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ヒットを意図的に作れる方法はあるのか?  ヒットの設計図 [独り言]

ヒットの設計図~ポケモンGOからトランプ現象まで  

by デレク・トンプソン



ヒットの設計図――ポケモンGOからトランプ現象まで

ヒットの設計図――ポケモンGOからトランプ現象まで

  • 作者: デレク トンプソン
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2018/10/04
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)


私は年に100~120冊程度本を読む。
(言っておくが日本の読書家の中には年3000冊読むツワモノがいるのでこの数は全く多くない)


ここ十数年、読書が趣味のようになってしまった。

だから私は、友達が少ない典型のような人間なのだが、

本への逃避は他人様に迷惑をかけないから良い趣味だと思っている。


読みたい本に辿り着く方法はいくつもあるが、

新聞書評、本の中で紹介されている本、書籍店での発見など、様々だ。

今回紹介する本書は、新聞書評で見つけた。


普段、ブログで本の紹介とかはしないが、

最近読んだ中で珍しく秀逸なものがあったので記事を書きたくなった。


ヒットの設計図~ポケモンGOからトランプ現象まで~という本だ。


出来れば皆さんに読んで欲しいので、基本的には中身を全て語らないようにする。

それでも本書の何が面白いのかは語らねばらない。


私はエンタメ業界で35年近く働いてきているので、

世間をザワザワさせること、自分をザワザワさせることに敏感だ。

そしてずっと考えて来たのは、ヒットを意図的に作れる方法はあるのか?と、

何故、あるものはヒットし、ある似たようなものはヒットしないか?についてだ。


本書は、それに回答らしいものを与えてくれる。

回答らしいと言ったのは、この本に書かれている事を意識的にやれば

絶対ヒットするかは不明だからだ。また意識的に出来るかは相当ハードルが高い。


それでも、本書に書かれている分析は、非常に鮮烈だ。


何故人々は、何かに心を動かされ、時に購入し、時に体験しようとするのか?

そしてその何故を知る術はあるのか?

またそれは誰でもできるのか?だ。


その回答は本書を読んでもらうしかない。


ただ、少なくとも人間が音楽や映像、世情、スピーチ等に対して好意的な反応をする場合、

「なじみ感」が必要だと解説している。

つまり、人間は全く認知の無いものに直ぐ共感をしない特性があるからだ。

また人間は、「なじみ感」を持ちながら「驚き」を感じられると「新しい」と感じる。


本書には書いてないが、自分の体験で再現できるものがある。

SONYのWALKMANだ。

まだカセットとアナログレコードが主流の時代、

我々の普通の使い方は、アナログレコードを録音し、(アナログ盤は高価で聞くと減るからだ)

カセットデッキを部屋に置いて音楽を聞いていた。(友達と盤を交換し、カセットに録音していたからだ)

そしてWALKMANは、再生装置部分だけにして切り出して持ち出せるようにして大ヒットした。
斬新な製品だったが、既に作られていたカセットデッキの再生装置だけを切り離して持ち運び可能にしただけとも言える。


「なじみ感」+「驚き」=「新しい」の方程式に代入すると、

「なじみ感=既成のカセットデッキ」+「驚き=再生装置だけを持ち出し可能にした」=「新しい=音楽を自由な空間で持ち出して楽しめるようになった」と、いうことだろう。


音楽にも同じ事が言える。

殆どの人は、全く聞き覚えもない音楽フォームに共感しにくい。

昔から日本人は洋楽が苦手な人が多いが、

これは主要な洋楽がブルーズを基礎にして発展してきているからで、

日本人でブルーズに馴染みを持った人が少なかったからだ。

それでも海外でヒットしている楽曲の多くは、一般大衆に支持されているもので、

当然ながら日本人が聴いてもいい曲は多い。


筒美京平氏という天才作曲家がいるが、彼がヒット作を量産していた手法は、

当時、一般の日本人には殆ど馴染みのないが、

聞いたら良いなと思うような洋楽ヒット曲をベースに、

彼なりの手法で日本のポップスに変換して世に送り出していたというものだった。


「なじみ感」+「驚き」=「新しい」の方程式に代入すると、

「なじみ感=普遍的洋楽ヒット曲」+「驚き=洋楽的だが日本っぽいのメロディー」=「新しい=時代を先取りした音楽」のようになるのだろう。


実際、その後に日本で活躍するミュージシャンたちが生み出すヒット曲の多くは、

殆どがこの筒美京平方式によって作られている。

人によってはこの手法をパクリという人がいるが、それは正確な表現ではない。

あのビートルズもそれ以前のロックンロールやR&Bが音楽のベースになっており、

多数の過去のヒット曲が源泉となっている。

ビートルズが凄かったのは、オリジナリティーを進化させ、

コンセプトアルバムの発売をするなど、それまでにない音楽表現とスタイルを確立したためだ。


仮にだが、海外でヒットしていた曲を参考にして

ご自身で似ているようで似ていないような

ヒット曲のような質の音楽を生む出せるかを試してみたらいいだろう。

ほぼ無理だ。

実際、筒美氏の曲はオリジナルよりもメロディーが際立った曲が多い。


例えば、The Beatlesの大ヒット曲、Let it beは、コード進行フォームとしては、

Ⅰ(C)→Ⅴ(G)→Ⅵ(Am)→Ⅳ(F)だ。

キーはともかく、このコード進行だけをヒントに曲を書いてみて欲しい。

殆どの人は、Let it beには遥かに及ばないメロディーしか作れないだろう。


このコード進行フォームでヒットした他の世界的ヒット作品を見てみると、

JOURNEYの「Don't Stop Believe In」やU2の「With or Without you」、Bob Marleyの「No Woman No Cry」など数多い。

日本では、綾香さんの「I Believe」がそれだが、Let it beとは全く違う曲なのは明らかだ。

従って共通するアイデアがあっても必ずしも同じ結果を生むわけじゃない。
ここがセンスと才能だ。


こうして見て分かる事は、Ⅰ(C)→Ⅴ(G)→Ⅵ(Am)→Ⅳ(F)のような

黄金のコード進行という「なじみ感」がユーザーに聴くキッカケを与え、

個々のミュージシャンが作り出すメロディーやアレンジが「驚き」を加え、

新鮮味を醸成するという法則があるという事実だ。


サザンの桑田さんは、とあるインタビューで、

「音楽的デジャブ感(既視感)」と言い表していたが、

彼は20歳そこそこで「勝手にシンドバット」を作った頃から

この事に気が付いていたのだろうと思う。


例えば、JAZZというジャンルが一部を除いて日本の大衆に浸透しなかったのは「なじみ感」の欠如だろう。

JAZZに「なじみ感」を覚える大衆が少ないのは、JAZZそのものが斬新過ぎる点にあるが、元の音楽がブルーズだったことも理由だろう。

つまり馴染みがない上にアドバンス過ぎたのだ。

だから既成の曲をJAZZ風にアレンジした場合、大衆はやっと「なじみ感」を覚える事が出来るようになるが、

音楽を咀嚼出来る絶対数が少ないため多くは「驚き」へは移行しなかった。

そのため定着せず、マニアックな分野に落ち着いてしまったという訳だ。

本書では、そうした現象をMAYA(Most Advanced Yet Accetable)という単語で紹介している。

非常に先進的だが享受可能なもの、という意味だ。


ヒット曲を生む作り手は、その素質として常に斬新で先進的なものに興味を抱く。

そのため、大衆に重心を寄せ過ぎるとクリエイティビティの本質、

つまり個性や先進性を棄損する恐れがあると考えるクリエイターが多いのだが、

大衆を無視してはビジネスが成立しない。

クリエイティビティとビジネスは昔から二項対立する分野だが、

その差配のセンスこそがクリエイターの格の違いを生むと言っていい。

つまり「なじみ感」+「驚き」=「新しい」の3つの項目を成立させるための

先鋭さと大衆向けの配分が重要であり、MAYAを包括するものがヒット作に恵まれる最低条件ということになる。


全く名も知られていないあらゆる分野の新人は、

世の中に知られるようになるまで、年単位を必要とするが、

それはすなわち市場に対して「なじみ感」を浸透させる時間と言える。
それでも売れる人と売れない人を分ける「決定的な条件」は、条件が複雑すぎて必ずしも特定出来ない。

またいい曲なのに売れない曲、知られないまま消えて行く曲があるが、
これもまた「なじみ感」が浸透する前段階で賞味期限を迎えてしまったか、曲そのものになじみ感がなかったための結末だろう。


従って、多くの人やモノ、曲は「なじみ感」が浸透する前に消え、世に出る事はない。
歌手として唄が上手いだけでは世に出れない。歌手を際立たせる楽曲が必要となるからだ。
またいい曲というだけでも世に出れず、曲を際立たせる歌手が必要となる。


ズーニーブーという2人組がオリジナル作品である「また逢う日まで」は、当時全く見向きもされなかったが、その後に尾崎紀世彦氏にカバーされて大ヒットした。
尾崎紀世彦氏は驚くほどの歌唱力と表現力で1971年の日本レコード大賞を受賞したが、その後の彼にはこれを超えるヒット作が出なかった。
これは、同じ曲なのに歌手やアレンジが違うだけで化学反応の仕方が全く違うという典型例なのだが、
「なじみ感」+「驚き」=「新しい」の方程式だけでは解明できない難しさの存在を示している。


さて、世の中には、口コミという現象があるが、これも同様で、自分が支持しているインフルエンサーが口コミするものは、インフルエンサーという「なじみ感」を通じているからこそ口コミされたものにアクセスしやすくなる。

これは、古くからある手法で言えばCMであり、昨今はユーチューバーになるだろう。


1980年代、「おいしい生活」というキャッチコピーがあった。

当時、本当の斬新に思えたが、

これも「なじみ感」+「驚き」=「新しい」の方程式に代入すると、

「なじみ感=おいしい、生活という普通に使う単語」+「驚き=「生活」に「おいしい」を組み合わせた事」=「新しい=80年代感覚」となる。

「おいしい食事」という表現はあるが、「生活」という単語には使わない。

生活には味がないからだ。

しかしそれを敢えて合体させた所にセンスの高さがある。これが「驚き」を生んだ。

つまり大衆がこのコピーを直ぐに受け入れて理解したのは、

そもそもこのコピーを構成する言葉になじみがあったからだろう。


話が長くなるのでこの辺りで終わりにするが、

本書は上記以外においても政治家の演説を例を挙げ、

その演説に大衆が熱狂する言葉の在り様について解説を加えてくれているが、非常に示唆に富んでいる。


最後に1つ、NHK大河ドラマ「いだてん」が視聴率不調だという。
私も途中で見るのを止めた。
この本を読んでガテンが行ったのだが、
「いだてん」は余りにも「もなじみ感」の無い素材を主人公にしてしまった事が主要原因だろう。
金栗四三や嘉納治五郎など、そもそも主人公になる人物像が余りにも馴染みが無さ過ぎた。
従って主人公への共感を抱くために手がかりがなく、なじむまでの時間が掛かり過ぎる。

加えてそこに宮藤官九郎氏が斬新な台本と時空を超えた編集を織りなしたために、
先鋭的過ぎて、一般大衆を置き去りにしてしまったと思う。
Most Advanced Yet Acceptable(先進的ではあるがぎりぎり受け入れられる)、
つまりMAYA理論に合わせてみれば、本作は先進的過ぎて受入れが困難な素材と内容だったという事だ。
クリエイターに寄り添い過ぎるとこういうリスクもあるという好例になるだろう。
(なお、同じ作家のあまちゃんがヒットしたのは、設定そのものが80年代を中心とし、画面に出てくるアイテムや現象に視聴者の多くがなじみ感があったからだろう。それにクドカンワールドの驚きが新鮮さを与えたという訳だ)


「なじみ感」という土俵なしでは、その次に仕掛ける「驚き」に到達出来ない。
大変残念だが、いだてんは素材選定の時点で既に誤りだったかもしれない。
「西郷どん」ほどの認知のある素材でも、一時期は視聴率に苦労していた位だ。

但し個人的には「西郷どん」は大変に楽しめた。


ヒット、つまり大衆の熱狂の根底には共通した人間心理がある。

そしてヒットするものは人間心理に根差した法則の中にあることを本書は教えてくれている。

ヒットって本当に不思議なものだ。


本書、お勧めする。


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望月衣塑子記者を放置するメディアの劣化 [独り言]

望月衣塑子記者を放置するメディアの劣化


2020年9月2日17時、菅官房長官が自民党総裁選挙に立候補した。
記者会見は生中継されたが、記者からの質問は途中で中継が中断された。
その後ネットに東京新聞・望月衣塑子の質問の模様と菅官房長官の回答の様子が上がっていた。
やり取りは以下のような感じだ。
東京新聞・望月衣塑子は「色んな記者をさされてるなと感じた。心残りは都合の悪い記者に質問妨害が続いた。
番記者の厳しい追及に応じるのか…」
自民党・菅義偉「限られた時間の中でルールに基づいて行っている。
ですから早く結論を質問すればそれだけ時間が浮く訳であります」
東京新聞記者「しっかり会見時間とるか」 菅氏「早く結論を質問すれば時間浮く」
予てから望月衣塑子の質問は、記者会見場で特異なスタイルとして衆目を集めている。
彼女は記者として質問しているというよりも活動家が自己主張をしているようでもあり、
また他の媒体の情報に基づいて質問をするなど、およそ新聞記者としては頂けない人だ。
望月衣塑子の質問の特徴は、その内容の長さと内容の無さだろう。
とにかく前置きと自己主張が強く、何がポイントなのか全く分からない。
私が上場企業に転職した時、一番印象的だったのは、
仕事の出来る人間は、総じてメールの返信内容が短く的確で、
また指示や命令内容に修飾が殆どない事だった。
その反対に仕事の出来ない人間は、説明の際の前置きが異常に長く、
結論を最後に言う傾向が強かった。(結論の無い人もいた)
要するに仕事の出来るタイプは、自分の中で状況や仕事を整理し、ポイントを掴み、
設定されているポイントをクリアーするために効率的な方法や思考は何かを理解している人間だと言っていい。

一般的に言うと思考力高い人は、質問力が高い。
質問をする力は、質問する相手や内容を理解している必要がある。
残念ながら望月氏の質問を聴く限り、これに該当しない。


以下は過去の彼女の取材姿勢に関する世評だ。


“痛い”謝罪・撤回の東京新聞、望月記者 自社の了承知らないまま発言…政治部記者「一緒にしないでくれ」:





菅官房長官「あなたに答える必要はありません」 東京新聞・望月記者は何を質問したのか?全文書き起こしでわかるマスコミの印象操作~ネットの反応:




日本には記者クラブという閉鎖的権力空間がある。
これ自体が権力的グループだ。
フリーのジャーナリストはここに入れない。
完全な村社会で、おまけに全く法的根拠もない存在だ。
 東京新聞・望月記者はその一員なのだ。
その連中が先日、官房長官の会見に対する異議として
200人程度のデモをしたらしい。
頭脳の構造が全く理解できないが、
そもそも自分たちを客観視出来ないのだろう。

彼らは権力を監視し、国民の知る権利のための最前線という自負があると言う。

しかし、昨今ネット経由で様々な立場から様々な情報が得られるようになり、

これまでテレビ、新聞等が我々国民に垂れ流してきた情報が、

相当に歪んだものだと判るようになり、信頼度が落ちてきている。


特に昨今、意識あると言われる庶民が見ているという

ネット番組の虎ノ門ニュースなどを視聴している人々は、

およそテレビや新聞の報道をまともに信じる事はないだろう。


実際私も、実はそういう理由から新聞を読まなくなったし

テレビニュースもチェックするだけになった一人だ。

それでも週1位で図書館でざっと新聞に目を通す事はある。

しかし、新聞を全く読まなくても

日本や世界の政治情勢を知り、理解する上で全く困らないと判り、

少なくとも新聞やテレビニュース等のメディアには情報依拠しなくなった。


そういえば、昨今通勤電車の車内で新聞を読んでいる人を殆ど見なくなった。

多くはスマホの画面を見ている。

ニュースを読む人、ゲームをする人様々だが、

新聞の需要が減っていることは確かだろう。


新聞社はその需要減の理由を理解していないようだが、非常にシンプルで、

記事の内容が読むに値しないからだし、

他の情報ソースの方が信頼できると考える人が増えたからだ。



さてそんな折、かねてから官邸ととある記者の間がゴタゴタしている。

東京新聞の望月衣塑子記者だ。

もう彼女についての問題は様々に語られているのでここでは書かない。


ただ、彼女の一連の言動を私なりに掻い摘んで言わせてもらえれば、

東京新聞はいつまでこのド素人を放置しておくのだろう?という事だ。


また後述するが、各社の記者は、彼女に関して何等かの意見表明をしないのか?

そもそもかなり長期間、を官房長官会見であのような低レベルの質問を投げかけていること自体が
国民に詳しく伝える事だろう。
しかし、朝日新聞のように切り貼りしてあたかも彼女が意味のある質問をしているように
見せかけるのはフェアじゃない。


彼女はいわゆる「困った人」に属する。

根拠も事実の確認もない、個人的な見解や意見を官房長官会見でぶつけて

東京新聞の代表として質問をするフリをして意見を表明し、

相手からその意見への回答を得ようとする行為を繰り返し行っているようだが、

言語同断である。


彼女が国民の知る権利を盾にこうした行為を止めないのは、

かなり公平に見ても異常と言うしかないだろう。

逆に言うと、彼女のくだらない意見表明のお陰で、他社の質問時間が無くなり、

我々が知るための機会を逸している事を理解しているのか?
つまり望月記者がやっていることは、仮に国民の知る権利のためなら、そもそも矛盾した行動なのだ。

また本来の質問力の無さを見ても、記者不適格者と言っていい。

(おまけに記者として全く成果を出せていないのも事実だし、彼女は政治記者でもない)


以前、彼女が出した本も読んだが、全く内容の無く時間の無駄だった。
噂では東京新聞上層部が官房長官会見に送り込んでいるようだが、
その怪しい人事差配に東京新聞社内でも異論が出ているとも聞く。


いずれにしても、東京新聞はこのような低レベルの人物を官房長官会見に出席させている。

普通に考えれば、この行為自体が東京新聞社の意思表明と言っていいだろう。

東京新聞社にとって、官房長官会見は、

望月氏程度の人材を置いておいて良いという意味だと解釈できる。


自民党の官房長官も舐められたものだ。
東京新聞の嫌がらせなのかと勘繰りたくもなるが、
官邸の様々な反応を見て、東京新聞上層部が笑っているとしたら、
東京新聞のレベルはその程度と言っていい。


しかし、こうした新聞者と記者たちの姿勢は、そのままユーザーに伝わる。

朝日と同じ左派系新聞と言われる東京新聞だが、

2019年に嘱託を経て東京新聞を退社した長谷川幸洋氏のような

出来るだけ多くの事実と視点に対して向き合っているようなまともな人材もいる。

そのため東京新聞ではかなりの異端者だったらしいが・・。


しかし望月氏のような超低レベルの人材を、

こともあろうに官房長官会見に出席させている事実はかなりいただけない。

企業ブランドを貶めていると言っていいだろう。
それでも東京新聞上層部のお達しらしいため、誰も何も言えないは、報道組織として情けない。


望月氏は、自民党は国民と記者の敵で、
国民の知る権利のために、安倍政権は厳しく監視すべき対象で、

加えて厳しく批判すべきというだけの立場のように見える。


国民の一人として言うが、望月氏だけでなく、国民は新聞記者にこのような事を頼んだ覚えは一度もない。

また特に新聞記者にそのような事も期待していない。


例えば朝日新聞の記者が書く政治経済関連の記事を読めば分かるが、殆ど左翼機関紙と同等だ。
おまけに朝日だけでなく大手新聞社の連中がいる本社は、国から払い下げの土地で連中はそうした会社に勤め、内部留保をため込み、発行している新聞は消費税の対象外であり、特権階層と言ってもいい連中だ。

加えて取材にはハイヤーを常駐させ、高額な年俸をもらい、自分たちの主義主張を記事と称して世間にバラまき、朝日に至っては、慰安婦問題を捏造して国益を損ねているような反国家的な連中なのだ。
日本の国民は一度も知る権利の使者を委託したことはない。


記者たちの全くの勘違いだ。
頼むから「国民の知る権利」を代理しているなんて言わないでください。
特に望月記者は。


もっと言えば、新聞記者たちよりも良質な情報を発信し、

批評、論評、批判する人たちやメディアや人は数多く存在する。

そういう中で現代の記者、新聞、テレビメディアがどうふるまうべきか、

一度謙虚に考えた方が良いだろう。


望月氏の大先輩である長谷川幸洋氏は、以下のように語っている。


政府を監視し批判するというメディアの姿勢は違う。

常時政府に反対する「私」ではメディアとして自立出来ない。

政府に対して自分たちはこう考えるというのが大事。

(メディアは)自信が無いのでしょう。

横文字を縦に直しているだけではダメ。

(横文字を縦に直しているというのは新聞が官僚発の情報を新聞に転載している事実を指す)


私は彼の見方に同調している。

ジャーナリスムを語るなら、まず是々非々だろう。

左系の人々には、権力はそもそも悪で、批判対象にしかならない・・と考える人が多い。

しかし、仮に再び野党が政権を取った時、それまで政権を批判してきたメディアは、

野党が成立させた政権に対して、どういった立ち位置を取るのだろうという疑問が起こる。

長谷川幸洋氏が「政府を監視し批判するというメディアの姿勢は違う」と語っているのは

そういう事なのだ。

また政権そのものは一定の民意の集大成だ。

政権と民意はある意味で一体で、あちら側とこちら側ではない。
また野党自身も民意の顕われだ。

そういう事を全く勘案せず、権力=悪=常時監視と批判という幼稚な理屈でメディアが時の政権に対峙しているようでは、メディアが自己都合や自己視点だけの報道と称する意見表明をしているだけでは、国民の心をとらえるメディアにはなれるはずもない。


解説、批評、論評は全く次元が違う。


本来、ジャーナリスムは出来るだけ多面的な角度から見た事実をテーブルにおき、

その事実に対して多くの視点に基づいた定量的で論拠のある解説を加えるのが筋だ。

また解説に私信は不要だ。


その上で、断りを付けた上で、個人もしくは組織の論評および批判を加えるのが本来の在り方だろう。


従って、記者やメディアは、権力側に対する知る権利を行使する国民の代理人なのだという考え方は全く否定しておく。

メディアが知る権利を行使する国民の代理人というのは余りにも傲慢な発想じゃないか。

少なくとも国民の総意として、知る権利の代理をメディアや記者に委託した事実はない。


そもそもメディアは権力の一部で、

記者はその一員として同じ権力側の政府と共生する宿命を背負っている。


情報を得るために、官僚からペーパーをもらい、

特落ちしないように他社とのロクな競争もしないで横並びの情報を自社メディア出し事に終始して、

解説、批評、論評を混同している。

また朝日新聞のように捏造紛いの情報を出してまで自説を世間にまき散らす連中や、

望月記者のように、近所のおばさんから聞いたような噂話を

官房長官にぶつけて回答を得ようとする低レベルの連中が

我々国民の知る権利のために働いているなんてどういう発想で言えるのか、全く理解に苦しむ。


多くのメディアが未だにやっているが、先に自分たちの主張に合わせた結論や記事の流れを決めておき、

それに合致するか補足する情報だけをかい摘まんで編集して、

公衆にタレ流すのだが、そういう事で世間を欺く時代は終わっている。


これはネットの影響力と言っていい。
これまで資本力で網羅的に情報を流してその情報を独占していたメディアは、ネットによる個々人の発信の影響力に脅かされる時代になった。本当に良かったと思うが、それによってメディアの嘘がバレ始めている。


大手メディアが森友、加計問題であれだけの時間とエネルギーを使った理由は、

そもそも憲法改正論者の安倍首相を首相の座から下ろしたかったからで、

国民の知る権利のためじゃない。


憲法改正はそれほど日本にとってタブーだが、

民主主義国家としての在りよう、また日本周辺の外交状況の変化、拉致問題などを鑑みれば、

憲法改正をタブー視しているようでは全く未来がないと言っていい。

しかし、朝日新聞を筆頭とした左派系メディアは、これに断固反対であり、

それは憲法改正が左派系メディアを支える反日集団にとってデメリットになるからだ。


しかしネット社会の現代では、そういう意図が全てバレている事を

主要メディア側の連中も理解すべきだろう。

こうしたメディア情報を鵜呑みにする人々を「情報弱者」と言うそうだが、

もうそういう人々が多数になる時代は時間を追って終焉に向かっている。



望月記者は、立憲民主党から立候補するという噂がある。

まあ、あの政党ならさもありなんという感じだ。

人選センスの悪さは天下一品だと思う。


話はちょっと変わるが、本来、野党第一党の立憲民主党が主導して

もっと建設的な形で自民党に向き合えば、

自民党に緊張感が生まれ、レベルの高い政治運営になるだろう。

しかし、少なくとも現在の立憲民主党を始めとする野党は、

全くポイントのズレたまた揚げ足取りのような政権批判や議論をぶつけているため、

完全に自民党に舐められている。

また、野党の各議員の経済オンチ度合いは、殆ど宗教に近いほど理解を超えた状態で、

安倍政権に舐められて当然なのだが、意識のある国民はこうしたバカバカしい対応を冷静に見ている。


こうした野党の体たらくのお陰で昨今の自民党にはかつてほどの緊張感がない。

安倍首相は、2019年11月で日本の歴史最長の首相経験者となるらしいが、

これを見ても、野党の体たらくを証明していると言っていいだろう。


しかし、これは国民として最大のリスクなのだ。


自民党に緊張感を与える政策提案や、時には自民党を上回る政策論議をしてこそ本来の野党だろうが、

ポイントがずれた政権批判、反対のための反対をしているだけの現在の野党には、
そうした可能性が全く見えないのが本当に残念だ。


よく、健全な野党という言い方があるが、維新を除く野党の人たちは、

どのようにしたら自民党に緊張感を与えられる存在になるかを、

もう少し謙虚に、また真剣に考えた方がいい。
厚労省の統計問題をアベノミクス偽装などと言っているようでは、永遠に政権交代など起こらないだろう。


立憲民主党も知名度だけは抜群の望月記者のようなレベルの低い人材を取り込もうとしていると、

党にとってもマイナスだと考えている。

(逆に言うと望月記者は最も立憲民主党にふさわしい人材とも言えるのだが・・)

失礼を承知で言うが、質の低い人材を取り込んだ集団は、低い方にレベルが合ってしまう。

立憲民主党や多くの野党がイマイチなのはそんな事も理由の一つだと言っていい。



2019年7月の参議院選挙は、本来ダブル選挙になる公算が強かったが、

野党の体たらくが凄すぎて、安倍首相は単独選挙でも勝てると見ているようだ。

10月からの消費税も、何故か安倍首相は実施に向けて心が傾いているという困った情報がある。

野党は消費税反対だろうから、もっと自民党とこの問題で対峙するば良かろう。


「民主党政権は悪夢だった」と言わしめたのは、安倍首相の余裕の現れだろう。

実際、民主党政権は本当に悪夢だったが、

あのような言われ方をするほど野党(特に元民主党議員)には、実力も資質の欠片もないのだ。

かつての民主党幹事長だった小沢一郎氏が、野党結集を呼び掛けているが、

どうでまた小沢氏を中心にした政党や環境を作り、自分で金や権力の差配をしたという下心を見透かされて求心力が全くない。私心があり過ぎると人は付いてこないが、小沢氏はその辺りの欠点が全く改善される気配がない。


安倍首相に「悪夢だった」と言わせてしまう現在の野党の酷さは、

そもそも野党自身が招いているのだから、責められるべきは野党自身だろう。


話を元に戻すが、記者としても三流以下の望月氏をいつまで官房長官会見に出しているようでは、

東京新聞の未来も明るくない。
東京新聞は、時折鋭い時期を書く新聞と評価している面もあるのだが、
先ほども言ったが、組織は低レベルの人材を入れているとそこに向かって引力が働く。

そろそろ記者クラブの連中も、「一緒にしないでくれ」と思っているのなら、
東京新聞に対して望月氏の暴走への対処を進言すべきだろう。


今の望月記者の在りようは、現代の新聞記者のレベルの低さの象徴であり、

また新聞のレベルの低さの象徴でもある。

加えて、彼女に野党が飛びつくとしたら、全く同様なのだ。



かつて、ビートたけし氏が書籍の中で言っていた。
「バカかどうかは質問で分かる」


情勢を俯瞰すれば、暫く自民党が下野することはなさそうだが、

前述したように、それは国民にとってある意味でリスクでもある。























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演者とファンとの間にある「結界」について [独り言]



NGT支配人が異動で退任、山口真帆暴行事件で責任



NGTのメンバーの自宅に不逞の輩が押し入り怪我をさせるなどの問題が騒ぎになっている。このブログのタイトルにあるが、演者とファンとの間の結界を破った不届きな行為だ。この問題で、AKBメンバー指原さんが運営側に対する批判し、またメンバーケアーに関する意見をテレビでしているのを見た。彼女の言い分は正論だろう。しかし、例えば、マネージメント側が全メンバーの送迎と安全確保、また自宅のセキュリティー管理等まで「完全無欠」に出来るだろうか? 

