動を再開した時期があった。当時の私はヨロシタミュージックでシンセ・プログラマーのF氏のアシスタントで生計を立てていた。憲司さんが一時的な活動を始めるというこの時期、憲司さんから直接頼まれて機材面のサポートをやったことがある。記憶している場面は、神泉町のMACスタジオで矢沢永吉氏のツアーに憲司さんが呼ばれたらしく、そのリハか、音合わせなのかは不明だがスタジオに楽器を持って行き、セッティングを手伝った事だ。矢沢氏を間近で見たのはこれが初めてだった。
彼がスタジオに入って来た際、「おはようございます」と反射的にいうと「こんにちわ」と答えた。インタビューで読んだ事があったが、彼は芸能界的な一日中「おはようございます」という挨拶の仕方を矢沢さんが嫌っていた事を思い出した。
結果的に憲司さんは矢沢永吉氏の仕事を辞退してしまう。この件は2001年、ひょんな事で矢沢氏の事務所の入社面接を受ける事があったが。時の矢沢さんの事務所の社長からこの件を聞いたので確かだろう。
またとある著名な日本人ジャズピアニストとのセッションの話が来ていて、新宿にあったPITINNで音あわせをしたが、これも憲司さんなりの判断があり辞退してしまう。当時憲司さんがステージから客席に移動つぶやいた一言は印象的だった。「俺がいなくても音楽、代わり映えしないだろう・・、意味ないよね」。

 

(憲司さんとの再会-3

実はこの再会の記憶には無かったのだが、当時のスケジュール帳の記載で判明した。
1989
年の秋、現在ではミスチルのプロデューサーである小林武氏のソロ時代のライブが渋谷クラブクアトロで開催され、彼のアルバムのシンセプログラムに私が関わっていた関係で私もライブに行った。その際に憲司さんご夫妻がおり久々の再会をしたという記録があった。
再会時の様子に関して細かい描写はないが、ご無沙汰しておりますという感じだっただろう。小林武氏は1988年と89年にソロアルバムをMIDIレコードから発売している。
1枚目はデュアリティー2枚目はテスタロッサと言っただろうか。残念ながらセールスは今ひとつだったと思う。
ソロミュージシャンとしての実績は今ひとつだったが、プロデューサー&ミュージシャン人生は、この後から”MYLITTLE LOVER” ”M.Children”と右肩上がりとなり、日本を代表するプロデューサーになったのはご承知の通りであり、彼ほどの才能の持ち主なら当然の評価とも言えよう。
 

(憲司さんとの再会-4

それから8年ほどが経過し、1997年だったろうか。私がその後、株式会社アミューズという大手芸能事務所で働いていた時期だ。新宿に日清パワーステーションというライブハウスがあった時代だ。
2
階座席では食事をしながらライブを楽しめるという新しいタイプのライブハウスだった。
ある日、徳武弘文さんらが出演し、大村憲司さんもゲストで出演するライブに当時私がマネージメント担当をしていたザ・サーフコースターズのギターの中シゲヲ氏(現在は中重雄)が出演することになった。この巡り合わせで憲司さんとの再会が出来た。約12年振りだ。(憲司さんの新しい本にはこの時の写真が掲載されている)

実は前述の「再会-2」の後、私は憲司さんが東京に再進出するする際、私に仕事に戻って欲しいというお話を頂いていた。その当時、シンセ・プログラマーのF氏の楽器アシスタントをやっていた時期で、シンセ関係をかなり覚え始めて仕事が面白くなり始めていた。こうした巡り合わせは私に大きな葛藤をもたらした。
F氏にも相談したが、決めるのは自分自身だと言われ決断に窮していた時だった。
相当色々と考えた末、結果的に私は憲司さんに対してお断りを入れた。
この決断に至る根拠は、様々な点がある。
そして当時住んでいた世田谷区経堂のアパートで正座をしながら恐る恐る電話した覚えがある。
当時の私にとっても大きな決断の時期であった。
憲司さんは私の決断を尊重してくれたが、これ以後1997年の日清パワーステーションまでの間、憲司さんと会う機会はなくなったことは事実だ。

日清パワーステーションでの再会は、私にとっては多少緊張感があった。お会いしてご挨拶をすると、「おお・・」と、以前と変わらないクールな感じで返事をして頂いたのを覚えている。
ライブ後の打ち上げ会場で本当に少しだけだったが、お話をした記憶が今でもある。そして私にとってこの日が憲司さんとの生前最後の出会いとなる。

日清PWS.jpg


日清パワーステーションがあった日清本社ビル
(東京都新宿区)



(憲司さんの葬儀)

1998年11月18日午後18時。私は青山にあるビクタースタジオでの打ち合わせを終えてキラー通りを外苑前駅に向かって歩いていた。携帯が鳴り出ると、ミュージックランドの横尾さんからだった。彼とはこの時期彼とはあまり連絡を取っていなかったので何だろうと思った。
「ランド(ミュージックランドのこと)の横尾ですが・・・」
私は横尾さんの声を聞き、久しぶりだねと答えた。
「憲司さんが亡くなったんだよ・・・」
私は絶句した。頭の中でそんなバカな、憲司さんが病気をしているなんて聞いたことないぞ・・と思った。
「何で・・」と聞いても彼も良く知らなかった。急死のようだ。私は電話を切り、かつて働いていたヨロシタミュージックに連絡をした。憲司さんの事を話すと事務所のスタッフも既に知っており、今から告別式があるという情報を聞く。私は当時務めていたアミューズに連絡を入れて、これから告別式に行くので会社には戻らないと伝言を残す。
場所は吉祥寺の安養寺(ご遺族からのご指摘で訂正)だった。告別式は既に始まっていた。ご遺族にご挨拶をし、憲司さんの遺体に対面する。棺の中の憲司さんは、昔と同じ感じのまま、ただ静かに眠っているようにしか見えなかった。
「何でなんだよ・・」と心の奥で呟いた。

ご遺体の脇には、常時使っていたクリーム色のレテキャスターと私が六ソのBスタジオで倒してしまったお気に入りのストラトが置かれていた。
私はそれを見て15年前の事を思い返していた。
私は余りの事に全く泣けなかった。
正直受け止められなかったとも言える。
告別式の翌日の葬儀会場(同じお寺)に急遽集まった業界関係者の方々の中には、教授(坂本龍一氏)がいらっしゃった。
そっと近寄り、つぶやくように”久しぶりです”とご挨拶をすると、彼はちょっとだけ私に視線を向け、黙ったまま2回私の肩を優しくポンポンと叩いて何も言わず去っていった。

Wikipediaにも記載があったが、会場にいらっしゃった後藤次利さんの男泣きには胸を打たれた。皆そういう気持ちだったはずだ。
ポンタさんの著書には、訃報を聞いた日のライブでは手が震えてしまって演奏出来なかったとあった。
葬儀には、Charさんや山下達郎さんなどもいらっしゃっていた。
私は最後のご奉公という気持ちでお手伝いをし葬儀の日を過ごして霊柩車を見送った。
当時マネージャーだったT氏は見かけなかった。居たのかもしれないが、目撃することはなかった。
憲司さんが亡くなった日の深夜は、獅子座流星群のピークの時間だったと聞く。
実はその夜、私も自宅の屋上で流星群を見上げていた。
私は知らずに憲司さんを見送っていたのかもしれない。
享年は49歳という若さだった。これが私との最期の再会となった。


(後日談)

 

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赤坂ハイツの1階部分。当時と全く同じだ。
ここには楽器車等を4台も停めていた。
写真左奥が当時の楽器倉庫の部屋。
(2012年1月撮影)


かつて憲司さんが所属し、YMOや教授が所属し、日本の音楽業界に一時代を築いたヨロシタミュージックは、2011年の末までの状況としてはスタッフは働いておらず、登記だけは残るが実質的な業務活動は無くなった聞いております。 2016年の段階で音楽業界関係者でさえもこの事務所の存在を知っている人たちは僅かだろう。70年代から80年代はかくも遠い時間の彼方へ去ってしまったのだ。
乃木坂・広尾時代を経て、30年の歴史を持った会社だったが残念である。2017年になって当時の教授の運転手をやっていた方が交通事故で死亡し、彼のお別れ会をした際、かつてのヨロシタのメンバー等が集まったが、私にとっては懐かしさよりも何となく居場所がない感じがしたのは不思議だった。

私が音楽業界の初期を過ごした会社はヨロシタ以外に大蔵社長と共同出資で作った㈱ハイヤー&ハイヤーとF氏を社長として設立した㈱TOPの計2社あるが、そのいずれも現在は存在していないか活動停止をしている。私が音楽業界初期に私をはぐくんでくれた会社はいずれに存在しないのだ。
音楽業界とはそういう厳しい世界とも言える。
ヨロシタは今では当時入居していた建物だけが壁を塗り替えてひっそりとその面影を残しているだけだ。ヨロシタミュージックはやのミュージックと共にあり、YMO、坂本龍一、矢野顕子、ゆらゆら帝国、サニーデイサービス、ボガンボスなどを世に輩出してその役割を終えた。そういう意味で、社長の大蔵博氏は成功した音楽人と言える。
その大藏さんも2020年5月末、虹の橋を渡ってしまった。
ずっと自分のスタイルを崩さない人で、死に顔も生前のままだった。

憲司さんは、ミュージシャンの中でも評価の高いミュージシャンだった。
「1音で圧倒するギター」という形容が正しいかもしれない。
こうしたギターリストの音に出会ってしまうと、他のギターには遂々辛口になりがちになる。
ギターリストとしての彼はそういう存在だったのだ。
またそういう音と時代に巡り合えたのは幸運だったと思う。
また私は、その後19年近く、音楽業界で働く事が出来、自分の中で一定の役割を終えた感じはしている。
若い時代に思っていたような成功は納められなかったが、私なりに満足感のある音楽業界時代だったと思っている。
何よりも40代に次のステップに移行する際、音楽業界時代の19年の経験知見が役だったのは私にとって幸運だった。
紆余曲折も多く、辛い時期も少なくなかったが、42歳という社会人としては中後期の段階での転職が上手くいったのは本当に救われた。私の人生の岐路はまさにここだったと言っていいだろう。


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ヨロシタやMIDIレコードがある広尾の入り口。
メールボックス。
ヨロシタ、やの、セカンド、ミディ(レコード)の文字が見える。
2014年引っ越したためこの場所にかつての事務所はない。
また当時ここに居たスタッフはほぼ全員別々の場所で仕事をしている。

(2011年2月撮影)




さて思った以上に長々と書いたローディー(ボーヤー)家業の日常についてはこれにて終わります。もしこれを全部読んでくれた人がいらっしゃいましたら本当に感謝を申し上げます。
私としてはあの時代の記憶を残す程度のつもりで書いた次第です。当時の記録は詳細を極めておらず、行間の全ては記憶によって補わなくてはならないため、場合によっては記憶違いがある可能性も否定致しません。ただ私も段々と高齢者の年齢に近くなっており、どんどんと記憶の行間を埋めるのが難しい年齢になっていると自覚しており、一定程度の精度のある間に何らかの方法で記録を残して方がいいかもしれないと書きました。

読む方(特に私の職場を知る音楽業界人)によっては内輪話を書き過ぎだというご批判もあるかもしれません。T氏については多少辛辣な気持ちを表現しているため、御不快を抱く方もいらっしゃるかもしれません。それは甘んじてお受け致します。
しかし既に風化しつつある当時の音楽業界の景色や空気感や当時の私の置かれた環境はなんらかの形で記録しておいた方がいいだろうというのが私の考え方であり思いです。
個人的な意図を計れば自分の生きていた証を多少でも残したいということかもしれません。しかし、記録されない記憶は風化したままで消滅致します。
この時代に音楽業界を生きていた人々の多くは既に60歳を優に超える年齢になっております。
当時お世話になった方々や一緒に働いていた方々も私と同じように年齢を重ね様々な人生を送っております。フェイスブックなどを見ると私の周辺にいらっしゃった方々は旧交を温めている様子が伺えますが、私は彼らとほとんどボツ交渉です。
私の性格的な事もあるのだと思っているのですが、どちらかと言えば孤独癖の強いので、余り他人と交わるのが得意ではないようです。また当時の私は一番下の層に生きておりましたから、当時の知り合いは皆さん先輩的な存在で、決して友人という位置にはおりませんでした。再会してもそうした位置関係が保持された関係でいるのは私には居心地の悪さもあるというのはあるのかもしれません。
従って彼らと時間を共有することもなく、最近はフェイスブックも更新しなのでなお更です。でもそれでいいと言うが私なりの事実です。

さて、今から30年以上も前の出来事ですが、出来ればその時代の経験や記録を残しアーカイブ化し残して次世代にバトンを渡すのも必要というのが私の持論です。牧村憲一氏などはかなり精力的にそうした活動をなさっているようで、立派な事だと思います。
残念ながら私には彼ほどネタも実績もありませんがこういう形で残す事に致します。

今から30年以上前の時間を振り返り、音楽業界に入るために手段を無くした私がボーヤになった事が、後の人生選択として正解だったかは今以て分かりません。
先日(2017年2月)、六本木の飯倉の元ピットインがあり、六本木ソニースタジオがあったビルの跡地を通りかかりました。現在は新しいビルになり、1階はコンビニになっておりますが、元ピットインに続くエレベーターは真新しいものの同じ位置にあり、エレベーター前の敷地の当時と全く同じ傾斜のままありました。

ボーヤだった時代、この場所に毎日のように憲司さんと来て、独りで楽器を下し、狭いエレベータに押し込み、六ソに運び込んで楽器をセットし、永い待ち時間を過ごし、またセットをバラシてエレベーターで下し、煌びやかな時間になった六本木を横目で見ながら楽器を積んでいた私がいたのです。


あの当時から30年余、定年まで数年になった私は、現在の職場の親会社の意向でグループ企業内の某組織傘下で働く事になりました。
その会社のある場所は、20代前半の私が毎日楽器を下しては組み立てていた六ソの近くにオフィスを構えていたのです。

亀が生まれた場所に回帰して卵を産むかのように、私は自分の意思とは関係ない力で自分がスタートした場所に戻るというのは不思議な縁というか運命を感じる次第です。しかし私は卵を産める訳ではないのですが・・。

また、私の自宅の近所には30年前から営業しているレコーディングスタジオが存在するのですが、時折そのスタジオ前にハイエースを停め、楽器を下しているジーパンに黒のTシャツ姿の若者を見る事があります。彼らを見ていると昔の私と同じ格好をし、必死に楽器を移動させてます。
それを見ていると、昔の自分の姿が投影され、心の中で頑張れよ!って呟いていたりもします。

当時の私は能力も人脈も無かったのでボーヤでしか音楽業界に入る選択枝がありませんでした。
ボーヤ上がりでプロのドラマーやギターリストになったり、シンセのプログラマーやアーティストマネージャーになった人は少なからずいた時代だったのですが、そういう意味では私もその一人でした。
音楽業界では望んでいたような出世街道をばく進する事はありませんでしたが、自分の夢の半分位は叶える事が出来ました。長野県の田舎から上京して一人で業界に飛び込んだ私のような人間には半分でも十分だと思ってます。

しかし、もし今、音楽業界に入るために他の選択枝があったらと考えれば、やはりボーヤからは入りませんね・・。あの仕事は正直誰にもお勧め出来ません。


何故なら上記のような例外があったとしても、ボーヤの経験は殆どは次のステップ(キャリア構築)になりませんし、そもそもボーヤは人生上の有効なキャリアになりません。まかり間違うと人生の貴重な時間を無駄にしかねないとも言えます。

現代(2018年)でもこのような仕事が存在はしているでしょうが、経験者の1人としては人生において余り選択しない方が良い職業だと思ってます。(もちろんそこから夢のような出生を勝ち取った人もいるのは事実です。でも例外的と言っておきましょう)


しかし当時の私には必要な仕事でしたし、当時の経験はその後の音楽業界を生きる上で非常に貴重な時間であったのは間違いありません。ですから私個人に限っては正解だったと思ってます。
重要で貴重な経験と体験をさせてもらったと思っておりますがで、決して全てが愉快な経験であった訳でもありません。
特にミュージシャン個人にコミットするような労働形態になればなるほど、ミュージシャンの機嫌や判断に仕事が左右される場面が多くなり、客観的で効果的な対応が出来にくい場面に多々遭遇致します。

ミュージシャンたちには彼らの理屈や理念があるのですが、それよりもいい方法や効果的対応があったとしても、生理的な感受性の違いに対応しなければならない場面が多いからです。

それも仕事の内だと考えればヤレという事でしかないのですが、私にはそういう仕事をするのは、20年程度が限界だったという感じでした。
現在でもミュージシャンやタレントの現場で正面切って彼らの生理と対峙する仕事をしている人たちがおりますが、ご心境を推察するにご苦労が多いだろうと思う次第です。

でも、おかげ様で私は多少タフな精神力を持った人間にはなりました。

いずれにしても、私の23歳からのボーヤ経験は、その後坂本龍一氏が所属するヨロシタミュージックへの入社を導きました。さらにサザンオールスターズや教授、その他の一流ミュージシャンたちとの仕事や海外レコーディング等の数多くの経験をさせてくれる呼び水となりました。
これらは全て20代中盤以降で30代になる前に自分の人生に起こった事実を考えてみれば、ボーヤを選択した事は、私に「実力以上の体験と経験の蓄積」を与えてくれましたと言えるでしょう。
そしてそれは今でも有効で掛買の無い経験となってます。

サザンとの仕事はアミューズ関係者との人脈を生み、30代半ばでアミューズに入って仕事をする上での端緒になりました。
そしてアミューズで仕事をしていた時に生まれた人脈は、その後40代初期で転職をする際に非常に重要な要素となりました。

現在の私が現在の会社でそれなりの人生を送れているのは、まさに40代初期の転職という難しい状況に橋を架けて頂いた人物のお陰なのですが、その人脈の構築の伏線は、元を質せばボーヤ時代から連綿と続いていたんだと分かります。
人生とはかように不思議なアヤでつながっているのだと感じさせてくれました。

ところで、人生中盤での架け橋をしてくれた方も2015年5月末で私が現在所属する会社を去る事になってしまいました。私にとって非常に残念な事ですが、致し方ありません。
彼とは今でも時折合って旧交を温めております。
 

また、私は紆余曲折しながら約19年近く音楽業界に居たので、ボーヤの経験が無駄になりませんでした。また何の因果か、2016年の声を聴いたとたん、私は再び音楽業界の仕事をする「ハメ」になりました。
でも私の目先は日本国内だけでなく、アジアに向いております。
日本の音楽業界はかつてのようなレコード会社主導ではなくなり、一般的には名前も知らないようなミュージシャンが数千人の動員をするような時代になりました。それも1組2組ではありません。またK-POPの台頭はこれまでの日本のポップス史になかった現象です。

オリコンのヒットチャートと時代の趨勢はこのようにかい離を見せておりますし、CDは売れない商品になってしまいました。CDの売れ行きは全く時代を映す鏡ではなくなりました。
そういう時代の音楽業界を過去の経験と知識では乗り切れないというのが私の現在の感覚です。かつてボーヤだった私が果たしてどこまでこのハードルを越えられるかわかりませんが、面白がってやるつもりです。

一点追加したい話があります。私はここ数年、K-POPのタレントにも関わる仕事をしておりますが、日本のレコードメーカーのAKB的販促活動を目の当たりにして幻滅した一人です。
現在の日本のレコードメーカーの連中は、AKB商法の延長戦上でCDの数を売る事にしか目的がなく、おまけに宣伝施策について他のアイデアが全くありません。
斜陽産業故にスタッフが高齢化し、若い視点が全くない状態です。

私の関わった案件で、あるファンが全国のCD販促会で1人で700万円余もつぎ込んだ事が分かりました。AKBでは1000万円単位はざらのようですが、私はさすがにメーカーの人間に、ちょっとこれは常軌を逸しているのではないですか?と質したのですが、メーカーの50代のH氏は、「買う人の問題ですから」の一言だった。

「買う人の問題?、買わせる仕掛けには問題ないのか?」と問いましたが、彼らは買う人の問題だと言い張りました。
「あなたは本気でそう思うの?」かと問いましたが、彼らは意見を変えませんでした。
いつからいい大人の集団であるレコード会社の連中は、こういう思考停止がまかり通るようになったのだろう?
私はこういう低レベルな連中と組みするのは自分の人生にとっての有効ではないなと思い、レコード会社との専属契約は変えられないものの、事業連携契約は破棄することにしました。

そういえばこのH氏は、レコード販売店に並ぶファンを見てニタニタしていた事を思い出しました。彼にとって自分の生き残りのためには他人の不幸なんぞはどうでもいいのでしょう。
私は非常に違和感を覚え、またもう日本のレコードメーカーと仕事をするのを止めようとハッキリ決めました。その後私は、メーカーと締結していた国内のレコード以外の案件での共同事業契約を更新せず、彼らを事業から排除する決定をしました。
また、CDの宣伝については一定の了解事項以外の販促活動を一切協力しないとも通達しました。
その後、提携先の韓国のマネージメント事務所から、新しいアーティストの日本のレコードメーカーとの契約について相談を受けた際、私は、メーカーとの契約は避けるべきと伝えました。日本のレコードメーカーには悪いが韓国の音楽業界は既にこの分野において日本を凌駕し始めていることを肝に銘じるべきだと思う。

K-POPはマニアなゾーンに客が存在しており、この韓国事務所は自社で音源も作り終えており、旧来のメーカーの制作力や宣伝力は全く不要である点と、流通については、コンビニやアマゾンを利用するなどの他の方法で幾らでも対処が可能であると伝えました。
また、メーカーと契約するとつまらない販促イベントに永遠と駆り出されるリスクもあり、絶対にやめるべきと進言しました。
客に何十万、何百万円も使わせるような仕掛けがアーティストとファンにとっていいはずはありません。この韓国事務所は最終的に私の意見を受け入れ、流通だけを日本の某社と締結し、そこを通じて殆ど宣伝なしの状態で発売をしました。
結果その数10万枚。オリコンにもチャートイン。

もうレコード会社なんていらないという典型的な実例を示してくれた訳です。レコード販売がメーカ-の専売特許だという時代は終了しているのです。
マネタイズするなら手段を択ばない今の策無きレコードメーカーの愚劣さは、いずれに自身の身の上に鉄槌として降りてくるでしょう。

スタッフが高齢化し、若い連中が魅力を感じない現在のレコードメーカー。
某レコード会社は2017年6月になってやっとライブ事業の部局を作ったようですが、10年遅れている。

レコード会社はCDパッケージビジネスの美酒に良い過ぎて、次のビジネスモデルを構築する事をせず現在に至っている。
ライブエンタビジネスは現状の時点でレッドオーシャン化しており、伸びしろは限界に来ている。

そういう意味で、音楽業界の半分は死んでしまったのだろうと思う。
レコード会社の人たちは、未だに自分たちが音楽産業を引っ張っていると思っているようだが、笑止千万。現在音楽産業を引っ張っているのはミュージシャン+アーティストと事務所の方だろう。

ライブ業界も日本全国の会場数に限りがありますから、伸びシロはありません。経済法則を考えれば、今後の日本の音楽業界は、少数が莫大に勝ち続け、それ以下は無残な状態になるはずだろう。

そういう業界で起こる事は、余り面白い話がありそうにないのは想像が付きそうです。それでも音楽業界に輝いていて欲しいという未だに気持ちはあります。

 


音楽業界にいて、自分の実力の無さに苛まれたり、生き方が下手だなと思った事もあります。
それでもあの頃の私には「あの選択」しかかありませんでした。
しかしそれもかなり遠い昔の話になり、ほろ苦く懐かしくセピア色になりつつあるという感じです。

私は良い時代の音楽業界を過ごす事が出来ました。そして私の実力以上に素晴らしい光景に出会う事も出来たのは、極めてラッキーと言っても過言ではないでしょう。そういう意味においても、乃木坂時代の空気は、私にとって懐かしいし愛しいのです。残念ながらそれを共有できる人達は殆ど周囲にいなくなりましたが・・。
また、私の音楽人生に偶然に手を差し伸べて下さった全ての方々に改めて感謝申し上げます。音楽が良い時代に音楽業界に関われて幸せでした。

最後に、2018年1月、私が20代に一緒に仕事をしていたある人物が亡くなりました。赤川新一君と言います。享年56歳。
まだこれからという年齢だったので考えさせられるものがありました。

当時の彼は、音響ハウスというレコーディングスタジオでアシスタントとして働いており、私が教授の「未来派野郎」というアルバムの仕事をしている時代、レコーディングで一緒になることが多かった人物です。

音に関しては彼独特の考え方があり、その後フリーのエンジニアとして活躍するようになり2000年代には自身のスタジオも持っていたと聞いております。
彼との仕事は1991年に行ったFLEXという広島のバンドのレコーディングが最後で、その後彼と私は残念ながら会う機会がありませんでした。
ただ下積み時代を共有していた人物だったので、彼の死は私の何かを揺さぶったのです。
突然の訃報に触れ驚いてもおりますが、彼の冥福を祈りたいと思います。

以下、彼のインタビュー記事がネット上に残っていたので、彼の生きた証と記憶を留める意味も含め、残しておこうと思います。

media.miroc.co.jp/magazine/people/shinichi_akagawa/

 

2020年5月31日、ヨロシタミュージックの創設者、大藏博さんが逝去なさった。71歳だった。このブログに書き綴ったように、大村憲司さんとの出会いからヨロシタミュージックに関わるようになった僕は、1984年11月からこの事務所でお世話になった。それから約10年近く、陰に陽に大藏さんの世話になった。大藏さんは自由人だったし、本物のミュージシャンを限りなく愛した人だった。矢野顕子さん、坂本龍一さんなど、彼らが世に出る過程で大藏さんが果たした役割は数えきれないと思う。 
10年近く世話になっておきながら、大藏さんの事を殆ど何一つ知らない。実際大藏さんは謎めいた人だったし、特に覚えているのはグルメな人だった。
面倒見もよくて、気に入ると私財をつぎ込んで支援するような所があった。だからオフィス経営者というより生粋のプロデューサーだったと思う。

71歳、まだ若いと云える年齢だったが、天に召してしまった。
僕が言えることは、20代~30代の僕に、随分と多くのチャンスを与えてくれた恩への感謝だろう。
面と向かって言ったことは一度もないが、改めてここで言っておきます。
本当にありがとうございました。
合掌。



長々お付き合い頂きまして誠にありがとうございました。


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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-9 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

1983年11月~12月:
人事と神戸チキンジョージ
 
       

 以前のブログ(1983~84年 ローディー時代の景色 Part-7)でも書いたのだが、記録によると私はT氏(マネージャー)から11/17に2度目の解雇予告を受けている。最初の解雇予告が7月だからそれから約3-4ヶ月程度経過した時期だ。2回も解雇予告されている事実を見ると、当時の私は随分とトンマな人間だったようだ。

当時の私の日記には、この時のやり取りが「最後通牒」と書いてあるので、この時はかなりハッキリ言われたはずだ。しかし結論を言えば私は解雇されなかった。それはPart-10に記載する件と関係しているのでそちらに譲る。


この年の12月の仕事納めの時期、神戸のライブ仕事から戻り、T氏から憲司さんのギターを富ヶ谷の自宅に保管のために入れる作業をすることになった際、富ヶ谷のマンション前で落ち合ったのだが、その際にも念を押されるように解雇の話をされた。
ただ当面後任が見つかるまではやって欲しいというような曖昧な趣旨を聞かされた事実があるので、”クビは切るが後任が来るまではお前でいいやって”いう適当な感じの印象がある。
つまりこの時点で私の後釜は見つかっていなかったと推察される。それでも解雇予告を受けていたのは私の仕事ぶりが余程レベルに達していなかったのだろう。
当時の私は雇用上の立場も弱く、”分かりました・・・”としか言えなかった。今にして思えば随分な予告だな・・と思うが、当時はそう思っても言えない感じだった。人事権者はいつも強者側なのだ。
おまけに私はそもそも雇用直後には使えないという評価をされていた人間だ。

