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結局才能ある若者たちはヒップな産業に集まる [独り言]


私は1959年生まれだ。


私が青春を過ごした時代に憧れの産業は音楽業界だった。
特にレコード会社やアーティスト事務所は垂涎の場所であり、
実際に時代の先を作っていたのは明らかに彼らだった。


現代に目を移すと音楽業界は見る影もなくなった。

何故か?


この年齢になると若い人たちの日ごろの興味どこにあるのかが疎くもなるが、

日常の行動を見ているとどうやらその原因がスマホゲームにあるらしいと感じた。


実際に電通総研が発行した情報メディア白書を見ればそれが数値的に分かる。

2015年の音楽産業全体の規模は1.5兆円程度だが、ここ20年で25%マイナスだ。
いわゆるフィジカルと呼ばれるCD販売の市場は2千億円程度で、
これはピーク時の1997年の1/4程度に縮小している。


反対にゲーム産業はこの10年で40%伸び1.7兆円規模に成長し、
特にスマホゲーム市場は約1兆円近い支配力を持っている。

音楽産業の75%に匹敵するマーケットが1つの事業ドライバーで成立しているのだ。

私の時代に才能ある若者たちは音楽産業やその周辺に集まり時代を作る音楽を生み出した。

才能が集まるから当然のようにヒット作品が増え、更に才能が集まった。

昨今ヒット作品と言われても誰も歌えない100万枚ヒットと呼ばれる一連のアイドル作品や、
年間ベスト10チャートが3組程度に寡占化され、多様性を失ったチャート、
また配信チャートとCDチャートとの大きな情報乖離を見るにつけ、
明らかに音楽業界が部分的に劣化していることを感じる。


こういう現象が起きている原因は1つだろう。


才能のある若い連中が集まっていないためだ。


ではどこにいるのだろうか?


現代において才能のある若い連中は、スマホゲームを開発している会社に集まっていると見ていいだろう。

若くてアンテナが敏感でクリエイティブの高い連中が縮小マーケットを目指すはずがない。


かつて音楽産業が華々しい時代を考えれば、現代においてそれに該当するのがスマホゲームの産業だ。
なんたって1兆円を超える規模になっているのだ。今後更に伸びるに違いない。


現場でゲームを作っている人たちの行動を見聞きすると、それはかつての音楽制作現場とソックリだ。
好きな連中が好きなだけ時間とエネルギーを注ぎ自分たちの頑強なコダワリを込めている。


そう、かつて音楽産業が華々しい時代だったのは明らかに素晴らしい才能を吸引する市場と規模があったからだ。
残念だが音楽産業はその役割を終え、位相を変える時代になっている。K-POPが日本で市場を作り始めたのは
その兆候と見て良いだろう。


そしてかつての音楽産業に匹敵するヒップさをもっているのは、スマホゲーム産業だということだ。

そして若い才能はそこを目指す。


ゲームだけでなくゲームから派生したグッズビジネス、ライブエンタやアニメ化等の事業も展開しており
映画産業と同じようなモデルで成長することになるはずだ。


現在の日本のレコード会社において最大の問題は30代のスタッフの希薄化だ。
そしてミュージシャンにおいては才能の絶対的な流入数の減少で更に厳しい。

私にとってミュージシャンとは未だに憧れの存在だが、現代の若者にとってはそうでもないということだろう。

時代と言えばそれまでだが寂しい限りだ。


しかしスマホゲーム産業とて30年後にどうなっているかは分からない。
そういう意味でこうした流れはいずれ繰り返されるのだろう。

エイベックスは音楽制作部門をライブエンタ部門内に包括しているし、
今後大手レコード会社でも似た様な事が起こるだろう。


音楽産業にとって音楽配信とライブエンタが音楽ビジネスの二大柱になることは疑いようがなく、
CDは遺物になってしまうだろう。
そうなった場合、音楽産業はいずれアーティスト中心ではなく、外部のメディアと連合した形で
生き残りをかけることになるだろうと推測する。


またK-POPの台頭は日本のアイドル産業に外圧としてのしかかり、彼らとの連携が日本の芸能産業としての
生き残りを左右する時期がもう目の前だと言ってもいい。


エンタメ業界も新しい時代になったと思う。






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時代遅れを感じたスター・ウォーズ [独り言]

「時代遅れを感じたスター・ウォーズ」というタイトルは、 スター・ウォーズの大ファンには不遜だと思っている。 名作を貶すな!と言われるかもしれないが、 その理由は以下に書くので読んで頂ければと思う。

また、あくまでも主観なのでお許し頂きたい。


スター・ウォーズ、最後のジェダイを見た。 封切りから2週間以上経っていたが、会場は満員だった。 今回少し違和感を感じたのでそれについて書こうと思う。 スター・ウォーズはエピソード3がスタートしてから40年経過した。 ご存知のように SF映画の中でも最も成功した作品だ。


しかし40年を経過し今回の作品を見てスター・ウォーズがついにSF作品としては 時代遅れになってしまったと感じるに至った。 それは一体どういう意味か? なお以下に記載する事は 1部ネタバレがありますからご注意ください。 皆さんはご存知だと思うが日本においても2020年にはAIが運転する自動車な公道を走るようになる。 また様々なものがAIを使って自動化される。我々がこれから生きる世の中は 一昔前までのSF映画が描いていた世界以上の世界を生きることになる。


そんな中今回見たスター・ウォーズは40年前の設定からどうしても抜け切れない部分がある。 例えば反乱軍の戦闘機だ。戦闘機にはパイロットがいる。 しかし現代において徐々にではあるが戦闘機にはパイロットが不要の時代になっている。 いわゆるドローンを使ったものだ。


実際の戦闘現場ではAIが判断して敵を殲滅するような兵器も生まれている。 現実では既にこのような戦闘行為を現実としている時代において SFの映画の中でパイロットが生死をかけながら戦うと言うのはちょっと古めかしくないか? と言うよりもSFの世界においてはすでに非現実的だとも言える。


戦艦をバリヤーで防御できる技術を持つ反乱軍が、戦闘機にわざわざパイロットを載せ 人的資源を失いながら戦うというのはどうにも理解に苦しむのだ。

もちろん映画の演出としては感動を呼ぶのだが、私には逆に醒めてしまった部分だ。


またローラ・ダーン演じる反乱軍の司令官が敵陣へ突っ込んで行く際、 自分自身がパネルを操作をして艦艇を反転させ敵艦隊に突っ込もうとするシーンがあるが、 SFの世界においてこうした描写はあまりにもアナログ的と言え、 見ていた私はこの部分にも興ざめしてしまったのだ。 (久しぶりにローラ・ダーンが見れた点は良かったのだが・・


Googleホームだって音声認識で様々なことをやってくれる時代なのに スター・ウォーズほどのSFがマニュアル的操作と言うのはあまりではないか。


実際この文章だってiPhoneの音声認識を使って書いている。 われわれの身の回りの世界では自動運転や自動走行が一般になりつつある。 未来を描いているはずのSFがこうした現実から後退した世界感を使って描いているのは 40年前の設定を変えられない部分があるにしても 少し興ざめするような部分だろう。 もちろんフォースを持つジェダイの末裔たちがライトセーバーで戦う演出だって 古色蒼然としたものだと言えなくはないが、スター・ウォーズの様式美であり否定はできない。


しかし40年前に気にならなかったこうした部分が気になり始めてきたのは、 かつてはファンタジーだった演出の一部が現実に現れてきたからだろう。 そういう意味で我々はかつてSFが描く世界を日常にし始めている。


たかだか十数年前に公開されたマイノリティーリポートの犯罪予知にしても、 映画とは違う方法だがアメリカの警察で実際の利用が開始している。 何という時代になったのか?とも思う。


そういう意味で私にとってスター・ウォーズは今回で十分だという感覚だ。 SF映画の制作者には大変な時代が来たと思う。


今後の続編が制作されるらしいが、制作陣はワクワクする未来を描いて次世代に繋いで欲しいと願う。

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映画・映像表現と音楽に共通するドーピングの蔓延について。 [独り言]


