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大瀧詠一さんと仕事をした ある日の出来事(2) [独り言]


私は、自分で大瀧さんのファンだとか言いながら、当時の私は大瀧さんのミュージシャンとしての来歴や全ての活動を完全に知り抜いていた訳ではなかった。
既に聴いていた音源は「はっぴえんど」関係、コロンビアから出ていた作品数枚、
そして「A LONG VACATION」と「EACH TIME」というところだ。
80年代に入って、来場者全員にFM電波で飛ぶイヤフォンモニターを装着させた画期的なライブをやっていたが、応募の抽選に漏れて入場出来なかった。確か中野サンプラザホールで開催されたと記憶している。

私が初めて「A LONG VACATION」を聞いたのは22歳の時だったが、
アルバム全体の出来の凄さに呆然とし、腰を抜かした記憶がある。
大瀧さんも達郎さんもアメリカンロックを共通にしているのだが、達郎さんとも全く違う独特なメロディーと世界観に圧倒され、本当に何度も聞いたアルバムだった。
後年坂崎幸之助氏が「君は天然色」のサウンドを解説した音声がYOU TUBEに上がっていて初めて知った事実に驚いたが、大瀧さんのサウンド構築のアプローチは本当に凄いなあ・・と思っていた。
当時にしても今にしても大瀧さんの音楽とはそういうものだったのだ。


「A LONG VACATION」が制作される過程は、発売30年後の記念イベントで自ら作ったラジオ番組風の音源で語っていたが、これについてはいずれ文字お越しをしようと思っている。
(この時の音声は「Road To A Long Vacation」というタイトルで、30周年記念時のイベントのために制作されたラジオ番組風の音声で、一時期YOU TUBEで聴けたが現在は見当たらない。素晴らし番組だったので残念だ。)


大瀧さんがコロンビア時代に発売したアルバム群はご本人が認めているように実験的な要素も多く、
一般的に訴求しにくい内容であったため、結果的に余り売れなかった。
そのため1970年代後期の時点で大瀧さんが経済的に困窮していた事実は、後のインタビューで知った。

コロンビアとの契約を満了する最後のアルバム「LET'S ONDO AGAIN」がリリースされると時を同じくして、ON・アソシエイツ音楽出版のプロデューサー、故・大森昭男氏が大瀧さんに依頼し続けたCM音楽は、大瀧さんが考える次の時代の自分の音楽を発見する機会となり、これによって作品を貯める事が出来、やがてこの時期に作った音楽群が「A LONG VACATION」となって花開く過程は、後年、「A LONG VACATION」の30周年記念のイベント用の番組でご本人が語っていた通りだ。(掻い摘んで言えば、3年近くの間に依頼されたCM音楽の制作過程でアルバムの作品の骨子や方向性をつかみ、それをまとめたのがA LONG VACATIONだったということだ)


実は当時の私は、大滝さんとは初対面ではなかった。
ボーヤ家業を始めた1984年春、今は無き六本木ソニースタジオのロビーでで何度かお見掛けしていたからだ。
しかし面と向かってお話しする機会は今回が初めてだった。

大瀧さんは非常に包容力のある感じで出迎えて下さった。

一般的な意味でいうプロのミュージシャンにありがちな、相手を値踏みするような、ちょっと神経質そうな空気を細胞から発するような感じはなく、ごく自然で普通の感じを持った人と会う雰囲気だった。
確か、「遠い所をわざわざすまないねえ・・」みたいな事を仰っていたかもしれない。

ハウスの奥側にあった部屋には、あの有名な16チャンネルのアナログレコーディング出来るスタジオがあった。
これが噂の大瀧さんの自宅スタジオ「福生45」かあ・・と思いながら、持ってきた機材を搬入してセッティングした。

セッティング後、大滝さんはご自身の仕事場を一通り見せてくれたような気がする。

レコードコレクターとして名に恥じないコレクションが陳列していたレコード部屋、
録画された大量のVHSテープとレーザーディスク(まだDVDは無い時代だった)で占められた部屋、
当時はまだ珍しいかった50インチプロジェクターでテレビを見る事が出来る部屋など、
大瀧さんに関する噂の出どころとも言える伝説的な部屋の数々を目撃することになった。
確かテレビ室は当時では珍しい衛星放送も見る事が出来るようになっていたはずだ。


大瀧さんは自宅のスタジオでシンセやパソコンを同期させた形でのレコーディングした事がなかったので、
この日に進めたい作業の中身の概要を大瀧さんから聴き取り、
我々からこういう方法なら進めらそうですと伝えながら進行していったと思う。
と言っても、元々機材オタクの大瀧さんなので持ち込んだ機材に対する飲み込みは速かったと思う。

大瀧さんの自宅スタジオは小ぶりのコントロール・ルームとボーカルが録れるブースがあった。
コントロール・ルームはコンソールと16チャンネルのテープレコーダーがあり、
プロのスタジオにもあるようなコンプレッサー機器などもあったと思う。

このコントロール・ルームにあった主要機材は、コロンビアとの12枚の契約時の契約金を原資にして
手にいれたものだったようが、当時はそこまで知りえなかった。
印象的だったのは、丁度デジタル録音機器が出始めた時代だったので、SONYから発売されていた持ち運び可能な業務用のデジタルレコーダー(シルバーで1辺20cmもないくらいの四角い機器だったような・・)と出始めたばかりの民生用のDATデッキがあったのを記憶している。当時はプロのスタジオにもまだ民生用のDATデッキが常設される前だったので、大瀧さんの機器へのアクセスはかなり早かったように思う。


つづく。

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