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『カメラを止めるな!』パクリ騒動の解決方法を勝手に伝授。 [独り言]

『カメラを止めるな!』パクリ騒動の解決方法を勝手に伝授。



私も『カメラを止めるな!』を見て感動した人間だ。

パンフも買った。今年度最高傑作だと思う。


そのパンフの中の文言にちょっと気になっていた部分あった。

上田慎一郎監督が、映画の題材としてある舞台から着想を得てオリジナルの舞台関係者である脚本家と企画開発をしていたと書いてあった事だ。


そして以下のニュースが出た。


『カメラを止めるな!』はパクリだ!原作者が怒りの告発



ああ、やはりな・・と感じた。

その後、以下の記事が出る。


『カメラを止めるな!』原作者が語る「僕がどうしても許せないこと」



記事を読む限りだが、『カメラを止めるな!』は、

元劇団主宰者で演出家の和田亮一氏(32)が主催した舞台『GHOST IN THE BOX!』に基づいて製作されていると主張する。

上田慎一郎監督が着想を得たものは、この舞台と一致しているようだ。


また和田氏の主張によれば、映画製作側のプロデューサーから、原案利用契約書(権利買取)が提案されたとある。


さて映画のオフィシャルサイトには以下の反論が掲載されていた。



ネット記事(元は雑誌のFLASHらしい)を要約すると上田監督は、『GHOST IN THE BOX!』の演出家である和田氏と脚本家のA氏(パンフにも出てくる荒木駿氏だろう)の2名に許諾を取ったのではなく、B氏という許諾権限のない人物に映画化の趣旨を伝えただけだという。ネット情報によれば、荒木駿氏には許諾を取ったが和田氏には取ってなかったという記述もあるが、当事者間でどのように伝えられたのかについての詳しい記述はない。

また公開当初の映画のクレジットにはA氏とB氏の名があったが和田氏のクレジットはなかったようだ。

和田氏の主張では、7月18日(つまり公開後)に原作のクレジット要求。翌日、上田監督からは「『企画開発協力 劇団PEACE 和田亮一』でいかがでしょうか」と返事が来たものの、製作にいっさい協力していなかった和田氏はあくまで「原作」の形を主張した。後日、映画製作側からは再編集するのは困難でクレジットを断られたという。その後弁護士に相談し、再度『原作』のクレジットを要求。その後、市橋プロデューサーから原案利用契約が提案されましたが、権利を買い取る内容だったという。


なるほど、これはモメる案件だなと思いました。グレーゾーンの多い分野だからだ。


映画の公式サイトの声明を読んで1つの違和感を持った。
声明では、舞台著作を侵害した事実はないと言っているのにも関わらず、クレジットを含めた条件や対応を協議中という点だ。舞台劇に着想を得た点は公式サイトが認めており、これはその通りなのだろう。


普通に考えられるのは、映画製作側も100%相手を突き放すほどの論拠を持っていないのだろう。

つまり、心当たりがあるという訳だ。


それも和田氏の説明を見れば、なるほど、双方、主張が全く違うんだな・・ということが分かる。

今回の問題の根底は、「舞台劇から着想を得て映画化したのにも関わらず、舞台劇の著作者に対する許諾処理を適切にしていなかった」点だ。この責任は市橋氏という映画プロデューサーと上田監督にある。

和田氏の取材発言が正しいと仮定すれば、市橋プロデューサーが原案利用契約を送付した時点で、本映画には「原作もしくは原案があると認識していた蓋然性」を持つ事になる。
原作か、原案かでもめている部分はあるが、いずれにしても100%オリジナルという映画側の主張根拠の大きな部分は崩れてしまっている。


私のように映像の輸入と制作、運用、著作権の仕事を長くやっている人間からすると、本件は興味深い点が多い。

今も昔も同じだが、クリエイターほど著作権について無知、無関心な人たちはいない。

知っているように振る舞うクリエイターも多いが、実務的な部分について殆ど無知だ。

だから権利処理は、実務経験者に相談したり、対応してもらう必要がある。
今回市橋プロデューサーがその役割を担っていたはずだが、どうやら仕事に漏れがあったと言っていいだろう。

今回のトラブルの遠因にはそういう背景が見え隠れする。
つまり「権利処理をキチンと詰め切っていない」ということだ。
元々アイデアという著作権で保護されない部分を参考にして作るという行為と、翻案(原作に依拠して作る)とは雲泥の差がある。

ネットの記事そのものがどの程度正確なのか不明だし、大抵の場合、週刊誌の記事は事実を膨らませてショッキングな見え方で書くので情報確度が不明だ。

弁護士の方が分析した記事は参考になるので読んで欲しい。


「カメラを止めるな!」は著作権侵害か?
https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20180823-00094178/

簡単に言えば、アイデア部分だけで表現上の本質的特徴が似ているとは言えない可能性を指摘しています。
つまり突き詰めると、裁判しないと分からないかもしれない・・という事です。

なので、私が以下に書く記事は、あくまでも最悪の場合、つまり原作・原案と言われる舞台著作を侵害した形で映画が製作されていたと仮定した想定への対応として書くことにする。
また現在分かっている事実は、公式サイトの声明だけなので、そこの記述の意図も参考にする。

1つだけ先に行っておくと、裁判すると双方疲弊し、費用もかかり、時間もかかり嫌な思いをします。それでも戦うならやればいいが、個人的には裁判を避ける方向性で落とした方が良いと思っている。


さて、舞台劇に着想を得て映画の台本を作り映画化すると著作権侵害になるのだろうか?
実はなかなか難しいテーマだ。着想を得たという言い方と原作を元に映画を作るという行為は別だからだ。
従って双方が著作権侵害の証明するとなれば、話し合いを経て、埒が明かなければ裁判をするとことになる。
この手の裁判は長期化するので最悪だが、最悪の場合はそうなる。

裁判となれば『GHOST IN THE BOX!』と『カメラを止めるな!』の脚本や舞台の内容、その他の資料を綿密に精査し、双方のストーリーや設定等が何%一致・類似し、何%が違うのか?という計量的な方法で突きつめて行くことになる。これは音楽著作権侵害でやる方法だが、音楽の場合だと音符の類似率をはじき出して判決する。

つまり映画製作側の主張する「オリジナルと言える部分」が映画の中でどの程度の比率を占めているのかを数値化して判断するのだ。また原作としての根拠が認められれば、許諾の過程も重要で、結局それらは証拠によってのみ立証される。「原作」なのか「原案」なのか、第三者による判定は上記のような過程を経ることとなるだろう。


仮に全体のストラクチャーや設定、セリフなどの大半が似ていると判断された場合、原作者は荒木氏&和田氏、上田監督は脚色者と判断されるだろう。従って著作権法において脚色された二次著作物は原作家も権利保有することになり、二次利用の許諾や氏名公表権についても問われる。


しかしこうした革新的なポイントについては、当事者で埒が明かない場合がこれは裁判等をしないと確定的な判断がされないケースが多い。
裁判は長期化し、双方疲弊し、いずれ裁判所から和解勧告が出るかもしれないだろう。

本来、原作から着想を得て別のストーリーを作る場合、原作権もしくは原案権という形でそれ相当の許諾を得る必要がある。
何故得るかと言えば、今回のようにトラブルになるからだ。

ちなみに後ほど語るが「アイデア」そのものは著作物ではない。
今回の言い方では、アイデアは「原案」に近い。
著作権には定義があって、著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう、と書かれており、当然舞台芸術や映画も著作権の保護対象だが、アイデアそのものは著作権の保護対象外だ。

映画製作側にとって若干不利だなと感じるのは、本映画が舞台を見てから着想を得ていることを認めている点だ。また和田氏の主張のように映画製作側が「原案利用許諾契約書」を提出している。このことから映画製作者側は、原案としての利用は認めるが、原作としては利用していないという意味だろう。

舞台関係者の誰かと映画製作者とが酒でも飲んでいる時の口上から出てきたアイデアを元にしているのなら著作権的には問題にならないのだが(アイデアを剽窃して点では非難されるだろうが)、映画製作者は既存の舞台から着想を得ていると公表しているし、途中段階まで舞台脚本家とも台本を作った記述がパンフに記載されている。
つまり映画側は、本映画作品が舞台著作の一部を原作として利用し、翻案して映画を作ったと認識していたと認定される可能性が極めて高いと言っていい。

逆説的に言えば、映画製作側が原案のみであとはオリジナルだと主張するのであれば、舞台著作の持つ情報や着想、プロットなしで全く同じような映画が作れたか?という事を証明しなければならなくなるだろう。
果たしてそれが可能なのかは考えてみる価値があるだろう。

さて、本来はどうしたら良かったのか?

何より大事だったのは、映画製作陣側が映画制作前に舞台の原作もしくは原案許諾を契約書までに落とし込む事だった。
それに尽きる。

理由は簡単で、今回のような事が起きるリスクがあり、実際にその想定とうりに起きたからだ。
インディーズ映画でそこまでするか?という人もいるが、結果的にはそこまでしておいた方が良かった訳だ。
万に一つのリスクだが、やっておけば今回のトラブルは回避できた。
特に今回のように想定外の大ヒットをしてしまうと、事後交渉になり条件を落とすのは簡単でない。
これは製作側の市橋プロデューサーと脚本家で監督の上田氏双方の課題だったし、それをやらなかったからこうした面倒な事になる。
つまりこの点で仕事をすべき人間が仕事をしていなかったということだ。
今回の問題、記事等から読み解ける和田氏の主張を参照しつつ、何が問題で、どうすればいいのかを説いてみよう。その上で、私が考えるまず穏便な解決方法を提案しよう。


記事情報だけで私がこうした発言をするのは何だが、『カメラを止めるな!』は、舞台『GHOST IN THE BOX!』を「原作」にして製作したと「一定程度」映画製作側が認めた方が自然だと考える。
原作か原案では、著作権に関わる問題が大きくなり、双方の争点になるだろうが、後々のビジネスを考えて妥協ポイントとした方がいいだろう。
これは市橋プロデューサーが和田氏に原案契約書を提出した事からでも、舞台が全くクリエイティブ上の埒外ではないことを認めているわけで、原作、原案は大きな選択だが、おそらく和田氏側は原案にしたら間違いなく裁判に持ち込むだろうから、原作を認め、利益シェアをした方が双方にメリットがあるという考え方だ。

さて、本件、どのような解決策があるのか列挙しよう。

①映画製作側が原作側の主張をある範囲で認め、改めて許諾条件を話合い、金銭的な条件を決める。
②映画製作側が原作側の主張を一切認めず、裁判で戦う。

③上記②の裁判を経て、双方の主張を戦わせたう上で示談をする。

④映画製作側が、原作側がグウの音も出ない程に自分たちのオリジナリティーを証明して納得させる。


いずれにしても、両者の話し合いと合意でしか解決しない。現状、これだけは避けられない。

加えて、現在の情報を総合すると、上田監督側が本映画を完全なオリジナルだと証明するのは相当困難だと推定される。つまり以下の方程式の証明を映画製作側が立証しなければならない。

『カメラを止めるな!』-『GHOST IN THE BOX!』=我々の見た『カメラを止めるな!』になるのか?

『GHOST IN THE BOX!』から着想を得て作り上げた台本は、『GHOST IN THE BOX!』が無かったとしても同じようなインパクトを持った映画として成立出来たのか?という点だ。

例えば、アメリカドラマの名作「刑事コロンボ」の構成骨格は、ストーリー冒頭に殺人があり、視聴者側には既に犯人が分かっている。コロンボは犯人が気が付かないほころびを探し出して犯罪立証を成立するというものだ。
さて、このストーリー冒頭に殺人があり、視聴者側に犯人が分かっている部分は「単なるアイデア」なので著作権で保護されない。実際、コロンボ以前のミステリーでも冒頭に犯人が分かっていて、探偵が犯人を追い詰めるという形式の小説がある。
従ってコロンボのこの構成方法は、全く著作権違反ではない。

しかしどうやら映画は舞台の構成骨格だけで成立しているわけではないようだ。従って著作権の侵害を感じているからこそ、市橋プロデューサーは後出しの買取契約書を出したのだろう。
従って映画製作側として全面敗北のような形は簡単に受け入れられないと思うが、
本件は、映画製作者側にかなり歩が悪いと感じている。
だから、①で進めるのが良かろうと思う。
そうなるといずれにしても金銭条件の話になる。
どうしたらいいのか?


