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Queen“Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-7 [音楽に関わるブログ]


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ブライアンは自身のギターサウンドについて語っている。

「リズムセクションが終わるとギターのダビングが待っている。レコーディングの手順は通常そんな流れになる。何本ものギターを使ってオーバーダビングをすることで多彩な音色を作る事が可能になる。私の場合は、オーケストラが違う楽器で演奏しているような効果を生むために意図的にギターのピックアップを様々に変えたり、アンプを変えたりして音を作るんだ。例えば“Mama, just kill a man”の部分ギターの高音域のアルペジオは、ワザとギターのブリッジ近くを弾いたり、弦を引掻いたりしたことであのサウンドを作ることが出来たんだ。オペラセクション前のギターソロのフレーズはどこから湧いてきたのは細かい記憶はないんだが、私の頭の中で鳴っていたんだろうね。とにかくこのソロのフレーズは曲のメロディーに反応した流れで演奏しているんだよ。そもそも私の演奏スタイルはまず頭の中でイメージして鳴らしてみるんだよ。それで座ってギターを構えて指に演奏させるのさ。指の動きは極めて予測可能なものなんだ。ただし頭の中のイメージが指の動きを先導して演奏をする場合は除くがね。」

 

ブライアンのギターが完全に録音される前は、多くの実験的録音が行われていたとベイカーは語る。

「我々は違うタイプのマイクをギターアンプにセットしたんだ。これは現在でもやっている方法なんだが、マイクの音をいくつか違うパターンで組み合わせて1つのサウンドを作ってみたりしたんだ。ブライアンのVOX AC30というギターアンプは背面に遮蔽が無いオープンタイプだった。だから我々は、ギターアンプ背面の壁の方向にアンプを立てて、スタジオの壁の跳ね返りの音(アンビエント)を録音できるようにし、ギターの全周波数をカバーできるようにしたんだよ。録音セッションの際には常に実験的な方法を試していたよ。またオペラセクション直前のソロギターは複数トラックを使用しないで単チャンネルの演奏として録音されている。」

セッション中の実験は常時行われていた。通常ブライアンはAC30を使用していたが、ブライアンのインタビューにも出てくるジョン・ディーコン作製の、3ワットほどの出力しかないタンディー・ラジオシャックのスピーカーを合わせて使っていた。

「我々は同時にトレブルブースターも併用した。それにより変わった音色を求めて、金属とコンクリート製のチューブ状の中にマイクを突っ込んで録音したりもしたね。その試みの全てが上手くいったよ。現在に至るまでその気持が変わらないね。」

 

ブライアンはロジャーの演奏の様子についても語っている。

Bismillah辺りにはロジャーがティンパンーをダビングしている。チューニングがいいんだよね。曲の初期のロジャーのドラムサウンドはタイトだが、ロックセクションからは別録音しているルームサウンド(ドラムの本体から距離を離して立てられたマイクで部屋鳴りを収録したもの)を使って拡がりを持った感じになっている。ここではルームサウンドが重要で、これがないとあの部分のドラマっチックな雰囲気を作る事はできなかったんだよ。

トライデントスタジオのドラムサウンドは伝説的なものだったよ。カーリー・サイモンなんかでも聞くことが出来るが、非常にタイトでクリアーなサウンドが録れる場所だった。ドラムを録音する日にロジャーと口論になったんだが、私は拡がりのある音が欲しかったのだがまだ若くてどうやってその音を得たらいいのか分からなかったんだ。そこでロイがエコーで対応できると言ってくれたんだが、そういうイメージの音を求めているんじゃないんだと伝えたよ。
それで部屋中にドラムから離れた場所にマイクを立てたんだ。そして最終的に我々が作ったドラムの音の主要なものは全て離れたマイクを基本にして、ドラムセットに近くに立てたマイクは、スネア以外にはほとんど使っていないんだ。いわゆるアンビエントドラムサウンドだね。」

つづく

Part-8につづく:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-24


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Queen“Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-6 [音楽に関わるブログ]




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Queenのメンバーたちは、バッキング・ヴォーカルのレコーディンの際、どのような連携を図ったのだろうか? 

ベイカーは続ける。

「ロジャー・テイラーは、スタジオ奥に設置されたドラムセットの後ろに座り、ジョン・ディーコンは壁を背にし、彼の右手にマーシャルのベースアンプを置き、コントロール・ルームの窓から見える位置にいた。ブライアンは、ブースの中におり、フレディーは中央のやや窓側にあったピアノの所にいた。」

「当時の我々は、スネアに複数のマイクを設置せず、1本で狙うことにしていた。当時の常識ではコンデンサーマイクを使用する傾向があり、タムとオーバーヘッドにはノイマンのU67U87を使った。
当時はU67U87への移行期で、スタジオには1本は常備されていたし、他のマイクもあった。バスドラにはAKG D12を使った。現在では標準的に使用されているAKG D112マイクの前の時代だったな。

ジョン・ディーコンのベースはコントロール卓にダイレクト・ボックス経由で繋いだ。スタジオ側は、市販のダイレクト・ボックスがなかった時代だったため、自分たちで作ったダイレクト・ボックスを使用する傾向があった。しかし使いモノにならなかったんだ。それでスタジオの連中は、ケーブルをそこらじゅうに引き回していたよ。ギターアンプに引き回したケーブルを繋ぐと、若干だが信号のロスが発生することになる。

それ故、それらを相殺する手だけを考えねばならなかった。我々はまた、エレクトロ・ヴォイス666や時にはノイマンのU67コンデンサーマイクを使ってジョンのアンプのエアー感を拾う事にしたんだ。」

「私はコントロール・ルームの後ろに座って、Bohemian Rhapsodyを聞きながら、自分が聞いているものがポピュラー音楽史の1ページを飾るシロモノだと初めて感じていた。私の中で“超弩級の作品だ”っていう声が聞こえていたよ。正にそうなったがね。 
フレディーのピアノは、ノイマンU67を使って録音した。彼のガイドヴォーカル用には、シュアーのマイクを使った。彼は曲全体に渡って唄ったのではなく、バンドのメンバーに曲の場所が分かるように各ラインの冒頭部分の触りを唄っただけだった。」

ブライアンはフレディーと曲の制作過程について語っている。

「フレディーの書いた曲は、他の曲と違ってピアノがフィチャーされる事が多く、ドラム、ギターやその他の音源はその後ろに控えるという感じだった。またフレディーは例外的とも言えるピアニストだった。彼は本格的なクラシックピアノの教育を受けてきた訳じゃないんだが、自己流で積み上げてきた彼の演奏は非常に情熱的でアタックを強調し、正確なリズムを刻むというような独特のものだった。

まるで彼の体の中にメトロノームでも入っているような正確さだったよ。フレディーのようなタイプのピアニストには殆ど出会った事がない。技術的に優れたピアニストは大勢いるが、フレディーのようにまるでドラマーがリズムを刻んでいるようなアタックのあって正確なリズムをキープした演奏をするスタイルのピアニストは極めて稀だと思う。フレディーはピアノを演奏する時にクラシックの演奏家のように指を立てて演奏せず、寝かせ気味にして押しつけるような感じで演奏するんだ。オペラセクションに入る時の4分音符のコードの刻みを聞くと良く分かるが、演奏が非常に正確なんだ。」

ブライアンは更に続ける。

「レコーディングの時、曲の冒頭のコーラスはフレディーが行った4カウントを聞いてからメンバーがコーラスを歌い始めている。そして事前に録音してあったフレディーのガイドピアノを聞きながらコーラスを歌ったんだが、ミックスの際にはアカペラの処理にするために消去されている。」

ブライアンはジョン・ディーコンが演奏したベースのトラックについても語っている。

「トラックシートを見ると分かるんだが、3つのチャンネルに分かれて録音されているんだよ。1つはベースギターからの直接音、つまりダイレクトボックスを経由したもので、もう1つはアンプの直接出力、もう1つはアンプをマイクで収録したものだ。これはエンジニアのロイが好んでやっていた方法で、それぞれに個性の違う音(信号)をミックスして作るんだ。演奏を聞いているとハッキリと分かると思うが、ジョン(ディーコン)の演奏は、フレディーのピアノの左手の演奏のタイミングと完全に同期しているよね。」


つづく。

Part-7につづく:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-23
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Queen “Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-5 [音楽に関わるブログ]


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さて、このレコーディングが元々非常に複雑であるが故に、ベイカーの鋭敏な耳が、ヴォーカルの微妙な音程の狂いに気づいていたとしても驚くには当たらない。彼は以下のような発言を残している。

「ハーモニーの中には、例えば経過音(ある音から別の音へ移動する際に通過する音)に対して完全な音程でハマっていない2音があったりしたんだ。我々はそうした音を意図的に残した。

理由はミステイクと言えるほどではなかったからだ。クラシック音楽の解釈では問題にならない範囲だったが、ロックの世界では(ハーモニーが)気になる問題だったんだ。しかし経過音の中では問題を感じる程ではなかったのでOKとした。もしどうしても気になって対処を必要とすべきものであったならば、単にそのテイクを消去して再度録音し直しただろう。それ故、最終バージョンで聞こえている内容は、全て意図的だった、まあ支離滅裂な意図だったが、そうであるべきだったんだよ。」

 

ブライアンも重厚なコーラス制作過程について語っている。

「とにかくオペラセクションは何度も重ねたよ。トップの音を単独で聞くとちょっと変な感じもするけどね。またコーラスの音符の動きが非常にアップダウンが激しかったために完全な音程が取れていないパートもあったが、それが全体的に功を総した部分もある。とにかく難しかったよ。同じラインを歌いトラックコピーをしてまとめ、またユニゾンで歌いそれを何度か繰り返し最後に全てのコーラスを2つのチャンネルにまとめたんだ。出来上がったコーラスは上手くブレンドしたと思う。3人がそれぞれ個性をもった声をしていたことが上手く行った原因だろうね。ジョンだけは自分の判断で歌わなかったんだけどね。彼は低域専門だったからね。(笑)。」

ベイカーが付け加える。

「ジョンが歌わなかったのは彼自身の判断だった。自分の歌声を余り好きでなかったからね。ここに至るまでメンバー間で色々とあったんが、結果的にバッキングコーラスは3人で録音した。またオペラセクションの一番高いパートを歌っていたのはロジャーなんだよ。
そういえばフレディーは非常に几帳面な人物で、スタジオ作業をしている間、何かあると常にメモに残して記録しておくような人物だったなあ。あれは多分彼の癖なんだろうね。」

 

ブライアンがさらに続ける。

magnificoの部分のコーラスは私の好きなパートだ。 階段を下るような感じで(彼はこれをCASCADEという表現をしている)コーラスが増えて1つのコードを作り上げている。その後も重厚なコーラスが続くんだが、Let me goの部分のトップはフレディーが他のメンバーよりも意図的に譜割を伸ばして歌っている。またロックセクションのSo you think you canからはフレディーがユニゾンで歌ってトラック重ねている。(ブライアンはこれをダブルトラックという表現をしている)

この部分の彼の歌唱は、驚くほどシャープだった。2つのトラックは僅かだがニュアンスが違う感じで歌われていて、完全に一致しない方法で歌ったんだ。実はフレディーは完全に一致した歌い方もできる人間で、Love of my lifeでもやっているんだが、完全に1つの声に聞こえ呼吸の時の息づかいだけが増えているように聞こえるようにもできる。しかしこの曲では意図的にそうしていないんだ。それは音像に厚みや奥行きを加えるためなんだ。
また、今でも覚えているんだが、leave me to dieの当初のメロディーはレコードで歌っているような音の終わり方でなく、もう少しフラットなメロディーで終わっていたが、最終的にフレディーがレコードで聞かれるようなアップしてダウンするような流れに変更したんだ。
(注:ライブで歌っている時は初期構想のフレーズで歌っている時がある)

このダブルトラック構想のアイデアの根源にはビートルズがあり、特にジョン・レノンがビートルズの後期に頻繁に行っていたダブルトラックによる録音を参考にした。機械的でない人間臭さを出そうとしたかったので、この方法での歌の録音をする大きなキッカケにもなったんだ。

またNothing really matter直前のギターも複数の音色とトラックで構成しているんだが、ピアノの低い部分の鍵盤の演奏が終わったあとのギターの演奏個所は私の心の中では管楽器の音色をイメージしていたんだよ。ここではジョン・ディーコンが作ってくれた小さな箱位のギターアンプを使ったよ。このアンプのお陰でファンファーレのようなイメージの音にすることが出来たんだ。だからここのギターの音は他のセクションとは全く違ったものなんだ。

ドラムのロジャーはドラム以外にティンパニーなどをオーバーダビングしているよ。」

つづく

Part-6につづく:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-19-4


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Queen “Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-4 [音楽に関わるブログ]

当時のロックフィールドスタジオでのリズムセクションのレコーディングの様子は、ロジャーとブライアン・メイが語る所によれば、レコーディングブースの中央にフレディーが演奏するピアノがあり、その周囲に他のメンバーが陣取っていたようだ。当時のロックフィールドスタジオにはドラム用のアイソレイションブース(ドラムを個別の部屋に入れて演奏・録音する場所)がなく、バンド全員が一つの大きなブースの中で演奏していたという。また当時ブラインアンが使っていたVOXのアンプは3台だったようだ。

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ロックフィールドスタジオの演奏ブース内部の様子


ベイカーは続ける。
「我々は、後で使う事が可能になるように、マスターテープの最後の部分を30秒間残してマークしたんだ。また、知らない間にテープが行き過ぎないようにする意味もあった。そして曲の最後の部分になるロック・セクションは、当時我々がラウドロックのナンバーを録音していたような方法で別曲として録音作業した。事を複雑にし始めたのは、曲の後半部分においても多くのヴォーカルパート(the 'Ooh yeah, ooh yeah')があったことだ。そこでまずピアノ、ギター、ベース、ドラムのベーシックを録音した後、リード・ヴォーカルなしで、バックのコーラスを録音したんだ。こうした方法は異例だった。
ピアノはスタジオブースのセンターに他の楽器に囲まれるようにセットされていたため、リズム録音の際、ピアノのマイクに他の楽器が被るのを避けられなかった。だから少しでもその影響を少なくするためにピアノの周りを布で覆って録音したよ。
通常リード・ボーカルを入れてからバッキングボーカルを録音するのだが、それはリード・ヴォーカルがバッキングボーカルの方向性に強い影響を与えるからなんだ。でもバッキング・ボーカルを録音するために十分な空きトラック数を確保するのが困難だったため、先にコーラスを録音するという方法を取らざるを得なかった。
オペラ・セクションは、考えていた以上に長くなったため、テープの継ぎ接ぎを繰り返してテープリールに乗せ換えていた。

