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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(3) [独り言]

大瀧さんの自宅スタジオのコントロール・ルームは、コンソール、アナログの録音機(確かTASCAMの16chだったかな・・)、モニタースピーカーなどの機材関係と大瀧さんが入るだけのスペースしかなかったので、アレンジャーのTさんと私は部屋前の廊下に機材を置いて作業を補助させてもらった。

アナログのテレコにローランドのSBX-80から出力したSMPET信号を録音し、その信号をSBX-80に戻し、MIDI経由でNECのパソコンで動作していたカモンミュージックのシークエンサーを同期させて動かした。

PCの打ち込みは大瀧さんから譜面を渡されたアレンジャーのTさんが行い、音源出しは私がやったように思う。サンプラーはAKAIのS900だったろう。他に使った機材はYAMAHAのDX-7ⅡやRoland D-50辺りを使用してたと思われる。
作業をしながら大瀧さんが今回の音楽制作を頼まれた経緯を聞かせてくれたが、細かい話は記憶の彼方だ。


ランチの時間は、大滝さんが常連にしているというステーキハウスに連れて行ってくださった(と記憶している)。
このステーキハウスは水道橋博士の書籍の記載にも登場するが、大瀧さんが常連だったのは本で初めて知った。
結構なボリュームのステーキだったし、当時の私には物凄いごちそうだった。
食べながら何の話を聴いたかは殆ど記憶がないのだが、アレンジャーのTさんが「こいつ、大瀧さんの大ファンなのですけど、達郎さんも好きなんですよ。なっ!」と話を振ると、大瀧さんが「達郎ねえ・・、そうかあ・・、達郎はねえ・・」と達郎さんについて何かをお応えになった事はうっすら記憶しているが、達郎さんへのコメントの中身は忘れてしまった。
覚えているのは大瀧さんは達郎さんを「達郎」と呼んでいた事だ。私は心の中で、”そうかあ、大瀧さんにとって達郎さんは「達郎」なんだ・・、凄いなあ・・”と思っていた事と、大瀧さんの喋り方が達郎さんとそっくりなトーンなので、ひょっとしたら達郎さんの声やしゃべりって大瀧さんの影響があったのかな???何て考えながら聞いていた。

今考えると、大瀧さんの名盤、名曲の数々について根掘り葉掘り聞きたい事は山のようにあったはずなのだが、目の前のご本人にそんな事を聴いて良いのかどうかに迷っていたため、全く聞けなかった。
私のこの躊躇の理由は、それ以前に読んだことがある竹内まりやさんのインタビューに由来する。
その昔、達郎さんが初めて竹内まりやさんと仕事をした時、竹内まりやさんはSUGAR BABEのライブに出かける位、ミュージシャンとしての達郎さんが好きだったので、スタジオで出会った達郎さんにサインをお願いしたらしい。
すると達郎さんは彼女に対して、”プロの仕事の現場でミーハーな事は止めなさい”と窘めたというのだ。
私はそれを読んで、そうだよなあ・・と思ったのだ。

それでもあの時、大瀧さんが提唱していた分母分子論や作品の作られる過程なんかをご本人からお聞き出来ていればと思うと残念だ。
実際、私はご本人を目の前にして結構緊張していたんだと思う。


レストランの支払いは大瀧さんがなさった。


午後は引き続き作業を続行。何曲の作業をやったのかまでの細かい記憶はないが、
作業途中のお茶の時間に、コロンビア時代に出した作品のレコーディングのお話しをしてくださった記憶はある。
「あの、えっほえっほっていうヤツは、ここの廊下にマイクを2本立てて向こうの方から移動しながらやってもらったんだよ」とか、
「ここでねえ、デビュー前の鈴木君(ラッツ&スター)に歌ってもらったんだよ・・、達郎にもここでコーラスやってもらったしねえ・・」など、
多くのファンが聞いたら倒れそうなエピソードを現場で聞く事が出来た私はどれだけ幸せだったか・・。

録音作業で覚えているのは、AKAIのサンプラーで私が持っていたウッドベースの音を出した際に大瀧さんが、
「このウッドベース、結構ピッチいいねえ、本物だとこういうピッチにならないんだよねえ・・。これはいいねえ」と話されていたことは記憶している。