市橋プロデューサーは買取契約を提示しているらしい。でもそれは現状で無理というものだ。映画は大成功してしまったのに、許諾が後になるのは、映画製作者側のチョンボだからだ。不本意でも自分たちのチョンボを相手側に押し付けない方がいいだろう。


許諾額と印税料率は話合いになるが、製作前ならいざ知らず、

既に大ヒット作品になってしまった関係上、当初よりも金額が高くなる、

もしくは異なる通常の原作権許諾契約よりも別の条件を入れた契約形態になるのは仕方ないだろう。

原作権の相場は交渉で決めるしかない。それでも業界相場はあるからそれらが話し合いの基準にはなるだろう。


加えて意図せずとも無断と思われるような形で製作・配給した点についての賠償的な意味での金銭保証も支払う必要が出てくると思う。



仮にストーリーの基本設計が原作・原案通りで、脚色(翻案)によって映画のように手を加えられたとすれば、

本来的な意味で、舞台『GHOST IN THE BOX!』が原作もしくは原案であり、上田監督は、脚色者(シナリオライター兼監督)という立場になる。


さて、『海猿』等で知られる佐藤秀峰氏は、ヒット映画の『LIMIT OF LOVE 海猿』

(『海猿』シリーズ2作目。興行収入71億円)の原作使用料は、250万円であったと明かしている。

ただ、現在に関しては、原作使用料+成功報酬という契約にしており、

「ヤマザキさんの60~70倍貰ってる」とのことである(氏のツイッターより)。

つまり数千万円~1億円近いということだろう。

また、テルマエ・ロマエは、興行収入が60億円にのぼる大ヒットとなったが許諾料は100万円だったと知られている。

これがインディーズ映画だと10万円前後程度の世界になると言われてもいる。


参考記事:200万~400万円は妥当か、映画原作料のお値段 








さて、今回の件で私が間に立っていたらどう考えるか?

映画製作者側が、①で示したような示談交渉に応じるという前提だが、まず、金銭的な条件を幾つかのパーツに分ける。


原作(原案)許諾料、二次利用料、慰謝料もしくは買取りの4つだ。

但し、現状環境で買取契約は交渉対象にならないので排除する。(相当な金額を積んで買い取るなら別だが)


上記参考記事の200万~400万円は妥当か?、にある映画原作料のお値段を見ても分かるように、

日本映画化の原作権料は意外と高くない。(中国だと最低1,000万円からスタートすることが多い)

また、日本文藝家協会の規約第25条の「映画制作及び上映等における著作物の使用料は、

番組制作費や提供価格等を斟酌(しんしゃく)し、1000万円を上限として利用者と本協会が協議して定める」

という取り決めが、目安となっている。


当然和田氏は日本文藝家協会の登録メンバーでもないだろうし、言い値設定できるのだが、

今回は、原作許諾料を日本文藝家協会の規約第25条最低ラインの上限である100万円と置く。

なお、金額はエージェント費用を含んだものとして記載するので、作家の取り分は60~70%程度となる。


二次利用料、つまりDVD化、VOD化、番組販売等の利用における原作家への配分は、日本文藝家協会に参考となる規約がある。

例えばDVDであれば定価×出荷数×1.75%(もしくは卸売価格×出荷数×3.35%)で、

これは業界標準なのでこれを参考に出来る。1万円のDVD(セル)なら、175円前後が印税となる。

但し、1.75%は監督、シナリオ作家への分配原資になるため、全部が原作家に入る訳ではない。

本映画の作家関係者は日本文藝家協会会員じゃないだろうから、この規定に準じる必要はないが、目安になる。


本作の問題は、原作権の許諾を曖昧な状態で製作し、おまけに想定外に大成功してしまったことだ。
だが、映画の成功は結果論だ。だから大失敗という可能性だってあった点は忘れてはならない。

従ってこの点については成功という結果を知った上での話として押さえておかねばならないだろう。

ここが今回の問題を複雑にしてしまっている。
何が言いたいかと言えば、原作家は権利を販売する時点で自身の利益確定できるが、

映像化の関係者はそうでないが、既に成功という結果が出ていて利益確定者がいるため、作家としてはそういう立場を取れないという事だ。


そうは言っても既に大成功していて利益確定を享受するのは、上田監督、製作会社、配給会社、DVDメーカー、配信先、番組販売先だ。だから原作者にもその利益享受を得たいという動機が出るのは仕方ないし、それを取り込めないと交渉にならない。


ここからが交渉の腕の見せ所になる。


今回のように原作権許諾という映画製作の根幹に瑕疵がある可能性出ていて、おまけに大成功してしまった場合、

製作者と原作者の現実的な落としどころを探るしかない。
要するに「金で解決」するしかないということだ。


その上で以下を提案しておきたい。


実は原作許諾は通常、映画上映という一次使用、つまり映画興行に対しての印税設定をしない。

今回、これを、特別に設定してもらおうという事だ。

理由は簡単で、原作もしくは原案の事後許諾をしたからだ。


以下が私が勝手に提案する計算式だ。


まず原作権使用料:100万円。


劇場興行に関する条件:

原作権利用料=【配給収入-(配給収入×0.2(配給手数料))】×7.7%

(配給収入=劇場興行総収入×0.5もしくは配給会社への総収入、総収入というのは鑑賞チケットとパンフ等の総収益のこと。)

なお、本来は配給収入の計算分母は、P&A費用(上映に関わるコストと宣伝費)を除くが、今回はそれをしない。
理由は今回の事情を踏まえ、P&Aは製作と配給が持ち、作家分配に不利にならないように配慮するためだ。またP&A費用を把握しようとすると、費用の改ざんの可能性が拭えず管理が大変なので除外させる方がいい。

また7.7%の設定は、二次利用権の通常設定(卸値への掛け率)に加え、

賠償的(慰謝料)な意味での3.35%を加味した。


書き直すと以下の通りだ。

かなり大雑把な数値だが、イメージ的には当たらずしも遠からずと思う。


劇場興行総収入:10億円(推定)

劇場収入:5億円(劇場取り分は興行収入の約50%と計算している)

配給収入:5億円(配給会社の売上)

配給手数料(20%):1億円

------------------------

小計:4億円。


原作権者取分:3,080万円(4億円×7.7%)


なお、配給と上田監督を含む映画製作側の取り分は、原作権者取分とP&Aの経費後となり、

経費比率は、双方の取り分比率で按分されると過程。

(配給側が全負担している場合もあるが、今回は按分とする)


これでどういう絵になるかと言えば以下だ。

なおP&A費用は150館公開から推定して6,000万円と仮定する。(もうちょっと多いかもしれないが・・)



◎製作側(上田監督含む)+配給取分=5億円。(監督への配分契約が不明なので両者を一体として考えておく)

◎P&A費用+原作権者取分=9,080万円


---------------------------------

小計:4.092億円。(製作側+配給の実取分)


映画興行終了時点での各位配分:


◎製作側取分:3.273億円(製作費300万円を回収後)

◎配給取分:8,184万円

◎原作権者取分(原作権販売分100万円を含む):3,180万円


もちろん、料率についての交渉があるだろうし、他の諸条件についても同じだ。

また上記は映画興行までの話で、二次利用料は別途入ってくる。


いずれにしてに、製作側が億単位の収入を得ることは疑いないし、原作側にもかなりの金が入る。

それ故に、製作側取分の10%程度の原作権比率は、十分に妥当性があると見ていいだろう。


インディーズ映画としては過去に例がない大成功を収めた原作家の方々には納得しずらい面もあるだろうが、

少なくとも上田監督が脚色して映画化しなかったら、

原作家の方々にこのような富が生まれるチャンスがなかったとも言える。
その点については、心情面で色々とあるだろうが、原作家側は配慮を見せた方がいいだろう。


加えて仮に映画製作前に許諾していたら10万円+α程度だった訳で、

このαも微々たるものだったかもしれないのだ。

先にも書いたが、興行の結果が見えてしまっているため話がややこしいが、キチンと話合えば双方にメリットが出ている話だと分かるだろう。
残念な経緯があってシコリが残るかもしれないが、結果的には全員WINWINになれるのだ。
だから金持ち喧嘩せずじゃないが、紳士的にやった方がいいと思っている。


双方が欲張りになればなるほど落としどころが見えなくなる。

何度も言うが、製作の根幹である原作家の許諾で躓いたのは、監督を含む製作側の大きな瑕疵だ。この点は映画製作側の反省点だろう。


そういう意味を込めて助言をしておくが、この件を深堀して裁判にはしない方がいいと思う。

裁判になれば長期化し、手間がかかり双方に裁判費用の出費が嵩み、面倒で嫌な時間が経過し、

原作家の取り分も相当に減ってしまうだろうし、製作側も同様だ。

わざわざ弁護士を儲けさせるような行為に及ばない方がいいと思っている。


また原作家からすれば、色々な経緯があって許せない部分もあるのは理解を超えることじゃないが、

原作家の方たちも余り欲張らない方が良いだろうと思っている。

狭い業界で生きて行くにはそれなりの落としどころがあり、

冷静に現実的で未来志向の対応をすべきと思う。

これをチャンスに将来を切り開く機会とすべきで、適度な所で合意を見た方が得策でしょう。


加えて助言をしておくが、制作会社(上田監督含む?)は、出演者や関係スタッフに対して

自分たちへの収入からそれなりの額を彼らに分配をしておいた方がいいだろうと思う。

3億円を超える収入を個人で受けたら55%は税金で消える。

また法人で受けたとしても利益の20%以上(多分数千万円程度)は税金で消滅する。

それ位なら関係者に成功報酬的な支払いをして経費として控除し、

肝の太い所を見せておいた方が制作会社及び上田監督の今後の人生のためにプラスになるだろう。


ヘタをするとこれが最初で最後の大成功だってことにもなりかねないのだから。


まだ事実関係が不明な時点で勝手なブログを書いて大変に恐縮だが、

老婆心と思って許して欲しい。
今後の情報で誤りを訂正する予定だが、現状の情報から考えられるのはこんな感じだ。


あともう1点追加しておくと、今回のヒットの雫を個人収入でもらっている関係者各位は、国税から100%狙われているので、2019年、2020年2月の確定申告はキチンとなさった方がいいだろう。申告漏れを指摘されたりすると、名声に傷が付きかねない。

せっかくアットホームで素晴らしい映画を作ったのだから、皆さん、映画のイメージを壊さないように仲良くやってねと祈るばかりだ。


参考記事:騒動の『カメラを止めるな!』“原作”・“原案”どう違う? 専門家に聞く










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「募金」の手数料や使い道にまつわるモヤモヤ [独り言]

平成30年7月豪雨、熊本の地震、ちょっと前の東日本大震災など、ここ最近日本は大きな災害に見舞われている。

被災者以外の地域で暮らす人間として、こうした被災者に対して直接、間接的な援助を考える人が多いだろう。

ボランティアで現地に行かれ直接支援をなさっている方を見ていて、いつも頭が下がる想いだ。


さて直接支援出来ない人にとって、最も有効そうなのは「募金」だ。

額に関わらず募金した人たちは、自分の出したお金が被災者の助けになることを願っているだろう。


しかし募金した金がどのように使われ、本当に被災者を助けになっているのかを

募金した人間が知るすべが殆どない。


実際調べてみると募金という行為は、法的根拠や拘束力が殆どないと分かる。

そう、募金自体を法律的に拘束する文言は日本には存在しないようなのだ。

ホントなのか??


寄付した募金が遊興費に!? ・・・募金の使い道「寄付先の自由」って本当?



