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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(1) [独り言]

大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(1)


私の人生でたった1度だけ大瀧詠一さんと仕事をする機会があった。
私の人生にとって相当に大きな出来事だったが、その割に記憶が風化し始めている。
あの日から30年も経過したこともあるだろう。

今となっては夢と幻のような感じだ。

ご存知の通り、大瀧さんは2013年12月30日、突然ご逝去された。
訃報に触れたその日、私はたった1日だけ(正確には半日強)だったが、
大瀧さんと過ごした日の事を年末の帰省中のバスの中で反芻したものだった。


当時の私は、教授(坂本龍一氏)がヨロシタミュージックとのマネージメント契約を離れて独立したため、
同社の楽器部門を法人化した小さな会社に転籍して働いていた。
大瀧さんと仕事をする機会を得たのはこの時代なので、年代は1988年だろう思う。
月日は正確に覚えていないのだが、多分4月後半だったろう。

その日は春の陽気でYシャツ1枚でも過ごせるほどの暖かく、季節的にはうららかな日だったと記憶している。

大瀧詠一さんとの仕事のチャンスは、当時シンセのプログラマーとして働いていた時代に
懇意にして頂いていたアレンジャーのTさん経由でもたらされた。
今にしても当時としても、大変に感謝の念で一杯だ。


この時の情報によれば、大瀧詠一さんが知り合いの女優さんからある仕事の依頼もしくはお願い事を受けていて、シンセ関連で助けてくれる人を探しているというものだった。
どうやら大瀧さんは、お知り合いの女優さんが主催・出演する舞台の音楽制作を引き受けたようなのだ。
また大瀧さんはその音楽制作を殆どタダ同然(多分ボランティア)で引き受けていたようだった。
確か、その女優さんの名前は吉田日出子さんだったような記憶があるがちょっと定かではない。
従って私たちへの依頼もボランティアが前提だったので、人探しに苦労をしていたらしく、様々な人経由して我々にお鉢が廻ってきたようだった。

大瀧さんは、本来なら生演奏で音楽の録音したかったようだが、経済的な状況が許さず、
ご自身のプライベートスタジオを利用してコンピューターミュージックで作ってしまおうと考えたらしいが、
さすがの大瀧さんもシンセのオペレーション等には長けていた訳ではなったようで、
その分野で助けてくれる人間で尚且つボランティアで出来る人を探していたようなのだ。


この話をT氏経由の情報として事務所から聞かされた時、私にとって大瀧さんの仕事場に行けてお仕事をさせて頂くような機会は人生に二度とないだろうチャンスだと考えたし、それに勝る好奇心もあったので是非引き受けたいとも思った。
幸い当時の会社は1つのチャンスと経験だからと無償業務提供を容認してくれた。
これも私にとってありがたい事だった。

私自身、元々大瀧さんのファンだったこともあるが、このオファーに参加できることは素直に嬉しかった。
そしてアレンジャーのTさんと共に福生にあった大瀧さんの仕事場があるスタジオ、通称「福生45」に行く事になったのだ。


当時の大瀧さんは、80年代前半に発売した「A LONG VACATION」と「EACH TIME」がミリオンセラーで大成功していた余韻が残っている頃で、その後、松田聖子さんらに曲を書いてヒットをさせていた時代でもあった。
70年代に早すぎた日本語ロックに挑戦していたことで燻っていた”はっぴいえんど”というバンドのメンバー各位は、つまり細野晴臣氏、松本隆氏、鈴木茂氏らはそれぞれYMO、作詞家、ソロギターリストとして世間に見える活躍をしており、やっとその才能を世間に知らしめて日の目を見ていた時代だった。

音楽業界内では、ミュージシャンもスタッフも含め、大瀧さんは憧れのミュージシャンであった。
当時においても大瀧さんは自分のペースでしか仕事をなさっておらず、殆ど福生から出てこないので「仙人」とも称される生活を送っていた方だった。これは当時では珍しく自分のスタジオを持った事が大きく影響していたと思う。

当時のミュージシャンを含めた音楽業界人で大瀧さんのファンや尊敬の念を表明する人々はそれこそ無数にいるのだが、実際に会ったり、コンサートを見たり、ましてや仕事をした人は非常に限られていただろう。
そもそもレコーディングスタジオでの本人の歌入れは絶対に第三者に見せない作業をするので有名だったし、
コンサートも滅多に行う事がなく、仕事の哲学もハッキリした方だったので伝説的な話は当時ですら多かった。


2018年になってたけし軍団の一員である水道橋博士さんが著した「藝人春秋2」を読んだのだが、高田文夫さんの紹介で大瀧さんの福生の仕事場に行かれた際の記述があったのだ。
彼が本の中で著していた光景は、私がご訪問させて頂いた時の光景そのままで懐かしい気持ちで読んだし、私の記憶に薄れていた部分を補ってくれて随分と助かった。


さて、当日、会社所有の日産のハイエースに楽器を乗せて一路福生に出かける。
Tさんは自分の車で現地に行ったと記憶している。
当時はカーナビなんて洒落たものも携帯電話も無い時代だったので、
事前に渡された住所と電話番号と簡単な地図が記されたファックスを見ながら運転した。

指定された福生市の米軍ハウスの一角の一軒家を借りた大瀧さんの仕事場と呼ばれる場所に到着したのは、
午前10時頃だったろうか?
初めて見る横田基地に沿った道を進んだ先のある一角に目的場所があった。
周辺には同じような規格の住宅が数多くあったように思う。
何か、アメリカのロスアンジェルスに来たような錯覚を覚えた。

(ちなみに当時の私はまだロスに行った事が無かったが、映画で見た感覚が刷り込まれたいたのだろう)

件の建物の中に入った時の事は鮮明に記憶している。
玄関を入ると20~30畳ほどはありそうな居間のように広い横長の部屋があり、
その右の一角には放送機器として使われているターンテーブル、テープマシーンが並べられており、
また奥の壁際の棚にはラップで包装された未使用と思われるビデオデッキや様々な機器が積まれており、
1機種当たりで2~3台は積まれていたように思う。
どうやら同じ機種を数台買い、保存用としていたようだ。

入口の左手にはソファーが置かれていたが、その他の場所は整然と機器に囲まれていた部屋と言って良いだろう。

大瀧さんが機材マニアである噂は以前から聞いた事があったが、視覚的にそれが分かるような部屋だった。

その入口から”こんにちわ”と声をかけると暫くしてジーパンと格子模様のアメカジなシャツを着たあの大瀧詠一さんが奥に続く廊下の入口に現れたのだ。
”わあ・・本物の大瀧さんだ・・” 

多分私はそう心の中で叫んでいたはずだ。
喜びと感動にうち震える心を抑えつつ、冷静を装って初対面の挨拶を終えた。



つづく。

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