フレディーが新たな“ガリレオ”を思いつく度、私は新たなテープをテープリールに乗せ換えなければならなかったが、そうこうしている内に、周辺が切り貼りしたテープで埋まり、最新機器の前をシマウマが通り過ぎているような状況になったよ。こうした状況は我々がオペラ・セクションをどの程度の尺にするかを決定するまで、34日間ほど続いたね。そして結果的にはオペラ・セクションだけのレコーディングに3週間かかった。1975年当時、これだけの期間があればアルバム1枚が完成したもんだよ。」

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QUEENの初期のプロデューサーであるトーマス・ベイカー

 
さらにベイカーは続ける。

「我々は3声のハーモニーを作るのに、1声を何回かダビングして1本にまとめることで作った。だから、コーラスの最初のパートの音符(注:1声分)を3トラックに(注:ユニゾンで)録音し、それを1トラックにまとめるんだ。2番目のパートの音符も同様に3トラックを録音し、それを1トラックまとめ、3番目のパートの音符も同様に行う。すると全部で3声分(注:計3トラック使用)の録音が終わると、今度はそれらを3声を1トラックにまとめるんだ。
つまり3声(注:3和声で計9声分の音)のハーモニーがたった1トラックにまとまることになる。

我々は同様の方法で、それぞれのバックグラウンドヴォーカルの作業を曲全体に渡って行い、1つのパートを完成させるまでに、オリジナルの録音から数えて4回(に渡って別のトラックにコピーをすることで)、音のジェネレーションを落とすことになった。
我々が他の2つのパートをミックスして1つにし終わるまでには、最初に録音したパートから見ると、8世代もジェネレーションを落とす(注:つまり音質も落ちるという意味)ことになった。これは我々が作業の繰り返しによってマスターテープの磁気をすり減らすことに危機感を抱き、スコッチ社製の2インチ幅のオリジナルの24チャンネルテープを、サブマスターとなる別の24チャンネルテープにコピーを始める前の話なんだ。一度でもこうした事が起こると、ヴォーカルが歪む要素が非常に高くなるからね。」

前代未聞のレコーディング・プロジェクトではあったが、ベイカーの立場からすると無用とも言える心配の種に囲まれていた。実際、彼にとって時代を背景とする技術的な限界はどうでもいいことだった。

「もし何らかの理由で尺が伸びたとしたら、我々はただ単にテープを付け加えるだけだった。もし録音するトラック数がもっと必要なら、同じテープの空きトラックに音をまとめてバウンス(トラックから別のトラックへの音のコピー)しただろう。Bohemian Rhapsodyの録音の実態とは、トラック間のコピーの連続だったんだよ。」

実は80年代、レコーディング業界内では、本作のレコーディング方法の噂の中で、24チャンネルのマルチトラックレコーダーを10台ほど接続し、同期させてレコーディングしていたと云う節があり有力だったが、この証言を見る限り噂が誤りであることが明らかになった。

つづく

Part-5は以下:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-19-3 


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Queen “Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-3 [音楽に関わるブログ]

レコーディングセッション:

Bohemian Rhapsody”のレコーディングは、イギリスのヘレフォードシャー州での3週間に及ぶリハーサルの後、1975824日、マンモスにあったロックフィールドスタジオの第一スタジオで開始したとされている。

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ロックフィールドスタジオの外観


宿泊施設をそなえ、簡素な平屋建てのスタジオでのレコーディング以外にもさらに別の4つのスタジオ、SARM (East), Scorpion, Wessex and Roundhouseが本作のために使用された。
当時、シングル曲の制作費としては最高の制作費を使い、後年ギターのブライアン・メイが、“A Night At The Operaは、Queenにとって、ビートルズのサージャント・ペッパーなんだよ”と言うのも無理からぬ程の作品だった。またQueenにとってビートルズは常に研究の対象だったようだ。

Queen
の生き活きとした音楽の色彩は、当時デッカとトライデント・スタジオのプロデューサーで、ロック、オペラやクラシックなど広範な音楽に造詣が深いトーマス・ベイカーに依るところが大きい。
ベイカーは、マーキュリーレコードが“Bohemian Rhapsody”と呼ばれる新曲を偶然にも試聴することになるまで、既にQueenの初期3枚のアルバム、Queen, Queen II and Sheer Heart Attackを手がけていた。しかし彼が獲得していた専門知識が、この叙事詩を形作るに当たって総動員されたという点に気がついた者は数少ない。

ベイカーは、この曲を最初に聞いた時の事を回想する。

「ある夜、夕食のために(西ロンドン)ケンジントンにあるフレディーのアパートに行ったんだ。彼がピアノに座り、“今ちょっと書いている曲があるんだが聞いてくれないか?”と言いながら、最初のパートを演奏し始めるたんだ。彼は、“これは中間部に繋がるコード進行で・・”とか説明をし始めた。まだ歌詞は付いていなくて、私はバラード曲になるだろうなと思いながら聞いていたんだ。フレディーはその先へと演奏を進め、突然ピアノを弾くのを止めると、”ここにオペラのセクションが入るんだ“と言い出したんだ。それで二人とも大笑いしたよ。」

私はデッカで、D'Oyly Carte Opera Companyで働いた経験があって、オペラの歌唱方法や強勢方法などについて学んでいたんだ。だから当時の私は、世界でもフレディーが何を意図しているかを正確に理解できるほんの僅かな人間だったと言えるんだ。」

ベイカーは続ける。

「それまでポピュラーミュージックにオペラを合体させるというアイデアを実現した人間はいなかった。だったら最初の人間になるべきだろうと思ったね。明らかに独創的だったし、当初から“ガリレオ”というラインを数回入れるつもりだった。しかし実際にスタジオに入ってみると、事態は全く違う方向に動き出し、曲も長くなり、どんどんと規模が拡大しはじめたんだ。曲の冒頭の部分は割とありがちが感じだったし、最後のセクションも新しいという程ではない。だが我々は、ギターやオーバーダビングでそれらを美しく彩ったんだ。しかしオペラの部分は、最終的に当初のコンセプトから外れざるを得なかった。それは我々が作業の進行と共に音楽を変え続け、様々なアイデアを重ねて行った結果だからなんだ。」

ベイカーとQueenのメンバーは、3つのセクションのバック演奏部分をキングズリーワードにあるロックフィールドスタジオで録音した。その後、ギターや緊張感漂うヴォーカルのダビングをするために、ロンドンの北にあるスコーピオン・スタジオやSARMスタジオに移った。

「冒頭のバラード部分の前半はピアノ、そしてドラム、ベースと通常の楽器で作業をした。この時点ではオペラ・セクションのレコーディングには手をつけなかった。」


ロジャー・テイラーはこの時のセッションについてコメントを残している。

「最初はちょっと困惑したし、ちょっと忍耐も必要だったよ。全てを把握していた訳じゃなかったからね。レコーディングが進むにつれて全体像を把握できるようにはなったが、それでも困惑感が残っていたことは確かだったね。」

ブライアン・メイは、全てはフレディーの頭の中にしかなかったと語っている。

つづく

Part-4はこちら:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-19-2 


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Queen “Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-2 [音楽に関わるブログ]

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映画が
CGの発展で一部の例外を除いて映画そのものの創造性や個性、パワーを欠き始めたように、音楽でもPro Toolsの出現によって一部の例外を除いて音楽そのもの創造性や個性、パワーを欠き始めた部分を否定できない。余りにも容易に頭の中のクリエイティブをデジタル的に作り出せるという事は、実は人間の感動に違和感を覚えさせているのではないかと考えている。

例えば「地獄の黙示録。」の数多くの戦闘シーンや爆発シーン、またカーク大佐の異様な王国をCGによって作ったらならあれ程の名作に謡われるような作品にならなかっただろう。もちろんSFなどの分野でCGの作り出す世界観が想像を超える効果を生み出す場合もあるだろう。しかしそれでもブレードランナーのような混沌とした世界観を生み出すことはデジタルCGには不向きだと信じている。
人間はどこかでアナログ的なグラデーションのある世界観に親近感を覚える動物なのだと思っている。

Bohemian Rhapsodyはアナログ的な手法の果てに完成した人間臭い作品だ。そして常にユニークな存在であり続け、他の追随を許さないまま今日に君臨していると言い切って良い。あの楽曲には人間の英知と工夫、そして綿密なクリエイティブが集結しているからこそ時代を超えて残っているのだ。
私は音楽業界でシンセのプログラマーとしてレコーディングに携わるようになった80年代後期に、常々このサウンドの構築方法に興味を持ち、その後ネット時代になって開示された様々なデータを読み漁ってきた。

8090年代当時、海外のレコーディング現場の情報を適切に得るのが難しい時代だったが、昨今はネット上に数多くの記事や証言が残されるようになったことは幸いだった。
本ブログでは
Bohemian Rhapsodyのサウンドの秘密に迫るため基本的にネット上にアップされて散乱している情報を基本にした上で私なりにまとめてみたものだ。
他にも本作のレコーディングを解説しているブログはあるのだが、それらと一線を画すように出来るだけ詳細を極められるようにしたつもりだ。
名曲の生み出される過程は実に感動的ですらあるのだ。

19751031日に発売された、Queenの“Bohemian Rhapsody”は、シングル曲として、技術面や商業的な成功といった側面において極めて例外的な位置にいる作品である。

UKチャートの1位に9週間も居座り、1977年にはBPI(イギリスの著作権管理団体)から過去25年間の中で最高のシングルレコードとして表彰され、その後、曲の作家でもあるフレディー・マーキュリーの悲劇的な死によってこの曲は1991年に再び1位の座に返り咲いた。本作はイギリスだけで200万枚を、世界でも100万枚を超えるセールスをしたという。その後、1992年に公開された映画「Wayne's World。」も本作を当時のティーンエイジャー達に伝えるための重要な媒介となった。
悲愴的なバラードからオペラ調に転じ、燃え盛るようなロックで最高潮に達する約6分にも及ぶこの曲は、グラムロックとパンクが全盛時代の退屈で荒涼とした音楽状況に天から贈られたものとも言うべきものであった。

1974
年に発売されていた“Killer Queen”は、バンドがロックの創造性と独自性において1つ抜けた存在であることを示していたのにも関わらず、“Bohemian Rhapsody”は、リスナーの予測を遥か超えたものとして出現した。そしてQueenはこの曲によってロック・パフォーマーにおいても、スタジオ制作における実験的挑戦者としても、他を寄せ付けない存在となる。
だがこの曲は当時のラジオ局にとって非常に困った存在になった。ラジオ局ではこの曲の全編を放送できる音楽プログラムは皆無といって良い時代だったからだ。通常は330秒以内の楽曲が主流だった時代に“Bohemian Rhapsody”は完全に規格外だった。この点は、2018年公開の映画「ボヘミアン・ラプソディー」でも語られている。
海外はもとより、当時の日本でも深夜番組で本曲の全編を放送しようとする局は稀だった。しかしそれでも必ず例外がおり、ニッポン放送のオールナイトニッポンなどが全編放送をするその稀な例となった。

ちなみに1970年代中期当時のQUEENのファン層の位置づけについて語ろう。
ロックファンという定義は、主に男性が支配する分野だった。当時のロックは殆どハードロックを意味し、Deep PurpleやLed Zeppelinに代表されるバンドのファンが多く、硬派なロックファンが多数派だった。またこれらのバンドは例外なくスターギターリストが存在しており、男性ファンの多くは、音楽、楽器、機材、ギターリストの側面でロックを捉えていることが多かった。雑誌で言えば「Player」を読んでいる連中であり、絶対に「Music Life」なんかを読む連中ではなかった。
これとは対照的にQUEENは、化粧をしイケメンも多く、コスチューム的な衣装でステージをこなし、ちょっと乙女チックな要素が多かったためにロックの中でも軟派な扱われ方をしており、男性ロックファンからは敬遠された存在で、仮にファンだったとしても硬派なロックファンの前でQUEENに共感を覚えているような事は言えなかった。つまり、
「Music Life」を読んでいる女性ロックファンがQUEENファンのマジョリティーだったからだ。
それでも硬派な男性ロックファンの中にも、心の中ではQUEENを結構良いバンドだと思っている連中は多かったが、それを公言するのは勇気のいる時代だった。共産主義思想に染まった連中の中で資本主義を美化するような発言をする感じと言って良いだろう。

 
話は逸れたが、“Bohemian Rhapsody”にはポップミュージックにありがちな1番、2番というパターン的な繰り返し部分が殆どないため全編を聞かないと曲の全貌に触れる事が出来ない。日本の深夜放送で全編がかかった事は当時ではニュースになった程だったが、隔世の感がある事象だ。

実は、1975年にはロック音楽史上もう一つ重要な曲が生まれている。10ccの“Im not in live”である。音楽的にもレコーディング技術的にも伝説的な逸話を残すこの2曲が奇しくも同じ年に同じイギリス国内から生まれたのは偶然を超えた興味深い符合であろう。
なお、“Im not in live”のレコーディング制作秘話については私自身が以下にまとめてある。
http://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2012-10-02

つづく。 

Part-3はこちら:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-19-1 


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Queen “Bohemian Rhapsody”のサウンドの秘密を探る Part-1 [音楽に関わるブログ]



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Queen
Bohemian Rhapsody(ボヘミアン・ラプソディは言わずと知れたロック史に残る名曲だ。1975年に突然この世に現れた本楽曲について、あの当時を生きてきた人間はそれを当然知っているが、全く知らない世代にはこの曲がどんな意味を持つのか全くピンと来ないだろう。当時16歳だった私は、この曲をニッポン放送のオールナイトニッポンで初めて聴いた。6分近い曲を全て放送したからだ。当時、ラジオで音楽のオンエアーは、良くて1コーラスが常識だった時代に、全尺を放送するのは画期的な行為だった。
そしてティーンだった私はこの曲を聴き終わり、こんな凄い曲とサウンドを考え付くだけでなく、実際に作り上げる人間がいることに驚愕した。

これから23,000字ほどを費やして正にモンスターと形容してもいい
Bohemian Rhapsody”の制作過程を語るつもりだ。

2018年11月、日本でこのタイトルが付いた映画が公開された。我々のような世代の人間には今から楽しみだが、予告編にもこの作品のレコーディング風景が現れる。おまけにこの映画、日本では世代を超えたヒットになっており、上映週につれて動員が増えているという異例の状況となっている。2019年1月の段階で115億円の興行収入を突破し近年最大のヒット映画となったことは、同じ世代を生きたロックファンとしても誇らしい。