上記の弁護士さんの解説が正しいという前提でお話するが、

『募金というのは法律上「贈与」にあたります。簡単に言うと「お金をあげる」行為です。

お金をあげたのであれば、もらった人は自由に使っていいことになります。

ですので、原則論としては、募金によって集められた金銭は

もらった人が自由に使ってよいことになります。』という概念は

結構一般的に知られていない事だろうと思う。



また街頭で募金行為をする際は、本来は道路使用許可が必要だったりとか

目的外使用で募金すると詐欺行為となる可能性があるなど、

募金にまつわることで知らない事が結構多い。


使用用途も被災者支援と言っても、それに関わる活動に使う事も想定されるため、

どこまでが目的外かを定義するのが結構難しい部分もある。

加えて法人から法人が募金をうけ取った場合には、

その受贈益に対して法人税、住民税および事業税が課税され、

個人が受領すれば原則的には一時所得として所得税、住民税の課税されるらしい。



なるほど募金の正体は知らない事ばかりだ。


ところで日本赤十字社は義援金からは手数料などは一切取らずに全額を被災地へ届けていると宣言している。


日本赤十字社は義援金からは手数料などは一切いただかず100%全額を被災地へお届けしています




さて募金の手数料について、ホリエモン氏が以下のように吠えている。


ホリエモンが寄付金の手数料にうるさい人たちに苦言「どうしようもない奴ら」




個人的にはホリエモン氏の言う、募金を被災地に届けるために手数料がかかるのは当たり前、は、

全くその通りだ。手数なしで募金活動を円滑に進める事は出来ない。


私は手数料率が募金額の20%が適切なのか25%が適切なのかはどうでも良いと思っているが、

募金側がこうした手数料等についてモヤモヤする点において、一般的な意見に同調する。

ホリエモン氏から言わせればそんな奴らは募金するな!の一刀両断だろうが、

正直言えば、モヤモヤしないのは相当な少数派だと思う。

だからこの感覚は個々の違いでしかない。(つまり議論には馴染まない)


ホリエモン氏のように全くそういう事が気にならないのなら、

懐具合と趣旨賛同の範囲でドンドン募金すればいいだろう。

ただ、ホリエモン氏が手数料を気にする人たちを「どうしようもない奴ら」と一刀両断する辺りは、

彼の人間的限界だな…と思う。


ちょっと話は逸れるのだが、彼はどちらかと言えば、

天才アーティストに近い思考感覚の方だと思っているが、

それ故に人を動かして事を成すのが苦手なタイプなのかもしれない。


この辺りは同じ天才型の孫正義氏とは正反対だと思うが、

ホリエモン氏は余り実務型ではないのかもしれない。

実際、ホリエモン氏の業績?で思い浮かぶのは、

フジテレビ買収の失敗、ライブドアの粉飾決算による収監(正直これは特捜の横暴だと思っている)などで、

孫正義氏のソフトバンクや三木谷氏の楽天などと比較し、

実体のある業績面において目立った成果が殆ど思い浮かばないのは不思議な気がする。

(著作が多いのは認識している)
あれほどの能力と才能が何かを結実させているように見えないのは、

きっと私が凡人以下だからかもしれない。


現在ロケット事業に参入しているが、発射すらままならない失敗続きだ。

小型ロケットビジネスの世界レベルはもっと先を行っているが、発射レベルで躓いているのは痛い。

こうした失敗も彼にとっては想定内だろう。個人的には商業化の成功に向かって欲しいと思う。

いずれにしてもこの事業の可否が、経営マネージメントとしてのホリエモン氏の手腕の見せ所だろう。


さて、話が逸れたので元に戻そう。

前述したが私は手数料率が20%が適切なのか25%が適切なのかはどうでも良いと思っている。

だが被災地への送付への原価がいくらかかり、間接費をどの程度賄うべきかについては

透明性を担保すべきと思う。透明性があれば手数料の設定は自ずから出て来る。


今でもたまに見かけるが、東京の主要駅前で何か災害があるたびに汚い募金箱を持って近づいてくる

顔色の悪くて服装もイケてない連中が有象無象にいる。

以前TBSが彼らを取材したが、この連中は全員ある組織からやとわれてアルバイトで募金をしている奴らだった。

中には外国人もいる。

おまけにこの募金が何に使われているかは全く不透明だ。

高齢者で社会免疫性の無い人たちは、彼らの口車に乗って結構なお金を募金している光景を見るが、

正直この連中は詐欺的募金集めをしていると言ってもいいだろう。


また、平成30年7月豪雨の共産党の寄付に対して松井大阪府知事が不透明だと噛みついていたが、

共産党の寄付箱には小さく「党の活動資金としても利用させてもらいます」とあり、

一般的な意味では、災害寄付に乗っかって活動資金調達をしていると感じられ違和感を拭えない。

松井大阪府知事がツイッターで噛みついたのもこの辺りで、募金の事後精算を公表するように促している。

当然だろう。


こうしてみていると、募金行為側として募金行為にモヤモヤするのは

使用用途のルールや会計の公開が全く法的担保されていないからだろう。

少なくとも他人から大義や目的のある行為で金を集める場合は、

集めた個人もしくは団体への会計の公開を担保させるべきだろうがそれすら法整備が無いのが現実だ。


そういう意味で、私は、街角や聞いた事もない個人・団体の募金活動には一切加担しないことにしている。

当然共産党の募金箱なんかには1円も入れない。

渋谷の駅前交差点辺りで災害直後になると有志の学生さんたちや知らない人たちが募金をしている姿を見て、

偉いなぁ・・と思う反面、募金の行方にモヤモヤするのは私の人間性の至らなさかもしれない。

企業が代理的に集める募金にしても、集めた金額が税制優遇の対象になるメリットを知れば、

どこまで趣旨に沿っているのかね??と疑問にも思ってしまう。


結局色々と調べてみると募金先として有力なのは日本赤十字社くらいしかなさそうだ。

もちろん日本赤十字社には色々な見方がある。

基本的には官僚組織なので、趣旨からは想像できないような高給取りもいれば

自治体との募金連携に対する軋轢も多々噂される。

それでもこういう所でも頼らないと最低限度の担保がある状態での寄付行為は難しそうだ。

少なくとも日本赤十字社には決算報告があり、概要はつかめる。

ただこれでも十分とは言えないだろう。(無いよりは遥かにマシだが)


日本赤十字社の歳入歳出の決算:




日本赤十字社の評判や口コミは?寄付先として、信頼できるかをチェック




結論:

寄付したの金の行く末にモヤモヤしないようにするなら日本赤十字社に直接預けた方がいいようだ。

もしくは自分を離れて行った金に頓着しないなら、ドンドン寄付しましょう。











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「自省録 / 中曽根康弘著」を読み始めて [独り言]

ちょっと硬い話をさせて頂く。


中曽根康弘氏は昭和を代表する政治家だ。

100歳を超えまだご健在でその影響力は多方面に渡っている。

田中、竹下政権下での金権政治の狭間で活躍した首相であり、

時代の生き証人として昭和政治の裏表を体感した数少ない人物だ。


その中曽根氏が著した「自省録」を読み始めた。

だいたい本というもは最初の10ページ位でその本の価値の有無を感じさせてくれる。


読み始めて数ページ、私は本を置いてしまった。


冒頭の書き出しは、小泉純一郎元首相が中曽根康弘氏を選挙の比例名簿から

事前の告知もなく外し、それを問い質すために小泉氏に説明を求めると、

「(あなたは)他に仕事もあるのだから・・・」の一点張りで、

ろくな説明もせず黙ったままだったという恨みつらみから始まる。

中曽根氏は、自民党の長老であり貢献者である大先輩の自分に非礼だと断じる。


当時の中曽根康弘氏はその功績から永久比例名簿1位を自民党から与えられていた。

同時に党の規則には70歳定年も謳っていたという捻じれたルールがあったようだ。

つまりダブルスタンダードだったのだ。

いずれにして中曽根氏は、永久比例名簿1位を得てほぼ永遠に議員となれる資格を手にしていた事になる。


私はこの記載を読み非常に違和感を持った。

まず、中曽根康弘氏の政治家としての功績は事実として認められるものだと言っていい。

また永久比例名簿1位を自民党から与えられていた経緯やそういう対応がどうかはともかくとして、

小泉純一郎元首相が事前に何の断りもなく名簿から外してしまったというのが本当なら、

自民党総裁としての手続きにちょっと瑕疵があるとも思った。

悪法も法であり、一定の民主的方法で決めたルールはルールだからだ。


しかし、それよりも私の違和感は中曽根康弘氏の考え方だった。

中曽根氏の主張は一貫して自分のような功績がありしかも小泉氏よりも年長である自分に対して、

このような扱いは非礼だといい、永久比例名簿1位は当然だといわんばかりだった。


確かに小泉氏は非礼だったかもしれない思う。

また悪法も法とは言えルールを変更する方法もスマートではない。

しかし中曽根氏があれだけの功績と人格を持っていながら自民党の永久比例名簿1位を当然のように受け、

そのポジション居座ってしまった点については彼の人間的資質の限界を見る思いがしたのだ。

そもそも選挙によって国民から選ばれる政治家が、自民党のルール変更とは言え、1議席を特別に与えるような形に当然のように乗っかってしまった中曽根氏の政治家哲学とはどのようなものなのだろうか??


私は正直ガッカリした。


何故中曽根氏は、永久比例名簿1位を提示された段階で、

自分やこれまで日本国の政治家としてやれることはやった、

これからは若い政治家諸君を大所高所から育て、

必要があれば相談に乗る、議席は国民のものであり、党や個人が支配すべきものではない、だから辞退する・・位のことが言えなかったのか?だ。


ひょっとしたら最初は辞退したのかもしれないが、

結果的にはその場所にいるからそれが事実として残るだろう。
つまり中曽根氏はそれで良いと思った訳だ。


中曽根氏は自分の才能や実績に相当な自信があったのだろうし、

永久に「現役政治家」としてやれると考えていたのだろうやりたかったのだろう。

しかしそれは群馬の選挙区から若い政治家が出現するポジションを奪う事になる点について中曽根氏は一切考えているように見えないし、言及もしていない。

中曽根氏は自分が居座る弊害については全く考慮していないように見えた。


私は本を置いてしまったのはそこだった。


会社でもそうだが、50歳を過ぎて定年までの間で、管理職以外の人間の身の処し方は難しい。

現場仕事は少なくなり以前よりも手持無沙汰になり、自分の役割が狭まった感じがするからだ。
正直辛い時期だ。

中には我慢できず若手の現場に不要に分け入って混乱を起こす連中も多い。

従ってそういう立場になれば、グッとこらえて若手のサポート役に廻れたり育成役が出来るかどうかが重要でもある。

これは人生哲学かもしれない。


中曽根氏にとって小泉氏は若手議員だ。

しかし当時の小泉氏はかつての中曽根氏と同じ「自民党総裁であり日本国首相」なのだ。

中曽根氏は本書の中で随分と小泉氏の自分に対する非礼を書き連ねていたが、

当時は一議員である中曽根氏の立場から日本国首相の小泉氏の立場への配慮は全く見られない。

書きっぷりだけで見ると完全に体育会系で、

目下で後輩なんだから先輩の自分に対して敬意を払えという感じだ。
つまり上から目線なのだ。

中曽根氏は、相手が総理大臣ではなく、ただの後輩議員だと思って接しているようだったと思う。

それは筋が違うだろう・・というのが読んでいた私の感覚だ。


中曽根氏は本書の中で、小泉氏は言葉足らずで「他に仕事もあるのだから・・・」とつぶやくだけで

説明らしい説明もせずにその言葉だけを言い残して事務所を出て行ったとあった。

官僚上がりで頭も良いはずの中曽根氏ならその時点で、

「ああ、自分で潔く身を引けと言っているんだな」と気が付くべきだったろう。
もしくはエリート官僚で総理大臣経験者である彼だからそういう事が思い浮かばなかったのかもしれない。

小泉氏のやり方は確かにスマートではなかったし、

氏が怒りをぶつけているのも多くは「情に欠けた行為」その部分だが、

前述したように、日本国首相に対しているという敬意が全く感じられない文面だった。
中曽根氏はだからこそ、わざわざ総理であり、総裁である小泉氏が来た訳だ。
しかし氏は体育会系単純思考で当時の小泉首相と対峙していただけなのだ。


もちろん小泉氏が事前の通達もなく中曽根氏をリストから外してしまったのは怒りを招く行為だと思うが、

100歩譲って中曽根氏の気持ちは理解できるとしても、自分の立場、相手の立場を踏まえて考え、

行動できるからこそ中曽根氏のような修羅場を踏んできた政治家に価値があると思わなかったのだろうか??


