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「自分の国 日本を好き」と言えない日本人の不幸 [独り言]



「自分の国 日本を好き」と言えない日本人の不幸



先に断っておくが、私は右翼でもなければ左翼でもない。どちらかと言えば、中道だ。保守的な部分もあれば革新的な面もある。世の中を生きていて、どっちかに極端に振れて事が成立・継続することはほとんどないと思っている。そういう意味で、現実主義者だと言えるかもしれない。


実はこの記事を初めて書いたのは2017年だが、2018年6月、音楽の歌詞を巡るある論争が勃発した。

RADWIMPSの『HINOMARU』という曲の歌詞だ。どうやらその論争の根拠は、「この身体に流れゆくは 気高き御国の御霊」「さぁいざ行かん 日出づる国の御名のもとに」といったナショナリズムを高揚させるような言葉が散りばめられているからだという。

個々人にはそれぞれの思想信条があり、憲法で保証されている。
それとは別に個々人の発言、表現に過剰とも敏感とも言える反応を示す人たちがいるのだろうとは思う。
中でもツイッターで「
HINOMARUに抗議するライブ会場前アクション」を募る連中まで登場し、状況はカオスになりつつある。
またTBSのラジオ「荻上チキ」の番組でも本件を取り上げていたが、歌詞の文言定義に公的文書のような精密性を議論を聴き、バカバカしくて途中で電源を切った。

RADWIMPSのメンバーは歌詞によって傷付いた方がいたのなら謝罪すると表明した。
個人的には全くこの謝罪は不要だと思う。
何故歌詞如きで誤らなければならんのだ。

そもそもRADWIMPSの歌詞はヘイトスピーチと同列なのか?
違うだろう。
今回は全く表現の自由の範囲だ。

国旗=愛国=戦争賛美なのか?

そんな単純なものじゃないだろう。

後述するが、日本は第二次世界大戦における不幸な結末によって、国家への忠誠意思、国旗・国歌に対して戦争賛美であるかのような単純で脊髄反射的な反応が続いてきている。
それにも関わらず、日本国民は国際的なスポーツ会場などでの応援においては、国旗・国歌に対して何も言わないダブルスタンダードになっている。わが国民は自国を何だと思っているのだろう?

これらは明らかに筋が通っていないだろう。


さて、私は日本という国が大好きだ。戦後生まれの私も50歳を超えたが、最近益々その気持ちが強くなる。でも日本に問題点や課題がないかと言えば数多い。でも他国も同じだし、もっと課題の多い国だってある。


この気持が強くなったのは40代後半位からなのだが、それはこの年齢辺りから日本の歴史を自分自身で学び直した事が大きい。

学生時代、暗記一辺倒の日本史は全くもって苦手だったが、試験や学校の成績を上げるためにやるのではなく、自分の知的好奇心を満たすためだけに始めた日本史の勉強は、日本という国の凄さや奥深さを改めて知らしめてくれた。もちろん醜い部分だってある。


それに加え、これまで様々な海外出張をした経験で外から日本を見る機会もあったが、私の肌感覚の結論は、(日本人にとって)日本ほど暮らし易く素晴らしい国は無いという事だった。


しかし、この国において自国を愛するという発言や態度を示すと違和感を抱かれる。ほとんど脊髄反射のように最も多い反応は、「あなたは右翼ですか?」という反応だ。もちろんこんな事を言っている私自身にも時折同じような脊髄反射が無い訳じゃないから始末に悪い。


一体この誤った脊髄反射は何から始まったのだろう?



日本国への愛情と国旗や国歌への親和性に違和感を覚えるような教育(洗脳?)を施してきたのは一体全体誰、もしくは何だったのか? 

よく言われるのが日教組だが、それも確かに一因あるとしても、国民全体の中に日本国への愛情と国旗への忠誠を表だって言えない空気が漠然と存在しているのは日教組の歪んだ教育姿勢はもちろんなのだが、それだけではないように思う。

これを引き起こした最大の原因が第二次世界大戦だった事は疑いようがない。悲惨な戦争行為とその結末、また国家によって強制的に戦闘に参加させられた多くの英霊と民間人のトラウマの結果が国家を代表する象徴である国家や国歌への反発と忌まわしさなのだろう。
もちろんこの経験的悲劇が日教組の歪んだ歴史教育へと繋がったのだろうと思っている



300万人余を戦死させた日本国は、自国民から信頼を失い、それがそのまま日本国への愛情と国旗への忠誠に莫大な反感を抱かせてしまった。

人類史が補足できる段階からにおいて、病死や自然災害で300万人以上が死んだ例は数少ない。毛沢東は大躍進という非科学的な政策を実行し、この10倍の数の自国民を死に追いやったが、いずれにしても人災とも言える先の大戦の死者数は狂気の沙汰ではない。
自国民をこれだけの数、死に追いやった当時の日本国家の在り様は、戦後
70年が経過した2017年になってもトラウマとして消えていないのは仕方なほどだだと思う。



