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企業管理の技術者的経営集団がもたらす弊害について [独り言]

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経営者は会社存続のためコスト削減のため従業員を切る。
それでも経営者は残るわけだ。
切る位ならそもそも雇うなよって感じもするだろう。



SHARP
、パナソニック、SONY。日本を代表する家電メーカーの12年上期はいずれも赤字だ。通年ではSONYがやっと数百億円の黒字ということだが、他の2社は年度末の段階で7,000億円を超える赤字としており、それも2年連続だ。
2社合計で3兆円近い赤字を垂れ流している訳だ。おまけに年度内の見通しでは下方修正の連続だ。
一部上場企業が下方修正を何度もやるなんて経営者は一体何をやっているんだろう? 

80年代、Japan As No.1と言われた時代があった。日本人サラリーマンをエコノミックアニマルと呼んだ人たちも居た。あの時代を知る人間としてはこの凋落が信じられない。何が狂ったのだろう?

1990年代、出井氏の元でSONYは執行役員制を取り入れ、カンパニー制を導入した。部門毎のPL(収益管理)を見える化し、経営管理を明確にしようとしたのだ。
私は現在でもカンパニー制を導入し経営管理を必要以上に強力にした事が結果的には日本の経営全体を弱くした一因だと考えている。
もちろん企業経営には管理が欠かせない。野放図な経営方針や戦略や経費の無駄は当然の如く企業を弱くしてゆく。安定経営は思いつきだけでは進められない。
しかしSONYに限らず経営が上手く行かなくなり始めると、管理部門が跋扈し始め、管理部門出の人材が経営者になり始める傾向が強い。
経費削減、人員削減など生み出すよりも生き残りのために必要以上の管理強化を始めてしまう。それはそれで理に叶う部分も多いだろう。また、管理経験の経営者は、自社にない機能をM&Aによって増築したがる傾向が強い。M&Aは確かに有効な手段だが、本質的に経営者自身が100%理解できない事業を自社にくっ付けた揚句、のれん代の特損を出すケースが少なくない。

私は、昨今の日本の企業経営者は、経営的マネージメント技術に長けた人間が多いが、企業理念を持って企業や社会をリードしようとする人材が居なくなってしまったことが今日の日本の低迷の遠因だと信じる。

SONY
の井深氏、盛田氏、HONDAの本田氏、パナソニックの松下氏にしても理念や理想を現実にすることで会社の規模を拡大したと言ってもいいだろう。彼らの共通点は経営者自身が売るモノを発想し作っていた。
しかし昨今の経営者は、とにかく売上と限界利益のことばかりを気にし、金を稼ぎ、規模を大きくする事ばかりが念頭にあって、ビジョンは二の次だ。彼らは事業規模が大きくできれば夢だって実現出来るという考え方なのだ。一面そういう理屈は成り立つだろう。
確かに利益を稼がなければ会社経営は持続できない。利益も出ないのにビジョンばかりを語っても無意味であるのは当然だ。

しかしそれは、かつて村上ファンドの村上氏が“金を稼ぐって悪いことですか?”と言い放った時の”陳腐さ”に似ているようにも思う。
要はバランス感覚だ。金が先かビジョンが先かは、鶏・卵のような話だが、マネージメント技術に長けた経営者は、ともするとビジョンに対するバランスが悪い。

経営技術の達人たちからは、時代を貫くような発想や製品が出てこないということは、ここ10数年の日本経済を見ていれば容易に理解できるだろう。
自分の会社の製品やサービスに興味のなさそうな経営者が一体何を消費者に届けようとするのだろうか? 
好きこそものの上手なれだが、消費者にはそういった空気は必ず伝わる。
かつて日産の経営陣は車に興味のない管理部門の連中が跋扈して会社を傾かせた。
ゴーン氏が来てからV字回復したが、ゴーン氏はカーキチだ。もちろん好きだから全ての問題を解決出来る訳じゃないが、パナもSONYもSHARPの経営陣らが全然自社製品に詳しいとはとても思えない。
そして何が起こったかはこの秋の家電メーカーの結果が言い当てている。