こうなると小泉氏は、あのような方法でも取らないと頑固な中曽根氏は

悪法を盾に永遠に居座り続けただろうという危機感からの行動とも考えられる。

つまり小泉氏は70歳定年の例外である中曽根氏を理屈では説得出来ないと考えたのだろう。

そもそも例外規定だし、特別扱いだからだ。
そもそもルール違反のルールならば、小泉氏がルール違反を承知で強制的な方法を取ったとも言える。


またこうしたやり方をマスコミに晒すことで中曽根氏が身を引かざるを得ない状況に追い込んだともいえ、

確かに中曽根氏からしたら非礼で腹立たしい事だったかもしれないが、

そもそも永久政治家という民主主義の本質では本来あり得ない状況に安住し、

その地位に恋々としようとした中曽根氏が「自ら招いた事態」とも言えるのだ。


そういう視点については中曽根氏からは全く言及がない。

多分本人には全く自覚がないのだろう。


本書の冒頭に書いてあるという事は、この件が氏にとって非常に重要な記憶であり伝えたい事だったと解釈できる。

しかし逆に言うと、氏はこの辺りに限界があった政治家とも受け取れなくもない。

少なくとも私にはそう取れたし、本書を読み進める上で逆効果だった。


結局私は「自省録」という本を冒頭数ページで読むのを止めた。

それより先に何が書いてあってもこの本から得られるものは無さそうだと思ったからだ。


本書にはかなり期待をしていたが、冒頭でつまずき、とても残念な気持ちだった。
最後に書いてあったら全部読んでから時間を無駄にしたと思ったかもしれないから

冒頭で良かったのかもしれない。


タイトルに「自省録(中曽根康弘氏)を読み始めて」と書いたのはそういう理由でした。










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Radio Days [独り言]

Radio Days



まもなく還暦近い私はここ数年、中高生以来のラジオっ子、っていうかradikoっ子になった

特にスマホとradikoの登場以来、ラジオを聴く時間が増えた。



お気に入りの番組を列挙させて頂く。



■TOKYO FM

山下達郎のサンデーソングブック

The Life style Museum(ピーターバラカン)


■InterFM

Barakan Beat(ピーターバラカン)


■NACK5

K's Transmmision(坂崎幸之助)


■ニッポン放送:

吉田拓郎のラジオでナイト

飯田浩司のOK! Cozy up !(ゲストでチェック)

須田慎一郎のニュースアウトサイダー

笑福亭鶴瓶の日曜日のそれ


■ラジオ日本

宮治淳一のラジオ名盤アワー

クリス松村の「いい音楽あります」

全米トップ40 デラックスエディション


■ラジオNIKKEI

伊藤洋一のRound Up World Now

週刊日経トレンディー

よみラジ

テイスト・オブ・ジャズ


■文化放送:

おはよう寺ちゃん活動中(ゲストでチェック)

ラジオのあさこ

須田慎一郎のこんなことだった 誰にもわかる経済学


■TBSラジオ:

森本毅郎のスタンバイ(7:00以降)

伊集院光とラジオと(8:30~9:00頃まで)

荻上チキsession-22(最近は内容によって選別)


■NHKラジオ

語学講座(英語、中国語、韓国語)

カルチャーラジオ 歴史発見

カルチャーラジオ 科学と人間

著者からの手紙



お陰様と言うと変だが、テレビへのアクセス時間の絶対数が減った。
多分私みたいな人はマイナー人種だろう。

でも確実に存在する人種でもある。


中高生時代、ラジオはながら勉強をしていた時代に本当に良く聞いていた。

私は長野県の山深い場所で育った人間なので、

当時、ラジオの民放AMは直接的には信越放送しか聞けない。

というか、現代でも長野県の民放AMは信越放送しかないが・・。

(まだ長野エフエム放送は開局していなかった)


従って東京の放送局は基本的に信越放送がネットするものしか聞けなかった。

信越放送のネットの中心はニッポン放送だった。

従って当時のニッポン放送の番組は私にとっての大切な情報ソースだった。


オールナイトニッポン、コッキーポップ、たむたむたいむ、などだ。

コッキーポップはポプコンというYAMAHA主催の全国オーディションの模様を

地方選考などの様子を織り込みながら全国大会までを網羅する番組で、

大石吾朗さんがMCだった。

この番組からは数多くのアーティストが輩出され、中島みゆきさんや八神純子さんなどが

現在でも活躍している。


深夜11時にジェットストリームをやっていたのを記憶しているが、

これはTOKYO FM(当時はFM TOKYOだったかな?)をAM局がネットしていたのだろうか?

城達也さんの低音の響きは美しく、流れる音楽は私の洋楽の基礎になった。

サイモンとガーファンクル、ザ・カーペンターズ、S・ワンダーなど、

1970年代の主要でメジャー洋楽アーティストを知る機会はこの番組にあった。
今でも当時のカセットでサイモンとガーファンクル特集があるのだが、

40年ぶりに聞くと、当時の音で再現された。


私のような田舎者の中高生だと、

ヘビーな洋楽ファンやレコードコレクターに出会う事はほぼない。

従ってどうしてもメジャー級アーティストしか聞くチャンスがないのと、
ジェットストリームではハードロック系は一切放送されなかったので、そっち方面には極めて疎かった。

(ロック系はオールナイトニッポンで放送される曲か兄が聞いている曲しか知らなかった)


信越放送は、オリジナル番組も放送していたが、一番記憶のあるのは、

故・はしだのりひこさんの番組で、長野県全域に出向き、地域地域から

アマチュアの演奏家を出演させ放送していたものだった。

はしださんの番組で良く記憶しているのはイーグルスの「ホテルカルフォルニア」の特集だ。


当時の私にはちょっと大人な音楽でイーグルス自体に馴染みがなかったが、

はしださんの丁寧な解説によって本作に注目をするようになった。

また中学生時代、ゲストDJとしてこの番組に出演した記憶は私にとって宝だ。


18歳で東京に来てからラジオのお世話になる機会は減った。

1つには東京のテレビ放送局へのアクセス数の多さだ。

田舎の時代のテレビチャンネルは、民放1局、UHF1局、NHK2局だけだった。

東京に来た時はテレビ番組が選び放題になり感動した記憶がある。


加えてそれまでラジオが紡いでいたサブカル文化の中心が

テレビの深夜放送に移行しつつあったことも理由にあった。

それでもラジオメディアはまだ強いリーダーシップを持っていた。


1990年代中盤以降、私はひょんな事からラジオ番組の仕事をするようになるが、

2000年代に入ると再びラジオからは遠ざかってしまった。


それから10数年が経過し、私は前述のようにラジオに大きな親和性を抱いている。

その理由は、新聞、テレビがラジオに比べて私の期待に沿ってくれなくなったからだ。

特に2つのジャンルだ。

1つは音楽、1つは政治経済と報道の分野だ。


音楽に関して言えば、私のような1959年生まれの世代に刺さる音楽番組を放送しているテレビ局はない。

例外は一部のBS放送局だけだが、少数派だ。

テレビメディアは現代を切り取るため、過去には目を向けにくい。

従って自然とラジオに耳が向く。


山下達郎氏のサンデーソングブック、宮地淳一氏のラジオ名盤アワー、

坂崎幸之助氏のK's Transission、全米トップ40 The 80's、ピーターバラカン氏の一連の番組など、

所謂フォーク・ロック世代の私にとってこれらの番組は、内容の質、解説のレベルの高さで外せない。

1週間、これらの番組を聞いているだけで50~60曲程度のGood Musicに出会える。


YOU TUBEもあるだろうという人もいるだろうが、YOU TUBEだと自分の好みの範囲を脱するのが難しい。

自分がアクセスしそうもない音楽に出会うためには

高度な音楽情報を持った優秀なDJの選曲によるラジオの音楽番組ほど最適なものはないと思っている。

だから必然的に現代のヒット曲には全く疎い。仕事柄だがK-POPの方が良く知っているくらいだ。


さて、政治経済と報道の分野をラジオに頼るようになった事についてはキッカケがある。

ニッポン放送で2017年3月末まで約6年間放送していた「ザ・ボイス そこまで言うか!」だ。

特に印象的だったのは、有本香氏という人物だった。

彼女は小池百合子氏が東京都知事に立候補し、大旋風を巻き起こし、主要メディアが持ち上げている中で、

ただ一人と言って良いほど小池氏に批判的な人物だった。

当時の私でさえ、有本氏の小池批判については、ちょっと度が過ぎると感じていたのだが、

その後小池氏が知事に当選すると、豊洲移転、オリンピック関連等の差配において、

有本氏が指摘していた通りの問題が勃発し、結局彼女が予言していた通りの事が殆どそのまま起きた。

その過程を経験し、彼女の卓説した視点と分析に開眼した訳だ。


彼女はテレビメディアにも時折登場するが印象的な扱われ方をされてこなかった。

それに比してラジオメディアは、彼女の主張と根拠やその後の事象をある程度の時間をかけて

解説、分析してくれるので、リスナーには刺さり易かった。

また有本氏周辺に集う経済学者、政治評論家たちが指摘している様々な視点は、

テレビ新聞メディアでは殆ど報じない内容で、

ラジオコメンテーターのほとんどはメジャーならテレビ番組では見かけない。

こうした点は私の興味を引いた。


当然彼らと反対の立場を貫く様々な同業者がいるのだが、自分自身で様々に勉強し、検証をしてみると、

「ザ・ボイス そこまで言うか!」に登場していた青山繁晴氏、上念司氏、高橋洋一氏、宮崎哲哉氏、長谷川幸弘氏らの主張や解説は、十分に聞くに値するものだと分かるようになってきたのだ。

彼らに共通しているのは「観念的でない」点だ。

出来る限りファクトと数値と一次情報に基づいた情報に基づいて発言をしようとしている。


左派系からは政権寄りと言われているが、彼らは決して政権の全てを是としていない。

特に青山繁晴氏、高橋洋一氏、有本香氏の発言には注目している。


ラジオ以外で唯一と言っていい素晴らしい政治経済番組があった。

BSフジの「プライムニュース」だ。

当然この番組には「ザ・ボイス そこまで言うか!」のレギュラー陣の一部も出演している。

「プライムニュース」の素晴らしい点は、賛成反対の両方を取り上げている点、

また当時の司会の反町理氏の質問力にあったろう。

残念ながら2018年4月から司会が交代したため、番組の質問力はゼロになってしまったが、

それでもゲストには目を見張るべき人物が出るので、チェックはしている。


その上で信頼に足る知識人がネットで展開している情報ソースへのアクセスにもつながった。


こうした視点(ラジオとネット等)を加味してテレビのニュース番組や

報道コメンテーターやジャーナリストと称する人たちを起用している番組の

情報を見ていると、確度が怪しいと感じ始めた。


特に第2次安倍政権初期に日銀の金融緩和を完全否定していたような経済学者が言っていた、日本の財政への懸念やハイパーインフレ論、国債の引き受け手がなくなるなどの主張は全て誤りだったと分かり、

これらについて一番正確な主張をしていたのは高橋洋一氏だということも分かった。

高橋洋一氏はとても変わったオジサンなのだが、数理で導く主張には他の追随を許さない視点があり、

常々私の関心の的になっている。

もちろん彼の主張は元の職場である財務省から忌み嫌われており、マジョリティーにはなってないが、

少なくとも財務省の紐付き経済学者より遥かに精度の高いロジックと情報を出している。


また国会議員の青山繁晴氏は、非常に広範な情報網からメディアでは絶対に出ないような解説をしてくれる。

ラジオ番組にも放送の時間制限があるが、テレビに比べれば主義主張を語る時間は長いため、じっくり話が聞ける。

もちろん上記と全く反対の意見を持つ人たちもおり、彼らの話も聞くことが可能だ。
彼の話をまとめて聞く場合は、YOU TUBEの「虎ノ門ニュース」が最適だろう。


宮崎哲哉氏の解説で最も印象的だったのは、日本経済新聞が買収したフィナンシャルタイムスが、

アベノミクスを分析し、高く評価した連載をしていたのにも関わらず、

日経新聞ではそれについて一切取り上げなかったというものだ。

こうした情報の選別は新聞側の編集権なのかもしれないが、

同族会社の情報を意図して無視するような日経新聞には余り信用度が置けなくなった。


こうした情報もラジオのようなメディアでないと聞けないかもしれないものだともいえる。


こうした点においてラジオメディアは非常に面白いのだ。

TBSはテレビもラジオも含めて政権に批判的だから批判的な視点を知る事が可能だし、

ニッポン放送と文化放送は政権に対して是々非々的なポジションで面白い。

ラジオ日本はその中間と言ったところだろうか?


政権に批判的な視点の先頭にいるメディアは新聞なら朝日、毎日新聞、テレビならTBSとテレビ朝日だろう。

朝日新聞は、もはやクオリティペーパーとは言えない報道が目立ち、

左派機関紙と言っていいような内容ばかりになってしまっており、

巨大で歪んだプリズムで世の中を見ている感じなので私は全く読まない。

毎日新聞は昔から読んだ事がない。

昨今の40代以下で新聞を読んでいる人はほとんどいないらしいからいずれ新聞は消滅すると思うが、

そろそろ本気でクオリティペーパーを目指す良い時期だろう。

そもそも日本は何紙の新聞社があるんだろう?

