Queen“Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-11 [音楽に関わるブログ]
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ロックフィールドスタジオの内部の様子
発売日から30年以上が経過した'Bohemian Rhapsody'、ベイカーはこの曲が現在でもクリエイティブの頂点に位置したものだと確信している。
「今でも(曲を)聞く事があるよ。まさに芸術作品だね。当時はロックの古典になるなんて想像もしていなかったがね。ロックのオペラを融合した最初の例になった曲だしね。レコーディングシステムがオートメーション化される前の時代においては頂点を極めた作品だろうね。
もし我々が手動作業であの効果の数々を生みだしていなかったとしたら、その後に自動的に同じ効果を創り出すイフェクトボックスを開発しようと誰も考えなかっただろうね。70年代に我々が行った様々な事はその後に続く流れを生み出し、やがて機械的にコピーされるようになったんだと考えたいね。」
A Night At The Operaに関わった後、ベイカーはQueenから距離を置き、アメリカのバンドとの活動にシフトしたが、ロジャー・テイラーになだめすかされて1978年にQueenが出したアルバムJAZZで再び関わっている。果たして'Bohemian Rhapsody'はベイカーのキャリアの頂点だったのだろうか?
「間違いなくキャリアの中の1つのものだよ。ただオーバープロダクションに対する反発にもあってやり方を変えることにしたんだ。その象徴的な出来事がカーズと関わることだった。何故って、自分の制作技術の全てを水面下で使う事が出来たからさ。パンクが下火になり、バンドは原点回帰を始めた時代だった。カーズやアリス・クーパーでは音数の少ないレコードを作ることに喜びがあった。ただ80年代の色々な出来事やパールジャム、ニルヴァーナなどを見ていてまた批判に晒されるかもしれないという感じがあったけどね。自分が音楽の方針転換を意図的に図った時期については明確に覚えている。'Bohemian Rhapsody'は私の自由奔放さの頂点だったと云えるだろうね。」
ロイ・トーマス・ベイカーは、1960年代中盤のデッカレコードで奉公人の時代を過ごした。ティーボーイ(注:イギリスでは一般的にはスタジオのアシスタントエンジニアもしくはセカンドエンジニアをこういう言い方をする。彼らの仕事の殆どがティータイムにお茶を出す事から始まるため)としてキャリアを始め、直ぐにエンジニアとしての地位を獲得した。1969年初頭、ベイカーは新しくオープンしたトライデント・スタジオのハウスエンジニアとして働くようになり、キャリアを構築することになった。
「凄くキャリアにプラスになった時代だった。何しろ国際的なアーティストと仕事をする機会に恵まれたからね。」とベイカーは語る。
「ある日はフランク・ザッパと仕事をし、そして次はサンタナ、またアメリカ的な音楽指向を持つT-REXやFREEなど、どんどん自分の好きなアメリカの音楽と関わるようになった。キャリアを磨くにはこれ以上の時期はなかったね。」
トライデント・スタジオはイギリスで8チャンネルによるレコーディングシステムを導入した最初のスタジオだった。これは当時のビートルズがホームスタジオにしていたAbbey Roadを離れて'Hey Jude'のレコーディングセッションをトライデントで行うという事が主要な理由だった。ジョージ・マーティンが設立したAIRプロダクションとの提携関係の中で、トライデントはトライデント・オーディオ・プロダクションを立ち上げ独立経営を始め、後々イギリスでも名うてのエンジニアを排出し、その中にはEMIのケン・スコットやサガのロビン・ケーブルらが含まれていた。
ケンはデビッド・ボウイと仕事をし、ロビンはエルトン・ジョンのエンジニアをしたり、ガス・ダッジョンと共に他の主流のアーティストを手掛けていた。トライデントは制作会社としてのスタートをそんなに喜んでいた訳ではなかったのは、自分たちのスタジオを使うクライアントと仕事が競合していたからだったんだ。しかしトライデントの連中は有能なタレントが数多くおり、彼らが制作に適切な環境を欲していることに気が付き始めたんだ。そんな時期なんだよ、Queenに出合ったのは。」
つづく
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