この件、詰めて行けば行くほど、完全無欠の対応が無い事に突き当たる。仮に全メンバーの完全に近いにセキュリティーを完全に確保するなら、常時監視できる専門のセキュリティースタッフを雇い、メンバーを監視下に置き、加えて住居は一定区画に設置された建物に住まわせ、そこも24時間監視するような対応をしなければならない。
それ自体はやろうと思えば可能だが、要点はビジネス的に可能かどうかと本人たちの受け入れ方だろう。
つまり、ビジネス面で、売上に対して経費に見合う範囲を超えたら事実上はその対応が出来ないという事になる。それを無視すれば、そもそもこうしたプロジェクトを続ける事は不可能だ。またタイトな監視下で仕事をすることになるメンバーの精神衛生上の問題も出てくる。
指原さんは現状、タレントさんなので、そこまでの深い見解を述べる事まで求められていないかもしれないが、そこまでの事を想定した上でのコメントをする位の技量はあった方がいいだろう。
「ベキ論」は言うは易しで行うは難しなのだ。

多くのファンはある程度の規律の中で演者との距離感を保っている。しかし、ほんの僅かな愚連隊のような低レベルのファンが蟻の一穴になって事を面倒にしてしまう。こうした一穴を塞ぐためにあらゆる想定で対応しなければならなくなりと現実が回らなくなるという事は世の中に様々ある。特にメンバー数が多いプロジェクトにおいて、全員を完全な管理下におくのは現実的じゃない。その上で、出来る事、出来ない事を整理し、優先順位をつけて行うしかないだろう。超最悪の事例だけを取り出して対応を考えるべきなら、殆どの事は廻らない。本件を見ていてそういう感想を持った。
なお、ファンと演者の結界を超えて、メンバーの自宅のあるマンション内に部屋を確保していたという報道を聞き、何事も過ぎたるは及ばざるが如しで、HGTにしろAKBにしろ、人間的にも未熟な年齢のメンバーたち、また大人であるはずの関係者は、こういう生理的にも人間的にも圧倒的に不快で気持ち悪い連中を明るい光に集まる蛾のように呼び集めてしまうこうしたプロジェクトのリスクを意識しておくしかないだろう。
少なくともメンバーや関係者が外部に漏らしていけない情報が何であるか位は、改めて社会常識として教え、共有しておく必要はあろう。個人情報の漏洩がどういう結果をもたらすのか、今回で分かっただろう。



さて、関ジャニ∞の大倉忠義氏が自身のブログにおいて、

行き過ぎたファンへの“苦言”が話題になっている。


ジャニーズアイドル、“精神的苦痛”公表の裏に芸能事務所の変化も:




タレント(ミュージシャンや演者、以後演者とする)とファンとの関係性は、

お互いの立場から全く違って見えている。


ファンから見る演者は、ファンタジーと実像と妄想の対象であり、

永遠の存在にまで昇華しうる「究極的な存在」だ。


片や演者からすれば、ファンはとても有難い存在だが、

ファンとはあくまでも「記号的総体」であって

個々人ではないという点だ。


つまり、演者からは個々人を意識しないが、

ファンは演者を個々人として意識している点が決定的に違う。

この違いを理解していないと双方に不幸を招く遠因にもなりうる。


ファンがある程度大人の場合、

演者への距離感をわきまえている人が多く、トラブルは少ないが、

ティーン周辺の年齢の人たちや思い込みの激しい人の場合、

演者との距離感を取れずに自己中心的に暴走する事がある。


距離感のない暴走とは、すなわち演者とファンの間にある「結界」を破る行為だ。


関ジャニ∞の大倉忠義氏が訴えているのは、

「結界」を平気で超えて来るファンは、ファンには値しない、

つまり暴徒と同様であると言っているに相違ない。


エンタメビジネスは、ファン(客)に対してある種の共同共感と共同幻想を作り出す事を生業としている。

それは感動であり、共感であり、驚嘆に類するものだと言っていい。

カーペンターズの名曲の中に「Super Star」というレオン・ラッセルの書いたものがあるが、
歌詞を読むと分かるように、Super Starに憧れる少女の切ない想いが伝わる内容を唄っている。
今も昔もスターへの憧れと妄想は、この曲の歌詞の示すものと余り変わりないだろう。
「Don't you remenber you told me to love me baby(私に愛しているって言ったの覚えてないの?)」何て言う辺りはかなり切ない。

「Super Star」歌詞:
http://www.utamap.com/showkasi.php?surl=E04449



演者側は、音源にしろ、ライブステージにしろ、

創造的なファンタジーや作品を媒介として市場に届け、

それを受け止める側であるファンが選択的に支援、応援をする構造になっているが、

支援方法にはルールがある。


それはファンと演者の間の「結界を破らない」という事だ。


例を挙げよう。


演者のプライベートに無暗に立ち入らない、ステージに無断で登らない、

個人的な対応を迫らない、まとわりつかない、

演者の発表する作品や活動には対価を持って支援するなどだ。


特に、演者が公式的に公開している部分以外の場所や時間に

ファンが立ち入るというのは、完全にルール違反だ。

演者はロボットでなく人間であり、プライベートもあれば、見せたくない事だってある。

それは我々と一緒なのだ。


もし、自分の私的空間に知らない他人が四六時中まとわりついていたら

耐えられなだろう。彼らだって同様だ。

よく、プライベートで出会ったスターに会った途端に「私、ファンです」などと言って、写真を撮ったり、握手を求めたり、サインをネダッタリする人がいるだろうが、先方は相手のファンと称するあなたを知らない訳で、常識的に考えれば非礼な行為だろう。有名税という見方もあるが、限度というものだってある。
また当然だが個々のプライベートを侵害するのはもっての外だ。


大倉忠義氏が訴えているのはそうした主張に過ぎない。

スターだろうが有名人であろうが彼らも人間であり、

私的空間は保護されるべきなのだ。


もちろん演者側にもルールがある。

ファンには個人的、組織的な欲を叶えるための道具にしないという事だ。


「結界」は双方に課されたルールの臨界地点と言っていいだろう。


以前、とある有名バンドにストーキングしている女性ファンの話を関係者から聞いた事があるが、

その行動の様子は殆ど病的と言っていい。


ライブ中の移動の新幹線やタクシー、宿泊先ホテル、打ち上げ会場の飲み屋に至るまで

調べ尽くして付いて来ると言っていた。関係者にとって、こうした人物は要注意対象となる。


70年代、海外のロックミュージシャンと肉体関係を持つために

ストーキング紛いの行動をしていた連中をグルーピーと言った時代があったが、

肉体関係を除けば殆ど同じ行動様式と言っていい。


関係者からすればこうした人物は要注意対象となる。


演者にとってファンとはあくまでも「記号的総体」と前述したが、

例外も存在する。しかしあくまでも「例外」だ。


演者とファンの間の「結界」は、共同幻想を共有するための絶対的ルールだ。


もちろん憧れの末に自身が演者になったりスタッフとして業界に入り、

演者と近い関係を構築できる場合がある。

しかしその場合、自分自身が結界の中にいるため、

その世界の常識的なルールによる行動を強いられるため問題ない。

仮にそれが個人的な関係に発展しても、プロどおしの問題となるからだ。


私はかつて結界の中で生活をしていた。

そして現在は結界の外で生きている。


現在の私は、結界の外で、いちファンとして演者に接しているのがとても心地いい。


だから結界の中に戻ろうとは思わない。


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鳥の唐揚げ [独り言]

鳥の唐揚げが好きだ。
でも、中々自分の好みにあった鳥の唐揚げに出会わない。
勝手ながら私の好みは以下だ。
もし、この好みに合う鳥の唐揚げの情報をお持ちなら、お知らせください。
出来れば東京都内なら助かります。
(1)1個のサイズが余り大きくない方がいい。1口サイズか1口半サイズ。
(2)ソースがかかっていないのがいい。醤油で食べたいから。
(3)出来れば中まで火が通っているのが好き。時折中心部が赤いのがあるから。
(4)タツタ揚げよりは唐揚げが好き。
(5)ジトっとした仕上がりより、カラっとした仕上がり感が欲しい。
(6)最後に言わせて頂ければ肉の美味しいのがいいですね。
ワガママでスイマセン。
次回は「とんかつ」でお願いする予定です。


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沢田研二氏 さいたまスーパーアリーナのドタキャンの舞台裏を妄想する [独り言]

沢田研二氏 さいたまスーパーアリーナのドタキャンの舞台裏を妄想する



2018年10月17日、沢田研二氏がさいたまスーパーアリーナでのライブを

ドタキャンするという報道があった。


さいたまスーパーアリーナを当日キャンセル!?

それも公式声明は「契約上の問題」とあったとしている。
ええ?! 何それ?


ライブ当日に「契約上の問題」でコンサートがキャンセルされたケースは稀だろう。

会場も半端なくデカい。

一体何があったのか?

そもそも「誰とどのような契約上の問題」があったというのか?


そのため、舞台裏への妄想が膨らんだ・・・。



沢田研二 70YEARS LIVE『OLD GUYS ROCK』ツアー予定は以下だ。



沢田氏の所属事務所は「詳しく分かる者がおらず、申し訳ありません」と話しているというが、

そうだとしたら、随分と他人事だな・・と思った。
そんなハズがある訳ないからだ。
所属事務所が詳しく知らなくて誰が知るというのだろう?
まあ、混乱の中での時間稼ぎだと思った。



2018年10月18日夕刻、ご本人が今回の件を説明したという報道がアップされていた。


沢田研二が自ら中止の理由を説明「客席が埋まらなかったから」「ファンに申し訳ない」と謝罪:



ポイントは、集客が意図と違ったので沢田氏の決断で中止と説明されている。


記事では、以下のように述べたとされている。

イベンター会社から集客状況について「9000人と聞いていたが、実際は7000人だった」と知らされた。

本番前のリハーサル時、観客が座れないように客席がつぶされているブロックが目立ったことに腹を立てた。

イベンター会社から予定通り開催するように土下座で懇願され、押し問答となったが、

最後まで首をたてに振らなかった。「今回はできませんと1分でも早くお客さんに伝えてほしかった。

僕が帰らないと収まらないならと、3時45分くらいに帰った」と説明した。



これを読んでファンはどう思うだろうか?


主役である沢田氏が集客数に不満を持ち、中止を自ら決定し、中止の事実化するために帰ったというのだ。

しかし中止情報を解禁する前の段階である”3時45分くらいに帰った”というのは、幾らなんでもひどくないかね? 


スーパーアリーナの総キャパを考えれば、9,000人も7,000人も大した問題とも思えない。

どちらもガラガラに見えるからだ。


記事では、「沢田は「客席がスカスカの状態でやるのは酷なこと。

『ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』といつも言ってる。

僕にも意地がある」と自身が中止を決断したことを明かした。」


確かにガラガラの会場でやるのは辛いだろう。ショックは理解できる。
しかしその主体者はご本人であると理解しておられるのだろうか?

つまりご本人のコメントにもあるが、これが彼の実力という事だ。


それでも会場は3万7千人収容の場所だが、7,000人もが来場したのだ。
武道館の70%が埋まる数が実際に目の前まで来ていた。
俯瞰して見れば、相当な動員数と言っても差し支えない。

凄い実力だ。

今回のツアーも66か所に及び、多くはソールドアウトしているという(報道によっては無料チケット配布もあるというが確認出来ないので分からない)。
古希である彼の動員力は、彼の長いキャリアを見て相当なものだと言っていいだろう。
そういう意味で名実ともにスーパースターの一員なのだ。
芸能界のエリート層と言って構わないだろう。

しかし同時に客への責任も大きくなるという事だ。
スターだから、大金を作り出せる主体者だから、

自分の感覚値だけで、何をやっても許される訳ではない。

沢田氏はこの事実をどう考えたのだろうか?


まず、沢田研二氏の所属事務所は、ココロ・コーポレーションは、コンサートの主体者である沢田研二氏の個人事務所だ。

コンサートはココロ公演事業部という部署が担っているようだ。

だから普通、ココロ公演事業部の人間が一番事情を理解していなければならない。

しかし個人事務所であるようなので、規模もそこそこだろうから、
本人を含めて今回の経緯を全員が理解していると考えて差し支えない。


事情を察するにココロは沢田氏の個人事務所で、社長も彼のようであり、

事務所のスタッフ関係者は、彼に対して客観的な事やネガティブな情報を言えない立場だろう。
中小企業的な個人事務所にありがちな構図だ。
こういう事務所のリスクは、事業上の客観性が担保されない事だ。


公演契約の詳細が分からないので明言は避けるが、

少なくとも、コンサート会場や日程について、

ココロ・コーポレーションやご本人が無関係であるなんてことは絶対にない。

実際、沢田氏は、「自らの判断で中止を決定」と発言したと報道されている。
つまり、本公演の決裁者と決定者、および責任の所在は全て沢田氏=ココロ・コーポレーションにあると

言っている事になる。
だから張本人だ。


沢田氏は、「ライブをやるならいっぱいにしてくれ、無理なら断ってくれ』といつも言ってる。」といっていた。

彼の元には、外部からの企画や日程等の提案は数多くあるだろうが、

その提案への決裁は、本来ココロ・コーポレーションが主体的にしている事項なので、

当然のさいたまスーパーアリーナのキャパや日程については、ご本人も理解し了解した上の事だろう。
何故なら所属タレントは彼だけだからだし、社長が彼だからだ。
従ってこの他人事の発言は違和感を覚える。

ひょっとしたら大型のイベントについては、ココロ以外の大手事務所に業務委託をしているのかもしれないが、開催の可否は本人も了承の上だろう。


さて、本公演のイベンターを調べると「チケットポート」名前になっている。

チケットポートはサービス名で、株式会社エニーが運営社だ。

エニーはJ:COMのグループ会社だと書かれている。

業務は、ライブ制作、アーティストマネージメント、チケットの受託販売等だ。


チケットポート(J:COMの関連会社)


事業:コンサートの制作、運営、プレイガイド業務、出版事業等。


つまり本公演の制作とチケット販売は、株式会社エニーが主体と分かる。

ネット情報では確認できなかったが、推察するに本公演の主催者は

企画をしたココロ・コーポレーション単独か、エニーと共同か、エニー単独だろう。


コンサート開催において主催者責任というものがある。

つまり、主催者は一般に公表した通りの時間と場所で開催する義務があるという事だ。

地方の開催の場合、地方のイベンターが事務所から興行権を取得し、一定のギャラ等のリスクを取って開催する。

但し、天変地異的な事象や天候不良による主催者の責任外の事情での開催不能の場合は義務免除としている。


さて、契約上の問題とは何だったのか?