あんなに要らないだろう。

ちなみに高橋洋一氏は新聞を一切読まないそうだが、全く困った事がないと言っている。

逆に池上彰さんや佐藤優さんは全紙チェックしているという。
この辺りの人たちは頭脳的にもトップの人たちなので、私と同等には扱えないが、興味深い。


TBSとテレビ朝日の報道関係の視点は、左派色が強過ぎてバランスを欠いているように思う。

事実と評論の区別がなく、また情報編集の度合いが強すぎて印象操作が激しすぎる。

この2局に限らないのだが、ニュースの司会者が情報に対して意見評論をするが邪魔だ。

以前の私はこの2つの放送局をとても支持していたのだが、

ここ数年、テレビ報道を俯瞰するると、とても見るべき報道の質になっていないと思う。


現代でもテレビでは言えないが、ラジオならOKという文化があるのが日本の変なところだが、

そういう点でラジオは特異なポジションにあると思う。

しかしラジオメディアは衰退メディアである。これは事実だ。

ネットがメディア化する現代において競争は厳しい。

それでもラジオが持つ独特の文化や発信力には期待をしている。


こうしたお陰で私はテレビの報道番組を殆ど見なくなった。

チェック程度に見るのはNHKのニュースと、民放の定時ニュース程度で、

報道ステーションは後藤キャスターの能力に見切りをつけたので視聴を止めた。

またNHKのニュースでさえもかなりのバイアスがかかっていることも良く分かるようになった。


現在私は、情報ソースとして、ラジオ(+radiko)、ネットニュース、YOU TUBE、書籍(雑誌含む)が中心だ。

新聞は週に1度日経の書評と書籍の広告を読むためだけに買う。

テレビのニュースは、どんな情報出しをしているかの確認をしているだけになった。


また、テレビ局や時事通信が出す世論調査は全く信用しなくなった。

理由は単純で、彼らの調査は総務省の年齢別人口分布に全く一致していないことが分かったからだ。

アンケートは電話での対応が多く、回答するのは必然的に高齢者が多くなる。

しかし世論調査を公表する際、テレビの連中はそういうバイアスがかかっているとは言わない。

10年ほど前までは、一部の人たちがテレビや新聞報道が歪曲されていると叫んでいても、変わった人たちなんだろうという程度でしか見ていなかったが、Twitter、YOU TUBE等で知る彼らの主張を現実と比すると、テレビや新聞報道のフィルター度合いがハッキリ分かり始めてきたのだ。


若い連中の母数が少ない世論調査は、調査として正確でないのだが、

それでもテレビ、新聞は平気でそれを出す。

しかしラジオになれば、その情報に関するキチンとした解説と背景を言う人たちがいて良く理解できる。
これはテレビには出ない、もしくは出れない連中がキチンとそういう話をしてくれるからだ。
また大抵の場合、解説にはそれなりの時間があり、説明の時間も長い。

こうした人たちの解説を信じられそうだと思った根拠は、世論調査の実態を調べるために、テレビ局と同じ法市区を実際に金をかけて同じような調査をやってみた人がいたからだ。


テレビ報道では絶対にそういう形式の情報は出ない。

またネットで同じような調査をやるとテレビ局や時事通信が出す世論調査とは全く一致しない。

ネットの調査をどの程度信頼できるかは難しい面もあるが、

テレビ局や時事通信が出す世論調査が余り当てにならないことだけは確かなようだ。


「ラジオ」止まらぬ高齢化、若者呼び戻せるか
スマホ・AIスピーカーで変わる音声メディア




ラジオメディアに親和性が出たのは年齢的なこともある。

ずっとテレビを見て集中するのが辛いってことだ。

またテレビを消す癖がつくと、無くても寂しくない事に気が付く。

私は今でもテレビっ子な部分があるが、

年齢と共にテレビへの依存は減るだろうと思い始めている。


若い人を音声メディアに誘導するのはなかなか楽ではない。

だが、若い人たちが支持する人気者の中から、ラジオの方がテレビよりも面白い人が多数生まれてくれば、必然的にラジオメディアには人が集まるだろう。
また若いリスナーには若い人気ものを、私のようなオッサンには、政治、経済、歴史などを深堀してくれる番組がいい。またその両方を包括してくれるのも助かる。

いずれにしても私はラジオ【radiko】派になりつつある。





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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(3) [独り言]

大瀧さんの自宅スタジオのコントロール・ルームは、コンソール、アナログの録音機(確かTASCAMの16chだったかな・・)、モニタースピーカーなどの機材関係と大瀧さんが入るだけのスペースしかなかったので、アレンジャーのTさんと私は部屋前の廊下に機材を置いて作業を補助させてもらった。

アナログのテレコにローランドのSBX-80から出力したSMPET信号を録音し、その信号をSBX-80に戻し、MIDI経由でNECのパソコンで動作していたカモンミュージックのシークエンサーを同期させて動かした。

PCの打ち込みは大瀧さんから譜面を渡されたアレンジャーのTさんが行い、音源出しは私がやったように思う。サンプラーはAKAIのS900だったろう。他に使った機材はYAMAHAのDX-7ⅡやRoland D-50辺りを使用してたと思われる。
作業をしながら大瀧さんが今回の音楽制作を頼まれた経緯を聞かせてくれたが、細かい話は記憶の彼方だ。


ランチの時間は、大滝さんが常連にしているというステーキハウスに連れて行ってくださった(と記憶している)。
このステーキハウスは水道橋博士の書籍の記載にも登場するが、大瀧さんが常連だったのは本で初めて知った。
結構なボリュームのステーキだったし、当時の私には物凄いごちそうだった。
食べながら何の話を聴いたかは殆ど記憶がないのだが、アレンジャーのTさんが「こいつ、大瀧さんの大ファンなのですけど、達郎さんも好きなんですよ。なっ!」と話を振ると、大瀧さんが「達郎ねえ・・、そうかあ・・、達郎はねえ・・」と達郎さんについて何かをお応えになった事はうっすら記憶しているが、達郎さんへのコメントの中身は忘れてしまった。
覚えているのは大瀧さんは達郎さんを「達郎」と呼んでいた事だ。私は心の中で、”そうかあ、大瀧さんにとって達郎さんは「達郎」なんだ・・、凄いなあ・・”と思っていた事と、大瀧さんの喋り方が達郎さんとそっくりなトーンなので、ひょっとしたら達郎さんの声やしゃべりって大瀧さんの影響があったのかな???何て考えながら聞いていた。

今考えると、大瀧さんの名盤、名曲の数々について根掘り葉掘り聞きたい事は山のようにあったはずなのだが、目の前のご本人にそんな事を聴いて良いのかどうかに迷っていたため、全く聞けなかった。
私のこの躊躇の理由は、それ以前に読んだことがある竹内まりやさんのインタビューに由来する。
その昔、達郎さんが初めて竹内まりやさんと仕事をした時、竹内まりやさんはSUGAR BABEのライブに出かける位、ミュージシャンとしての達郎さんが好きだったので、スタジオで出会った達郎さんにサインをお願いしたらしい。
すると達郎さんは彼女に対して、”プロの仕事の現場でミーハーな事は止めなさい”と窘めたというのだ。
私はそれを読んで、そうだよなあ・・と思ったのだ。

それでもあの時、大瀧さんが提唱していた分母分子論や作品の作られる過程なんかをご本人からお聞き出来ていればと思うと残念だ。
実際、私はご本人を目の前にして結構緊張していたんだと思う。


レストランの支払いは大瀧さんがなさった。


午後は引き続き作業を続行。何曲の作業をやったのかまでの細かい記憶はないが、
作業途中のお茶の時間に、コロンビア時代に出した作品のレコーディングのお話しをしてくださった記憶はある。
「あの、えっほえっほっていうヤツは、ここの廊下にマイクを2本立てて向こうの方から移動しながらやってもらったんだよ」とか、
「ここでねえ、デビュー前の鈴木君(ラッツ&スター)に歌ってもらったんだよ・・、達郎にもここでコーラスやってもらったしねえ・・」など、
多くのファンが聞いたら倒れそうなエピソードを現場で聞く事が出来た私はどれだけ幸せだったか・・。

録音作業で覚えているのは、AKAIのサンプラーで私が持っていたウッドベースの音を出した際に大瀧さんが、
「このウッドベース、結構ピッチいいねえ、本物だとこういうピッチにならないんだよねえ・・。これはいいねえ」と話されていたことは記憶している。


さて、変な話だが、この日の写真は一枚もない。
今考えると惜しい気もするのだが、仕事場にカメラを持って行って記念写真を撮らさせて下さいというような行為をするのは仕事の環境下では自分として良しとしなかったからだろう。
これは前述の件に由来することだ。
それはそれで正しい行動だったのだが、今となっては、自分が日本のロック史の現場の目撃者の1人となっていた事を考えると記録として写真を残しておけばよかったとは思う。


時間は夕刻近く、16時位だったと思う。
最初に入った時に見えた広い居間で音源のチェックを兼ねてプレイバックしながら休憩して時、当時中学生だった娘さんが帰宅してきた。

大瀧さんは娘さんにパパと呼ばれていた。どうやら翌日から修学旅行に行くらしくそんなお話しをなさっていた。
さて会話の途中で先ほどまで録音していた音源をプレイバックしている時、「君は天然色」で日本中に有名になったあの名物フレーズ「ジャンジャン、ンジャジャンジャン、ンジャジャンジャン」が奏でられた。

それを聞いた娘さんは間髪入れず、「パパぁ~ またこれなの??」と言うではないか!

私とT氏はそれを聞いて、心の中で「オイオイ、大瀧さんにそれを言うかぁ~」と思いながら苦笑しながら見守っていたが、大瀧さんは「いいの、パパはこれで!」と応え、娘さんにしか言えないその鋭い評論に一同は笑いに包まれたのだった。
この時の光景は鮮明に脳裏にある。
その娘さんが最近ご結婚なさったという報を聞き、私も歳を取る訳だ・・と思った次第だ。


今回のレコーディングで作った名物フレーズである「ジャンジャン、ンジャジャンジャン、ンジャジャンジャン」のサウンドは、サンプラーのオーケストラヒットや他の楽器群などのシンセサウンドを中心にして作ったのだが、大瀧さんの背中を見ながらスピーカーから音が流れて来た時は、本当に幸せで嬉しかった。

あれは言葉で言い表せないような幸福な時間だったと言っていい。

あの時の譜面の「絵ずら」は何となく記憶に残っている。結構オープンコードなんだなあ・・って思ってみていた。
作業は夜にまで及んだが、ちょっと遅めの夕食を取る頃には終了。

この日にファイナルミックスまでやったかは定かではないが、多分音素材の録音のみでミックスは後日大瀧さんがお独りでやられたのだと思う。

夕食は大瀧さんが大好きな野球でも見ながら店屋物ということで、確か、トンカツかカツドンか何かを注文して頂き、昼間に見せてくれたプロジェクターのある部屋で広島、巨人戦を見ながら皆で身ながら夕食した記憶がある。
確かこの部屋はサラウンド仕様になっていたはずだ。また部屋にはレーザーディスク類とVHS類が棚にビッシリと保管されていたと記憶している。

そう言えば大瀧さんって無類の野球も好きだったっけなんて思いながら一緒に野球を観戦していた。
当時、50inch以上のスクリーンで見ることが可能なプロジェクターの存在は非常に珍しく、私は初めて大瀧さんの部屋で体験したが、投手の投げる変化球の軌跡が物凄くハッキリと見えたのには驚いた。

とにかく大瀧さんは新しいテクノロジーを自分で手に入れて使う事が大好きだったようだ。

そうこうし、夕食も終わり、機材を撤収し、帰宅の途へ着いた。
楽器車のヘッドライトに映った大瀧さんの見送っていた姿がまだボンヤリ脳裏にある。


私の大瀧さんとの体験はここまでだ。
この時の音源が何処にあるのか? 
大瀧さんの死後、誰かに発見されて管理されているのかは私には分からない。
大瀧さんのことだからキチンと保管していただろうと思う。


