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英語の発音がキチンとしてない日本人歌手は何で無理して英語の曲を歌うだろうか? [音楽に関わるブログ]

 2020年から大学入試試験の英語は、民間の検定試験で代用されることになった。つまり、筆記試験に加え、リスニング、スピーキングの能力が問われる時代になるのだ。
高校の入試にもスピーキングが入る事になったとニュースされていた。

現役の学生さんには辛い時代だと思う。そうなると今後のティーンエイジャーたちは、それ以外の年齢層よりも英語能力が高い層になると予測される。そういう時代において、日本のミュージシャンが英語の歌を演奏(歌唱)する上で、どういう対応が必要なのかを考えてみた次第だ。

でも正直言うと、昨今の若者は英語の曲(洋楽)なんて我々の時代よりも聞いてないらしい。だっただ以下に書いてある事なんて、どーでもいいのかもしれないと最近は思い始めてきているが・・・。笑。それでも考えておいた方がいいと思う。

 

日本のミュージシャンの殆どはイギリスやアメリカの音楽の影響を受けた人が多い。しかし昨今の若い層は、クラブでも洋楽がかかると踊りが止まるとも聞く。洋楽の影響を大きく受けた私のような世代には哀しい時代になったと思うが、まあ仕方ない。

私の世代では日本語がロックという音楽の分野に合うのか?という議論が1970年代に起こり、洋楽ロックVS日本語ロックの不毛な論争にかなりの時間をかけ、花盛りだった。それは言葉の持つリズムが音楽に与える影響をヒシヒシと感じたからに他ならない。先に書いておこうと思い、この行を追加しました。

 

さて、それでも現代においても数多くの日本人ミュージシャンが「
英語の歌詞」で歌っている。若いロックバンドだって唄っている。中にはフルアルバムを英語にしているバンドや個人もいらっしゃる。

日本人にとって英語で唄うことは洋楽的なアプローチに一歩近づけるという幻想があるようだが、単に幻想だとも言えないレベルの人も多い。

日本人は文部省や日教組の陰謀なのか、高校までに英語の発音を適正に矯正されるような授業を受けないまま社会人になる。これはそもそも英語の先生がキチンした英語を話せないし発音出来ないという事情がある。

だいたい殆どの日本人はABCDの発音をキチンと出来ない。
理由は簡単で、学校の教え方が間違っていたからだ。

R、Lはもとより、「V」を”ブイ”「Z」を”ゼット”なんて教えているから訳が分からなくなる。ここから矯正しないといけないのはそもそも日本の英語教育が悪い。

r」「l」の発音の違いや「th」「v」など日本語にない発音や、「m」「n」や「p」「b」などの唇の動きが日本人に馴染まないものでもキチンと区別して発音するのは実際、結構な訓練が必要だ。

私は26歳で英会話の勉強を始めて、自己流で発音の矯正をシャドーイングの繰り返しでやったが、模範とした英語の話し方をクリント・イーストウッドにしたため、一時はぶっきら棒で聞き取り難い発音になってしまった。その後別の俳優をターゲットにして矯正し直して改善した。

自分の英語の勉強方法が意外にも的を得ていたと解ったのは最近で、『世界の非ネイティブエリートがやっている英語勉強法 』イェール大学助教授(著作者:斎藤淳氏)に学ぶ!!という著書を読んだ時だった。

この本に書かれている80%程度は自己流で取り入れていたので、ああなるほど・・と思った瞬間だった。それでも私の発音は未だに修正点が多い。


英語の歌詞をキチンと発音して歌うのは、実際結構難しい行為だ。矢沢永吉さんや
X JAPANが世界市場でレコードを出すために本場アメリカで英語の歌詞でレコーディングしたが、歌入れの際に発音のダメ出しにあって大変な思いをしたというエピソードは懐かしい。

しゃべる事が出来る人でも唄うとボロボロになる人もいる。これは慣れなので一定の訓練でどうにでもなるが、子供の頃から英語に慣れ親しんだ人たちと、後付けの教育で習得した人との違いではこうした事が生じる。

従って全く英語をしゃべれない人や英語で歌う訓練を適切に受けていない人が英語の歌入れをやると、はっきり言って何を言っているのか全く分からないということになる。


私は、日本のレコードメーカーのディレクターでこれに関して是正しようとした人を見た事がない。私が音楽業界で働いていた時代、レコーディングで英語の歌入れをしているのを見るのは悲惨な気持ちでスタジオにいたものだ。
「最後にはディレクターも本人も、別に正確じゃなくていいんじゃないですか?」なんて言い出す始末。その理由は、日本のファンはどうせそんな事、気にしないという理屈だった。

レコーディングの時にミュージシャンもディレクターもバスドラやスネアの音がどうだとか、喧々諤々と意見を戦わせるくせに、何故か英語の歌詞を唄う時は、ハードルが低い。

かの山下達郎氏は、「BIG WAVE」というアルバムで、作詞家のアラン・オーデイ(故人)に英語の発音を相当なレベルまで矯正してもらったとライナーに書いてあった。
彼はそのスパルタ教育によって過去の自分の英語の歌の酷さを如実に体感したと語っており、そのお陰で現在の英語の歌の質を担保できるようになったという。その後彼は、矯正以前に発売していたオンザストリートコーナーというアカペラのアルバムをリマスター時に全て歌い直して発売するほどで、この点について徹底した対応の経歴を持っている。