私はその後、様々な人生経験をして、一部上場会社で管理職とかやり始めるようになってから理解出来たことは、当時のT氏がマネージメントをする地位者としての所作や考え方について、合理的な訓練を受けてなかったのだろうと思われる節があったという点だ。
音楽業界はこうした部分について現在でも原始的な業界なので、特に彼だけの問題ではないのだが、当時とは言え、非常に残念な点であった。

そういう意味では体育会系の監督・コーチ連中も似ている。訓練を受けていない人間がマネージメントを経験するのは組織として結構リスクなのだ。

2013年初頭になって体育会系コーチ連中の体罰問題がにわかに勃発したが、根幹的原因はマネージメント、コーチングの基本的教育を受けていない連中が成功体験や見よう見まねの手慣れでマネージメントをやっているからに他ならない。
2018年に日大のアメフト部による不正プレーに関して監督、コーチが責任を取る事態になったが、彼らはマネージメントとして全く「教育」を受けてこなかったのだろうが、意外とそういう人材は多いのが実態だ。

音楽業界も体育会系も実は似たような部分があり、それは現在でもまかり通っている。つまり未だに原始的手法を受け次いでいる部分があるのだ。
マネージメントになるためには、特に免許は不要だが、自分の経験でも一定のマネージメント研修を受けた方が無難だとは思う。アーティストマネージメントであっても、部下へのマネージメントであっても定型的に押さえるべき部分はあり、こうした教育があれば随分と方法論も変わったのではなかっただろうかと思う。

当時の私の仕事ぶりがT氏や憲司さんから見ていてこの上なく不十分だったというのも事実なのだろう。私の”頑張っています”は個人的主観の問題で、客観的評価は「クビ」だった訳で、その点については申し訳ないという気持ちだし、致し方ないと思っている。
加えて私も若くて相当至らない人間だったことは否定のしようがない。
ただ、当時の音楽業界の体質が体育会系で封建的だっとしても、人事系の話は軽々しく扱うものではないのはどの分野でも当然なはずだ。
ボーヤは確かに取り替え易い職種だ。
当時は私の代わりも沢山いた。
テレビ業界のADにも匹敵する下級労働階層だからだ。(今のADは中々成り手が居ないので以前よりは大事に扱われているようだが・・)

私は後年(40才頃)になって、とあるオーナー会社系の音楽事務所から、不当とも言える人事判断によって辞職を余儀なくされるが(直接の原因は、CDジャケットの文字校正ミスで印刷代がかさんだことが理由)、こうした経験から人事を軽く扱う人間や組織にはトラウマや不信感がある。そのため私も人事をしなければならない場合、様々な面で気をつけるようには心がけてはいる。

こうした経緯が私の後々の様々判断や対応に影響をした部分があるのは言うまでもない。仕事上、誰かが辞めなればならない事情が厳然としてことは致し方ない事ではあるが、そうであるならそれ相当の説明や対応をすべきなのが雇用側の最低限度の節度であり責任であると思う。


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「神戸チキンジョージ」の思い出。

チキンジョージ.jpg

震災の影響で当時とは場所が違うある。
当時は壁に落書きのようなペインティングはなかった。
現在でも様々な場所で落書きペインティングが見られるが、
書くにも見るにも値しないレベルが殆どだ。


12月憲司さんが神戸の名門ライブハウス「チキンジョージ」でワンマンライブをやることが明らかになり、リハが進む中、スケジュールも出る。「チキンジョージ」は生田神社の隣のビルの2階にあった。
1995年1月の震災の影響でビルが倒壊し、移転を余儀なくされたと聞いている。当時の「チキンジョージ」は、ビルの地下にキャバレーがあり、ミュージシャンやスタッフの楽屋がホステスさんと同じフロアーにあった。(それでもメンバー楽屋は別途あったと思うが・・)

ホステスさんの楽屋もライブハウス関係者の楽屋も同じ広さで、通路に沿って3畳程度の部屋がズラッと長屋のように並んでいた。楽屋の通路からは地下1Fのキャバレーの店内がまる見えで、下を覗くと酔っ払ったおっさん達がホステスさんのオッパイを揉んでいるという感じだった。
我々の行った日はクリスマスイヴだったので、三角の帽子を被ったおっさんとホステスが入り乱れており、私は”周囲は楽しそうでなんだかなあ・・”という感じで仕事に向かった記憶がある。この年は、山下達郎さんのクリスマスイブという曲が入ったアルバム「Melodies」が発売になった年なのだが、クリスマスイブが世間の定番になるのは5年後だ。

「チキンジョージ」は夕食に楽屋メシが出るのだが、これがとても旨かった。猥雑な環境やチキンライスなど、一度しか訪れなかった場所だがとても思い出深い場所だった。


チキンジョージ楽屋メシ-1.jpg

楽屋メシのイメージ
ざっくりとした感じだったが、
有りがたい夕食だった。



 
 

(1983年11月)

11月1日:憲司さんのソロアルバム「外人天国」が発売日。
13時~14時、六本木ソニースタジオロビーにて。(取材?)。
14時~24時、Bstで作業。アーティスト不明。


11月2日:
13時~15時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。
17時~18時30分、教授のサウンドストリート(NHK FM)にゲスト出演。
この時の放送は
1983年11月29日にON AIRされたようだ。YOU TUBEで探すと当時の音源が聴ける。
19時~24時、六本木ソニースタジオ、Bstで作業。アーティスト不明(多分岩崎雄一氏のアルバム?)。


11月4日:
13時~24時、六本木ソニースタジオBstでミックス作業。
アーティスト不明(岩崎雄一氏?)。


11月5日:
14時~、太平スタジオでFM東京の番組出演。
18時~24時、六本木ソニースタジオBstでミックス作業。
アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。


11月9日:
18時~24時、信濃町ソニー「S」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月11日:
18時~24時、信濃町ソニー「S」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月12日:12時~17時30分、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月14日:18時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月17日:Tさんより雇用についての最後通牒を受ける。どうやら年内一杯だろう。


11月18日:18時~24時、六本木ソニースタジオAstでリズム。岩崎雄一氏のアルバム。


11月19日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstでリズム。大江千里氏。
18時~24時、Bstでダビング。


11月21日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月22日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月24日:
19時30分~24時、六本木ソニースタジオAstでリズムの録音作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月25日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏。


11月26日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstでリズム。大江千里氏。
19時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月28日:
12時~18時、六本木ソニースタジオBstでリズム。大江千里氏。
19時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


11月29日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


11月30日:
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


(追記コメント)

先日このブログに岩崎雄一氏ご本人からコメントが寄せられておりました。facebookを調べて見ると現在北海道に在住で音楽活動をしていらっしゃるようでした。とても懐かしい気持ちになりました。岩崎さんは私を記憶していないと思いますが、当時のレコーディングについては記憶が鮮明のようでした。
もう30年を超える時代を経てのネット経由の袖摺りあうも他生の縁にほっこり致しました。


 

(1983年12月)

12月1日:
19時~24時、六本木ソニースタジオAstでリズム作業。岩崎雄一氏のアルバム。


12月2日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstでリズム作業。岩崎雄一氏のアルバム。
19時~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。大江千里氏。


12月2日:
12時~18時、六本木ソニースタジオでダビング作業。大江千里氏。


12月6日:
19時~24時、六本木ソニースタジオAstで作業。アーティスト不明。


12月7日:
12時~18時、六本木ソニースタジオAstで作業。アーティスト不明。


12月8日:
18時30分~24時、六本木ソニースタジオAstで作業。岩崎雄一氏のアルバム。


12月9日:
12時~18時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。大江千里氏。
18時30分~24時、六本木ソニースタジオBstでダビング作業。岩崎雄一氏のアルバム。


12月12日:
12時~18時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。


12月13日:
18時30分~24時、六本木ソニースタジオで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏。


12月14日:
18時30分~24時、六本木ソニースタジオで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏


12月15日:
13時~24時、六本木ソニースタジオAstで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏


12月16日:
13時~24時、六本木ソニースタジオBstで作業。アーティスト不明。多分岩崎雄一氏


12月17日から22日昼まで憲司さん一家は神戸へ帰省。

12月22日:
18時~24時、信濃町ソニー「L」ルームで、憲司さんバンドのリハ。
多分この日は本番最後のリハだったのでゲネプロをしたはずだ。約二ヶ月に渡って断続的に行ったリハはこの日が最後となる。アルバム発売に連動したライブは神戸のチキンジョージでの1度のみとなる。

ちなみにこの日はかつて憲司さんも参加していたYMOが武道館で散開ライブの日と重なる。
私は間接的に教授の事務所であるヨロシタ・ミュージックと関わりがあったが、YMOの最初の現役時代には、一度もライブを見ることがなかった。
また当時の私の立場や金銭状況やスケジュールでは、なかなか行きたいライブを見る事はままならなかった。20代でコンスタントに行っていたのは山下達郎さんだけだった。(それから38年余りたっても同じだが・・・)

あと、私のぼんやりした記憶では、1983年の12月に赤坂のTAMCOスタジオでレコーディングがあったと記憶している。ジューシーフルーツのレコーディングだったと思う。この記憶は後にメンバーでギター担当の柴矢敏彦氏と知り合ってから確認できている。
何故記憶が鮮明かと言うと、彼らはレコーディングの途中でTBSのザ・ベストテン年末特番の生出演で抜けたからだ。
またこのスタジオには岩崎雄一さんもいらっしゃった記憶がある。ジューシーの作業後に岩崎さんの録音作業があったのかもしれないが、何故か正確な記録が見つからず正しい日時を特定出来なかった。

尚、ジューシーのギターの柴矢さんはその後作曲家として数々のヒット作を生んだ。私とはサザンのライブ音源の製作の仕事の縁でお付き合いが始まり、その後は約10年ほどお付き合いが続く。
柴矢さんは2000年代になって「さかなさかなさかな~」というあの曲をヒットさせる。ちなみに唄っていたのは彼の奥さんで紅白にも出場をなさった。
(余談でした)



12月23日:
東京を午後に出発して、陸路で神戸へ移動。楽器車には山添氏、大井氏が同乗。
深夜23時30分に神戸チキンジョージに到着。予定よりちょっと遅れて到着。深夜だったため前日搬入は出来ず、諦めてそのままビジネスホテルにチェックイン。私にとって初めてのキャランバンという車で長距離を移動をしたライブだった。

12月24日:
憲司バンド、伝説のライブハウス、神戸チキンジョージにてライブ。メンバーは、憲司さんとドラムが(故)青山純氏、ベースが富倉安生氏、キーボードが中村哲氏の4名編成。
私はステージ上手で見守るが、演奏中に機材トラブルはなかったのでホッとした。お客さんは100~120名程度だったろうか?
ライブの仔細な内容の記憶は薄いが、外人天国のプロモライブだったため、アルバム中心の構成だったはずだ。

ライブ終焉後、何が理由かは忘れたが、マネージャーのT氏が我々が搬出&積み込み作業がモタモタしているように見えたのか、急に怒鳴り始める。楽器担当の山添氏や大井氏などは「怒鳴る位なら一緒に手伝えよ!・・・」とつぶやいていたが、慌ただしい中だったのでグっと堪えて誰もそれを口にしなかった。
そもそも彼が急に怒鳴った理由は未だに不明だが、楽器搬出を確認してからメンバーの打ち上げに出ようと考えていたT氏が、自分のイメージよりも搬出が遅くなっていた点で勝手にイライラしていたのかもしれない。

彼の立場を推察すると、正に進行中のメンバーとの打ち上げの席を仕切る人間が自分以外に居ないため、ミュージシャンを放置して迷惑をかけていると思ったのであろう。彼はそういう部分に責任感が強かったからだ。
また、同時に搬出についても責任をもって見守ってから、出来るだけ早く打ち上げ会場に行きたかったのだろう。でも体は一つしかない。責任感が強い彼は両方をキチンとしたかったに違いない。それはそれで理解できる。
しかしこれがイメージ通りに成立しない可能性まで予測して、一定の配慮をしていれば、他の方法論を取る事だって出来たのだ。
この問題の解決法は簡単だ。T氏が搬出作業に立ち会う必要がそもそもなかったのだ。山添さんという信頼できる楽器担当の人間が居たからだ。
マネージャーの彼として優先すべきはミュージシャンの打ち上げ現場の方で、それはその現場を仕切る人間がT氏以外に出来る人間はいないからだ。
今回のスタッフは楽器3名とマネージャー1名だ。役割分担は明確だ。

搬出仕事は現場作業がコナレテいる山添氏に全て一任して、作業終了後に打ち上げ会場に公衆電話から(当時は携帯電話なんてモノが一般に普及してない時代)打ち上げ先の店に電話を入れて報告するようにすれば実務上全く問題ない。
そもそもT氏は搬出を一切手伝っていないのだから実務上は確認作業以外には彼が実務的には役に立つ部分はないのだ。

翌日の達郎さんのライブに参加するメンバーもいたので、楽器の事が多少気になっていたのかもしれないが、気持ちの問題はともかくいち早く打ち上げ会場に行く選択をするべきだった。
T氏の気持ちの部分は100%理解できるが、仕事の組み立て方を考えればこの方法が合理的で彼もイライラせず、我々も平和に搬出が出来て全て丸く収まっていただろう。マネージャーとはそういう事を予め組み立て実践する仕事を言う。

なんとか楽器を積み込んだ後、楽器担当チーム3名は、近所のお握り屋さんに入って楽器チームだけの非常に簡単な打ち上げをする。何を食べたのか、話したのか全く覚えていないがこれから運転する身で酒も飲めず食事だけで済ませた。
話ていた内容は、先ほどT氏から怒鳴れた事だったかもしれない。

機材担当の3名は、
翌日の12月25日の朝9時までに東京・中野サンプラザホールにドラムスとキーボードのメンバー機材を届けなければならなかったので、そのまま深夜に神戸を出発し徹夜で移動した。朝からセッティングを開始し、ライブ終了して寝ないでトランポまで行為は、当時も今でも完全に労働基準法違反だが、そんな事は誰も気にしてやっていなかった。
とにかくキーボードの中村哲氏とドラムの青山純氏が当時ツアー中の山下達郎氏のバンドメンバーだったから楽器を安全に届けなけば達郎さんのライブが出来ない。人様に迷惑はかけられないのだ。


深夜の高速道路を交代で運転しながら走った私たちは、なんとか中野サンプラの機材入り時間に間に合い、楽器を先方のクルーに渡し、無事業務を終える。
達郎さんの現場の現場担当のマネージャー(松本君って言ったっけな・・)から当日の達郎さんのチケットを手渡しで売ってもらい、一旦自宅に戻って仮眠をし、夜はサンプラザに戻り、達郎さんのライブを見ている。1984年だからFor Youの時代の達郎さんだったはずだ。
当時の私は、ワーキングポアだったので、かなり金は無かったはずだが、達郎さんだけはキチンと見ていたようだ。(それから35年以上経った今でも全く同じであるが・・・)。


前述したが、年末になって、憲司さんのギターを自宅に保管させて置くためT氏と合った。この時玄関先で、再度T氏より最後通牒のような解雇予告をもらった。私は暗い気持ちになった。
当時の自分の日記を読むと、”もっと頑張れるはずだ”と自分に言い聞かせ、”辞めるまでは必死に頑張ろう”と書いてあった。
不安の中で前向きに考えようとしていたらしいが、年末の空気が重いものだった事は確かだ。
しかし、彼からのしつこい解雇通告があったのにも関わらず、結局解雇されなかった。理由は次回に記述する事とする。

追伸:

大江千里氏はデビュー後しばらく売れなくて悩んでいたと聞いた。私が渋谷のパルコでバイトしていた時代に一度店舗前を通り過ぎ、声をかけた事があった。当時はまだ目が出ておらず、ちょっと元気が無かった。しかしその数年後、彼はブレークし、清水信之氏のプロデュースを受けた80年代中期~後期を担うミュージシャンになった。その彼は現在JAZZピアニストに自分の人生の指針を向けて活躍しているようだ。2000年代初頭、FMラジオのイベントで一緒になった事があったが、それ以来会う事も無くなった。時折彼の活動を見聞きするが、音楽に接した事はない。


つづく


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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-8 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

1983年8月~10月:ヒットスタジオと今は無きAlfa studio-A


夜のヒットスタジオのエピソード)
  
 
  

1983年8月1日月曜日、石川セリさんがフジテレビ「夜のヒットスタジオ」に出演し彼女の新曲「BOY」を唄うため、憲司さんと他のメンバーは新宿区河田町にあったフジテレビに入る。フジテレビに入る前、近所(新宿にあった御苑スタジオだったろうかと思っていたが四谷にあったスタジオのようだ)で事前の演奏リハーサルをした記憶がある。
番組の出演は、いわゆる彼女のシングル&アルバムのプロモーションを兼ねている。
当時「夜のヒットスタジオ」は視聴率も良く、TBSの「ザ・ベストテン」と競いあっていた音楽番組だったが、「夜のヒットスタジオ」は当時ですら放送開始16年を経過したモンスター番組だった。


CX-河田町.jpg

当時河田町にあったフジテレビ。
今見るとNHKに似てますね。


現在お台場にあるフジテレビは当時新宿区河田町にあったのだが、私は初めてこのフジテレビの中に入る。
「夜のヒットスタジオ」の当時の司会者の情報を取ろうとWikipediaで2012年1月の段階の記載を見ると(情報の正確性の担保は不明だが・・・)、司会・芳村真理&井上順とあった。
当時の記憶を辿ってみたが、芳村真理さんの記憶があるが、井上さんについては私の記憶は曖昧だがそうだったのかもしれない。

「夜のヒットスタジオ」は完全にガチの生放送だったので本番前にカメリハが3回あった。そのため売れっ子のアイドルはリハ全部に立ち会えないため、当日着る服を持った別のスタッフが立ち位置を決めて照明やカメラのチェックをし、2回目でダミータレントを使った音声関係やカメラ割りに準じた動きのリハをし、夕方になって本人を入れたゲネプロ(通しリハ)を行う流れだった。

ヒットスタジオはフジテレビ内で最大のスタジオで行われていた。
当時のスタジオ内は、出演歌手以外に演奏部分を担当するダン池田とニューブリードと言うバンドがおり、出演歌手はニューブリードの生演奏で唄う方式だったからだ。今にして思えば豪勢な番組であるし、歌手は生歌を聴かせる訳で、今のように口パクではないので、それなりの実力が垣間見れる。

出演歌手の座る左隣(画面では右隣)に、出演者のバンド用の機材を置いておく場所があるのだが、私が楽器をセッティングをする場所はまさにここだった。
余談だが、ダン池田はその後、芸能界の暴露本を出して業界から葬られてしまった。またこの日の局内の移動中にエレベーターからダウンタウンのお二人が出てきたが、彼らはこの時代から売れっ子で輝いていたが、2018年の現在も売れっ子なので凄い事だと思っている。

当時、搬入口から楽器を入れ、スタジオまでの長い通路をエッチラオッチラ運ぶやっとスタジオに到着する。出演歌手たちの座る隣に(画面右側)、機材をセッティングするのだが、バンドの数が多いと設置場所取り争いになってしまう。
楽器位置は予め決まっている訳ではなく、早いもの勝ちなので(このルールは現場で初めて知った)、関係者の皆さんは、血眼になって管理下の楽器の場所の確保しようとする。
ただ、出演バンドが多いと最初のセッティングを崩されてしまうこともあり、担当としてはハラハラしながら見ていた感じだ。

カメリハ後、楽器のセッティングを再度確認し、ギターは本番直前まで手元において置いた。当時中森明菜さんが出演していたのだけは記憶している。他にも当時の有名アイドルがたくさんいたはずだが、不思議にも殆ど記憶にない。

石川さんの本番前に関連ミュージシャンの楽器をセッティングし本番。放送時では演出のためスタジオ一杯のスモークを使用したのだが、このスモークは楽器に非常に悪影響がある。それはスモークに大量の油分が含まれていたからだ。
本番は全部生演奏で生歌だ。
最近のガキタレやK-POPのように口パクなんていう事はない。(例外的にオリジナルカラオケを使い生演奏とシンクロする事はあった)
だから当時のアイドル歌手は例外を除いて歌が上手かったし個性豊かだった。今のアイドルにあの実力は全く感じられない。
しかしこの番組は出入りのミュージシャンには必ずしも優しい環境ではなく、メインの出演者はともかくそれ以外の人たちは、人数も多いため百羽一絡げという感じだった。

当然我々のような下っ端には控室もないため、スタジオ前で本番開始までの間を過ごすしか他無かった。本番はスタジオ内で出番の準備のために待機。セリさんの出演前のCM時間中に楽器のセットをし、その後本番。トラブルもなく終了した。本番中、現場のモニターを見て視聴者が見ている風景との随分と違いがあることを感じていた。

華やかな芸能界の現場というものを体感しながら、その周辺には多数の見えない人材がうごめいていることを知り、画面の向こうとこちらの現実を理解した。
この日の出演者で覚えているのは中森明菜さんだ。何を歌ったのかは忘れてしまったが、小柄で顔の地位さな彼女は印象的だった。

番組生番組なので22時に始まり23時前には終了。生放送は時間が見えているのでいい。
番組は現場のスタジオの隅でずっと見ていた。番組が終わらないと楽器の撤去が出来ないからだ。私がヒットスタジオの放送の現場を見たのはこの時だけだが、The 芸能界の空気が充満した現場だった。

撤収は番組終了後の23時から。翌日は楽器関係を全部メンテに出した。

この日のメンバーはドラムスは故・青山純氏、ベースは富倉安生氏、キーボードは中村哲氏だったと思う。
 

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私の記録によると当時のスケジュールは以下のようになっていた。

日にちが飛んでいる日は、憲司さんがアレンジ等の作業をしており私の稼働がなかったからだ。


(1983年8月)


8月1日:

12時~15時、四谷スタジオで石川セリさんの夜のヒットスタジオの出演のためのリハーサル。15時30分に河田町のフジテレビ入り。テレビスタジオ内に楽器のセッティングをするが、非常に限られた場所のため、楽器にとっていい位置の争奪戦となることを現場で知る。スタジオの傍で別の収録をしていたダウンタウンの2名を初めて生で見かける。当時既に売れっ子。未だに売れっ子。スゴイよね。
22時に本番スタート。


8月2日:

昨日のテレビ出演で、機材がスモークを被ったため、機材点検の日となる。 スモークにはかなりの油分が含まれており、回線に張り付くと故障の原因になるからだ。なかなか面倒だ。


8月11日:

13時~24時、田町のALFAスタジオでREICOのミックス作業。 REICOは堀口和男氏と田口俊

氏によるユニットバンド。

デビューアルバム情報:
http://musicave.exblog.jp/2739141/

メンバーの2人は2017年現在、音楽学校の講師をなさっているようだと検索で出てきている。


8月12日:

13時~24時、ビクター301St。高橋真理子さんのミックス作業。



8月13日:

13時~20時30分、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。夜は大学時代の先生と仲間たちと赤坂で久々の食事会。


8月14日:

司さん家族が神戸に帰宅のため羽田に送迎。憲司さんから5000円のこずかいを貰う。とても有難かった。 


8月19日:

19時~、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。


8月20日:

10時~、渋谷公会堂で行われた高橋幸弘氏のソロ・コンサートのゲスト出演。 この時の事はボンヤリと覚えている。この時代、高橋幸弘氏は会場を満員にしていたと思う。


8月21日:

13時~、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。


8月26日:

13時~27時、サウンドINNスタジオ。MIEというアーティストのリズム録音。


8月30日:

13時~、ヨロシタミュージック(乃木坂)で打ち合わせ。
19時からエピックソニーで打ち合わせ。(多分大江千里さんの件だろう)




 
(1983年9月)

9月5日:
15時~18時、エピックソニーで打ち合わせ。(多分大江千里さんの件だろうか?もしくはソロアルバムの発売の件だろうか?)


9月6日:
13時~18時、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。夜ミーティング。


9月9日:
信濃町ソニーのカッティングルームで憲司さんのアルバム「外人天国」のアナログ盤のカッティング作業。カッティングは小鐵 徹氏だったのだろうか?・・。違うな、小鐵さんはビクターの人だから信濃町ソニーでやる訳がない・・。調べておこう。


9月14日:13時~、エピックソニーで打ち合わせ。この当時のエピックには相当な活気があった。


9月15日:14時~19時、赤坂のTAMCOスタジオにて石川セリさんのライブ音源作業。


9月16日:
19時30分~24時、六本木ソニーSt(B) にて石川セリさんのライブ音源の作業。


9月17日:
14時~17時、青山スタジオにて、「外人天国」のジャケット関連撮影。
19時30分~24時、六本木ソニーSt(B) にて石川セリさんのライブ音源の作業。


9月18日:
私の25歳の誕生日。18時~、六本木ソニーSt(B) にて石川セリさんのライブ音源の作業。誕生日は仕事だったので何も特別な事をしなかったのだろう。誰もおめでとうとも言ってくれなかったはずだ。
だから多分ちょっと寂しい気持ちを押し殺して夜を過ごしていたんだと思う。
私の20代は前半は、クリスマスも含め、殆ど華やかに過ごした思い出が全くない。そういう意味で鬱屈した20代を過ごしていたかもしれない。そのお陰で随分と精神的には鍛えられた。

9月19日:12時~サウンドINN「A」st。市ヶ谷近くの四番町にあった。

9月20日:13時~17時、信濃町ソニー2st。


9月21日:13時~18時、信濃町ソニー2st。


9月22日:19時~、KRSスタジオ。井上陽水氏のレコーディング。
(中学時代から井上陽水氏の大ファンだった私なのにこの時の様子は記憶がない。多分本人が居なかったのか??)
憲司さんはその後の1986年、クラムチャウダーのツアーの音楽監督として井上陽水氏のサウンドに関わる事になるが、残念ながら私はこの時代、シンセ関係の業務に移行してしまっていて忙しく、他のアーティストのライブを見るチャンスが本当に無かった。80年代で欠かさず見ていたのは山下達郎さんだけだったろうと思う。


9月25日:
12時~18時、六本木ソニーSt(A)、大江千里氏。新曲のリズム。次のシングルだろう。メンバーは19時からのスケジュールも鑑みて以下のメンバーだったはずだ。
19時からは信濃町ソニー1Fのリハーサルスタジオにて深夜まで憲司さんのバンドのリハーサル。ドラムスは故・青山純氏、ベースは富倉安生氏、キーボードは中村哲氏の4名編成。


9月26日:
12時~18時、六本木ソニーSt(B)、大江千里氏。


9月27日:
18時~24時、六本木ソニーSt(B)、大江千里氏。中村哲氏のダビング関係。


9月30日:

12時~18時、六本木ソニーSt(B)、大江千里氏。中村哲氏のダビング関係。
 
どの時点か記憶がないが、8月から9月にかけて憲司さんのソロアルバム「外人天国」がエピックソニーから発売されることが決定していたはずだ。以前のブログ内でこの日の事を書いたが、改めて記載しておく。ある日の夜、渋谷の道玄坂の「田や」というシャブシャブ店で憲司さん、マネージャーのTさん、そして当時のエピックソニー社長だった丸山茂雄氏が会合を持っていた。私は道玄坂のYAMAHA渋谷店(現在は自転車屋)の前で車に乗ったまま2時間半ほど待っていた記憶がある。会合が終わると3名は笑顔を浮かべて店から出てきた。憲司さんは丁寧に丸山氏にお辞儀をしていたのがとても印象的だった。ちなみにこの丸山氏のお父上は、あの有名な丸山ワクチンを発明した方だ。

この時にエピックとの発売契約の合意が出来た時だったのだろう。本作はレコードメーカーを決めないでヨロシタミュージック主導(出資)でアルバム制作を実行していたが、なんとか発売に漕ぎ着けたようだった。ヨロシタが原盤をエピックに有償譲渡したと聞いている。
ヨロシタの社長の大蔵さんが原盤をエピックに有償譲渡したという事はそういう事なんだろう。
なお、道玄坂の「田や」は現在は存在していない。
 


(1983年10月)