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2012年4月市ヶ谷にて撮影。
左のSHARPのショールームのビルは
経営悪化のためリストラされてしまい現在はない。
大学時代、ここに展示されていた
ステレオセットに自分のレコードを持ち込んで
カセットに録音したもんだった。
貧乏学生には助かる場所だった。
SHARPは全盛期のアクオスを買ったが
それで苦境のSHARPのニュースを
見るのは残念な気持ちになる。

非常に酷な言い方をすれば、管理部門の人間は概ね創造性が薄いが管理経営的側面には強い。机上の戦略に長けているが、自分が関わるビジネスを数字でしか見ないためリアリティーが薄いとも言える。私は管理部門の人間は少なくとも数年間はビジネス部門でリアリティーを体験すべきと思うが、管理部門の殆どの連中は、管理部門内で出世してゆく。

M&Aの際に死ぬほど厳しい資産査定(デューデリジェンス)をしたって、業界内の経験者の目で見ると明らかに判断の変なM&Aをしている経営者が山のようにいる。
何故それが起こるかと言えば経営判断に経験的なリアリティーがないからだ。
数字は1つのファクターでしかない。
それを全ての根拠のように扱う管理技術者がいかに多いか・・・。

また反対に技術者など創造性のある人間には経営的資質に欠けた人間が多い。物作りとは“無駄の累積によって生じる僅かな奇跡”とも言えるからだ。しかしこれはこれでバランスが悪い。技術系や創造系の人間も、最低限度の経営的な仕組みは理解しておくべきだろう。
しかしお互いに欠損した部分を補う事が出来るから組織としてのパワーが発揮できるはずなのだ。
しかし経営的な問題が起こるとリスクを大きく避ける傾向だけが強くなり、次のビジネスのタネが捲けなくなり、新しいビジネスの機会を逸してしまう事もある。

会社とは一定の戦略下で一体となって初めて力を出せる生き物だと思う。
言いかえれば会社とは大部屋のようなものだ。しかしそれぞれの部門を管理的に独立させ小部屋のような形にすれば、人間の性として自部門の収益を優先し、他部門との協力によるリスクを回避しようとするだろう。人間に例えるなら、それぞれの体のパーツが連動しないで勝手に動き廻るということだ。そんな事になったら人間は死んでしまうだろう。しかしカンパニー制下の企業とは正にこういう感じなのだ。

カンパニー制は、他部門への無関心を誘発し、実際は多くがそうなった。またカンパニー制は会社内の子会社的にすることで独立性を求めたが、そもそも関連性を持たなければならない個々のカンパニーが連携・連動することを自ら否定したことで弊害の方が増大した訳だ。

SONYが”SONYユナイト”を唱えなければならなくなったのは、こうした背景があるのだと思う。カンパニー制が全てダメだとは思わないが、数千、数万単位の社員が働く中でのカンパニー制の導入は、トップマネージメントが会社全体の士気を落とさずに会社全体を貫くためのビジョンを確実に定着させる気構えが無いと上手く事が進まない。事業部を小分けしてカンパニーを所管する事業本部長に丸投げ的に一任し、TOPの経営陣がそれらをほったらかしにして横の連携を自ら断ったのが、日本のカンパニー制の最大の弊害だ。
人間は小部屋を作ってしまうと自然とそこに落ち着く動物だ。なかなかそこから出て来なくなる生物だ。そういった当たり前の行動様式すら理解できない事が理解できない。

技術開発、新規ビジネス創出には時間と金がかかる。貫くような発想とは思いがけない時に出てくる事が多い。
そして世の中を貫く発想とは管理された環境からだけでは生まれ難い。
私も約10年前、あるビジネスを生み出した。それまでの日本にはなかった分野だ。当然マーケティングも出来ない。
手探りをしながら進めてきたが、今ではそのビジネスは日本で誰でも知っているような規模になった。しかし私には規模を大きくし、マジョリティーを取れるような戦略を立てる才能がなかったため、現在ではそのビジネスから手を引いている。
しかし私がそのビジネスを成功させる以前には、死屍累々とするアイデアが100余りも転がっていたのだ。