また戦後の教育現場も戦争の反省や悔恨に基づいているにしても、我々のトラウマに過剰とも言える程に加担した部分があるだろう。戦争は嫌なのだが、人類が始まって以来戦争が無くなった事はなく、他国から攻められる可能性を排除出来ないのもまた事実だ。実際、北朝鮮の核開発や、ミサイル発射を見ていれば分かるだろう。

あの悲惨な大戦で多くの人が無暗に傷ついた。またヒトラーやスターリンのような怪物を産み、日本は原子爆弾を落とされるという結末を迎えた。
アメリカに殺戮と言って良い
B-29の大空襲で、短期間に3040万人近くの民間人を殺された。
日本だって自衛戦争とは言え、相手側からすれば侵略としか映らないような戦闘行為した事実がある。先の大戦が侵略戦争だったのか否かという言葉の論争が続いているが、市井の身の上として言えるのは、少なくとも日本人の中にもあれが侵略戦争だと思う人がかなりの数いて、攻められた側にもそう感じている人が多数いるという事実だ。自衛戦争と逃げたい気持ちは分からないでもないが、自衛だろうが侵略だろうが正直どうでもいい事だ。間違いないのは、他国に軍隊を持ち込んで満州国なんていう当時の日本政府の正式な承認もしていないものを現場レベルで勝手に進めたという呆れるような連中が軍事中枢に居たやり放題だった事実だけで十分だろう。


しかし結果的に戦争に負けた我々の正当性や理屈は世界の政治では通らない。従って先の大戦の是非や戦闘行為中の行為の是非を殊更のように問題にしても空しい。

結局戦争とは、狂った状況を平気で生み出す程狂った行為である事を決して忘れてはならないという教訓を噛みしめるしかなかろうと思う。またそれを繰り返さない知恵も必要だ。しかしただ反戦や世界平和を主張し、声を上げているだけでは問題解決しないだろう。主張を訴える事は大事な事だが、それより大事な事は問題や課題を具体的に解決する方法を出し実行することだ。

相手はいつもこちらの気持つを汲んで行動してくれるとは限らないのだ。
ちょっと前まで左派系政党が、非武装中立とか言っていたが、あんなお花畑的で眠い事を言っている連中が20年ほど前に政権中枢に居たと思うと背筋が寒い。政治は理念的なだけでは事を処理できない。実際連中が政権に居た時の危機対応のマヌケさは、国民としてゾっとする光景だった。阪神淡路大震災、そして東日本大震災。まだ記憶に生々しい。
付け加えておくが、自民党の連中にだって相当の非がある話だという点は決して忘れてはならない。

ちょっと話が逸れてしまった。

前の大戦によって日本国への愛情と国旗・国歌への忠誠は大きく傷ついてしまった。そして多くの国民は、その敗戦した国家に住み、本音を表に出さない事を美徳とし始めた。
私はそう考えている。


学校の卒業式で日の丸を拒絶する教職員が現れ裁判にまでなっている。


国旗・国歌に拭い去れない思い出が染みついていたとしても、他国ではこんな事は起こらない。

私は特に学校の教員の一部が、国家斉唱、国旗掲揚について拒否する姿勢を見ていて、自分たちの主義主張の都合の良いところだけをつまみ食いしているように思える。左翼史観の日本には愛情でもあるのだろうか?
共産党は天皇を認めていないのだが、天皇は共産党員に認められるとかられないとかの存在でないのは日本史を学んだ人たちには判るだろう。

ところで、学校の卒業式で日の丸を拒絶する左翼系の教職員たちや支持者たちは、オリンピックやスポーツイベントにおける国旗掲揚や国歌斉唱をどう思っているのだろうか?


野球やサッカー、スポーツ好きの教職員は、開幕時やメダル授与時等に行われる国家斉唱と国旗掲揚時を不快であり、個人の尊厳を無視する行為だと思っているのだろうか? それとも起立せず、歌わなければ自分たちの主義主張を貫いていると思っているのだろうか?


彼らはそれらに違和感ないのだろうか?


卒業式の国旗掲揚や起立拒否について裁判するなら、何故スポーツ等での国旗掲揚や起立行為についても裁判や拒否をしないのか?
学校行事は強制性があるからだと主張するかもしれないが、国家、国旗と思想信条を公共の環境に持ち込んでいる状況という意味では全く同じではないか?