10月3日:
13時~24時、信濃町ソニーSt(3)、大江千里氏の歌入れ。

10月8日:
12時~18時、信濃町ソニーSt(3)、大江千里氏の歌入れ。18時からミックス作業。


10月12日:
12時~13時30分、信濃町ソニー、大江千里氏のカッティング作業。


10月16日:
17時30分から憲司バンドのリハーサル。信濃町ソニースタジオ1Fのリハスタだったろう。


10月18日:
14時~16時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。
16時からONKIO HAUSビル1Fの喫茶店「エル」にて打ち合わせ(もしくは取材)。
私はどこかで待機していただろう。


10月19日:
15時~20時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。


10月21日:
16時~18時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。


10月24日:
13時~18時、ONKIO HAUS(銀座)1st(私の記憶は6stなんだが・・)にて、教授の仕事。この日18時30分から武道館でデビッド・ボウイのライブ(レッツダンスツアーだ)の予定が入っていたが、スタジオ作業が若干延びる。私は必死に武道館へ車を走らせるが、途中で渋滞。結果的にコンサートの冒頭が開始されていた時間に到着。私はここで帰宅になる。
(この時代のデビッド・ボウイを見ていないのが悔やまれるが、私の経済状況や仕事環境ではとても前もってチケット買って見には行けなかった。正直残念だ。

私が初めてボウイのライブを見たのは1990年5月東京ドームで開催されたSound + Vision Tour。
アリーナの前方で見る事が出来、本当に感動した。ジャンボスタンドには客が居なかったので、往時と比較すると集客が落ちていたようだが、このライブは素晴らしく記憶にも残っている。
そして次は亡くなる前の日本最後のライブとなった2004年3月に武道館で開催されたA Reality Tourだ。この時の神々しいボウイの姿は忘れられないが、残念ながらこの公演が日本最後で、幸運にも私はそれを目撃した一人となった。(ジェームスブラウンの武道館ライブも彼の最後の来日になり、私はそれを見ていた)


10月26日:
14時~18時、日活スタジオ。仕事内容不明。日活スタジオは六本木にあり、当時の防衛庁傍のビルにあった。楽器搬入がし難いビルで、ここでの仕事は大変だった。今ではビルも変わり風景も変わってしまった。
19時~24時、ビクター401 stにて、広瀬かおるさんというアーティストのリズム録音。彼女は「RCA/AIR」という当時の山下達郎氏がいたレーベルから出た期待の女性新人歌手だったが、残念ながらヒット作品に恵まれなかった。


10月27日:13時~19時、信濃町ソニー「S」リハーサルルームで、憲司さんバンドのリハ。このリハは、レコード発売に合わせたお披露目ライブのために行われていたと思う。T氏はツアーブッキングを組んでいた時期なのだろう。

19時から24時は六本木ソニーのAstでリズム録音。アーティスト不明(岩崎雄一氏?)。


10月28日:
12時~17時30分、信濃町ソニー「S」リハーサルルームで、憲司さんバンドのリハ。
19時30分から24時は六本木ソニーのBstでダビング。アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。


10月29日:
13時~24時、六本木ソニーのBstで作業。アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。


10月31日:
13時~15時、ルーテン別館にて矢野顕子さんとの対談。アルバムの宣伝用取材。
15時30分~24時、六本木ソニーのBstで作業。アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。
 この頃になると憲司さんのバンドのリハーサルが開始される。どのような場所でライブをやるのかは当時の私には不明だった。信濃町ソニースタジオのリハーサルスタジオが使用できた背景には、エピックからの発売が可能になったからだろう。リハ用のスタジオ使用料金も格段に安いらしい話はマネージャーのT氏から聞いた。またレコード発売が近づくに従いプロモーション活動も増えてくる。

車_S.JPG
当時不注意で楽器車に損害を与えていた。
こうした点は今でも申し訳なく思っている。


 

アルファーレコードにあったStudio-A:(2017年6月15日追加)
 
JRの田町駅を下車し、田町駅東口交差点の角にAlfaミュージックと自社スタジオのStudio-Aがあった。現在は別のビルが建ち、その面影を偲ぶ程度になっている。
70年代~80年代にかけてAlfaミュージックは様々なヒットアーティストを輩出した。
ユーミン、YMO、シーナ&ロケッツ、カシオペア、タモリ、スネークマンショー、ハイ・ファイ・セットなど数限りない。そのビルの5階にあったStudio-Aでは、本当に様々な名盤が作られた。タモリさんがレコードを出していたなんて、現代の人は知らないだろうと思う。
ユーミンの荒井由実時代は、基本的に全てここで制作されているし、初期のYMOの作品もここでレコーディングされている。
また私の尊敬する山下達郎さんも時折このスタジオに出入りしていたが、どうやらツアーのリハーサルをやっていたようだ。

1983年から84年にかけて、私も憲司さんの仕事に同行してこのスタジオに行く機会が多かった。
ネットでスタジオの写真や情報を探してもなかなか出てこないので、情報が消え初めているように思う。そういう意味を込めて、私の知っている情報だけをここに記する。
本当は当時のエンジニアさんたちやミュージシャンの話が聞きたいが、それは別の人に譲る。

AFLA STUDIO.jpg 

Studio-Aの見取り図は、写真の通りだ。
狭いエレベーターを降りると目の前にスタジオの入り口(スタジオのドアまではちょっと急な坂になっていた)とその左手にはスタジオ利用者の待合場所とレコード会社のスタッフの飲食場を兼ねた10畳程度の広さのロビーがあった。
運河側の窓からは、ちょっと遠くにボーリング場が見え、窓の下にはビルと運河に沿って作られた駐車場と運河が見えていた。この光景については、後年、ユーミンさんの著書にも書かれていたが、彼女も私も同じ光景を記憶していた事になる。ちょっと話は逸れるが、この駐車場は非常に使い勝手が悪かった。
ビルの東と北面の1階部分の外壁に沿ってL字型にスペースが確保されており、一番奥(東面の運河側)に車を停めるはめになると、出る際に車道側に近い車を全て動かしてもらわないと出れないというものだった。

e00113_ph03[1].jpg 

 さて、Studio-Aの基本構造は、コントロールルームと大型のブースに分かれていた。
写真はネットから探しあてたもので、いつの時代か不明だ。
卓の上にスモールモニタースピーカーがないから、70年代終盤かもしれない。
1983年時点でStudio-Aに設置されていたコンソールが写真のものかについては自信がない。
ただ、Studio-Aは、当時のレコーディングスタジオの主流だったNEVEやSSLと言ったものを使用していなかった事は確かだ。
トライデントだったかな??(誰か教えて下さい)

→APIというご回答をコメント欄から頂いております。思い出しました。これで正解です。ありがとうございました。

写真ではにわかに分からないが、コントロールルームの広さは、ざっと30畳程度、写真で見える奥のブースは、80畳程度はあったろうか?
ブースは天井も高かったので、オーケストラのセッションも可能だったはずだ。
コンソールの前にはベッドのように大きいソファーが鎮座しており、後年読んだ細野晴臣氏の著書には、このソファでよく寝ていたと書いてあったが、普通に座ると足を前に投げ出すような感じになる位の大きさだったと言えば理解してもらえるだろうか?
またこのソファーの前には1M強程度のスペースがあった。
このスタジオ、コンソールの前は広いのに後ろは意外と狭い。
エンジニアが卓の中央に座る辺りの後ろにはマルチテープレコーダーが置かれていたので、ミュージシャンやアシスタントは卓の両サイドのスペースに居る事が多かった。
またシンセがスタジオで活躍する時代には、置き場所に困ったと思う。

とにかくこのスタジオでは、日本の名盤と呼ばれる作品が数多く輩出された。
最もポピュラーな例は、荒井由実(ユーミン)と初期のYMOだろう。
スタジオの音には独特の響きがあるが、特に荒井由実の当時の作品にはそれが顕著だ。
アナログ時代のあのような音圧と音質感は、現在のデジタルレコーディングでは残念ながら出ない。

 私の好きな山下達郎さんの70年代後半~80年代前半のアルバムは六本木ソニースタジオで制作されているが、彼のインタビューでも語られているように、当時の音は再現不可能だ。
彼の元には当時のアルバムのアナログ再発の依頼が寄せられるらしいが、当時の音を超えられないという理由で再発をしないと発言している。

そういう意味でも、Studio-Aにしても六本木ソニースタジオにしてもスタジオの記憶を
留めてくれているのは、もはや当時の「音」だけなのだ。

このスタジオでギターリストの安田裕美氏に何かの仕事でスタジオで会う事が出来、感激した記憶がまだある。私は彼と陽水さんの演奏を中高生時代、コピーしていたので、彼の演奏への思い入れが強かった。安田さんは、初期~売れていた頃までの井上陽水さんのアコギで参加しており、クレジットで知っていた名前の人だった。私にとってStudio-Aにまつわる部分での記憶の1つは、ギターリストの安田裕美(男性)氏に会った時だ。ジージャンとジーパン姿だったと思う。笑顔が印象的な方だった。

もう1人は、達郎さんがロビーで女性コーラス2名に指導をしている風景だ。
多分ツアーのリハをやっていたのだろうと思うが、彼が歌いながら2名にメロラインを教えていた。
そうかあ、こんな風に指導してやっているんだなあ・・なんて思いながら聞き耳を立てていたが、
このスタジオではそういう風景が展開していたのだ。

我々の時代と共にあった音楽を作った場所や音楽は、どうやら我々の時代で消えて行く運命のようだ。Studio-Aは、1995年に閉鎖されたという。六本木ソニースタジオも現在は閉鎖されている。新大久保のフリーダムスタジオも2016年末で閉鎖。斜陽の音楽業界を象徴するようなスタジオ閉鎖が続く時代になり、ミュージシャンにとっても厳しい時代になっている。

つづく 


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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-7 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

あれま、リストラ予告?:
    

 あれは何時だったろうか。 1983年の夏だっただろうか。石川セリさんの神泉町にあったMACスタジオでのリハーサルが終了した直後、マネージャーのT氏から話しがあるのでと呼び出された記憶がある。石川セリさんの新宿厚生年金会館でのコンサートは1983年7月11日(月曜)という記録があるので1983年7月上旬の何処かだろう。

3月から正式に開始した憲司さんの仕事もそこそこ慣れては来た時期だ。ただなんとなく余り評価をされてない感じの中での呼び出しだったの心の底が疼く。
まあ、当時の私は本当に未熟者だったのは間違いない。「懺悔の値打ちもない私」なんて曲があったが、当時の私はそんな感じだろうか?


さて私は、当時西麻布から引っ越して富ヶ谷に住居を変えた憲司さんの送り届けが終わってから渋谷区神泉の交差点近くの喫茶店に二人で入った。今のYUSEN本社ビルのある周辺だ。
現在に至っては当時の詳しい会合の内容は覚えてないが、要するに当時の私の立場は余り良くなくて、このままだと後任を探すかもしれない・・というような話しだったと思う。
はっきり後任を探すという明確な言葉はなかったかもしれないが、”もっとしっかりやってくれないとかなりマズイ”みたいな感じだったように思う。

この時点でT氏や憲司さんが後任を本気で探そうとしていたのか、この時点では私に喝を入れるためにそう表現したのかについては分からないが、今にして思うとこの時点では前者だったろうと思う。ここまでには、憲司さんの楽器車をぶつけて破損させたり、スタジオで憲司さんの大切なギターを倒したりして、彼等から見ると私の仕事ぶりはとても不安定で、任せられないという感じだったかもしれない。実際そういう事実があったからだ。自分がT氏の立場だったとしても当時の私をそう見るのは自然だと思う。

しかしTマネージャーの話はいつものように曖昧としており、具体性を欠いた内容だったので、私の何が問題になっていて改善すべきかは良く分からなかった。私が全般的に表現できない程酷いと思われていたのかもしれないし、単に彼が説明が下手だったのかもしれない。言い方は悪いが、要するにダラダラした説教が延々と続いたという印象しかない。彼も私に対して憤懣があったのだろう。

音楽業界は元々体育会系的な部分があり、廻りを見て自分で立ち位置や仕事を考えろ!的な業務風習が強い場所だった。細かく教えるという感じはなく、周囲の同じような職種の仕事の出来る人間から盗めという職人的な環境と感覚があったと思う。
それはこの業界で働く人々が肌感覚でキャリアを積み上げて来たからに相違ない。
私はその時点でそうした環境に生きる人間として不適格だったのだろう。今の自分だったら当時の自分のような人間にどう対応するかを考えてみたが、少しは噛んで含ませると思う。業界や仕事に関して殆ど何も知らない人間に気合いや自助努力だけで業務レベルを合わせろというのは難しいし、効率が悪いからだ。
またもし改善の見込みがないのなら、それを客観的に提示して理解をしてもらうようにするだろう。
”周囲が自分をどのように見てるか分かっているだろう・・”という指摘に対して私自身も対応しなければならない部分は確かにあるが、そうであればT氏は果たしてご自身の当時の日常の行動は果たしてそれらをキチンと理解していたのだろうか?というシンプルな疑問はあった。
いずれにしてもボーヤ家業は直ぐに取替がきく仕事だったため、T氏の対応は当時の業界として至極標準だったかもしれない。

いずにしてもT氏は、マネージャーとして現場を預かる責任者として、私への叱咤激励をしなければならなくなったということだったのだろう。憲司さんからアイツ何とかしろと言われて困っていたのはT氏かもしれないからだ。
しかし全般的には世間話やよもやま話のような事が多かったので、聞いている私としては集中力を欠いてきた事は確かだった。ひょっとしたら彼の親切心で頭の悪い私に、理解出来るように分かりやすくしてくれたのかもしれなかったが・・・。

 いずれにしても話の流れで何を言わんとしているか位は当時の頭の悪い私にだって分かった訳で、「これはやばいな・・・」と思い始めてはいた。
しかも結構本気で他のヤツを探す意向を持っているように聞こえた事もあり、私は「はい・・もっと頑張ります」みたいな感じでしか返事のしようもなかっただったろう。前述したが、私は当時、かなり愚鈍な人間だったのだ。

その後もT氏の話は延々と続き、後半の方は失礼ながら、早く話しが終わらないかな?という感じだった。私はT氏に「大変申し訳ないですがお風呂に行きたいのでそろそろいいでしょうか?」と話題とは全く関係ない発言をした記憶がある。
T氏はそれを聞くと、ちょっと苦笑気味に呆れた感じだったが、「もうそれならいいよ・・」と大きな溜息をついて”どうしょうもないヤツだな、お前は・・”というような表情をされて別れた記憶がある。
まあ、そりゃそうだろうな・・と今の私でも思う。井上陽水さんの”傘がない”じゃないが、あの夜の私の最大の問題は風呂に行けるか・・だったりした訳だ。リストラされようとしているのに、風呂の心配するのか?と言われるのは覚悟の上だが、要点は理解出来たから、それ以上聞く話もなかったというのが当時の私の考えだったと思う。
まあ、確かに当時の私はどうしようもない奴であると今更ながらに思う。
T氏の気持ちも分からんでもない。


 T氏が私を叱咤激励しようとしている話を中断させた自分態度について、今の自分自身が振り返ってもかなり失礼な人間だなと思っている。
反面、当時の自分にとって風呂に入らないで寝るのはそれ以上に困った事だったことも事実だ。おまけに夏だったということもある。
私は彼等から見て要領を得ないし不安定な仕事ぶりだったのだろうが、私としてはそうした話はある程度理解出来たという事で、彼とそれ以上話をしても無駄な感じがしたのも事実だった。一生懸命というだけでは社会は受け止めてくれないのだなあという虚無感はあったが、これも若気の至りというもんだと今更ながらに思う次第だ。

実はちょっと驚くべき後日談がある。
2017年2月になってから、当時の事を裏付ける話しを知る事になったのだ。実は、私の後任については、1983年4月から既に面談を開始しており(つまり私が働き始めて1カ月後…)、7月のセリさんのライブ時には私はお払い箱になっている予定だったらしいのだ。ここに記載しているT氏のリストラのお話しは、そのタイミングでしてきたのだろうと思う。当時の私は知るよりもなかったが、人生、チェックメイト状態だったのだ。ただし、当時面談を受けた方は、就職先の内定が決まったらしく、憲司さんのボーヤを最終的に断ったということだ。これは、T氏から働く上での経済的条件の提示がキチンとされなかったこともあったらしい。就職の内定が決まっている人にボーヤの経済条件を提示したら100%逃げられるのを分かっていたから言わないで引き延ばしをしていたのだろうと思うが、私以上の条件を出せるか出せないかを決めるのはT氏ではなく憲司さんだったので、T氏は憲司さんに確認するのを長い時間躊躇していたのだろうと思う。
だから、何となく引き延ばし、悪いようにしないからと面談相手がやりますと言って逃げられない状態になってから、実は、と切り出そうと画策していたんじゃなかろうかと推察する。
この話は当時ボーヤの仕事をお断わりを入れた方から直接聞いた話なので事実としては確かだ。
仮にだが、この時点で私がリストラにあっていたら、多分音楽業界へそれ以上踏み入れる事もなかったし、その後、坂本龍一氏と仕事することも、サザンと仕事することも、アミューズに入る事もなく、ニッポン放送の人たちと出会う事もなく、また当然だが現在私が働いている会社に入る事もなかったと言える。従ってこの事は、私のその後の人生を大きく左右する事だったのだ。

かように人生とは、自分ではどうにもならない事で動いてしまう事があることを改めて知った次第なのだ。 


さて、結局私はクビにならずそのまま仕事を続けた。この話をされた4ヶ月後の1983年の11月頃~年末にかけて何度も「君は年内(でクビ)だから」と言われ、仕事納めの日にもダメを押されるように言われていたのにも関わらずにだ。
私は結局
1984年春になっても何もなかったように、継続して働き続けていた。
その理由は後々分かるのだが、いずれにしてもこのいい加減な人事通達に精神的にも振り回された点についてだけは今でもハッキリとした嫌な記憶が残っている。私の心の奥底に未だにしつこく消せないワダカマリがあるのはこのせいかもしれない。

そういう訳で私はその後の人生で、他人に対していい加減な人事通達だけはしない、他人に対して出来るだけ謙虚さを失わないようにと誓ったのだ。そういう意味でこの経験は反面教師となった。



 石川セリ.jpg


 憲司さんがアレンジ等で参加している石川セリさんのアルバム「BOY(廃盤)」
このアルバムに付帯したコンサートは一度だけ東京厚生年金会館で開催。
アンコールで井上陽水氏が客席から登場し沸かせた。上手でそれを見ていた私は心の底で歓喜した。私にとってアイドルとも言える陽水さんを真近で見た数少ない経験だったからだ。なお、本作からシングルカットされた「BOY」という曲は1983年8月にはフジテレビの夜のヒットスタジオにも出演し生歌を披露している。

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「外人天国」のレーディングに関する記憶:

 1983年11月1日に発売される憲司さんの最後のソロ・アルバム「外人天国」は結局エピックソニーからの発売になった。本作はレコーディング前に発売元メーカーが決まっていなかったらしく、当面の制作費をヨロシタ・ミュージックが拠出することでプロジェクトが進んでいた。これはマネージャーのT氏がレコーディング・スタジオで同業者から同じ質問を受けていた時にそのように応えていたので確かであろう。実はレコード会社の流通のない前提でのアルバム制作というのは、余り例がない。当時の常識としては、原盤制作をアーティスト事務所がする場合でも、事務所としてはかなりの投資額となる原盤制作を回収するためには、事前にレコード会社の流通を決めておかなければ回収方法の目途が立たないため、メーカー流通を決めないで原盤制作することはしない。これはあくまでも推測だが、本アルバムの制作には憲司さんの主張・要望を当時のヨロシタミュージック側が受け入れ、制作終了までにメーカーを事務所側で決めるという流れで作っていたのだろうと思う。
最終的にエピックソニーからの発売が決まる直前、渋谷区道玄坂にあった高級シャブシャブ屋「田や」で、当時のエピックの社長であった丸山茂雄氏と憲司さん、Tマネージャーの3名が会食していた記憶がある。
これは発売決定に際してのご挨拶なのだろうと思う。丸山氏は、丸山ワクチンを開発したお父上を持つご長男で、音楽業界で丸山氏の手腕はかなり評判だった。
私は道玄坂のYAMAHAの前で車を停めて車内でずっと(少なくとも2時間以上)車内で待っていたからこの時の記憶は確かだ。
当時のソニーミュージックは、原盤権を持たない国内音源を自社から発売しない方針の会社だったので、ヨロシタミュージックがエピックに原盤権を有料移譲したことでレコードの発売を可能にしたのだろう。もちろんソニー側も前作の「春がいっぱい」の売れゆきから、支払った原盤を回収できるというある程度の見通しで買い取ったに違いない。しかし実際レコード会社内部でどのような意見が交わされたかについては分からない。
その後、2000年代になって再発版の紙ジャケットCDがソニー系列から出ているが、この事実を見ても、ヨロシタ側がソニー側に原盤権を完全に譲渡し成立させていた事情は推察される。

私が憲司さんの配下で仕事を始めた1983年3月の段階で、外人天国の収録される予定の一定程度の曲はリズム録音が終わっており、全く最初からリズム録りから始まったのはタイトル曲の「外人天国」や、「AT LAST I AM FREE」「DANCE YOUR WAY TO GOD」など数曲だったろう。「外人天国」は当時まだ珍しい英語のRAPをフィーチャーした楽曲であり、かなり意欲的な作品だった。ラップを使った音楽では、これより数年前の佐野元春氏の「Communication Break down」が有名だが、彼は日本語でラップしていた。憲司さんのは英語だったが、発音がとても綺麗で驚いた記憶がある。

さて、レコーディング中のある日、憲司さんのギターダビングを六ソのBスタで終えた後、狭いブースに展開されている楽器セットを移動して吉田美奈子さんのコーラスダビングの用意を始めた。ブースには憲司さんの楽器と憲司さん、そして吉田さんがひしめき、私は二人に注意をしながらギターの撤去を始めた。その時、不覚にも憲司さんが最も大事にしているオールドのストラトキャスターが倒れてしまったのだ。憲司さんの表情がかなり歪んだ。このギターに相当な愛着を持っているのは知っていたので、私の心中は穏やかでなかった。憲司さんは私を面と向かって怒るような事をしなかったが、それ故私は事態を重く受け止めざるを得なかった。


1998年11月の憲司さんの葬儀に行った際、このギターが置かれているのを見て、心の中に様々な記憶が去来したものだ。ずっと大事にしていたんだ・・と。私の中の罪悪感が蘇った瞬間だった。


エピックからの発売が迫る中、宣伝方針やイニシャルの数字の設定(初回プレス枚数)、レコードのジャンル分けなどが憲司さんの期待していたものと違っていたりしたために、Tマネージャーに対して叱咤が飛んでいた覚えがある。また、ロックと明記して欲しかったらしいがフュージョンになっていたなど、細かい点にも不満をぶつけていた。こうした仔細な点はなかなかミュージシャンを入れて確認を取らないものだが、自分の作品であるという意識の強いミュージシャン側からすると、意図しない色を付けられた事には不満があったろうと思う。
私もその後にミュージシャンのマネージャーを経験する事で、T氏の仕事の大変さを思い知る事になるのだが、T氏がメーカーとの間で本作の売り込みや戦略構築に文字通り奔走していた事は疑いない。マネージャーとはそういう生き物だからだ。
前作1981年発売(アルファーレコード)の「春がいっぱい」は10万枚程のセールスがあったと聞く。しかし時代が過ぎ、ソニー側が出す冷酷なマーケティング・データを突き付けられて、作品のイニシャル製造数、掛けられる宣伝費や人員や戦術についてマネージャー側が反論出来なくなってしまうという現実もある。宣伝費は、イニシャル枚数、つまりメーカーの営業サイドが全国の店舗側からの注文数を積み上げてきた情報によって逆算される。仮に1万枚で3000円の定価だとすると、売上は3000万円だが、メーカーへの売り上げは、これの約半分程度の15~1600万円だ。宣伝費予算の一般的料率は、このメーカー売上の8%程度となる。この場合、約120万円程度だ。10万枚が見込めれば宣伝費の予算は1200万円程度という事だ。前作の「春がいっぱい」は、YMOのメンバーや関係者が全員参加し、メーカー側の販売戦略もYMOの勢いに乗った部分もあったと見られていたとしても否定出来ない部分は残る。
T氏もこの辺りの調整ではかなりご苦労をしたと推察される。ビジネス的な側面は一義的にアーティストとは無関係に思えるが、実際、アーティストはビジネスと無関係ではやって行けない。そういう意味でもT氏の存在は重要だった。
T氏が憲司さんのマネージャーである以上、久しぶりのアルバム発売に最高の舞台を用意しようと思わないはずはなく、相当に頑張ったのだと思う。実際T氏はこのアルバムを本当に愛していた。
しかし現実のマーケットとの差異を埋めるのは本当に難しく、ここら辺が体を切り刻むような思いで作品を生み出すミュージシャンとマーケットという冷酷な現実に直面するスタッフ間の大きな溝になる部分だ。


ネット時代になり、当時のプロモーションの一環が伺えるサイトを見つけた。当時同じ事務所だった坂本さんのラジオ番組に出演した際の音声だ。エピックの山本さんという宣伝担当者が登場するが、推測の域を出ないが、彼はその後、ドリカムを世に出してSME内で出世街道を歩んだ方ではないだろうか? ここでは憲司さんが、自分のアルバムに自身のボーカルを入れている理由を語っているが、教授のコメントも含めて極めて興味深い。


サウンドストリート(坂本龍一)大村憲司特集
http://mmaehara.blog56.fc2.com/blog-entry-3201.html

 

「春がいっぱい(アルファレコード/1981年2月21日発売)」は、セールス的にも一定の成功していたと聞くが、その後ソロアルバムを出せる機会に恵まれていなかった訳であるため、憲司さんの本作への思いは並々ならぬものだったろう。全作の売れ行きにも関わらず本作のレコード会社が決まらないまま制作に入っていたという理由は、今の私には十分良く理解できる。憲司さんには申し訳ないが、当時のレコード会社は、「春がいっぱい」のセールスがYMOの影響下で成し遂げられた部分があったと分析していただろうという事だ。
そして「外人天国」は結果的に、~本作は私個人としても様々な思い出が詰まっている作品であるが~ 残念ながらセールス的には全く振るわなかった。
音楽作品に限らず質と売上がリンクしないケースは決して珍しくないが、業界内の作品への評価はともかく、結果論的にはこれが本作への市場からの回答だったと考えるしかない。

音楽をビジネスをやっている観点からすると、このアルバムの結果は後々憲司さんのキャリア形成に響く事になる。簡単に言えば本作品が大村憲司氏の最後のオリジナル・アルバムになったという事だ。

ただし2003年、私の友人が本作の紙ジャケットによる再発売に尽力し、現在に至るまで作品そのものが伝わっている事は幸いだった。
またCD化された音は、アナログ盤よりも遥かに音が良かった事は幸いだった。正直当時のアナログ盤は音質的に若干抜けが悪かったと思う。(あくまでも個人的感想)
いずれにしても作品とはこうした愛情を持った人たちに受け継がれて行くものなのだろう。しかし残念ながら憲司さんが生きている間に本作のCD化は叶わず、憲司さんがそれを見届ける事もなかったのは残酷な現実だった。


さて、以下は当時のスケジュール帳と私の当時の日記の記録を元に再現した1983年4月~5月のスケジュールの一部だ。記載の無い日でも憲司さんは狸穴のマンション等でアレンジ等の仕事をしていたりするので、本人の稼働の全てが網羅されている訳ではない事を予め断っておく。


1983年4
月:

41日:
憲司さんの仕事仲間のドラマー、青山純氏(故人)がアメリカンクラブで結婚式を行う。神戸から帰って来た憲司さんも参加。山下達郎、まりや夫妻などの豪華参加者も見かける豪華な式だった。
私は会場の出口付近の隅で所在なく立ち尽くしていただけだった。