先日スターウォーズ ~最後のジェダイを見に行った。
スターウォーズシリーズは1970年代後期に始まり40年を経てまだ続いている。
ルーカスという稀代の才能が生んだストーリーの賜物なのだが、
私は上映前の予告編に大変な失望を感じた。

この日、予告編は5作品ほどが上映された。


たまたま編成的な理由もあったのだろうが、共通していたのは4作品がCGを中心として描かれた映画だった。
実写中心の映画はスリー・ビルボードという作品だけだった。
CGを使った映画はどれも似た様なテイストで個性が見当たらなかった。
タイトルさえも記憶に残らない。
金太郎飴のような予告編だった。


SF作品にしろファンタジーにしろ実写にしろCGは映像表現に欠かせない時代になった。
CGの無い時代は、美術さんが絵筆で背景や追加画像を描き実写に組み込んで撮影していた。
1950年代に制作された「風と共に去りぬ」は見事に実写と書き割りを融合させていたが、
こうした手法は80年代になるまで続く。



70年代後半に出現したスターウォーズは光学処理を使った特殊効果が主体だったが、
80年代において「TRON」によって映画界に出現したCGだが、背景や追加効果以外の利用が可能性を見せつけた点でエポックメイキングだった。
そしてCGが特殊効果の一部だった時代を一変させたのは90年代のジュラシックパークとターミネーター2からだろう。
ここから加速度的にCGの技術は進み現在に至る。



しかし昨今はCGで描がかれる映像表現が余りにも増加し、表現方法に限界が無くなったため、
見る側としては逆に想像力を掻き立てられなくなり、
私に限れば、最近の映像表現がとても物足りない感じがし始めてきている。

以前なら実写で撮影するような映像でさえもCGで代替し始めており、リアリティーが薄く、
おまけにどんなに優れたCGでもCG臭さが消えないために見ている間に興ざめしてしまうのは私だけだろうか?

確かにCGによって映像表現が圧倒的に向上してくれた部分があるとは思っている。


しかし不要なほどのCG量は、感覚的に馴染まない部分が顕著であるというのが私の感想だ。

不要なCGによって過剰な表現になってしまったり、出演者の容姿を直したり、
実写可能な映像でさえもCG化する事までしており、本当にそこまで必要なのだろうか?とさえ思う。
ハリーポッターやスターウォーズ、アバターなど、CGが無くては成立しない映画はともかく、
CGを使わない方が映画として良いなと思う作品にも過剰利用されている現状を見ていると、
映画関係者にはCGの在り方についてもう少し考えなおして欲しいと思っている。



実は音楽にも同様の事が起きている。


昨今はPro Toolsのお蔭で、音楽制作において相当な事が可能になっている。
端的な例は、オンチの唄でもある程度上手い歌手のように歌わせる事が出来るというものだ。
これは音質を殆ど変えないでピッチや表情を直すアプリの登場から業界内で頻繁に使われるように
なったのだが、実際の本人の実力の唄とは全く違うパフォーマンスに出来上がる。
またコーラスに至っては、同じテイクを張り付けて終わりという現場もあるし、
コーラス隊で呼ばれた歌う側がそれを要求する不埒な現場さえもある。



こうした「ドーピング的な修正」は80年代からあったのだが、昨今は細部に渡って細かく修正が可能なため、
本人の実力以上の歌唱効果を得る事が可能だ。
しかし人によっては本人の再演が不可能だったりするから意図が全く分からない。

昨今、ライブにおいても歌入りのカラオケで誤魔化すパフォーマンスするのがまるで当たり前のようになり、
何処までが実力なのかも分からない時代なのだ。それで入場料1万円とかを支払って客は喜んでいる。



CMやポスターなんかもそうだが、昨今レタッチと呼ばれる修正が当たり前になっている。
皺を消したり顔の輪郭を変えたり、エクボまで取ったりと、ちょっとやり過ぎだろうと思うくらいだ。
アメリカではモデルの撮影時とポスターの出来栄えの違いが顕著過ぎて社会問題にまでなった。

私はこれらを「クリエイティブ的過剰ドーピング」だと思っている。


現代の映画・映像、音楽も過剰ドーピングがまるで当たり前の時代になっていると言っていいし。
客も知ってか知らずかそれで良いように振る舞っている。
駅で見かけるポスターやCM映像なんてツルツルの顔しているが、ちょっと気持ち悪い位だ。
またアイドルやK-POPのライブなんてダブルトラックドーピングだらけだ。

割り切りの良い言い方をすれば、それらに価値を見出せばそれを価値だとも言えるのだが、
人間技でない部分が優れている事で価値とするならば、別に特別なタレントに頼らなくてもいいのだろうとも思う。


昨今、AIアイドルも出現しているが、現状でも人間はただの「素材」と化している訳で、
本当にそれでいいのだろうか?と訝る。

私はエンタテインメントへの基本は、並外れた人間技と才能への畏敬だと思っている。
将棋や囲碁の世界で圧倒的な能力でAIが勝っても、全く感動をしないのはそういう事だ。

またAIが分析したレンブラントの絵を見ても、心を揺さぶられないのはそこには人間技がないからだろう。
ゴッホ展でキャノンが作った立体再現プリンターの絵を見たが、技術的面への驚きはあったが、感動には至らなかった。
人間には機械と比較して物理的な能力限界があるが、常人を超えたいる人たちのパフォーマンスだから感動や喜びがあるのだと思う。



スポーツも同様だ。
機械と人間がスポーツで闘い、機械が勝っても感動を呼ばないだろう。
だからスポーツには厳格なドーピング対策がある。
しかしエンタメにはない。

並外れた人間技と才能を持った人間は、数十万人に1人程度しか出現しないから価値がある。
そうしたフィジカルの凄さこそがエンタテインメントの価値の源泉であろうが、昨今は見る影もない。

実際、映画・映像や音楽の世界ではこれらについて「ドーピング」と受け止めていないが、
私には「過剰なドーピング」に思える。


昔の作品にも技術を頼りにした部分が多いが、それでも最後の肝は人間技が引き取っていた。
昨今の作品にはそういう息遣いが感じられないのだ。

AI時代に入り誰でも同じようなパフォーマンスが出せるとなれば価値は自然と落ちて行くだろう。

価値のないものに過剰な修飾を施しても当たり前なら、もはや心を動かされないだろう。
踊る阿呆に見る阿呆というが、ちょっと次元が違い過ぎないか?

最近のロックバンドや若手歌手の生歌を聞いていると、音源とライブの違いの凄さはちょっと酷過ぎないだろうかと思う。
特に歌のピッチの揺れ方は度し難い。


映画にしても、上手い役者の演技を邪魔するような特殊効果は見ていて辛いほどだ。
古い例で恐縮だが、仮にThe  Eaglesがライブでホテル・カルフォルニアを生でレコードのような演奏出来なかったら、彼らのレコードを買い、ライブにいくことはないだろう。

さて、スターウォーズ ~最後のジェダイは、SF作品であり、特殊効果を前面に出す事で地位を得てきたのだが、もはや映像を見ていてもワクワクしなくなったのは、観客の私が今の技術なら当たり前だと感じているからだろう。


そういう意味では不幸な時代になった。新しいターウォーズを見ていてあれ以上の何を期待して良いのか
私にはもう分からなくなった。3DもIMAXも本質ではない。
私にはこの手に対して飽きが来てしまったと言っていい。

エンタメは本質を磨く時代から技術に逃げる時代になってしまっているのだろうか?