私が今回のRADWINPSの「HINOMARU」に対するバッシングへの違和感はこうした部分にある。彼らの歌詞の意図は、サッカーのワールドカップとのタイアップを見ても、日本を代表する選手たちへの賛歌だろう。当然選手らは日の丸を背負っている。ただそれだけのことだろう。それをこじつけたように戦争ナショナリズムと結びつけるのは明らかに曲解だ。これらを主張している連中は自分たちに正義があるかのように6月下旬の彼らのライブ会場に押しかけて抗議活動参加に集っている。

反対派にも表現の自由があるが、こうした言動は控えめに言ってもやり過ぎだろう。
仮に歌詞によって被害を受けた連中がいるなら法廷闘争でもすればいいだろう。そうすれば益々彼らの異常さを際立たせてくれるからだ。桑田佳祐さんじゃないが、たかかだロックミュージックの歌詞じゃねえか、って感じだ。
そういうものに正義感があるかのように噛みつく連中ってのは何時の世にもいる。昨今はネット社会なので、一々こういう連中が目立つが、
 RADWINPSのメンバーや関係者は相手にしない方がいいと思う。


スポーツ等の大会で日の丸の元で戦うと宣言する選手やそれを応援するサポーターやファンが、国旗を身に纏っていても、彼らを絶対に右翼とは思わないだろう。むしろ日本愛=日本代表愛とすり替える事が出来、国家を全面に出していないからかもしれない。
実際、サッカーなどのサポーターで、対戦相手が海外のチームであればあるほど、日本国旗を手に応援している人たちを多く見かけるし、それが普通だ。何故スポーツで出来る事が日常では出来ないのだろうか? 皆さん不思議に思いませんか?



学校の入学・卒業式とスポーツイベントで何が違うのか? 左派系の人たちにキチンとしたロジックと理屈があれば聞いてみたいものだ。



私からすれば、これは要するに「筋が通っていない話」なのだ。
これは「大戦後遺症」とも言えるかもしれない。国旗、国歌と戦争を結びつけ、敵視する人たちと、スポーツイベントなどで、国旗、国歌を許容するというような人たちの間には統一的な見解がないのだろう。戦争により国旗、国歌の旗印の元に家族を殺されたという想いがあることは全く否定しない。またそのトラウマで国旗、国歌を容認できないという気持ちまでを否定する気にはならない。それでも、自分たちが海外と対峙する中で、世界の中で許容されている国家のシンボルを自国民が完全否定したら、我々は何を旗印にすればいいのだろう? 左派系が発案したデザインの国家、国旗、国歌を作るのか? よく日本国歌は日本人が作ったんじゃないから認めないという人に出会う。だったら現在の日本の政治システムは一体どこから来たのかを問いたい。
近代日本の国家システムは殆ど全て輸入品だ。そしてそれは歴史と共に培ってきている。日本国家も同様だ。ついでに言えば、日本のポピュラー音楽は全てヨーロッパ製だ。我々はそれをJ-POPだ、J-ROCKだとか言いなから愛好しているが、明治時代以前の日本の音楽は日本のポピュラーのひな形とは全く違う。つまり言語的な言い方をすれば現代の日本の音楽は英語でしゃべっているに等しい。



私は50歳を過ぎてもうすぐ還暦が見えるようになり、素直に自国や国旗・国家への愛情を表現できない空気に満ちている日本の現状を本当に不幸な事だと感じ始めている。
この理由が、私たちが大戦の悲劇を超えて受けてきた歪んだ教育の影響である事は全く否定できない。
そういう意味で、日教組教員の偏向教育に大変な迷惑を受けたと思っている。
だから私は40代を期に日本史を自分のやり方で学び直した。そして日本の歴史教科書や学校で教えられた内容が、かなり国家のフィルターや日教組のフィルターに満ちたものだという事が分かった。
特に日教組教員が期末の時間切れを理由に近代、現代史を意図的に教えなかったり、明治維新と言われる軍事クーデターを首謀した薩長史観が強烈にかかっているという点で冷静さを失ってきてしまったと思っている。山口県の人には大変に申し訳ないが、吉田松陰を始め、久坂玄瑞、高杉晋作は当時の感覚でもテロリストである。

日本の初代首相の伊藤博文に至っては、品川御殿山にあった建設中のイギリス大使館に放火をしている人物だ。
明治革命とも言うべき事象を維新という言葉で美化したくなるのは、歴史は勝者によって書き換えられるという点で許容したとしても、我々の国家がそういう歴史の流れの末にある点を後を、その後の国家人たちが違うフィルターで書き換えるのは許容できない。
会津の人たちが未だに長州人に恨みを持つほどの歴史的な事象がある点を時には美化し、時には恣意的に編集して脇においているようでは、本当の歴史教育なんで在り得ないのだ。その成れの果てが第二次世界大戦の悲劇だったと言っていい。