「映画:ボヘミアン・ラプソディ(ラプソディーじゃないのでご注意を)」
http://www.foxmovies-jp.com/bohemianrhapsody/


さて、本記事はかなり長い。
それ故いくつかのパートに分けてアップするつもりだ。

私のQueenの実体験は、1981年2月の武道館5連続公演の最終日だ。
実は観客としてではなく、警備のバイトで会場にいた。当時大学生だった。
何の幸運か、配置された場所はアリーナのど真ん中。
現在のように警備員としての態度がそれほど厳しい時代ではなかったので、ずっとセンターで舞台に顔を向けながら観客の様子を確認していた。
しかしやはり舞台に自然に目が行くのは人間の弱いところ。
特にフレディーの圧倒的な歌唱とパフォーマンス、またバンドの怒涛のサウンドに触れ、QUEENってこんなに凄いバンドだったっけ?と思うほどだった。
当然終盤に“Bohemian Rhapsody”を演奏したのだが、この曲は大好きだったので仕事を忘れて聴き入ってしまっていた。フレディーの歌もメンバーの演奏も本当に凄かった。
尚、ライブも終わりかけのある曲で、フレディーが舞台からステージで自分が使っているガラスのコップをアリーナ中央に向かって投げ入れたのだ。
コップは私に向かって真正面に飛んできて目の前に落ち、粉々になってしまった。そこに女性客が押し寄せたために、観客の女性の1人が手首に大きな傷を負ってしまった。
私は彼女を楽屋口に移動させ、他のスタッフが救急車を呼んだ。
事が終わった頃にはライブは終わっており、私たちアルバイトは、舞台撤収の手伝いをした。フレディーが使ったピアノの左手前には、映画でも登場するモニター調整用のボックスが設置してあったし、プライアンのVOXのアンプを運びながら、感傷に浸ったものだった。

実はこの時、バンドの通訳アシスタントとして働いていた女性がいるのだが、彼女自身が大のQUEENファンだった。
何の運かその後、フレディーから来日の度に指名される指名通訳者になる。(1980年代、劇団四季の公演をお忍びで来日して見に来ていたのをFRIDAYにすっぱ抜かれた時も彼女は通訳として同行していた)。

私は彼女と1987年、とある音楽イベントの仕事を通じて知り合い、その後QUEENの話をたくさん聞いていたので、今回の映画を見ながら色々な思いを馳せた次第だ。
印象的な話の1つに、ある時期のフレディーは、本番直前の楽屋からステージに移動する際、彼が歩く通路の視界に男性がいてはならない(メンバーは除く)というルールがあったらしい。またステージ上ではマッチョに見えるが、プライベートでは女性のように繊細な人物でだったとも語っていた。

さて、人見知りの私にしては珍しく、彼女との友人関係は長く続き、還暦近くなってもロック系コンサートは彼女と行くことが多い。現在でも洋楽CDやインタビューの翻訳をやっているが、様々なロックミュージシャンと仕事をしてきた彼女や彼女の通訳仲間の話は、いつ聞いても「凄い」エピソードばかりで関心する。


話を元に戻すが、もしQueen
Bohemian Rhapsody”を知らないのであれば、音質はともかく一度、以下のURLにアクセスして自分自身で曲を確かめてからその先を読んで頂いたほうがいいかもしれない。当時も現代においても、ロックの範疇の中でも異端とされるこの楽曲が一筋縄ではないことが理解できるはずだからだ。
またこのYOU TUBEの映像は、当時の映像をアップしたものとみられるが、音楽史上初のミュージックビデオとも言われている。

https://www.youtube.com/watch?v=fJ9rUzIMcZQ


上記映像の監督のブルース・ギャワーズ(Bruce Gowers)は本作(ボヘミアン・ラプソディーのプロモ映像)の映像監督を任された人物だ。彼の人生はこの映像制作によって歴史に残ることになった。当時を振り返って彼は語っている。

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ブルース・ギャワーズ(Bruce Gowers


「当時はプロモーションビデオという言葉はなくて、ポッププロモって呼んでいたんだ。制作過程におけるミーティングでもバンド全員の意見が集約されていたが、やはりリーダーは彼(フレディー)だったよね。当日スタジオに行くと撮影の準備は万端だった。確か撮影開始時間は夜の715分位じゃなかったかな。撮影時間はだいたい45時間程度だっただろうか。
(注:実際は4時間と言われている)
あと、映像の途中でフレディーの顔が何重にも流れたように見える映像イフェクトは、セカンドカメラを使った映像のフィードバック効果を利用したものなんだ。」


bohemian-Effect1.jpg



ブライアンもビデオ撮影時についてコメントをしている。

「当時の我々はビデオ映像のイメージがあって、QUEENⅡのジャケットカバー写真を動画的に映像化したいと思っていたんだよ。仮編集が上がってから見たんだけど、最初は不思議な感覚だったが悪くないなと感じていたよ。」

queen[Ⅱ].jpg

QUEENⅡのジャケット写真はミック・ロック(Mick Rock)という写真家に撮影されたもので、写真の発想の源はマレーネ・デートリッヒの類似したポーズの白黒写真でそれをフレディーに見せたことだった。フレディーは写真を見たとたんに写真を気に入りそれで決まりだったという。

デートリッヒ.jpg


当時の撮影助監督ジム・マカッチオンが振り返る。
「当時メンバーはツアーのリハ中だったんだ。そこでリハが出来て撮影もできる場所として適当だったのは映画が撮影できるようなサウンドステージ(彼はこれを飛行場の駐機場のハンガーのような場所だと言っている)だったんだ。バンドのスタッフがステージを作り照明もセットしそこで撮影することになったのさ。」

撮影時の照明はバックライトとトップライトを組み合わせたシンプルなものだった。スモークを焚き、準備が整うと音楽を流し、メンバーそれぞれがビデオで見るような位置に陣取って座り、リップシンクでカメラに収まった。

撮影カメラマンのラリー・ドッドも振り返る。
「メンバーの顔を上向きにしてライトが当たるようにし、カメラは正面から捉えたんだ。撮影は大きなステージ上のほんの小さな区画だけで撮影した。基本的にはライブのリハ用に設置された場所だったからね。また1つ画面に複数のメンバーの映像が収まって見えるのは、特殊なレンズを使ったからでカメラの前に置くだけであの多重画像の効果が得られたんだ。」
ロジャーはコメントを付け加えてくれた。
「当時ではあれでも“特殊効果”だったんだよ。今じゃ考えられないレベルだがね。」

当時Queenは、レコーディング後にツアーを控えていたが、Bohemian Rhapsody”のオペラセクションをライブ演奏で完全に再現することは不可能だったため、ライブではその部分を音声付のビデオ映像と入れ替えるライブとシンクロして演出をして表現手段を取っていた。(日本での公演も同じ演出方法だった。)

当時としては信じられないような録音テクニックを使ってあの重厚で複雑なサウンドを構築したメンバーの創造性と実現性は現代になっても色褪せない。
私は1981年のQueenの武道館コンサートにおいて、上記のような演出の
Bohemian Rhapsody”のライブ演奏を見る機会に恵まれた。冒頭のコーラスが終わるとフレディーがピアノを演奏しながらエレガントに唄いだし、オペラセクションではテープに切り替わりながらもライブ演奏とシンクロし、ロックセクションからはフレディーがマイクを持って唄い始め、爆発したような演奏変化するのだ。この世にこんな凄い楽曲と歌の上手いヴォーカリストが存在するのかと目を疑うような驚くべきパフォーマンスだった。

(ウェンブリーアリーナでのライブ映像)
https://www.youtube.com/watch?v=oozJH6jSr2U


つづく


Part-2はこちら:
https://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2013-04-19 

 


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ダリルホール&ジョンオーツ Abandoned Luncheonetteの逸話 [音楽に関わるブログ]

本ブログでようこそ。以下の記事は海外に掲載されていた ダリルホール&ジョンオーツ Abandoned Luncheonetteの逸話を(勝手に)翻訳しまとめたものです。本名盤の裏側に潜む話、日本では一般的ではないですが、興味深いので少し長い記事ですが、本作が好きな方はお読みください。

 

ホール&オーツが40年を経て語る名盤“'Abandoned Luncheonette

1970年の中期、ホール&オーツのファンたちがケニルワースを走る724号線から雑林地域に少し入った場所に立っていた荒廃したダイナーを興味深々で捜していた時代があった。
結局のところ、ロックの歴史的遺物をお土産にしようとするファンの一団は、かつてポッツタウンにあり、長い間放置されていたロズデイル・ダイナーをバラバラにして持ち帰ってしまった。


Abandoned Luncheonette.jpg



ダリル・ホールはそのダイナーの一片を今でも持っている。

「ファンの連中は世界各地からやって来ていた。ダイナーの持ち主には申し訳ないことになったが、連中はダイナーを破壊し、一片一片はぎ取って持って行ってしまったんだよ」とダリルは語った。
「誰だったか忘れたが、ファンの誰かがずっとあとになってその一片をオレにくれたんだ。おかしな話さ。」

実際おかしな話だ。しかし40年を経てこの話は地元だけでなく、ダリル・ホール&ジョン・オーツというロッンロールの世界で最も成功したディオグループのファンにとっても象徴的なものになった。
この古きロズデイルダイナー、かつてポッツタウン(ペンシルヴァニア州)のハイストリートにあって営業をしていたロズデイルダイナーは東コベントリー群区の街はずれに引っ越し、ホール&オーツのアルバム“Abandoned Luncheonette”のカバー写真を飾ることになった。

Abandoned Luncheonette,”と命名されたこのアルバムは、ポッツタウンのオーエン・J・ロバート高校を卒業したホールと、北ウェールズの北ペン高校を卒業したオーツの地元ミュージシャンをスタータムに押し上げることになる。
1973
年の発売から40年もの時が経過した今でも両名ともこの作品を誇りにしている。特にオーツは個人的にこのアルバムをもっとも気に行っている。

ナッシュビルで行われたオーツのインタビューの中で、このアルバムにはとても特別なものがあるんだと語っている。

“あのアルバムには物凄く特別な何かがあるんだよ”とオーツは最近ナッシュビルでのインタビューに答えている。
“ああいう感じのアルバムは計画して出来るものじゃないんだ。でも出来てしまったんだよね。実際に、現在に至るまでボクはあのアルバムの曲を演奏しているし、今でも曲を書いた当時と同じくらい素晴らしいサウンドをしている”

両者ともダイナーの存在がアルバムのマーケティングに大きな寄与をしていることを認めている。まだハイストリートにダイナーがある頃、ポッツタウン生まれのダリルは少年時代両親にロセデイル・ダイナーに連れていったもらった記憶があるという。ダイナーの所有者はタリマッジ・W・“ビル”フォークと言った。

フォークがダイナーを占めたのが1960年代中期。彼はポッツタウンの数マイル外にあり彼が所有する724号線沿いに建物に移築したんだ。その場所の近くにはダリルの祖母が住んでいた。

Rosedaile.jpg



ホール&オーツの2枚目のアルバムにはホールが書いた“Abandoned Luncheonette.”というタイトル曲が入っている。
「もし歌詞を読んでもらえれば分かるだろうが、子供心に強者のみが生き残れるって感じていたんだ」とホールは近年のニューヨークのインタビューで語った。

「ボクは挫折は大きいほど次への一歩の原動力となり、小さな挫折では立ち止まってしまうという事をテーマにしたんだ。
つまり、自分の人生は自分で何かを成し遂げなくちゃならないってことなんだ。とにかく進むしかないんだよ。少なくともボクの場合はそうだったと人生が証明している」

ホールは曲の中で挫折しても、立ち上がって人生を送る人たちを描いている。
「最初は‘Abandoned Lives.’ってタイトルの曲だったんだ。挫折をして、同じ場所で堂々巡りして、生き方が下手な人々の事を曲にしていたんだよ」
ホールの説明ではアルバムのタイトルを決める時期が来た時、オーツが“Abandoned Luncheonette.”を提案した。そしてアルバムジャケットのデザインをどうすべきか検討している際、ホールはポッツタウンにある閉店して荒廃してしまった祖母の家の近くのダイナーを思い出したという。
「それでボクは、この場所は朽ち果てているから直ぐにでも写真家を連れて写真を撮ろうと云いだして実際にそうしたんだよ。でも現場に行ってみると、不法侵入で警察に放り出されてしまった。でも何とか写真を撮影することが出来て、それがアルバムのコンセプトになったんだ。曲から来たんじゃないんだ。コンセプトが決まったのは偶然の産物なんだ」

1983
127日、ポッツタウンにあるマーキュリーで新たな物語が生まれた。フォークは1973年の夏の当時を振り返り、当時二人の音楽坊やが俺の所に来て自分たちのニューアルバムの表紙の写真のためにダイナーの写真を撮影させて欲しいと承諾を得にやって来たんだと語ってくれた。
「一人は顔見知りだったな。ヤツはかつての俺みたいに貧乏だった」
フォークは1983年に語った際、ホールをそのように表現した。
「写真は撮っていいと言ったんだ。でも中には入るなと言っておいた。危険だからな。不慮の事故でケガをして欲しくなかったんだ。でも奴らは中に行っちまったけどな」
40
年後、オーツはこの話に信ぴょう性を与えてくれた。
「ボクらは殆ど押しこみのような感じでダイナーの中に入ってアルバムの裏に写っているような写真を撮ったんだ」

Back.jpg


Continued.

