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はしだのりひこさんの訃報に接して [独り言]

はしだのりひこさんの訃報に接して。


はしだのりひこさんが2017年12月2日、ご逝去された。
ニュースはネット経由で知った。


フォーク歌手、はしだのりひこさん死去…72歳
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20171202-00050073-yom-ent


彼の訃報に接し、私は殆ど忘れていた中学時代からの彼との交流を思い出す。

40年近く前の話なので記憶の片隅になってしまっていた事はご容赦願いたいが、
はしださんは私の人生にとってプロミュージシャンとして初めて接した人物だった。

長野県の田舎の中学に通っていた14歳当時の私は、日本のフォークミュージックに傾倒していた。
小学校6年生から始めたギターもかなり腕前を上げ、オリジナル曲を作り始めていた時代だ。
夢はミュージシャンになることだった。
1970年代初期、はしだのりひこさんは信越放送のラジオのパーソナリティーをしており
土曜深夜帯に冠番組を持っていた。
「はしだのりひこのグリーンラブフォーク」というタイトルの番組だったと思う。

ラジオっ子だった私は、その番組のリスナーだった。
(当時の同世代の方の多くはラジオを聴きながらの受験勉強のご経験があるに違いない・・)

この番組はいわゆるオーディション形式を内包した番組だった。
はしださんとSBCのスタッフが長野県各地を移動し、
現地での番組収録をしながら音楽愛好家から出演の応募を募って演奏や番組を構成し、
各地の優勝者を決めるという内容の番組だったのだ。

IMG_20180725_0001 - コピー - コピー.jpg

上の写真は1977年の夏ころ、長野県飯田市の商工会議所の上階にあった小ホールで
開催されていた信越放送主催のグリーンラブフォークの公開収録の模様。
たまたま整理していた当時の写真集にあったのでデジタル化した。
当時の私は時折これにアマチュア参加者として出演していたが、田舎者の私にとって
憧れの音楽業界に接近しようとしていた時期だ。

またこのイベントの当時のゲストはなぎらけんいちさんなどで、彼らの音楽が聴け、
当時の私はそのライブを楽しんで聞いていた。
田舎の少年にとってその光景は眩しかった。

14歳のある日、私はこの番組の演奏者に応募して出演することになった。
地元のバスターミナルの上階で行われた公開収録に出演し、自作自演の曲を演奏することにしたのだ。
当時の私はミュージシャンになることに憧れていた。
だからプロの意見や聴衆の反応を知りたかった。

もう40年以上前であるため記憶が定かでないが、確か2~3回ほど番組に出演し演奏したと思う。
その内1回は優勝してはしださんのサイン入りのギターをもらった。
(今でも実家にある)



今振り返ると当時の私の演奏が賞賛に値するほど素晴らしいはずはないのだが、
オリジナル曲で挑んだという事や、まだ14歳だったという点を考慮されたのだと思う。
当時の私は目立ちたがり屋で出たがりの子供だったから、はしださんも面白がってくれたと思う。
実際その後、彼の番組にゲストDJ(喋る方のDJです・・。当時のDJはそっちの意味ですから。)として2週分の放送に出演する機会を頂いた。
今考えると無謀とも思えるし、当時の放送された録音も手元にないので正確に何を話したのかさえも殆ど記憶がない。
しかし田舎の中学生の私がラジオ番組に出演するという人生でも滅多にない「経験」があった事を思い出したのは、彼の逝去の報道がキッカケだった。私はこんなすごい経験を忘れていたのだ。

当時のはしださんはとても優しかったという記憶しかない。
シロウト同然の中学生と絡むのは、プロの彼にとって優しい事ではなかったと思う。
それは自分が音楽業界に入った事でようやく理解できた事だ。

当時の私は早口であったため、活舌が悪く、時折はしださんに注意をしてもらいながらの収録だった。

私が18歳になって大学に通うために東京に出て来た時期になってもはしださんとの交流が断続的にだがあった。
はしださんの事務所は原宿の竹下通り入り口に今でもあるマクドナルドの向かいに建っていたマンション内にあった。
私は時折事務所を訪問してご機嫌伺いをしながら、時折だったが彼の仕事をボランティアで手伝っていた。
記憶にあるお手伝いは、新宿厚生年金会館の小ホールで開催された企業慰安向けのコンサートだった。
当時そのライブで唄っていた曲の中で記憶があるのは「たとえば光」だったが、
現在ユニバーサルの音源として存在しているようだ。
なおその日、同じ会館の大ホールでは、レイナードスキナードが公演をやっていた記憶がある。


たとえば光





私とはしださんはそれ以降疎遠になってしまった。
理由は正確に憶えていないが、私が大学生活を謳歌し始めて
連絡をしたり事務所に行かなくなってしまったからだろう。
加えて彼の方からも何となく連絡がなかった事もあっただろうと思う。


私が音楽業界に入ってからもお会いする機会が無かった。
80年代以降、彼が地元の京都を中心とした活動をしていたためだろう。

それから40年以上の年月が流れた。


60代になったはしださんは、パーキンソン病などの闘病生活を送っていたという。
72歳という若さでご逝去されたが、最後まで人生と格闘していらっしゃったのだろうと推察する。
私も還暦が近くなり、病気がもたらす過酷さを痛感している。

自分の昔を振り返り、はしださんが私にくれた小さなチャンスは、本当に有難い事だったと今でも思う。
そう思いながら京都の方向に身体を向けて祈った。



はしださん、ありがとうございました。
安らかにお眠りください。












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コメント 3

わかもり さちこ

はしだのりひこ と言えば 私たちの中学生時代のアイドルでしたね。
このラジオの公開生放送見に行きました。飯田バスターミナルではなっかたでしょうか?生でのりちゃんを見て感動しました。同じ中学の上級生S原君がギターをもらって帰ったのを覚えています。まだ交通事情が悪い時代長野までよく足を伸ばしてくれたと思います。この思い出を語る記事に
by わかもり さちこ (2017-12-17 00:52) 

 S.W

はしだのりひこ と言えば 私たちの中学生時代のアイドルでしたね。
このラジオの公開生放送見に行きました。飯田バスターミナルではなっかたでしょうか?生でのりちゃんを見て感動しました。同じ中学の上級生S原君がギターをもらって帰ったのを覚えています。まだ交通事情が悪い時代長野までよく足を伸ばしてくれたと思います。この思い出を語る記事に
by S.W (2017-12-17 00:55) 

コロン

>飯田バスターミナルではなっかたでしょうか?

まさにそこでした。上階にイベントスペースがありそこで公開録音をしておりましたね。このビルにはSBS信越放送の支局スタジオがあった事も公開録音場所として選ばれていた理由だと思います。

今考えると随分と簡素なイベントだっと思いますが、当時の自分にとっては大きな存在でした。

コメント、ありがとうございました。

by コロン (2017-12-18 10:01) 

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