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「俺(私)ルール」が通用すると思ったら間違い ~老害を起こさないために・・ [独り言]



桑田さんが2017年のツアー中だがちょっと気になるツイートがあった。
その方は隣にいた初老の男性が大声で歌うので止めて欲しいと
何度か頼んだら「(歌を止めるのは)無理だ」と突っぱねられたそうだ。


その方のツイートは以下だ。



オジサンと書いてあるので年齢は分からない。
桑田さんのライブに来る年齢だから50代かもしれないし、60代かもしれない。
いずれにしても高齢者予備軍だ。


まず、ライブで大声で歌う連中に対してだが、私は大反対の意見を持っている。
あの行為は本当に迷惑以外何物でもない。
観客として下手くそな連中の歌を聴きに大金を払って来ているのではない。
主演者の歌を聞きに来ている訳だ。


大声で歌い周囲に迷惑をかけても関係ないと考えている連中には、

生理的不快感に加え、公衆の空間で自己欲求を満たさないと満足できないという醜い身勝手さに言葉もない。


ああした行為は、自己陶酔以外の何物でもなく、醜い歌声や、
ライブ中に仲間内と大声でグチョグチョ話をしている連中の声は本当に不快及び迷惑で
キチンとライブを見たいこちらの集中を欠くし、
紛れもなく迷惑行為だから止めて欲しい。


もちろんこの意見に異論が多い事は承知している。
楽しみ方はそれぞれだという事だ。
それでも楽しみ方の自由は「周囲への配慮」があって成立という原則は免れないだろう。


主催者がこれらに対応するには限界がある。
一番の方法は、「主演者」がこうした実状に対応して配慮をするように促してくれることだろう。
しかしそれも望み薄だ。


だから最近、こういう低俗な客がいるライブには行かない事にした。

私が尊敬する山下達郎氏は、こうした行為について完全なるNOを突き付けている。
彼のラジオでの発言は世間を賑わせたが、問題喚起の観点から良かったと思う。
従って彼のライブではそういう客が来ないだろうし、来てもハッキリ対応できそうなので安心して見る事が出来る。


私は彼のライブ中に歌うが声は一切出さない。口パクだけで済ます。
当然だろうと思う。私は声量が大きい方だ。周辺の迷惑になるに決まっている。

さて、桑田さんのケースでは、ツイートをした方は、「歌わないようにお願い」をしている。
そして頼まれた方のバカは「無理だ」だと断ったらしい。


「無理」なはずがない。方法はいくらでもあるのだ。単に止めたくないだけだったのだ。
だからこの人物は「俺(私)ルール」の権化なのだ。
イイ年したオヤジが何でこんなに頑なで愚かなのか?


別のツイートにこんな書き込みがあった。



こういう低俗な高齢者はスーパーなどでも見かける。

これに加えて俺理論を展開してスーパーの店員を困らせている人も多い。
どうしてこんな人間になったのか?はサッパリ分からない。


単に教育レベルが低い人たちなのか、それとも社会でキチンとした場所に居なかったのか?
実際社会で生きていると、驚くような認識で生きている人達に出会う。
そしてそういう連中の殆どは「俺(私)ルール」の権化だ。


この新聞記事に出てくる高齢者と、ライブ会場で歌いまくって隣から注意されても止めない連中には、
驚くほどの共通項を感じざるを得ない。

それは「俺(私)ルール」でしか世間が見えない連中だということだ。



京都の寺に紅葉を見に来た日本人客が紅葉を木から取って持ち帰る人が多く寺が困っているという報道があった。その多くが高齢者だという。寺が参拝者に注意すると「取ったらあかんの?」と返されたらしい。
どういう人生を送ってくるとこういう所作を身に着けるのだろう?

