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ゆるい就職への試みの先には何があるのか? [独り言]


ゆるい就職への試みの先には何があるのか?

慶応大学特任教授の若新雄純氏が提唱している「ゆるい就職」。
かなり興味を持って見ている。

http://yurushu.jp/

WEBサイトの冒頭の文面は以下の通りだ。

ただ働いて稼ぐだけでは充実感を得られない、そんなややこしくてめんどくさい時代になりました。大学を卒業してすぐに週5日以上を完全にロックされてしまうのは、本当に健全なことなのでしょうか?他の選択肢が極端に少なすぎるのは、なぜなのでしょうか?「正社員」というマジックワードが、僕たちの頭をおかしくしてしまっているかもしれません。

先進国の多くでは、20代は人生観や職業観を模索し試行錯誤するためのモラトリアム期間として、寄り道や遠回りをすることが社会的に認められています。もちろん将来的には、現実的に家族を養ったりするためにも、ある程度の労働時間や不自由を覚悟して働かなければならないと思います。でも、若いうちからすぐに日常の全てを仕事にささげ、画一化された労働モデルでキャリアプランをきっちり計画すべきだという常識や風潮はかなり危ないんじゃないでしょうか?

何が正解なのかさっぱり分からないこの時代、いちいち意味や目的、合理性などを求めなくても、もっと感覚的にやりたいことをやればいいし、気の向くまま行きたいところに行けばいい。色んな出会いや経験が、そのうち人生に深みや彩りを与えてくれるはずです。そして、それを身近な日常を通じて実現していくためには、もっとゆるくて賢いワークスタイルが必要です。

関連記事:

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140924-00000000-maiall-soci

 


モラトリアムという単語は、
50代の私にとって懐かしい。私が大学を卒業した時代、エコノミックアニマルと言われた団塊の世代の下の世代が労働に疲れ果て、モラトリアムを言い始めた。自分探しなんて単語もこの頃出て来たと思う。

確かに労働だけで、充実を得られない人も多いかもしれない。それはそれで異論はない。価値観が画一的である必要もないと思っている。自由であり選択の余地があるならばその方がいい。

また、アメリカのように社会に出て働き始め、足りない自分の能力に気づき、もう一度勉強しなおして社会に戻る構造が日本に全く欠けているのも事実だ。そういうシステムの不備は歯がゆく感じている。

今の若い人たちでなくても、主張のように気の向くままに感覚的に生きれば良いじゃんっていうのは耳触りが良い言葉だし、そうであれば楽しいかもしれない。
振り返ると1960年代のヒッピーやフラワージェネレーションの連中も似たような事を言っていた。
その結果、彼らはコミューンを作り、自治管理をしながら自由平等社会を求め自給自足を始めたが、結局長く続かなかった。これらの経験で分かったのは、歴史の洗礼を受けた社会構造の構築に対して新しい社会構造を組み入れる場合は、理念的な方法では絶対に解決しないという教訓だった。

実は私は社会人前半となる20代から30代終盤まで、かなり気の向くままに生きてきた。
好きな音楽業界で好きな音楽を生業にする連中に囲まれて
20年近くも仕事をしていた。
その好きな産業の中にいて、仕事に行き詰った時、好きだったから音楽業界を抜けるのが大変だった。殆ど麻薬中毒患者のリハリビと同じようなものだ。
40歳になってから全く違う産業で第二のキャリアへ繋げる決断し、実行するのは相当な労力と勇気を必要とした。
実際潰しの利かない仕事だったので、転職には苦労した想い出がある。ハローワークに行ってPCの画面を見て、自分が殆ど役立たずだとも思った。
自分の人生の中でも、この転職時期を乗り切った事が、その後の人生の構築で非常に大きかった。つまり、好きな事で一生食うためには、ぼんやり生きていてもダメだという事なのだ。