4
11日:
憲司さん、渋谷パンテオン(現在のHikarieの場所にあった映画館)にて「戦場のメリークリスマス」の試写会に参加。会場には大島監督(故人)、出演者(デビッドボウイは不在だがビートたけしさん、教授の姿はあった)や試写に来ていた山城新伍氏(故人)などがいた。山城さんを見かけたのはこれが最初で最後だったがとにかくカッコいい人物に見えた。
私も会場内の後方左端で映画を見ていた。
スクリーンに登場するお化粧をした教授にはちょっと違和感を持ったものだったが音楽のインパクトは今でも覚えている。BL映画の走りと言っていいだろう。
過日、大島監督の訃報を受け、この時の様子を思い出したが、末席ながらエンタメ業界の華やかな一面を体験した時期であった。


4
16日:
12時~18時、六本木ソニーSt(A)にて憲司さんのソロアルバム作業。


4
20日:
12時~17時、六本木ソニーStにて憲司さんのソロアルバム作業。その後18時~2030分、教授の仕事。


4
21日:
12時~18時、田町のALFAレコードスタジオにて「鉄生(当時の芸名は三好鉄生/現在は三貴哲生と名乗っているようだ)」の録音。19時~24時、六本木ソニーSt(B)にて憲司さんのソロアルバム作業。ALFAレコードスタジオのスタジオについては、このシリーズのPart-6で別途スタジオの記憶を記載をしているので見て欲しい。


4
22日:
12時~24時、六本木ソニーSt(A)⇒(移動) (B)で憲司さんのソロアルバム作業。


4
27日:
18時~24時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。


 

1983年5月:

59日:
12時~19時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。


5
10日:
18時~2630分、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。吉田美奈子さんのコーラス作業。


5
11日:
18時~、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。吉田美奈子さんのコーラス作業。


5
12日:
16時~27時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。ギターダビングだったと思う。


5
13日:
16時~26時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。ギターダビングだったと思う。


5
14日:
14時~28時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。吉田美奈子さんのコーラス作業とペッカーさんのパーカッションのダビング作業。この日、憲司さんの一番大切にしていたフェンダーのストラトキャスターというギターを、コーラス作業のために狭いスタジオブース内に作業スペースを作るため、設置されていたギターを撤去している最中に倒してしまう。ギターを僅かに傷つけたために、当時私にとって痛恨の大事件だった。繊細な憲司さんの心に傷を付けた事については、今でも申し訳ない事をしたと思っている。

516日:
14時~22時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。


5
17日:
13時~17時、TAKE OFF スタジオ(場所不明)で浅川マキさん(故人)の録音作業。


5
21日:
12時~15時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。Bottom of the bottle」の最終ダビング作業を終える。その後、憲司さんは羽田へ移動し、神戸へ帰る。


5
25日:
憲司さん、東京に戻る。富ヶ谷のマンションに送る。


5
27日:
12時~1830分、ONKIOスタジオ(銀座)でセッション。


5
28日:
12時~21時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバムのミックス作業開始。


5
29日:
12時~26時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバムのミックス作業。


5
31日:
13時~18時、ビクタースタジオ401stにて、飯島マリさんリズム隊のレコーディングに憲司さんが参加。プロデュース&アレンジは教授。この時、初めてデジタル(FM音源)のシンセ、YAMAHAのDX-7という革命的なデジタルシンセを目撃。廊下に置かれており、飯島マリさんのデビューアルバムには、発売したてのYAMAHAのDX-7がふんだんに使用されている。当時20万円位の楽器だったろうか・・・。MIDIも装備していたが当時は説明を聞いても理解できなかった。飯島マリさんのレコーディングを見ながら才能豊かな彼女を羨ましく感じていた。彼女はその後マクロスのテーマが代表的な作品となり現在でも人気だ。

その後、
19時~28時まで六本木ソニーSt(B)

憲司さんのソロアルバムのミックス作業。


外人天国(紙)

外人天国(紙)

  • アーティスト: 大村憲司
  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • 発売日: 2003/08/06
  • メディア: CD

つづく。


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1983年 ローディー時代の景色 Part-6 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

衝撃のスタジオミュージシャンたちとその経済学:
 

 体験の無い方々にスタジオミュージシャンの凄さを形容するのは容易でない。ただ楽器の経験者であれば多少は感じるかもしれない。有名アーティストのコンサートなどで演奏しているミュージシャンの多く(年齢的には40代以上)はスタジオでのレコーディングなどでも演奏している人々である。人によっては参加曲数が数千曲のセッションに関係している強者もいる。 昨今はYOU TUBEで一般の方が演奏をしてアップしているのを見る事が出来、中にはプロ裸足の演奏を披露する方々も多い。
しかしプロとアマには決定的な壁がある。
それは一流のプロが認める高度な演奏力と音楽理解力、それとコミュニケーション能力、また独特の個性だ。
プロの現場では様々な音楽的、演奏的要求をぶつけられる。中には自分の引き出しを超えていたり理解を超えるものもある。そういう時、自分の力をキチンと無駄なく伝えられる能力がないとプロとして長期間活躍出来ない。
少なくとも演奏技術的に難がある場合はその時点で先がない。また息の長いプロは必ず他の人にはない「独特の個性」を持っている。
つまりプロのミュージシャンは技術以上の所で戦えないと仕事として成立しないという事だ。

 

当時も今もスタジオミュージシャンは業務成果制だ。つまり演奏稼働しないと彼らには売上がたたない。(例外収入は、隣接権からの収入だろう)
1980年代前期当時の彼等の追加収入はソロやダビングをした際の追加演奏料や楽器のレンタル代のようなものだったと思う。
またCDのレンタル等の二次使用から支払われる著作隣接権に関わる収入もある。ただCMのような短時間で終了してしまう演奏に関しては、時間制ではなく、1セッション幾らのようなスタイルに変っているようだ。

 
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 当時はミュージシャンのランクにもよって料金が違っていたが、1時間5.000円~12.000円位だったのではないだろうか? スタジオ・ミュージシャンは当時の雇用形態を属性的にカテゴライズすれば、日雇い労働者と同様のカテゴリーだ。ただしその分野では断然に収入面が良い。

セッションが終了すると「インペグ屋」と呼ばれるブッキング・エージェンシーの人間が彼らに仕事量に対する対価を計算し現金で支払いを行い(これを「取っ払い」と呼んでいた)、ミュージシャンから個別に領収書を貰って清算していたのである。もちろん事務所所属のミュージシャンの中には請求書処理もあったが、私が見ていた現場のミュージシャンは現金取っ払いが多かった。つまりインペグ屋さんは、常時大量の現金を持ち歩いていた訳だから盗難などを考えればリスクのある商売とも言える。

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インペグ屋さんはこうした現金支払いをするため常に多額の現金を持って移動していたのだが、インペグ屋さんはミュージシャンへの支払い額に一定の自社手数料を上乗せした分をレコードメーカーの担当者に請求をして清算するという構図なのだ。
インペグ屋さんは、レコード会社からレコーディングに関係するミュージシャンのブッキング・コーディネートと支払い(清算)代行を業務委託されていることになる。メーカー側のメリットは、制作に関わる細々とした個々の請求等を割愛出来るメリットがある。インペグ屋さんの語源は聞いた事があるが、忘れてしまった。

当時インペグ屋さんと呼ばれる会社には、ミュージック・ランド、テントーフなど数社があったため、各社はレコード・メーカーから仕事を取るために、音楽制作担当者にキックバックを渡していた。あるS社の担当ディレクターは、業務上横領に問われるなどの倫理問題になったこともあった時代だ。(そりゃ当然だろうが・・)


 
売れっ子のスタジオミュージシャンともなれば、それこそ年間1,500-2,000万以上近くは稼ぐ事もできたろう。あるキーボーディストが、「週に1日の休みを入れて、1日8時間働いても2500万円が限界だな・・」と呟いていたので、そんな感じだったのだろう。しかし当時の新入社員の初任給が12万円の時代で、彼等の年収が1,000~2,000万円程度だったことを鑑みれば、スタジオミュージシャンの高給ぶりが分かるだろう。

現在と異なり
80年代はアイドル全盛期の時代であったから、作詞家・作曲家・アレンジャー・スタジオミュージシャン・エンジニア、シンセプログラマー、スタジオ等への仕事需要が広範囲だった。
90年代に入ってからのアイドルの減少、オリジナル作品を自分達の演奏や作曲でヒットさせるアーティストが増加し、シンセサイザーの技術的発展と普及が音楽に関わって仕事をする人々の業務環境に多大な影響を与えた。
しかし現在でも一線で活躍するミュージシャンの地図には大きな変化がなく、
20年以上前の地図がそのまま使えるとも言えるような状況であるが、やはり仕事の絶対量という点では減少傾向だ。また若い人達から彼らを超える優秀な人材が出てきていないという点は、日本のミュージシャンの層の薄さを象徴した部分でもある。  

 さて私が生まれて初めて体感したプロのレコーディングセッションは、後に「外人天国」というタイトルになる大村憲司氏のソロアルバムと「
WAKUWAKU」という大江千里君という大阪出身でEPIC SONYのオーディションを経由してデビューを果たした歌手のデビューアルバムであった。
六本木のPIT INNがあるビルの5階にあった六本木SONYスタジオ(通称六ソ)は、リズムセクションのレコ-ディングが可能な「Aスタジオ」とダビング、ボーカル入れを主とする「Bスタジオ」の2つから成り立っていた。この点は以前に記載したので参考にしてほしい。

当時このスタジオは業界でもエッジの立ったアーティストが使用しており、大滝詠一氏の「LONG VACATION」、山下達郎氏の「RIDE ON TIME」や「クリスマスイブ」等はこのスタジオでレコーディングされたものであり、ロビーで彼らの姿を度々見かけることもあった。

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 憲司さんはこの時期、六ソを気に入っていたようで、殆どホームスタジオのように連日ここでの作業を選択していた。当時の詳細なスケジュールは現在手元に存在していないので記憶を辿って書き記そうと思う。
  
この頃の私は、音楽業界に関して全く無知であると同時にプロのレコーディングに関する楽器等のセッティングなどについて、全くの未経験者だったため、様々な事に驚いた記憶がある。

憲司さんの前任者ローディーから引き継がれた慣れない業務内容を確認するようにAスタジオのメインブース奥(ピアノの右横当たり)に彼の楽器等をセッティングした後、他のミュージシャンたちのセッティングがそれぞれに終わり、演奏が始まる頃になると、コントロールルーム入口直ぐ右にあったステュ-ダーというメーカーのアナログ
24chテープレコーダーの前に丸イスを置いてちんまりと座り、他の人の邪魔にならない用に勉強のためスタジオの進行を見守っていた時期がある。頃合いを見てエンジニアに質問をすると、煩わしそうで、ちょっと小バカにしたような表情で答えてくれたりもした。

ミュージシャンの演奏用譜面のコピー等をしている時に初めて気が付いたのだが、譜面にはコード進行と簡単なおたまじゃくしが書かれているだけなのだ。
初めてこれを見た時、この譜面でどうやって演奏をするのか検討もつかなかったというのが私の率直な感想だった。
  
ブース内のミュージシャンがそれぞれ準備を整えると、大村氏がメンバー達にその日の曲のアレンジ進行や方向性の説明をし、イメージや演奏のパターン等を簡単に解説し「じゃあ一回やってみようか」という言葉を合図にシンセのオペレーターがドンカマ(シンセで作るテンポを司るガイドクリック)でテンポを出し演奏が始まるという具合だった。

彼らの演奏を初めて見た(聴いた)瞬間の驚きは今でもはっきり覚えている。譜面に詳細な記譜がないのにミュージシャン達は澱みなく様々なフレーズを紬出したのだ。また彼らは初見演奏であるにも関わらず、演奏自体に目立ったミスがないのである。

私は「こんな人達が世の中にいるんだ・・・」と驚愕しショックに打ちのめされた。今でこそ演奏テイクの良し悪しをある程度認知できるが、当時はそれこそ細かいテイクのニュアンスや違いを聞き分けることなど不可能だった。またスネアの音の違いで延々と作業をしている姿さえも当初は全く理解出来なかった一つの事象だ。全くの異次元だった。

こんな感じで私の業界生活が始まったのだ。

 当時は、ミュージシャンや音楽に囲まれた環境はそれだけで当時の私には充分であった。音楽を作っている環境に自分が身を置けると言うことだけで生きがいを感じていた。今にして思うと精神的にかなり幼稚なものだった。
全てが新しく驚きの毎日だった。たまにスタジオロビーに顔を見せる有名人に会える事も仕事の余禄として充分であった。しかし私の心根の中では何かしらの「身分」の違いを感じざるを得なかったが、それは大した問題ではなかった。また自分が今聞いている音楽が2~3ヶ月先に発売されるものであるというのも私の心をワクワクさせていた。まあそれだけ田舎者のドシロウトだったという事だ。今とは似ても似つかぬ当時の自分の写真を見ればそれも納得出来る感じだ。

大学時代_S.jpg


なんちゅう髪型だったのか・・と今にして思う。
(当時通っていた大学にて)


*******************

(スタジオ・ミュージシャンの経済学) 

スタジオ・ミュージシャンは、事務所に所属していたり、自営(個人マネージメント)していたりとビジネス運営形態は様々だが、事務所所属の場合、事務所側が手数料として売上の20%程度を控除する。事務所はこれを元でにミュージシャンに担当マネージャーをつけたり、楽器運搬のサポートをする。
仮に1人で年間売上1,500万円のミュージシャンが居たと仮定した場合、手数料が20%としても300万円が事務所に控除される訳なのだが、事務所側としては、このミュージシャンに専属のマネージャー1名を常駐でつけたら赤字になる。社員の場合、給与の他に社会保険費や事務所管理費などが加わるからだ。これに加えてローディー(楽器管理者)をつけると全く採算が合わない。
そのため通常それぞれのスタジオ・ミュージシャンには専属のマネージャーはつけられず、大抵は数名を囲い込んでマネージメントする必要がある。さらに事務所のビジネスモデルとして売上の規模を追うためには、契約ミュージシャン数を増やすしか方法しかなく、従量労働型のビジネスモデルである以上規模の拡大に限界があるため、通常は音楽出版や、タレント、レコード契約ミュージシャンなどの複数のビジネスを抱える必要に迫られる。

スタジオ・ミュージシャン側から見ると、結構な手数料を取られる割には自分の身の回りが余り楽にならないと感じるかもしれない。それは前述したように、彼等の一人一人の売上規模がビジネス運営上から見ると手数(人出)を掛けるられる程大きくないことが原因だ。そのため採算性の問題からミュージシャンの人数を束ねる必要がある。実際、1部上場企業だと1社員辺りの売上を1億円と設定する。その位の規模にならないと人的管理者を置くのはなかなか困難だということになるだろう。

スタジオ・ミュージシャン側からすると、自身の能力を超えるような、事務所のパワーによる仕事の獲得がない場合、概ね自営する方がメリットを感じ易いだろう。ミュージシャン側は手数料を支払っている事から、出来るだけ様々な待遇や経費面の負担を事務所側にさせたがるものだ。しかし事務所側はスタッフの人件費や事務所の維持管理費などの固定費以上の負担を嫌うため、手数料が何の対価になっているかについて双方の解釈の齟齬が生じる場合が出る。

実際、年間1,500~2500万円程度の売上のミュージシャンであれば自営にしていた方が利ざやのメリットが高い。事務処理やボーヤを個人で雇用するなどの直接負担はあるが、大抵のミュージシャンには恋人や結婚して家族いるため、事務処理程度ならそうした人材を利用すれば効率的な内製化が可能である。ボーヤへの出費も事務所への手数料を考えれば経費範囲だろう。
いわゆるマネージメントと言っても、スケジュールの調整と請求書の発行と入金の確認程度だからだ。契約書のやり取りをしなければならないような煩雑な業務はかなり稀な方だろう。
もちろん仕事の種類によっては多少の先方との交渉もあるだろうが、実際にやってみれば自分たちでこなせないほどでもないだろう。ミュージシャンは音楽に専念すべきという考え方もあるが、ビジネスを成立させなければならない以上、その理屈は余り説得力はない。

ミュージシャン1名の売り上げが5000万~1億円となると仕事量や質が異なるため、マネージメント事務所との契約を考えても良いが、この規模でも内製化が可能のレベルだ。ただ平均的に1億円の売上を超えるレベルになると、自前でスタッフを雇って会社化するか、外部のマネージメントを必要とするだろう。少なくともこのクラスの売上をするミュージシャンは、スタジオミュージシャンとしてだけでなく、ライブや他の活動でも売上があり、活動範囲が大きくなるため工数がかかる。

サラリーマンなら、「会社の売上÷社員数=1億円」が会社として必要な売上規模と言われているから、これはミュージシャンにも当てはまる。
いずれにしても人を雇うには、人的物的な維持費を超えるだけの稼ぎが必要で、それに対応できる能力を磨く必要もある。
よくプロ野球選手に対して野球バカという表現があるが、音楽バカでは現代のような時代を生き抜くのは難しい。少なくとも自分の仕事に関連する税務、経理、ビジネス契約、ビジネス環境に最低限度精通する必要はあるだろう。
山下達郎氏などはそれに早くから気がついて、音楽だけでなく音楽ビジネスの仕組みを理解して早期に活用を始めた人物だろう。
それに音楽クリエイトの能力があればまさに鬼に金棒だし、実際にそういうクリエイターも少なくない。
80年代前半で、トップスタジオミュージシャン&アレンジャーと言われていたのは以下の方々だろうか。全員書けないし、記憶による記載なので表記違いや名前の漏れがあったら予めお詫びする。


(敬称略で順不同)


ギター:大村憲司、今剛、松原正樹、鈴木茂、鳥山雄司など
ベース:高水健司、富倉安生、後藤次利、伊藤広規など
キーボード:難波弘之、中村哲、佐藤準、今井裕、小林武史など
ドラム:村上(PONTA)秀一、青山純、山木秀夫、林立夫など
パーカッション:ペッカー、斎藤ノブ、浜口茂外他など
シンセプログラマー:松武秀樹、藤井丈司、遠山淳、迫田到、ハンマー軍団など

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1983年 ローディー時代の景色 Part-5 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

初めて遭遇した坂本龍一氏:
 

 後年一緒に仕事をすることになる坂本龍一氏(以後「教授」と呼ばせて頂きます)を初めて見たのは銀座にあるONKIOスタジオビル5階にある第2スタジオだった。当時教授はこのスタジオをホームグラウンドにしていた。当時このスタジオには名だたるミュージシャンや歌手のレコーディングが行われていた。ユーミンの80年代全盛期もそうだし、山下達郎さん、竹内まりやさんなども時折使っており、故・大村雅明さんというアレンジャーも松田聖子さんなどをやっていた。

私の淡い記憶では、この時の仕事は、大貫妙子さんのアルバム・レコーディングに大村憲司さんがギターダビングで呼ばれたというシチュエーションだったろう。当時の教授は
34歳。YMO後期作品の作業や、戦場のメリークリスマスの音楽作業などをやっていた時代だ。大貫妙子さんは、1975年に大瀧詠一氏のナイアガラ・レーベルからデビューした山下達郎氏が率いる伝説のバンド「SUGAR BABE」にヴォーカリストとして在籍し、解散後ソロに転身していた方だ。
教授と大貫さんはこの時代からミュージシャンとして親交があった。(当時の教授は、バンカラ風な井出たちで髪の毛も女性のような長い髪だった)


このONKIO HAUSスタジオには、楽器搬入用の別ルートがなく、ONKIOビルの駐車場からビルに通じる狭い通路を通って、1Fのホールに楽器を一旦集めて上階のスタジオに搬入する方法しかなかった。
関係者通路と楽器搬入のための通用門が駐車場からの細い1本道しかなく、加えて傾斜もあっておまけに非常に狭かったために、楽器搬入をする人間にはすこぶる評判が悪かった。
また一般客と楽器搬入のエレベーターが共用だったので、楽器搬入で関係者を待たせる事が頻発し、使い勝手が悪く、この点においても楽器を扱う人間からはも一般の録音関係者からも評判が悪かった。でも音質や機材、スタッフは一流だったので仕方ない。

エレベーターに乗せた楽器を5階の第2スタジオの入り口に運んで行くと、スタジオの扉が開いていたので、スタジオ内にいた教授の背中と横顔が見えた。SSLのコンソールを操って制作中の音楽を立ち姿でモニターしていた。
私は彼を間近で見るのは初めてだったが、当時の印象は、男ですら惚れ惚れする程カッコ良かったという記憶がある。
SSLのコンソールに陣取って作業をしている彼の姿には後光が差して見えたものだ。時代を作っている一線級のミュージシャンとは当時の私にとって神のように眩しい人たちだった。

私は奥のブース内で憲司さんの楽器をセッティングしながら、コントロールルームとを隔てるガラス越しに初めて見える教授の姿をチラチラ見ながら作業をしていた。コントロールルーム内では、到着した憲司さんと教授が笑顔で話しをしている姿が見えていた。この時大貫さんがいたかどうかは記憶が薄いが、同じセッションの別曲の仕事で呼ばれた事があった際に、大貫さんがスタジオにいたのはハッキリ記憶している。
(教授がLINN DRUMというデジタルサウンドのドラムで遊んでいるのを大貫さんが笑いながら見ていたのを覚えているからだ)

私は、楽器セッティングし終えると、コンソール卓前にあったソファーに独り座って一連の作業に聞き耳を立てていた。教授はいつものボソっとした話し方で憲司さんと会話をしており、スタジオ内の彼らの作業風景はコントロール・ルームとブースを挟んだガラスに映り込むぼんやりとした映像で垣間見る事が出来ただけだった。

しかしこの日は教授がどのような音楽作業をしているのかを生で体験出来る絶好のチャンスだったから心躍っていた。実際、私の目や耳や脳には相当なアドレナリンが出ていたはずだ。

スタジオ内の会話に耳をそばだてていると、作業中の音をプレイバックしながら憲司さんに大雑把な演奏イメージを説明をしていた様子だった。
その後、憲司さんはブースに移動し何度か演奏をし、その演奏を聞き、教授が憲司さんの所まで行き、譜面にスコアーを書いて指示をしながら作業が進むという感じだった。スタジオ内を走りながら憲司さんの指示を出す教授を見て、メディアを通じて見る印象よりもアクティブな人だなと感じた。
当時のギターダビングは数時間程度だったと思うが、当時の私には最先端のプロのサウンド構築の現場を見れるという本当に貴重な経験と体験をした一瞬だった。
 

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 憲司さんと教授の仕事はその後も散発的にあったが、私の中で最も印象的なレコーディングは、当時の教授の奥さんだった矢野顕子さんの「オーエスオーエス」というアルバムに収録されている「おもちゃのチャチャチャ」のレコーディングの時である。

この時の作業もONKIO2スタジオだったと記憶している。何故このセッションをよく記憶しているかと言うと、日本の古典的童謡が、かくも斬新で革新的にアレンジされたというプロフェッショナルの仕事ぶりを見せられたという衝撃があったからだ。

ギターダビングの日だったのでベーシックのオケはある程度出来上がっており、スタジオのモニターから流れる音は、ある程度の全体像が見える程度にまで仕上がっていた。この日教授が憲司さんに要請したのは、リズムギターとブリッジのギターソロだった。特にギターソロは何度かの思考を重ねた後、以下のような感じで録音された。

(1)ギターのメロディーラインは最終的には教授の指示譜面で演奏。

(2)ギターの音色は憲司さんが教授と相談しながら作る。

(3)憲司さんが作った音をベースに、教授の指示でコントロール・ルーム内に設置してあった、教授の機材であるMXRのピッチトランスポーザー(写真)を使ってオクターブ下(だったと思う)を足して録音。

(4)出来上がった音は、ギターシンセとも言うような不思議な音色と世界感を持ったもので、「おもちゃのチャチャチャ」の持つ世界観を反映させたものになった。

MXR PITCH TRANS.jpg

MXR Pitch Transposer

 この日憲司さんと教授は、「おもちゃのチャチャチャ」以外に「ラーメンたべたい」のギターダビングをしたと記憶している。本作も優れた楽曲であり、憲司さんのイントロと16ビートのサイドギターが渋く光っている。この日のレコーディングには矢野さんは居なかったと思う。


「ラーメン食べたい」は、その後のミュージシャンにも影響を与える楽曲となったが、こうした楽曲と演奏、歌唱は、矢野さんの独特な感性でしか生まれないものだと思った。

後日、本アルバムの別の曲で憲司さんが同じスタジオに呼ばれている。曲は「GREENFILEDS」である。この時は、矢野さんがスタジオに居た記憶がある。
レコーディングではこの曲のギターソロと幾つかのダビングをしたように記憶している。特にあのダイナミックなギターソロは、憲司さんのアドリブで、かなり早いタイミングでOKが出てスタジオ内が演奏に湧いたように覚えている。ああいった音が太くて印象的なフレーズは憲司さんのお得意だった。音数少なく印象的な音色のソロを弾くギターリストは少ないが、憲司さんはいつもそういう部分でハイスコアーを出す人だった。スタジオ内もこのソロが出た時、教授と矢野さんから歓声が上がった記憶がある。
この曲のダビングの時点では、最終版で聴く事が出来る、壁のように分厚い山下達郎さんコーラスはまだ入っていなかったと記憶している。達郎さんは1980年以降、自身がヒットアーティストになってからは、他のアーティストのコーラス仕事を引き受ける事が激減したが、矢野さん、教授、竹内まりやさんは別格で、彼らの仕事は受けていた。
近年では嵐、星野源さん位だろう。
 
GREENFILEDS
https://www.youtube.com/watch?v=4vDteEMu6tY

また私はこのレコーディング時に、矢野顕子さんが周囲のスタッフから「姫」と呼ばれていることを知る。何故そう呼ばれていたかの理由は不明であるがとにかく彼女はそう呼ばれていた。ちなみに教授は「殿」とは呼ばれていなかった。

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 当時憲司さんが制作していた彼のソロアルバム「外人天国」に教授がキーボード・ダビングの作業で六ソ(六本木ソニースタジオ/現在は閉鎖、消滅)に来たのは1983年の前半だったろうか。当時の教授の楽器のアシスタントだった金丸君が大量の楽器をBスタに搬入して来た。
Bスタは作りが狭く、私が入る余地が無かったので録音に直接関係のない人間は、外のロビーで待っていたが、時折スタジオの扉が開く度に聞こえて来るダビングされた音の印象は、想像を超えて素晴らしい体験だった。特に「外人天国」1曲目のSLEEP SONGの冒頭は、E-MULATOR-1というサンプラーとPROPHET-5というアナログシンセによって作られた傑作だが、音色の妙が光る仕事で一流のプロの技を見せつけられた一瞬だった。本作のイントロ部分は以下のURL内の「曲目リスト」にある視聴コーナーで聞くことが出来る。
 

(HMV ONLINE) 

http://www.hmv.co.jp/product/detail/1983403


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矢野顕子氏・オーエスオーエス・ツアーにまつわる記憶

 1984年6月に矢野顕子さんの「オーエスオーエス」のLP(当時はまだCDが世に出たばかりで全く主流ではなかった)が発売されるにあたり、オーエスオーエス・ツアーが開催される事になった。本ライブは東京・渋谷公会堂の2回と大阪で1回という計3回だけというレアなものであった。
当時のライブのサポートメンバーは、教授の他に大村憲司氏(Electric Guitar)、高橋幸宏氏(Drums、Vocal)、吉川忠英氏(Acoustic Guitar)、浜口茂外也氏(Percussion)が生で演奏し、同期するテープ上の演奏音源として細野晴臣氏(Bass)、山下達郎氏(Chorus)が参加している。つまりこのライブでは、ステージ上にベース演者がおらずテープ演奏のみであり、こうした試みは日本初であった。加えて教授が使用したモンスターサンプラー「Fairlight CMI」が少なくとも日本で初めてライブステージで使用された事は特筆すべき事だったと思う。今でもライブの一部がYOU TUBEで見る事ができるが、教授が演奏している鍵盤はFairlightのものでまだMIDIが装備されていない時代なので、他のシンセとは同期していない。またその上に載っているのがProphet-5だ。当時教授が使用していたイフェクター類は、Roland SDE2000というデジタルディレイ、Rolandのディメンジョン4、Rolandのフェイザー、MXRのオクターバーが中心だったと思う。