実は、沢田氏は2004年に茨城・水戸市の県民文化センターで開催予定だった

「2004 沢田研二コンサートツアー」でドタキャンの前歴がある。


当時のサンケイスポーツの取材記事(と思われる情報)の抜粋だ。


沢田の公演を初めて手がけた企画制作会社「ハニープロダクション」の町五男社長はサンケイスポーツの取材に対し

「“ドタキャン”の理由は観客が少なかったためで、1764人のキャパシティーに対して約700人と半分に満たない状況だった。

沢田さんの事務所とは、『お客さんをいっぱい入れる』という条件でコンサートを企画していたが、

事務所側が直前になって『話が違う』と開演を見送った。

客席をいっぱいにできなかったのは、

私の力不足で非難されても仕方がないが、

ステージはやってもらいたかった」と肩を落とした。

一方、沢田の所属事務所は「主催者側が事前の取り決め通りにやって頂けなかったから仕方がなかった。

沢田が中止するのは初めてのことで悩んだ結果です」と怒りをあらわにしながら、

むしろ被害者であることを強調。会場の県民文化センターでは、

通常の会場使用料40万円のうち半額の20万円を、主催した「ハニープロダクション」に請求する予定という。



今回のキャンセルもこの件と同じ軸にあるようだ。
二度ある事は何とやらだ。


今から14年前の時点で水戸市の1764人のキャパに対して売券率が40%程度という事だ。

当時の彼の実力で、水戸辺りだとこの位だという事が分かる。

半分も埋まっていないことで、沢田氏が約束と違うから出演しないと言った可能性が考えられる。


さて、さいたまスーパーアリーナのキャパは「37,000名」だ。

(その次は2019年1月開催の大阪城ホールの16,000名)

ステージ設置等で座席をつぶしても3万人程度以上は確保できる。


今回の沢田研二 70YEARS LIVE『OLD GUYS ROCK』ツアーの中で、

本会場は1会場としては最大の集客場所だ。

武道館4日間、横浜アリーナ2日間に匹敵する集客を1日で行うという事だ。


さいたまスーパーアリーナを満席に出来る日本のアーティストはそこそこ多い。

ミスチル、ワンオク、セカオワ、ドリカム、サザン等だ。
かなりの面子だ。


契約書を見た訳じゃないので正確には分からないが、

どうやらココロ側がライブ制作側に「満席にする義務」を課していたらしい。
動員は出演者の人気や企画次第なので、余りこの手の約束は聞いた事がないが、そう発言しているのでそういう事としよう。

従ってココロ側は、契約条件的には、満席にしなかったことを契約違反と主張できるが、

その場合、どの程度まで埋まっていないと公演をキャンセルできる条件になっていたかは不明だ。


だから集客数を理由にした公演中止の正当性は相当に気になる。


契約を普通考えれば、ココロ側は、イベンターに沢田研二氏のライブの興行権を渡す代わりに、

30,000席の販売とそれに伴う出演料等を保証してもらい、出演を承認したという意味だろう。

沢田氏側は、30,000席分のギャランティ(出演料)と満席が保証されることでOKしたのかもしれない。


しかし、そうだとしてら、その出演判断は事務所として正しかったのか?


イベンター側は、30,000席の販売のリスクを取って興行権を取得したと仮定しよう。

しかし実際には発売後の売券状況が芳しくないことが分かり、かなり慌てたはずだ。

沢田氏のコメントにあるように「7000人/30000人」だった訳だ。

約束が違うと言ったかもしれない。


また。ひょとしたらイベンターは、この悪い販売状況を、ココロ側には直前まで言えなかったのかもしれない。

チケットが売れなかったんで、公演をキャンセルさせてくださいというのは、

確かにココロ側や沢田氏には言い出し難い事だ。


沢田氏は、来場客への対応が辛辣な面を見せることで有名な人だが、当日の客入りの悪さを理由に中止を言い出して帰ってしまうような決定をする人物であることは想像に難くない。

従って周囲には”かなり怖い人”という感じなのだろう。
実際、ライブのMCの様子を聴いても推察できる。


そうした中で、イベンター側が契約通りに満席にしようと思って大量の無料チケットをバラまけば、

当然のようにその情報がネット上に拡散し、やがてチケットを買った客が知る所になり、

有料、無料の客が対立し、ライブを成立させることが難しくなるだろうし、

当然沢田氏の名声を傷をつける事になる。
ココロ側のスタッフも、イベンター側の担当者は頭を抱えていただろう。


実際の売券状況は、1/4程度以下だったのだから、本当にガラガラだと言っていい。


契約書には満席の定義とチケットの売り方、また公演をキャンセルする条件がどのように記載されていたか興味あるが、日本の契約書だから、数値で示すような細かい規定をしていない可能性も高い。
特に芸能界では契約書を細かく規定しない、前近代的業務方法が多いのは今も変わらない。


日本のライブでは、売券状況が芳しくない中で無料チケットをばら撒く事は頻繁にあるが、

かなりの規模で行っても数百枚~千枚以下程度が限界だ。

万単位でバラまけば、必ずその行為は漏れてしまう。


さてこうした想像を逞しくした中で、今回のドタキャンは正しい行為と言えるのだろうか??


今回の売券数は7,000枚というから、

ココロ・コーポレーションからすれば「契約違反」と主張できるとも言える。


しかし、それを当日、それも開演時間直前に決定するというのは正しい行為なのか???

ココロ側が契約の話を持ち出すなら、「チケットを買って来場する客との契約」はどう考えるのか?
チケット購入者は、チケット代を払い、交通費を支払い、場合によっては宿泊までしてくる。
それは来場すれば、沢田氏のライブを見る権利が保証されているからワザワザ来る訳だ。
常識的にはこれはココロ+イベンター側と来場者の契約行為と言っていい。
発券チケットは契約書と言って過言でないだろう。


ちょっと厳しい事を言わせてもらえれば、

そもそも結果的にとは言え、キャパ設定が完全に間違っていた点において、

ココロ側とイベンター側は同罪と言える。
つまり、これは本人を含めた開催側のチョンボなのだ。
それなのに、当日のドタキャンだ。


明らかにそれ以前に中止をすることも可能であり、
誰かが相当な判断ミスしているとしか思えない。
開催側のチョンボを全て、来場客におっ被せたと言われても仕方ないほど酷い決定だったと言っていい。

また、ココロ側がイベンターにこの案件を持ち掛け、イベンター側がいっぱいにするように頑張りますという形でココロ側が受けたかもしれないが、当事者でないとこの辺りの本当の事情は分からない。


いずれにして、そもそもさいたまスーパーアリーナでコンサートをする事への集客見積もりを大幅に誤った点については、事務所側にも相当な判断のミスがあったと言われても仕方ないだろうと思う。

これは沢田氏のコメントの中で「さいたまスーパーアリーナでやる実力がなかった。ファンに申し訳なく思ってます。責任は僕にあります」に尽きるだろう。

最終的に当日の中止決定を「ご本人自ら行っていた」という発言から考えても、本件の主体的な責任が沢田氏を含むココロ側にあるのは明らかで、集客数の不足を契約違反として持ち出すのは言い訳としてに余りにも極端な決定だった思う。
スーパーアリーナクラスの会場を、当日、それも集客を理由に中止する決定をするのはそれほど異常な事だ。


過去の集客数を知る事務所側として、本当に1会場の公演で3万人も集客できると読めるような過去のトラックデータを持っていたのだろうか?


10年前の2008年11月29日、「人間60年・ジュリー祭り」はに京セラドーム大阪、12月3日(水)に東京ドーム Big=Eggで沢田研二の還暦記念二大ドームコンサートが開催されている。

両日ともそれぞれ全80曲を歌いあげ、途中休憩約20分を挟んだ約6時間半のライブを敢行したという。

京セラドーム大阪におよそ2万2千人、東京ドームに3万2千人が足を運んだとい記録がある。

ちなみに東京ドームに3万2千人は満員ではない。ドームは4万8千人入るからだ。

つまり当時のこの企画でドームで66%程度だったということだ。

それでも還暦を考えれば、もの凄い動員力だと言っていい。

あれから10年が経過した。


古希ツアーは66公演だが、その中には、武道館4日、大阪城ホール2日、横浜アリーナ1日、さいたまスーパーアリーナ1日の日程が組んである。

現行のツアーの各地のセットリストを見たが、全18曲程度の普通のライブセットだった。

なお、このセトリは、武道館でもホールでも共有の内容のようだった。
また、ライブは、本人とギター2名だけの計3名だけの出演だ。
つまりアコースティックセッションなのだ。


ちなみに横浜アリーナに行った女性が書いたブログには、会場が満席だったとの書き込みがあったので、この企画で2万弱のキャパはクリアーしているようだが、ライブ会場にはビジョン用のスクリーンすらなく、遠くの客にはジュリーの表情が全く分からない設定になっていたようだ。


俯瞰して考えると70歳で横浜アリーナを満員に出来るなんて、相当凄い人気だと言っていいが、

何故横浜は埋まったのに「さいたまは埋まらなかった」のか??


これはかなり不思議で不可解だ。
でも分かる気がする。


さいたまスーパーアリーナクラスになると、1年前くらいから会場を確保しないと適切な日程を押さえられない。

横浜アリーナが満杯になるくらいだから、さいたまも行けると思うのは無理もないかもしれない。
たださいたまの方は横浜×2ぐらいの集客数だ。


ちょっとネガティブな状況があったのは、横浜と埼玉が日程的に2週間程度しか空いてないという事実だ。

10年前のデータ等で横浜とさいたまの両方共行けると思った可能性はあるだろう。
東京ドームでは3.2万人を動員したからだ。


しかし今回のライブは、「全80曲を歌いあげ」のような大きな企画性はない。

セットリストの内容が他のホール級の会場と同じなのであることは、
濃いファンならライブ内容について情報が拡散して周知だろうから、会場とチケット代を「値踏み」をするに違いない。


同じようなチケット代とセットリスなら、小さい会場で近く距離で見る事が出来る方に行くのが人情というものだ。
多少ホールでの演出がショボくても、ジュリーの熱唱を近くで見れるならそっちを選択する。
実際私だってそういう買い方をする。


大型の会場なら演出面、セットリスト面等で全くと言っていいような違う内容を見たいと思うのが人情だろうが、どうもそこまでの違いがあった様子はない。
おまけにギター2人を従えたアコースティックセッションなのだ。

それならワザワザ大きな会場を選ばないだろう。特にさいたまスーパーアリーナは周辺座席からステージまでの距離が遠く感じる場所だからだ。
いずれにして、横浜アリーナに行ったお客で、同じ演出をさいたまスーパーアリーナでも見たいと思って行った客の重複率は想定以上に低かったと見た方がいいだろう。
超コアファンの存在は、大抵総動員数の10%程度以下と相場が決まっている。
言い方を変えると、アコースティックセッション企画で、たった二週間前の横浜アリーナの1/3近い動員をしているだけで奇跡的と言っていい。
但し、キャパ設定を誤ったという事だ。


10年前のドームは、テレビ局の煽りもあって、私でも開催を知っていたし、多くの人に知られていただろうが、

今回のツアーは私もドタキャン報道で初めて知った程で、認知度的にはファン以外には興味のないものなのだ。

だから慎重にツアー日程と会場を見積もる必要があったと思う。


スーパーアリーナが埋まらなかったのは、この辺りに原因があったと感じる。


つまりライブの企画や内容に対して大規模会場の日程の組み方が近すぎたのと、内容が大型会場として特筆すべき点が無かったのにも関わらず欲張った日程を組んだという事だ。
それだけだ。


こうして考えてみれば、本会場の公演への出演を承認しただろうココロ・コーポレーションに「非」と「責任」があると言っていいだろう。

これについては、ご本人も自身に責任があると触れているから、まさにその通りだろう。

責任とは何かと言えば、今回のキャンセルで生じた損金は全てココロ側が持つという事に尽きる。
(しかし芸能界の大物タレントにこれを交渉し、実行させるのは並大抵じゃないが・・。)

特に病気等でもなく、ライブ開催を行うことが出来る状態であるにも関わらず、イベンターが土下座をしてまで止めたのに、自らの勝手な判断でキャンセルしたからだ。
主役なので、彼が出ないと言い出せば周囲は説得するしかない。
おまけにキャンセルの原因の一因にはご本人も絡んでいる。
それを袖にして振り切って帰宅したわけだ。
凄いな・・と思う。
こういうのを本物の「パワハラ」という。
沢田氏にも色々言いたい事はあるだろうが、
当日の出演を人質にするこの態度は、社会的な許容範囲を遥かに超えていると言っていい。

会場の裏舞台は正に修羅場だったということだ。


仮にだが、集客数が設定以下であることを中止条件として公演をOKとしているのであれば、

本来はチケット販売時に客に通達すべき「重要な情報」であったあろう。
それが通達されないままで発売されているなら、来場者が何人であっても公演を実施しなければならない。


また、チケット販売数は、デイリーで把握できる情報であるため、

事務所として制作者側との間でチケットの販売数を把握する責任はある。

ひょっとしたら現場は全員知っていたが、沢田氏本人には伝えなかったか、話を作っていた可能性はある。


チケットの売れ行き情報を見れば、かなり前の段階で中止決定をすることだって可能だったはずなのだ。


結果だけでいうと、事前に中止すべきだった。それだけだ。


しかし、イベンターや事務所の側近らが、沢田氏へ忖度して言えないままズルズルと本番日になり、

さいたまの現場で動員数を伝えられた沢田氏が、現場で聞いて約束と違うからやらないと言い放った可能性はありそうだと思っていたが、会見でその通りの事を言っていたので、やはりなあ・・と思った。