大瀧さんは、お話をする時のテンポや仕事をする時のテンポは私が会った他のミュージシャンの誰とも違っていた。本当に不思議なオーラを持った方だったし、とても魅力的な方だった。
会話の端々に触れていると、音楽とそれを取り巻く環境との化学反応や現象に興味を持たれていた方だったように思う。
また本当に色々な音楽や映画に万遍なく触れているのが会話をしているだけで良く理解できた。

今にして思うと、たった1日だけだったがなんとも贅沢な体験が自分の人生にあったことかと思う。


私は宝くじやチケットの抽選には全く当たらないが、こういう運は多少あるみたいだ。


大瀧さんという偉大なミュージシャンが生きている時代に生まれた自分の幸運も含めて。




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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(2) [独り言]


私は、自分で大瀧さんのファンだとか言いながら、当時の私は大瀧さんのミュージシャンとしての来歴や全ての活動を完全に知り抜いていた訳ではなかった。
既に聴いていた音源は「はっぴえんど」関係、コロンビアから出ていた作品数枚、
そして「A LONG VACATION」と「EACH TIME」というところだ。
80年代に入って、来場者全員にFM電波で飛ぶイヤフォンモニターを装着させた画期的なライブをやっていたが、応募の抽選に漏れて入場出来なかった。確か中野サンプラザホールで開催されたと記憶している。

私が初めて「A LONG VACATION」を聞いたのは22歳の時だったが、
アルバム全体の出来の凄さに呆然とし、腰を抜かした記憶がある。
大瀧さんも達郎さんもアメリカンロックを共通にしているのだが、達郎さんとも全く違う独特なメロディーと世界観に圧倒され、本当に何度も聞いたアルバムだった。
後年坂崎幸之助氏が「君は天然色」のサウンドを解説した音声がYOU TUBEに上がっていて初めて知った事実に驚いたが、大瀧さんのサウンド構築のアプローチは本当に凄いなあ・・と思っていた。
当時にしても今にしても大瀧さんの音楽とはそういうものだったのだ。


「A LONG VACATION」が制作される過程は、発売30年後の記念イベントで自ら作ったラジオ番組風の音源で語っていたが、これについてはいずれ文字お越しをしようと思っている。
(この時の音声は「Road To A Long Vacation」というタイトルで、30周年記念時のイベントのために制作されたラジオ番組風の音声で、一時期YOU TUBEで聴けたが現在は見当たらない。素晴らし番組だったので残念だ。)


大瀧さんがコロンビア時代に発売したアルバム群はご本人が認めているように実験的な要素も多く、
一般的に訴求しにくい内容であったため、結果的に余り売れなかった。
そのため1970年代後期の時点で大瀧さんが経済的に困窮していた事実は、後のインタビューで知った。

コロンビアとの契約を満了する最後のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」がリリースされると時を同じくして、ON・アソシエイツ音楽出版のプロデューサー、故・大森昭男氏が大瀧さんに依頼し続けたCM音楽は、大瀧さんが考える次の時代の自分の音楽を発見する機会となり、これによって作品を貯める事が出来、やがてこの時期に作った音楽群が「A LONG VACATION」となって花開く過程は、後年、「A LONG VACATION」の30周年記念のイベント用の番組でご本人が語っていた通りだ。(掻い摘んで言えば、3年近くの間に依頼されたCM音楽の制作過程でアルバムの作品の骨子や方向性をつかみ、それをまとめたのがA LONG VACATIONだったということだ)


実は当時の私は、大滝さんとは初対面ではなかった。
ボーヤ家業を始めた1984年春、今は無き六本木ソニースタジオのロビーでで何度かお見掛けしていたからだ。
しかし面と向かってお話しする機会は今回が初めてだった。

大瀧さんは非常に包容力のある感じで出迎えて下さった。

一般的な意味でいうプロのミュージシャンにありがちな、相手を値踏みするような、ちょっと神経質そうな空気を細胞から発するような感じはなく、ごく自然で普通の感じを持った人と会う雰囲気だった。
確か、「遠い所をわざわざすまないねえ・・」みたいな事を仰っていたかもしれない。

ハウスの奥側にあった部屋には、あの有名な16チャンネルのアナログレコーディング出来るスタジオがあった。
これが噂の大瀧さんの自宅スタジオ「福生45」かあ・・と思いながら、持ってきた機材を搬入してセッティングした。

セッティング後、大滝さんはご自身の仕事場を一通り見せてくれたような気がする。

レコードコレクターとして名に恥じないコレクションが陳列していたレコード部屋、
録画された大量のVHSテープとレーザーディスク(まだDVDは無い時代だった)で占められた部屋、
当時はまだ珍しいかった50インチプロジェクターでテレビを見る事が出来る部屋など、
大瀧さんに関する噂の出どころとも言える伝説的な部屋の数々を目撃することになった。
確かテレビ室は当時では珍しい衛星放送も見る事が出来るようになっていたはずだ。


大瀧さんは自宅のスタジオでシンセやパソコンを同期させた形でのレコーディングした事がなかったので、
この日に進めたい作業の中身の概要を大瀧さんから聴き取り、
我々からこういう方法なら進めらそうですと伝えながら進行していったと思う。
と言っても、元々機材オタクの大瀧さんなので持ち込んだ機材に対する飲み込みは速かったと思う。

大瀧さんの自宅スタジオは小ぶりのコントロール・ルームとボーカルが録れるブースがあった。
コントロール・ルームはコンソールと16チャンネルのテープレコーダーがあり、
プロのスタジオにもあるようなコンプレッサー機器などもあったと思う。

このコントロール・ルームにあった主要機材は、コロンビアとの12枚の契約時の契約金を原資にして
手にいれたものだったようが、当時はそこまで知りえなかった。
印象的だったのは、丁度デジタル録音機器が出始めた時代だったので、SONYから発売されていた持ち運び可能な業務用のデジタルレコーダー(シルバーで1辺20cmもないくらいの四角い機器だったような・・)と出始めたばかりの民生用のDATデッキがあったのを記憶している。当時はプロのスタジオにもまだ民生用のDATデッキが常設される前だったので、大瀧さんの機器へのアクセスはかなり早かったように思う。


つづく。

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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(1) [独り言]

大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(1)


私の人生でたった1度だけ大瀧詠一さんと仕事をする機会があった。
私の人生にとって相当に大きな出来事だったが、その割に記憶が風化し始めている。
あの日から30年も経過したこともあるだろう。

今となっては夢と幻のような感じだ。

ご存知の通り、大瀧さんは2013年12月30日、突然ご逝去された。
訃報に触れたその日、私はたった1日だけ(正確には半日強)だったが、
大瀧さんと過ごした日の事を年末の帰省中のバスの中で反芻したものだった。


当時の私は、教授(坂本龍一氏)がヨロシタミュージックとのマネージメント契約を離れて独立したため、
同社の楽器部門を法人化した小さな会社に転籍して働いていた。
大瀧さんと仕事をする機会を得たのはこの時代なので、年代は1988年だろう思う。
月日は正確に覚えていないのだが、多分4月後半だったろう。

その日は春の陽気でYシャツ1枚でも過ごせるほどの暖かく、季節的にはうららかな日だったと記憶している。

大瀧詠一さんとの仕事のチャンスは、当時シンセのプログラマーとして働いていた時代に
懇意にして頂いていたアレンジャーのTさん経由でもたらされた。
今にしても当時としても、大変に感謝の念で一杯だ。


この時の情報によれば、大瀧詠一さんが知り合いの女優さんからある仕事の依頼もしくはお願い事を受けていて、シンセ関連で助けてくれる人を探しているというものだった。
どうやら大瀧さんは、お知り合いの女優さんが主催・出演する舞台の音楽制作を引き受けたようなのだ。
また大瀧さんはその音楽制作を殆どタダ同然(多分ボランティア)で引き受けていたようだった。
確か、その女優さんの名前は吉田日出子さんだったような記憶があるがちょっと定かではない。
従って私たちへの依頼もボランティアが前提だったので、人探しに苦労をしていたらしく、様々な人経由して我々にお鉢が廻ってきたようだった。

大瀧さんは、本来なら生演奏で音楽の録音したかったようだが、経済的な状況が許さず、
ご自身のプライベートスタジオを利用してコンピューターミュージックで作ってしまおうと考えたらしいが、
さすがの大瀧さんもシンセのオペレーション等には長けていた訳ではなったようで、
その分野で助けてくれる人間で尚且つボランティアで出来る人を探していたようなのだ。


この話をT氏経由の情報として事務所から聞かされた時、私にとって大瀧さんの仕事場に行けてお仕事をさせて頂くような機会は人生に二度とないだろうチャンスだと考えたし、それに勝る好奇心もあったので是非引き受けたいとも思った。
幸い当時の会社は1つのチャンスと経験だからと無償業務提供を容認してくれた。
これも私にとってありがたい事だった。

私自身、元々大瀧さんのファンだったこともあるが、このオファーに参加できることは素直に嬉しかった。
そしてアレンジャーのTさんと共に福生にあった大瀧さんの仕事場があるスタジオ、通称「福生45」に行く事になったのだ。


当時の大瀧さんは、80年代前半に発売した「A LONG VACATION」と「EACH TIME」がミリオンセラーで大成功していた余韻が残っている頃で、その後、松田聖子さんらに曲を書いてヒットをさせていた時代でもあった。
70年代に早すぎた日本語ロックに挑戦していたことで燻っていた”はっぴいえんど”というバンドのメンバー各位は、つまり細野晴臣氏、松本隆氏、鈴木茂氏らはそれぞれYMO、作詞家、ソロギターリストとして世間に見える活躍をしており、やっとその才能を世間に知らしめて日の目を見ていた時代だった。

音楽業界内では、ミュージシャンもスタッフも含め、大瀧さんは憧れのミュージシャンであった。
当時においても大瀧さんは自分のペースでしか仕事をなさっておらず、殆ど福生から出てこないので「仙人」とも称される生活を送っていた方だった。これは当時では珍しく自分のスタジオを持った事が大きく影響していたと思う。

当時のミュージシャンを含めた音楽業界人で大瀧さんのファンや尊敬の念を表明する人々はそれこそ無数にいるのだが、実際に会ったり、コンサートを見たり、ましてや仕事をした人は非常に限られていただろう。
そもそもレコーディングスタジオでの本人の歌入れは絶対に第三者に見せない作業をするので有名だったし、
コンサートも滅多に行う事がなく、仕事の哲学もハッキリした方だったので伝説的な話は当時ですら多かった。


2018年になってたけし軍団の一員である水道橋博士さんが著した「藝人春秋2」を読んだのだが、高田文夫さんの紹介で大瀧さんの福生の仕事場に行かれた際の記述があったのだ。
彼が本の中で著していた光景は、私がご訪問させて頂いた時の光景そのままで懐かしい気持ちで読んだし、私の記憶に薄れていた部分を補ってくれて随分と助かった。


さて、当日、会社所有の日産のハイエースに楽器を乗せて一路福生に出かける。
Tさんは自分の車で現地に行ったと記憶している。
当時はカーナビなんて洒落たものも携帯電話も無い時代だったので、
事前に渡された住所と電話番号と簡単な地図が記されたファックスを見ながら運転した。

指定された福生市の米軍ハウスの一角の一軒家を借りた大瀧さんの仕事場と呼ばれる場所に到着したのは、
午前10時頃だったろうか?
初めて見る横田基地に沿った道を進んだ先のある一角に目的場所があった。
周辺には同じような規格の住宅が数多くあったように思う。
何か、アメリカのロスアンジェルスに来たような錯覚を覚えた。

(ちなみに当時の私はまだロスに行った事が無かったが、映画で見た感覚が刷り込まれたいたのだろう)

件の建物の中に入った時の事は鮮明に記憶している。
玄関を入ると20~30畳ほどはありそうな居間のように広い横長の部屋があり、
その右の一角には放送機器として使われているターンテーブル、テープマシーンが並べられており、
また奥の壁際の棚にはラップで包装された未使用と思われるビデオデッキや様々な機器が積まれており、
1機種当たりで2~3台は積まれていたように思う。
どうやら同じ機種を数台買い、保存用としていたようだ。

入口の左手にはソファーが置かれていたが、その他の場所は整然と機器に囲まれていた部屋と言って良いだろう。

大瀧さんが機材マニアである噂は以前から聞いた事があったが、視覚的にそれが分かるような部屋だった。

その入口から”こんにちわ”と声をかけると暫くしてジーパンと格子模様のアメカジなシャツを着たあの大瀧詠一さんが奥に続く廊下の入口に現れたのだ。
”わあ・・本物の大瀧さんだ・・” 