このステージデザインを立花ハジメ氏が担当している。とても美しいステージセットだった。
また、演奏面だけで見ると事実上のYMOが揃っていた訳だが、細野さんはテープ上にいるだけなので、ビジュアル的には2/3YMO+1ということだ。

私は、音楽業界に入って初めてYMOの3名のメンバーが揃っているのを見たのは、ある人物の葬式の控室だった。当時の私は現場仕事が忙しく、彼らの近くで仕事をしていた割には、遂にYMOのライブを生で見る機会がなかった。
その代わりある日、ONKIOのレコーディング終わりで、憲司さんの車に同乗してきた教授が録音中のYMOの制作中の新作のいくつかをカーステで披露してくれた事があり、他の人よりも早く聴く事が出来たというような小さな役得があったが・・・。
時期的には「SERVICE」の音源だったに違いない。

 

 さて本ライブのリハーサルは、東京渋谷区本町にあるLEOミュージック内のリハスタで行われた。(2012年現在LEOミュージックは同じ場所にあるようだ)
渋公が6月19日だったので6月上旬からリハは始まっていたはずだ。今でも忘れられないのは初日である。
スタッフは午前中から楽器のセッティングや音のチェックをしていたはずだ。私は憲司さんと一緒にリハスタに入ったため、楽器のセッティングは最後の方であった。やがて上記のメンバーが集合。スタジオ内に異様な緊張感が走る。特に教授所属のヨロシタ・ミュージックと矢野さん所属のヤノ・ミュージックの関係者の緊張感は空気を伝わるような感じだった。この緊張感を持った空気を文字で言い表すのはかなり難しい。

そして、各メンバーが到着し、それぞれの楽器をチェックする中、憲司さんのアンプから継続的なノイズが出ており中々消すことが出来なかった。
遠因にあったのは、憲司さんの楽器と本人の入りが同時だったため、事前にセッティングされチェックされていた楽器群に比べてリハのスタートまでのギター廻りのチェック時間が殆ど無かった点もある。もうちょっと気を利かせて楽器だけ先に入れてセットし、その後憲司さんを迎えに行けば、ダミーのギターでもチェックは出来ていたが、当時はそこまで仕事がコナレテいなかったのだ。

あれこれやっていたが、中々消えずにいたために、マゴマゴした感じになっていた時、突然教授の怒号が響いた。

「何やってんだよ! 早くヤレよ!」
と言うや否や、ヘッドフォンを外し、前に投げ捨て、ヨロシタの楽器セクションのチーフのF氏の元へ走りだし、胸ぐらを掴んだ。その瞬間リハスタが凍りついた。

F氏は「スイマセン・・」と教授に言うが、教授は「スイマセンじゃないだよ、何でチェックしてないんだよ!」とリハが始まる前に楽器の問題をクリアーしていなかった点を責めた。しかしこの場で言い訳することは出来ない空気だった。スタッフの仕事は、ミュージシャンが入った段階でスムーズにリハが開始できるようにするのがプロとしての義務だからだ。

矢野さんは「ほらあ・・もう・・(怒らせちゃダメじゃない・・)」と不安気な声を出すが、とにもかくにも私を含めた楽器関係者はオロオロした感じで対処に追われる。でも私のような知識も経験もないボンクラはウロウロするばかりで何の役にも立たない。アンプに問題があるのか、他の要因なのかも分からないのだ。

そして楽器スタッフたちは、狼狽えながら、何とかこのノイズの原因が、教授が使用しているフェアライト(FAIRLIGHT CMI)という新しいサンプラー機器が発信する原因不明なデジタルの電子ノイズで、直ぐ隣に座っていた憲司さんのギターのマイクがそのノイズを拾ってアンプで増幅し、音として出していたことを突き止めることが出来た。

それは憲司さんがギターの角度を変えるとノイズのレベルが変化した事で判明したのだ。スタッフは憲司さんに謝りながら場所の移動を促し、その後リハが開始された。私がこのリハで覚えている風景はこれだけである。

当時はまだデジタル機器の黎明期で、スタッフもデジタルの電子ノイズに対して知識も経験もないため、本質的原因を探るのが大変に難しい時代だったこともある。
また日本では誰もFairlightををライブで使った事のない、機材やシステムを先駆けてやっていたのは教授周辺にいるミュージシャンだけだったため、周囲のスタッフは常にこうした革新技術との闘いを強いられていた。多分、広尾にあった輸入代理店のナニワ楽器もこんなことまでユーザーに伝えていなかったんではないだろうか?


だから全ては手探りの時代だったのだ。

 私はこの時に教授が怒ったのを初めて見たのだが、人生でこんなに怒った人を見たことがなかったので肝の竦む思いだった。
でも彼の立場からすれば、プロデューサーとして色々と段取りをしている事が初日からの機材系のトラブルでキチンと音楽的な部分を進行出来ないという事が容認出来なかっただろう事は十分理解出来る。

本来であればそうしたリスクを軽減するために参加しているミュージシャン側の持ち込み楽器を事前に確認にするなどで対応をする方法もあるが、当時は、ミュージシャンの動向を忖度して、スタッフが彼らとの細かい物理的で事務的な調整をするような事が何となく出来ない空気があったのは事実だ。(今でも同じだろうと思うが・・)

これは当時の我々だけでなく他のミュージシャンでも多くみられた傾向だった。ミュージシャンにとって音楽以外の段取りや進行に関わる決め事や打ち合わせは興味を惹かれないのだろう。

しかし正直言うとこういう点はずっと効率的ではないな・・と思っていた。しかし雰囲気的に言える人と言えない人がいるような世界であり、仕方ない。
先ほども書いたが、もう少し私の気が効いていれば、ダミーのギターなどで仮の調整やチェックをしておきリスクを排除する方法もあった。今となっては遅きに失しているが・・・。残念だ。

しかし結果が全てなのがこの世界に限らず、仕事の本来の在り方でもある。いずれにしても初日のこの件でスタッフ全体が一層ふんどしを締めた事は言うまでもなく、その後は大きなトラブルが表面化することはなかった。

実はこのライブ、ライブ全編に渡って8chのマルチ・テープ音と生演奏がシンクロする必要があった。そのためサポートメンバー全員は、ライブ用の特製CUE BOX(確か8ch仕様/ドラムス、Key、ベース、歌、ピアノ、Gtr、Percのモニター音量を別々に設定できる)だったか・・)にヘッドフォンをつけてクリックと実演奏をモニターするという当時としては初の方法を取っていた。いわゆるレコーディングスタジオと同じような環境だ。

矢野さんはサポートメンバーのような方法でヘッドフォンをつける訳に行かず、通常のモニタースピーカーを聞いて演奏をしていたため、テープに記録されているクリック音を聞くことが出来ないため演奏曲の頭を知る方法がなく、矢野さんのピアノの上に視覚的にカウントの進捗が赤い点滅式ライトで分かるような形にしたオリジナル機器が置かれ、それを操作することで解決策とした。

 

さて、東京・渋谷公会堂の本番当日、リハが始まる段階で、矢野さんがピアノ左上に置かれた例の視覚型クリックモニター機についてある要望を出した。彼女曰く「2段に組まれていた赤のライトの8ビートの動きが全て視覚的に見えるのは、出だしのリズムが取りにくい」という点と、「曲が終わった際に機器のリセットを自分でやらなくてはならないのは何とかならないのか?」という2点だった。

いずれももっとな意見だったが、ゲネプロまでにそうした要望が出てなかったため、当日の開演までに時間がなく全ての解決はできなかった。
「8ビート」の問題は8個のインジケーターの内下部に配置されていた4つ分の赤のライトに黒のガムテープ等を使って覆い隠して当面を解決した。見た目が悪くなったので、ご本人はちょっと不満気だったが、処置としては致し方なかった。

「リセット」の問題は、関係者が本番当日ではどうにもならない技術的問題だったので。リハ中にこの指摘があれば、機器的対応をしたのだろうが、本番日では出来ることに限界があった。まあ、彼女の要望ば最もな点もあったので、スタッフ側がもう一歩先を読んでおけば解決出来た問題でもあった。
とにかく、関係者が本人をどうにか説得し、納得してもらったと記憶している。演奏する本人からすると場合によって忘れてしまう可能性があり、また一々自分でリセットするのは煩わしい問題だったことだろうが、当時としてはこれでも最新の方法だった。

リハ後教授は、「ヘッドフォンモニターだから全員の演奏が凄く良く聞こえる」と言っていた記憶がある。セッティングの最終確認をする際に各メンバーのヘッドフォンを何人かで装着して音の確認をしたが、高橋氏のモニターレベル(音量)は鼓膜が破れるかと思う程の凄い音量で、あれで演奏しているのかと思うと大変に驚いた。

東京公演が終わり、大阪に移動する日の直前、私は憲司さんと同行するように言われる。本来は別のステージ・ローディーが憲司さんの対応をするはずだったが、憲司さんの要請で予定が変わったようだ。多分慣れていない人間に自分の機材を触らせるよりは私の方がまだマシだったのだろう。
私は生まれて初めて飛行機に乗って大阪に到着。羽田で見たANA機は眩しく見えた。もちろんライブツアーへの参加も初めてだ。ちょっとした興奮を覚えていたと思う。
楽器関係者からは、私はとにかく憲司さんのセッティングだけをキチンとやって欲しいと言われた。
東京で行ったように楽器関連のセッティングをし、ギターの弦を変え、チューニングをしメンバー入りを待った。そういう意味で私の役割は限定されており、難しい事もなかった。
本番中、私は舞台上手袖のドレープス(カーテン)の脇からメンバーの演奏を垣間見ながらトラブルへの対処準備をしていた。

私の目前では高橋幸宏氏が演奏していたため、常に生音が聞こえていたのだが、この日の高橋氏の演奏は鬼気迫るものがあり、ドラムの事が良く分からなかった当時の私にも「凄い演奏だな・・」と感じるものがあった。
後日聞いた話だが、高橋氏は「今日の演奏で私は思い残す事はありません」と言ったそうなので、きっとそういう事だったのだろう。 


ツアー自体は大きなトラブルもなく終了したが、これだけの労力をかけて3回だけというのは少し勿体無い感じもした。矢野さんの立場では”それだから良いのよ”というかもしれないが、事務所や関係者としては、内容が凄く良かった事もあり、またかなりの経費と労力をかけて行ったライブイベントだったので、もう少し大勢に見せたかったという感慨もあったと推察する。実際、脇で隙間から見ていても素晴らしいライブだったのだ。客として見たかったという感じだ。

またビジネス的には製作原価の償却をして、利益を出したかったというのは経営者側の本音だったのではと思う次第だ。しかし当時のミュージシャンたちはそんな視点で音楽をやっていない。(現代ではそんな幼稚な事を言ってもいられなだろうが・・・)
またこのライブのフロントPAをやったのは普段レコーディングエンジニアをしている飯尾氏だったと思う。

レコーディングのエンジニアリングとライブのエンジニアリングは共通している部分もあれば違う部分もありチャレンジングな人選でもあったと思うが、結果的には良かったようだ。それでもレコーディングエンジニアをライブエンジニアとして使う事は稀だ。特に会館で使用するPA機器は、スタジオとは全く異なるものが多く、スピーカーのチューニングや会館の鳴りの掴み方など、レコーディングエンジニアが普段やらない仕事も多い。
いずれにしてもこのライブは舞台袖から見ていても素晴らしいのがハッキリ分かった。

当時の私には理解出来るはずもない事柄だが、当時、このツアーには事務所の人間も多数関わっており、それらを鑑みると、純粋な意味でコンサートだけで営業利益が出ていたかどかは微妙だろう。当時にしてもミュージシャンの純粋な音楽への意向が強く働くため、特に金にまつわる事を理由に公演回数をこなそうというのはミュージシャンへの説得としては弱かった。
当時のコンサート・ツアーは、LP(当時はアナログ盤しか発売していない時代)の販売宣伝のために行なっているという要素が極めて強く、アーティストもメーカーも、コンサートは宣伝目的という意識も強かったので、こうした経費は、CDを売ることで関連経費を回収するというモデルだったが、 当時としてもそれに見合う結果が得られたかは私が知る由もない。現在であればミュージシャンの実入りの問題も考えて、最低でも10本以上はやっただろうと推察する。
本ライブの単独のDVD版は残念ながら既に絶版になっているが、もし見る機会があれば本当にオススメする。実に素晴らしいパフォーマンスであり演出であった。尚、演奏の一部はYOU TUBEで見ることが出来るようなので参考にして欲しい。

(オーエスオーエスライブ)

http://www.youtube.com/watch?v=ynU8RWz9Qxc

オーエスオーエスライブ1984 [DVD]


 






参考:フェアライト(FAIRLIGHT CMI)について

教授の手元に届いたのはおそらく1983年から84年にかけてだったろう。フェアライト(FAIRLIGHT CMI)についてはその後私自身も使用者の一人になるので詳細は今後書こうと思うが、教授が1984年10月に発売した「音楽図鑑」は、本機の存在が大きく貢献している。
当時の価格で1500万円という高価なサンプラー機器で、CPUは8ビット(任天堂に初期のファミコンと同じ)、8インチの1DDディスクに記録出来たサンプル時間は約10-11秒程度だった。オーエスオーエスの3回のライブにおいて教授がステージ上で演奏していたのは基本的に本機である。
多分日本のライブ演奏で本機を実際に使用したのは教授が初めてだったろう。
当時は本機にはMIDIが装着されておらず(1985年になって実現)、本機から他のシンセをコントロールすることは出来なかった。ライブ時の教授は、本機専用の白い専用キーボードを演奏していたと記憶している。この白い専用キーボードは本当の大きく重い代物だった。鍵盤も通常のキーボードよりも重めだった。

現在本機の生産は中止されているが、2011年にアニバーサリーバージョンが受注生産で発売されたと記憶している。現在ではiアプリとして本機の音を楽しめるらしい。らしい時代になったもんである。音楽図鑑は、本機が存在していなければ完成していなかったと思う。そういう意味で、フェアライトを存分に使った世界でも最初のアルバムと言えよう。


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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-4 (再改訂版) [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:生活問題編

大村憲司セット1983-2.jpg


上図は1983年3月当時の大村憲司氏のギター・セッティング図だ。実はその後このシステムは83年中盤以降もう少し改善されるが、改定されたバージョンは下の写真だ。写真は接続等の情報保存のために当時撮影したものだ。
残念ながらブラックボックス内は、専門家による配線等が処理されており、どんなシステムかを図解出来る能力がなく悪しからずだ。



1983年3月当時に使用していた信号分岐ボックスは、ROLAND製の青い色のものだったが製品型番は忘れた。今にして思うとあの分岐ボックスは音質に対して良い影響を与えていなかったと思うが、当時は全く知識がないのでそんな心配も対応もして上げられなかった。
ヴォリューム・ペダルも製品型番を失念した。
ギターアンプはこの型番で合っている。
引継ぎ当時は何の事やらさっぱりだったが、今にして思うとシンプルな配線だと分かる。一時期憲司さんがアンプの左右のバランスをかなり気にする時期があったが、事務所でこうした点に詳しい人間にも解明ができなかった。きっと憲司さんにしか分からないほど微妙な違和感だったのかもしれない。

いずれにしても、私の能力では各機器の本当の中身に関して100%把握する能力はなかった。
機材についてちょっとコメントすると、ROLANDのSDE-2000は国産初のデジタルディレイだ。それ以前はアナログ・ディレイ(YAMAHA製品)しかなく、遅延時間を任意に設定できなかったので、このディレイマシンの登場は革命的で大幅な進歩だった。
この機械では1mm sec単位で遅延時間の設定が出来た。またROLAND 320 DEMENSION-Dは、アナログ回路で作られたコーラスイフェクターだ。4つのモードを持っていてモードの組み合わせが可能だった。2012年にまでなるとアプリになってしまったが・・・。

EFFECTORS_S.JPG 


1983年後半~1984年にかけてアップデートしたイフェクター類。
各イフェクターの接続組み合わせをスイッチングによって出来るように改造。
また右下の「DELAY&CHORUS」のスイッチは、
ROLANDのSDE-2000とDEMENSIONのON&OFFに対応したもの。

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 レコーディング時の仕事と言えば、レコーディング前に楽器セッティングをし、ミュージシャンの周辺関係を仕事のしやすいようにする事や、ギター担当なら弦の交換(憲司さんはスーパースリンキーだった)、またミュージシャンのタバコ(憲司さんはセーラムライトのメンソールだった)を買いに行ったり、食事の際にお茶を出したりといった程度である。指示があれば、楽器のメインテナンスを外部業者に出すためのお使いも含まれる。ミュージシャンにOFF(休み)がある場合、コンサートなどを見る場合などは会場まで送ったりすることもある。
業務時間は昼前~深夜もしくは早朝にかけてで、スタジオ業務が終わり、ミュージシャンを安全に自宅まで送り届けるまでが1日の仕事である。

ローディー仲間の殆どは当時月給
5~6万円程度で雇われていたと記憶している。こうした同僚(?)で共通して困っていたのが「風呂」と「食事」の問題だ。
当時私は風呂付きの家に住んでおらず、また労働が深夜に及ぶのに加えて肉体労働であったため夏なんかは汗をかくために非常に困った。
今の人には信じられないだろうが、当時の私の家には個人電話がなく大家さんからの取次だった。またクーラーなんていう文明の利器などは一般的な賃貸アパートには常設されていない時代だった。そういう意味で、風呂なしの私の家は、特に夏場辛い訳なのだ。

現在は無くなってしまったのだが、渋谷の神泉町交差点近くで、現在の株式会社YUSEN(有線)の本社ビルがある辺りに深夜1230までやっている風呂屋があったが、仕事柄、この風呂屋の閉店時間にさえ間に合わない事が多く「風呂」の問題は大きな生活上・精神上の問題となっていた。
解決方法としては自宅の流し台でお湯を沸かして体を拭く程度で済ますか、近所に住んでいる風呂付の友人宅にお願いする方法しかなく、今考えるとよくこの環境で仕事が続いたと思う。若かったんだなあ・・という感じだ。
それだけ音楽業界での生活を続けることへの意思が強かったのだろう。ちなみにドラマーの故・青山純さんのローディーは、彼の自宅の風呂を借りて汗を流す事が出来ていたそうなので、ローディーの境遇としてはかなり親切にされていたようだ。


 次に大きかった問題は「食事」だった。
これまた今の若い人にはちょっと考えられないだろうが、
1983年当時、まだコンビニという便利な代物が東京都内に一般的にはない時代だった。(セブンイレブンは開業していたが都内でもかなり遠隔地的なところだった。
当然だが、当時は携帯もネットもないし、Eメールは専用の高額端末のみでしか送受信出来なかった。
また日常の職場が六本木という、当時の私のような低所得層の人間が毎日の食事をするには余りにもかけ離れた土地柄だったことが生活を維持するのに重くのしかかった。


通常昼メシは自衛のために自宅で米を炊いてオニギリなんかを作って出かけていたが、夏の場合、夕食を作って持参しても食事時まで品質が持たない事がままあった。

今でも忘れられないエピソードがある。六ソで19時からのセッションのセッティングが終わったが、機材トラブルが多発してなかなか夕食を取る事が出来ず、そのため食べる頃になって取り出した夕食の弁当が腐ってしまっていたために、残念ながら泣く泣くスタジオのゴミ箱に捨てた事があった。当然その日は夕食抜きになった。

それを見て「何やってんだ・・」とつぶやき、馬鹿にしたような薄笑いして私を見たある人物、そう、マネージャーのT氏の顔は今でも忘れられない。
食い物の恨みは本当に恐ろしいものというがその通りだと思う。
それ以来私は、その教訓を生かして金の無い若者には自分の出来うる範囲の中で奢るようにしている。
食い物で恨みを買わない方がいい。
一生記憶に残る。
私にはその位印象が強い出来事だった。
あのシーンは今でも脳裏に焼き付いている。本来は誰のせいでもないのだが、食い物にまつわる悲しい記憶は永遠と残るものだ。

当時の六ソに常設してあった配達可能なメニューは、一番安いメニューでも「焼き鳥弁当」
850円だった。確か「鳥源」という店だっただろうか。
今でも存在するこの店のメニューをこの年齢(50歳過ぎ)になって改めて見ると、結構リーズナブルに見えるが、当時の私には全く手が届く感じがしなかった。
またこの弁当は
20代前半の私の腹を満たしてくれるような量ではなく、ご飯の量は食べざかりの私には余りにも僅かな感じであり、殆ど飲み屋の締め程度のような代物だった。

当時の六本木界隈できちんとした夕食にありつくためには
1,200円以上(2010年代に直すと2000円以上の感じ)を払わないと賄えず、六ソでの夕食対応は常に頭痛の種だった。
スタジオには店屋物のメニューが常設されているが、特に驚いたのでは麻布十番の登龍という中華料理屋で、当時、普通のラーメンが1杯で
1,200円だったことだろう。(現在は1,800円) 
田舎者の私には想像もつかない金額だった。いつかリベンジで食べに行きたいレストランでもあるが、今でも1800円のラーメンは躊躇する代物だが、別に今更醤油ラーメンを1800円出して食べたいとは思わなくなった。どうせ場所代がコストに厚くのっているだけで中身が良くなっている訳でもなさそうだからだ。

登龍麻布十番店
 

 通常ミュージシャンたちは夕食には出前の弁当などを頼んでいたが、11,0001,500円が当たり前で、1日で1,000円の食費・生活予算しかない私には高値の華であった。
毎日彼らにお茶を出しながら彼らの食事を羨ましく感じたものである。未だにその記憶があるというのは、前述したように食い物の記憶の恐ろしさを如実に表しているのかもしれない。

現在の自分の夕食が
1食当たり1,000円を超える事はザラになったが、毎食その値段を支払う時、当時の事を思い出し、仕事や地位の違いもあるが、当時と隔世の感があるなあ・・とサメザメと思ったりするのである。ありがたいことである。

加えて当時の私の経済レベルでは、スタジオの自販機の100円で売っていた缶コーヒー(確かUCCだった)すら1日の何時の時点で買うべきかを本気で悩んでさえいた。これは周囲のローディー連中に共通していた悩みだ。当時の私の収入では11本が購入限度だった。

UCC.jpg


昼の搬入&セッティング直後にコーヒーを買って飲むと夜は買えなくなってしまう。搬入後は喉も乾いていて飲みたいが、我慢をしてスタジオの洗面所の水をがぶ飲みして凌いでいた記憶がある。
現代ならコンビニやファーストフードの充実で対処方法も様々だろうが、当時は本当に困っていた。
他人がこれを読むとどんだけ貧乏なんだと思うかもしれないし、人によっては給料の批判をしているのか??と取るかもしれない。
でも給料に不満を持った事は全然無かった。だいたい私はボーヤの中では結構もらっていた方だったのだ。

また、これを見て、凄いストイックだと感じる人もいるだろう。
当時は確かに生活がキツかったが、不思議の悲観的な思いで毎日を過ごしていた訳ではなったし、結構明るい毎日だった。
「夢を持つ」という麻薬はそれだけ強かったのだろうし、周囲のボーヤ連中も似た様な境遇であるか、私より苦労していたので相対的に平気だったとも言える。それでも50過ぎた今でも時折缶コーヒを買う際に当時の記憶がフラッシュバックする。

私が憲司さん宅に迎えに行くと、駐車場で待っている時間が長い時など奥様がコーヒーの差し入れをして頂くなどの気を使った頂いていた。こうした例は頻繁にあった訳ではないが、今でも心に染みて有難い記憶でございます。



(参考資料)

1983
年当時の家計簿:祖師谷大蔵3丁目に住んでいた時の私の経済状況:

月収入(税込):
7万円

---------

支出:アパート代25.000
食費:30.000円(1日1,000円見当)
光熱費(電気・ガス・水道):4.000
電話:なし(大家さんの取次ぎ)→今時の人にはこれが全然理解出来ないらしいが・・。
風呂代等:4.000円位(180×日数)
ローン(TEAC4chのテープレコーダー):月額7.000円×男の36回払いを返済中。
お小遣いもしくは貯金:殆どなし(貯金は五万円も無かっただろう)

支出総額:7万円(つまり全額支出)

-------------


 ちなみに厚生労働省の公表値による1983年の平均的なサラリーマンの年収は3,380,900円とある。当時の大学卒者の平均月収は132,200円。私の当時の月収は同じ大卒者平均の52%程度だったということだ。
2016年のレベルで比較すると学卒者の平均月収は202,900円らしいので、現代に換算すると105,500円位ということだ。年収計算でも126万円程度だから、現代においても完全な低所得者層だ。

誤解のなきように書いておきたいのだが、当時の私がもらっていた給与に不満をぶつけるために書いてい
るのではない。私はこの環境を自分で選択して仕事をしていたし、この条件で仕事を引き受けてもいた。
また、当時の自分が特に低所得者層だとも認識していなかった。月額7万円は学生時代の仕送りと同程度だったし、学生時代と同じ程度ならそれなりに生活することが出来たからだ。

また幸いなことに、携帯電話もネットもない時代だった。今の時代だったら悩ましい部分が多いかもしれない。
実際私の自宅には固定電話すらもなかった。部屋にはトイレだけはあるが、風呂はない。金銭的には豊かではなかったが、経済面を理由に精神的に追い詰められていた事は一度もない。

それでも今にして思えばよく耐えてたなー!!と思う。

でも当時の自分にはこれが普通だったし、私の友人たちもこれに毛の生えた程度だったというのも事実だ。

だた貯蓄はままならず、六本木のスタジオでの仕事の際の夕食問題は私にとって大変な悩みのタネだった。それでも若さ故なのか夢を見ていたからだろうが、必死に毎日を生きていたように思う。

私が世間並に近く収入を得られるようになったのは、20代後半のヨロシタミュージックで働くようになってからだった。(それでも同年代平均よりは下の収入だったが・・・)。
長時間労働だったこともあり、当時の金額で月額15~17万円近くもらっていた。元々月7万円の生活しかしていなかったため、当時の私にとって15万円というのは収入が二倍になったことを意味し、途方もない高給をもらっている感じで生きていた。
そのお蔭で26歳になってやっと風呂付のアパートに引っ越せた。(世田谷区宮坂三丁目)。

お風呂が付いてあんなにうれしい事はなかったな・・・。冬のボーナスが出た時は、ビクターのS-VHSビデオデッキも買ったのだが、あれは27歳頃だったかな?(そのデッキはまだ家にある)。
私はこの頃になってようやく多少の支出を楽しむ事が出来るようになったのだ。
20代前半にはとても考えられない事だった。

ボーヤ時代の一番の出費は、デモテープを作るために買った
TEAC製のマルチテープレコーダー(4チャンネル録音できる代物)の36回ローンだったが、このために月のお小遣いなんかも全くなかった。それ故にCD(レコード)とかも殆ど買えたという記憶がないし、コンサートにもなかなか行けなかった。
(山下達郎さんだけはツアーだけは毎回金を工面して行っていた)
加えて女もいないし一体全体何が楽しかったんだろうねぇと思う程である。

50歳後半になった現在、幸いな事に平均所得よりも随分と稼げるようになった事で多少取り戻した感はあるが、それでも20代~40代初頭までの総収入は、同年代の平均以下だった。
これまでのトータル収入で考えると、金銭的には中の上位で終わりそうだが、夢に向かった事に対しては後悔はない。むしろやらなかったとしたら未だにモヤモヤしていたに違いない。


さてボーヤ時代に戻ろう。

2019年3月28日、ショーケンこと萩原健一氏が逝去した。68歳だった。
この報道でフト記憶が蘇ったのだが、
私は一度だけだが
六ソでショーケンに遭遇したことがある。
まだボーヤを始めて数か月程度だったと思う。
ある日の午後、私は入口のエレベータに近いソファに私は座っていた。
直ぐそばにあったエレベータの扉が開き、出て来たのはショーケンさんだった。
一人だけで来ていた様子で、スタジオのロビーで自分の入るスタジオを確認するため、
ちょっとキョロキョロしていた。
グレー系のスリーピースを来てネクタイをしていたのを記憶している。
私は憧れのショーケンさんが目の前に居るのと、
場所が判らない様子で困っていた感じだったので、ソファーから立った。
すると彼は、突然私の方に来て、直立不動から姿勢を前方45度にして、
「あの、大変スイマセンが、トイレはどちらになりますでしょうか?」と
あの例のちょっと掠れた声のトーンで聴いてきたのだ。

