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1985年のある日の1枚 [1985年]

skmt-tatsu1985-Sepsml-2.jpg

この写真が撮影されたのは19859月だと思う。
その理由はこれがリハーサル風景で、尚且つ本番が1985917日に行われたものだからだ。

実はこの記事を書いているのは201327日だ。

そしてこの記事が一般の目に触れる時期を2023917日午前0時に設定した。私自身がこの時期に生きているのか死んでいるのか分からない。しかし、1つの時代の記録と記憶としてこの記事を書き、自動的にアップされるようにタイマー設定しておく。
ソネットブログがこの時まで生きていることを願う次第だ。

 

ここに映っている人物は、左が山下達郎氏(当時32歳)、右が坂本龍一氏(当時33歳)、中央が私自身で当時26歳だ。右奥に居る人物については色々と面倒なので顔をぼかしておいた。

ここはリハーサルスタジオだ。場所は残念ながら失念した。リハ部屋の大きさは12畳もなかっただろう。大物ミュージシャンが3名もひしめく場所としては簡素と言っても言い過ぎじゃない。

リハは、矢野顕子氏の渋谷ジャンジャンで行うライブへのゲスト出演をする2人を入れて行われたものだ。
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16-17日の2日間、矢野氏はここで単独ライブを行っているが、2人が出演したのは17日の方だけだった。坂本龍一氏は当時矢野氏の夫だった。
渋谷ジャンジャンは渋谷の公園通りを上がった直ぐの左にあり、教会に隣接した場所にあった。音楽、演劇など1969年からサブカル系カルチャーを引っ張ってきた小劇場だった。20004月閉館している。
2013
年現在では喫茶店のルノアールに変身しているが、店のレイアウトは当時のライブハウスの客席の面影を留めている。

ジャンジャン1985年9月.jpg

 

さて、多少遡った1985年の8月某日、坂本氏、矢野氏、そして私は渋谷区南平台の一角にあったマンションの一室を訪ねる。山下達郎氏の仕事部屋があったのだ。当時彼は仕事場のあるマンションの上階に居住していたらしい。

訪問目的は9月のジャンジャンへの出演の打ち合わせを兼ねた食事会だったと思う。

実は私は達郎さんの大ファンだ。しかし仕事上、そういった意図を出す訳にはゆかない。私の心は躍り、心臓が飛び出しそうだったが、勤めて冷静にふるまった。達郎さんの仕事場は噂通りレコードに囲まれ、特に印象的だったのは壁に設置されたシングル盤の棚でA~Zに振り分けられたシングル盤がずらりと並んでいた。また床には未整理のレコードが入った段ボール箱が所狭しと置かれ、レコードコレクターとして長年集めた品々が部屋を占めていた。奥の部屋にはPC等が置かれ最低限度のデモを作れるような環境になっていた記憶がある。当時のPCはNECPC8801でシーケンスソフトはCOME ON MUSICだったと思う。教授と達郎さんは機材を見ながら立ち話をしていた思い出がある。実はこの日は部屋で打ち合わせをした訳ではなく、夕食のために達郎さんを二人が迎えに行ったついでに仕事場を見せてもらったようなシチュエーションだった。それ故、ここにいたのは10分程度だったと思う。私は南平台のマンション前で彼ら別れたはずだ。

 

さてリハーサルだが、正直細かく覚えていない。多分達郎さんの存在に舞い上がっていたのだろう。
当時の私は教授のシンセのアシスタントだったので、リハに使う彼の楽器をセットして、スタジオ内の出来事をサポートする役割になった。自分の右前で達郎さんが歌っているのを見ていたが、とにかく心は舞い上がっていた。なんたって自分にとってのスーパースターが目の前で生で歌っているのだから。

リハが始まる直前、矢野氏が写真を撮った。それがここに見えている光景だ。矢野氏は後日この写真を私にくれた。彼女は私が達郎さんのファンであることを知っていたと思う。教授は私が達郎さんの物まねが上手かったので同様だったろう。
実は、写真の存在はずっと忘れていた。そもそもこのリハのことさえ記憶から無かった位だ。

2012年のある日、実家で片づけをしていたらこの写真を見つけたのだ。最初は自分が達郎さんと写っている写真の存在が信じられなかった。そして記憶を辿り、蘇って来たのだった。

どうしてこんな大事な写真の存在を忘れ去ってしまったのだろう。時間の経過とは恐ろしいものだ。

 

1985917日当日の記憶は断片的だ。とにかく、矢野氏、教授の二人が揃う場所なので、かなりの緊張感があった。当然本番前に当日リハも行った。達郎さんは8トラックのオープンリールを使って自分自身で録音したアカペラ・テープと再生機器を持ち込んで来た。リハで歌う達郎さんを見てうっとりしたものだが、“仕事・仕事”と思いながら自制した。
しかし本当に達郎さんは上手い。
楽屋は狭い場所だった。本番前、達郎さんが発声練習をしている声が響き渡っていた。
ジャンジャンは、演者の前方を扇状に囲むような客席になっている。教授のシンセは下手奥に設置したと思う。