結果、色々な意味でかなり高い授業料を支払う事になった。それでも経験的には全く後悔していない。しかし収入的にはかなり損をしたと思っている。実力の世界に挑戦し、実力が伴わなかったのだから当然の帰結だった。
それでも自分の好奇心は満たせ、普通では経験出来ない経験も数多くした点は自分でも評価している。この経験がなかったら、私は今のようにサラリーマン生活に集中出来なかっただろう。
それでも、サラリーマンになってからも、前職の経験が大きく活かせたため、比較的働き易い職場環境で腕を奮う事が出来、韓国ドラマのブームにのって事業を大きく成功させた。
しかし初めての大企業に入って分かったのは、論理的思考を持ち知識も豊富な頭の良い連中が数字によって描くビジネスの世界観と私のように感覚的部分からビジネスを描く人間の価値観の違いだった。
それでも私は彼らからかなり多くを学んだと思っている。


そういう小さな経験から言えるのは、若新雄純氏の主張のように、労働時間を減らして
余暇のような時間が十分にあれば「探している何かを見つけられるはずだ」というのは、殆どの人にとって妄想か幻想に近いと言う事だ。
私は、彼の主張のようになれば良いとは思っているが、殆どの凡人にとって漠然とした目的地を自分で探せるほどの能力はないというのが私の主張だ。
また空き時間を好きな仕事で埋めるという主張もあったと思うが、そもそも好きな仕事が何かを理解出来ている人ならば「埋める」という発想自体が根本的に矛盾しているように思う。仮に好きな仕事を見つけたら、人間はその仕事を主にするに決まっているからだ。
ひょっとしたらそれこそを見つけるためなんだという言い分もあるだろうし、好きな仕事では十分食えないから食える仕事を生活を支え、好きな仕事の自立機会を掴むのが目的だという主張もあるだろう。
しかし、一時的にしろ、2つの仕事を同時並行させて成立出来るほどの器用な人間なら、もっと他の人生設計を考えるのじゃないだろうかとも思う。
社会で二足の草鞋を履くといのが、どの位困難かは、やってみた人でないと分からないが、世の中、机上で想定している程は甘くもないというのが私の経験則だ。食える仕事に費やすエネルギーは、時間に比例しないエネルギー量を吸い取る事だってあるからだ。

人生は、漠然と生きていても結果が出ないと思っている。
若新雄純氏の主張のように、週休4日、つまり週3日働いて月収15万円の派遣など非正規雇用を紹介し、額面15万円、手取りでは12万~13万円で、週3日勤務は社会保険の適用外というのは頑張っても25歳~28歳程度までが限界だ。若新氏の案は、若者には適用できても40歳以上の中年期には現実的に適用出来ない。

世の中でエリートと言われる、私も余り好きなタイプじゃない人間が存在するが、彼らは残念なほど頭が良く、また人生設計に優れた才能を持っている。私は彼らのようになれないし、なりたくもないが、それでも中間層のような私ですらも、人生設計を意識しないとままならないと感じるのだ。

私は、自分探しに行った連中が自分を見つけた例を全く知らないし、自分を探すという事がなんだかも分からないだろうと思っている。そもそもそんなものはないと思っている。正に青い鳥なのだ。

私も含めた凡人の多くが気付いているのは、意外と自分の本質は、他人や社会が教えてくれるという単純な事実なのだ。

社会に出ると分かるが、自分の本質とは社会という鏡に自分が映ることで初めて分かったりするものなのだ。
それ故、自分探しを自分自身でするように漠然と何か探している人たちの殆どは、本来使うべき時間を無駄にする傾向がある。
元々それなりの才能のある人たちは、そもそも自分が何をしたいか深層部分で理解しているし、当面はそれに全力でまい進する。その過程において社会や他人とぶつかり、そして初めて自分の本質を知って行くのだと思う。

加えて、自分に能力のないことを努力をしたって成就する事はない。努力をすれば必ず叶うと言う言葉は美しいが、現実的にはファンタジーと言っても良い。努力をして事を成就させるためには、自分の能力を一定範囲で把握した上で、自己能力の開発、知識や経験の蓄積に加え、成し遂げるための精神力が必要だ。
私の下の甥は、全く音楽センスがないが、ある日ミュージシャンになると言いだした。長年音楽業界で働き、様々な一流処と一緒に仕事をした私から見て、彼に才能のかけらもないのは、北極星が南半球で見えない位確かな事実だった。それでも本人はマジメだ。
彼のように何かアクションを起こしている内に、自分の可能性や方向性が見つかるというような思考や動機で日々を無駄にしている事で満足しているとすれば、殆ど自分の人生の可能性を破棄しているに等しいだろう。
実は私自身だってそう言う部分があったと思っている。
それでも私の場合は、ギリギリ辻褄が合ってくれたから良かったが・・・。