ドキドキした。

 

私は「そこの階段を上って右手にございます」と答えると、
「あちらですね」と右手で指し示して歩いて行った。

あんなにカッコイイ男性を見た事が無かったので、
流石に違うなあ・・と感心していた。

私にとってのショーケンさん体験はこれだけだ。
元々ザ・テンプターズのボーカリストとしてデビューし、
音楽畑から俳優畑に転身後、太陽にほえろ、傷だらけの天使で名俳優を確立した。
私とは時代の中の袖擦り合う程度の縁だった。

会った時期を考えると、1983年11月に発売された「もう一度抱いて c/wセクシー・ロンリー・ナイト」というシングル盤の歌入れだったのだろうと推察している。

改めてご冥福をお祈りいたします。

さて、私はスタジオの仕事中、私は待機中殆ど楽器の練習をした事がなかった。その理由は初めてのレコーディング現場で見たレコーディングセッションの際に集まったスタジオミュージシャン達の演奏を目の当たりにした瞬間、自分の実力ではとってもプロになれないなと思い知らされた。彼らの演奏能力や音楽の知識はそれまで自分が生きてきて見た中で群を抜いていたのだ。

コード進行とちょっとしたキメのフレーズしか書いてないような譜面を見ながら彼らの引き出しから出される音は、当時の私の想像を越えていたのであった。それほど私にはショッキングな出来事であった。ミュージシャンを目指すための近道として選んだローディーという職業は、逆に私をミュージシャンという夢から遠ざけて行ったのだ。それでもなんとか音楽業界で生きて行きたいという夢は消えた訳では無かった。

TEAC 244_S.JPG

当時の私としての最大の買い物TEAC-244(4chレコーダー)
これで沢山デモを作ったもんだ。
しかし1曲もヒットしなかった(泣・笑)



《当時のスケジュール》

 

以下は私のスケジュール関連を書きとめた日誌の記録に基づく当時の仕事の内容である。記録は19832月から始まっている。2月は見習いのため無給で引継ぎのみ。3月~正式採用)。
尚、私の手元に残っていたスケジュールは、憲司さんの外出が伴うものだけなので、憲司さんが自宅等とアレンジや曲書きをする部分は含まれていないのでご了承ください。


 

1983年2月:

22日:
大学時代の友人、故・佐藤千恵さんと武道館にクリストファー・クロスの初来日ライブを見に行く。良いライブだった。

(佐藤千恵さんは1988年3月に逝去した。28歳だった。)


2
16日:大村氏のローディーが決まる。マネージャーのT氏の簡単な面接後、夕方憲司さんの面接がある。場所は六本木ソニースタジオのロビー。


2
17日:12時~18時、六本木ソニースタジオ、スタジオ業務内容不明。東京は大雪注意報が発令。


2
18日:12時~18時、六本木ソニーSt、憲司さんのソロ・アルバム(外人天国)作業。


2
19日:PACO(ギター販売店)と松下工房(ギターリペアー会社)を廻る。松下工房は現在でも原宿に仕事場を構えている。


2
21日:12時~19時、六本木ソニーSt(A)、石川セリさんの録音。


2
22日:12時~1830分、六本木ソニーSt(A)、石川セリさんの録音。


2
23日:12時~18時、六本木ソニーSt(A)、石川セリさんの録音。オフコースの松尾氏の楽曲でのレコーディング。


2
25日:12時~18時、六本木ソニーSt(B)、憲司さんのソロAL作業。19時~23時は(Ast)に移動。石川セリさんの録音。


2
26日:憲司さんの車を私自身で運転し、都内のスタジオの場所を確認作業。


2
28日:12時~18時、六本木ソニーSt(B)、憲司さんのソロAL作業。19時~26時、テイチクスタジオにて石川セリさん録音。
楽器車が駐車違反のキップを切られる。駐在所の警官に職業を尋ねられてローディーだと答えると、もっとまともな仕事をしなさいと余分な事を言われ、私は本気でブチ切れた。
「俺はキチンと仕事をしている! お前に言われる筋合いではない!」と警官相手に激怒する。当時の官憲はこのレベルだったと思う。
この日の帰宅は朝
5時。


1983年3月:


31日:休み。一人で稲村ヶ崎に出かける。50歳を過ぎた2011年になっても同じような行動しているので笑ってしまう。

32日:14時~18時、ポリドール(目黒区池尻)で石川セリさんの録音。19時~24時、六本木ソニーSt(A)にて大江千里氏のデビューアルバムの録音。この日は歌入れ。大江千里氏は現在JAZZピアニストで活動中と聞いている。彼も色々苦労しているのだろう。

さて、当時のポリドールのスタジオは目黒川沿いの池尻近くにあった。レコード会社の本社ビルの地下がスタジオとなっていたのだ。
ユニバーサルとの合併による青山1丁目への移転まではここにあった。私が敬愛する井上陽水さんの初期の傑作は全てここで制作されている。残念だが現在は跡形もない。
結果的にこのポリドール・スタジオでの最後の仕事は、2001年、「千と千尋の神隠し」や北野武監督関連のサントラのベスト盤(KITANO BEST)の制作だった。歴史的な音楽を作ってきた場所の消滅は寂しいものだ。実は「KITANO BEST
」のポリドールでのマスタリング作業は余りいい思い出として記憶されていない。この話は18年を過ぎた時点でもまだホット過ぎるから書けない。

私にとっては音楽業界の経歴としては終盤に関わった作品だが、
作業の進め方のコミュニケーションが久石氏との間で非常に難しい時期で混乱も多く、労多くして…という感じだった。
1つだけ個人的なエピソードを上げれば、あのCDのジャケットのアイデアは実は私である。デザイナーが当初持ち込んだアイデアは、全て久石氏に却下され担当として私は困り果てていた。そこで私が、コピー紙に油性ペンで2人の顔を半分づつ並べた絵を書いてデザイナーに「こんな感じでまとめてみらた?」と渡し、それをデザイナーがやったようにデザイン画を書き直してもら再度久石氏に提案したらそのままOKになったという訳だ。
この案を思いついたのは別に難しい話ではなく、KITANO BESTのサブタイトルはJoe Hisaishi meets Kitano Filmsだったから。2巨匠が出会っている作品として2人の顔出しは必然だった。
またジャケットは顔ほどユーザーに訴えるものはないことを私は知っていたからだ2人の顔を半分ずつ並べてみたということだ。
久石氏はこんな裏話について全く知らないが、私は仕事をスムーズに進めたいがためにやっただけで、決まる時はこんなもんなのだ。
このデザインは、顔さえ撮影できればあとはデザイン作業だけで作れてしまうから時間も金も最小限で出来る。
撮影は、天気の良い5月(だったか?)に広尾にある写真スタジオに、北野監督を招いて行われた。興味深かったのは、2人は撮影の待ち時間中、ほとんど会話をしなかったということだろう。
撮影時間は1時間もかからなかったはずだ。

もちろん私の名前でのデザイナークレジットはされてないがこれは事実である。まあ、今となってはどうでもいいことだ。


Joe Hisaishi Meets Kitano Film

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
話はローディー時代に戻る。

33日:19時~24時、六本木ソニーSt(A)にて大江千里氏の歌入れ。当時、ソニーのオーディションを勝ち抜いてデビューが決まっていた彼の姿が眩しく感じたものだ。大江千里氏のディレクターは太田裕美さんの旦那さんの小坂さん。


3
4日:12時~24時、ポリドール(目黒)3stで石川セリさんの録音。深夜130分帰宅。


3
7日:14時~21時、ポリドール(目黒)3stで石川セリさんの録音。


3
8日:15時~1830分、六本木ソニーStにてナチコの録音。1930分~24時、大江千里氏作業。深夜1230分帰宅。


3
9日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)、石川セリさんダビング作業。


3
10日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
11日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
12日:1930分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
14日:15時~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
15日:1830分~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
16日:18時~24時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏の歌入れ。


3
19日:14時~18時信濃町ソニー3Stにて大江千里氏の歌入れ。1930分~24時、六本
木ソニー
St(B)にて大江千里の歌入れ。歌入れの時期は私に具体的な仕事はなく、ただ作業が終わるのをロビーでひたすら待っているという感じだ。本でも読んで知識を貯めるような頭も無かったので、この時間は無駄になったと反省している。 


3
21日:13時~、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏のミックスダウン作業。
山下達郎氏をスタジオで見かける。心の中が興奮するが冷静を装う。


3
22日:13時~、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏にEPOさんのコーラスを入れる。ミックスダウン作業は1830分から。

深夜作業が終わり、マネージャーのT氏に誘われ朝
4時から6時まで西麻布で飲む(私は憲司さんの車で移動しており飲めないので多分T氏に無理やり付き合わされたのだと思う)。
T氏は時折私をタクシー代わりにする事があったので正直辛かった。私をタクシー代わりに使っていたことは、憲司さんには内緒だった。
私の実際の雇用主はT氏(ヨロシタ)ではなく、憲司さんだった。本当は良くない事だ。
しかしヒエラルキー上、私には拒否権が無かったので付き合わざるを得なかった。
この日の帰宅は朝
7時。今考えると音楽業界人の時間感覚の異常な世界であり、これがその最初の兆候であった。今働いている会社で部下にこんな業務体系を強いたら、100%人事から突き上げられ、マネージメントから外されるなと思う。
でも当時は疑問にも思わないで働いていたし、音楽業界に人達は皆このような感じだった。この非日常的な行動様式こそが音楽業界の面白い部分でもあったのも事実なのだ。若かったな・・。


3
23日:13時~、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏のミックスダウン作業。裸のマドモアゼル、バランス、ポセイドンカレンダーの3曲。


3
24日:14時~18時、六本木ソニーSt(B)にて大江千里氏のミックス曲のコピー作業。終了後、六本木の中華飯店にて打ち上げ。参加は大江さん、憲司さん、小坂ディレクター、船橋氏、Tマネージャー、伊藤氏(ソニーのエンジニア)、渡辺氏(ソニーのアシスタントエンジニア)。

二次会は庄屋。当然私は車の運転があり飲めないし、末席で黙って食べていた。当時はそういう立場だったのだ。

(今でも対して変わらないが・・・ 笑)



(つづく)


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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-3 [ボーヤ時代 1983年]

【ローディー生活の開始:1983年2月】 

PITINN.jpg


最近若い層の中に1980年代へのオマージュを示す動きがあると聞いた。
1980年代を20代で過ごした私から言わせればリアルタイムの時代だから、懐かしがられているのは不思議な感覚だが知らない世代にはそうなのかもしれないとも思う。
1980年代の空気を言い現す言葉は中々難しいが、個人的な言葉に集約すれば
「キラキラした時代」だったと表現出来るだろう。
それに反して私の20代は人生でも最も貧乏な時代で(この先老後は分からないが・・)、決してキラキラしていた訳ではない。それでも若いから心の中はウキウキしていたように感じている。

社会の空気、特に音楽業界は「キラキラしていた」というのが私の印象だ。
YMO、山下達郎氏、大瀧詠一氏など、70年代は燻っていた本物のミュージシャンたちのヒット、またコピーライターの出現、芸術文化を押し出した西武グループの仕掛け、シンセサイザーの発展とコンピューターミュージックの出現と定着、マッキントッシュの進化とパソコンの普及でデジタル化を始めた一般人の生活、SONYのWALKMANのヒットなど、明らかに70年代とは違う文化やアイテムが生まれ、それが生活に影響を及ぼした点で総じて80年代はキラキラしていた時代だと言っていいだろうし、実はその原点は70年代の才能群にあったと言って良い。

その根底には高度経済成長後のオイルショックによる経済低迷を乗り切り、
未来に対する希望が人々に通底していたからだろう。
そういう意味で80年代はかなり楽天的で退廃的だったし、その最大のオチがバブル経済とその崩壊だったように思う。

さて、この時代六ソと同じビルの地下にあった老舗ライブハウス
PIT INN。数々の伝説のライブがあったこの場所の前で、この時期の私は殆ど毎日のように店の前で楽器を下ろし、ビル共用のエレベーターで5階のスタジオまで運んでいた。

残念ながらこの歴史的なライブハウスがあったビルは建て替えられてた後、コンビニなどのテナント向けのビルになっている。現在PIT INNの面影は、新しいビルの1Fに当時地階にあった
PIT INNや上階にあったスタジオやオフィスに通じるエレベーターがそのままの位置で更新されている部分だけだ。
私は数あるPIT INNのライブレコーディングの中でも山下達郎さんの「It's a poppin' time」というアルバムが一番好きだ。


実はここで見る機会を得たライブはそう多くなく、殆ど仕事絡みでしか来なかった。最後に来たのも90年代中盤だったように思う。
20代前半の当時は金もなく時間も自由じゃかなったからだ。
振り返ると80年代の私は仕事以外のライブを殆ど見る事が出来なかったように思う。

PITINNでの少ないライブ鑑賞の例の中で印象にあるのは、ギターリストの故・杉本喜代志氏ライブでゲストが間寛平氏と山下達郎氏というマニアックなラインナップのライブだった。
杉本喜代志氏はスタジオミュージシャンとしてはファーストジェネレーションとも言える世代の方である。JAZZ畑の職人ギターリストであり、達郎さんのアルバムにも幾つかの作品で登場する人物だ。


(近年の元PIT INN周辺の様子は下段に写真を掲載した)

余談だが、2018年4月から会社の都合によって、私の職場は某大手レコード会社の傘下に入り、私もその会社の社員として転籍になった。
その職場があるのは旧六ソと呼ばれたスタジオがあったビルの近隣だ。
人生はあざなえる縄の如し、人生万事塞翁が馬という言葉があるが、23歳~24歳にかけて毎日のように通った場所の近くに、30年余を経て「戻る」ことになるのだ。
そしてその会社は、22歳の春にアルバイトの応募をして落とされた会社なのだ。何の因果かと思うが、私は意図せずに自分の青春の憧れと志の一部を叶えることになるのだ。しかし今となっては特にそれに対する感慨もないのだが・・・。


さて、話を戻そう。音楽業界で、特にレコーディングスタジオを中心とした制作現場で仕事をするようになってから分かったのであるが、レコーディングの仕事は、主にミュージシャンの予定を中心にして組み立てられる。
従って、例えば3カ月後にエリック・クラプトンが来日すると知っていてもその時期の予定が立たないため、チケットなんて買う事が出来ない。
毎日がそういう状況だったため、皮肉な事に、音楽業界に居た時代、仕事絡みを除いて、特に洋楽のコンサートを見るのは至難の業だった。

音楽業界で働いていた19年間で記憶しているものでも、ポール・マッカートニー、フィル・コリンズ、ネビル・ブラザース、ドクター・ジョン、スティング、ジェネシス、マドンナ(初来日と2016年)、マイケルジャクソン(ソロの初来日)、ジャネット・ジャクソン、ピーター・ゲイブリエル、トレバー・ホーン、マイルス・デイビス&ハービー・ハンコック、ミックジャガー(ソロ)、スティーリー・ダン、シンディー・ローパー、デビッド・ボウイ、リンゴ・スター、ジョージ・ハリスン、ローリング・ストーンズ、クラプトン位で、決して頻繁というレベルではない。日本のアーティストで見ていたのは主に山下達郎さんで、好きだった井上陽水さんのライブは80年代において一度も行くことが出来なかった。
またライブに行ける場合でも、ミュージシャンを絡めて一緒に行くか自分の管轄下でレコーディングやライブなどの予定がない場合しか無理だった。

実際、音楽業界を出てからの方がミュージシャン等に時間を縛られる事が全く無くなったために自由度が増し、数的にも質的にも比べられないほど見る事が出来るようになった。そういう意味では音楽業界から去った40代以降の方が明らかにコンサートに行く時間を確保するストレスが無くなったし、ライブ鑑賞のチャンスが多くなっがのは誠に皮肉な話である。

さて、1983年とはどんな時代だったのか?
ちょっと時事の時系列を振り返り、当時のヒットナンバーのリストを入れておこう。


11 ARPANETIPに切り替わり、インターネット形成をはじめる。
1
9日 自由民主党の中川一郎が札幌のホテルで遺体で発見される。
1
31日 連続強盗殺人犯勝田清孝逮捕。
2
4日 アメリカの人気兄妹歌手グループ、カーペンターズのヴォーカリスト、カレン・カーペンターが急性心不全(拒食症の影響と思われる)のため死去。32歳だった。このニュースはショックだった。

2
24日 国鉄飯田線において初代湘南電車こと80系電車が運用終了。これに伴い戦後復興の象徴と言われた同電車が国鉄線から完全に引退した。
3
8日 ロナルド・レーガン米大統領が一般教書演説中に悪の帝国発言を行う。
3
28日 沖縄市にてコンサート中の人気歌手・松田聖子に、暴漢が凶器を使い暴行する事件が起こる。
4
4 NHK朝の連続テレビ小説第31作『おしん』放送開始。
4
15日 東京ディズニーランド開園。
5
23日 東京ディズニーランドに500万人目のゲストが来園。
6
13日 戸塚ヨットスクール事件で校長の戸塚宏が逮捕。体罰が問題になった。
7
15日 任天堂が「ファミリーコンピュータ」(ファミコン)を発売。家庭用ゲームはこの時代に始まった。
8
7日 甲斐バンドが、東京新宿副都心都有5号地(現在の東京都庁舎がある場所)で野外コンサート-THE BIG GIGを開催。3万人を集める。

8
21日 フィリピンのベニグノ・アキノ元上院議員暗殺。

9
1日 大韓航空機撃墜事件。乗員・乗客269人全員死亡の惨事に。スパイ映画のような話だったが現実に起きた事に驚愕した。この年に起きた最も衝撃的事件だったろう。今のこの事件が起きてアメリカ機だったら、トランプは戦争を仕掛けるかもしれない。

9
25日 日本テレビ系のオーディション番組「スター誕生!」終了。一時代の終了だ。
10
3日 三宅島大噴火。
10
9日 ラングーン事件。
10
12日 ロッキード事件の裁判の第一審で、田中角栄元首相に懲役4年、追徴金5億円の有罪判決。
11
9日 ロナルド・レーガンアメリカ合衆国大統領が来日。
12
27日 第2次中曽根内閣発足。新自由クラブとの連立(-1986722日内閣総辞職まで)。


 

1983年のヒット曲
わらべ「めだかの兄妹」
薬師丸ひろ子「探偵物語/すこしだけやさしく」
杏里「CAT'S EYE」「悲しみがとまらない」
松田聖子「秘密の花園」「天国のキッス」「ガラスの林檎/SWEET MEMORIES」  中森明菜「12の神話」「トワイライト -夕暮れ便り-」「禁区」。歌謡アイドルの最後の良い時代だった。
安全地帯「ワインレッドの心」
TheALFEE「メリーアン」(彼らの初ヒット作)
柏原芳恵「春なのに」「夏模様」「タイニー・メモリー」
YMO
「君に、胸キュン。」
EPO
「う・ふ・ふ・ふ」
岩崎宏美「家路」
上田正樹「悲しい色やね」
山下達郎「高気圧ガール」。時代の先端サウンドを提供していた印象があった。
村下孝蔵「初恋」「踊り子」
欧陽菲菲/やしきたかじん(競作)「ラブ・イズ・オーヴァー」。こういう曲もヒットしてた。
H2O
「想い出がいっぱい」
早見優「夏色のナンシー」「渚のライオン」
RATS&STAR
「め組のひと」。作曲家は後年自殺してしまった・・。
原田知世「時をかける少女」
ヒロシ&キーボー「3年目の浮気」
森進一「冬のリヴィエラ」(亡き大瀧さんの作品だ)
松任谷由実「ダンデライオン遅咲きのたんぽぽ」
大川栄策「さざんかの宿」「恋吹雪」
高田みづえ「そんなヒロシに騙されて」。サザンのカバーだが桑田さんは当初知らなかったそうだ。
田原俊彦「さらば夏」「シャワーな気分」「ピエロ」
サザンオールスターズ「ボディ・スペシャルII」。サザンは落ちる事を知らない勢いだった。
原由子「恋は、ご多忙申し上げます」
西城秀樹「ギャランドゥ」。この時の西城さんの腋毛の凄さをギャランドゥと言っていたのはユーミンだった。
2018年5月16日、西城秀樹さんが逝去された。63歳。まだ若いといえる年齢だがお悔やみを申し上げる。

長渕剛「GOOD-BYE 青春」
葛城ユキ「ボヘミアン」
小泉今日子「まっ赤な女の子」「艶姿ナミダ娘」「半分少女」
大橋純子withもんたよしのり「夏女ソニア」
郷ひろみ「素敵にシンデレラ・コンプレックス」「哀しみの黒い瞳」
河合奈保子「ストロー・タッチの恋」「エスカレーション」「UNバランス」
堀ちえみ「さよならの物語」「夏色のダイアリー」
風見慎吾「僕笑っちゃいます」
清水由貴子・小西博之「銀座の雨の物語」
伊武雅刀「子供達を責めないで」。ギャグテクノだったね。
松山千春「Sing a Song
柳ジョージ「ランナウェイ」(1961年・デル・シャノン「悲しき街角」の日本語カヴァー)
尾崎豊「15の夜」


この年は、YMOが散解し、The ALFEEが苦節10年を超えての初ヒットを飛ばした年だった。歌謡曲もまだまだ健在で、ニューミュージックやAOR系と呼ばれるものとマーケットが融合していた時代とも言える。
山下達郎氏の高気圧ガールは化粧品メーカーのタイアップだったが、時代の新しさを象徴するような
サウンドだった。
この曲は六本木ソニースタジオでレコーディング中に部屋からサビの部分が漏れて聞こえてきたことがあったので印象深い記憶があるのだが、キャッチーであるのに、新しいアカペラのアプローチを含んでいて聞いた時は衝撃的だった。
あの楽曲を作っていたのが達郎さんが30歳になったばかりというのを考えてみても、才能のある人間の凄さが分かるというものだ。

さて、個人ミュージシャンのローディーのという仕事とは当時ではいわゆる芸能界的にいう「ボーヤ」と同意義であると言えるが、業界では最下位のポジションだ。ボーヤ業務は、ミュージシャンの仕事やプラベートにまつわる身の回りの面倒を見る仕事が主だ。芸能界で言う「ボーヤ」の語源は「坊や」から由来しているともいう。芸能界には「ボーヤ」から出世してタレントになった方も多い、志村けんさんはその代表格だし、小松夫さんは植木等さんのボーヤからたった4カ月程度でタレントへの道に入り、その後独立した方だが、彼らのボーヤ時代の所得は当然のように低かった。
芸能界だと弟子扱いで働き、無給の人もいたんじゃないだろうか?と思う。

ボーヤは頭脳労働的な部分は少なく、殆ど使用人もしくは小間使いというのが実態だ。それでも小松政夫さんようにクリエイティブなボーヤも数多くいたのだろうが、ミュージシャンのボーヤの場合は余りないと思う。

ボーヤの給料が安いという背景には個人雇いである点と、雇われているミュージシャンの技能を目の当たりにすることが出来るという利点があり、それを理由に給料が安いという部分があったかもしれない。しかし現代から見るとそれは単なる安く雇うための理由づけであるように思えるが、現代でもそういう建付けでローディーを募集している人がいるようだ。ただし現代では労基法がうるさいので最低賃金を切った雇用は法令違反になるため出来ないだろう。

「ボーヤ」家業は、昭和30~40年代の箱バンやGS系バンドのバンドボーイと呼ばれるような職業に似ているかもしれないが、当時のバンドボーイは用心棒も兼ねていたり、将来的にバンドのメンバーになるという夢があったので、80年代のボーヤはそれとはかなり異なる環境だろう。
実際仕事内容そのものは高度ではなく、主人であるミュージシャンの意図や意識にどれだけ応えられるかという部分の方が大きい。ボーヤ上がりでミュージシャンになった人間は皆無ではないが、
80年代はそれ以前よりもかなり減少したと思われる。
2012
年の時点においてこうした職業に従事している人間の数はかなり少なくなったと思うが、東京近郊ではまだ確実に存在している職業だろう。自分でやって思ったが、正直この仕事は人生経験にはなったが、キャリアとしては無に近いものだった。
ここから大きく出世すればまた違ったストーリーもあっただろうが、残念ながら私の人生には過去を美化できるようなスーパースター的な出来事は起こらなかった。

村上ポンタ秀一氏のWEBを見ると門下生募集とあるが、これはやはりボーヤ業務は、プロへの道をスタートさせる修行の一環と考えているのだろうと推察する。


http://www.ponta.bz/ponta-juku.html


 現代におけるミュージシャンの「ローディー」と言えば、いわゆるコンサートなどで活躍するプロの「楽器ローディー」だ。例えば㈱チームアクティブなどが運営しているコンサートステージなどで活躍する楽器専門スタッフであるローディーとは、技術的にも知識的にも私のやっていたローディー業務とは大きく異なる。
彼らは楽器だけでなく電気関係やトラブル等の対処への知識も豊富で精通しており、修理・メインテナンス等や複雑な楽器セッティングのプランなどもできる正真正銘のプロ・ローディー集団だ。
従って彼らは私のようなボーヤ系とは全く異なる職種だ。山下達郎氏のツアー・ロディーがいらっしゃる会社は、SHINOSというブランドでギターアンプの開発・製造出来る能力まであり、あの音にうるさい達郎氏がこれ1台でOKと言わしめるギターアンプを作って販売している。

SHINOS:
http://shinos.biz/index_artist.html


海外のプロのローディーだと、技術に加えてマーシャルのアンプを一人で3台持てる体格勝負のようなヤツがいるというような都市伝説を聞いたこともあるが、その手のローディーは運び屋専門ローディーかもしれない。

ローディー専門会社 チームアクティブ

 

 私のようなミュージシャンの個人雇いのローディーで、都市伝説的な人物と言えばドラマーの村上(ポンタ)秀一氏だろう。彼は数少ないローディー=ボーヤー上がりのミュージシャンで、ボーヤ時代も伝説的に優秀だったらしいが、最終的には師匠よりも売れっ子のドラマーになってしまったというから恐れ入る。それだけに彼は職人肌の筋金入りの人物であり、独特なドラミングとキャラクターは現代でも人気が高い。

当時私が生業にしていたローディーとは、前述のようにミュージシャンの楽器運びやセッティング、身の回りの世話(タバコを常に持っているとか個々のミュージシャンの嗜好によって様々な身の回りの世話ができるようにしておくようなことや食事の用意、その他の諸々雑事)、仕事場(主にレコーディング・スタジオ等)への送迎などが中心業務だった。

また深夜にスタジオが終わり、ミュージシャンたちが六本木の飲み屋で一杯やって帰る時などは、早朝に彼らが帰るまで車の中でひたすら待ったものである。
六本木の飲食街が放つほの暗い照明が入り込む車内で、今のようにスマホで時間を潰す事が出来る時代ではなかったので全くやる事もなく、ただひたすらに夜の街の闇を虚ろに見ながら何時間も待っている間、さすがに
俺って一体何やっているんだろうという感覚があったのは事実だ。
今でも芸能界辺りではそういう光景があるのかもしれないが、ああいう経験の記憶は何となくネガティブに一生付きまとう。
実際この時は、本当に多少だったが自分の置かれた立場の惨めさを感じていた。それ故私は自分の部下や後輩連中にはこうした事を強いた事がない。師匠・弟子のような関係でこうした事がまかり通る古い世界もあるにはあるのだろうが、少なくとも音楽関係で働く人たちには全く不要なものだと今でも思う。