ここ最近、映画なら昔の映画を見るし、音楽ならオールディーズものを中心に聴くようになったは、
ドーピングレスのエンタメを欲求する背景があるのかもしれない。
単純に昔を懐かしんでいるというより、昔のものの方が圧倒的に人間技として良く出来ていると私の感覚が言っているのだ。



先日ザ・ビートルズのドキュメント映画、「Eight day the week」を見た。
彼らが生身の体から生み出す新しいメロディーや音楽にどれ程の民衆が虜になったのかが良く分かるが、
その根底には並外れた人間技と才能への畏敬があったのだと思う。

レンブラントの絵をAIが解析して書いた新しい絵は、技術的には興味深いがそれ以上でもそれ以下でもないことは述べた。
技術的要因を多用した映画や音楽が人間技の欠片もないとは言わないが、想像力を掻き立てる何かを失っている点については、制作者側に立ち止まって考えて欲しい部分だ。




私は古い人間なので、オールドファッションが好きなのだろうと言われれば全く否定しない。
ここ何十年もゴッドファーザーや地獄の黙示録、大脱走やエンゼル・ハート、羊たちの沈黙、アマデウスに
匹敵するような映画らしい作品が見当たらないのは寂しい限りだ。

音楽に転じれば、私の20代は、桑田佳祐氏や山下達郎氏、大瀧詠一氏、坂本龍一氏などの素晴らしい才能に囲まれていたが、現代の若手のミュージシャンの中に彼らに匹敵し、なおかつこの先30年をリードできる人材は何名いるのだろう?
ギリギリ星野源氏位だろうか?



日本の音楽シーンは、AKBや嵐、三代目でベスト10を席巻し、多様性を失った事で市場そのものが冷え込んでしまった。
彼らを選んでいるのも市場だが、この多様性の無さに音楽業界は危機感が無さすぎた。

これは20年を掛けて音楽業界が斜陽になり、有能な若いスタッフが入ってこなくなり、
有能だった団塊世代周辺のスタッフが消滅した事により、才能を見つけ育てる機関が失われ、
企画的でメディアと結びついたジャンルだけが生命線になってしまった事でバランスを欠くようになったのだろう。


これは映画も同様だ。
パシフィックリムやアベンジャーズが席巻しているのは市場の要求なのだろうが、
甘いお菓子ばかりの映画供給環境は音楽と同様で多様性がなく、大人の私には食い足りない映画ばかりだ。

また大型劇場の席巻によって、特に渋谷の地においても単館上映館が激減し、小さなニーズを引き取る環境が
減ってしまった事も私にとってツマラナイなあ・という感じだ。

しかしそれも時代の流れといえばそれまでだ。



ただ感覚的に言える事は、優秀な若いクリエイターの絶対数は、明らかに映画や音楽からは激減している点だ。
理由は分からない。
優秀なクリエイターが音楽や映画などの斜陽産業を避け、ITやゲームなどの分野に
行ってしまったからかもしれない。実際スマホのゲーム分野の市場は成長軌道にある。
成長軌道を作る新しい産業には才能のある若者が多くいるのが常だ。



彼らにとって、映画や音楽は魅力的で永続的な分野でないのだろう。
だから面白くなくなったと言えるのかもしれない。

しかしスマホのゲーム分野もいずれは飽和するかもしれないが、今の段階では分からない。

この年になると、エンタメに対して若い頃のように驚いたり感動したりするハードルが上がってしまう。
滅多な事で笑えないし、驚く事も少なくなった。

老化なのか?と思う時もある。

大抵のことを見聞き、経験してきたからなのだから仕方ないがちょっと寂しい気分にもなる。

ただ自然の営みにはまだまだ未知の領域があり、歴史、美術の分野には心を動かされる事も多く、
こうした部分にはこれから先、ジックリ取り組もうとは思う。
もう流行り廃りに惑わされず自分のスピードで生きる年齢だとも思っている。

音楽や映画の価値観については、35歳までに見聞きしたものが絶大な影響を与えてしまうという記事を
読んだ事があるが、そうかもしれない。



まあ、こっちがオッサンになって懐古趣味的になったということは多少の理由としてあるのだろうが・・・。




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ミュージシャンという生き方 [独り言]


中学高校時代、ミュージシャンは私の憧れの職業だった。
一時期私はミュージシャンを仕事にすることを目指して生きていた。
音楽業界で働く事に憧れを持っていたのはミュージシャンへの憧れと同等だった。

それから45年近くが過ぎ、ミュージシャンという職業を傍から俯瞰していると、
これほど過酷で生き残りが難しい職業であったろうか?と感じている。


正確ではないが、少なくとも70歳を超えて一線と言える場所で活躍しているミュージシャン(ソロ、もしくはグループ)は、加山雄三氏、吉田拓郎氏、小田和正氏、細野晴臣氏と言い切っていいだろう。
寺内タケシ氏も含んでいいかもしれない。
活動の幅はそれぞれ違うが、少なくとも彼らは1500~2000名以上のホール級を満員にし、ツアーをし、メディア露出等も定期的にある。

その下の年代になると矢沢永吉氏、井上陽水氏、さだまさし氏、山下達郎氏、森山良子氏、谷村新司氏、
南こうせつ氏、高橋真梨子氏、坂本龍一氏、中島みゆき氏、浜田省吾氏、桑田佳祐氏、
松任谷由実氏、THE ALFEE、矢野顕子氏、長渕剛氏、竹内まりあ氏、鈴木雅之氏、八神純子氏辺りが
妥当な線だろう。私の無知で漏れている人もいるかもしれないが概ね正しい範疇だと思う。
ちなみに演歌、歌謡界は除いてある。 

数えてみれば分かるが、全部で30組は存在しない。多少範囲を広げても50~100組程度だろう。
彼らはロック・ポピュラーミュージック界のエリート集団と言っていい。


60年代~80年代前半にデビューし、キャリアを30~40年近く続け、現在でも一線でやれているフロントラインのミュージシャンはこの数程度しか存在しないという証だ。
小田和正氏に至っては70歳になってもアリーナ級を満員にしており、少なくとも彼と同じ年齢では最高動員数だ。
昭和22年生まれの彼の同年代出生数は、2,678,792人とある。
つまり、彼のようなミュージシャンの出現する確率は約260万分の1ということだ。
細野、吉田、小田氏の3名の出現確率は、90万分の1程度ということになる。
また60歳~69歳の出生数は約2,000万人強だが、上記を見て明らかなように
一線で生き残ったミュージシャン数は20組程度。つまり100万人に1組という感じだ。
だから概ねこのレベルの才能をもち持続性があるミュージシャンの出現する確率は50~100万人に1名と言っていいだろう。

凄い数字じゃないか・・。普通じゃない。



さて、先ごろ小室哲哉氏の不倫報道が週刊誌上に踊った。
著作権詐欺事件以降、小室氏の活動は火が消えたようだ。
90年代のブームの大爆発を知っている年代からすれば、今日の彼の活動状態は信じられないだろう。
小室氏は本件に絡んで引退を表明したが、YMOに憧れた彼がYMOの次の世代を担った第一人者だったことが疑いようがない。
(ちなみに個人的にはたかだか個人の不倫報道に絡む引退表明は唐突感が隠せない。別に引退しなくても良いと思うのだが、KEIKOさんへの贖罪を自分の職業を棄てる事で表したかったのかもしれないし、彼自身の体調の件もあったのだろう。還暦になる彼が自分の引退を会社員の定年退職になぞらえた発言があったが、彼の会見を見ていて往時を知る世代としては、輝きを失い弱った老人のようにも映る会見の姿は寂しいものだと思った。夢を与える側の仕事の只中にいる人物の現実的な課題を表に現した点で異例ともいえる会計だったが、彼に限らず私生活の問題や本人の体力、気力の減少は彼なりにあったようだし、それは我々と同じということなのだろう。)


2018年には還暦になり日本の音楽史にその名を刻んだキャリアを持っているような才能が、
先述したようなミュージシャンたちのように活躍を持続出来なかったのは何故なのだろうか?と訝る。

才能の違いと言えば簡単だが、彼が人並み外れた才能を持っている点において、過去の履歴から否定出来るはずもない。
しかし持続性が無かった点では上記の先輩たちと比較しても陰が薄くなる。
彼が尊敬する坂本龍一氏は、特にYMO後ソロでも成功し、その後映画音楽の分野でアカデミー賞を受賞するなどのキャリアを構築し、現在でも一線にいる。

坂本氏やそれに類するミュージシャンに備わっていて小室氏に無かったものは何だったんだろうか?