達郎さんは、特に外国マーケットを意識したミュージシャンではないが、作品の精度を高めるために必要な発音矯正への気づきはその後の作品におおいなるプラスになっていると語っている。

多くの日本人アーティストや関係者にとって、日本人の聞き手が英語の歌詞を聞いても意味が分からないから、唄っている英語が伝わろうがなんだろうが関係ないと思っているのは余りにも手を抜き過ぎじゃなかろうか?と思うが、これを読んでいる人の中にも、そんなのドーデモいいじゃんって感じに思っているのだろう。

つまりユーザーにとっては、英語的の語感だけで十分であり、英語の歌詞で歌うのはある種のファッションであり、発音や内容は関係ないという発想なのだ。

まあ、そういう考え方もあるかもしれないが、であれば別に英語じゃなくてスワヒリ語だってフランス語だって良いだろうし、タモリさんの四カ国麻雀的な英語で十分だともいえるはずだろう。何故英語でもないような英語を選択するのだろう?

これなら自分でデタラメな言語を作っても全く構わないだろうし、むしろ新たな言語を作って歌った方がクリエイティブだと思う。


私は2000年代に入って20代の甥が当時結構売れていた日本のロックバンドを聞いたことがあった。このバンドは全編英語の歌詞で歌うバンドとして有名らしく、実際に彼らは売れていた。
ある日彼らの楽曲を歌詞付きの映像で聞いて、唄っている歌詞が英語の字幕と別物と思えるほど理解不能だったので驚いた事がある。
私にとっては日本語英語を通り越して、意味不明だったのだ。

それ故このバンドは何故英語で歌う必要があるのか皆目理解が出来なかった。

これなら歌詞を*?★&%$のような記号にしてもなんらかの発音できれば全く同じ行為だろう。

日本人は世界的にみても英語を話せる人が少ない。
ある意味凄いことだと思う。
これほど西洋化に成功し、戦後アメリカの影響を受けたのに、日本で英語を話す事が未だに特別視されることは面白い現象だと思っている。

2021年辺りから小学生も英会話を正式な授業でやるらしいが、英語をキチンと話せない教員に習うのはかなり悲惨な体験になると思う。英語の発音について、世界中で様々な発音形態があり、それぞれの地域の英語の発音で良いだろうという意見も多いが、イギリス、アメリカの英語で習った人間にとって、地域訛りがキツイのはコミュニケーションとして辛い。外国人が日本語を習う際、発音はその地域の独特で良いと考えるなら、伝わり難い言語を奨励しているようなものになる。
従って私は、基本的に
イギリス、アメリカ人の標準的な発音ベースにすべきだと考えている。


さて、話は続くが、2017年にディーンフジオカ氏がミュージックステーションに出演し、英語の曲を唄っていたが、全く理解出来なかった。一般日本人的にはあれでもいいのだろうが、それにしても発音が酷過ぎないか? 昨今海外からの旅行者も多いが、仮にあの映像をホテルのテレビなんかで見られていたら、観光客からどう感じられていただろうか?と不安になった。

殆どの日本人にとって英語とは未だに意味不明な文字列のようだ。中・高6年間も英語の勉強をやって英語が喋れない事に怒りを感じている人は未だに多いだろうが、その影響は未だに日本のポピュラー音楽の中に根深く影響を及ぼしている。

洋楽離れもこんな所にあるかもしれない。私の甥に聞くと、歌詞が理解できないから洋楽は入り込めないというのだ。

確かに英語の歌詞は文化背景を知らないとピンと来ない部分もあるが、昔のロックファンは、ビートルズでもゼッペリン(ツェッペリンですな・・・)は辞書をひいて、分からないなりに一所懸命調べたもんだ。


仮に外国人が「語感的に唄う」日本語の音楽を聞かされたら、なんでこんなデタラメの歌詞で「歌う意義」を感じているのだろうかと思うだろう。
日本の音楽業界が未だにやっているのはそういうことなのだ。もちろんキチンとした英語で歌えるミュージシャンも数多い。しかし圧倒的にマイノリティーである。

別に英語に限らないのだが、外国語の歌詞で音楽をやろうとするなら、少なくとも伝えようとする意志を最低限度持って欲しい。もし歌詞を無意味な文字列にするのなら、IQの高い遊び位はやってほしいものだ。
日本人の多くが分からないから適当な発音で良いと判断するなら、やらない方がマシだろう。


アメリカのロックバンドのジャーニーの新しいヴォーカリストはフィリピン人のアーネル・ピネダだ。彼は故国フィリピンで極貧生活を強いられていたらしいが、YOU TUBEでニール・ショーン自身に見出されオーディションを経て正式メンバーになったシンデレラボーイだ。(実際は40歳を超えているが・・)