そうした歴史の流れから、日本国旗や国歌が、大戦の陰湿なイメージや極端な右翼的イメージによって本質から遠い部分で忌諱され、また左翼思想家たちによる極端な解釈を経て教育現場に影響を与えた点を残念に感じている。



若い頃は、天皇制の在り様に大変な疑問や違和感を持っていた時期が無かった訳じゃないが、自分で歴史をひも解いて行くと、天皇制こそが日本の歴史の背骨だという事が素直に理解できる。これは是非の問題ではない。事実なのだ。
そういう意味で天皇制とは、日本の深淵なる宗教的な部分に触れる事だとも言えるだろう。また、先の大戦が薩長の流れを組む軍部が天皇を統帥として利用した上でやらなくてもいい戦争を実行し、更に最終的には天皇が玉音放送で決着を着けたという歴史の皮肉は、我々が最も直視すべき点だろう。
仮に我が国に天皇が居なかった先の大戦の終結やその後のアメリカ軍の占領は全く違ったものになっただろう。


人類が生まれてこのかた、インダス、中国など様々な文明が生まれては消えた。ハンティントンの「文明の衝突」にあるように、数千年という歴史を持ち現在にも至る「日本文明」は、世界史の中で見ても稀な存在なのだという事を改めて自覚すべきことだと考える。



私は日本民族が他の民族と比較して優位だのなんだのというような不毛な議論をするつもりは毛頭ないが、有色人種である日本人が白人たちの文明に伍して「日本文明」を築き、風雪に耐えて営々と繋いできた点については歴史的事実として認識した方が良いだろう。





日本国にだって様々な欠点や欠陥がある。
実際、先の大戦では、日本国家は国民300万人を死に至らしめ、中枢にいた連中は国民個々の死に人間的には向き合わなかった。明治の革命で中枢に座った連中が国を動かすという過ちを長い時間をかけて形成してきてしまったからだ。
また2011年3月11日の東北の震災における被災者に対しても、国家は未だに答え出しておらず、日本領域内に実質的な死の地域を作り放置している。これは国民に対する裏切りと言っていいだろう。
また、非核三原則を掲げながらアメリカ軍が返還前の沖縄に1700発近い核弾頭を配備している事を日本政府が容認していた事をNHKスペシャルがスクープしたが、日本国家において、そういうどす黒い裏切りがあることは事実だ。
しかし他国にも程度の違いはあれど同様な部分がある。裏切りは無いに越したことはないが、残念だが、一般国民がそれを回避できる術もない。

しかし日本や日本人にはその欠点や欠陥を超える素晴らしさが多いと思っている。また民族の欠点や欠陥を認識して乗り越える力が我国民にはあると思っている。



四季があり、水や風土に恵まれ、狭い国土で国家が消滅するような諍いを免れ、相互互助を常とし、高い教育と識字率と道徳性を維持しながら長い歴史の風雪に耐えてきたのが日本であり日本人なのだ。世界で唯一「もったいない」を言える民族ではないですか。

明治維新という革命をあの程度の内戦で済ませ、近代化出来た事や、第二次大戦終戦時に殆どの混乱もなく銃を置き、昭和天皇の言葉に従いアメリカの占領を受け、その後奇跡的とも言える経済発展を遂げた事は、日本の底力の現れだ。アメリカに破壊されたイラクのその後を見ていると、日本の復興は奇跡と言っていいだろう。同じアメリカに破壊を受け、その後の違いが何故起きたかを問えば、やはり天皇の存在と地政学的な幸運に尽きるだろうと思う。政治のリアルで言えば、我が国は本当の独立国でなく、アメリカの支配体制の中にある国と言わざるを得ない。実際、東京の空域は未だに米軍支配下にある。



若い頃は西洋文化にドップリ憧れ、英語を学び、YES NOが言える西洋を美しく思い、一時は日本人であることすら嫌だった私も、歳のせいか日本と日本人の良さが肌で分かるようになった。少なくとも日本人には日本という場所が最高だと思う。

ありがたいことだ。



今の心境は、死ぬまでにもっと日本を学び、もっと世界を知り、日本人であることを誇りにし、清濁を合わせながらも日本人として死んでゆきたいと思っている。



日本人でよかった。今の私はそう思って毎日を生きている。




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コメント 2

亀吉

私も、自分の国が好きと言えない日本人には大変違和感を覚えます。この国は美しく、日本民族は礼式を重んじ、世界一の識字率を誇ります。そんな素晴らしい国を好きでいておかしいことはないと思います。是非とも日本人が日本を好きだと言える国にしたいと思っております。30歳男より
by 亀吉 (2017-08-25 23:24) 

コロン

亀吉さんの世代の方が、少しづつでもそういう状況を変えて下さる事を祈る次第です。コメントありがとうございました。
by コロン (2017-08-28 12:27) 

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