春先から初夏にかけて新宿御苑辺りに行くと子供連れの家族で苑内の昆虫やザリガニを取っている連中を見かける。苑内は保護された動植物ばかりなのでこうした行為を禁止しているし、看板もある。
それでもこういうアホな連中は消えない。

山岳地帯に行くと高山植物を取っているハイカーを見かける事があるが、こういうバカは大抵の場合県外者でロクな装備もしないで登ってくる連中が多い。山を舐めてかかるから遭難する。遭難したこうした連中は、税金によって維持されている山岳救助隊のお世話になる。

地元の人間はよく口にするが、山に敬意を払わず来る連中には本心、登らないで欲しいと思っている。また遭難しても自業自得の連中が多い。もちろん命の問題だから山岳救助隊や地元の有志は救助に行くが、そもそも自分の命を粗末にしているのは山に入った本人だ。
昨今富士山では、海外登山者が無法とも言える登山をしていて問題になっているが、日本人に多いのが事実だ。


昔、私の知り合いで、50歳を過ぎてから山岳ガイドを目指していた人物がいたが、山岳ガイドになるには登った山の数や場所の蓄積が必要で場合によっては十年単位を要する事をその人物は知らなかった。
また彼は山に入る際、昼前頃に入って午後登頂をするのだが、山登りを知っている人なら絶対にやらない行為だ。
そういう人間が登山ガイドを目指すというのも驚くべき無知さだが、幸いな事に登山歴がなさ過ぎてガイドを目指すのが事実上困難と理解し、その目標は諦めたようだ。

何を言いたいかと言えば、年齢を重ねている者が無知過ぎて、配慮が無いことは結構世間の迷惑になる可能性があるという事だ。
紅葉の件、歌の件、登山の件、全てが繋がっている。

2018年7月豪雨後に起こった様々な事についてこういうブログ記事があった。

「自然災害でもすぐに逃げない老害たちのせいで人災が拡大する大迷惑な現実」

http://blogos.com/article/312704/

この記事はちょっと書き方が過激なのだが、そういう事実が散見されたことは推測に難くない。

私の高齢の親の思考回路と突き合わせても、高齢者の判断力や客観性の欠如は著しい。

ちょっと視点を変えよう。


私にだって「俺(私)ルール」はあるし、高齢になって判断力が鈍るだろう。


ルールについて言えば、ルールは社会の中で大多数に通用するもの、しないもの、個人的に留めておいた方が良いものなど、様々なバリエーションの引き出しの中にある。
そうした個々の価値観のバランスの中で社会は中立を保っている。


しかし「俺(私)ルール」の権化は、周辺環境とは関係なく、自分の視点と生理でルールの適用を
社会に求める単純でワガママな連中だ。


桑田さんのライブに行った女性が、隣の人がうるさいから歌うのを控えてくれという事を無視するオヤジや、
21歳の学生がキョトンとするような行為をしていて、問題意識を持たない高齢者はまさに「幼稚な連中」と言える。


幼稚な連中の共通点は、客観的な意見や要望に全く耳を貸さないのだ。


こうした連中が自分たちの行為行動を「普通」だと思っているとするならば、
自分の人生をドブに捨ててきたんだと思った方が良いだろう。
つまり、人間として成長していないと言っても過言ではないから「幼稚な連中」だと言えるのだ。


こういう連中の発生は単に確率論的な存在なのだろうか?


先ごろ、天下の公道の一部を私道と言い張って通行妨害をして再逮捕された高齢者がいたが、
こうした連中に共通するのは客観性の欠如だろう。


つまり「俺(私)ルール」が全ての価値観の中心という事だ。そしてその根拠は幼稚だ。


ライブで大声で歌うバカオヤジも大学生に呆れられる高齢者も
執行猶予中でも自分の誤った信念を変えない高齢者も、
客観性の欠片もない連中だ。
全くもって幼稚としか言えない。

また災害が迫っていて自分だけは大丈夫と非難しない事が起こす「公共への被害」を想像できない理由は私にはちょっと理解出来ない。
申し訳ない言い方だが、教育レベルの問題だと思わざるを得ない。
大人になると学校のようにあからさまな教育レベルの層を見る事がない。
しかしこうした場合にそれじれの教育レベルが浮き彫りになる。


図体のデカい大人が幼児なみの理屈で天下にのさばっているのだから迷惑千万になるのも当然と言えよう。

しかしこういう連中は確率的な存在というよりも普遍的にいると言っていいだろう。


私だって気を付けないとそうなる可能性がない訳じゃない。


反面教師にすればこういう連中の行為の醜さが自分の人生観と真逆であると分かる利点もある。


だから私も律して気を付けようと思う次第だ。
自分がここに書いてある人間にならないために・・・。







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