まあ、関係者の心中はお察しをする。


仮にガラガラの会場でやったら、ネットに映像がアップされて拡散する可能性もあり、

沢田氏の人気がない印象が拡がる事態を事務所や本人が恐れたかもしれない。


いずれにしても、そもそもさいたまスーパーアリーナでコンサートを承認した事は誤りだし、

中止の決定についても、集客数を把握している段階で涙を呑んで決定出来た訳であり、

当日になって満席でない事を振りかざして「契約違反」と主張して中止するのは

かなり乱暴な行為だ。おまけにそれを事実化するためにご本人が会場を去ってしまったのは、
無責任過ぎるだろう。
現場の殺伐とした状況が見えるようで怖い位だ。


いずれにしても、公演関係者側には色々な事情があるのだろうが、

最も迷惑を被ったのは来場客の人たちだろう。

人によっては地方から移動費や宿泊費をかけて来ている人も多い。

チケット代だけでなく、こうした経費や時間をかけて、さいたまの現場まで来ている。

そして大した説明もなく、契約上の問題で中止というのは、余りにもバカにしているし、

行為としても杜撰の誹りを免れない。
もっというと「契約上の問題」というのは都合の良いデッチ上げと言ってもいいだろう。
しかし客や世間にはそのように公表しているから、その説明をする義務がある。


そういう意味でココロ側=沢田氏の判断と行動には重大な責任の所在がある。



前述したが、客の視点からしたら、2週間前に横浜アリーナ(18,000人)をやっており、

わざわざ改めてさいたまスーパーアリーナのような大きな会場にまで出向いて見るような動機がなく、

セットリストも演出も同じような感じだから、ツアー終盤の武道館か大阪城ホールまで待つか、地元のホールで十分だ・・という事だったのだろう。


その辺りの客の心理を読んでツアー日程を決定するのがプロというものだ。
(それでも外れる事があるが、外れてもやるのがプロだ。)

沢田氏は、7,000人も来てくれてありがたいと思わなかったのだろうか?
実際、歌手で1公演で7,000人も集客できる人はそう多くないのだ。


本来は、客が10人だろうと、満席だろうと、企画し、出演に合意し、主催制作し、

集客をかけている以上、不慮の事態を除いて、責任を持って公演を

実施するのが公演企画者と主催者、及び出演者の義務だ。

従って集客設定を誤って企画し、開催決定をした側は、

明らかに病気や声の不具合、また天変地異や台風のような災害で客が守れない場合を除いて

何があっても「実施する義務」がある。



それがプロの「プライド」というものだ。


主催側の事情で開催中止をした場合は、振替公演をすべきだが、本公演については後日検討中という情報も出ている。当然事務所が全ての経費を負担し、補填するべき案件だ。


だから辛いのは理解できるが、ガラガラであっても腹を据えてライブをやるのが沢田氏のやるべき仕事だったと思う。

確かに辛いと思う。
でもそれをやりきれば、違う価値も出たんじゃなかろうか?


もちろん過去に集客が悪くてライブを中止した例は数多い。

大抵の場合、病気等を理由にして中止するが、それらは殆どは都合の良いウソで、

客が集まらなかったからという理由が圧倒的に多い。

それでも会場に来てから中止されるよりはチケットを買った人達には遥かにストレスがない。


1980年代前半、UDOが洋楽系のスターミュージシャンを集めて代々木第一体育館と大阪球場で

ライブを企画したが、チケットが驚くほど売れなかった事例があった。

代々木第一体育館は15000人キャパだが、売れたのは300枚程度だったという。

私の知り合いはこのライブの通訳で入っていて、会場を見た人間なので確かだろう。

その人物は、背筋が寒くなるほど客が居なかったと言っていた。

しかしメンバーは、契約で演奏することになっていると集客を気にする振りも見せず舞台に行き、

アリーナ内に疎らにいた客に声をかけてステージ前に寄せて、フルセット演奏したという。


プロというのはこういう人たちだと思う。


その後の大阪球場は、台風の影響で中止となったが、チケットは全く売れてなかったという。

台風のお陰で中止となり保険が下りたため、UDOの被害は最小限だったようだし、

メンバーはフルギャラを貰ってアメリカに帰っていったという。


またUDOは2006年7月に富士スピードウェイでKISSとSANTANAを出演させた

ウドー・ミュージック・フェスティバルを開催したが、

これも150名程度しか客がいなかったが、メンバーはフルセットやった。

KISSのメンバーは客のいない状態でも普通に演奏し帰っていったという。


プロというのはこういう人たちを言う。


この時の様子はネットに画像として上がっている。



私も1990年代に故デビッド・ボウイ氏の東京ドームのライブに行った事がある。
2F席はには全く人が居なくて残念だったが、それでも2万人程度は集まっていた。
でもガラガラに見えた。

故プリンスの最後の東京ドームも、2F席がガラガラだった。
彼らのライブは今でも記憶に残るほど素晴らしいものだったが、デビッド・ボウイ氏やプリンスクラスにしてもこういう事もあるのだ。


また、近年では、東京の国際フォーラムA(キャパ:5,000)でThe Whoのロジャー・ダルトリーが行った「TOMMY」の全曲再現ライブに行ったが、これも2F席には全く人がいなかった。ということは、半分程度の2,500名程度の入りだったということだ。
それでも彼らはキチンと演奏して楽しませんてくれた。

見ているこっち側は、こんな環境下で演奏をやってくれることに対して、内心気の毒に思いつつも、素晴らしい演奏やパフォーマンスは伝わるものであり、これがプロのミュージシャン、芸事をやる人たちの在り方だろうと思う。


沢田研二氏は、昭和を代表するスーパースターだ。
でも今回の件ではミソを付けた。


2019年1月にはツアー最後を飾る武道館スリーデイズを行う。
今回の件が逆宣伝になって、多分満員になるだろう。


古希になって益々元気で、実は私も一度は見に行きたいな・・と思っていた、

しかし、今は全く興味を失った。

今回の彼の行動と判断力は、結局、沢田研二という人物がこの程度かと思わせるに十分だった。

正直、ファンタジーが失せる程カッコワルイと思った。


スーパースターに対して、人間的な完全性や素晴らしい人格なんぞを求めないが、
少なくとも彼らが社会と繋がって居られるのは、支持をしてくれるお客さんのお陰であり、周囲のスタッフの支えのお陰なのだ。もちろんご本人の素晴しい才能がステージに乗る事で、言い得ないファンタジーという化学反応が起こる。

従って大スターとはいえ、ご自身の仕事に関しては、謙虚であるべきだろうし、超ベテランスターであるが故にそうあって欲しかった。
スーパースターは常人を超える部分があるのでスーパースターであるというのは確かな事実ではあるが、
少なくとも自分の才能の発露の方法や仕事の哲学が「出鱈目」ではただの狂人と化してしまう。


いずれにしても、わざわざさいたまスーパーアリーナに来た7,000名には大変気の毒な事をした訳であり、

彼の人気と生活と活動を地道に支えてくれている大切なファンである彼らにキチンと謝罪し、
今回の不始末を補填するのが今の彼がやるべき仕事だろう。
また、関係スタッフにもキチンとした対応をしておくべきと思う。

それが大人のプロの仕事ってものでしょう。

そうでなければ残念だ。


仮にの話だが、ステージ裏では集客に不満であったりして、スタッフに対して馬事雑言があったとしても、
開演の定刻になったらプロらしく颯爽とステージに上がり、
当日、ワザワザ来た7,000名全員をステージ前に集めて、

見た目はガラガラの中でも必死に彼らのためにステージをやり切って、

ガラガラな会場を逆手にとって、その日の来場者に最高の感動をさせたら、

何万倍も沢田研二氏の価値が上がったと思う。
集客出来ない理由は様々あるが、その結果を一手に引き受ける度量が彼をスーパースターにしているのだ。

また彼をさらし者のようにしたスタッフたちも、彼の悲壮な姿を見れば、
当然だが彼に対して申し訳ないと思い、今後の結束が更に増しただろうと思う。

今回、ひょっとしたら伝説のステージを作れたかもしれないのだ。

テレビの芸能記者たちを前にした会見が、

これまでにない異例の対応と長さだったことを取り上げて、

沢田氏を擁護する発言があったようだが、

それは芸能界の内輪の論理で本質じゃない。
あの業界で沢田氏に異論をはさむ事は、沢田氏を庇護する大手事務所に牙を剥く事にもなるから

コメントには刈らなず忖度が介入するからだ。

芸能界は狭い業界であるため、仕事の関係性を維持するために、

双方批判的になりにくい面があり、従って彼らのコメントは全くコップの中の世界の戯言なのだ。

一般のファンの中には、彼のプライドの高さを理解した上でずっと応援しているファンもいるだろうから、

今回の件への受け止め方には様々なものがあるだろうと推察している。
「らしい」と受け流せる人もいれば、「ガッカリ」と肩を落とす人もいるだろう。
ひょっとしたら、私が応援しないとダメと強く誓う人もいるかもしれない。
また違う意味でツアーの宣伝になってしまったかもなったかもしれないとも思うし、

これを機会に見ようと思う人もいるだろう。
まあ、価値観なので様々で全く良いと思う。


沢田研二というアーティストは、今後もスーパースターであることは変わらないだろうと思うし、

今後もスーパースターであって欲しい。


でも望む事が出来るのであれば、「プロとして背中を見せる」スーパースターであって欲しい。

今回の件を「ジュリーらしい」と思うファンも多くいると思う。
それはそれで結構だ。


それでも私の視点としては、
今回は、プロらしくなく、短絡的過ぎて、実に男を下げたと思っている。
スターの背中が全く見えなくなった。

本当に残念だ。


それに尽きる。

厳しいコメントだと分かっているが、ご容赦願いたい。








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座席のある会場のコンサートでワザワザ立って見る人・見ない人に贈る [独り言]

座席のある会場のコンサートでワザワザ立って見る人・見ない人に贈る


最近、結構年齢層が広めのコンサートに行った。
1つはチープトリックで、もう1つは奥田民生さんだ。
チープトリックはZEPP TOKYOでフロアーが立ち見で
私が買った2階席はいずれも着席用だ。
また奥田民生さんは武道館の2階席だった。
さて、チープトリック。
私は2階席の3列目の下手寄りだった。
開演直後、目の前にいた30代と思しき女性がいきなり立ち上がった。
(チープトリックの客にしては随分と若いが・・・)
私の目の前は、彼女の背中によって突然のように視界を遮られる状態になってしまい、
彼女の背中の横からステージを見るような状態になった。
周囲を見渡すと、何名かが立っていたが、大多数は座って見ていた。

2曲ほどそのままで見たが、余りにステージが見えないのでストレスフルになり、
立っている女性に声をかけ、出来るだけ丁寧に座るように促した。
当然だが彼女の視界の先には誰も立っておらず、
彼女は座っても十分鑑賞できる位置にいたからだ。
やがて彼女は不満そうな空気を漂わせて自分の座席を立って、2階席の一番後ろの立見席に移動した。
彼女は隣の友人らしい女性には「だってつまんないモン」と言い残していたのが聞こえた。
一緒に居た女性は最後まで座って見ていたが、お陰で私は視界を確保でき、ライブに集中出来た。
さて、奥田民生さんの武道館。
この日は15年ぶりの武道館ということで満席だった。
私は久しぶりに武道館の2階席に座ったが、
かなりの急傾斜席だと気が付いた。
開演するとアリーナは一斉に立ち上がり、
私のいる2階席にも立ち上がる人たちがまばらにはいた。

その中にポツンと立っている人もそこここに居た。
幸いにして私の視線の先には立ってみる人が居らず、
視界を遮られずに済んだが、立っている真後ろの人たちは
明らかに見にくそうにしていた。

私なら絶対に前の立っている人に座れという意思表示をするだろうが、
多くの日本人は奥ゆかしいのでそんな事をしない。
でも彼らは視界を遮られて不満が鬱積しているのは間違いない。
ライブにおいて鑑賞方法はそれぞれのやり方があると思っている。
チープトリックの時の女性のように立ってみて自分のエキサイティングを高めたい方もいるだろう。
個々の楽しみ方に自由度があるとは言え、自分が立ったら後ろの視界を遮るという点において、
立つ人はかなり謙虚であるべきだろうと思う。
特に周囲に数名しか立って見ていないような場合、
立っている人は、明らかに少数派であろ、
おまけに後ろの人たちの視界を身勝手に奪うことになる。
少なくともこの点において、立っている人は「自分勝手な人」だと言っていい。
多くの観客が立って見るような状態であれば、理解の余地もあるが、
多数が座って見ている中で1人・2人立っている人は、明らかに身勝手な人だろう。
これ、映画館だったら明らかにアウトでしょう。
だからコンサートだから周囲を無視して立って見て良いだろうというのは本来の理屈と趣旨にないのだ。
実は私は間もなく還暦になる。
従ってコンサートを最初から最後まで立ってみようと思っていない。
若い人たちは立ってみたいという立場とは真反対だが、
双方にそれぞれの思惑があって良いとは思っている。
それでも立って見たい人間は周囲に相当な配慮をすべきという点で揺るがない。
チープトリックでワザワザ2階席を買ったのは立ってみなくても良い選択枝のためだ。
立ってみたければフロアー席を買えばいいし2階の後ろには立ち見席もあるから、
そこに行けばいい。
座席は「座る席」と書いてあり、座ってみるのが前提になっている。
従って立ってみる場合、普通の感覚で言えば後ろの座席の人に対して
「立ってみていいですか?」という断りがあってしかるべきだろうし、
そうでなければライブ中に大多数が立つような場面で、
初めて断り不要で立って見ることが許容されるという事だ。
もちろん1曲目から全員総立ちになってしまう場合は、
それに従うかどうかそれぞれが判断すればいい訳だ。
ポイントをまとめれば、座席があるライブでは、座りが優先で、
その場所で立って見たい人はオプション扱いになるということだ。
まずそれが前提となる。
座席のある会場で自分だけ立って良い感じになっている人は、
後ろの怒りや不満を感じないのだろうか?
もし感じないのだとすれば相当にKYかバケツに穴が開いたような脳みその人間だと言っていいだろう。
この程度の配慮も出来ない人間は、その程度だと認識しておくべきだろう。
自分の前の座席に座った人の頭が大きくて見えにくいのは事故だと思って諦めるしかないが、
目の前に座っている人が不必要に立って、
自分の視界を遮ってライブを見る行為は明らかに「敵対行為」に近い。
特に15,000円も払って見ているライブで視界と音場を遮られたら
前のヤツに金返せとでも言いたくなるのが人情だろう。

以前別の記事として、ライブで永遠と大声で歌って自己陶酔しているハシタナイ連中について書いたことがあるが、周囲に無配慮で立つ連中も、自己陶酔バカの括りに入るだろう。
ライブには様々な人たちが集うため、何をルールとするかは主催者が決めるしかないが、
周囲に様々な価値観の観客がいる前提で成立している環境では、
自分も含めて、また特に他の観客と明らかに違う行動をする人たちは、共有環境の身の施し位を考える必要があると思う。