多分私はそう心の中で叫んでいたはずだ。
喜びと感動にうち震える心を抑えつつ、冷静を装って初対面の挨拶を終えた。



つづく。

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広瀬香美さんの突然の独立と芸名の使用について考えてみた [独り言]


広瀬香美さんが突然の独立騒動で久しぶりにマスコミと世間の注目を集めている。


「広瀬香美」芸名使えない…28日移籍発表も事務所が活動禁止を通告
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180601-00000006-sanspo-ent


広瀬香美「活動は今まで通り続けていきます」と反論
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20180531-00225920-nksports-ent


これに対して元の事務所であるオフィス30はコメントを公開している。

www.officethirty.com/


オフィス30のWEBを見ると分るが、タレントは彼女一人だ。
事務所のページでは分からないが、実はこの住所は広瀬氏を全面に出したボーカルトレーニング学校「ドゥ・ドリーム」を運営している。
「ドゥ・ドリーム」の開校は2000年頃だったはずで運営にはオフィス30の社長の平野洋一氏も絡んでいるだろうと推察できる。
当然だが、住所が同じだからだ。

http://www.do-dream.co.jp/


2018年6月1日のWEB記事:
◎広瀬香美の移籍騒動、事務所が会見 2月から4度話し合いも交渉まとまらず
https://www.msn.com/ja-jp/entertainment/celebrity/広瀬香美の移籍騒動、事務所が会見-2月から4度話し合いも交渉まとまらず/ar-AAy5viA#page=2


2018年6月4日のWEB記事:

広瀬香美代理人ファクス全文 一方的な『独立宣言』否定、2月以降話し合いを行ってきた




こうして見ると社長の平野洋一氏と広瀬香美氏は長年ビジネスを共にしてきたパートナーと言える。
デビューからの付き合いだ。
その彼女が長年のパートナーを袖にして独立した本当の理由は部外者の私には分からない。

記事には、「広瀬の主張は「このままではアーティスト生命が終わってしまう。コンサート会場が満員とならないことに事務所に責任がある」というもので危機感を抱いており会社の代表権を渡すようにという要求があった。」という記載があった。
一方平野氏は、代表権を渡さなかった理由について「免許の更新もわからないような世間知らずの人が代表取締役になって会社でフォローできるのか心配があった」と説明したようだ。

これだけの情報で何かを断定できないが、アーティスト側と経営側の意思の齟齬があったことは伺える。と言っても小さい事務所と想像され、社長とタレントの距離感は本来小さいとみるべきだ。それでもこうした意思疎通の齟齬が起きている。広瀬氏の一方的ではないという抗弁はちょっと「?」で、契約とは一定の条件以外では簡単に解除できないように書いてるあるのが普通だ。例えば倒産や横領など契約を持続させるのが著しく困難な場合に限られている。色々と話したけど言うこと聞いてくれないから契約継続は止めるけどよろしくね!っていう訳にはいかないのだ。

アーティスト側としては、「コンサート会場が満員とならないことに事務所に責任がある」という意味は、自分の実力であれば設定したコンサート会場が満員なるはずで、そうでないのは事務所が仕事をしていないという見方をしているということだ。
一方平野氏からすれば、世間知らずの彼女が事務所の経営を担っても結果に繋がらず事態を悪化させるだけと見ていたということだ。

まあ、双方にそれぞれの見方と理由があると思うし、双方の主張は双方として正しいかもしれないとも思う。

非常に俯瞰した冷静な言い方をさせてもらえれば、少なくとも広瀬さんのコンサート動員が彼女の想定通りになっていないのは、主に彼女が自分自身のマーケットバリューを見誤っている点と、仮に平野氏がそれに気が付いていたとしても長年のパートナーであり傷つき易いミュージシャンの人格に本音を突きつける事を躊躇した可能性があるのだと思う。

厳しい言い方だが、コンサート動員数は市場の意思を反映しており「絶対にウソ」をつかない。また本来、彼女のような30年近いキャリアを持つベテランになれば動員数は急に増えたり減ったりもしない。
動員数が想定以下ということはキャパ設定が実力値よりも大きすぎるか、仮にそんなに大きくない小屋を埋められないとすれば、それが現在の彼女の市場価値であるというだけなのだ。
一発屋のようなヒットでブームを作り、一時的に動員が伸び、急激に下がるケースもあるが、彼女はそれなりにヒットを出しており、歌も上手いのでやり方によってはコアファンを維持できるタイプだったと思う。

彼女のようなベテランになれば、一定の固定ファンがいるはずで、そこが中心的な客になる。
近作にヒットがあるとか、露出を多くして宣伝をしたとかテレビに出る出ないは殆どコア動員に関係がない。
コアファンは長年彼女の存在に対してコミットをしており、ずっとフォローしているため表面的な活動の浮き沈みに連動しない。B'zのファンクラブ会員数は25万人と言われているが、コアファンを持ったアーティストは流行に左右されない活動がしやすいし、ビジネスの計算もし易い。
従って彼女の動員数が伸びないのは、経年に渡ってコアファンを少しづつ喪失し、尚且つ周辺の浮動票を取り込めなかったと見ていい。
そしてこれまでの彼女の存在やコンサートが本当に市場に対して魅力的であれば、少しづつだが動員は確実に伸びる。ただこれには条件があり、毎年ある一定数のライブ活動を地道にやる必要性がある。

実際彼女クラスの活動歴を持つミュージシャンでライブ動員が安定している、もしくは伸びている人たちは例外なく大きな固定ファンを持っており、またファンがファンを呼ぶ。
私の大好きな山下達郎さんは、遂に二世代目のファンが現れ、加えて女性ファンが顕著に増え益々チケットが取れない状態だ。
つまりこうした動員の現象は昨日今日の活動で生まれる訳でなく、80年代から現在に至るまでの地道な蓄積だと言える。

彼女の立場としては事務所の努力不足が動員に繋がらないと言いたいのだろうが、ベテランアーティストの場合、宣伝や仕掛けをすれば大幅に動員が伸びる訳ではないのは前述した通りだ。

広瀬さんよりもちょっと先輩の八神純子さんは、結婚後L.Aに移住し子育てをし、日本での活動に20年近いブランクがあったが、6~7年前から日本でのレギュラー活動を開始し、現在では年に数万人単位で動員出来ている。
これは彼女の潜在的なファンが現在の彼女のパフォーマンスを評価した結果で、口コミで拡がった賜物だろう。彼女はここ最近新作のヒット曲は1曲もないが、ライブ動員は無関係に好調で、東京の2000名キャパでも不安なく満員にしている。

私も八神さんのライブには何度か言ったが、50歳を過ぎても衰え知らずの彼女の唄声は確かに聞く価値がある。広瀬さんのライブや彼女のパフォーマンスや声の維持がどの程度なのかは分からないが、いずれにしても動員数は絶対的な市場価値でウソをつかないし、突然増えたり減ったりもしないのだ。

「BLOGOS:広瀬香美 事務所移籍騒動の陰で立たされていた冬の女王の苦境 」
http://blogos.com/article/301695/


ミュージシャンの性質としては、大抵の場合、売れれば自分の実力、失敗はスタッフのせいと考える傾向がない訳じゃなく、そういう意味で動員の成果に関して事務所の対応を理由にしたいのだろうが、残念ながらご本人のこれまでの活動の累積や価値の問題であると言うのが事実に近いと思し、こうした戦略的視点をアーティストと共有し対応してこなかった事務所にも大きな責任があり、特に社長と所属タレント1名のような小規模であれば尚更で、双方に課題があったと思う。

広瀬さんは2006年の離婚直後から毎年ツアーを始めたようだが、ここ10年程度のライブの履歴を見る限り、ツアー数はランダムで、会場も大きくても1500人キャパからビルボードのような会場で、最大でも年14公演で少ない年だと3公演しかしていない。正直言うと、ここ10年の活動を俯瞰すると活動の戦略性が全く見えない。言い方は悪いが場所や公演数を見ていると彼女の思いつきを汲んだようなツアー編成をしているようにしか見えないのだ。
CDが売れなくなり、ミュージシャンの収入においてライブ活動が重要になり始めたという認識が拡がった2006年以降においてもライブ活動を活発にやっている印象がなく、もう少し戦略的によく考えてマメにツアーをしてファンの固定化に尽力していたら現在の結果も違っていたかもしれないと思う。
一般的に、ミュージシャンは40代をどのように乗り切るかで50代以降の成否が決まる。そういう意味で、彼女は40代に行っていた曖昧な活動で失ったと思われる潜在的なファンが多いと思われ、今から取り戻すのは相当に難儀だと言っていい。かの山下達郎氏は40代の時期に7年もライブツアーをしない不遇とも思える時期があったが、定期的な作品発表と毎週放送しているラジオ番組とファンクラブ(ファンクラブだけのライブを行った時期もあった)でコアファンを繋ぎ留めていた。


さて、今回の独立は彼女一人で出来る訳はなく、外部協力者の存在があるだろう。


広瀬香美氏の新しい事務所、Muse Endeavor .inc :
新Web → http://www.hirose-kohmi.com
会社Web→http://www.muse-endeavor.com


オフィス30のTOPページには「広瀬香美」の名前は、弊社代表取締役である平野ヨーイチ氏が命名した芸名であり,「広瀬香美」の芸名の使用権限は,弊社及び平野ヨーイチ氏に帰属しており,
弊社当社所属のアーティストとしての活動以外には,「広瀬香美」の芸名を使用できません、と主張している。

この文面を読む限り、平野氏の主張はそういうことなのだろう。

しかし、文面だけから判断できるのは、自分が命名したから会社と平野ヨーイチ氏に帰属しており、という理屈で法的な根拠が全く記載されていない。
平野氏の主張は、名付け親、育ての親を差し置いてふざけるな!という事だろうが、
その事と芸名が使用できないという事は残念ながらリンクしない。


もし平野氏の主張通り「芸名の使用権限は,弊社及び平野ヨーイチ氏に帰属しており」であれば、
少なくとも「広瀬香美」という名前は、商標登録等で権利保全がされているか、
マネージメント契約内で完全な形で名称としての権利が契約で保全されている必要がある。


実は、J-PlatPatという商標登録を検索できるサイトで彼女の名前を探してみたが出て来なかった。
という事は少なくとも商標登録はされておらず、この点での権利主張はできないと考えられる。

そうなると、「マネージメント契約書」での主張が必要だが、彼らのように長いパートナー関係だと
最悪の場合を想定した形の綿密に書かれたような契約書の存在は怪しかもしれない。
これはオフィス30だけではなく、日本の芸能事務所で高度なレベルの内容でマネージメント契約書を締結している法人は少数だ。
つまりこの件については言った言わないになる可能性もあるということだ。



もし契約書に「かなり正確」に使用権限について書いてあり、それが更新時にアップデートされて契約記載されていなければ、平野氏の主張は道義的もしくは一部が認められる可能性もあるが、ある弁護士のコメントには、独占禁止法の抵触もあり、認められるかどうかは法廷の判断次第になる公算があるといことで、全体的な法的根拠が薄い可能性を指摘され、彼女の氏名の使用そのものが可能、不可能は判然としない。

いずれにしても、明示的な契約書や知的財産の確保の保証と裁判所の判断、もしくは示談がないと話が落ちないということだ。

独立した広瀬香美氏が引き続きこの名前を使用したいなら、早々に商標登録を検討した方がいいだろうが、
仮に平野氏が名付け親だとすれば道義的な責任を負うことにはなると思う。
彼女の新オフィス設立とWEBページの出来具合を見るとまだ仮の状態だ。
事務所の住所も何もないので、オフィス30を飛び出して、独立をファイスブックで公表したところまで
やったということなのだろう。


狭い音楽業界で今回のような独立を成功させるためには、有力がバックアップがないと活動継続が難しくなる。
あの業界ではトラブルメーカーとは関わらないようにするし、信義の問題を気にするからだ。
ただ、平野氏には芸能界の大御所のようなパワーはなく、仮に広瀬香美氏のバックに業界内の強力な協力者がいた場合、穏便に事を収める方向に事が進むだろう。
いずれにしても、今回のような独立の仕方は彼女の今後のアーティスト活動において全くプラスに働かないという点は強調しておこう。
誰かにそそのかれたにしても、52歳にもなってこういう子供じみた対処をする人物が戦略的に物事を考えているとは思えず、もう少し慎重に事を運ぶべきだったろうと思う。