オーツはアルバムの写真撮影者で、“B. Wilson”とクレジットされている人物について付け加えた。
B. Wilson”とはバーバラ・ウイルソン(Barbara Wilson)のことで、当時のオーツの彼女だったのだ。彼女は学生で、後にフィラデルフィアの芸術大学で学ぶことになる。オーツによると彼女の学校時代の先生はアルバムのジャケット写真の作業を担当してくれて、手作業で着色したような雰囲気を作り出してくれたのだという。
「今振り返っても最高のアルバムジャケットだと思っている」とホール。
「とにかくイメージにピッタリに仕上がった。本当に芸術的だと云えるし、他のアルバムと比べても全く遜色ない出来だと思う」

ビル・フォークは“ランチョネットは724号線のあの彼によるご厚意”とクレジットされた。
ダイナーはポッツタウンの名物となった。
ホール&オーツが名声を高めて行くに従い、ファンが押し寄せお土産とばかりにダイナーをはぎ取って行った。そのためダイナーの荒廃を促してしまったのだ。
1983
年、ホール&オーツの代理人がダイナーを買い取る交渉をし始めたと地元新聞のマーキュリーストーリーが伝えている。

「売ることに異議はなかったよ」フォークは言う。
「何年もの間にファンが押し寄せて壊して行ったんだからね。彼らに買ってもらった方が良かったんだよ」
しかし交渉はとん挫する。1983年までにはダイナーの状態は最悪だったからだ。
「あの音楽坊やたちが成功して喜んでいるよ」とフォークは語る。
「彼らはサイン入りのアルバムとTシャツを贈ってくれたよ。その後もファンが押し寄せてダイナーのかけらを欲しがるので、いつも奴らを追いまわして追っ払っていたがね」
ホールは彼とオーツがダイナーを買い取りたいと思っていたのかどうかやどの程度興味を持っていたかについて、はっきりと記憶をしていないと語る。
「言ったのかもしれないねえ、買って手元に置きたいと思ったんだろう」とホール。
「ただ、当時ダイナーのオーナとの関係性は必ずしも良好じゃなかったんだ。敷地が荒らされたことでボクとジョンを責めていたしね」Continued...

東コベントリーにあったトーパス公園の入り口に鎮座し、1980年にリッジという会社による管理焼却によって廃棄されたダイナーの元オーナーのビル・フランクは2007年に亡くなった。

ホール&オーツを死ぬほど好きなファンなら知っておきたくなるような“Abandoned Luncheonette”に収録されているオーツの筆による“Las Vegas Turnaround.”についての逸話を紹介しよう。

オーツによれば、フライトアデンダント、当時はスチュワーデスと呼ばれていた人物に会い、1970年初頭のニューヨークに住む女友達のことでオーツとフライトアデンダントの間で話が弾んだというのだ。フライトアデンダントの名前はサラといい、彼女と彼女の友達が“Las Vegas turnaround.”をやろうとしていると話始めたという。

「何の話をされているのかさっぱり分からなかったよ」とオーツ。
「彼女たちは、ギャンブラーのグループをラスベガスに連れて行き、それでUターンして帰ってくるというんだ。それを聞いてピンと来たんだが、作曲家はこういう話題をピックアップして曲にしてしまうんだよ」

オーツは偶然にもホールにサラ・アレンを紹介するが、その後30年間に渡って彼らの関係は継続する。
彼女は1976年、デュオグループとしては全米初のトップ10に入り、最終的にトップ4に輝いた曲“Sara Smile,”のモデルとなった。
オーツとは異なり、ホールは. Abandoned Luncheonette”をキャリアの中で最高の作品だとは思っていない。しかし・・・。
「人生において興味深い経験をしたことだけは確かさ」とホール。
「それはあのアルバムが好きだというのと同じ位の意味なのさ」

2015年10月、久々の日本公演を武道館で見た。会場の盛り上がり方は近年見ない感じだった。WOWOWでも生放送されたようだが、She's Goneが演奏された時は本当に嬉しかった。生で聞くことはないかもな・・なんて思っていたからだ。
Abandoned Luncheonette”はいわゆる渋いアルバムの部類に入る。大学時代の私が初めてこのアルバムに触れた時、最初はちょっと取っ付き難い感じがあったのは事実だ。それでも”She's Gone”は光輝いていて、それを手がかりにアルバムを愛でたという訳だ。あれから40数年、メンバーは2名とも還暦を過ぎ、我々も50代中盤を超えた。

「良い音楽に恵まれた時代だった」。それは我々の世代に共通した認識だろう。


Abandoned Luncheonette Later.jpg


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英語の発音がキチンとしてない日本人歌手は何で無理して英語の曲を歌うだろうか? [音楽に関わるブログ]

 2020年から大学入試試験の英語は、民間の検定試験で代用されることになった。つまり、筆記試験に加え、リスニング、スピーキングの能力が問われる時代になるのだ。
高校の入試にもスピーキングが入る事になったとニュースされていた。

現役の学生さんには辛い時代だと思う。そうなると今後のティーンエイジャーたちは、それ以外の年齢層よりも英語能力が高い層になると予測される。そういう時代において、日本のミュージシャンが英語の歌を演奏(歌唱)する上で、どういう対応が必要なのかを考えてみた次第だ。

でも正直言うと、昨今の若者は英語の曲(洋楽)なんて我々の時代よりも聞いてないらしい。だっただ以下に書いてある事なんて、どーでもいいのかもしれないと最近は思い始めてきているが・・・。笑。それでも考えておいた方がいいと思う。

 

日本のミュージシャンの殆どはイギリスやアメリカの音楽の影響を受けた人が多い。しかし昨今の若い層は、クラブでも洋楽がかかると踊りが止まるとも聞く。洋楽の影響を大きく受けた私のような世代には哀しい時代になったと思うが、まあ仕方ない。

私の世代では日本語がロックという音楽の分野に合うのか?という議論が1970年代に起こり、洋楽ロックVS日本語ロックの不毛な論争にかなりの時間をかけ、花盛りだった。それは言葉の持つリズムが音楽に与える影響をヒシヒシと感じたからに他ならない。先に書いておこうと思い、この行を追加しました。

 

さて、それでも現代においても数多くの日本人ミュージシャンが「
英語の歌詞」で歌っている。若いロックバンドだって唄っている。中にはフルアルバムを英語にしているバンドや個人もいらっしゃる。

日本人にとって英語で唄うことは洋楽的なアプローチに一歩近づけるという幻想があるようだが、単に幻想だとも言えないレベルの人も多い。

日本人は文部省や日教組の陰謀なのか、高校までに英語の発音を適正に矯正されるような授業を受けないまま社会人になる。これはそもそも英語の先生がキチンした英語を話せないし発音出来ないという事情がある。

だいたい殆どの日本人はABCDの発音をキチンと出来ない。
理由は簡単で、学校の教え方が間違っていたからだ。

R、Lはもとより、「V」を”ブイ”「Z」を”ゼット”なんて教えているから訳が分からなくなる。ここから矯正しないといけないのはそもそも日本の英語教育が悪い。

r」「l」の発音の違いや「th」「v」など日本語にない発音や、「m」「n」や「p」「b」などの唇の動きが日本人に馴染まないものでもキチンと区別して発音するのは実際、結構な訓練が必要だ。

私は26歳で英会話の勉強を始めて、自己流で発音の矯正をシャドーイングの繰り返しでやったが、模範とした英語の話し方をクリント・イーストウッドにしたため、一時はぶっきら棒で聞き取り難い発音になってしまった。その後別の俳優をターゲットにして矯正し直して改善した。

自分の英語の勉強方法が意外にも的を得ていたと解ったのは最近で、『世界の非ネイティブエリートがやっている英語勉強法 』イェール大学助教授(著作者:斎藤淳氏)に学ぶ!!という著書を読んだ時だった。

この本に書かれている80%程度は自己流で取り入れていたので、ああなるほど・・と思った瞬間だった。それでも私の発音は未だに修正点が多い。


英語の歌詞をキチンと発音して歌うのは、実際結構難しい行為だ。矢沢永吉さんや
X JAPANが世界市場でレコードを出すために本場アメリカで英語の歌詞でレコーディングしたが、歌入れの際に発音のダメ出しにあって大変な思いをしたというエピソードは懐かしい。

しゃべる事が出来る人でも唄うとボロボロになる人もいる。これは慣れなので一定の訓練でどうにでもなるが、子供の頃から英語に慣れ親しんだ人たちと、後付けの教育で習得した人との違いではこうした事が生じる。

従って全く英語をしゃべれない人や英語で歌う訓練を適切に受けていない人が英語の歌入れをやると、はっきり言って何を言っているのか全く分からないということになる。


私は、日本のレコードメーカーのディレクターでこれに関して是正しようとした人を見た事がない。私が音楽業界で働いていた時代、レコーディングで英語の歌入れをしているのを見るのは悲惨な気持ちでスタジオにいたものだ。
「最後にはディレクターも本人も、別に正確じゃなくていいんじゃないですか?」なんて言い出す始末。その理由は、日本のファンはどうせそんな事、気にしないという理屈だった。

レコーディングの時にミュージシャンもディレクターもバスドラやスネアの音がどうだとか、喧々諤々と意見を戦わせるくせに、何故か英語の歌詞を唄う時は、ハードルが低い。

かの山下達郎氏は、「BIG WAVE」というアルバムで、作詞家のアラン・オーデイ(故人)に英語の発音を相当なレベルまで矯正してもらったとライナーに書いてあった。
彼はそのスパルタ教育によって過去の自分の英語の歌の酷さを如実に体感したと語っており、そのお陰で現在の英語の歌の質を担保できるようになったという。その後彼は、矯正以前に発売していたオンザストリートコーナーというアカペラのアルバムをリマスター時に全て歌い直して発売するほどで、この点について徹底した対応の経歴を持っている。

達郎さんは、特に外国マーケットを意識したミュージシャンではないが、作品の精度を高めるために必要な発音矯正への気づきはその後の作品におおいなるプラスになっていると語っている。

多くの日本人アーティストや関係者にとって、日本人の聞き手が英語の歌詞を聞いても意味が分からないから、唄っている英語が伝わろうがなんだろうが関係ないと思っているのは余りにも手を抜き過ぎじゃなかろうか?と思うが、これを読んでいる人の中にも、そんなのドーデモいいじゃんって感じに思っているのだろう。

つまりユーザーにとっては、英語的の語感だけで十分であり、英語の歌詞で歌うのはある種のファッションであり、発音や内容は関係ないという発想なのだ。

まあ、そういう考え方もあるかもしれないが、であれば別に英語じゃなくてスワヒリ語だってフランス語だって良いだろうし、タモリさんの四カ国麻雀的な英語で十分だともいえるはずだろう。何故英語でもないような英語を選択するのだろう?

これなら自分でデタラメな言語を作っても全く構わないだろうし、むしろ新たな言語を作って歌った方がクリエイティブだと思う。


私は2000年代に入って20代の甥が当時結構売れていた日本のロックバンドを聞いたことがあった。このバンドは全編英語の歌詞で歌うバンドとして有名らしく、実際に彼らは売れていた。
ある日彼らの楽曲を歌詞付きの映像で聞いて、唄っている歌詞が英語の字幕と別物と思えるほど理解不能だったので驚いた事がある。
私にとっては日本語英語を通り越して、意味不明だったのだ。

それ故このバンドは何故英語で歌う必要があるのか皆目理解が出来なかった。

これなら歌詞を*?★&%$のような記号にしてもなんらかの発音できれば全く同じ行為だろう。

日本人は世界的にみても英語を話せる人が少ない。
ある意味凄いことだと思う。
これほど西洋化に成功し、戦後アメリカの影響を受けたのに、日本で英語を話す事が未だに特別視されることは面白い現象だと思っている。

2021年辺りから小学生も英会話を正式な授業でやるらしいが、英語をキチンと話せない教員に習うのはかなり悲惨な体験になると思う。英語の発音について、世界中で様々な発音形態があり、それぞれの地域の英語の発音で良いだろうという意見も多いが、イギリス、アメリカの英語で習った人間にとって、地域訛りがキツイのはコミュニケーションとして辛い。外国人が日本語を習う際、発音はその地域の独特で良いと考えるなら、伝わり難い言語を奨励しているようなものになる。
従って私は、基本的に
イギリス、アメリカ人の標準的な発音ベースにすべきだと考えている。


さて、話は続くが、2017年にディーンフジオカ氏がミュージックステーションに出演し、英語の曲を唄っていたが、全く理解出来なかった。一般日本人的にはあれでもいいのだろうが、それにしても発音が酷過ぎないか? 昨今海外からの旅行者も多いが、仮にあの映像をホテルのテレビなんかで見られていたら、観光客からどう感じられていただろうか?と不安になった。

殆どの日本人にとって英語とは未だに意味不明な文字列のようだ。中・高6年間も英語の勉強をやって英語が喋れない事に怒りを感じている人は未だに多いだろうが、その影響は未だに日本のポピュラー音楽の中に根深く影響を及ぼしている。

洋楽離れもこんな所にあるかもしれない。私の甥に聞くと、歌詞が理解できないから洋楽は入り込めないというのだ。

確かに英語の歌詞は文化背景を知らないとピンと来ない部分もあるが、昔のロックファンは、ビートルズでもゼッペリン(ツェッペリンですな・・・)は辞書をひいて、分からないなりに一所懸命調べたもんだ。


仮に外国人が「語感的に唄う」日本語の音楽を聞かされたら、なんでこんなデタラメの歌詞で「歌う意義」を感じているのだろうかと思うだろう。
日本の音楽業界が未だにやっているのはそういうことなのだ。もちろんキチンとした英語で歌えるミュージシャンも数多い。しかし圧倒的にマイノリティーである。

別に英語に限らないのだが、外国語の歌詞で音楽をやろうとするなら、少なくとも伝えようとする意志を最低限度持って欲しい。もし歌詞を無意味な文字列にするのなら、IQの高い遊び位はやってほしいものだ。
日本人の多くが分からないから適当な発音で良いと判断するなら、やらない方がマシだろう。


アメリカのロックバンドのジャーニーの新しいヴォーカリストはフィリピン人のアーネル・ピネダだ。彼は故国フィリピンで極貧生活を強いられていたらしいが、YOU TUBEでニール・ショーン自身に見出されオーディションを経て正式メンバーになったシンデレラボーイだ。(実際は40歳を超えているが・・)

彼の英語のインタビューを聞くと正式な教育を受けた感じはしない。
しかし本業の歌は完全にアメリカ人や世界のファンに伝わる英語の発音をしている。フィリピン人特有の訛りがある彼は、かなりのメンバーから発音を矯正をされたのだと思う。しかし彼は同じアジア人で、もともと極貧生活から這い上がった人物なのだ。必要に迫られたとは言え、そんな彼でも本場で伝わる英語の発音で歌う事ができたのだ。

歌手であれロックバンドであれ音楽を人に伝えようとする人々は、それが日本語であろうが英語であろうがタガログ語であろうが、選択したらキチンと向き合うべきではないだろうか?
それが表現者としての伝える相手に対する最低限度のおもてなしだろうと思う。
英語の分かる人からすれば、伝えようとしない連中の歌は聞いていて地獄のように辛い。