さて、変な話だが、この日の写真は一枚もない。
今考えると惜しい気もするのだが、仕事場にカメラを持って行って記念写真を撮らさせて下さいというような行為をするのは仕事の環境下では自分として良しとしなかったからだろう。
これは前述の件に由来することだ。
それはそれで正しい行動だったのだが、今となっては、自分が日本のロック史の現場の目撃者の1人となっていた事を考えると記録として写真を残しておけばよかったとは思う。


時間は夕刻近く、16時位だったと思う。
最初に入った時に見えた広い居間で音源のチェックを兼ねてプレイバックしながら休憩して時、当時中学生だった娘さんが帰宅してきた。

大瀧さんは娘さんにパパと呼ばれていた。どうやら翌日から修学旅行に行くらしくそんなお話しをなさっていた。
さて会話の途中で先ほどまで録音していた音源をプレイバックしている時、「君は天然色」で日本中に有名になったあの名物フレーズ「ジャンジャン、ンジャジャンジャン、ンジャジャンジャン」が奏でられた。

それを聞いた娘さんは間髪入れず、「パパぁ~ またこれなの??」と言うではないか!

私とT氏はそれを聞いて、心の中で「オイオイ、大瀧さんにそれを言うかぁ~」と思いながら苦笑しながら見守っていたが、大瀧さんは「いいの、パパはこれで!」と応え、娘さんにしか言えないその鋭い評論に一同は笑いに包まれたのだった。
この時の光景は鮮明に脳裏にある。
その娘さんが最近ご結婚なさったという報を聞き、私も歳を取る訳だ・・と思った次第だ。


今回のレコーディングで作った名物フレーズである「ジャンジャン、ンジャジャンジャン、ンジャジャンジャン」のサウンドは、サンプラーのオーケストラヒットや他の楽器群などのシンセサウンドを中心にして作ったのだが、大瀧さんの背中を見ながらスピーカーから音が流れて来た時は、本当に幸せで嬉しかった。

あれは言葉で言い表せないような幸福な時間だったと言っていい。

あの時の譜面の「絵ずら」は何となく記憶に残っている。結構オープンコードなんだなあ・・って思ってみていた。
作業は夜にまで及んだが、ちょっと遅めの夕食を取る頃には終了。

この日にファイナルミックスまでやったかは定かではないが、多分音素材の録音のみでミックスは後日大瀧さんがお独りでやられたのだと思う。

夕食は大瀧さんが大好きな野球でも見ながら店屋物ということで、確か、トンカツかカツドンか何かを注文して頂き、昼間に見せてくれたプロジェクターのある部屋で広島、巨人戦を見ながら皆で身ながら夕食した記憶がある。
確かこの部屋はサラウンド仕様になっていたはずだ。また部屋にはレーザーディスク類とVHS類が棚にビッシリと保管されていたと記憶している。

そう言えば大瀧さんって無類の野球も好きだったっけなんて思いながら一緒に野球を観戦していた。
当時、50inch以上のスクリーンで見ることが可能なプロジェクターの存在は非常に珍しく、私は初めて大瀧さんの部屋で体験したが、投手の投げる変化球の軌跡が物凄くハッキリと見えたのには驚いた。

とにかく大瀧さんは新しいテクノロジーを自分で手に入れて使う事が大好きだったようだ。

そうこうし、夕食も終わり、機材を撤収し、帰宅の途へ着いた。
楽器車のヘッドライトに映った大瀧さんの見送っていた姿がまだボンヤリ脳裏にある。


私の大瀧さんとの体験はここまでだ。
この時の音源が何処にあるのか? 
大瀧さんの死後、誰かに発見されて管理されているのかは私には分からない。
大瀧さんのことだからキチンと保管していただろうと思う。


大瀧さんは、お話をする時のテンポや仕事をする時のテンポは私が会った他のミュージシャンの誰とも違っていた。本当に不思議なオーラを持った方だったし、とても魅力的な方だった。
会話の端々に触れていると、音楽とそれを取り巻く環境との化学反応や現象に興味を持たれていた方だったように思う。
また本当に色々な音楽や映画に万遍なく触れているのが会話をしているだけで良く理解できた。

今にして思うと、たった1日だけだったがなんとも贅沢な体験が自分の人生にあったことかと思う。


私は宝くじやチケットの抽選には全く当たらないが、こういう運は多少あるみたいだ。


大瀧さんという偉大なミュージシャンが生きている時代に生まれた自分の幸運も含めて。




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