また平野氏の反論会見についても、彼自身、事務所の代表としてもっと慎重に対応すべきだったろう。
それは彼女への反論を公にする目的がどこにあったかを平野氏が深く考えていた様子が見当たらないからだ。
どういうことかと言えば、もし今後も彼が広瀬氏と共同して事に当たることを目的としていたなら、会見そのものは不要であり、加えて会見で彼女に関してマイナス情報を公表する必要はことさらにない。
当然だろうが、今後一緒にやって行くタレントのマイナス情報が市場にプラス効果を出すはずもない。自分で自分の関わるタレントを批判するのは愚の骨頂であることは分かるはずだ。

また彼女と永遠に決別することに加えて自分の立場の保身が目的なら今回の会見は中途半端だったとしか言えない。つまり平野氏の愚痴を会見で述べたような印象しか残らないということだ。
いずれにしても今回の会見は目的が全く不明で、意図を見失っていたとしか言えないのだ。
企業の大小に関わらず、組織の代表者が公に発言する際は、非常に思慮深く対応しなければならない。
広瀬氏が事務所の代表である平野氏に不満があるとすれば、こういう部分に象徴される点かもしれないと感じた次第だ。


加えて彼女が校長を務め、平野氏が経営陣にいるボーカルトレーニング学校「ドゥ・ドリーム」は、現在でも彼女の名前や肖像を表に出して運営している。
学校の住所を見ても、彼女が今後この学校に関わる事はなく、事業イメージ上の大黒柱を失ったと言っていい。
学校には先生もいれば生徒もいる。コースには彼女が自分で教えているものだってあるようだ。
そういう状況下、彼女は平野氏と対決する形で独立して去ってしまったのだが、今後、学校との関わりについては彼女と平野氏の課題になるだろうし、学校のイメージ損失のリカバーも必要となる。


今回の彼女の決断が先の人生において正解だったのか、他にやり方があったのか?は分からないが、
大抵の場合、こうした強硬手段を取ると環境整理に時間とエネルギーを使うハメになって
暫くは音楽活動に集中するには難しいだろうと思う。
部外者の私が勝手に助言を出来たとすれば、まず己の現状の実力を冷静に把握し、周囲の意見に耳を傾け、地道でも中長期の活動計画を立ててそれを地道に実行して行く環境を作り、ご本人もそれを受け入れてやれるように努力すべきという感じだろう。
ご自身で会社を経営すれば事態を改善できると思っているようだが、人間にはそれぞれ持ち分というモノがあり、よく考えて方が良いと思う。50歳を過ぎるという事はそういうことが自然と分かる年齢であり、分からないとすれば彼女はもうそれまでという事になる。


さてどうなるのやら。



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フジ決算報告に見える放送業界の悩ましさ [独り言]

2017年度のフジテレビの決算が発表された。



経営陣のコメント要約では、今期売上は前期比マイナス7・1%の2606億7700万円も営業利益は11・3%アップの44億8300万円、経常利益は同6・4%アップの48億2900万円と共に増益。減収も同局としては6年ぶりの増益となった。

会見に出席した奥野木順二・執行役員財経局長は今期増益の理由について、「現場の経費見直し、特に番組制作費を前期882億から806億まで76億円落としたことが大きかったと思います」と回答。


端的には「減収増益」。増益理由は「制作費のカット」。

放送単体での営業利益率は1.9%。



フジ、6年ぶり増益!番組制作費見直しが効いた…決算報告会見




普通の経営感覚からすれば、放送って意外に儲からない仕事なんだな・・っていうことだ。
フジの決算を見て歴然としているのは、ホールディングスとしてのビジネスは、不動産部門が支えているという点だ。不動産部門は昨年比で+30%の営業利益増だ。
またホールディングス全体で見れば、本体よりも子会社の利益に依存しており、営業利益の80%を子会社が叩き出している。


またフジだけではなく地上波の放送ビジネスは利益率が低い。
経営的な観点で言えば、余り積極的に手を出したくないビジネスだ。
1年間で40億円程度の営業利益を出すだけなら他にも効率的な方法があるからだ。

正直言えば、フジの半分以下の売上で、20倍近い営利を稼いでいる業態も存在する。
おまけに人件費はフジの半分程度だ。
そういう観点で見ると、フジテレビは1人単位当たりの効率がものすごく悪いという事になるが、これはフジだけでなく地上放送系は軒並み同じだ。
ちなみにフジ系の放送事業に関わる人材(社員)は30代で年収1千万円を優に超える。50代では2000万円代がざらにいる組織だが、営業利益率や貢献度を鑑みると、明らかに高すぎるだろう。ビジネス規模だけで言えば、現在の半分程度の年収で十分と言える。
特に不動産部門で働く人たちは、自分たちの方が貢献度が高いのに放送関係より年収が低い事に不満があるに違いない。
時代的にもビジネス的にも放送で働く事が特別な時代ではなく、この辺りの放送系の人件費配分に手を付けないとこの先放送事業はますます立ち行かない時代になるのだろう。しかし人件費を下げれば人が集まらず結果的に質を落とすリスクもあり悩ましい。

地上波系の人件費は成果に対して異常に高すぎるという点と、コストコントロール以外で利益を産めない構造になっており、経営的にアップサイド(売上高を上げる施策)を狙えるウインドーがほとんどないと言える。

昨今安倍政権は、電波オークションを実施しようとしているが、地上波のニュースでこれが取り上げられないのは、彼らとして大反対だからだが、現在の放送局が支払っている数億円程度の波料がオークションで10倍程度になると言われており、そうなれば営業利益が丸ごと吹っ飛ぶ可能性があり経営に大きな打撃になるのが分かっているので反対という訳だ。

さて、フジだけではないが、売上が下がるためにコスト(制作費)を下げる経営手法には本来未来がない。売上を見込めるように改善するか、周辺事業を立ち上げる必要があるからだ。
特に編成費用はコンテンツの質に直結し、ある限界以下になればもはや地上波の質を保てなくなる。
放送コンテンツが一定の質を保てるのは、多数の視聴を根拠にした広告費用である。視聴率が下がれば広告費が下がり、編成費用も下がるという負のスパイラルに入る。

現在の地上波放送局は既にその悪循環に入っていると言ってもいいだろう。

新聞業界も同じような状況で、実質部数に比べて人件費等が高すぎて利益を産めない構造になっている。また新聞作業に従事する人たちは、ビジネス的側面で仕事をとらえておらず、社会的役割を理由にコストカットへの抵抗も多い。
フジだけではないが、地上波関係が、不動産屋がメインで放送もやっているようなビジネスモデルになりつつある現在、新聞をささえるために他の事業が貢献するような形はオールドメディアに共通した形態になりつつある。
オールドメディア苦境は、ネットを中心としたニューメディアへの移行の影響だが、ニューメディアも事業採算性では全く構造構築が出来ておらず今後の課題となっている。

正直言えば、日本の放送局数は今の半分以下でいいと思う。また新聞社の数も3つ程度で良く、現在の日本は無駄にメディアの数が多すぎる。
業界内での事業採算性が取れなくなると次に起こるのは再編だろう。
大抵のビジネスの場合、1業界で残るのは3つというのが相場だ。
放送局は免許事業であるため再編が難しいのだが、電波オークションが風穴を開けるかもしれない。
そうなれば再編への道が見えるだろう。
また新聞はいずれ再編の道を歩むだろう。

昨今電車で新聞を読んでいるサラリーマンを見かけなくなったが、もう新聞を読む時代は終わったと思っている。ネットから一次情報を得られる可能性もある時代に、フィルターの付いた記事を読むのは全くばかげている。トランプ大統領は、大統領広報を通さずに大きな決定や意見を出す初めての政治家になった。彼の言い方等は色々と物議があるが、メディアを通さない情報接触の利点は民衆にとって大きい。(同時にリスクもある)



オールドメディアに囲まれて仕事をしていると気が付きにくいが、一般民衆は様々なルートで情報を取れる時代になっている。
オールドメディアにが使わない人材からの方が圧倒的に質の高い情報にアクセスできること知る時代になり、65歳以上の人間はともかく、それ以下の層を以前のように民衆をコントロールできると考えない方がいいだろう。
実際、その動きは既に始まっている。



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「HIRED GUN」と呼ばれるミュージシャンたち [独り言]

HIRED GUNと呼ばれるミュージシャンたち


友人がネットフリックで視聴できる面白い音楽ドキュメンタリー映画を教えてくれて
見せてくれた。


タイトルは「HIRED GUN」。




「HIRED GUN」という言葉はこの映画で初めて知った。
意味は、「ミュージシャンが雇うミュージシャンたち」のことだ。
ソロにしろ、バンドにしろ、バックメンバーとして演奏する連中、
彼らを総称して「HIRED GUN」というらしい。


名も無きスタジオミュージシャンたちで最も有名なのは「Wrecking Crew」「Funk Brothers」と呼ばれた集団だったが、「HIRED GUN」は特定の一団ではなく、バックメンバーとして活躍する集団と言っていいだろう。




さてこの映画には数々の名もなきミュージシャンたちが登場する。
音楽通には名前を知る人物もいるが、大抵は一般には知られていない。
しかし彼らの演奏はライブやレコードに刻まれている。


彼らは中心メンバーであるボーカリストやバンドのサポート的存在で、決してメインではない。
特にこの映画で印象的なのはビリー・ジョエルとそのバンドメンバーたちの逸話だが、
ビリー・ジョエルからクビにされたメンバーたちの発言はかなり辛辣だ。


ある黒人プロデューサーの言葉が印象的だった。


「HIRED GUN」に必要な素養は3つ。


1、Aクラスの演奏ができる事。
2、雇っている主人の音楽の意図を素早く解釈すること。
3、カッコいいこと。


またある白人プロデューサーの言葉も印象的だった。
「1流以外は不要だ。2流のいる場所はない」



「HIRED GUN」はある意味でミュージシャンのメジャーリーガーともいる。
だが、彼らの扱われ方は決してメジャーリーガーとは言えない。


ビリー・ジョエルの元ドラムス担当だった人物は、移動の際のビリー専用の飛行機に
搭乗拒否されたとコメントしている。
現在では子供のドラムスクールなどで教えたり演奏したりする生活をしている彼の言葉には
華やかな時代を懐かしみ、戻りたいという感じが滲んでいた。


またあるバンドのギターリストは、週給500ドル(1980年代)だったと語り、
中心で活躍するミュージシャンとの格差の大きさを訴えていた。

また華やかな裏側でメインアクトとの歴然とした格差を訴えるミュージシャンもいた。
アメリカの音楽業界は全くもって弱肉強食世界だ。


ある「HIRED GUN」の1人だったギターリストは、先の展望に未来を見いだせず、
リスクを冒して全く名も無きメタルバンドのメンバーになる決意をした。
彼にとっては人生そのものを賭けるに等しい。


「HIRED GUN」の彼らが口々に言うのは、クラブで演奏して暮らすような生活は懲り懲りだという言葉だ、

ミュージシャンとして明らかにエリート層にいる彼らも、
その上にいるメインを張れるミュージシャンたちには叶わないのがこの世界のルールだ。


そのメインの人たちもいつまでもTOPに居られないかもしれないという不安と闘っている。


「HIRED GUN」。
日本にも同じような仕事をしている人たちは数多くいるのだが、
華やかな世界でトップにいられるのは僅かであることは日米とも同じだ。

ここ数年間で私が行ったコンサートで、長年に渡ってバックを務めたメンバーがあるツアーから交代したケースを2件目撃した。
1人は山下達郎さんで、30年近くコーラスをしていた佐々木久美さん、そして国分友里恵さんが2016年のツアーから交代した。達郎さんの場合、当然だが竹内まりあさんの場合においても同様の措置となる。
またもう一人はユーミンで、25年間という長期にわたって彼女のコーラスを務めた松岡奈緒美さんが交代した。

彼女の交代は、2017年12月初頭の彼女のブログにその趣旨を伝えたテキストが短く書き込んであった。
彼女らはいずれも長年ステージで活躍しており、ファンには知られた存在だった。
当事者ではないので理由は推測の域を出ないが、この3名とも年齢が50代後半であり、達郎さんやユーミンがパフォーマンスに対する再査定をしたのだろうとは思う。
プロの世界ではこういう事があるのは普通の事で、致し方ないのだが、交代されたメンバーたちは、複雑な心境だと察する。

それもこれもHIRED GUNの宿命と言える。

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