そうでなければキチンと歌えもしない言語をわざわざ選択しなければいいだけなのだ。
私は歌詞をファッション的に考えているミュージシャンにはプロの臭いを感じない。

「プロ」だったら伝わるようにやるべきでそれ以外の選択肢はない。
仕事っていうのはそういうものだ。
私はそう信じている。
でも誤解しないで欲しい。英語の発音は、ヴォーカリストとしての能力としては、極一部であるという事を。


(2015年追加)


折しも日本の英語教育が変わろうとしてる。私の子供の時代から英会話問題はずっとあったが、いよいよ国を挙げて取り組もうとしているようだ。
小学校から公的な制度化で英語教育を施すことに議論はある。母国言語の未発達の子供に英語を教える弊害について私も感じるし、これ自体は実験的だなとも思う。
しかし、実用的でない英語教育を施され、社会に出てから実用を強いられた私のような世代にとって、実用に向けての取り組みは前向きだと思っている。
ただし、私の経験的に言える事は、日本の学校教育のシステムで本当に実用的な英会話能力を育むのは相当困難だろうということだ。
まず、教員の質が最大の問題だ。発音の悪い日本の教員に教えられたら元も子もない。また外国人教員でも英語に余り過度な訛りがある人は適当でないと思う。(もちろん実用の世界では様々な発音の英語が存在することは理解した上としてだが・・・)
また教育に割かれる実時間だ。実用的な会話能力を育むためには、実際に英語を使う時間や環境が必要となる。耳を育て、口を育て、英語圏の文化を理解するという過程が必要だからだ。公的な学校教育でそこまでするのは困難だろうというのが私の見方だ。

最終的にはこうした教育を入口にして、個人個人が実用英語を高めて行くしかないのだろうと思うが、それでも以前に比べれば進歩と言えるだろう。
(英語の普及の是非や公用語的に扱う事についての是非については、ここでは論じませんのであしからず)



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10cc  I’m not in loveのサウンドの秘密 [音楽に関わるブログ]

I’m not in loveのサウンドの秘密

 Producers: 10cc; Engineeer: Eric Stewart:

10cc - The Original Soundtrack[1].jpg

I'm not in liveが収録されたアルバム”The Original Soundtrack”

この記事にアクセス頂き感謝致します。
私が書いた記事の中では断トツのアクセス数(と言っても大したことはないのですが・・)で、I’m not in loveで検索すると上位ページに入っているのでちょっと驚いております。
昨今は、ロックはマイノリティー音楽になりつつあります。2010年代の若者にとってメジャーなのはダンスミュージックですから仕方ありません。まあ、当時の若者たちのロックは、今の若者たちにとってのダンスミュージックのようなものだったのでしょう。
それでも個人的には録音技術が究極的に発達した現代で、様々な事がパソコン技術で容易に解決できる時代の音楽よりも、手垢に塗れて創意工夫していた時代の音楽が好きです。

そういう意味で、I’m not in loveの録音・制作方法は、過去に例を見ませんし、Pro Toolsのような機器で同じ試みをやってもあのサウンドにはなりません。

私は1980年中期から1990年代中期の約10年間、シンセのプログラマーを生業としていた時期がありました。2000年代以降、この仕事で生きている人は数えるほどになりましたが、私の過去の経歴は諸先輩方が編み出した様々なレコーディング手法に興味を持たせてくれました。その中でも「I’m not in love」は特筆すべきレコーディング手段で完成された曲の1つと言って過言ではないでしょう。

さて、以下記載の記事は、海外の音楽専門誌に掲載されていた記事を元に、10ccというイギリスのバンドの不朽の名曲”I’m not in love”の制作過程の謎を解き明かすためにまとめたものです。
それまで誰も試みた事のない方法で作られた”あのコーラス音像”は如何にして制作されたのか? 
少し長いですが、ご興味のある方はお読みください。

当時の限られた技術の中で、これだけのアイデアを実現したイギリスのミュージシャンたちに敬意を表するためにも・・・。


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1975年に制作された10ccの“I’m not in love”は、ロック史に残る名バラードである。ポール・マッカトニーの“YESTERDAY”、ジョン・レノンの“Imagine”に匹敵する影響力を持つとも言える。
残念ながらこの記事をアップしている時点(2017年)において、年齢が40歳以下の人間には、本楽曲は既にあまり馴染みがないようです。
名曲を次世代に繋いで行くのはかように困難な時代とも言えます。

実は1980年代になった時点で、この楽曲のサウンド制作過程は、日本の音楽業界でも様々な噂と推測に満ちていたました。
特にあの分厚いコースは、一体どのように作られたサウンドなのか?、です。
最も有力だったのはメロトロン(以下写真参照)というテープ式のサンプラーを使用したというものでした。
だが情報の少ない当時でさえも、この説が必ずしも正しくないとされ、結局私はその後真実を知っている者に一度も出会った事がありませんでした。


mellotron_20131008[1].jpg

メロトロン(参考)

2010年代になってからBS-TBSで放送された「SONG TO SOUL」の「I’m not in love」の制作過程を解明した放送回で、この曲を作曲をしたEric StewartとエンジニアのDick Swettenhamの言葉によってその秘密が詳しく語られました。
もちろん海外で発行されていた音楽記事には既にその秘密に迫る内容が出ていたようですが、日本語で語られた資料は全くありませんでした。

残念ながらこの番組においてさえも、曲の背後に延々と流れるあの異様に厚い謎のコーラスサウンドが、具体的にどのような作業過程によって生み出されたかについては、部分的解説に留まり、中途半端な形に終わっておりモヤモヤ感が残りました。

それ故にどうしても具体的なレコーディング方法が知りたくなってネットを探しまくって様々に調べた結果、ある記事を見つけ出し、以下のような事実が分かったのでエリック・スチワートへのインタビューを中心にしたもの核にして、私の拙い英語力を駆使し記事を翻訳してまとめることにチャレンジしてみました。

ちょっと長い内容ですが、あの曲のサウンドの秘密を知りたい方は少々の忍耐力を以てお付き合いください。
記事の最後には、曲の後半に登場する、あの”女性のWisper声”の秘密も登場します。

なお、本来であれば、記事の翻訳とネットへのアップにはライターの許諾を必要と致しますが、本掲載においてそれらの手続きを経ていない事を予めお断りさせて頂きます。
当然だが、著作者から問題の提起があれば対応等をさせて頂きます。
また、昨今では、
元の記事があるWEBサイトへのアクセスが困難になる事態があり、特にこのような古い情報だが非常に有用な記事へのアクセス不能の事態が多数は知の引き継ぎの課題だと思っております。

ロックを聞いて育った団塊世代周辺と一世代下の私のような世代が次第に現役を引退する時代を迎え、ロックの情景が風化しつつある今、次の世代にこれらの情報を引き継ぎたいという身勝手な使命感と社会貢献を盾に、本掲載へのご理解を頂ければ幸いです。

いずれにしてもあと20~30年後(2017年時点から見てですが・・・)には、ロックに直接的な影響を受けた世代はこの世から殆ど消滅致します。寂しい限りですが流行り廃りには勝てません
・・。

また以下の記事には記事翻訳の他で私が知り得た情報や経験則を加味してございますのであらかじめご了承ください。



10cc I’m not in loveのサウンドの秘密(記事翻訳をベースとした文章):

見解の相違は破壊的だが、バンドを新しい高見に誘ってもくれる。
それは、エリック・スチュワートとグレアム・グールドマンの筆によるラブソングに10ccのケヴィン・ゴドレーが鼻であしらうように接し、スタジオで全く違うものに作り替えるよう主張した時だ。


1975年のサードアルバム「オリジナルサウンドトラック」のレコーディングにより、10CCはキャリアを一変させた。ザ・マンチェスターカルテットは、歌手とギター担当でマインドベンダーの元メンバーであるエリック・スチュワート、モッキンバードの元メンバーで、歌手でギターのウエイン・フォンタナ、歌手でギター、ベース担当のグレアム・グールドマン、元モッキンバードのメンバーでヤードバーズ、ホリーズ、ジェフベックやハーマンズ・ハーミッツの作品の作曲者であり、加えて芸術学校の元生徒であり多数の楽器の演奏家で歌手であるケヴィン・ゴドレーとロル・クレームらが「ホットレッグス」という名前の4人組のセッション集団として活動してする5年前に組んでいた。

エリック・スチュワートがストックポートの下町にある小さなデモ用スタジオを
購入した1968年、マインドベンダースは解散した。
グループの一員としてレコーディングする際、いつもコントロールルームに魅了されていたこともあり、彼のこの気前の良い施設購入の条件には、ノイマン社のU67真空管マイクも含まれていた。スチュワートは、ティアック社のステレオ装置を使ったデモ作りによってエンジニアの仕事を学ぶ事になった。


エリックは語る。

「サンレコードから発売されていた初期の(エルビス)プレスリーの作品が好きだったんだ。人間っぽい感じのディストーションサウンドや真空管マイクで録音されたヴォーカルがとても心地良かった。これら音をオシロスコープに突っ込んで見ると、波形に鋭いエッジ出て普通はダメだということになるんだが、その音が心地良かったし、自分のものにしたかったんだ」


60年代の初期~中期にかけて、ミュージシャンがたむろするレコーディング・スタジオやコントロール・ルームは神聖な場所だったんだ。簡単に入れる場所ではなかったね。部外者はミックスの完成までは絶対に入れてもらえなかった。私はそこに入りたかったしスリルを得たかったんだ。そこで私はあの場所になんとか近づかなくちゃと考えていた。それは夢だったが、いつの日か、自分のものにすると分かっていたんだ」


Neanderthal Man

ステレオショップの2階にあった新しいスタジオのオーナーは、スタジオ内にビルの食堂へ通じる通路をつくる必要に迫られたために、新しい物件を探さなくてはならなくなった。そこでストックポートにあった元兵器工場(の空家)を(見つけ出し)そのまま利用してカスタムのコントロール卓と新しいアンペックスの4チャンネルのレコーダーを設置してスタジオにしたんだ。

我々は、地元の銀行に行き、機材の購入と建物を賃貸するための金を借りる必要があったとエリックは回想する。アンペックのレコーダーはスタジオに設置され、最初に我々が録音することにしたのは、自分の墓標に刻まるだろうインスト曲の「Neanderthal Manネアンデルタール・マン)」だった。
この曲は
4チャンネルのアンペックスのマルチトラックレコーダー内にどの位のドラムサウンドを詰め込めるかという実験的な曲で、私はケヴィン・ゴドレイとロル・クレームの2人と録音に没頭していたんだ。当時はまだバンドとかではなく、特に意図を持ってやっていた訳ではなかった。ただミュージシャンたちが集まってグダグダと遊びながらの実験をしていただけだった。ゴドレイはドラムで正確なリズムを刻み、クレームがゴドレイの側で腰掛けに座って、オフ気味にセットしたマイクに向って“I'm a Neanderthalman, you're a Neanderthal girl, let's make Neanderthal love in this Neanderthalworld”って唄ったんだ」

(Neanderthal Man/as 10cc)
http://video.search.yahoo.co.jp/search?p=Neanderthal+man
 


「我々が録音を終えてミックスをし終えると、クレームが各トラック内のドラムの後ろで小さく聞こえる唄が、まるで遠くから聞こえる聖歌のように聞こえ、催眠的な効果を生み出したんだ。
すると、
Dick LeahyMary Hopkinとやっていたこの実験録音のデモが出来上がった直後にスタジオにやって来たんだ。
私がザ・マインドベンダースに在籍していた頃、彼はフォノグラムの元
A&Rマンの一人で、彼らの事は良く知っていたんだ。

Dickは我々に「最近何をやっているんだ?」と聞くので、私は、「まともな曲はやってないがこんなのならあるよと」作ったばかりのNeanderthal manを聞かせたんだ。
そしたら彼は椅子から転げ落ちんばかりに驚いて、「こいつは凄い、この曲を直ぐに買うよ」と言って、その場でディールを結んだんだ。彼は我々に対してかなり良い条件を提示してくれた。
(註釈:どうやら前金で
500ポンドの支払いを受けたようだ)。

その後、ムーグ・シンセのソロやパーカッションなどをダビングした。いずれにしてもこの作品はスタジオでの実験音楽だったけど、結果的にこの音楽が生み出した金によって当時の我々が欲しかった、Dick Swettenhamデザインのプロ用のコントロール卓「ヘリオス・デスク」と1インチテープ(3cm幅)を使った8チャンネル仕様のスカリーテープ機を買うことが出来たんだ。
Neanderthal manの)レコードは
1970815日にイギリスでリリースされ、チャート2位に輝いた」


→補足:ここでちょっとだけ「ヘリオス・デスク」について補足させて頂きます。2015年に発売された書籍「スタジオの音が聴こえる ~名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア 著者:高橋健太郎」には、この「ヘリオス・デスク」についての詳しい記載があります。
本著は非常にマニアックな本ですが取材を含めて素晴らしい内容で、心を躍らせながら読む事ができました。これの日本レコーディングスタジオ版を出して欲しいな・・と思ったほどです。(本当は自分でやりたい位・・・)

本著から少しだけ「ヘリオス・デスク」についての記載を引用させて頂きますと、この機器を作ったのはディック・スウェットナムというイギリス人でアビーロードスタジオの技術者たっだようです。その後オリンピックスタジオに移籍しオリジナルのコンソールを作り始めたとのことです。
70年代に入り外部資金を得てヘリオス社を立ち上げ開発を始め、第一号機はエリック・クラプトンに納品されたそうです。その後アップルミュージックやストロベリースタジオなどの納入され、ロック界を支えたコンソールの地位を得たようです。コンソールの色は全て異なっていたようで、クラプトン用はブラック、ストリベリースタジオのものは赤と同じものが無かったようです。詳しくは本書をお読みください。

スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア

スタジオの音が聴こえる 名盤を生んだスタジオ、コンソール&エンジニア

  • 作者: 高橋健太郎
  • 出版社/メーカー: DU BOOKS
  • 発売日: 2015/06/05
  • メディア: 単行本

 

(記事に戻る)

レコード会社の経営者であるジョナサン・キングが、商業的価値を見出すのはそれほど時間がかからなかった。グラハム 'GiGi' ゴールドマンがベースとして加わった後、キングは自身が経営するレーベルで彼らと契約し、バンド名を10ccと名付けた(成人男性が一回に射精する際に出す量が元だと言われている)。