当日の演奏メニューは一部しか記憶がないが、当日の模様は録音され達郎さんのサンデーソングブックでも放送されたことがあった。ネットで調べてみると3名で演奏したのは以下のようなセットメニューだったようだ。

Groovin' On A Clear Day (You Can See Forever) Let It Be Me (Live)How Can I Be Sure
私は舞台裏からこのライブを見ていた。漠然とその時の様子が頭に残っている。

 

さて、1985年、達郎さんにとってはBIG WAVE84年に発売され86年発売のPOCKET MUSICのレコーディングをしていた時期だろう。
教授は年末から開始される次回作の「未来派野郎」に向かう前の時期、矢野氏は名盤「峠の我が家」のレコーディング中だった時期だ。
1985
年当時、まだCDは一般的ではなく、アナログ盤が主流の時代だった。

 

この写真にはそういった背景が詰まっている。もう40年近く前の話である。

 


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河口湖スタジオ(レコーディングスタジオ) [1985年]

 1985年の初春、私は当時働いていたヨロシタ・ミュージック(当時の坂本龍一氏のマネージメントオフィス)の楽器部の上司で、シンセプログラマーの藤井丈司氏と共に鈴木さえ子さんのアルバムレコーディングのため、河口湖にあったポニーキャニオン所管(当時)の一口坂・河口湖スタジオに出向いた。
1985年の何月だったかはハッキリしないが、写真を見る限り周辺に雪の形跡がないので4月かもしれないが、この時期我々シンセチームは、サザンのKAMAKURAのレコーディングがあったため、本作のレコーディングの詳細時期については現在記録を確認中だ。(確認したら4月の初週でした。)

鈴木さえ子さんは当時MIDIレコードの所属アーティストで、ムーンライダースの重鎮、鈴木慶一氏がこのレコーディングのプロデューサーだった。
1985年7月に発売された彼女のサードアルバム「緑の法則」のレコーディングは、この河口湖スタジオに泊まり込んで行われたものだ。尚、ここは食事付きスタジオで缶詰になって音楽作りが出来る環境でリゾートレコーディングスタジオの先端を行っていた。当時は伊豆のKITTYスタジオが有名だった。

河口湖st (1)_S.jpg当時の記憶は断片的だ。郊外型のスタジオに泊まり込んで仕事をするのは(多分)初めてだったので気分的に新鮮だった事は記憶の彼方にある。写真のような富士山が毎日目の前で見ることの出来る贅沢も初めてだった。
仕事で来ていたのだが、何処かしらにリゾート地への旅行という気持ちが無かった訳でもない。
鈴木さえ子さんはドラマーとしてのキャリアでプロのスタートを切ったと聞いている。またCM作品も多い。彼女の代表作には1985年の日清チキンラーメンCMがあり、「すぐおいしい すごくおいしい」という日本人なら誰でも知っているあのメロディーを作った人なのである。実は唄も彼女だ。
音楽的にはロック印象派と言われていたようだが、なるほどそうかもしれない。とにかく色々な音楽に精通していた女性という印象がある。


河口湖st (5)_S.jpg河口湖st (3)_S.jpg



 


 


当時のシンセ関係の機材である。私はまだアシスタントなので、プログラミング実務には参加していない。それでも機材の使い方を少しづつ覚え始めた頃だったろうか。シークエンサーはROLAND MC-4だ。まだアナログ信号をMIDIに変換して機材を鳴らしていたっけ。ステップタイムもゲートタイムも一々手打ちの時代だから結構時間と手間がかかった。2012年の現代から見ると、これらの機材は全てアプリやプラグインになっており、時代と時間の経過をしみじみと感じる次第だ。右の写真の私の奥にあるクリーム色の巨体はファアライトCMIの本体だ。ファアライトCMIの記録媒体は、1DD(片面記録法)の8インチ(約20cm)四方のディスクだった。ハードディスク(HDD)は存在していたが、まだ搭載していない。HDDは途方もなく高価な時代だった。2017年ではスマホやPCのアプリになっているから隔世の感がある。
左右の写真を見る限り、当時の機材は大体以下の通りだろう。