私は基本的に体育会系的で上が下に対して封建的で客観性もなく統率をする事に無批判な人間関係が余り肌に合わない。
昨今起きて問題になっている運動関係者、相撲界などの暴力問題は、こうした無批判な人間関係を上の人間が住みやすさを甘受している世界観に問題があると思う。要するに体育会系的上下関係は上の者にとって理屈抜きで居心地がいいのだ。体育会系の根源は軍隊にあり、体育会系にしている理由は兵士に人殺しを容易にさせるためなのだ。つまり洗脳し上官の命令を確実に実行させることを目的としているやり方なのだ。
一般社会においてこうした事をバカバカしいと感じない方に問題があるだろう。

とは言え年長者をキチンと敬うという精神は世の中を円滑に回すために必要だと信じている。要するに上に立つ人間の思想的・人間的な問題なのだ。

今にして思うと仕事そのものに高度な能力を必要とした業務内容は何一つない。ただ主人に対して気を使い、言われた事をキチンとこなし、目立たず、必要な時に必要な要件をこなせれば当面は十分なのだ。それでも当時の私にとってはそれがメシを食うための手段であり、生きるために必要であり、また自分が選んでで入った場所であり、音楽業界に深く入り込む不器用で唯一の方法だった。

 
 セッション・ミュージシャン(レコーディングスタジオで演奏するミュージシャン)にとってボーヤを雇っているということは一定の仕事量と財力を保持していることを暗示するため、そのミュージシャンの力量を示す象徴的な部分でもあったろう。

彼らの世界で最も望まれる形態は、個人付きの事務所を持つことか、せめてマネージャーを抱え、音楽以外の部分は自分の専属のスタッフに任せるといった感じだろう。
当時の私の仕事環境において、そうした形態を保持していたミュージシャンは坂本龍一氏や山下達郎氏のようなクラスだったということだが、彼らとて最初からそうなった訳ではない。自分の周辺にスタッフを配置するという事は、それだけの売上を確保できているからだ。


 いずれにしても、ミュージシャンで月額固定給のローディーを雇っているスタジオミュージシャンは例外なく「売れっ子」の人達である。当然仕事が切れ目なく入っていなければ固定給でローディーを雇えるはずもないからである。

固定給支払いを避けたいスタジオ・ミュージシャンの場合、音楽学校の生徒に声をかけて、スタジオを見せて勉強させてやるみたいな理由と食事代程度でごまかされる学生バイトが不定期に雇われるケースが多かったのは前述した。


 当時の一線級のスタジオミュージシャンが自分で楽器を運んでいる姿を見せたとしたらそれはある意味で十分な仕事量がないのと同義語でもあったろう。それ故、実力のあるミュージシャンに仕事が集中し、よって彼らは個人でもローディーを雇える訳でなのである。

例外的にパーカッション系のミュージシャンの中には常勤のローディーを雇わない売れっ子がいたが、彼にはコンガと小物程度しか運ぶ楽器がなかったから物量的に不要だったのかもしれない。

当時の経済状況を鑑みても、常勤のローディーを雇えたミューシャンは少なくとも当時の年収で1,000~2
,000万円近くはあったのだろう。当時憲司さんの仕事で一緒だった中村哲氏が仮に1年間休まずにある一定のスタジオ作業をこなしても上限2,500万円の年収程度が限界だ・・とつぶやいていたのを聞いた事がある話は前述したが、それでも月額のローディーを雇用することや移動車両を個人で持つ事は、ミュージシャンにとって相当な経済負担だったとは思う。

後年坂本龍一氏が彼自身を含めたスタジオ・ミュージシャンが狭い世界の中で、ランク争いのように自分の待遇をスタジオで見せつけるような所作にウンザリしたというようなコメントを残していた記憶があるが、超実力社会のセッション・ミュージシャンの世界では無意識ではあったにせよそうした面があったのだろう。


 ローディー仕事はとにかく待ち時間が非常に多い。スタジオの作業にもよるが一度レコーディングがスタートしてしまえば、スタジオ外のロビーでレコーディングの終了まで延々と待つしかなく、それがこの仕事の宿命である。ある意味待っているのが仕事とも言えた。この時間をどのように過ごすかはそれぞれに違う。今振りかえるとちょっと時間の使い方を無駄にしていた部分があったと残念に思っている。

大村氏がアレンジ仕事などを受けていた場合、彼が呼ぶスタジオミュージシャンは概ねメンバーが固定されていたので必然的に彼らのローディー達もとも親しくなっていった。
当時ドラムスは2013年12月3日に残念ながら故人となった青山純氏、山木秀夫氏、村上(ポンタ)秀一氏、ベースは富倉安生氏か高水(大仏)健二氏、キーボード(SAX)は中村哲氏という面々だった。
彼らには一部の人を除き全員個人雇いのローディーがおり、私と同じように身の回りの世話をしていた。一緒に過ごしている時間も長いので自然と彼らと色々な話しをする事になるのだが、多くは私のようにミュージシャンになるための夢を持っており、少しでも実際の現場に近づき仮にチャンスがあったら自分のデモ音源なんかをディレクターに渡して夢の実現を計りたいと考えて連中が殆どだった。

それ故ロビーではみんな楽器の練習をしたり色々な情報を交換している者が多かった。中にはその日の仕事で使っている譜面を見ながらレコーディング中の曲を聞いて演奏をコピーできるか確かめている奴もいたが、私を含め、概ね優れた才能を持ったヤツは居なかったと思う。

実際に彼らの中で音楽業界に一時的にでも残って活躍していた人物は、青山さんのローディーをやっていた米原君だけだったと思う。
彼は1980年代の後半の一時期、平山みきさんのバックでドラムを叩いていたからだ。彼の演奏はその昔六本木の龍土町にあった「インクスティック六本木」での平山みきさんのライブで見た。ある意味で出世頭だったともいえる。
ただ、当時の彼の演奏は正直プロとしてやるにはギリギリの感じだった。ライブを見て気になった点は、
彼はタムを回す時にリズムがキープ出来ない癖があったのでそればかりが気になってしまった。
彼が今何をしているかは不明だが、彼のことだから元気でいるだろう。


昨今、アニメーターの低賃金が話題になっている。彼らの平均年収は110万円程度だそうだ。NHKのクローズアップ現代での特集を見ていると、25歳のアニメーターが、「少なくともこの道は自分の判断で決めてやっているます。好きな仕事なので、出来れば一生やれたらと思ってますが、不安がある事は事実です」と回答していた。
「好きの搾取」と言われるこの現象は、古くは音楽業界だって映画業界だった同じようにあったし、今でもあるのだろう。
私もボーヤをやっていた時代、アニメーター氏と同じ様な考えが根底にあった。
しかし、50歳を過ぎた私が見て来た経験で言えば、現代において音楽業界を目指すためにボーヤをやるのは決して賢い選択ではなく、出来れば絶対に避けておいた方が良いという点と、アニメ業界で低賃金アニメーターを幾ら経験しても、ステップアップするためにキャリアになりにくいという点で、早くそこから抜け出す糸口を見つけないと人生を棒に振る可能性が高いだろうという点だ。
音楽業界だけに絞って言えば、現代において完全なる斜陽産業だ。
特にレコード会社に未来は全くない。ミュージシャンとして一生生活を維持できる才能を持った人がこれからも出るだろうが、昔に比べて音楽家として全人生を全う出来る確率は確実に下がっていると見ていい。
既に多くの才能が出現し、加えてAIが曲を書き始めており、人間と遜色のない曲を書くもの時間の問題だろう。そうなった時に人間のミュージシャンに残されたスキルとは演奏、もしくは歌唱が主体になると想像できる。
ライブエンタ関係も会場の数が決まっているため、日本市場が飽和しており、今後大きな成長の見込みがないので、新規参入しても得られる果実が少ない可能性が高い。日本に生きていると余り感じないだろうが、特に中国市場は拡大しており、中国のタレントやミュージシャンが得ているギャラは、日本の1桁、2桁違うのだ。日本はまだ1.2億人の市場がありそこそこ食えるのでそういう事実に疎いが、数十年単位で見れば、日本市場はトップの才能を維持・処遇出来ないほどになるのは時間の問題なのだ。
そういう業界は新しい才能が入り難く、新陳代謝が悪くなるため、悪循環を起こすだろう。多少希望があるとすれば、中国市場への進出位だろうか? しかし中国進出は才能だけでは無理で人脈面で工夫をしないと難しい。

いずれにしても今後の音楽業界は、間口が狭くなり、従って良い才能が見つかる確率が下がり、極度に低迷するだろうと思う。昨今はヒット曲が何かすら話題にならないし、アイドル系とアニメ系辺りしかオリコンの上位を占めない時代であり、もはや音楽産業は多様性を失っていると思っていいだろう。

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写真上下:元PITINNと六ソのあったビルの後の様子。
写真上の右手のエレベーターは当時の位置の再建されているようだ。
20121月撮影。


P1070191-2.jpg

写真はビル直ぐ横の道。
左手奥にあったスタジオの駐車場はビルの一部になっている。
当時、右手手前は高級ディスコだったはずだ。


私がボーヤ家業を始めようと思っていた1983年2月8日、70年代を席巻したTHE CARPENTERSVOCALであったカレン・カーペンター(Karen Carpenter)が拒食によって死亡するというニュースが飛び込む。天使のような歌声は私の青春を彩ったが、32歳という若さだった。もう過ぎ還暦の私からすると、何たる若さで素晴らしい才能が天に召されてしまったのかと打ちのめされる。
Fridayという写真週刊誌に掲載されていたガリガリの彼女の写真は心に突き刺さった。何が彼女を追いこんだのか? 分からない。

そう言えば、私が中学時代に自分の小遣いで最初に買った洋楽アルバムは彼等の5枚目のアルバム「NOW AND THEN」だった。あのジャケットは長岡秀星氏という日本人デザイナーが描いたスーパーリアリズムという手法の絵画だった。当時はあれが絵だなんて信じられなかった。
描かれていたカレンとリチャードは車(フェラーリ)に乗っており、背景に白い二階建ての家が描かれていたが、その家が当時のカーペンターファミリーの実家だったという話はかなり後になって知る。現在この家は別の人物が所有しているというが、外見はそのままのようだ。(以下の写真参考)
1997
年だったか、私がL.Aに一人で旅行に行った際、70年代にカーペンターズのツアー時のバックコーラスをやっていたアメリカ人の知り合いが、キャピタルレコード内のスタジオに連れて行ってくれて、レコーディング中のリチャードと引き合わせてくれた。見知らぬ私にもキチンと対応してくれたことでちょっとした感激の一瞬だった。
カーペンターズには80年代の波は来なかった。あの才能も彼も時代の波にのまれてしまったと言っていいのかもしれない。

Now and then.jpg

                  NOW AND THEN



Karen Carpenter.jpg
 
THE CARPENTERS
LeftKaren RightRichard)



(つづく)
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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-2 [ボーヤ時代 1983年]

【ローディー生活の開始:1983年2月】

六ソでの面接: 

六ソ-Lobby-2.jpg

六ソこと、ソニー六本木スタジオには特別な感慨がある。
私の音楽業界人生が始まった場所であり、私が愛した大瀧詠一氏、山下達郎氏の音楽の多くはここで生まれたからだ。
閉鎖された現在は往時の姿を見る事が出来ないが、このスタジオで作られた音に刻まれていると言っていいだろう。
昨今は独り自宅でも音楽が作れるような時代だが、その影響で長年培われてきた生音の録音技術は低迷しているという。
私の感覚では50歳以下で若くなればなるほど生音の録音経験や技術は廃れていると感じている。
生楽器の録音は、一流のフロントミュージシャンやスタジオミュージシャンなどからあれこれ厳しい要求を経て鍛えられる代物だ。トッププロの要求は仔細微細で厳しいし、彼らの感覚値は我々とは違って繊細だ。
従って特に技量の高いスタジオミュージシャンが録音現場で活躍しなくなった現代、余程の例外を除いて20代や30代では往時の録音技術や演奏技量を維持出来ないだろうと思う。
同じような音をしていても、音に込められている情念やパッションは再現し難い。
またアナログ時代に蓄積された技量は世代を超えて引き継ぐのが難しい。
プロツールスがあればある程度自宅でそれらしい音が出来るような時代においては、この世代が自分たちの音を確立するしかないだろう。ただ、我々より上の先人が確立した技術や方法論はそれなりに根拠のあるものであり、こうした手法を学ぶ意識がある若いエンジニアがいれば幸いだ。

さて、1983年2月のある日(多分2月14日か15日だったような気がする)、私はヨロシタ・ミュージックのT氏(周囲は”とっつあん”と呼んでいた)との電話連絡後、面接のために東京・六本木のPIT INNと言う老舗ライブハウスが地下にあったビルの5階に入っている六本木ソニースタジオへ出向く。
このスタジオは業界内では「六ソ」と呼ばれており、山下達郎氏、大滝詠一氏などの大物ミュージシャンがヒット作品を制作した今では伝説的な場所だ。

面接の指定時間は13時だったろうか? この日は小雪の舞う寒い日であった。時間通りに現場に行き、六ソのロビーに足を踏み入れる。
広さは20畳ほどだったろうか。薄い茶系のソファーが一帯を占めていた。
プロのスタジオということでちょっと興奮気味だったかもしれない。そこで初めてマネージャーのT氏に会う。音楽業界でマネージャーをやっている人間に会うのは、はしだのりひこ氏とクニ河内氏に次いで3人目に出会う業界人だった。
(なお、はしだのりひこ氏は、2017年12月2日、72歳でご逝去された。)

多分初対面で社交的な挨拶をしたのだろうと思う。
そして私は暫くの間ロビーで1人待たされた。
様子の分からない世界だったから緊張感があったと思う。
やがてスタジオの出入口にあるエレベーターを降りてきた大村憲司氏と思われる人物が現れた。
黒いセーターに黒いズボン、また室内なのに何故か黒いマフラーをしていた彼は、T氏につぶやくような挨拶をすると、そのままBスタジオに入って行き暫く出て来なかったと思う。どの位待ったか忘れたが、やがて大村憲司氏がスタジオから現れ、ロビー入り口のゲーム機のテーブルを挟んで面接となる。(図面の左下の赤い○の位置)
彼はあまり表情を表に出さずに私の面接に望む。彼との面接では履歴書を見ながら非常に簡単な質問に答えただけだったと思う。そして大村氏は私に以下のような事を念を押すように言った。

「必ず挨拶をする(周囲を含めて)」「時間厳守」、そして待遇は1ヶ月7万円、2月末までに今のローディーが辞めるので、それまでに引き継ぐ事。
簡潔であった。
そして後をマネージャーのT氏に委ねスタジオに消えて言った。T氏は明日から来るように言い、今日は帰って良いと言われる。私は待遇を聞いてちょっと心が揺らいだ。1ヶ月7万円は前職よりもやや低い給与で、計算してみると生活を維持する上でかなりギリギリの金額でだったからだ。
実際、前職にはあった健康保険などの社会保障も全く何もない。私にとって事実上大幅な減収を意味する。
従ってそれらを勘案すれば手取りはご想像の通りなのだ。

世の中の仕組みを理解している今(60代)にして思えばこの条件を受け入れるは相当覚悟にいるものだ。
しかしとにかく音楽業界に入り込む方法として当時の私には他に選択肢が無かったので提示されたこの給与で生活設計するしかなく、腹を決めざるを得なかった。
1ヶ月7万円でも何とかなるだろうと思ったのは、大学時代は1ヶ月6万円で暮らしていたからだ。本来はこの7万円から年金等を支払ったりとせねばならないが、残念ながらとても年金は支払えないため諦め、健康保険だけは何とか支払っていた。

私の場合、収入が低いため健康保険料の支払いは最低限度で済んだ。月800円程度だったろうか。
しかし年金は金額が固定だったので支払える訳もなく、これについては前述のように支払いを諦めた。(これは後々ボディーブローのように効いてくるが当時は想像の域を出ていた。現在自分のの年金記録を見ると40代までの間、納めている期間が殆どないのは汚点とも言える。)

こういう無法者のような行為は、まだ若いが故に出来る冒険だったと言えるし、私の優先度は収入よりも音楽業界に入る方だった。
実はボーヤ仕事としては、月給7万円は高給の部類に入る。
他の同業者連中はこれ以下がほとんどだったからだ。
ミュージシャンがボーヤを雇っていたのは、それが可能な収入があったろうという点と、ボーヤを雇っていたのは少なくともある程度売れているミュージシャンだったという事実もある。
またそうしたミュージシャンは頻繁にスタジオで出会うため、ボーヤもいない状態で自分で楽器を運ぶというのは間違いなくプライドが許さなかっただろう。従って中にはちょっと無理をしてボーヤを雇っていただろう人も散見された。

さて、ボーヤは特殊な能力が要るわけでもないので相当に無能でもない限り仕事にありつけたというのが実態だった。
大卒の人間がなんでボーヤなのか?と言われた事もあったし、実際に経験してみて何を目的にここまでやっているか?という感じだったかもしれないが、当時はとにかく音楽業界に食い込もうと必死だったのだ。
後日T氏は採用された私に応募は何人もあったと言っていたが私はかなり疑っている。
実際そうだったかもしれないとも思うが、見栄だったかもしれないとも感じている。
後年の私の経験からすると、私もしくは極々少数しか応募しかなかっただろうと思っている。
当時ですらこの道を選択する人間は多くはなかったからだ。

実は、2017年1月になってある事実が判明した。このブログを通じて知古を得た、同年代の方が、実は1983年4月、つまり私が正式に働き始めてから1カ月後に憲司さんのボーヤの面接を受けていたことが分かったのだ。
彼曰く、当時内定が決まった会社(某大手新聞社)もあり、またT氏から金銭的な条件について中々ハッキリとした回答を得られなかったので、内定をもらっていた会社勤めを選択したということだった。
つまり私は働き始めてから1カ月程度の時点で使い物にならないと評価されていたらしいという事なのだ。
この事実は、その後ボーヤの仕事をする中で、私が経験した事実と一致するようになるが、それはこの後に記載する記事内を読むと分かってくる。

この事実を知った際、”そうだったかあ・・・”という感想と、そういう事があった割には、この後19年も音楽業界で生きて行けたのは奇跡だな・・・と思った次第だ。また自分の人生というものは、自分の力の及ばないところで変わったりしてしまう儚い部分がある事も体験した。


さて、当時に話を戻そう。
その日の内に採用が決まった経緯を見ても多数の応募から採用された感じは一切しなかった。いずれにしても、大卒上がりでローディー(ボーヤ)を選択するバカは私くらいだったという訳だ。(後日私だけでは無かったことを知ったのは上記記載の通り)

 翌日から住まいのあった世田谷区祖師谷大蔵3丁目から西麻布に居を構えていた憲司さんの自宅と六本木ソニースタジオへの通勤が始まる。
楽器車を預かって自宅傍に駐車場を預かったので、駐車場代やガソリン代は領収書清算で別途もらえた。世田谷区ということで月極め駐車場料金は結構高かったと思う。2万5千円だったろうか?

3月に入ってからは憲司さんの楽器車での通勤が移動手段となる。
前任者の男性から少しづつ大村氏の機材に関する情報を伝達される日々が続く。大村氏(皆さんは憲司さんと呼んでいたので以後は憲司さんと記載する)は、通常でもギターを5-6台を移動させ、2台のミュージックマンのアンプ、そしてエフェクターボードとイフェクターユニットを1つのセットとしていた。

私のボーヤとしての仕事は、憲司さんを時間通り時間の場所に送り届け、加えて機器の管理と移動、セッティングを毎日するや彼の身の回りの様々なことをすることだった。また都内のスタジオを頻繁に移動するため、憲司さん所有のハイエースを運転し、最短で移動するための道も覚えなくてはならなかった。
それまで都内を運転した事が殆どなかったので、不慣れな運転と不慣れな道に当初は混乱の極みだった。
2月が終わると前任者は辞めた。
3月に入り私は一人きりとなり、毎日が慣れない業務だったため、緊張の連続だった。

ところで「ボーヤ」の言葉としての発祥は、戦後の占領下で活躍した日本人ジャズミュージシャンたちの身の回りの世話をしていた人たちがバンドのメンバーたちから「坊や」と呼ばれていた事から始まったと聞いている。
またこの呼び方は、この仕事をする人間の入れ替わりが激しく、名前を覚えるのがミュージシャンにとって煩雑だったのだと推測できる。
彼らは自分たちの身の回りを引き受ける人間を「ボーヤ」と呼んでいれば、間違いなかったからだ。私は「ボーヤ」という響きに少なからず差別的な響きを感じていたが、あの業界のヒエラルキーを考えれば無理もない。

「ボーヤ」はその仕事柄、個性が不要で個人識別は不要で記号的で良かったのだ。
名前を呼ばれないボーヤの存在は時代を経て80年代を生きていた私に受け継がれるが、私は少なくとも名前で呼ばれていた。

その中で、ザ・ドリフターズの「ボーヤ」だった志村ケンさんはその後に主要メンバーになったし、演歌歌手がデビューする登竜門は「ボーヤ」からというのが多かった。また村上(ポンタ)秀一氏なんかも、その昔、とあるドラマーのボーヤだったが、積極的で実力のあった彼はあっという間にその実力を認められ日本で有数のドラマーになってゆく。
また私の後に憲司さんのボーヤになった人の中からでも、音楽作家になった方がいるというから、当時のボーヤが次のステップへ移行するための機能はそれなりにあったと言って良いだろう。少なくとも私にとっては結果的にだが次へのステップになった事は確かだ。

そういう意味で、芸能、音楽業界で私より前の世代では、ボーヤ上がりから出世した人は少なくなかった。80年代で有名なボーヤは、ビートたけしさん率いる「たけし軍団」だろう。彼らもたけしさんの身の回りの世話から始まり、その中の数名は芸人として独り立ちしている。

(参考資料)

六ソ-A.jpg

六ソ(六本木ソニースタジオ)のAスタジオのコントロール・ルーム。当時のパンフレットからの写真だ。撮影者の右手前がスタジオへの入口となる。私は入室が可能だった場合、入口直ぐ右片隅で黙って丸椅子に座って作業を観察していた。
当時のコントロール卓はNEVE社製。24chのアナログテープレコーダーはANPEX社製を使用していたと記憶しているが、24chのテープレコーダーは、この写真内には写っていない。機器の居置き場所が写真の右手前の入り口右端であったからだ。

奥に見えるテープレコーダーは2チャンネル仕様のものだ。写真左方向には30~40畳程度の演奏用ブースがあり、4リズムなどが録音できるようになっている。憲司さんの最後のソロアルバムだった「外人天国」のリズムやダビングは全てここで行われたし、憧れだった山下達郎さんが、高気圧ガールや I LOVE YOUを録音していた事を思い出す。( I LOVE YOUはスタジオのドアが開いた時に録音中の音が漏れ聞こえて思わず興奮した思い出がある)
当時のアシスタントをしていたWさんという方は、その後ソニー乃木坂スタジオの部長さんをしていると噂で聞いている。

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六ソ-B.jpg

六ソのBスタジオのコントロール・ルーム。当時のパンフレットからの写真。コントロール卓はNEVE社製。この機種のEQは定評があり、アウトボードとして使用しているエンジニアが多かった。写真では見えないが右奥にはヴォーカル&ダビング・ブースがある。広さは3-4畳程度だったろうか。山下達郎さんがミックスダウン作業をしている時は、入り口の扉に「関係者以外入出禁止」という張り紙が貼られていた。


とにかく初期のローディー時代は、このスタジオに来る事が多かった。それ故色々困った問題もあったのだ。その辺りは次回以降に書こうと思う。

2016年10月、新大久保にあるFREEDOM STUDIOの年内閉鎖のニュースが飛び込む。当時はオフコース、アルフィーなどが拠点としていた名物スタジオだったが、時代の趨勢には逆らえないということか。残念。

注:さて、これ以降に記載される内容は、立場によっては余り好ましいと感じない方もいらっしゃるかもしれないと推察致します。
この記事で誰かを不快にさせるつもりや暴露ものを書く意図は全くないのだが、余りに当時の事を正直に描写して書いていると当方が意図しないまでも、対象者の方々が不快と思うことがあるかもしれないという点は重々承知しております。

それ故、当時自分が記憶として起きた事が不快だったり違和感があったと思った事や人物に対しては正直にそのような表現をしている場合がありますが、勝手ながら単純に私個人の感想であり、記録と考えて頂けると助かります。

昨今過去の日本の音楽関係に関わる著作が何冊も出ておりますが、海外の同様な趣旨のものに比べて筆者の感情が不要に抑えられているように思います。トニー・ビスコンティーの近著「トニー・ヴィスコンティ自伝 ボウイ、ボランを手がけた男」を読むと、彼の視点から見える当時の音楽業界が赤裸々に語られており、他の著書と合わせて読むと関係者の関係や感情が立体的に分かります。ビートルズ関係の著書も同様に綺麗ごとだけではなく、事実であれば薬の事や性格的な事についてキチンと書いてあります。
そういう意味で、私の記述も誇張なく事実に即して書こうと考えております。


さて、2017年となった近代的な音楽業界にも私の記事に出てくるようなちょっと規格外な人たちは数多くいるようです。
実際、私の現在の部下は、とあるレコード会社からビックリするような扱われ方をした事がある。
業務提携先のレコード会社にいた50代になったその人たちは、ずっとそのやり方を当たり前だと思って生きて来たからだろう。
しかし同じ世代で音楽業界から出た私から言わせれば、音楽業界という狭い領域で通用する事が常識が世間一般とどう整合しているかくらいについてバランスよく学ばぶ機会があったろうに・・と思わざるを得ないほど常識のない連中に映ったことも事実だ。
昔はあれでも通用したかもしれないが、現在でも古いやり方を踏襲している辺りに今日の音楽業界の悲しいほどの斜陽さを顕著に表しているのだろうと感じた次第だ。

私と同じ50代になっても現場仕事から手を放す事が出来ず、若い連中の仕事を見ると一々自分たちのやり方を押し付け、ダメを出しているこの手のオジサンたちを見ていていると、正直言ってベテランの醜悪さえも感じた次第だ。

私は年齢が上になればそれなりの所作というものがあると考えている。
自分とは違うやり方があっても、明らかに誤りでなければ我慢して見守り、失敗につながる事が予見されれば適度に指導するという方が、フロントでやっている若い連中にとっても受け入れやすく、また仕事も廻り易くなるはずだろう。

従ってダメ出しオヤジたちに共通しているのは、いつも現場主義のため組織の上層部、つまり管理職には行けませんし、その点においては、音楽業界も一般企業も世間的な常識は多少は働いているのだろうと思います。

一度でも管理職とを経験すると分かりますが、現場から一歩退く勇気が必要になります。
また自分がやった方が早いと思いがちですが、それを我慢出来ないと組織を廻せません。
私は管理職を潤滑剤だと思っているので、どうやって潤滑するかだけを念頭に仕事をしておりました。

私のように一旦音楽業界から出て他者の仕事ぶりを俯瞰してみると、「特殊業界」という部分に胡坐をかいた前近代的な事が常識のようなまかり通り、時間の止まった部分が当たり前のようにまかり通っているのを不思議に感じておりました。
もちろんどの業界、業態でも多少独自のルールというものがあるのは承知しておりますが、音楽、芸能界というのはやはりちょっと異質でした。(まあ、それが面白いとも言えるのだが・・)

私の過去に出会った様々な才能のある人たちはある意味で非常に特殊な素養を持っていたと言っていいでしょう。アーティストとは良く言ったものです。
当時の私はその特殊さに憧れていたし、尊敬もしていたし、そういう世界で一旗揚げるという夢もあったので耐えられた、そういう訳だったのです。

そもそも自分で選んで飛び込んだ世界でもあり、周囲で働く同僚ボーヤたちも同じような環境だったので違和感無く仕事していたという感じでした。

ミュージシャンが大好きでしたし今でも好きです。
また当時、色々と苦痛を伴う事も多かったですが絶望したことも、一度も辞めようと思った事もありませんでした。
それほど憧れの業界であり環境だったのでしょう。魔法にかかっていたのかもしれません。
ブラック企業なんて言葉もここ数年で定着した語句ですから当時はありませんでした。
エイベックスの松浦社長が好きな事をやっているのなら時間も公私も関係ないというような趣旨を話していたが、その気持ちは良く理解出来ます。
しかしこの時代、音楽、芸能界だから我々は別人種だというような発想はそろそろ通用しない時代になっていると思っております。