1972年に発売されヒットした「Dona」は、ロル・クレームのファルセットヴォーカルをフィーチャーした50年代のドゥーワップ曲のカバー曲だった。その後リリースされた「Rubber Bullets」「Street Shuffle」「Silly Love」と「Life Is AMinestrone」は、1973年のアルバム「10cc」や74年の「Sheet Music」同様に成功を収めた。

しかしながら、バンドが文字通りにアメリカ国内のマーケットで揺るぎないヒットを放つのは、後述する
3枚目のアルバムと「I'm not in love」まで待たなければならなかった。面白いのは、懲りに凝った音楽制作をし、多重録音のヴォーカルを有し、皮肉めいた歌詞を持つ画期的な楽曲の誕生当初は、66年スタイルのボサノバ・アレンジの曲だったということだ。

エリック・スチュワートは語る。

「当時妻と結婚して8年程経っていたんだ。そして妻が私に、何故もっと“愛してる” って言ってくれないの?と言い始めたんだ。I’m not in loveの突拍子もない歌詞のアイデアは、この時の会話がヒントになっているだが、いずれにしても彼女との会話がずっと頭から離れなかったんだよ。
そして妻に、いつも“愛してる”って言い続けて、日常の挨拶のようになってしまったら、無意味なものになってしまうだろうって答えたんだ。そこで自分としては他の言い回しでこの問題への回答をしようと思い、それに一番近い感じの言葉が「
I'm not in love」だったんだ。曲中に巧妙に逆説的な意味を織りまぜて、何故私が妻と長い間、夫婦関係であり続けているのかを言いたかったんだ。

この逆説的な発想は非常に功を奏し、エリックと彼女は40年以上もの夫婦関係を続ける事になる。

エリックは追想する。

「最初に、ギターの出だしで、コードAのオープンのアルペジオのアイデアが浮かんできたんだ。それと同時にメロディーも頭の中で湧いて来た。そして「I’m not in love」という歌詞と結びついたんだよ。エリックは続けた。「アイデアが具体的になると、残りを書くのは容易だった。Stan GetzAstrud Gilbertoなんかのボサノバのシャッフルに乗せて、曲は浮かんでくる歌詞に合わせてスムーズに書くことが出来たよ」

そうなのだ。最初のI'm not in loveはかなりテンポの早いボサノバ調の楽曲だったのだ。この時のデモテープは残っていないようだが、BS TBSの番組では当時の演奏を再現した演奏シーンが登場して当時のオリジナルのアレンジを見せてくれる。しかしそれは現在我々が知る様なイメージの楽曲とは違う。

「曲の冒頭のI'm not in love, so don't forget it, it's just a silly phase I'm going through...に対応したコード進行とサビの感じがほとんど同時進行で決まってきて、メロディーも頭の中ではほぼ出来ていた」

そしてスタジオに持って行って他のメンバーに聞かせると、ベーシストでギターも弾くGiGiゴールドマンが一緒にやりたいと言ってくれたんだ。僕らはいつもペアで作曲をしていて、その頃のヒット作品は、ゴドレイとクレーム、そして私とゴールドマンというコンビで作られていた。また頻繁に双方のパートナーを交換し、曲を作ってもいた。私は“Life Is AMinestrone”や“Silly Love”をクレームと書いたんだが、パートナーを流動させることで、作品の新鮮さを保つことが出来た。

この方法は我々には効果的だった。当時ゴドレイとクレームはミニ・ミュージカル“Une Nuit à Paris”に取り掛かっており、スタジオを跳び回っていた。そこで私とGiGiI'm not in loveを完成させるために二本のギターで作業に入った。曲はかなり速いペースで仕上がったな」

記事補足:私の知り合いでロックミュージック系の通訳をしている女性が本作の日本盤を買った際、翻訳家が歌詞の文字お起しと日本語訳でit's just a silly phase I'm going through..」のphase」を「 face」と間違えていたと証言している。
これには理由があったようで、70年代において海外のレーベルから来る資料には歌詞テキスト情報が含まれていなかったため、翻訳をする人間は歌詞を耳で聞き取って英語歌詞を文字起ししてから翻訳作業をしていたからだという。
歌詞は時によって発音が曖昧な場合があり聞き取りが困難なのだが、彼女は、意味から推測すれば違う事くらい、分かりそうだけどねえ・・と語っていた。当時のアナログ振りはそれはそれでキュンとする。


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10cc in Strawberry Studios, 1975. From left: Lol Creme, Kevin Godley (at rear), Eric Stewart, Graham Gouldman

(記事翻訳)

「我々はまず既についているコード進行を決めるために意見交換を始めた。我々は普通というのが好きじゃなかったから、普通のポップソングやボサノバにありがちなコード進行とは一線を画すコードにしようとしていた。そしてお互いにこれはどうだ? あれはどうだ?と取り留めもなく意見をやり取りして、何とか出口を見つけたんだ。
2人のミュージシャンがこうした方法で作曲するのは非常に生産的だった。普段私は鍵盤を使って作曲するのだが、I’m not in loveは二本のギターで作った。そして皮肉な話だが、最終的なバージョンではギターがメインの楽器として使われず、コンソールにDIボックス(コンソールと楽器を電気的・音響的に最善の方法で接続するための機器)で直接繋いだギブソン335でリズムパターンを演奏するだけになったんだ。我々は、2~3日でこの作業を終了したな」

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ロル・クレーム(Lol Creme/1975)
2012年8月 The Producersの一員として初来日し
ビルボード東京でトレヴァー・ホーンらと演奏をする。


I'm not in love」は曲中に大サビを持っていない。GiGiは、1番と2番の間に、開放のEコードを使って、AGと移動しながらEが鳴り続けるオシャレなフィルを考え付いたんだ。とてもいい感じだったよ。私は結果的にこのフレーズはレコーディングの時にローズピアノで弾くことにした。美しいコード進行とサウンドだった。彼はまた次への予感を膨らませるために、Bを分母にしたAコードから通常のBコードに移行するコード進行を考えた。それで二番を書き始めたんだが、二人とも何か違う物になる感じがあった。

また、曲の最初の方にミドルエイトとなる部分も書いた。メロディーはかなり速く書けた。ただ、歌詞は“
Don't feel letdown, don't get hung up, we do what we can, we do what we must.”みたいなどうしようも無いものばかりで、二人で顔を見合わせて“それにしてもひどいなこりゃ”と言ったもんだ。

出来不出来とは無関係に、これらの言葉のいくつかは曲に残っている。元々エリックが彼の妻に言いたい事がたくさんあったという事から始まった話だから、歌詞の90%は彼に責任があったし、この中には、彼とゴールドマンが作曲したブリッジに繋がる3番への旋律である「Ooh, you'll wait a long time for me」という部分も含まれる。このリフレインは、一番最後のヴァースへと続くまでに4回繰り返されることになった」

GiGiは、私が書いた当初に考え出ていたコード概念から抜け出すような様々なアイデアを出して多大な貢献をしてくれた」とエリックは念を押すように語った。

GiGiは、(曲を)違う方向に誘ってくれたんだよ。さっき言ったと思うが、1番と2番の間のフィルにおけるアイデアや、“Ooh, you'll wait a long time”のブリッジを抜ける部分のコード進行、素晴らしいアルペジオの奏法のなど数えたらキリが無いほどだ。
誰かと長時間、曲を書いていると、こうしたような事が自然に起こるんだ。それで直感的に(こうしたアイデアが)イケルかどうかも分かるようになる。特に真新しいアイデアを考え出す必要はないんだ。
二人で唸ってアイデアをぶつけている間に、同じような衝動が湧き上がって来ているんだよ。

化学反応とも言えるね。ゴドレイとクレームは全く違う方法で書いていたようだし、違うアプローチで考えてもいた。エリックとゴールドマンが曲を完成させ、最初にケイ(スタジオの秘書)とクレームに
4分程度のボサノバ・アレンジのバージョンを演奏して聞かせ、2人はちょっと恥ずかしそうな感じで“なかなかいいね。キュートな曲だ”と言ってくれ、じゃあ、やってみようかということになった」

10ccのセカンドアルバム「Sheet Music」は、Neanderthal man の成功によって得ることが出来たスカリーの8トラックのマルチテープレコーダーとDick Swettenhamがデザインしたヘリオスのコンソール卓で録音された。次のアルバムとなる「Original Soundtrack」は、スカリーのマシーンを3M16トラックのマルチテープレコーダーに入れ替え、エリックはDick Swettenhamと共に、宇宙船のように囲まれたデスクの前に座れば、全ての操作が出来るようにした。
このデスクは、
16チャンネルの操作部分をセンターに置き、追加の8チャンネル分を右側に、そしてアウトボード類(レコーディングに必要な付属機器を収めたラック)を左側に配置した。
「アウトボード類は全てが
19インチラックに収まるようなものではなかったんだ」とエリックは説明する。

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ストロベリースタジオに設置されたヘリオス社のコンソール。24chの
インプットが装備された1975年当時の最新モデル。
しかしマルチトラックレコーダーのトラック数は16chの時代だ。
 

「小型のコンプレッサーやオーディオ&デザインとAPI製のEQユニット、またグラフィック・イコライザーなど役立ちそうな機材はなんでも周辺のあちこちに配置したな。何台かあったニーヴのコンプレッサー・モジュールはもちろんあったし、私が好きなDick Swettenhamの機材類もあったな。

思い出してみると、マイクなどはその辺りに放置状態だったし、かなり際どい状態だったかもしれない。でも色々と機材をイジッているとナカナカ味のあるサウンドになったんだ。私はよくギターソロを録音する際、これらの
アウトボード類にラインアンプをつないだりした。つないで音を出すと、マーシャルのオーバードライブやファズボックスを使ったようなものとは全然違う素晴らしいディストーションサウンドが生まれるんだよ。ゴージャスでうっとりするほどだったし、他にはない音だった

「私が宇宙船のように囲まれたデスクを注文した際、Dick Swettenhamが私に、マイク・アンプを調整しておいたぞと言うんだ。そしてきっと気に入るだろうと付け加えたんだ。私はフェーダー下げ、自分のギターを繋いでラインアンプの入力を上げてみた。しかし音が出てみるとヒドイものだった。割れていてボロボロの音で使いようがなかった。我々はオリジナルの黒色のデスクを地元の誰かに売ってしまったので、少なくとも1つか2つのマイク/ラインのモジュールを買い戻さなくてはならなかったが、買った連中は我々に売り戻そうとしなかったんだ。そうなると我々は自分たちで違う方法で10ccのスムーズでサステインのかかったギターサウンドを構築しなければならなくなったんだ」

ストロベリー・スタジオの18×18フィートの広さのコントロール・ルームには、JBLのモニターが置かれ、一番奥にはソファーが配置され、スチューダーのステレオ用のテープレコーダーは、60×30フィートの広さで、部屋を見下ろす事が出来るライブな環境になっている窓に下のデスクの前部にあった。
軍事関連の施設を改造したスタジオだったので、鉄製の柱だらけだった。エリックの表現を借りるならば巨大なメッカを模した映画のセットのような感じだそうだ。「私たちは全ての柱をカーペットで覆うハメになった。部屋そのものは元々音の反響を考えてデザインされた場所じゃなかったからね。たから自分たちが正しいだろうと思う方法で部屋のリフォームを行ったんだ。結果的には悪くなかったと思う」

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Graham Gouldman and Lol Creme, Strawberry Studios, 1975.
 

「ドラムのブースは、自分たちで作ったパーテーションで部屋を区切る時に使うような可動式のスクリーンを使用した。当時の私はスティーリー・ダンのスタジオサウンドにひどく傾倒していたからね。だからドラムを録音する際にはマイクを非常に接近させて、物凄くタイトな反響の少ないドライな感じのドラムサウンドを狙ったんだ。
実際、物凄く小さな部屋で録音した音もあった。グリン・ジョーンズというエンジニアがその部屋に入ると、“なんだこりゃ、反響が全くないじゃないか。俺はオフマイクのサウンドが欲しいんだ。ここはデッド過ぎる”」と言っていたのを思い出すよ。

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Kevin Godley at the drums.
マイクのセッティングは楽器に近く設置されている
 

「バンドは全く逆の方向の音を求めていたんだ。それに我々は、ドルビーではなくて、Dbxのノイズリダクションを使っていたんだが、これもスティーリー・ダンのサウンドチームが使っていたからなんだ。とてもいい機材だった。コンプをかけた時に出る、独特の感じがサウンド全体に良い影響を醸しだすんだ」

(参考)
スティーリー・ダンのレコーディングセッションについて書かれた著書である「スティーリー・ダン リーリング・イン・ジ・イヤーズ (著者:ブライアン・スィート)」によると、スティーリー・ダンは"Keity Lied"のレコーディングにおいてエンジニアの勧めもあって新しいDbxのノイズリダクションシステム使用したが、殆どレコーディングを終えた段階でDbxが機能しなくなり、マスターテープを再現出来なくなったらしい。メンバー、レコーディングエンジニア、メーカーによって機器の調整を行いあらゆる方法を試したが上手く行かず、結局メンバーはDbxの使用を諦めてしまったと言う。従ってドナルド・フェイゲンは、"Keity Lied"の音は、元々彼らが目指していた音とは全く違うと発言している。スティーリー・ダンのDbx使用によるサウンドクリエションは、日本の音楽業界でも有名な逸話だったが、裏にこんな悲惨な話があったとは当時知らなかった訳です。
ご興味のある方は本書をお読みください。特にスティーリー・ダンが生ドラムを正確にするために行った信じられない方法などが明かされており、相当面白い本です。

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「ゴドレイが持っていたオイスターシェルのラディング社製のドラムセットにノイマン社のU87をオーバーヘッドマイクを使い、D12をバスドラに、シュアー社のSM57をスネアの下側に、ノイマンのKM84をハイハットに配置してスネアの明るい音の部分を拾うようにしてコンプ(タイプ57)に送り、5つのタム全ては、ベイヤーのM88を物凄く近くに配置して他の楽器とは隔絶させ、ドライなサウンドを作った」

エリックは、「以前私は、5つのマイクをドラムの上にセットしたが、タムに設置したように近く(設置)した事はなかった」と続けた。

「全てスティーリー・ダンの影響さ。私自身が彼らに物凄くハマってたし、あのマイキングにもハマってた。音の全てが自分の直ぐ側で鳴っているような感じだった。ルームの音は全くなかったから、ドラムセットの直ぐ隣に座っている感じだね。ヴォーカルの音も驚くべきものだった。当時の彼らは、オシロスコープや様々な機材を経由した信号のタイミングに異常なほど神経質だったので、研究所的な感じになっていたけどね。しかしいずれにしても初期のドライなサウンドには傾倒してたなぁ」と回想している。