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テレビ・メディア業界の浮世離れ [独り言]

テレビ・メディア業界の浮世離れ
池上彰氏の番組や彼自身、また彼の番組関係者が炎上している。
もうかなりネット上で拡散された話なのでここでは重ねて語らない。
少なくとも池上彰氏の名前が冠になっている番組に関して、
複数の同業者から同質の不義理とも言える体験が発信されているため、
普段から政権批判や評論をしている池上彰氏には
一定の説明責任があるだろうと思う。
冠番組を持っているということはそういう事でもある。
参考:池上彰「パクリ疑惑」へ「Me Too」騒動(八幡 和郎氏)
仮に池上彰氏がそうした経緯を知らず、全て自分の知識だけであのような番組の内容を語っており、
それが納得できる話であればそれはそれで良いだろう。
当然だが、彼の知識は誰かから教わり、また本や体験などの総合的な能力だ。
それは誰でも同じだ。
しかし、番組を構成する上で、池上彰氏の能力を上回る情報を詰め込み、
過剰な演出で博識に仕立て上げ、
池上氏も番組スタッフが集めた情報に基づいて台本を語っているのだとしたら、
俳優業としては認められるだろうが、
ジャーナリストを標榜する彼としては、その情報の出どころや引用先について
注意を払うべきだろうし、当然明らかにすべきだろう。
さて昨今、テレビメディア(報道)や番組制作について一般人らも裏側を知り理解できる時代になった。
これはネットを通じた情報によって、玉石混交ながらも
玉に近い精度情報を発信する人たちに一般人がアクセスできるようになったからだ。
そういう意味で、これまでのように大手メディア側が、視聴者をシロウト扱いして、
自分たちの思い通りに作った番組を垂れ流して済むような時代ではない事を理解すべきだろう。
私も過去にテレビ局やラジオ局の人たちと仕事をする機会があったが、
非常に魅力的な人材の宝庫であり、また優秀な人間も多い反面、
視聴率至上主義に毒された人たちも多かったのは事実だ。
彼らの多くにとって視聴率を取ることが課題なのだが、
そのインセンティブによって様々な歪みが生じているもの課題なのだ。
どうしても視聴率を取る事と番組の質を維持することの2つの課題に対して、
視聴率を取れる番組は質が良いという見方になってしまう危険性があるからだ。
実際、番組制作者は、1分単位の視聴率に対応して生きている。
そのため、相当なプレッシャーを抱え、制作過程で無理をし始める。
数字が出なければ数字の出る端的な方法へ向かいがちになるからだ。
つまり方法や演出が過激になり易いという事だ。
彼らにとっては、コンプライアンスなんて眠たい事を言っていたら視聴率が取れないという思いがある。
また大抵の場合、一般的な視聴者を引きつけるには、普通の事をやっていたら高い視聴率を取れないと思っている。
そのためどうしても過激な方向に事を進めたり、本来はあり得ないような自己ルールを外部に適用し始める。
特にテレビメディアは視聴率によってでしか価値を図れないため、
視聴率を稼ぐ事が出来る企画、キャスティング、演出、編集等をすることになる。
また一旦視聴率を稼げる企画、キャスティング、演出を見つければ、
さらにそれらを強化し始めるという事だ。
テレビ番組は作りものだ。デフォルメも多く、事実誤認や情報誘導も多い。
視聴者側は、演出の過程も分からず、素材の出どころや編集過程も知りようがない。
従って一般的な視聴者が制作背景を見抜きながらテレビ番組の接するのはなかなか困難だ。
嘗てはこうした流れの中でテレビ業界の人たちは番組を作ってきた。
しかし現代のようにネット情報発信が力をつけ、テレビに依存しない識者たちが出現する時代になり、
昔ながらのテレビ制作マンのような意識では番組の質を維持できないのは明らかだ。
あの世界だけに住んでいれば、私の書いていることなど吹けば飛ぶような話なのだが、
世間は確実にテレビ業界やメディア業界がガラパゴス化しているとみている。
私は最近殆どテレビ番組を見なくなった。新聞、雑誌も殆ど読まない。
それ以外、本は相当読む。
日々の情報源はネット(ネットニュース、YOU TUBE等)かラジオだ。
これで全く困らない。
何故かと言えば、ネットで得るようなニュースの背景や解説は、
YOU TUBEやラジオ、書籍で得られる。
また複数の見方(保守から革新)を見聞きしていれば、
自分の視点の検証も可能で、それで十分だ。
つまり一定の情報を得たら、ブロックチェーン的に情報の精査をし、あとは自分の頭で考えるということで成立するという訳だ。
これによって今までよりもオールドメディアがどれだけフィルターをかけて
情報発信し、自分がそれを鵜呑みにしてきたかが分かるようになった。
こういう人間は少数かもしれないが、確実に増えている点は強調しておく。
テレビ番組で見ているものと言えば、タモリさんの関係している一部のものか、
出川哲郎さんの「充電」、BSフジのプライムニュースくらいだ。
この2人の番組に共通しているものは、明らかに演出過多でなく、
素材映像を頑張って編集して番組にまとめている点だ。
もちろんこれらの番組にはディレクターがおり、撮影前には相当な準備をしているのは明らかだが、
受け手に悪影響があるほどではない。
BSフジのプライムニュースは、反町さんが居なくなって質問力が落ちたのだが、
ゲストの面々の質は高く、他の報道番組とは一線を画している。
なお、田原総一朗氏の番組は一切見なくなった。
彼は古い時代のドキュメンタリー作家の悪い癖が抜けず、
出演者の意見を聞くのではなく、自分のストーリーにあった発言を強要する癖があるからだ。
田原総一朗氏は政治ジャーナリストとして功績も多い人物で、大変に評価もしているが、
極めてテレビ的な彼の悪い部分が顕著でもあり、
現代においては絶滅前の恐竜になってしまったと言っていい。
テレビがエンタテインメントである以上、やらせとは言わないまでも適度な演出は必要だ。
但し、もう明らかでバカバカしいやらせが通用する時代ではない。
池上さんの番組で問題になった小学生が劇団所属の子供を使ったのは、
「演出側の理由」で、「視聴者側の理由」ではない点が痛かった。
(もちろん視聴者側が無言の内に、こうした演出を求めているという面もある共犯関係でもある)
そもそも世の中に気の利いた視点を持った小学生を探すのは容易でなく、
従って番組作家が書いた台本をそれらしく読んで番組進行にリスクが無いように考えたのは、
番組制作者としては普通の事なのだが、プロデューサーも含めて、
時代の趨勢を見誤っていると言っていいだろう。
池上氏も小学生たちが仕込みと知っていたかまでは分からないが、
知っていたとしたら共犯関係にあるだろうし、彼も時代を読めていないことになる。
昔は通用したが、今ではダメということはどの業界、業態にもある。
今にしてもテレビやメディアだから自分たちは「特別だ」と
考えている痛々しいバカはまだ多いだろうが、
もう現代は、テレビ業界もメディア業界が最先端じゃない事くらいは理解しておいた方がいいだろう。
そうは言ってもテレビや大手メディアは、現在でも影響力の多い分野だが、
その影響力に比する内容でない事も、段々明らかになっている時代でもある。
そういう時流に謙虚に向き合ってコンテンツを作って欲しいと思う。

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石破茂氏が掲げる石破ビジョンは、トップを狙う人がやってはいけない書き方。 [独り言]


2018年9月20日、自民党総裁選挙がある。

私は党員でないため特に選挙に参加できる立場にないが、

日本の行く末を考える観点から興味を持って見ている。


さて、今回石破茂氏が立候補した。


私は自分の人生経験から、トップに立つ人間の発言、ビジョン、言動に注目している。

つまり、どういう発言やビジョンを語る人間がトップとしてふさわしいかは、

こうしたアウトプットからある程度判断可能だからだ。


さて、上場企業で働いている管理職レベルなら当然のように要求されることがある。

事業計画を作る事だ。

そしてその計画は具体的であることを求められる。

またトップに近くなればなるほど高度でポイントを絞った計画を要求される。


さて、石破さんの総裁選に対するビジョンは以下から見る事が可能だ。




ポストアベノミクスとしては、以下が掲げられている。


◎デフレに後戻りしないマクロ経済政策の継続

◎格差是正、真の地方創生、技術革新、新しい時代の要請に応じた人材強化に重点を置き、財政規律にも配慮した経済財政運営

◎検証なき膨張を続ける現行の成長戦略を見直し、成長力の底上げに資する戦略に再編

◎経済政策の一貫性とリスク対応の機動性確保のため経済金融総合対応会議(日本版NEC)を創設


その他、地方創生、社会福祉、人生100年時代、国の構築という全5分野44項目に渡って

ツラツラと書いてあった。

そして最後に信頼回復100日プランがあった。


石破ビジョンには特徴が1つある。


主要5項目の中に数字が一切ない。


「ポストアベノミクス」を見ても分かるが、数値目標が書いてないのだ。

あれをする、これをすると言葉が綺麗に並んでいるように書いてはあるが、

具体的に何を目標にするか記載がない。


どこかでこんな感じのものを見た記憶があるが、

小池百合子東京都知事も似たような感じだった。

小池知事の手腕を見て分かるように、殆ど成果がないどころか、

都政を後退させている元凶にもなっている。


加えて、石破氏の各分野は非常に項目数が多い。


上場企業で働いている管理職が事業計画を作る際、

ポイントを絞らず総花的で数値目標がなかったらどうだろうか?

絶対に役員決裁を通らない。


国家ビジョンも同様だ。

いくら国家が様々な事を行っているとはいえ、全部を同じレベルに進める事は出来ない。

予算配分が違うからだ。


従って石破ビジョンの44項目は余りに多すぎる。

つまりこれはポイントを絞り切れてないという事だ。

(政策利害関係者から刺されないようにアリバイ的に入れているかもしれないが・・)


トップリーダに必要な素養として、ビジョンを掲げる事、優先順位をつける事、

そして具体的目標を設定することがある。

企業なら優先する事業を絞り、売上と利益の目標設定をすることだ。


国家も同様だ。

政治の主要ポイントは経済と安全保障だ。

その土台なしに他の事など成立しない。


石破氏がポストアベノミクスをビジョンの冒頭に持ってきているということは、

アベノミクスの課題があると考えている訳で、

それらを石破ビジョンならどうするか?と書かなければならないはずだ。

GDPは? 失業率は? インフレ率は? 国債発行額は? 税収は? 等々だ。
もちろん消費税後の景気対策もあるだろう。


デフレに後戻りしないとあるのだから、当然そのために設定すべき数値目標があるだろうが、書いてない。


言い方を変えれば、全く設定目標がないということになる。

企業の事業計画なら突き返されるレベルで、初歩過ぎて痛々しい。


おまけに石破ビジョンには外交政策、安全保障に関しては1文字も見えない。

防衛大臣をやった人物とは思えない。何故なのだろうか?


数値が見える部分をあえて言えば、「100日プラン」だけだ。

100日で信頼回復させますという点のみ数値目標が見える。

従って石破氏に見えているのはこの点だけなのだろう。


ちょっとキツイ言い方になるが、

石破ビジョンは、具体的には何も考えていないと言って良いに等しいものだと判定できる。


石破氏は、政策通と知られた人物と聞いているが、

このように中身のないものをよくも公表したなあ・・と驚く。

これでは政策通という看板は下ろさなくてはならないだろう。


少なくともこれが日本のトップを選ぶ選挙というなら、
自民党も大した人材が居ないと思われても仕方ない。


特に安倍首相は、過去5年半の総理在籍中に経済、外交で一定の成果を出してしまっている。

もちろん課題はあるのだが、経済と安全保障については過去の政権にない安定感で運営されている。

その人物と戦う気概があるのなら、何故もっとレベルの高いビジョンと目標が出せなかったのか?

これが石破氏の限界なのだろうか?


憲法改正について、石破氏は長い時間かけて党内議論に参加をしてきている。

しかし議論の先に具体的にいつ改正を、どのようにやるのかを打ち出した事が一度もない。

彼のセリフは大抵決まっていて、「党内議論が尽くされていない」だ。

彼は自分の方針や考え方に合うまで議論から根拠を探しているようにさえ見える。


進次郎氏の支持動向が話題になっているが、

仮に彼が現段階の石破氏支持を表明したら、進次郎氏の将来に暗い陰を落とすだろう。
進次郎氏はこの程度のビジョンで良いというのか?という事だ。

進次郎氏はマスコミから石破支持について言及を避けるようになっているが、

将来を考えるならしばらく大人の対応をしていた方がいいだろう。


現時点で総裁選は勝負あったと言っていいだろう。


我々が憂うのは、3年後のポスト安倍時代に自民党トップに相応しい人材がいるかどうかだ。

現在の野党の体たらくでは、二大政党制になる気配すらない。

石破氏は今回で終わりだろうし、進次郎氏ではまだ不安があり、野田聖子氏に関しては論外だ。


さて日本の未来は一体どうなるやら。


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『カメラを止めるな!』パクリ騒動の解決方法を勝手に伝授。 [独り言]

『カメラを止めるな!』パクリ騒動の解決方法を勝手に伝授。



私も『カメラを止めるな!』を見て感動した人間だ。

パンフも買った。今年度最高傑作だと思う。


そのパンフの中の文言にちょっと気になっていた部分あった。

上田慎一郎監督が、映画の題材としてある舞台から着想を得てオリジナルの舞台関係者である脚本家と企画開発をしていたと書いてあった事だ。


そして以下のニュースが出た。


『カメラを止めるな!』はパクリだ!原作者が怒りの告発



ああ、やはりな・・と感じた。

その後、以下の記事が出る。


『カメラを止めるな!』原作者が語る「僕がどうしても許せないこと」



記事を読む限りだが、『カメラを止めるな!』は、

元劇団主宰者で演出家の和田亮一氏(32)が主催した舞台『GHOST IN THE BOX!』に基づいて製作されていると主張する。

上田慎一郎監督が着想を得たものは、この舞台と一致しているようだ。


また和田氏の主張によれば、映画製作側のプロデューサーから、原案利用契約書(権利買取)が提案されたとある。


さて映画のオフィシャルサイトには以下の反論が掲載されていた。



ネット記事(元は雑誌のFLASHらしい)を要約すると上田監督は、『GHOST IN THE BOX!』の演出家である和田氏と脚本家のA氏(パンフにも出てくる荒木駿氏だろう)の2名に許諾を取ったのではなく、B氏という許諾権限のない人物に映画化の趣旨を伝えただけだという。ネット情報によれば、荒木駿氏には許諾を取ったが和田氏には取ってなかったという記述もあるが、当事者間でどのように伝えられたのかについての詳しい記述はない。