彼の英語のインタビューを聞くと正式な教育を受けた感じはしない。
しかし本業の歌は完全にアメリカ人や世界のファンに伝わる英語の発音をしている。フィリピン人特有の訛りがある彼は、かなりのメンバーから発音を矯正をされたのだと思う。しかし彼は同じアジア人で、もともと極貧生活から這い上がった人物なのだ。必要に迫られたとは言え、そんな彼でも本場で伝わる英語の発音で歌う事ができたのだ。

歌手であれロックバンドであれ音楽を人に伝えようとする人々は、それが日本語であろうが英語であろうがタガログ語であろうが、選択したらキチンと向き合うべきではないだろうか?
それが表現者としての伝える相手に対する最低限度のおもてなしだろうと思う。
英語の分かる人からすれば、伝えようとしない連中の歌は聞いていて地獄のように辛い。

そうでなければキチンと歌えもしない言語をわざわざ選択しなければいいだけなのだ。
私は歌詞をファッション的に考えているミュージシャンにはプロの臭いを感じない。

「プロ」だったら伝わるようにやるべきでそれ以外の選択肢はない。
仕事っていうのはそういうものだ。
私はそう信じている。
でも誤解しないで欲しい。英語の発音は、ヴォーカリストとしての能力としては、極一部であるという事を。


(2015年追加)


折しも日本の英語教育が変わろうとしてる。私の子供の時代から英会話問題はずっとあったが、いよいよ国を挙げて取り組もうとしているようだ。
小学校から公的な制度化で英語教育を施すことに議論はある。母国言語の未発達の子供に英語を教える弊害について私も感じるし、これ自体は実験的だなとも思う。
しかし、実用的でない英語教育を施され、社会に出てから実用を強いられた私のような世代にとって、実用に向けての取り組みは前向きだと思っている。
ただし、私の経験的に言える事は、日本の学校教育のシステムで本当に実用的な英会話能力を育むのは相当困難だろうということだ。
まず、教員の質が最大の問題だ。発音の悪い日本の教員に教えられたら元も子もない。また外国人教員でも英語に余り過度な訛りがある人は適当でないと思う。(もちろん実用の世界では様々な発音の英語が存在することは理解した上としてだが・・・)
また教育に割かれる実時間だ。実用的な会話能力を育むためには、実際に英語を使う時間や環境が必要となる。耳を育て、口を育て、英語圏の文化を理解するという過程が必要だからだ。公的な学校教育でそこまでするのは困難だろうというのが私の見方だ。

最終的にはこうした教育を入口にして、個人個人が実用英語を高めて行くしかないのだろうと思うが、それでも以前に比べれば進歩と言えるだろう。
(英語の普及の是非や公用語的に扱う事についての是非については、ここでは論じませんのであしからず)



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コメント 7

NO NAME

えぇ、適当に語尾丸めて早口でしゃべれば
ネイティブになれるとでも思ってそうな人たちが
多いと感じています。

趣味でやるならまだしも売り物にしようってなら
きちんと勉強してからにしてほしいです
by NO NAME (2013-11-17 18:35) 

お名前(必須)

あなたが歌えばいいんじゃないですか?
by お名前(必須) (2013-12-28 04:18) 

洋楽好き

共感する記事です。全て英語の歌詞だけで歌っている日本のバンドは意味不明です…。誰に向けて歌ってるのか?韻も全く踏めてないし、日本語で歌ってくれないと伝わらないっす。下手な英語で歌うんなら洋楽聴くし。ってなりますね(-_-;)
by 洋楽好き (2015-07-26 16:19) 

NO NAME

きちんとした発音ができないのに外国語で歌っている歌手は聞いているこっちが恥ずかしくなります。
全て日本語で歌えばいいのに。
もし外国人が片言の日本語で歌を歌っていたら・・・と考えれば、どれだけおかしい事をしているかわかるはずなんですけどね。
by NO NAME (2015-09-05 17:27) 

コロン

多くは賛同を頂き、少数は明らかな的外れの回答という事実に触れ、興味深いと思いました。
by コロン (2015-09-09 13:43) 

NO NAME

国籍がアメリカの日本人ですが、賛同できません。
ネイティブじゃない人の英語がスムースではないということで
音楽家や歌手を非難するほどアメリカの文化はひどくないです。

ちょっと気になったんですが、かぎかっこをつけるときには、
文章()。とします。

これを逆に 文章。() とする場合には、
補注などで*1 などとします。

by NO NAME (2015-09-16 02:17) 

GoreMETAL

「それが表現者としての伝える相手に対する最低限度のおもてなしだろうと思う。」というのが大きなポイントだと感じました。

日本人が自負する「おもてなし」や「思いやり」が、どうして外国語にはさっぱり発揮されないのでしょう。どうして「発音なんか気にしなくていい」みたいな傲慢なことを、外国語についてだけは平気で言えるのか。どうして他のことではどんな努力でもするのに、言葉についてだけは、相手の身になってどうにかしようとはしないのか。外国語というのが記号ではなく、生身の人間が使っている生身の言葉だとは考えてないんですね。なぜ考えようとしないのか。
そして、耳がいいはずのミュージシャンが、外国語の音をコピーできないのもずっと不思議でした。
by GoreMETAL (2015-11-15 07:11) 

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