前述したが、私を含む一般的な凡人たちは、労働によって新しい自分の能力を発見したりするというのが最も腑に落ちるだろう。
仕事を通じて経験したことで、興味のなかった分野に開眼することもある。
それが明確になれば、空いた時間の使い方も自ずと決まるのだ。


多分このプログラムを通じて幾つかの成功例は出てくるのだと思う。ただそれは全体の中で極僅かな人たちで、大抵の人達は空いた時間を本当の意味で有効に使えず、結果的には無駄にしてしまうと思う。

「漠然とした面白い何かを探す」程度の人間に、チャンスの女神様は簡単に微笑んでくれないのが現実だ。

よく本を読む時間がないという人がいるがあれと一緒だ。時間があっても読まない人は読まないものだ。時間があるから即ち問題が解決するわけではない。

「目的の無いところにはゴールも存在しない」のが、現実社会だ。もしくは「目標がなくともやりたい事が分かっていなければ進むべき道も分からない」とも言える。


何かに有能な人間は、時間があろうが無かろうが自分のやりたい事を見つけてやる力がある。また、自分の隠れた才能は、労働という対価の代わりに社会が教えてくれることもある。

残念な事に資本主義社会では、それなりの金銭や資産がなければ解決出来ない問題が山のようにある。生活ギリギリの最低限度の収入しかなければ、資金不足によって夢の実現を諦める必要に迫られることだってあるだろうし、原則的な生活することに追われ、夢を見ている暇もないのでは元も子もない。


日本の社会保障制度が困難になる中で、生涯年収の多寡は、高齢期の生存を大きく脅かす問題だ。既に高齢者の年金支払い時期は段々と遅延し、引退なんて夢物語の時代に入りつつあるのだ。

このプラグラムを本当の意味で実行し、成功したいのなら、このプログラムの参加者が、ある時点で同年代のサラリーマン以上の年収を稼ぐような経済的地位を獲得しなければならない。
そうでなかった場合、低収入ままの哀しい中年の夢追い人になるだけだと言っていい。私の周囲にもそういう連中が多いが、今更どうにもならないのが彼らの実態だ。

アリとキリギリスじゃないが、楽して世渡りするのなら、それなりの覚悟が必要なのは世の習いだ。
前述のように、このプログラムを実行して思わぬ成果を上げる人が出る事は否定しないが、それは、全体からすれば例外的な成功事例だろう。またその結果は、かなり若い時期に出さなければ人生が面倒な事になる。

かつて60年代、70年代に学生運動が起こり、社会へ反発して革命を起こすなんて言っていた人達がいたが、主張していたような理想郷は現実社会にそぐわず、運動をしていた学生たちの殆どは、意に反して反発していた社会に取り込まれていった。
その彼らが高度経済成長を支える人達となったのは歴史の皮肉だろう。
若新雄純氏のこうした主張も、私にはそれに近いものとして見える。歴史は繰り返すのだろう。

歴史の研鑽によって構築された社会に、バグ出しもされていないアイデアの社会制度を組み入れようとするのは、かなり困難なのが現実だ。

そういう意味で私の見立てを見事に裏切ってくれるのかどうかを注視していたい。

 

以下に参考になる意見記事があったのでご紹介しておきます。

 

 

★「ゆるい就職」というゆるい自殺

http://bylines.news.yahoo.co.jp/shinoharashuji/20141109-00039447/

 

 

私も上記の記事に近い感覚です。

結局「ゆるい就職」「ニート株式会社」の最大の問題点は、これらの行動思想が現在の社会インフラと整合する部分が少ないということなのです。 

それに尽きるとも言えます。




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