どのような業界でも100の発想から1つの“当たり”を出せれば良い方だろう。しかし99のアイデアを無駄と思い、出来るだけ99個試さないようにしようとするのが現在の管理系の経営者の発想だ。
たった1つの当たりを“効率的に出そう”と考えるのは論理的とも言えるが、実際は”非現実的”なだけなのだ。
そう言うと否定する管理経営の信奉者が多数いるだろう。要するにビジネスってモデルなんだよね・・という。モデルが正しくなければアイデアの数なんで無意味だとも言う。
確かにそう言う面はあるだろう。しかしそうであるなら現在の家電業界等の弱体の本当の原因について違った形で証明して欲しい。SONYはWALKMANのモデルを持っていたが、ipodに駆逐された。WALKMANは機器販売モデルでipodはソフトモデルだからだ・・という人もいる。しかし私はそれだけだとは思わない。
その根幹には、管理経営技術に牛耳られた企業から本当の発想力をもった人材が流出したからに他ならないし、経営陣が社内のビジネス的な空気感を気にしたり、新しい発想を理解する能力がなかったからだ。またリストラすることで流出する本当の意味でのノウハウが、実は人間にこそあった点を軽視したからに他ならない。

99の無駄とも思える発想をリスクとしてギリギリの中でも容認し、抱えられない企業には先がない。
リスクが取れないなら、じっとしてリスクを取れる体力を持つまで頑張るだけだが、実に辛い時間になるだろう。
企業の
経営管理は大事な業務だ。しかし発想し創造する人間も非常に大事である。この二律背反するような関係をアメリカの管理会計的な管理思考に毒された経営者によってバランスを欠いてしまったのが、今日の日本の弱体化の根本的原因だと信じている。

会社は株主のモノだと言い放った人物がいた。私は違和感を覚えた。会社は社会の中で関係するすべての人々と対面してのみ生存できる。
会社単独で生存している訳ではない。
会社への出資者である株主には一定の権利が存在するが、彼らすらも社会と深いつながりの中で生きている。
従って会社とはそれに関わる全ての人のモノである。株主も従業員も経営者も消費者も取引先も含め、全ての人のモノなのだ。

資本的な部分からにしか光を当てて見ない偏った人間が経営者になると悲劇が起こるのはこういう事だ。村上ファンドの村上氏の”金儲け発言”の違和感はこうした部分にあり、彼らはそういった意味で同質の人間だ。

アメリカのWALL STREETに巣喰う詐欺師のような連中がリーマンショックで浮き彫りになった原因は、非常に個人的に集約した形だけで金を稼ごうとしたからだ。金を稼ぐという事は必ず社会との関わり無しでは実現できない。すなわち金を稼いだ人間には社会に対する責任が発生するのだ。それを無視すれば、やがて稼いだ連中にも大きな影響が起こるだろう。
それらが理解できない人間が増えていることが昨今の社会の違和感を増大させているのだと感じる。

会社の各期、年度毎にキチンと利益を出す形にするのはもちろん大事な仕事だ。しかしそれだけに囚われて中・長期的な会社の展望や理念を見失ってしまっては、元も子もない。
自分たちに判断の能力のない業態をM&Aを数多くして、のれん代を特損している経営者連中がウヨウヨいることを株主は良く注視した方がいい。
こういう経営者には自分でビジネスのタネを発想する能力が欠如している証だからだ。企業にとって金を稼ぐ事は必要な行為だ。金そのものを否定はしていない。金がなければ困ることだらけであるのも事実だ。
しかし金を稼ぐ事が社会の中で一定の責任を伴うものであることから、夢もビジョンもない金稼ぎに終始する経営者を私は認める事が出来ない。
私と意見を異にする人は多いだろう。
それでもビジョン無き経営者は、私にとって村上ファンドの村上氏と同じような金に下品で下世話な人間に映るだけだ。


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