それを紐解く材料は小室氏の著作権に絡む詐欺事件にあるだろうと思う。


生き残っている大物ミュージシャンたちは、一見才能だけでやり続けているようにも思うだろうが、
実際はそうではない。彼らは常に自分の才能以外の見識や能力を総動員して戦っているし鍛錬もしている。

こうした事を否定するミュージシャンもいるだろうが、才能だけで生き残れるほどこの世界は簡単ではない。天からもらった才だけを使い、空から降ってくる音楽を捕まえるだけでは生き残れないという意味だ。

彼らの活動が無意識だけで継続できるはずもなく、我々同様に「頭で考え」「感性を磨き」「研究をし」「意識的に成果を作り出し」「分析し」自分の居場所の維持や新しい才能の出現と絶えず戦っている。

ミュージシャンと言えばチャラチャラした気楽な印象だけがあるかもしれないが、
職業として数十年を生き残ろうと思ったら実際はそういう訳に行かない。

相当にタフだし、相当にエネルギーがいる。成功している彼らは並外れているためそれが出来るのだ。
それでも60歳を過ぎれば歌手の場合、いつ歌えなくなるか・・という恐怖との闘いもある。また当然だが引退や残り時間とのせめぎ合いもある。これは誰もが同じだが、その場凌ぎでは出来ない事だ。


小室氏には厳しい言い方になるが、著作権に絡む詐欺事件の背景には、小室氏が過去の栄光を梃にして、
ピーク時の贅沢三昧な生活を維持するための身の丈以上の金を得ようとしたのかもしれないし、本分とはかけ離れたものに首を突っ込んでしまい、本来彼がプロのミュージシャンとしてやるべき仕事の源泉を蔑ろにし、地道にやって来なかったかもしれないと推察する。
また周囲に彼の行動ややり方をキチンと質すミュージシャンやスタッフにも恵まれなかったのだろう。耳の痛い事を言う人は遠ざけたくなるのが人情だが、時にはそれを受け止める器が人生を決定することもある。

少なくともこの時点での彼の躓きはキャリアを大きく棄損してしまったし、その後の活動にも影響を及ぼした。


小室氏のキャリアを総括すれば、TMネットワークで世に出て、Globe、安室奈美恵氏などを売り一世風靡したに尽きる。
彼自身がメンバーとして関わって売れたバンドはTMネットワークとGlobeだけであり、彼の音楽キャリアの源泉はそこにある。

残念ながらGlobeはKEIKOさんの病で活動が出来ない。

TMネットワークは何等かの理由で人前に出て来ないが、これはある意味で自己キャリアの否定をしているに等しい。小室氏に限らずTMネットワークのメンバーはソロアーティストとして市場価値がある訳でなく、常に他者との共存でその才能を発揮してきた。(これは多くのバンドメンバーに共通する点だ)

この辺りがソロ活動で生き残っているミュージシャンと決定的に違う点だ。
従って小室氏の活動にはかつてのバンドメンバーの協力が必要だが、長年実現していないということは
人間関係が切れてしまっているのだろう。

エンタメ業界のように成功例を出す事が稀で、なおかつ長期的な活動戦略が必要な業界において、価値のあるバンドでの活動が出来ないのは決定的に痛い部分だ。
長期的にはTMネットワークはいつでも再開できるようにしておきべきだった。核となる活動を失ったために時流に乗れない時期を迎え代替策がなくなり、本人の活動の限界が早まったと言っていいだろう。

冒頭に書いたミュージシャンたちを見れば分かるが、彼らは直近において新作のヒット曲はない。それもでやれているのはロイヤルティーの高いファンの支えがあったからだし、支持が切れないように自分の価値の維持に努めていた点も大きい。従って地道な努力の賜物と言っていいだろう。



このようにミュージシャンが長期に渡って高い価値を維持して活動を続けるのが、どれほど針の孔を通すようなものかお分かりだろう。
日本には数十名程度この孔を通った人達がいるが、いずれに独自の生き残り方法と個性を展開している。


ミュージシャンとして一線で生き残る事がこれほど難しいというのは還暦を迎え苦境の会見を行った小室さんが一番感じていることだろうと思う。

かつては一斉風靡した多くのフロント・ミュージシャンたちは、全国のライブハウスやカフェ程度の店を廻っての演奏活動やその他の周辺業務を支えにして生計を立てている。完全に音楽を中心中心とした活動で生きていると言えるのは、小田和正氏、山下達郎氏、井上陽水氏、矢沢永吉氏、坂本龍一氏など本当に極々僅かな人たちだけだ。

かつての人気者たちも年齢と共に地方の旅暮らしを余儀なくされ、体力的にも相当に堪えるはずだが、やり続けないと食えないし自分のパフォーマンスも衰える。
華やかに見える彼らにも、活動規模には様々なグラデーションがあり、羨むようなレベルにいる人達は非常に僅かな一部だけだ。


そういう意味で私のような凡人は、中高生時代に憧れたミュージシャンに「なれなくて」良かったかもしれない。私ではとても務まらなかっただろうと思う。(実際35歳で諦めた)

多くの音楽ファンは、オヤジバンドとかを一生やっていた方が普通の丁度いいのが音楽や演奏活動の世界だろう。




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GLAY、結婚式で楽曲無償提供の誤解報道、勝手に補足説明 [独り言]

GGLAY、結婚式で楽曲無償提供の誤解報道、勝手に補足説明


4人組ロックバンドのGLAYが、結婚式でGLAYの曲の使用を無償で提供すると
2017年12月10日に公式ホームページで発表した。


ネットニュースを読むと、「楽曲提供無償」が目立つが「完全無償」でなくトラブル心配の声もとの追い報道もある。




本件について、目出度い結婚式での楽曲使用についてメンバーが表明してくれた気持ちは嬉しい事だと思う。
これは彼らの純粋な気持ちだろう。
同時に彼らの気持ちに寄り添うなら、もう少し周辺スタッフが噛み砕いて上げるべきだとも思う。


上記のGLAY公式サイトの「ブライダルでのGLAY楽曲の使用に関して」を読むと、正直言えば、素人の人には
何のことだか完全には理解出来ないと思う。
報道にあるようにメンバーは無償提供と言っているのに報道の言う「完全に無償じゃない」というのはどういう意味なのか?


問題は著作権の管理者が複数あることが事を複雑にしている。


凄く簡単に言うと、著作権には幾つか種類と権利の恩恵を受ける幾つかの対象者が存在する。
知らない人が分かるように以下に簡単に記載する。


音楽著作権の場合、ザックリ言うと①作家(作詞、作曲家)が持つ権利と、
②レコードを作った事に関係する権利の2つがある。
この2つの権利は管理団体が異なる。

また両方の管理団体は、権利者の預託範囲ないで使用料の管理(財産権)をしている。


日本において作家の権利管理は、JASRAC(一般社団法人 日本音楽著作権協会)とNEXTONEの2団体、
また、レコード会社が音源を作った事に関係する権利はCPRA(一般社団法人 実演家著作隣接権センター)が管理している。

今回、メンバーが使用料免除要望を出した部分は「CPRA」が管理する部分で、「JASRACとNEXTONE」ではないという事だ。


何故JASRACとNEXTONEは免除が出来ないのか?