シークエンサーの主流がROLAND MC-4からPCに移管を始めたのは1985年下期頃からだったろう。この時期既にマッキントッシュ(Mac)の音楽ソフトPeformerを使用していた人が居た。またNEC PC9801で使用可能だったCome On MusicのシークエンサーソフトRCM-PC98が発売されたのは1985年である。
私が教授の楽器担当になった1985年末頃からは教授もMC-4からPC9801に乗り換えている。藤井氏はPC9801への乗り換えに随分と時間がかかっていたと記憶している。これには様々な要因が推察されるが、MC-4からPC9801になったことで、プログラマーのプログラミング作業が随分と簡易になったことで、職業価値が毀損されると思ったのだろう。確かにこの時代以降、デジタル楽器の出現でプログラマーの職業価値が毀損をされ始めた。現在でもアナログからデジタルへの転移で様々な影響が起こっているが、シンセ・プログラマーはこの影響を世界で一番早く影響を受けた人種だとも言える。

(機材リスト)
フェアライトCMI、ROLAND MC-4(シークエンサー)、ROLAND SBX-80、DIGI ATOM(アナログ・デジタル変換機器)、ROLAND SDE-2000(DELAY)、ROLAND FLANGER、YAMAHA DX-7、MXR PITCH TRANSPOSER、EQ(ROLAND製)、ROLAND DEMENSION-4.


河口湖st (8)_S.jpg



スタジオ入り口前にはバトミントン位なら出来る広さのスペースがあった。通常は駐車場として利用されている。ここでは時間を見つけてこうした遊びをすることもあった。冬は雪に閉ざされている。40-50cmの降雪時に再訪した事があったが、完全に身動きが取れなかった。

河口湖st (2)_S.jpg   河口湖st (7)_S.jpg

スタジオの二階には広いリビングルームがあって、レコーディングが終わると朝まで関係者全員で飲んだり話したりしたと思う。
ある夜、鈴木さえ子さんが一押しの映画ビデオを見ようということになった。それがジョン・カーペンター監督の「遊星からの物体X」である。 衝撃的なこの作品は、今でも見た事を覚えている程印象的な作品だった。その後暫くして私はジョン・カーペンター監督作にハマる。2012年には「遊星からの物体X」の事件前年のノルウェー基地を題材にした映画が公開らしく楽しみだし、2018年秋には原作映画のリマスター版上映もあると言い、期待している。

上右の写真は2階リビングの外のバルコニーだろう。私が着ている赤いセーターは、山本寛斎氏のデザインしたものだ。かなり派手だが気に入って着ていた。ラフォーレ原宿で買った。なんせこのセーター1枚に当時で3万円も出したのである。今に至るまでこんな高いセーターを買った事がない!当時の私の収入を考えると、清水の舞台からナントヤラだろう。色も赤で派手だが、何か昔から赤い色には惹かれるものがあった。
しかしこのセーター、80年代終盤のある夜、六本木のインクスティックでのライブ仕事が終わり、楽器の片付けをしていた際、体が火照ったので脱いで1階の入り口付近にさり気なく置いておいたら誰かに盗まれてしまった残念な思い出がある。


河口湖st (6)_S.jpg

スタジオブースの様子。
中央に見えているのはYAMAHAのCP-80という電子ピアノ。


現在こうしたリゾート型のレコーディングスタジオがどの程度の数、日本にあるのかに知見がない。80年~90年代前半はバブルに湧いた時代だったので、様々な場所にリゾート型のレコーディングスタジオが出現した。伊豆、河口湖、山中湖などだ。
私の経験で最もバブリーなスタジオは、北海道札幌市郊外にあったFUN HOUSEの運営していたスタジオだった。ジョージ・マーティン氏(ビートルズのプロデューサー)が音響設計に加わったという触れ込みだったが、FUN HOUSEの倒産と共に命運を共にしたようだが、スタジオは経営母体が変わって存続しているらしい。
ここにあったSSLのコンソールにはRストーンズのギターであるキース・リチャーズのサインが入っていたという話があったが。いずれにしてもとてもいいスタジオだったが残念。


FUN HOUSE 札幌st.jpg

ファンハウス 札幌スタジオ跡。
かつての面影はある。
頂いた情報によれば
現在は「芸森スタジオ」として
オーナーが代わって運営されているという事です。
http://www.geimori-st.jp/

当時ここの管理人が作るカレーは私の人生でも
最高と言えるものだったが・・。
(2010年撮影らしい)


河口湖スタジオはその後数度か訪問したが、一番悲しい思い出は、矢口博康氏のアレンジ仕事にシンセ・プログラマーとして派遣されて、レコーディング途中で力量に疑問を呈されてクビになったことだろうか。実力の世界ですから仕方ないですな。当時の社長の藤井さんには私の交代によるバタバタで随分とご迷惑をかけてしまった。
あれは1988年か89年後半の2月のとある日だっただろう。スタジオは物凄い雪に囲まれて、富士山は眩い程の美しさだった記憶がある。当時はとても落ち込んだものだ。実力がないと告げられるのは嬉しいものじゃないが、プロの世界は仕方ない。
そんな挫折的な想い出も今となってはホンノリと頭の片隅に残っているだけだ。
なお、一口坂・河口湖スタジオは2011年9月30日を持って営業を終了したとWEBにあった。音源売上の衰退と共に周辺ビジネスも縮小の一途である。