自由と不作法を履き違えてしまうと人格を疑われるでしょう。

エンタメ業界には、良くも悪くも世間ズレした人が多いと思います。
だからこそ大衆を喚起する幻想を作り出すことが出来る、と言えますが、現実社会に戻ってみると、まるで役に立たないような感覚を持ったまま生きている人も多数おります。

コロナ禍でライブ産業が、大打撃を受けた一因には、エンタメ業界特有の政治との距離感があったと言っていいでしょう。
業界が結束して政府の持つ予算を分捕ってくるためには、業界の政治力が必要ですが、エンタメ業界にはその準備が全くありませんでした。
これは業界の人たちが、ある意味で、反権力志向を基礎にして生きてきたことで、世間知らずのままであったと言っていいでしょう。

エンタメ業界や映像、アニメ業界に共通しますが、「好きだから若い連中の時間を搾取してもいい」ような風潮を蔓延させている業界は、遅かれ早かれ衰退するでしょう。
クリエイティブ的にはバカにしてきた中国でさえも、ゲーム業界に限れば人材の宝庫になっている時代です。
人口比から言っても今後スーパークリエイターが出る確率は高く、クリエイターの卵たちに過酷で無駄な業務環境を強いる日本の実情を見れば、早晩日本は優位性を失うだろうと思います。
少なくとも音楽だけを見ても現代のミュージシャンで30・40年後が見える逸材は殆ど見当たりません。これは業界が縮小しているのと同時にネット時代になり旧来のようなビジネスモデルが消失し、ミュージシャンを職業とすることが今の若者にとって魅力的でなくなっているのかもしれません。

音楽業界やエンタメ業界、さらに近年はゲーム業界には未だにブラックな空気が蔓延していますし、かつての私もその中でもがいていた一員でした。
計量政治学者の高橋洋一氏は、大蔵省時代、自分が必要と思った時間まで働く。時間的に早くても終わりなら終わり、遅くなっても必要ならやる、そういうのでいいのでは?と言ってましたが、そういう人たちがいても良いとは思うし、そういうエネルギーが生み出すパワーを全く否定しません。私もその一人でしたから。
だが、音楽業界にしてもゲーム業界にしても、アニメ業界にしても、クリエイティブ業界が持つ、「好きを人質にして搾取する」という業界構造はそろそろ改革した方が良いだろうと思うし、もうそういう前近代的な在り方に依存していては、業界が長く続かないだろうと思います。

当時においても私のような経験は音楽業界では珍しくもないが、一般的には余りない体験をしてきた訳でもあり、当時の記憶や記録、心中を出来るだけ客観的に留めておきたと思い書いております。また、現代においても似た様な世界で働いていたり、これから働こうと思う人への何等かのメッセージになればと思い書いております。私の時代にはSNSなんていう便利なものがなく、誰からも体験談を聞いたり参考にする人もいない時代でした。そういう意味でこれを読んでくれている人は、私の数十年の体験をほんの僅かな時間で間接体験出来、またそれについて考え、選択できる訳だから、こういう情報を取れる時代に生きていたら良かったなあ・・と思ったりもします。


それでも私にとってボーヤ体験は必要な事だったと思っておりますし、あれが無かったら今の私の人生はない訳ですから、様々な点において、私の人生に影響を与えてくれた人々は全て私にとって必要な人だった訳です。

ボーヤ上がりで音楽業界に20年近く居座った人は余り無かったんではないだろうか?と思います。
実際、私の周囲にいたボーヤ君たちは軒並み業界を離れて他の仕事をする事になりました。私の後に同じ仕事をしていた方で業界に残った方は少数いると聞いておりますが、やはり多数派ではありませんでした。

業界に入った事で私の好奇心をそそる様々な現場やミュージシャンたちとの仕事をする機会に恵まれ、そういう意味ではこの時代の苦労が多少は報われたのかもしれません。
でも長い人生を俯瞰すると私のような経歴を持つ事はお勧め致しませんが・・。(笑)


つづく


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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-1(80年代を垣間見る) [ボーヤ時代 1983年]


【ローディー生活の開始:1983年2月】

このページにご興味を持って頂き恐縮です。
Part-1~10までという長文で、中身が長いので読み疲れるかもしれませんが、1980年代の音楽業界を違った視点で描いたものです。
田舎町で育ちながら、音楽が好きになり、音楽業界に憧れる余りに不器用な方法で業界に潜り込んだ、全くもって生き方が下手くそな男(おまけに文章も下手くそ・・・)の20代前半の話です。

読み始めた方には恐縮だが、この男に華々しい栄光は訪れません。
それでも若さにかまけて自分の好きな事に人生を賭け、失敗とは言えないまでも成功とも言えない、ちょっとだけ中途半端な感じで音楽業界を去って、また同じ業界に戻った男の話です。

この男は自分の夢の幾つかを叶え、憧れだった数多くの優秀で素晴らしいミュージシャンたちに出会い、彼らと多くの時間を共有し、魔法の時間を経験をし、その後、それなりの作品に仕事と名前の痕跡と爪痕を残しました。
こうした時間を経て、その経験が生かすことによって、映像と放送を融合したビジネスで悪くない成果を上げることも出来ました。


その男も2019年秋で還暦を迎え定年退職しました。
沢山のコンサートを自分の目で見て、同時に仕事でも関わりました。
以下は人生を通じて直接コンサートを見たミュージシャンです。
正直、もう十分見ましたね。(笑)

(敬称略)
井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、サザンオールスターズ、ユーミン、坂本龍一、細野晴臣、高橋ユキヒロ、YMO、山下達郎、矢沢永吉、RCサクセッション、Char、原田真二、キャンディーズ(解散ライブ)、綾香、
竹内まりや、矢野顕子、八神純子、大貫妙子、由紀さおり、上原ひろみ、奥田民生、福山雅治、小田和正、
高中正義、大村憲司、井山大今、JUDY AND MARY、サニーデイ・サービス、ローザ・ルクセンブルグ、
ザ・ストリート・スライダーズ、BO GUMBOS、thee michelle gun elephant、BOWOW、紫、
ムーンライダーズ、カスケード、Mr.Children、小坂忠、萩原健一、BOOWY、The Surf Coasters、出川哲朗、

Eric Clapton、Jeff" Beck、Steve Winwood、Miles Davis、Procol Harum、Sting、Prince、Steely Dan、Simon & Garfunkel、Peter Gabriel、U2,B.B.King、David Bowie、Serge Gainsbourg、
Dr. John、The Neville Brothers、Prince、Billy joel、Jamiroquai、The Chemical Brothers、Bob Dylan、Brian Setzer、Cheap Trick、Tedeschi Trucks Band、Queen(オリジナル&再結成)、The Doobie Brothers、Daryl Hall & John Oates、Boston、Brian Setzer、Journey、Madonna、Cyndi Lauper、
Michael Jackson(初来日)、Paul McCartney、George Harrison、Ringo Starr、Elton John、The Police、Phil Collins、Genesis、Dick Dale、The Ventures、PENGUIN CAFE ORCHESTRA、BTS、2PM、Super Jounir、Seventeen、NU'EST等。 

紆余曲折した男の最後の職場は、大手上場企業グループ会社でした。
これから読んで頂く男の話、つまり私の仕事ぶりや職場環境を考えると、現在のそれを想像することは難しいかもしれません。

そういう意味で私は、ちょっとだけ運が良かった男なのかもしれません。
40代の幸運な転職がなかったら悲惨が老後になりかけたからです。

これほどの情熱を音楽産業に注いで参りましたが、現在はとても冷めた目で見ております。
正直言って
音楽産業やミュージシャンにシンパシーを感じなくなったのです。
もちろん今でも素晴らしい才能が産まれ、大衆に影響を及ぼしていますし、私も日常的に音楽と接して生きております。
それに反するかのような感覚ですが、この複雑怪奇な感覚は上手く説明出来ません。


さて、文章が稚拙なのでですます調すら統一してない文章で恐縮ですが、時間をかけて直しますので、よろしくお願いいたします。 

それではスタート!


 私は大学を卒業し社会人となり198242日から「ニューフォトスタジオ」という千駄ヶ谷近くの街場の写真スタジオに入社しました。(現在は閉店)

最寄りの駅は国鉄・原宿駅。まだJRと言われる以前の時代です。
これから記載する出来事は、1983年2月から1984年6月の間に私に起こった事です。
あれから40年数年近い時間が経過しました。
以後の記載通り、ボーヤという底辺の仕事を入り口にして音楽業界に入った私は、約19年近くかその世界におりました。

その間、ボーヤ、シンセのプログラマー、アーティストマネージメント、音楽制作、音楽作家など、仕事は多岐に渡りました。大成功と言えるキャリアはありませんでしたが、多数の著名作品に関わる事が出来、幸運な体験と仕事をしたと思っております。
ある意味で歴史の1ページに触れた部分もあるでしょう。


その後、42歳で音楽業界を離れ衛星放送業界に転身し、そこで韓流ブームの波に乗り自分のキャリアに大きな変化を受ける事になりました。
特に日本でのドラマ映像の二次的ビジネス(DVD事業、配信事業、イベント事業)で大きな成果を上げたために外様である私でが生え抜き社員を差し置いて管理職にもなることが出来た訳です。
ボーヤ上がりにしては悪くない出世だったと自負しておりますが、若い頃に描いていた自分が大人になった時のイメージとはちょっと異なりました。

それでも還暦間際になってまでもエンタメ業界で生き続けられた事は幸せでしたし、韓流や中国ビジネスに関われた事は、昨今の日韓関係問題や日中の微妙な関係性に心を痛める部分はありながらも、私の人生にとって大きな転換点になってくれたと言っていいでしょう。
同時に中韓関係に関しては、自分で様々に学び、その結果厳しい目線で見るようにもなりました。

音楽・エンタメ業界で社会人人生を全う出来たのはこの上ない喜びでした。
それでも定年退職が迫る過程においては、標準的な社会人労働者としての一旦の区切りに対して一抹の寂しさも感じております。

もちろん今後、体力、気力の問題もあって仕事に関していつまでもやれるものなのかは分かりません。
それでも働いている方が自分にも社会にもいいだろうと思って考えています。
2015年になって職場の方針で所在地が原宿のど真ん中のビルに移転した際、
社会人一年生の時代に毎日降り立った原宿が最寄りになった事で人生の巡り合わせというものを痛感しました。

そして2017年年末、グループ本社の意向でとある大手音楽メーカーの傘下に私の職場が統合されることになり、私や仲間の社員らは大手音楽グループ会社の社員となった。これも俯瞰してみればある意味では運命の一つだと言えるだろう。
実はその音楽グループは、私が大学卒業時にオーディションとバイトの応募で落とされた経験を持つ会社なのだ。人生はままならないと言うが、私の人生は正にままならない感じを絵で描いていると言っていい。

さて1982年4月、22歳の春に入社した「ニューフォトスタジオ」を選択した流れの詳細は、後述するが、直接のキッカケは日刊アルバイトニュース(後のFROM A)の掲載記事を読んだからである。

実は
最初に入社したこの会社は2017年中頃に事業撤退しておりました。
オーナーのMさんは、まだご存命のようなのだが、デジタルカメラ時代になり、小規模の写真やを維持するのも潮時なのだろうと推察する次第です。
店舗も彼も引退の時期を迎えたのでしょう。
残された店舗跡を見たが、そこにはもう当時の痕跡は無く、変わらない光景は、その店舗があったマンションの建物だけでした。

これを加筆している時点の私の職場は六本木に位置しているのだが、私のエンタメ業界の「入口と出口」が六本木エリアとなった事にちょっとした人生の不思議さを感じた次第です。
そう、私の音楽業界の入り口は、まさに今の職場のある隣のビルの5階で始まり、36年後、殆ど同じ場所と言っていい土地で定年を迎える事になったのですから…。

私は学生時代から(正確には中学生時代から)この世代に有りがちなのだがミュージシャンを目指して生きておりました。
しかし当時の私は頭で考えるだけでなかなか行動の伴わない人間でもありモヤモヤした時間を長く過ごしたと思います。

それでもレコード会社数社にデモテープを送ったりしていたのですが、私の音楽が採用される事はなく結局そのまま大学卒業の日を迎えてしまい、実に困り果てることになったという顛末になった訳なのです。

今にして考えれば恐ろしい事なのですが、その間、就職活動は全くせず、とにかくデモテープを送ってデビューの可能性を探していたのが当時の私だったのです。
バカを通り越しているのですが、それが当時の私の能力でした。
ニューフォトスタジオへの入社は大学卒業を目前に控え、社会人となって放り出される事を真剣に自覚し、止むえず生活を維持するためだけの消極的な選択行為としてこの会社に就職しただけでした。
それも日刊アルバイトニュースを情報源として働き場所を決める当たりは、全く人生を舐めているとしか言いようがありません。
結局、私は社会人になって一度もキチンとした就職(入社)試験というものを受けないまま今日まで生きてきてしまったのだが、当時の私のヘアスタイルは社会性のかけらも無いカーリーヘアーだった事を考え併せてみると、普通の社会人になるつもりなど無かった事をアカラサマに体現していたと言っていいでしょう。

今にして思えば幼稚と言われても反論出来ない精神構造を持った若者でした。

ニューフォトスタジオは、前述のように、写真家のA・M氏が経営する街場の写真屋であったのですが、彼はYAMAHAの楽器を利用するミュージシャンを撮影するカメラマン契約をしていた人物でもあったため、音楽業界へのキッカケが掴めるかもしれないという淡い期待だけでこの会社を選択した訳なのです。

当時の月額給与は額面で10万円。(新卒者の平均が12万円強の時代)
しかし入社後の私を待ちうけていたのは、毎日暗室で写真を焼く暮らしで、僅かな残業代しか伴わない薄給生活でした。
特に西武ライオンズ関係のクライアント先の要望で、西武ライオンズがリーグ優勝戦線に入ってくる時期になると、当夜の試合の模様や選手関係の写真を翌朝までに焼いて納品する必要があり、当然、深夜業務が日に日に増え始め、その割に残業代が少額であったために(月額で1000円程度)毎月の給料明細を見て唖然させられる日々に困惑する日々でした。

入社当初は、最低2年は勤めてから音楽業界への機会を伺おうと思っていたのですが、私は入社の年の秋口頃には早くもやる気と希望を失いつつあったのです。
またこの会社にいても音楽業界への道は開かれないだろうと結論を下し始めており、あとは退社を何時にするかという気持ちでした。

そして
19831月初頭、新年も明けて会社が始まって間もない時期(確か1月7日だったと思う)に、事前の予告もせず社長に辞表を提出し、最初の就職先を退職することになりました。
今思うとかなり身勝手な退社だったと思っております。
若気の至りとして許して欲しいという気持ちですが、今にして思えば随分と短絡的な人間でした。

社会人として勤務を始めてたった10か月後でした。

前述のように、学生時代からミュージシャンになるつもりだった私は、大学卒業後の人生設計をキチンとたてられないままであるにも関わらず、就活などは一切しなかったのです。
就活代わりにしていたのは、
CBSソニーオーディションへの挑戦とCBSソニーのバイトの応募でした。
しかし大学の卒業式が行われる1982年
320日を前にしてCBSソニーオーディションは落選が決定、レコード会社のバイトすらも不採用という状況でした。
(2014年になって仕事で初めて市ヶ谷のソニーミュージックの黒ビル、六番町のビルに入った時は、ちょっとした感慨すらあった・・・。)

実は大学卒業直前、音楽仲間からとある著名なプロのギターリスト(2017年故人となった方)M氏のローディー職への紹介を受けて話を進めていたが、給与が
6万円(大卒初任給12万円の時代。2013年に換算すると月給10万円<2013年の大卒初任給を約20万円として>という感じだろう)だったことや、大学の音楽仲間連中やバイト先の年長者から否定的な助言を受けたことで心根が揺れてしまい、このローディー話を一旦引き受けた後に断ってしまった経緯がありました。
当時この話を持ち込んでくれた彼には大変に迷惑をかけ申し訳なかったと思っているが、あの話を受けていたらちょっと違った人生になっていたのかもしれないと思う事もございます。

ここでちょっとだけだが、1982年の事象と音楽を振り返っておこう。
以下のリストは主な出来事と当時のヒット曲だ。 

28 ホテルニュージャパン火災発生で33人死亡。
2
9 日本航空350便墜落事故、24人死亡。

42 アルゼンチン軍がフォークランド諸島を占領(フォークランド紛争勃発)。

614 フォークランド紛争終結(フォークランド諸島の領有権はイギリスが獲得)。

817 フィリップスが世界初のCDを製造。

101 ソニーが世界初のCDプレーヤー、「CDP-101」発売。当時は高額商品だった。

104 フジテレビ、「森田一義アワー笑っていいとも!」を放送開始。その後30年を超える長寿番組となる。

1110 中央自動車道が全線開通。これによって田舎への帰省が本当に楽になった。

1124 中曽根康弘・行政管理庁長官、自民党総裁予備選で圧勝。

1127 1次中曽根内閣発足。田中派の7人入閣。

124 米映画『E.T.』が日本で公開。

12 日本電信電話公社、カード式公衆電話、テレホンカード発売。

1982年のヒット曲:

細川たかし 「北酒場」
あみん「待つわ」
近藤真彦「情熱熱風・せれなーで」「ふられてBANZAI」「ハイティーン・ブギ」
田原俊彦「君に薔薇薔薇という感じ」「原宿キッス」「誘惑スレスレ」
松田聖子「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」
中森明菜
「少女A」「セカンド・ラブ」
郷ひろみ「哀愁のカサブランカ」

坂本龍一・忌野清志郎「い・け・な・いルージュマジック」→衝撃的だった!

サザンオールスターズ「チャコの海岸物語」「匂艶 THE NIGHT CLUB
⇒80年代に入ってサザンはアルバムアーティストのイメージが強く意外とシングルが売れないバンドになっていたがこの後から安定的なヒット作品を量産するようになる。

シブがき隊 NAINAI 16」「100%…SOかもね!」「ZIG ZAG セブンティーン」
中島みゆき「悪女」「誘惑」「横恋慕」
中村雅俊「心の色」「恋人も濡れる街角」
山下久美子「赤道小町ドキッ」
一風堂「すみれ September Love」→売れてましたな!
もんた&ブラザーズ「DESIRE
シュガー「ウエディング・ベル」
ザ・タイガース「色つきの女でいてくれよ」
上田正樹「悲しい色やね」→売れてましたな!
渡辺徹「約束」
アラジン「完全無欠のロックンローラー」⇒一発屋の典型となった。

河合奈保子「夏のヒロイン」「けんかをやめて」「Invitation
柏原よしえ「ハロー・グッバイ」「渚のシンデレラ」「花梨」
オフコース「YES-YES-YES
沢田研二「おまえにチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」
矢沢永吉「YES MY LOVE」→コカコーラのCMに使われていた。

Johnny
「ジェームス・ディーンのように」「$100BABY
西城秀樹「南十字星」「聖・少女」
⇒2018年5月逝去。合掌。

松山千春「夜よ泣かないで」「夢の旅人」
さだまさし「しあわせについて」
増田けい子「すずめ」
RC
サクセション「SUMMER TOUR

薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」→角川映画のテーマ。角川映画の時代だった。
松本伊代「センチメンタル・ジャーニー」
小泉今日子「私の16才」「ひとり街角」
堀ちえみ「潮風の少女」
大橋純子「シルエット・ロマンス」→売れてましたな!
五木ひろし「契り」

山下達郎「あまく危険な香り」
⇒勝新太郎氏主演の刑事ドラマの主題歌だった。達郎さんは勝さんとの記者会見にも出席していたが、彼にとってはテレビに映った最後のメディア会見になったんじゃないだろうか?

アン・ルイスLa Seson
研ナオコ「夏をあきらめて」→サザンの名曲のカバー。
三好鉄生「涙をふいて」
高樹澪「ダンスはうまく踊れない」→作曲は井上陽水



ホテルニュージャパンの火事は当時の経営者の稚拙さが悲惨だったし、翌日の日航機羽田沖の墜落も、機長の心身症が原因というもので過去に例のない惨劇に日本中が驚いた。

またこの年初めて世の中にCDが出現。デジタル音楽時代の幕開けになった。
CDはその後1997年をピークにマーケットを縮小。2016年においては2000億円程度の市場となる。
私の予想では10年以内に1000億円を切り、20年以内にレコード会社の殆どは消滅か吸収事業に変化するだろうと思う。(つまりCDを買う主な層である50代以上がお金を使えるのはその位が限界ということだ。)

CDの登場当時は、1980年代初頭という新しい時代を予感させるに相応しい製品が登場した事に興奮を覚えていた。
ヒット曲のリストを見ると、日本のポップ状況が多様だと分かる。演歌あり、歌謡曲、ロックあり。現在のようにAKBと嵐しか年間チャートに思い浮かばない時代と比べると音楽文化環境が豊かに思えるのは私の偏見だろうか?
またこのリストにいる歌手群で現在でも一線で活躍している人たちは極僅かと分かる。時代の風雪に耐えるというのはかくも過酷ということだろう。

さてこうした時代背景の中、私の大卒卒業後の進路は暗雲が一杯に立ち込めていた。
今にして思えば将来へのビジョンも恐ろしいほど曖昧だったし、人生設計は皆無という戦慄を覚える程の阿呆振りだと感じている。
とても私の下の甥がパラサイトをしながら夢追い人をやっている体たらくを笑えない。それでも親の庇護から脱して自立して生きようという気概に溢れていたことは事実だ。


当時の給与や生活について詳しく書くと、給与の額面は
10万円で手取り88千円。大卒平均が12万円弱と言われた時代だ。
当時の私の家賃(風呂なし・トイレあり、世田谷区祖師谷大蔵)が
32千円だったから、給与残金が56千円程度で生活はギリギリであった。
1日の食費等は約1,000円程度だった。(2012年度でも大学生の平均が1日1,000円程度だというニュースを聞いて大変に驚いているが・・)。
2012年に直すと額面176千円(手取り156千円)の生活レベルだ。
(しかし驚くべき事なんだが、2013年の日本の貧困率はアメリカに次いで世界で2位。20%に近い数字の労働者の方々が年収200万円以下なのだ。当時の私の給与は貧困層以上だがそれでもギリギリの線だ)


社会人1年生の生活は、毎日暗室で写真を焼く日々で、残業代もロクに出ない。また期待していた音楽業界への道は、少しも近づかないというナイナイづくしであった。そのため精神的に疲弊し、かといって自分の未来について相談相手もなく、次第に仕事へのやる気を無くして行った。何とか将来を見据えてヴォーカルスクールだけは通っていたが、まあ活動に奥深さが全くなく、非常に稚拙な人物だっというのが当時の私だろう。

前述のように、入社当時は最低でも
2年は我慢と心に誓っていたが、そんな気持ちも何処えやら、年末には会社を辞めるという気持ちが強くなり、もはや心身が限界を超えてしまっていた。今で言うと心身症だろう。それでも私は孤独に強い部分があり、独りで耐え忍んでいたと思う。
昨今の若い人も結構我慢せずに辞める人が多いと聞くが、当時の自分を振りかえると彼らの事を批判など出来ようもない。まあ若い故の未熟さだったと言っておこう。

ただ、今の若い方に助言ができるとすれば、現在の行動は全て未来に意味のある形として繋がっており、良くも悪くも現在の「行動と選択の累積」でしか未来は訪れないという事だろう。

さて、年明けの
19831月7日金曜日、会社が始まった最初の週の終わり、不満で爆発しそうだった私は、帰宅間際に社長に辞表を提出し、そのまま会社を飛び出してしまう。
今にしてみれば「ただの無礼者」である。

飛び出した私は、仮初め(かりそめ)の自由を取り戻したかのように感じていたが、次の一手を持っていた訳では無かった。
目の前の不満を取り除く事にしか視点が行かないという当時を振り返ると、非常に愚かな人間だった。
(実は、辞めた先の会社の社長さんには、後年私が坂本龍一氏のシンセのアシスタントをして働いていた際、読売ランドのライブ会場でバッタリと会った。高名な教授のアシスタントをしていると知って喜んでくれたのは有難かったし、どうやってその仕事にたどり着いたのかと、彼も驚いた様子だった。)


 次の日から音楽業界への就職活動を始めるが、コネもなく、具体的な方法も検討せず、ただ、闇蜘蛛に歩き廻っていた。まさに若くして絵に描いたような泥縄人生である。
そんなある日、渋谷の道玄坂にあった
YAMAHA楽器店二階(現在は閉店)を訪れた。

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YAMAHA渋谷店(2010年6月20日撮影)
現在ここは自転車屋になり、左に並ぶ店舗群も2014年末に消滅。


2階のバンドメンバーなどを募集する掲示板コーナーを見ていると、ギターリストの大村憲司氏のローディー募集の張り紙が目に止まった。当時の私の印象としては、”この人物についての認識は、YMOの海外ツアーなどで演奏をしていた方なので名前にホンノリと記憶があった”という程度だった。
そう言えば渋谷の道玄坂下の電気屋(現在のプライムビル辺り)のテレビでL.Aからのライブ中継を放送していた時に見かけたな・・・という記憶が蘇ったのはこの時だった。

告知の条件を読み、心の中で色々な葛藤をしながら書かれていた電話番号に連絡してみた。電話をすると、担当者はTさんという男性で、六本木ソニースタジオにいると伝えられスタジオの電話番号を教えてもらった。
プロのレコーディングスタジオに連絡するという行為そのものがドキドキしたが、Tという人物が私の電話に応対し、明日午後に面接をするのでスタジオに来て欲しいと伝えられた。私は履歴書を準備して翌日指定時間に着くように六本木に出かけて行った。

19832月の小雪の舞う寒い日であった。(つづく)

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<1983年11月にオープンしたレコードショップのWAVE。このレコードショップの出現は、日本の音楽文化の革命的な象徴であった。とにかく店員が音楽に詳しく、かなりマニアックな洋楽レコードでも店員が見つけ出してくれたし、在庫も数多くあったため、ミュージシャンに限らず多くのクリエイター関係者にとって重宝した店だった。残念ながらHMVやTOWERレコードの進出で影が薄くなり、加えて六本木ヒルズの開発に伴い1999年12月に閉店。象徴は時代と共に消えていった。
Scritti Politti (スクリティ・ポリティ)の「キュピット&サイケ」を買ったのもここだった。CDを物色中の中山美穂さんを見かけたこともあったっけ。あんな美しい女性を見た事はそれまで無かったなあ。

WAVEビルの1Fには「雨の木(RAIN TREE)」という業界人が集まるコーヒーショップがあり、いつもレコード会社のディレクターやテレビ局の人間、タレント事務所の社長が打ち合わせをしており業界関係者には有名な場所となった。またこのビルの6-7階には「SEDIC」というレコーディング・スタジオがあり、数多くの80年代の音楽制作が行われていた。後年私は何度もこのスタジオを訪問するが、仕事で失敗した記憶しかない。(後年、大沢誉志行アレンジの仕事にシンセプログラマーとして呼ばれ、MC-4のデータをテキパキ入力出来ず、スタジオ仕事を遅延させた記憶・・・)
現在はビルもなく、この場所には当時の面影もないが・・・。80年代、ここを含む六本木周辺は、バブルにひた走る日本の事象面において、中心的で象徴的な場所だったが、私はずっと低所得者層であった。

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1983年を象徴したキーワード群である。「女帝」とは三越社長・故・岡田茂(1995年死去)の寵愛を受け、三越を私物化し我物顔をしていた故・竹久みち(2009年死去)の事である。「少し愛して~」はサントリーのウイスキーのCMのキャッチコピーで、女優で故人となった大原麗子氏が出演で話題となった言葉である。「軽薄短小」や「とらばる」などの言葉で分かるように、日本全体が軽薄になり、調子に乗り始めて来た兆候が出ている。また北朝鮮による大韓航空機撃墜事件などの政治テロ事件など小説のような話が現実に起きていた時代でもある。


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