難しい説明を省くが、JASRACとNEXTONEに対して信託登録された作家であるメンバーは、既にブライダルなどの場所で楽曲を使用する場合の使用料徴収権をこの2団体に一定期間自分たちの作品を預けている。
これを信託しているという。信託というのは、見かけ上、著作権を管理団体に譲渡し、徴収作業をする際、管理団体が権利者のように振る舞う事を著作権者が許可するような事をいう。

つまり、信託されているというのは、この2団体が作家と同じ権利を持った「状態」で使用者に対して使用料徴収業務が出来るという意味だ。
もっとかみ砕いていうと使用者に対してメンバーの代わりに使用料を払って欲しい(だって権利者だから!)と言える立場がこれらの管理団体ということになる。

従って既に登録済の楽曲はメンバーの著作権であるにも関わらず使用料の徴収に関して、取ってもいいとか取らなくてもいいなどのような自由にならない。

これは管理システム上等の問題で受付られないのだ。


何故か?


通常ブライダル会場を運営する会社が既存曲を利用した演出をする場合、JASRACとNEXTONEとは会場の規模や売上に応じて年間利用として包括した利用料の支払いを行う。その方が事務作業が低減できコストメリットもあるからだ。
通常ブライダル会場側は従量制的に支払うか、包括契約としての対価を1年分をまとめて払うため、仮にGLAYの曲が免除されても形式上、この2団体は使用料を受け取る事になり、管理団体が受け取った使用料は作家に分配しなければならない。
従ってGLAYだけを除外した作業が出来ないから使用料免除にするのが困難なのだ。


メンバーがそこまで知って発言していたかは怪しい。まあ、ミュージシャンはこういう部分に疎いからだ。
従って公式サイトに説明されているように「著作隣接権についての無償提供をさせて頂く運びとなりました。」という言い方になってしまうのだが、この説明では一般の人がピンとくるかは難しいと思う。


著作隣接権なんて聞いた事も無い人が多いだろうが、有体に言うとレコード会社が保有している原盤権と
レコードを作る際、演奏等に関わったミュージシャンたちが持つ権利の事だ。

実は著作隣接権も年間包括契約を採用しているが、使用量に従量した徴収も行っている。


そのためJASRACとNEXTONEと異なり運用に柔軟性があり、分配も同様のため無償対応出来たという事だ。

メンバーからすれば自分たちの想いの半分しか叶わなかったということだが制度上致し方ない。


もし自由に利用環境を設定してければ自分たちで管理すれば良いと思うが、
そのリスクとして知らないところで利用されても金を取りこぼす事を覚悟しなければならない。
また煩雑な管理体制を維持しなければならず、良くも悪くもJASRACとNEXTONのような団体に預けておいた方がメリットがある。

個人がブライダル等で使用する場合でも1曲辺り8,000円程度のJASRACとNEXTONEへの使用料支払いを求められる。


著作隣接権使用料も概ね同額なので、それなりの出費となる。
(詳しくは包括契約状況や使用環境等で異なるので各ブライダル施設にお問合せ下さい)


よく、自分が買ったCDだから個人で使っても関係無いと言い張る人がいるが、
CDを買い個人的な利用をする事とその著作権を別の環境下で利用出来るかどうかという事は全くイコールではない。他人が作ったものを利用するというのは対価が発生すると考えておく方が普通だと思っておいた方が良いだろう。

つまり、今回の件は、GLAYの曲をブライダルで使用すると「著作権使用料をブライダル会場経由もしくは個人で著作権管理団体に申請して支払いをしなければならないが、隣接権団体は免除となる」という事で、手間は半分になったが、著作権使用料は支払う必要があるという事です。


そういう意味で今回のGLAY記事のは、一般的に馴染みのない話で説明が難しいが、少しでも助けになればと思い書きました。









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はしだのりひこさんの訃報に接して [独り言]

はしだのりひこさんの訃報に接して。


はしだのりひこさんが2017年12月2日、ご逝去された。
ニュースはネット経由で知った。


フォーク歌手、はしだのりひこさん死去…72歳
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171202-00050073-yom-ent


彼の訃報に接し、私は殆ど忘れていた中学時代からの彼との交流を思い出す。

40年近く前の話なので記憶の片隅になってしまっていた事はご容赦願いたいが、
はしださんは私の人生にとってプロミュージシャンとして初めて接した人物だった。

長野県の田舎の中学に通っていた14歳当時の私は、日本のフォークミュージックに傾倒していた。
小学校6年生から始めたギターもかなり腕前を上げ、オリジナル曲を作り始めていた時代だ。
夢はミュージシャンになることだった。
1970年代初期、はしだのりひこさんは信越放送のラジオのパーソナリティーをしており
土曜深夜帯に冠番組を持っていた。
「はしだのりひこのグリーンラブフォーク」というタイトルの番組だったと思う。

ラジオっ子だった私は、その番組のリスナーだった。
(当時の同世代の方の多くはラジオを聴きながらの受験勉強のご経験があるに違いない・・)

この番組はいわゆるオーディション形式を内包した番組だった。
はしださんとSBCのスタッフが長野県各地を移動し、
現地での番組収録をしながら音楽愛好家から出演の応募を募って演奏や番組を構成し、
各地の優勝者を決めるという内容の番組だったのだ。

IMG_20180725_0001 - コピー - コピー.jpg

上の写真は1977年の夏ころ、長野県飯田市の商工会議所の上階にあった小ホールで
開催されていた信越放送主催のグリーンラブフォークの公開収録の模様。
たまたま整理していた当時の写真集にあったのでデジタル化した。
当時の私は時折これにアマチュア参加者として出演していたが、田舎者の私にとって
憧れの音楽業界に接近しようとしていた時期だ。

またこのイベントの当時のゲストはなぎらけんいちさんなどで、彼らの音楽が聴け、
当時の私はそのライブを楽しんで聞いていた。
田舎の少年にとってその光景は眩しかった。

14歳のある日、私はこの番組の演奏者に応募して出演することになった。
地元のバスターミナルの上階で行われた公開収録に出演し、自作自演の曲を演奏することにしたのだ。
当時の私はミュージシャンになることに憧れていた。
だからプロの意見や聴衆の反応を知りたかった。

もう40年以上前であるため記憶が定かでないが、確か2~3回ほど番組に出演し演奏したと思う。
その内1回は優勝してはしださんのサイン入りのギターをもらった。
(今でも実家にある)



今振り返ると当時の私の演奏が賞賛に値するほど素晴らしいはずはないのだが、
オリジナル曲で挑んだという事や、まだ14歳だったという点を考慮されたのだと思う。
当時の私は目立ちたがり屋で出たがりの子供だったから、はしださんも面白がってくれたと思う。
実際その後、彼の番組にゲストDJ(喋る方のDJです・・。当時のDJはそっちの意味ですから。)として2週分の放送に出演する機会を頂いた。
今考えると無謀とも思えるし、当時の放送された録音も手元にないので正確に何を話したのかさえも殆ど記憶がない。
しかし田舎の中学生の私がラジオ番組に出演するという人生でも滅多にない「経験」があった事を思い出したのは、彼の逝去の報道がキッカケだった。私はこんなすごい経験を忘れていたのだ。

当時のはしださんはとても優しかったという記憶しかない。
シロウト同然の中学生と絡むのは、プロの彼にとって優しい事ではなかったと思う。
それは自分が音楽業界に入った事でようやく理解できた事だ。

当時の私は早口であったため、活舌が悪く、時折はしださんに注意をしてもらいながらの収録だった。

私が18歳になって大学に通うために東京に出て来た時期になってもはしださんとの交流が断続的にだがあった。
はしださんの事務所は原宿の竹下通り入り口に今でもあるマクドナルドの向かいに建っていたマンション内にあった。
私は時折事務所を訪問してご機嫌伺いをしながら、時折だったが彼の仕事をボランティアで手伝っていた。
記憶にあるお手伝いは、新宿厚生年金会館の小ホールで開催された企業慰安向けのコンサートだった。
当時そのライブで唄っていた曲の中で記憶があるのは「たとえば光」だったが、
現在ユニバーサルの音源として存在しているようだ。
なおその日、同じ会館の大ホールでは、レイナードスキナードが公演をやっていた記憶がある。