 
河口湖st (9)_S.jpg

河口湖スタジオ入り口からの全景
右がレジデンスエリアで左がスタジオエリアだ。


WEBを確認した所、一口坂スタジオ(東京都新宿区)も2012年1月末をもって営業を終了したとある。一口坂スタジオはポニーキャニオンが有する音楽業界内でも大手スタジオだったが、音源ビジネスがCDを売る部分で成立し難くなっている現代、周辺ビジネスとなるレコーディングスタジオが消えて行くのは避けられない運命かもしれない。萩田光雄氏が上程した「ヒット曲の魔術師」にも書いてあったが、昔ような予算と時間、また遊び心で音源を作る時代は終わったと言っていい。寂しい限りであるが、ビジネスの衰退はそうした部分をそぎ落としてしまう。
2016年末、新大久保のフリーダムスタジオも営業終了した。レコーディンススタジオの消滅は、ハウスエンジニア、アシスタントエンジニア、メンテ・スタッフ、マネージメントスタッフが一挙に失職したということだ。またそれまでの様々なノウハウも消滅する。こうした事実は実に残念なことだ。
音楽業界の最盛期を知る一人としては、とても寂しい限りであり、彼等の行方も気になる。

追記:

本作に参加していたレコーディング・エンジニアの赤川新一氏(当時音響ハウス所属)が2017年1月24日、故郷の新潟でご病気のため56歳の生涯を終えました。自分の考える音にはこだわりのある方で、ずっとミュージシャンに愛され、また音楽といい音を愛したエンジニアだったと思います。私と彼は、坂本龍一氏(教授)のソロアルバム「未来派野郎」など、教授が銀座のONKIO HAUSで録音作業をする際に、まだお互いがアシスタント時代に、一深夜遅くまで一緒に仕事をする時間を共有しており、色々な場面で共有体験がありました。
赤川君の故郷でのご葬儀に。鈴木さえこさんが出席なさったことはツイッターで知りましたが、彼への思いが伝わる事だと思いますし、長い時間を経ても人間関係のつながりがあった事を知り、温かい気持ちにもなりました。
赤川君はまだこれからという年齢だったので、彼の逝去は同年代の私の心には大変に複雑な気持ちを生みました。
ですから、ここに彼の存在とミュージシャンたちに愛された多くの仕事を残した彼の軌跡の一部を記しておこうと思い、追記をさせて頂きました。
ご冥福をお祈りいたします。



サードアルバム『緑の法則』(MIDI/Dear Heart)
1985年7月21日発売
なお、2013年4月24日「緑の法則(紙ジャケット仕様/リマスター版)」として再発されている。

緑の法則.jpg
 

1.「夏休みが待ち遠しい-mon biclo」 曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

2.「Hallo, Shoo Shoo」 詞:佐伯健三 曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

3.「柔らかな季節」 曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

4.「The green-eyed monster」 
 詞・曲:鈴木さえ子・鈴木慶一 編:PSYCHO PERCHIES

5.「Good morning」 
 詞:鈴木さえ子 曲:鈴木さえ子・鈴木慶一 編:PSYCHO PERCHIES

6.「Exile」 詞:佐伯健三 曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

7.「Come Wonder With Me」 詞・曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

8.「イワンのバカ」 曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

9.「ВИЙ」 曲:鈴木さえ子 編:PSYCHO PERCHIES

10.「KASPAR'S STATEMENT」 曲:不明 編:PSYCHO PERCHIES

PSYCHO PERCHIES:鈴木慶一&鈴木さえ子

鈴木さえ子:vocal・drums・acoustic piano・synthesizers・cheresta・marimba・vibraphone・percussion・timpani・cymbal・tublar bells・whistle

柴山和彦:electric guitars
白井良明:electric guitars・ acoustic guitars
鈴木慶一:electric guitars・ acoustic guitars・synthesizers・percussion・timpani・cymbal・tublar bells・whistle・background vocals
吉田建:electric bass
渡辺等:fretless bass・wood bass・mandolin
風間文彦:accordion
藤井丈司:synthesizers・sequencers・mood organ programming
矢口博康:sax・clarinet
山川恵子:harp
根岸道郎:harmony vocals

produced by 鈴木慶一・鈴木さえ子
co-produced by 藤井丈司
mixing engineered by 山口州治
recording engineered by 山口州治・赤川新一

(2012年2月28日、加筆修正/ 2013年5月14日 加筆訂正 / 2018年2月5日 加筆


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