また公開当初の映画のクレジットにはA氏とB氏の名があったが和田氏のクレジットはなかったようだ。

和田氏の主張では、7月18日(つまり公開後)に原作のクレジット要求。翌日、上田監督からは「『企画開発協力 劇団PEACE 和田亮一』でいかがでしょうか」と返事が来たものの、製作にいっさい協力していなかった和田氏はあくまで「原作」の形を主張した。後日、映画製作側からは再編集するのは困難でクレジットを断られたという。その後弁護士に相談し、再度『原作』のクレジットを要求。その後、市橋プロデューサーから原案利用契約が提案されましたが、権利を買い取る内容だったという。


なるほど、これはモメる案件だなと思いました。グレーゾーンの多い分野だからだ。


映画の公式サイトの声明を読んで1つの違和感を持った。
声明では、舞台著作を侵害した事実はないと言っているのにも関わらず、クレジットを含めた条件や対応を協議中という点だ。舞台劇に着想を得た点は公式サイトが認めており、これはその通りなのだろう。


普通に考えられるのは、映画製作側も100%相手を突き放すほどの論拠を持っていないのだろう。

つまり、心当たりがあるという訳だ。


それも和田氏の説明を見れば、なるほど、双方、主張が全く違うんだな・・ということが分かる。

今回の問題の根底は、「舞台劇から着想を得て映画化したのにも関わらず、舞台劇の著作者に対する許諾処理を適切にしていなかった」点だ。この責任は市橋氏という映画プロデューサーと上田監督にある。

和田氏の取材発言が正しいと仮定すれば、市橋プロデューサーが原案利用契約を送付した時点で、本映画には「原作もしくは原案があると認識していた蓋然性」を持つ事になる。
原作か、原案かでもめている部分はあるが、いずれにしても100%オリジナルという映画側の主張根拠の大きな部分は崩れてしまっている。


私のように映像の輸入と制作、運用、著作権の仕事を長くやっている人間からすると、本件は興味深い点が多い。

今も昔も同じだが、クリエイターほど著作権について無知、無関心な人たちはいない。

知っているように振る舞うクリエイターも多いが、実務的な部分について殆ど無知だ。

だから権利処理は、実務経験者に相談したり、対応してもらう必要がある。
今回市橋プロデューサーがその役割を担っていたはずだが、どうやら仕事に漏れがあったと言っていいだろう。

今回のトラブルの遠因にはそういう背景が見え隠れする。
つまり「権利処理をキチンと詰め切っていない」ということだ。
元々アイデアという著作権で保護されない部分を参考にして作るという行為と、翻案(原作に依拠して作る)とは雲泥の差がある。

ネットの記事そのものがどの程度正確なのか不明だし、大抵の場合、週刊誌の記事は事実を膨らませてショッキングな見え方で書くので情報確度が不明だ。

弁護士の方が分析した記事は参考になるので読んで欲しい。


「カメラを止めるな!」は著作権侵害か?
https://news.yahoo.co.jp/byline/kuriharakiyoshi/20180823-00094178/

簡単に言えば、アイデア部分だけで表現上の本質的特徴が似ているとは言えない可能性を指摘しています。
つまり突き詰めると、裁判しないと分からないかもしれない・・という事です。

なので、私が以下に書く記事は、あくまでも最悪の場合、つまり原作・原案と言われる舞台著作を侵害した形で映画が製作されていたと仮定した想定への対応として書くことにする。
また現在分かっている事実は、公式サイトの声明だけなので、そこの記述の意図も参考にする。

1つだけ先に行っておくと、裁判すると双方疲弊し、費用もかかり、時間もかかり嫌な思いをします。それでも戦うならやればいいが、個人的には裁判を避ける方向性で落とした方が良いと思っている。


さて、舞台劇に着想を得て映画の台本を作り映画化すると著作権侵害になるのだろうか?
実はなかなか難しいテーマだ。着想を得たという言い方と原作を元に映画を作るという行為は別だからだ。
従って双方が著作権侵害の証明するとなれば、話し合いを経て、埒が明かなければ裁判をするとことになる。
この手の裁判は長期化するので最悪だが、最悪の場合はそうなる。

裁判となれば『GHOST IN THE BOX!』と『カメラを止めるな!』の脚本や舞台の内容、その他の資料を綿密に精査し、双方のストーリーや設定等が何%一致・類似し、何%が違うのか?という計量的な方法で突きつめて行くことになる。これは音楽著作権侵害でやる方法だが、音楽の場合だと音符の類似率をはじき出して判決する。

つまり映画製作側の主張する「オリジナルと言える部分」が映画の中でどの程度の比率を占めているのかを数値化して判断するのだ。また原作としての根拠が認められれば、許諾の過程も重要で、結局それらは証拠によってのみ立証される。「原作」なのか「原案」なのか、第三者による判定は上記のような過程を経ることとなるだろう。


仮に全体のストラクチャーや設定、セリフなどの大半が似ていると判断された場合、原作者は荒木氏&和田氏、上田監督は脚色者と判断されるだろう。従って著作権法において脚色された二次著作物は原作家も権利保有することになり、二次利用の許諾や氏名公表権についても問われる。


しかしこうした革新的なポイントについては、当事者で埒が明かない場合がこれは裁判等をしないと確定的な判断がされないケースが多い。
裁判は長期化し、双方疲弊し、いずれ裁判所から和解勧告が出るかもしれないだろう。

本来、原作から着想を得て別のストーリーを作る場合、原作権もしくは原案権という形でそれ相当の許諾を得る必要がある。
何故得るかと言えば、今回のようにトラブルになるからだ。

ちなみに後ほど語るが「アイデア」そのものは著作物ではない。
今回の言い方では、アイデアは「原案」に近い。
著作権には定義があって、著作物 思想又は感情を創作的に表現したものであつて、文芸、学術、美術又は音楽の範囲に属するものをいう、と書かれており、当然舞台芸術や映画も著作権の保護対象だが、アイデアそのものは著作権の保護対象外だ。

映画製作側にとって若干不利だなと感じるのは、本映画が舞台を見てから着想を得ていることを認めている点だ。また和田氏の主張のように映画製作側が「原案利用許諾契約書」を提出している。このことから映画製作者側は、原案としての利用は認めるが、原作としては利用していないという意味だろう。

舞台関係者の誰かと映画製作者とが酒でも飲んでいる時の口上から出てきたアイデアを元にしているのなら著作権的には問題にならないのだが(アイデアを剽窃して点では非難されるだろうが)、映画製作者は既存の舞台から着想を得ていると公表しているし、途中段階まで舞台脚本家とも台本を作った記述がパンフに記載されている。
つまり映画側は、本映画作品が舞台著作の一部を原作として利用し、翻案して映画を作ったと認識していたと認定される可能性が極めて高いと言っていい。

逆説的に言えば、映画製作側が原案のみであとはオリジナルだと主張するのであれば、舞台著作の持つ情報や着想、プロットなしで全く同じような映画が作れたか?という事を証明しなければならなくなるだろう。
果たしてそれが可能なのかは考えてみる価値があるだろう。

さて、本来はどうしたら良かったのか?

何より大事だったのは、映画製作陣側が映画制作前に舞台の原作もしくは原案許諾を契約書までに落とし込む事だった。
それに尽きる。

理由は簡単で、今回のような事が起きるリスクがあり、実際にその想定とうりに起きたからだ。
インディーズ映画でそこまでするか?という人もいるが、結果的にはそこまでしておいた方が良かった訳だ。
万に一つのリスクだが、やっておけば今回のトラブルは回避できた。
特に今回のように想定外の大ヒットをしてしまうと、事後交渉になり条件を落とすのは簡単でない。
これは製作側の市橋プロデューサーと脚本家で監督の上田氏双方の課題だったし、それをやらなかったからこうした面倒な事になる。
つまりこの点で仕事をすべき人間が仕事をしていなかったということだ。
今回の問題、記事等から読み解ける和田氏の主張を参照しつつ、何が問題で、どうすればいいのかを説いてみよう。その上で、私が考えるまず穏便な解決方法を提案しよう。


記事情報だけで私がこうした発言をするのは何だが、『カメラを止めるな!』は、舞台『GHOST IN THE BOX!』を「原作」にして製作したと「一定程度」映画製作側が認めた方が自然だと考える。
原作か原案では、著作権に関わる問題が大きくなり、双方の争点になるだろうが、後々のビジネスを考えて妥協ポイントとした方がいいだろう。
これは市橋プロデューサーが和田氏に原案契約書を提出した事からでも、舞台が全くクリエイティブ上の埒外ではないことを認めているわけで、原作、原案は大きな選択だが、おそらく和田氏側は原案にしたら間違いなく裁判に持ち込むだろうから、原作を認め、利益シェアをした方が双方にメリットがあるという考え方だ。

さて、本件、どのような解決策があるのか列挙しよう。

①映画製作側が原作側の主張をある範囲で認め、改めて許諾条件を話合い、金銭的な条件を決める。
②映画製作側が原作側の主張を一切認めず、裁判で戦う。

③上記②の裁判を経て、双方の主張を戦わせたう上で示談をする。

④映画製作側が、原作側がグウの音も出ない程に自分たちのオリジナリティーを証明して納得させる。


いずれにしても、両者の話し合いと合意でしか解決しない。現状、これだけは避けられない。

加えて、現在の情報を総合すると、上田監督側が本映画を完全なオリジナルだと証明するのは相当困難だと推定される。つまり以下の方程式の証明を映画製作側が立証しなければならない。

『カメラを止めるな!』-『GHOST IN THE BOX!』=我々の見た『カメラを止めるな!』になるのか?

『GHOST IN THE BOX!』から着想を得て作り上げた台本は、『GHOST IN THE BOX!』が無かったとしても同じようなインパクトを持った映画として成立出来たのか?という点だ。

例えば、アメリカドラマの名作「刑事コロンボ」の構成骨格は、ストーリー冒頭に殺人があり、視聴者側には既に犯人が分かっている。コロンボは犯人が気が付かないほころびを探し出して犯罪立証を成立するというものだ。
さて、このストーリー冒頭に殺人があり、視聴者側に犯人が分かっている部分は「単なるアイデア」なので著作権で保護されない。実際、コロンボ以前のミステリーでも冒頭に犯人が分かっていて、探偵が犯人を追い詰めるという形式の小説がある。
従ってコロンボのこの構成方法は、全く著作権違反ではない。

しかしどうやら映画は舞台の構成骨格だけで成立しているわけではないようだ。従って著作権の侵害を感じているからこそ、市橋プロデューサーは後出しの買取契約書を出したのだろう。
従って映画製作側として全面敗北のような形は簡単に受け入れられないと思うが、
本件は、映画製作者側にかなり歩が悪いと感じている。
だから、①で進めるのが良かろうと思う。
そうなるといずれにしても金銭条件の話になる。
どうしたらいいのか?


市橋プロデューサーは買取契約を提示しているらしい。でもそれは現状で無理というものだ。映画は大成功してしまったのに、許諾が後になるのは、映画製作者側のチョンボだからだ。不本意でも自分たちのチョンボを相手側に押し付けない方がいいだろう。


許諾額と印税料率は話合いになるが、製作前ならいざ知らず、

既に大ヒット作品になってしまった関係上、当初よりも金額が高くなる、

もしくは異なる通常の原作権許諾契約よりも別の条件を入れた契約形態になるのは仕方ないだろう。

原作権の相場は交渉で決めるしかない。それでも業界相場はあるからそれらが話し合いの基準にはなるだろう。


加えて意図せずとも無断と思われるような形で製作・配給した点についての賠償的な意味での金銭保証も支払う必要が出てくると思う。



仮にストーリーの基本設計が原作・原案通りで、脚色(翻案)によって映画のように手を加えられたとすれば、

本来的な意味で、舞台『GHOST IN THE BOX!』が原作もしくは原案であり、上田監督は、脚色者(シナリオライター兼監督)という立場になる。


さて、『海猿』等で知られる佐藤秀峰氏は、ヒット映画の『LIMIT OF LOVE 海猿』

(『海猿』シリーズ2作目。興行収入71億円)の原作使用料は、250万円であったと明かしている。

ただ、現在に関しては、原作使用料+成功報酬という契約にしており、

「ヤマザキさんの60~70倍貰ってる」とのことである(氏のツイッターより)。

つまり数千万円~1億円近いということだろう。

また、テルマエ・ロマエは、興行収入が60億円にのぼる大ヒットとなったが許諾料は100万円だったと知られている。

これがインディーズ映画だと10万円前後程度の世界になると言われてもいる。


参考記事:200万~400万円は妥当か、映画原作料のお値段 








さて、今回の件で私が間に立っていたらどう考えるか?