たとえば光





私とはしださんはそれ以降疎遠になってしまった。
理由は正確に憶えていないが、私が大学生活を謳歌し始めて
連絡をしたり事務所に行かなくなってしまったからだろう。
加えて彼の方からも何となく連絡がなかった事もあっただろうと思う。


私が音楽業界に入ってからもお会いする機会が無かった。
80年代以降、彼が地元の京都を中心とした活動をしていたためだろう。

それから40年以上の年月が流れた。


60代になったはしださんは、パーキンソン病などの闘病生活を送っていたという。
72歳という若さでご逝去されたが、最後まで人生と格闘していらっしゃったのだろうと推察する。
私も還暦が近くなり、病気がもたらす過酷さを痛感している。

自分の昔を振り返り、はしださんが私にくれた小さなチャンスは、本当に有難い事だったと今でも思う。
そう思いながら京都の方向に身体を向けて祈った。



はしださん、ありがとうございました。
安らかにお眠りください。












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「俺(私)ルール」が通用すると思ったら間違い ~老害を起こさないために・・ [独り言]



桑田さんが2017年のツアー中だがちょっと気になるツイートがあった。
その方は隣にいた初老の男性が大声で歌うので止めて欲しいと
何度か頼んだら「(歌を止めるのは)無理だ」と突っぱねられたそうだ。


その方のツイートは以下だ。



オジサンと書いてあるので年齢は分からない。
桑田さんのライブに来る年齢だから50代かもしれないし、60代かもしれない。
いずれにしても高齢者予備軍だ。


まず、ライブで大声で歌う連中に対してだが、私は大反対の意見を持っている。
あの行為は本当に迷惑以外何物でもない。
観客として下手くそな連中の歌を聴きに大金を払って来ているのではない。
主演者の歌を聞きに来ている訳だ。


大声で歌い周囲に迷惑をかけても関係ないと考えている連中には、

生理的不快感に加え、公衆の空間で自己欲求を満たさないと満足できないという醜い身勝手さに言葉もない。


ああした行為は、自己陶酔以外の何物でもなく、醜い歌声や、
ライブ中に仲間内と大声でグチョグチョ話をしている連中の声は本当に不快及び迷惑で
キチンとライブを見たいこちらの集中を欠くし、
紛れもなく迷惑行為だから止めて欲しい。


もちろんこの意見に異論が多い事は承知している。
楽しみ方はそれぞれだという事だ。
それでも楽しみ方の自由は「周囲への配慮」があって成立という原則は免れないだろう。


主催者がこれらに対応するには限界がある。
一番の方法は、「主演者」がこうした実状に対応して配慮をするように促してくれることだろう。
しかしそれも望み薄だ。


だから最近、こういう低俗な客がいるライブには行かない事にした。

私が尊敬する山下達郎氏は、こうした行為について完全なるNOを突き付けている。
彼のラジオでの発言は世間を賑わせたが、問題喚起の観点から良かったと思う。
従って彼のライブではそういう客が来ないだろうし、来てもハッキリ対応できそうなので安心して見る事が出来る。


私は彼のライブ中に歌うが声は一切出さない。口パクだけで済ます。
当然だろうと思う。私は声量が大きい方だ。周辺の迷惑になるに決まっている。

さて、桑田さんのケースでは、ツイートをした方は、「歌わないようにお願い」をしている。
そして頼まれた方のバカは「無理だ」だと断ったらしい。


「無理」なはずがない。方法はいくらでもあるのだ。単に止めたくないだけだったのだ。
だからこの人物は「俺(私)ルール」の権化なのだ。
イイ年したオヤジが何でこんなに頑なで愚かなのか?


別のツイートにこんな書き込みがあった。



こういう低俗な高齢者はスーパーなどでも見かける。

これに加えて俺理論を展開してスーパーの店員を困らせている人も多い。
どうしてこんな人間になったのか?はサッパリ分からない。


単に教育レベルが低い人たちなのか、それとも社会でキチンとした場所に居なかったのか?
実際社会で生きていると、驚くような認識で生きている人達に出会う。
そしてそういう連中の殆どは「俺(私)ルール」の権化だ。


この新聞記事に出てくる高齢者と、ライブ会場で歌いまくって隣から注意されても止めない連中には、
驚くほどの共通項を感じざるを得ない。

それは「俺(私)ルール」でしか世間が見えない連中だということだ。



京都の寺に紅葉を見に来た日本人客が紅葉を木から取って持ち帰る人が多く寺が困っているという報道があった。その多くが高齢者だという。寺が参拝者に注意すると「取ったらあかんの?」と返されたらしい。
どういう人生を送ってくるとこういう所作を身に着けるのだろう?

春先から初夏にかけて新宿御苑辺りに行くと子供連れの家族で苑内の昆虫やザリガニを取っている連中を見かける。苑内は保護された動植物ばかりなのでこうした行為を禁止しているし、看板もある。
それでもこういうアホな連中は消えない。

山岳地帯に行くと高山植物を取っているハイカーを見かける事があるが、こういうバカは大抵の場合県外者でロクな装備もしないで登ってくる連中が多い。山を舐めてかかるから遭難する。遭難したこうした連中は、税金によって維持されている山岳救助隊のお世話になる。

地元の人間はよく口にするが、山に敬意を払わず来る連中には本心、登らないで欲しいと思っている。また遭難しても自業自得の連中が多い。もちろん命の問題だから山岳救助隊や地元の有志は救助に行くが、そもそも自分の命を粗末にしているのは山に入った本人だ。
昨今富士山では、海外登山者が無法とも言える登山をしていて問題になっているが、日本人に多いのが事実だ。


昔、私の知り合いで、50歳を過ぎてから山岳ガイドを目指していた人物がいたが、山岳ガイドになるには登った山の数や場所の蓄積が必要で場合によっては十年単位を要する事をその人物は知らなかった。
また彼は山に入る際、昼前頃に入って午後登頂をするのだが、山登りを知っている人なら絶対にやらない行為だ。
そういう人間が登山ガイドを目指すというのも驚くべき無知さだが、幸いな事に登山歴がなさ過ぎてガイドを目指すのが事実上困難と理解し、その目標は諦めたようだ。

何を言いたいかと言えば、年齢を重ねている者が無知過ぎて、配慮が無いことは結構世間の迷惑になる可能性があるという事だ。
紅葉の件、歌の件、登山の件、全てが繋がっている。

2018年7月豪雨後に起こった様々な事についてこういうブログ記事があった。

「自然災害でもすぐに逃げない老害たちのせいで人災が拡大する大迷惑な現実」

http://blogos.com/article/312704/

この記事はちょっと書き方が過激なのだが、そういう事実が散見されたことは推測に難くない。

私の高齢の親の思考回路と突き合わせても、高齢者の判断力や客観性の欠如は著しい。

ちょっと視点を変えよう。


私にだって「俺(私)ルール」はあるし、高齢になって判断力が鈍るだろう。


ルールについて言えば、ルールは社会の中で大多数に通用するもの、しないもの、個人的に留めておいた方が良いものなど、様々なバリエーションの引き出しの中にある。
そうした個々の価値観のバランスの中で社会は中立を保っている。


しかし「俺(私)ルール」の権化は、周辺環境とは関係なく、自分の視点と生理でルールの適用を
社会に求める単純でワガママな連中だ。


桑田さんのライブに行った女性が、隣の人がうるさいから歌うのを控えてくれという事を無視するオヤジや、
21歳の学生がキョトンとするような行為をしていて、問題意識を持たない高齢者はまさに「幼稚な連中」と言える。


幼稚な連中の共通点は、客観的な意見や要望に全く耳を貸さないのだ。


こうした連中が自分たちの行為行動を「普通」だと思っているとするならば、
自分の人生をドブに捨ててきたんだと思った方が良いだろう。
つまり、人間として成長していないと言っても過言ではないから「幼稚な連中」だと言えるのだ。


こういう連中の発生は単に確率論的な存在なのだろうか?