4人のメンバーはこの曲を早速録音し始めた。エリック・スチワートはコンソール卓の後ろに陣取りエンジニアを行い、他の3名のメンバーは、バンドとして演奏をした。グールドマンはリッケンバッカーのベースを直接卓に接続し、クレームは自分のレスポールをマーシャルの50に繋ぎ、ボリュームを下げ目にして、U67真空管マイクを立てて録音した。

「当時は皆、お互いに無遠慮な感じだった」とエリックは語る。

「考えられる事は全て録音した。しかし作業の終わり頃になるとちょっと残酷な面が出始めた。例えば“これって本当にイケテルのかな?”とか“こんなんでいいのかよ?”“これでハマってるのかな?”“どうなんだよ?”なんて言っていた。4人のメンバーがいたから多数決には3人の支持が必要だった。“このままやってみようぜ”“アルバム曲としてならいいんじゃないか”“これじゃだめだな”なんていう感じだったな。
いずれにしても
'I'm Not In Love'はボサノバ・バージョンで録音した。

しかしゴドレイとクレームは余り気に入っていなかったんだ。ケヴィン・ゴドレイは特に辛辣だった。
“クズみたいな曲だ”とか言うんだよ。私は“分かったよ。でも何か生産的な意見をもらえると助かるがねぇ、何かあるんだろう?”と言い返したんだ。そしたら“こんな曲、全く見込みがない。分からないのかい?、ただのゴミなんだよ”って言われてしまった。結局その通りゴミになっただけでなく、ボサノバ版は録音したテープまでも消去したんだ。当時はもの凄く腹が立ったんだよ。しかしバンド内の民主主義には勝てなかった。そこで我々は気持ちを切り替えて
'One Night InParis'の作業に入ったんだ」

「当時のスタジオには秘書のキャシー・レッドファーンとかエンジニアのピート・タテルサルなど様々なスタッフが働いていて、私がボツになった例の曲をスタジオのブース内で、一人で演奏していた事がキッカケで思ってもみない方向に話が進んだんだ。
ピートは我々が4チャンネルのスタジオを造った時のパートナーだったが、当時の連中はCoronation Streetやマリエル・ヤングのFive O'clock Clubなどの
テレビ番組のオカシなセッションをやっていて、地元のオーケストラのミュージシャンを使っていたんだよ。私には全く理解を超えていたが、ピーターがバタバタやっている間にいつの間にか私に仕事が押し付けられた感じになった。

ともかくストロベリー・スタジオを毎日歩き廻っていると、スタジオにいるスタッフらが
'I'm not inlove...'を唄っているのを聞くようになったんだ。
それでバンドのメンバーに、この曲には何かあるはずだ、でもまだ誰もそこまで詰め切ってない、この曲を失うのは嫌だ、だってスタジオの皆が気に入っているじゃないかって言ったんだ。
そしたら秘書のケイトが、“どうして皆、あの曲を終わりまで作らないの? 私はあの曲大好きよ。今までの中で一番イイわ!”って言ったんだ。これを聞いてもゴドレイは表情を変えなかった。もちろんその後再びメンバーで話し合ったさ。

そしたら信じられないことに、突然ゴドレイが霊感でも受けたような発言をしたんだ。彼は、“じゃあこうしよう、この曲をやるんなら、前のバージョンは完全にゴミ箱に捨てて、誰も今までやったことのないレコーディング方法でやろう。
楽器はなしだ。全部人間の声でやろうぜ”と言い、そして私は、“いいねぇ、それなら違いが出そうだ”と相槌を打った。ゴドレイは、全部アカペラでやろうとしたんだ」

私は「じゃあ、全部のバックを歌うとなると、何かガイドになる楽器がいるよね」と言ったんだ。
するとゴドレイは、「ああ、何かガイドになるシンプルなリズムを入れよう、バスドラみたいなものでもなんでもいいや。それにギターのコードを入れれば和声は分かるだろう。だがそれ以外は全部声でやろう」と言った。

私は「なるほど。4人全員で全ての声を担当するって事だね。でもどうやってやろうか?」

そう言うと、クレームが、「テープループを使うって方法は?半音階を全部網羅したエンドレスの声のテープループを作るんだよ」と言うんだ。
私は「なるほど、いいかもしれないな。しかしこりゃ大変な作業になるぞ」って思ったんだ。

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12音階を1音ずつ多重録音したものを
各音階毎にまとめたLoop用の素材テープ

~そして伝説的なコーラスが創造された~

「当時メンバー連中は、イカれたことばかりやっていたからね。このアイデアを聞いて、数時間自分の頭の中で反芻してみたんだ。それでなんとか物理的にテープループを作ってスタジオで作業できる方法を思いついたんだ。私はテープデッキの回転ローラーをマイクスタンドに設置したんだ。テープループは、声のループポイントが編集で繋がるポイント上で編集による小さなノイズを出すために、非常に長くする必要があったんだ。私はループの長さを極限まで長くし、編集ノイズの出るタイミングを減らすようにした。

私の言っているのは、12フィート(約3.6m)のテープが再生ヘッドを周回していたという事なんだ。スチューダーのテープマシーンのヘッドから出たテープは、テープマシーンの再生ヘッドの位置と水平の場所に設置されたマイクスタンド上の回転ローラーを経て再びテープマシーンの再生ヘッドへ戻って行くという具合だ。まるでベルトが延々と設置されたような工場みたいな感じだった。とにかく我々はマイクスタンドの下部にブロックを置いて、安定を確保しなければならなかったんだが、この方法はなんとか上手くのが分かった。

面白いのはここからで、16チャンネルのマルチレコーダーを使って作った多重ボーカルの素材録音作業なんだ。実際、各音階はそれぞれ16回づつ唄っている。従って1音階について3人の人間が16トラック分唄っていることになる。3人とはゴドレイとクレーム、そしてGiGiだ。ノイマンのU67真空管マイクの廻りに3人が陣取って“Aahhh”ばかりを3週間スタジオの中ずっと唄っていたんだ。3週間だぜ。我々は1音について48声をダビングして、13音階のスケールを半音階づつで作ったんだ。全部で624声という訳だ。さて次の問題は、この声の素材をどうやってマルチテープレコーダー上に録音するかということだった」

「私はまず、16チャンネルのマルチテープに録音された、1音階48声で構成されたものを1音階ずつの別々のループテープを作るために、ステューダーの2チェンネルのステレオテープレコーダーにミックスダウンしたんだ。
そしてテープのループを作り、
16チャンネルのマルチテープの別々のトラックに、1音階ずつ、約7分間に渡って録音して戻したんだ。素材の中にはちょっと音が外れていたり、タイミングがずれているものをあったが、こうしたことがまるでストリングスのセクションのようになり、音楽的には非常に素晴らしい効果を生んだんだ。素晴らしくゴージャスだった。ともかく13音階を13チャンネルに渡ってマルチテープに録音し、残ったのはたった3チャンネルだった。

3チャンネルの残存トラックの内、1つのトラックにバスドラと私の演奏していたフェンダーローズピアノとつぶやくように唄った大雑把なガイドボーカルを入れ、(曲の)タイミングを作った。ゴドレイは、ムーグシンセサイザーを使ってクリックのようなエッジの効いたバスドラの音を作った。この曲のマルチトラック上にはテンポのガイドになるためのメトロノームも何も入っていなかったために、ゴドレイが演奏するバスドラのタイミングは完璧でなくてはならなかった。そしてそれらの録音が終わると4人がかりでコントロール卓の前に陣取り、1人当たり34つのフェーダーを担当し、既に録音済みの13音階の声素材を曲のコード進行に合わせて全員でフェーダーを上げ下げすることで、キーボードのようにコードを演奏させ、残った2チャンネルの空きトラックにピンポンして2チャンネルの声だけのバックトラックを完成させたんだ。自分たちがやっていることがとんでもないことだって気がつくまでには相当な時間がかかったよ。もしこの声だけのコーラスミックスの作業が思うように上手く行かなかったら、全員完全に気力を失って何もやる気になれなくなっていたと思う。でも出来上がりは自分たちでもぶっ飛ぶものだったよ。その後、演奏用のトラックを明けるために、13チャンネルに録音された声の素材は全て消さなければならなかった。ダビングする予定だったのは、リードボーカル、実際の唄によるバッキングボーカル、ベースソロ、グランドピアノのソロ、卓に直接繋いだギブソン335によるリズムギターだった。

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The original master tape of 'I'm Not In Love'.

'I'm not in love'の最終的なトラックシート)

1-2ch:エレピ

3ch:ムーグベース

4ch:ギターリズム 

5ch:リード・ヴォーカル

6ch:ヴォーカルのエコー

7ch:なし

8ch:ミュージックボックス

9ch:ベースソロ

10ch:ミュージックボックス

11-12ch:バッキング・ボーカル

13-14ch:バッキング・ボーカル LOW

15-16ch:バッキング・ボーカル HI

「幸運にも我々は録音を上手く終える事ができた。ヴォーカルもかなり早く録り終えた。そして全員コントロール・ルームの一番後ろのソファーに座り、これは本当の話なのだが、3日間に渡ってこの曲をずっと聞いていた。私はゴドレイや他のメンバーの顔を見て、“俺たちは一体何を創りだしてしまったんだろう? 凄過ぎるよな”とつぶやいた。自分たちが創りだしたものが、正に一線を画していて、人生で一度も聞いたことのないシロモノだっていうことは自覚していたよ。ビーチボーイズは素晴らしいハーモニーが売りだが、私の知る限り、我々のような方法ではやったことはなかったはずだ。我々の創りだしたサウンドは非常に傑出したものだったんだよ。何度か行ったピンポン(録音したある複数の音を別のテープにミックスしてコピーする作業)ですら、サウンドを特徴付けることに貢献し、毀損をしなかった。我々がコントロール卓の前で四苦八苦しながら声のミックスを2チャンネルに戻した際、各フェーダーの下部にガムテープを貼りつけてフェーダーを下げる操作をしても、最下部までには行かないように固定したんだ。つまり、コーラス素材の各トラックには、例えばサッカーの試合でシュートシーンがなかなかなくて、選手がボール廻しをしているような時の観客がシーンとしているよな時に出ているような無音ノイズ(ヒスノイズ)がずっと入っているんだが、各フェーダーのボリュームが一定量で音が出ている状態になっていたため、入っていた無音ノイズがそれぞれのトラックから薄くなのだが、出ている状態になっていたんだ。曲の冒頭を聞いてもらうと分かるが、バスドラが入ってくる辺りから無音ノイズが聞こえ始める。そしてこのノイズは曲の全編に渡って入っていることになる。我々は意図せず普通なら排除すべきヒスノイズを創りだしていたことになるんだ」

「低音部の声の音は、チェロのような響きを持っていた。テープループの再生速度を通常の半分程度にしてみると、人間の声は本当にチェロのような音と同じになるんだ。喉から出るゴリゴリしたような音が、弓に松脂をつけて弦に叩きつけで弾いた時のような音なんだ。信じられなかったよ。我々はこの音をアルバムの中で頻繁に使用したんだ。「Blackmail」って曲では、チェロサウンドがゴッゴッという感じの速いリズムで全編に渡って聞こえるはずだ。このチェロこそは、例の声を再生速度を落として使ったもので、2つのフェーダーを使って出し入れしてリズミカルにしたんだ。本当にいいアイデアだったし、上手く行った。

1977年にゴドレイとクレームがバンドを去るまでの10ccの契約は、興味深いものだった。というのは、誰が曲を書いたにしても楽曲の印税を4等分と決めたんだ」とエリック・スチワートは語る。

「この契約の利点は、ベスト盤を出すような時にだけ発揮された。バンド全員が利に預かれるからね。今までthe drummerbless himなどの色々なアルバムを聞いてきたが、それら全部が作家先生たちによる曲でギッシリだったんだ。でもこういったアルバムは大抵酷いもので、ゴミ箱行きだったな」


驚くに当たらないが、曲のミックスは1日半程度が掛かる予定だった。しかしながらその間にもエリックは、自分のヴォーカルを真空管マイクのU67で録音しなければならなかった。リヴァーブやEQはなしで、もちろんだがコンプレッサーもかかってない。

「この曲は、冒頭から最後まで誰かが後ろで唄っていたために、いつもとは全然違う感覚だった。また自分の声と背景の声の感じを1つにしなければならなかったんだ。そのため、ヴォーカルマイクにはコンプレッサーをかけなかった。それでも特に唄うことに障害はなかったよ。1度唄った後、何箇所かをパンチインで修正しただけさ。'It's because...'というバックコーラス部分はゴドレイとクレームで可能だった。彼らの高音は素晴らしいからね。それでここの旋律は4回ダビングしたんだ。この段階で、曲にはベースやそれに類するものが存在していなかった」

「私の左手がフェンダーローズでベースラインを奏でていたんだ。左手はオクターブで演奏していたし、それは私の通常の奏法だった。それで十分だった。ベースギターを入れる余地はなかったな。でもそんな時、ワイルドなアイデアが頭に浮かんだんだ。ベースのソロを入れるのはどうだろう?って。バラードの曲にあうかぁ?とか。マニアック過ぎないかな?なんて考えていた。でも結果的に曲を引き立てるのに最高のアイデアだった。これは、ずっと誰もやっていないことを探し続けていたことによる結果だった。

嘘じゃないが、我々はこうしたアイデアを出すためだけに数日もしくは数週間を費やすことだってあるんだよ。ゴドレイとクレームの
2人は事あるごとに“他人と同じ事はやりたくない”と言い続けていたからね。例えば、バスドラを録音するためにスタジオを駆け巡って床から壁にあるもの全てを叩き続けたりするんだ。結果的にバスドラを通常の楽器にする場合でも、少なくともこうした取り組みは必ずしていた。こうした過程によってユニークなサウンドが出来上がったんだ。他に無いサウンドで、幸運にも大衆を納得できるとしたら、これ程の喜びはないだろう。'I'm not in love'はまさにこれを実現したんだ」

「ベースのソロを録音するため、GiGiはコントロール・ルームに入ってきた。私は彼のリッケンバッカーを直接DI経由で卓に繋いでDbx-160を使ってコンプをかけて質感を落とさないようにした。タイトで張りのある強いサウンドだ。GiGiはソロの演奏を始めた。我々は卓の側に座った状態であれこれと試しながら骨格を固めて行った。試行錯誤の末、ある程度まで全体の感じが掴めるところまで出来た。しかし何度も聞き直していると、何となく私の頭の中で本当にこれで大丈夫か? まさか曲を台なしにしたんじゃなかろうかという疑念が拭い去れなかったんだ」