映画製作者側が、①で示したような示談交渉に応じるという前提だが、まず、金銭的な条件を幾つかのパーツに分ける。


原作(原案)許諾料、二次利用料、慰謝料もしくは買取りの4つだ。

但し、現状環境で買取契約は交渉対象にならないので排除する。(相当な金額を積んで買い取るなら別だが)


上記参考記事の200万~400万円は妥当か?、にある映画原作料のお値段を見ても分かるように、

日本映画化の原作権料は意外と高くない。(中国だと最低1,000万円からスタートすることが多い)

また、日本文藝家協会の規約第25条の「映画制作及び上映等における著作物の使用料は、

番組制作費や提供価格等を斟酌(しんしゃく)し、1000万円を上限として利用者と本協会が協議して定める」

という取り決めが、目安となっている。


当然和田氏は日本文藝家協会の登録メンバーでもないだろうし、言い値設定できるのだが、

今回は、原作許諾料を日本文藝家協会の規約第25条最低ラインの上限である100万円と置く。

なお、金額はエージェント費用を含んだものとして記載するので、作家の取り分は60~70%程度となる。


二次利用料、つまりDVD化、VOD化、番組販売等の利用における原作家への配分は、日本文藝家協会に参考となる規約がある。

例えばDVDであれば定価×出荷数×1.75%(もしくは卸売価格×出荷数×3.35%)で、

これは業界標準なのでこれを参考に出来る。1万円のDVD(セル)なら、175円前後が印税となる。

但し、1.75%は監督、シナリオ作家への分配原資になるため、全部が原作家に入る訳ではない。

本映画の作家関係者は日本文藝家協会会員じゃないだろうから、この規定に準じる必要はないが、目安になる。


本作の問題は、原作権の許諾を曖昧な状態で製作し、おまけに想定外に大成功してしまったことだ。
だが、映画の成功は結果論だ。だから大失敗という可能性だってあった点は忘れてはならない。

従ってこの点については成功という結果を知った上での話として押さえておかねばならないだろう。

ここが今回の問題を複雑にしてしまっている。
何が言いたいかと言えば、原作家は権利を販売する時点で自身の利益確定できるが、

映像化の関係者はそうでないが、既に成功という結果が出ていて利益確定者がいるため、作家としてはそういう立場を取れないという事だ。


そうは言っても既に大成功していて利益確定を享受するのは、上田監督、製作会社、配給会社、DVDメーカー、配信先、番組販売先だ。だから原作者にもその利益享受を得たいという動機が出るのは仕方ないし、それを取り込めないと交渉にならない。


ここからが交渉の腕の見せ所になる。


今回のように原作権許諾という映画製作の根幹に瑕疵がある可能性出ていて、おまけに大成功してしまった場合、

製作者と原作者の現実的な落としどころを探るしかない。
要するに「金で解決」するしかないということだ。


その上で以下を提案しておきたい。


実は原作許諾は通常、映画上映という一次使用、つまり映画興行に対しての印税設定をしない。

今回、これを、特別に設定してもらおうという事だ。

理由は簡単で、原作もしくは原案の事後許諾をしたからだ。


以下が私が勝手に提案する計算式だ。


まず原作権使用料:100万円。


劇場興行に関する条件:

原作権利用料=【配給収入-(配給収入×0.2(配給手数料))】×7.7%

(配給収入=劇場興行総収入×0.5もしくは配給会社への総収入、総収入というのは鑑賞チケットとパンフ等の総収益のこと。)

なお、本来は配給収入の計算分母は、P&A費用(上映に関わるコストと宣伝費)を除くが、今回はそれをしない。
理由は今回の事情を踏まえ、P&Aは製作と配給が持ち、作家分配に不利にならないように配慮するためだ。またP&A費用を把握しようとすると、費用の改ざんの可能性が拭えず管理が大変なので除外させる方がいい。

また7.7%の設定は、二次利用権の通常設定(卸値への掛け率)に加え、

賠償的(慰謝料)な意味での3.35%を加味した。


書き直すと以下の通りだ。

かなり大雑把な数値だが、イメージ的には当たらずしも遠からずと思う。


劇場興行総収入:10億円(推定)

劇場収入:5億円(劇場取り分は興行収入の約50%と計算している)

配給収入:5億円(配給会社の売上)

配給手数料(20%):1億円

------------------------

小計:4億円。


原作権者取分:3,080万円(4億円×7.7%)


なお、配給と上田監督を含む映画製作側の取り分は、原作権者取分とP&Aの経費後となり、

経費比率は、双方の取り分比率で按分されると過程。

(配給側が全負担している場合もあるが、今回は按分とする)


これでどういう絵になるかと言えば以下だ。

なおP&A費用は150館公開から推定して6,000万円と仮定する。(もうちょっと多いかもしれないが・・)



◎製作側(上田監督含む)+配給取分=5億円。(監督への配分契約が不明なので両者を一体として考えておく)

◎P&A費用+原作権者取分=9,080万円


---------------------------------

小計:4.092億円。(製作側+配給の実取分)


映画興行終了時点での各位配分:


◎製作側取分:3.273億円(製作費300万円を回収後)

◎配給取分:8,184万円

◎原作権者取分(原作権販売分100万円を含む):3,180万円


もちろん、料率についての交渉があるだろうし、他の諸条件についても同じだ。

また上記は映画興行までの話で、二次利用料は別途入ってくる。


いずれにしてに、製作側が億単位の収入を得ることは疑いないし、原作側にもかなりの金が入る。

それ故に、製作側取分の10%程度の原作権比率は、十分に妥当性があると見ていいだろう。


インディーズ映画としては過去に例がない大成功を収めた原作家の方々には納得しずらい面もあるだろうが、

少なくとも上田監督が脚色して映画化しなかったら、

原作家の方々にこのような富が生まれるチャンスがなかったとも言える。
その点については、心情面で色々とあるだろうが、原作家側は配慮を見せた方がいいだろう。


加えて仮に映画製作前に許諾していたら10万円+α程度だった訳で、

このαも微々たるものだったかもしれないのだ。

先にも書いたが、興行の結果が見えてしまっているため話がややこしいが、キチンと話合えば双方にメリットが出ている話だと分かるだろう。
残念な経緯があってシコリが残るかもしれないが、結果的には全員WINWINになれるのだ。
だから金持ち喧嘩せずじゃないが、紳士的にやった方がいいと思っている。


双方が欲張りになればなるほど落としどころが見えなくなる。

何度も言うが、製作の根幹である原作家の許諾で躓いたのは、監督を含む製作側の大きな瑕疵だ。この点は映画製作側の反省点だろう。


そういう意味を込めて助言をしておくが、この件を深堀して裁判にはしない方がいいと思う。

裁判になれば長期化し、手間がかかり双方に裁判費用の出費が嵩み、面倒で嫌な時間が経過し、

原作家の取り分も相当に減ってしまうだろうし、製作側も同様だ。

わざわざ弁護士を儲けさせるような行為に及ばない方がいいと思っている。


また原作家からすれば、色々な経緯があって許せない部分もあるのは理解を超えることじゃないが、

原作家の方たちも余り欲張らない方が良いだろうと思っている。

狭い業界で生きて行くにはそれなりの落としどころがあり、

冷静に現実的で未来志向の対応をすべきと思う。

これをチャンスに将来を切り開く機会とすべきで、適度な所で合意を見た方が得策でしょう。


加えて助言をしておくが、制作会社(上田監督含む?)は、出演者や関係スタッフに対して

自分たちへの収入からそれなりの額を彼らに分配をしておいた方がいいだろうと思う。

3億円を超える収入を個人で受けたら55%は税金で消える。

また法人で受けたとしても利益の20%以上(多分数千万円程度)は税金で消滅する。

それ位なら関係者に成功報酬的な支払いをして経費として控除し、

肝の太い所を見せておいた方が制作会社及び上田監督の今後の人生のためにプラスになるだろう。


ヘタをするとこれが最初で最後の大成功だってことにもなりかねないのだから。


まだ事実関係が不明な時点で勝手なブログを書いて大変に恐縮だが、

老婆心と思って許して欲しい。
今後の情報で誤りを訂正する予定だが、現状の情報から考えられるのはこんな感じだ。


あともう1点追加しておくと、今回のヒットの雫を個人収入でもらっている関係者各位は、国税から100%狙われているので、2019年、2020年2月の確定申告はキチンとなさった方がいいだろう。申告漏れを指摘されたりすると、名声に傷が付きかねない。

せっかくアットホームで素晴らしい映画を作ったのだから、皆さん、映画のイメージを壊さないように仲良くやってねと祈るばかりだ。


参考記事:騒動の『カメラを止めるな!』“原作”・“原案”どう違う? 専門家に聞く










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「募金」の手数料や使い道にまつわるモヤモヤ [独り言]

平成30年7月豪雨、熊本の地震、ちょっと前の東日本大震災など、ここ最近日本は大きな災害に見舞われている。

被災者以外の地域で暮らす人間として、こうした被災者に対して直接、間接的な援助を考える人が多いだろう。

ボランティアで現地に行かれ直接支援をなさっている方を見ていて、いつも頭が下がる想いだ。


さて直接支援出来ない人にとって、最も有効そうなのは「募金」だ。

額に関わらず募金した人たちは、自分の出したお金が被災者の助けになることを願っているだろう。


しかし募金した金がどのように使われ、本当に被災者を助けになっているのかを

募金した人間が知るすべが殆どない。


実際調べてみると募金という行為は、法的根拠や拘束力が殆どないと分かる。

そう、募金自体を法律的に拘束する文言は日本には存在しないようなのだ。

ホントなのか??


寄付した募金が遊興費に!? ・・・募金の使い道「寄付先の自由」って本当?



上記の弁護士さんの解説が正しいという前提でお話するが、

『募金というのは法律上「贈与」にあたります。簡単に言うと「お金をあげる」行為です。

お金をあげたのであれば、もらった人は自由に使っていいことになります。

ですので、原則論としては、募金によって集められた金銭は

もらった人が自由に使ってよいことになります。』という概念は

結構一般的に知られていない事だろうと思う。



また街頭で募金行為をする際は、本来は道路使用許可が必要だったりとか

目的外使用で募金すると詐欺行為となる可能性があるなど、

募金にまつわることで知らない事が結構多い。


使用用途も被災者支援と言っても、それに関わる活動に使う事も想定されるため、

どこまでが目的外かを定義するのが結構難しい部分もある。

加えて法人から法人が募金をうけ取った場合には、

その受贈益に対して法人税、住民税および事業税が課税され、

個人が受領すれば原則的には一時所得として所得税、住民税の課税されるらしい。



なるほど募金の正体は知らない事ばかりだ。


ところで日本赤十字社は義援金からは手数料などは一切取らずに全額を被災地へ届けていると宣言している。


日本赤十字社は義援金からは手数料などは一切いただかず100%全額を被災地へお届けしています




さて募金の手数料について、ホリエモン氏が以下のように吠えている。


ホリエモンが寄付金の手数料にうるさい人たちに苦言「どうしようもない奴ら」




個人的にはホリエモン氏の言う、募金を被災地に届けるために手数料がかかるのは当たり前、は、

全くその通りだ。手数なしで募金活動を円滑に進める事は出来ない。


私は手数料率が募金額の20%が適切なのか25%が適切なのかはどうでも良いと思っているが、

募金側がこうした手数料等についてモヤモヤする点において、一般的な意見に同調する。

ホリエモン氏から言わせればそんな奴らは募金するな!の一刀両断だろうが、

正直言えば、モヤモヤしないのは相当な少数派だと思う。

だからこの感覚は個々の違いでしかない。(つまり議論には馴染まない)


ホリエモン氏のように全くそういう事が気にならないのなら、

懐具合と趣旨賛同の範囲でドンドン募金すればいいだろう。

ただ、ホリエモン氏が手数料を気にする人たちを「どうしようもない奴ら」と一刀両断する辺りは、

彼の人間的限界だな…と思う。


ちょっと話は逸れるのだが、彼はどちらかと言えば、

天才アーティストに近い思考感覚の方だと思っているが、

それ故に人を動かして事を成すのが苦手なタイプなのかもしれない。


この辺りは同じ天才型の孫正義氏とは正反対だと思うが、

ホリエモン氏は余り実務型ではないのかもしれない。

実際、ホリエモン氏の業績?で思い浮かぶのは、

フジテレビ買収の失敗、ライブドアの粉飾決算による収監(正直これは特捜の横暴だと思っている)などで、

孫正義氏のソフトバンクや三木谷氏の楽天などと比較し、

実体のある業績面において目立った成果が殆ど思い浮かばないのは不思議な気がする。

(著作が多いのは認識している)
あれほどの能力と才能が何かを結実させているように見えないのは、

きっと私が凡人以下だからかもしれない。


現在ロケット事業に参入しているが、発射すらままならない失敗続きだ。

小型ロケットビジネスの世界レベルはもっと先を行っているが、発射レベルで躓いているのは痛い。

こうした失敗も彼にとっては想定内だろう。個人的には商業化の成功に向かって欲しいと思う。

いずれにしてもこの事業の可否が、経営マネージメントとしてのホリエモン氏の手腕の見せ所だろう。


さて、話が逸れたので元に戻そう。

前述したが私は手数料率が20%が適切なのか25%が適切なのかはどうでも良いと思っている。

だが被災地への送付への原価がいくらかかり、間接費をどの程度賄うべきかについては

透明性を担保すべきと思う。透明性があれば手数料の設定は自ずから出て来る。


今でもたまに見かけるが、東京の主要駅前で何か災害があるたびに汚い募金箱を持って近づいてくる

顔色の悪くて服装もイケてない連中が有象無象にいる。

以前TBSが彼らを取材したが、この連中は全員ある組織からやとわれてアルバイトで募金をしている奴らだった。

中には外国人もいる。

おまけにこの募金が何に使われているかは全く不透明だ。

高齢者で社会免疫性の無い人たちは、彼らの口車に乗って結構なお金を募金している光景を見るが、

正直この連中は詐欺的募金集めをしていると言ってもいいだろう。


また、平成30年7月豪雨の共産党の寄付に対して松井大阪府知事が不透明だと噛みついていたが、

共産党の寄付箱には小さく「党の活動資金としても利用させてもらいます」とあり、

一般的な意味では、災害寄付に乗っかって活動資金調達をしていると感じられ違和感を拭えない。

松井大阪府知事がツイッターで噛みついたのもこの辺りで、募金の事後精算を公表するように促している。

当然だろう。


こうしてみていると、募金行為側として募金行為にモヤモヤするのは

使用用途のルールや会計の公開が全く法的担保されていないからだろう。

少なくとも他人から大義や目的のある行為で金を集める場合は、

集めた個人もしくは団体への会計の公開を担保させるべきだろうがそれすら法整備が無いのが現実だ。


そういう意味で、私は、街角や聞いた事もない個人・団体の募金活動には一切加担しないことにしている。

当然共産党の募金箱なんかには1円も入れない。

渋谷の駅前交差点辺りで災害直後になると有志の学生さんたちや知らない人たちが募金をしている姿を見て、

偉いなぁ・・と思う反面、募金の行方にモヤモヤするのは私の人間性の至らなさかもしれない。

企業が代理的に集める募金にしても、集めた金額が税制優遇の対象になるメリットを知れば、

どこまで趣旨に沿っているのかね??と疑問にも思ってしまう。


結局色々と調べてみると募金先として有力なのは日本赤十字社くらいしかなさそうだ。

もちろん日本赤十字社には色々な見方がある。

基本的には官僚組織なので、趣旨からは想像できないような高給取りもいれば

自治体との募金連携に対する軋轢も多々噂される。

それでもこういう所でも頼らないと最低限度の担保がある状態での寄付行為は難しそうだ。

少なくとも日本赤十字社には決算報告があり、概要はつかめる。

ただこれでも十分とは言えないだろう。(無いよりは遥かにマシだが)


日本赤十字社の歳入歳出の決算:




日本赤十字社の評判や口コミは?寄付先として、信頼できるかをチェック




結論:

寄付したの金の行く末にモヤモヤしないようにするなら日本赤十字社に直接預けた方がいいようだ。

もしくは自分を離れて行った金に頓着しないなら、ドンドン寄付しましょう。











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