先ごろ、天下の公道の一部を私道と言い張って通行妨害をして再逮捕された高齢者がいたが、
こうした連中に共通するのは客観性の欠如だろう。


つまり「俺(私)ルール」が全ての価値観の中心という事だ。そしてその根拠は幼稚だ。


ライブで大声で歌うバカオヤジも大学生に呆れられる高齢者も
執行猶予中でも自分の誤った信念を変えない高齢者も、
客観性の欠片もない連中だ。
全くもって幼稚としか言えない。

また災害が迫っていて自分だけは大丈夫と非難しない事が起こす「公共への被害」を想像できない理由は私にはちょっと理解出来ない。
申し訳ない言い方だが、教育レベルの問題だと思わざるを得ない。
大人になると学校のようにあからさまな教育レベルの層を見る事がない。
しかしこうした場合にそれじれの教育レベルが浮き彫りになる。


図体のデカい大人が幼児なみの理屈で天下にのさばっているのだから迷惑千万になるのも当然と言えよう。

しかしこういう連中は確率的な存在というよりも普遍的にいると言っていいだろう。


私だって気を付けないとそうなる可能性がない訳じゃない。


反面教師にすればこういう連中の行為の醜さが自分の人生観と真逆であると分かる利点もある。


だから私も律して気を付けようと思う次第だ。
自分がここに書いてある人間にならないために・・・。







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ホーキング博士にちょっと物申す! [独り言]

ホーキング博士が憂いている。


人類の滅亡と地球の消滅だ。


スティーヴン・ホーキング博士、地球は600年以内に燃える火の玉? だから移住計画を進めるべき!
http://www.huffingtonpost.jp/aol-news/hawking-warning_a_23272692/?ncid=fcbklnkjphpmg00000001


私が高名なホーキング博士に意見をするのもどうかと思うが、実は私は彼に対して全く反対の意見を持っている。

ホーキング氏はじめ、惑星移住計画を考えている学者の殆どが言っているのは、このまま人口が増え、温暖化が進めば人類が滅亡の危機を迎え、人類存続のためには他の惑星への移住が必要だという点だ。
そして移住先を人類が住める環境に整えれば人類(の一部)が生存を引き継げるというものだ。


彼らの発想の今回には「人類は生存し継承されるべき」というものだ。
人類という生物はいつからこのように偉くなったのだろうか?_

そもそも地球環境において人類が住みにくくなっている原因を作っているのは我々人類なのだ。
その人類が自分たちの行いの果てに地球が住みにくいから移住するという発想は明らかな矛盾をはらんでいる。
つまり他惑星に移住するという発想は、好き勝手やった末に地球を使い捨てにするという事だ。
そして我々が他惑星で地球のような環境を作れると信じている。


この発想、幾ら有名な科学者と言えどちょっと自然をナメてないか?


私は地球に人類が住めなくなる環境になり人類が絶える事があるとすれば自業自得だと思っている。
その果てに人類が滅亡もしくは絶滅に近い状態になっても、西洋の宗教的に言えば神の意思だということだ。
現在の我々には地球環境に大きな影響を及ぼさない様に生存する選択肢が数多くある。


しかし一部の人間がそれに従わないだけでこうした選択肢は軒並み破たんし効果を失う。
その結果多くが災難に巻き込まれるだろうが、それも人類の選択なのだと思う。
私は運命論者ではないが、悪貨は良貨を駆逐するの論のごとき、地球環境はそうした連中によって破壊され、
多くはそれに巻き込まれると思っている。


だから私は人類にとって地球ほどの環境を与えられいるのに、その母なる地球を守れないとしたら、
その因果応報は甘んじて受けるべきだと思っている。
言い方を変えれば、地球は我々人類のやったことに自然の力で答えを出すだろうということだ。
先にも言及したが、我々にはまだ選択の余地がある。
選択するかしないかを我々は決める事が出来るのだ、今なら。



なお、仮に人類の行いとは関係ない事象で人類の存亡の危機に瀕していても、私の考え方は変わらない。
恐竜が絶滅したように我々は絶滅するだけなのだ。

他惑星移住についてちょっとだけコメントさせて頂きたく思う。
科学者でもない私が言うのものなんだが、
結果的に他惑星移住は成功しないと思っている。


何故そう思うかと言えば、人類は地球で生まれ死ぬように設計されていると思うからだ。
そもそも人類は100年という単位を他の宇宙環境で生きるようにはデザインされていないと思う。
何故なら、我々が今獲得している緻密な体は、何十億年という時間と環境を生き延びて進化してきたからだ。
その設計にない環境に順応するとすれば、同じ時間を必要とするに違いないと思うのは科学者でなくても分かりそうだろう。


もしホーキング氏のように人類や地球の行く末を心配するのなら、まず現在の人類の在り様を心配すべきだろう。
しかしそもそも人類とはそういう愚かな動物なのかもしれない。


破たんを知っていても目先の欲を抑えられないという愚かさだ。

「欲」。結局人類は、自らの欲を制御できず自滅する生き物なのかもしれない。
そうであれば移住もヘッタクレモないだろう。



ホーキング博士、どうでしょうか?





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出川哲郎氏の気遣い ~番組を俯瞰した出演者という立ち位置 [独り言]


ここ数年、最も嫌いなタレントナンバーワンだった出川哲郎氏の高感度が上がっている。
テレビ東京のゴールデンで放送中の「充電させてもらえませんか?」は、彼のキャリアの中でも出世番組の1つになるだろうし、
遅咲きのスターになりそうな感じすらある。
特に「充電させてもらえませんか?」を見ていると気が付く事がある。
それは、本番中の出川氏がディレクターや出演者に色々な意見や指示をしているシーンが頻繁に出てくることだ。
例えばディレクター氏のバイクの充電が切れた際、ディレクター氏が前走する出川氏にその事を伝えないまま撮影が進行し、あとで充電させてもらうことになった宿屋の風呂場で
「アレはちゃんと言ってくれないと(進行上)困んだよ」とダメ出しするシーンがあったり、
出演者が充電切れのバイクを持ち込んだ先が喫茶店だったのだが、出川氏はその直前も同じ様な店だったので、
流れ的には変えて欲しかったなあ・・とつぶやりたり、とこの手の発言が枚挙暇がない。


彼のそうした言葉を聞いていると一貫した考え方がある。
それはいかに番組を面白く構成し、見せ場を作れるか?という番組職人にも似たものなのだ。

同じテレビ東京のとある番組で、彼の後輩芸人に順位をつけるという番組があったが、
順位付けの際に彼がポイントとしていたのは、個人的な性格や芸人個人としての面白さだけではなく、
番組内での芸人の立ち居振る舞いの技量を中心に見ていた点だった。


特に彼は他の芸人が個人的興味の範囲でしかリアクションを取らない事や諦めてしまうことに対しては
厳しい評価をし、全て受け止め全て処理するくらいの気持ちで臨まない芸人への評価が低くしていた。

「充電させてもらえませんか?」のように素人を相手にするドキュメンタリー風の番組は、
ともすると面白い素材に出会わないまま収録が終わってしまう事がある。
そういう匂いがする時でも出川氏は事件を作り出しても見せ場を作ろうとして頭をフル回転している様子が伺える。


ヘンな見た目の人や面白い反応をする人、在り得ないような環境、そういう尖ったもの、面倒臭い感じのするものを一般に日常から自らのカンで拾い出し料理する技術は、笑福亭鶴瓶氏にも似ているが全く違うアプローチを取って成立させている点で面白い。


そう言えば、出川氏の撮影現場でムゾウムゾウに集まってサインを求められ、
写真撮影を願う一般人への神対応は伝説的域にいるが、
笑福亭鶴瓶氏も全く同じような神対応をすることで知られている。


実際、撮影現場でこうした対応をするのは面倒で時間を取られエネルギーのいることなのだが、
彼らは自分たちが勝手に乗り込んで撮影をしているのだから
その位は当たり前だと言い手を抜く事なく対応しているというから恐れ入る。
実際、番組当初はスタッフが止めに入ろうとしたが、出川氏はそれを制したという。