「実はずっと読んでいた“反論に対する対処法”っていう本があったんだ。それでスタジオの中にダンボールにクレヨンを置いて、各メンバーが個々に自分の意思や意図に合わない状況が起こったら、そのダンボールに'Stop' 'Next'を書いてスタジオの窓越しに掲げるって言うルールを作ったんだ。そしたら例のベースダビングの時、誰かが入ってきてそのルールに従ったんだが、そこに書かれていたのは“なんて事しやがったんだ!(How dare you)”って書いてあった。この言葉はその後バンドの曲のタイトルになったものだが、その理屈はこうなんだ。

何故私がこのような行為をするのかという事について、事前に私との間でコミュニケーションをとっていなければ、なんて事しやがったんだ!”って言われた私は、かなり傷つく訳だ。アイデアを却下する前に、まずトライを優先させるべきだのだよ。我々はダンボールのアイデアを葬ることにしたんだ。ゴドレイはずっと止めなかったが。彼は本筋とは違う所にいて、このお陰でいつも凄いアイデアを持っていた。だから彼を止めることが出来なかった。彼はアイデアが必要な時に行き詰っていると、いつの間にか小さな黄金の砂粒を出してくれるんだ。

それで
'I'm Not In Love'をプレイバックしている時、ゴドレイは、まだ完成してないぞ、まだまだだって言っていたんだ。私が彼の言葉で覚えているのは、“この次にトライするアイデアは? ベースソロをこのままにするのか? 一体どうしたいんだ?”ということだった。我々はずっと考え続けていて、クレームが覚えていた事なんだが、彼が床に寝そべってスタジオのグランドピアノのマイクに向って、'Be quiet, bigboys don't cry'言ったことなんだ。

どんな理由だったかは全く分からないがね。それで全員がこのアイデアは面白そうだと感じたんだ。但しふさわしい声と話し方を誰にするかという問題は残ったが。丁度その時、秘書のキャシーがスタジオに入ってきて、顔をのぞかせると、“エリック、邪魔してごめんなさい、貴方宛の電話よ(訳者註:多分英語では”Eric,Sorry to disturb you but you got a phone.”だろうか)”って言ったんだ。クレームは飛び上がらんばかりに“この声だ!求めていたのは彼女の声だ”って言ったんだよ」

classic7kathyredfern.l[1].jpg

ストロベリースタジオの秘書だったKathy Redfern。
サンバ・ヴァージョンのI'm not in loveに対する
メンバーへの彼女の情熱的な助言がなければ
I'm not in loveは
この世に生れていなかったかもしれない。
また彼女は、メンバーの要請でベースソロの個所で
ウイスパーなセクシー声・・・
”Be Quiet. Big boys don't cry”を囁いて名曲に華を添えた。
声の印象通り、美しい女性でしたね。


「我々はキャシーをスタジオに入れて例の言葉をささやいてもらった。例のベースソロの直前に入れたんだ。彼女の声は素晴らしくフィットした。曲が天の啓二を受けたような気分だったな。こんな感じは今までに聞いた事がなかったし、曲のオリジナリティーを高めてくれた。キャシーは当惑していたけど。スタジオに入りたがらなかったしね。なんとか彼女を引き込んで、口八丁手八丁で説得した。ささやくだけでいいんだ、心配ないって。唄う訳じゃないし、ただ話すだけさとね。いつも電話口で話しているような感じでいいんだってみたいに。曲の中で聞こえるように、彼女の声は本当に素晴らしかった。加えて彼女もゴールドレコードを獲得したんだ!」

「最後に付け加わえる話があるんだが、'I'm Not In Love'で最後にダビングした音は、曲の終わりでフェードアウトして行く時に聞こえる子供用のオルゴールの音だった。キャシーに頼んでプラスチック製の簡素なものを買ってもらい、クレームはドラムセットに座って、私がドラムのオーバーヘッドマイクを使って録音している間、頭の上でそいつのネジをゆっくりと巻いて鳴らしていたんだよ」

「ゴドレイの'I'm Not In Love'への当初の反応にはちょっと驚かされた部分があったが、曲に新たなチャンスを積極的にもたらしただけでなく、効果的な思考によって革新的なアイデアを生み出した。しかしながら、ゴドレイがスタジオのスタッフの意見によって図らずしも意思を変え、あれ程嫌っていて却下までした当初の甘ったるいサンバ調のアレンジだったものが、出来上がりは全く違う曲になったんだ」

スチワートは推測する。

「ゴドレイはただ座って“どうやって人とは違うものを作り出せるのか? どうやって自分はこの曲を感傷的にならないように出来るんだ?と考え続けていたに違いない。それで彼は、アカペラのアイデアを思いついた。素晴らしいアイデアだった。全く彼の頭の中で、素晴らしい化学反応が起こったんだよ。レコード会社の幹部が最初に曲を聞いた時は、かなり喜んで色々と感想を言っていたが、シングル曲にすることについては躊躇があったようだった。彼らレコードメーカー的な思考では、バラードで6分を超える曲だったことがネックだったようだ。ラジオでかけてもらうのに都合が惡かったからね。だったら'Life Is AMinestrone'にするか!って感じで、実際にそうしたんだが、イギリス国内では本当にヒットしたよ」

しかしながらエリックはその後、ミュージシャンのロイ・ウッドを含む多方面からのテレグラムを受け取ったのだが、その内容には、'I'm Not In Love'の歌唱を褒め称え、シングルとして出すべきだとの進言があった。周囲はこうした意見に賛同しており、他のレコード会社からの発売という動きもあったが、マーキュリーは依然リリースについて堅くなであった。

BBCは私に編集したらどうか?と問い合わせてきた」とスチワートは回想する。「私は拒否したんだ。そんな形で出せる訳はない。私の考えでは、傑作の肖像画の半分を塗りつぶすようなものだった。どこをカットするんだね? 頭かい? そうであるにも関わらず、残念なことだったが、彼らは我々にピアノとベースのソロがある中間部をカットして66秒を410秒にするように私は説得させられたんだ。ソロ部分だけで、1分半、またエンディングのフェードアウト部分で30秒かそれ以上をカットした。結局レコードのヒットチャートの結果は28位だった。その後、BBCは大衆やメディア連中のプレッシャーの高まりに応じてノーカットでオンエアーを開始したんだ。そしたらチャート1位になったんだ。最後に正義は勝つってことさ。それに相応しい曲だったし、自分も含め、メンバー、一丸だったことを誇りに感じているよ」

「要するに、この曲は、ゴドレイの却下から蘇り、レコード会社やラジオ局の干渉にもめげなかった訳だ。アルバム「オリジナル・サウンドトラック」が1975年の春に発売されてから、25週間に渡ってビルボードチャートに入り、'I'm Not In Love'がイギリスで1位になっただけでなく、アメリカでも2位となるこで世界的なヒットを実現した」

それにも関わらず76年発売の”How Dare YOU!”は、ゴドレイとクレームが自分たちが開発していたギターディストーション・アタッチメントの一種、“ギズモ”ビデオ制作にフォーカスし始めたためバンドから脱退した。スチワートとゴールドマンは、1983年までバンドを存続させた。90年代中期までに発売された2枚の10ccのアルバム“Meanwhileや“Mirror Mirrorの舵取りをし、自身も参加する以前のスチワートは、“Sad Café”やアバの“Agnetha”のプロデュース、数年間に渡るポール・マッカトニーとのコラボレーションなどを行った。この時の再結成は4人のオリジナルメンバーが集結した。

「再結成はスフレを温め直すのようなものだった」とフランス、ドルドーニュ地方でスペイン生まれのベルギー人アーティスト“Pascal Escoyez”のプロデュースを半地下構造の素晴らしいスタジオで行っていたエリックは語った。

実を言えばアルバム”Meanwhile”は、
契約書に開いた穴が原因で出来たようなもんなんだ。ゴドレイとクレームが、ポリグラムの契約から開放される条項があったのからだ。それは彼らが私とグラハムと一緒に再び仕事をする場合、ポリグラムは2人との契約を解除する内容のようだった。そのお陰で再結成が可能になった。残念ながらジェフ・ポーカロをドラムにし、ドクタージョンをピアノとヴォーカルにするというアイデアを妥協しなければならないという面があったが」

「何年か後、私はゴドレイに“何故10ccを辞めたんだい?”と訪ねていると、彼は、“"I'm not In Love" "Blow me down"のようなクズみたいな曲をやりたくなかったんだよ”って言うんだよ。でも最近聞いた所では、70年代に活躍し成功したアーティストを讃えるために贈られた“Ivor Novello”という賞をもらったんだが、誰かがゴドレイに同じ質問をしたらしいんだ。そしたら“ああ、あの曲は当時嫌いだったよ。でも、あの曲を自分が書いていたとしたらと思う。だって10ccの作品の中で、最もヒットし成功した曲だからな”と言っていたそうだ」

確かにゴドレイはこの曲を書いていないが、アカペラを主体としたサウンドを構築して他の楽曲とは異なるサウンドを作り出そうとする彼のアイデアがなければ、この曲は全く違ったものになっただろう。彼のアイデアは楽曲を生みだした事に匹敵するほどの貢献があると言っても過言でない。

'I'm not In Love'は、ストロベリー・スタジオの当時の秘書だったキャシー・レッドファーンらの無垢な情熱によってこの世に蘇ったと言える。
こうして考えると曲の命運とは分からないものである。そして偶然にも曲中に使用されている、ささやくような声は彼女の声であり、女神の声は今でも私たちを楽しませてくれるのである。

名曲はかのように生まれ、この世に残って行くのだろう。

そう言えば、これは漠然とした私の記憶によるエピソードだが、発売当時、日本のレコード会社にはオリジナルの歌詞が送られていなかったという。当時はそんな資料が海外から来なかった時代だったからだ。
従って初版のレコードの歌詞カードは通訳者や外国人などによって行われた耳による聞き取りだったため、本楽曲の冒頭の「I'm not in love, so don't forget it, it's just a silly phase I'm going through」の「phase」は「face」として掲載されいたと聞いた事がある。
日本語訳すると意味が繋がらないが、当時の人にとって「silly phase」を聞き取るのは容易でなかったことは非難出来ない。昔はそういう時代だったのだ。

I'm not in liveの大ヒットから約2年後、まだメジャーなヒット作品を世に出しきれていなかった一人のNY生まれミュージシャンが”Just the way you are”という曲を作る。当時の妻の誕生日パーティーへの出席を忘れ、遅れて来場した彼が妻への罪滅ぼしのためにパーティー会場で即興で作ったと言われている曲だ。
その中で彼は、I'm not in liveと全く同じ手法を使ってバッキングコーラストラックを作っている。彼の名前はビリー・ジョエル(Billy Joel)。
本作のレコーディングは、彼の周辺のミュージシャンからかなり反対意見があったようだ。それは曲がメロー過ぎるという理由だった。
それはさて置き、このトラックの制作方法は、当時のプロデューサーだったフィル・ラモーンのインタビューでコーラスの録音方法にI'm not in liveと全く同じ手法を使った事が明らかになっている。

「Just the way you are(邦題:素顔のままで)」にはI'm not in liveへの尊敬と愛情の念が満ち溢れている。
また当時の彼らは、この楽曲のコーラスがどのように作られていたかを100%知っていたことになる。
そして、10ccの記憶を紡いだビリー・ジョエルは、この楽曲が入ったアルバム”Stranger”でメガヒットを飛ばし時代に寄り添うアーティストとなる。

残念だが1980年代以降に生まれた世代では、上記の2曲を知らない人々が意外に多い。当然と言えば当然かもしれないが、時代を紡いだ名曲の断裂は残念でもある。
特に10ccについては殆ど知らないという若者が多い。
確かに10ccはポピュラーなバンドじゃないかもしれない。しかし70年代~80年代にかけて彼らが残した功績は大きく、実際、名曲も多い。
音楽は時代に寄り添っている部分も多く10ccのようなバンドが進む独自路線と相いれない部分があるのは致し方ないとも言えるが、こうした名曲の存在を次世代に引き継げぬままに新しい世代が時代がテイクオーバーしてゆくのは何とも寂しい限りだ。


尚、上記と殆ど同様の内容は以下のサイトで英語で読むことが可能なはずだ。但し場合によってはアクセス不能になるかもしれない・・・:

CLASSIC TRACKS: 10cc 'I'm Not In Love'

http://www.soundonsound.com/sos/jun05/articles/classictracks.htm 


I'm not In Loveというそれまで誰もなしえない方法によるコーラスアレンジとレコーディングによって構築された楽曲が生まれた1975年、同じイギリスではもう一つのロックグループ「QUEEN」が、やはりそれまで誰も成しえなかったアレンジとレコーディングによって名曲Bohemian Rhapsodyを世に送り出した。
全く同時期にコーラスを多様した全く違うアプローチの名曲がイギリスから生まれたという偶然に驚かせながら、そのレコーディングについても以下のように調べてみたのでご参考に読んで頂きたいと思っております。

(関連:QUEENのボヘミアンラプソディーのレコーディングに関してまとめたブロク記事)

http://skjmmsk.blog.so-net.ne.jp/2012-10-02


さて、誠にウレシイ話なんだが、このブログの記事を読んで、実際にI'm not in loveを再現レコーディングした「ササニシカ」という日本人ミュージシャンたちがおります。以下がその映像です。凄い気合い入っていて結果も凄いです。

https://www.youtube.com/watch?v=Q7H_-x_jiDI

ササニシカ公式WEB:

http://sasanishika.web.fc2.com/sasanishika/top.html 


長い記事を最後までお付き合い頂き恐縮です。
I'm Not In Loveは、ある意味でアナログ時代の録音方法でしか作れないものだと思う。
現代では定番の録音機、Pro Toolsで同様の試みをしても、あの独特なアナログコンプレッションや混沌とした風味を生む事は不可能だろう。
そういう意味で、彼らの試みは究極的で極めて独創的だったし、おまけに大ヒットしたことで世に広まった。

記事はこれで終了ですが、リンクをご希望の方はご自由に。感想等を頂ければ励みになります。
そして10CCや当時の素晴らしい音楽群が世代を越えて引き継がれる事を節に望む次第です。

ではでは。


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