話を元に戻すが、出川氏は出演者でありながら、ディレクターよりも高い目線で番組を俯瞰している点が興味深いのだ。


数日の及ぶロケの中で、ここが使えそう、これだと尺を作るのに不十分、構成に抑揚が無くなっているかもしれない・・など本来は出演者が心配しなくてもいい部分まで拾って処理する辺りが彼のベテランとしての価値であろう。


かつて島田紳助氏が、司会側としては出演者欄に出川の名前があるだけで「何とかなる」と思わしてくれる芸人であり、ホームランや長打は打てないけど、内野安打は打ってくれる。打てない状況でも次につながるように攻撃をしてくれる。
彼に振る事で番組のテンションを上げてくれると、話したいたという。
また明石家さんま氏はタレント志望の女性が出川クラスの2流タレントになれれば満足と言う発言に『出川は1流や!』と一喝した事をみても、出川氏のお笑い界での評価は高いと見てよい。


出川氏が「次につながるように攻撃をしてくれる」という見方をされているように、
彼が番組全体を俯瞰して自分の役割を常に考えて出演しているからだろう。
そのため他の出演者が手を抜くのは許さないマジメさもあるだろうと思われる。
実際、かなり頑固な面があるのは知られているが、職人気質の表れだろうと思われる。


いずれにしても、出川氏の今後の活躍には目が離せない。

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山下達郎様 ライブで大声で歌う客に苦言に感じる客の佇まいとは? [独り言]

私が毎週拝聴しているTOKYO FMの山下達郎様のサンデーソングブック。
ここ最近達郎さんのコメントがネットニュースに連続して取り上げられている。


2017/9/17放送:
山下達郎様 ライブで大声で歌う客に苦言「あなたの歌を聞きに来ているのではない」
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170918-00000094-spnannex-ent



記事を読むと分かるように、金沢のリスナーからのハガキに答えたものだ。
ライブで大声で歌う客は邪魔なのか?という問いだが、達郎さんは「邪魔です」と
明快に回答。
そして「一番迷惑。あなたの歌を聞きに来ているのではないのです」と付け加えた。


私も全く同感だ。
本記事がネットに上がると殆どは同意見の反応だったが、
中には「楽しみ方は人それぞれだ」などの少数意見があったのも事実だ。


意見は色々でいいのだが、こういうケースに遭遇してご自身が会場で
うるさいと思った事が無かったのかな?ってシンプルに思いました。


誤解無きなのだが、ポイントは「大声で歌う」であって「歌う」ではないのだ。
私だってライブ中に歌います。でも余程の事以外では声は出しません。
通常は口パクです。エアーシングをするだけです。
声を出して歌うのは、ミュージシャンが観客に向ってに歌え!って指示する時だけにしております。


音に素人の方には敢えて言っておきたいが、音には直進性が強くあります。
従ってライブ会場で「大声で歌う」「大声で喋る」と前方に座っている人たちが一番の被害を受けるのです。
また横に居る人でも、座席が左右寄りにある場合、ステージに向ってやや斜めを向くために、
左右の人の歌声が片側の耳だけから良く聞こえる訳です。
後ろと左右から歌われたらPAからの音ですらキチンと聞ける環境になる訳がありません。
また、大抵こうした連中は例外なく音痴か歌が下手ですし、他の人が全く歌っていないのに歌うKYな事が多いのです。
こうなればライブの質がどんなによくてもライブがズタズタになるのは理解できるでしょう。


達郎さんもおっしゃっているように、「一番迷惑。あなたの歌を聞きに来ているのではないのです」に
色々な鑑賞に対する価値観を交えて論じようとする人がいます。
例えば海外だと相当ワイルドな客が多いのも事実です。歌うだけでなく肩車をしたり、旗振ったり、踊ったり、
ドラッグしてたりと、相当迷惑に思える環境で見ているのです。
まあ土地土地に色々な価値観はあるだろうと思うのだが、やっぱり現地でも迷惑だと思っている客はいるだろうと思います。
また日本人の客の一人としてシンプルに言えば、高い金と時間を使って周辺にいる下手くそな歌を聴かされるのは
コンサートへの来場の価値想定には入っていないのです。
何故コンサートに来場するのかと言えば、金を払うだけの価値をもったミュージシャンたちの演奏や歌を聴くためなので、客の歌を聴くためではないのです。
演奏側も客に歌わせる部分があればそういう設定をしており、それ以外での客の歌はノイズ以外の何物でもありません。


では個々人が楽しむために歌ったり踊ったりハシャイだりするのはいけない行為なのか?


これを有体に言えば、「客の佇まい」の問題だろうと思います。
歌舞伎だと、見栄を切るような瞬間に客から声が飛びますが、あれは誰がやって良い訳じゃなくて、
「客の佇まい」としてやれる客がやる訳です。
舞台が客を育て、客が演者を育てる、その中に双方の佇まいが生まれる訳です。

つまり「客の佇まい」は、会場の環境やアーティストの個性が常識的に許す範囲を周囲の状況を鑑みて
個々人が決める他はないという点と、自分の行為が他人や会場に及ぼす影響を考えて行うって事になると思います。
そういう意味で知的行為の集積がないと難しい部分だろうと思います。
ただ、金沢から達郎さんにハガキを送ってきた人のように、大声で歌う行為が迷惑なのか?を素直に問いかける人もいるので実にヤヤコシイ訳です。
また金を払えば何でもあり!みたいな下品な輩が集団で来るようなライブになると、客の佇まいなんて無くなり、普通に見たい人には悲劇になる訳です。
野外ライブでビールをかっ喰らって無関係に仲間内だけで大声だして騒いでいる輩を見た事があるでしょう。

あれです。



ポールマッカートニーが来日した際、私は一度武道館で見ましたが、残念なほど観客が歌うため、彼の演奏や声を聴くのが非常に困難で不満の残るライブとなりました。
また彼のドームでのライブでは、アリーナ席で周囲の迷惑を顧みずはしゃぐグループがトラブルになっていたり、ライブを見ないで写真ばかり取って写真を眺めている意味不明な人もおりました。
ipadの画面が明るかったので、演奏中は止めるように言いましたが、こういうのが平気な輩が多いのも事実です。
また、武道館でクラプトンを見ている時にオヤジとクラプトンなんて全く興味の無さそうな若い女が隣に座ったが、
演奏中、オヤジが女に自慢の解説をしているので、演奏中に話をするのは止めてくれと言うと、数曲後には席を立ち
帰って行きました。一体何しに来たのやら?です。
男女関わらず多いのが、演奏中に何やらずっと話をしている人たちです。
家でCDを聴きながら話をしているような感覚なのでしょうが、この手合いに後ろに座られると凄く邪魔です。

当然だがPAの音が大きいからお互いに大きな声で話す訳です。
前に居る人にとっては凄く邪魔なノイズです。せめて演奏終わってからにして欲しい。
ロックコンサートはPAの音も大きいので、多少の声や歌なら気にならないと思われがちですが、
実はこうした音は演奏に含まれないものですから非常に気になるのです。



「客の佇まい」には明文化されたルールはありません。
個々の主観的価値だと言えばそれまでです。
また日本と海外では違います。
それでも自分の行為が他人に及ぼす影響くらいは考えが及ぶでしょう。


大声で歌いたければカラオケで歌えばいいし、語りたければ終わったあと飲み屋で死ぬまで語ればいい。
踊りたければ別の広い場所で踊ればいいだけです。
ロック系のライブをクラシックコンサートのように静寂の中で聴けとは申しませんが、
演奏の呼吸とは全く脈絡のない客の行動は慎んで欲しいというのが私の気持ちです。


日ごろから達郎さんは「ライブは観客と演者が作るもの」と言っておられますが、
客の空気は非常に演者に影響するものだし、「客の佇まい」によって自分の感動にも差が出てくることは多いです。


そういう意味で自分も含めて「客の佇まい」には配慮したいと思う次第なのです。









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