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レコーディングエンジニアが語るDerek & The Dominosの 'Layla' [音楽に関わるブログ]

Derek & The Dominos 'Layla'
Producers: Tom Dowd • Derek & The Dominos

 

エリック・クラプトンは1974年の初来日から2014年で40周年を迎えた。228日に行われた武道館でのライブは、彼の集大成ともいえる演奏を披露し、来場者の心に様々な人生模様を投影させた。ライブ後のクラプトンファンのオフ会に参加すると、初来日を見てから40年で通算160回も公演に通った人物や、世界中クラプトンを追っかけている人々に出会った。
その熱意に私は本当に圧倒された。



 

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2014年2月28日東京武道館最終公演
ドラムはSteve Gadd。
(撮影:H.K)


今回のライブでも、かの名曲”Layla”がアコースティックバージョンで演奏された。この曲がザ・ビートルズのジョージ・ハリスンの妻だったパティ・ボイドへの想いから書かれたというのはロックファンには余りにも有名な逸話だ。

 

 

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若かりし頃のパティー・ボイド
やっぱ当時の彼女はかなりカワイイ。

1991年クラプトンは、日本だけで開催されたツアーでジョージ・ハリスンと共演し、この曲をステージ上で一緒に演奏している。当時東京ドームでこのライブを見ていた私は、自分の元奥さんとの不倫をネタに唄う恋敵を、どんな感覚で同じステージに居たのやら?と想像していたものだった。
後に発売されたクラプトンの自伝に描かれているパティ・ボイドやハリスンとの関係は、部外者には理解を超えた所がある。
ある時期からパティ・ボイドとの関係に冷めていたハリスンだったとは言え、クラプトンが彼の妻に恋していることを告白されながらも友人関係を継続出来ていたのは、2人にしか分からない世界観や価値感があったのだろう。

この曲が出来た頃にクラプトンが在籍していたバンド、Derek and the Dominos(デレク&ザ・ドミノス)が、バンドの試運転時に出演したコンサートの紹介時に、司会のトニー・アシュトンの口からバンドの名前飛び出したことでなし崩し的に正式名称になったのは、ロックファンでは知る人の多い事実だろうが、この説にしても仔細微細には数バージョンあるようだ。
レイラへのDuane Allman(デュアン・オールマン)の参加は、マイアミにあったクリテリア・スタジオでレコーディングをやっていた時、プロデューサーのトム・ダウドに誘われオールマンブラザースバンドのライブを見に行った事がきっかけだったというのが通説だが、以下のインタビューを読んでみると時系列のニュアンスが異なっている点が面白い。

この時代にクラプトンが書いた作品は、本人が自伝で語るように殆どがパティ・ボイドに向けられものだ。当時のクラプトンは、ボイドにジョージと別れるように促していたというし、それが叶わない苛立ちを作品にぶつけていたとも自身で語っている。
以下のインタビューの翻訳は、当時のレコーディングに関わった人々の貴重な証言だ。中には音楽誌で認知済みの内容も多くあるが、知らなかった事実も同じく多い。
2人のエンジニアが1つのアルバムに関わっていた様子は興味深いし、トム・ダウドとの関係性も面白い。
またこのセッションで通説になっていた事実も、当時の現場にいた人間の仔細な証言によって通説とは異なっていたものも多い。そういう事を踏まえこの記録を残しておこうと思う。また彼らのコメントの中にはレコーディング業界の常識的な知識がないと理解出来ない部分も多いため、直訳ではなく、補完して訳に組み込んでいる場合があるが、予めご了承してほしい。
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リチャード・バンスキンは語る。(この人物について調べたが誰だか不明である)

いいだろう。例の話については知っているだろう。
エリックとジョージ・ハリスンは心を許し合った友人同士だった。一緒にギターを弾き、お互いのレコードにも参加している。ただ、エリックはジョージの妻で元モデルだったパティー・ボイドに夢中になり、混乱状態の最中に、音楽を通じたラブレターとも言えるこの曲を書き、彼の苦しみ、もがきを伝えようとしたんだ。

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この歌詞を読むと、12世紀、アゼルバイジャン人作家ニザーミーがある若者の報われる恋について描いた「
ライラとマジュヌーン」と、クラプトンが生み出したロック史最高のラブソングと言われる彼自身のレイラの間に同一性を見出せるだろう。
捉えどころのない恋人に対して “誰も君の側に居ない独りぼっちの時はどうしているだい?/ずっと隠れ廻って逃げ回ってないで そんなのはバカげたプライドじゃないか”と駆り立てるように切ない声で唄っている。

今の話ほど世間には知られていない事なのだが、実はこの曲は3つの別のパートに分かれて録音されている。クラプトンとDuane Allman(デュアン・オールマン)による名人芸とも言えるギターをフィーチャーした(2つの)部分、ドラマーのジム・ゴードンの作曲と演奏によるピアノのコーダ(後奏)部分だ。本質的にこれらは、芸術的即興による偶然の産物であり、ミュージシャンたちと彼らのバックヤードを支えるエクゼグティブ・プロデューサーであるトム・ダウド、兄弟のレコーディング・エンジニアである、ロンとハワード・アルバート、さらにカール・リチャードソン、チャック・カークパトリックとマック・エマーマンらとのコラボレーションの賜物だった。

 


クリテリア・スタジオでの遭遇:


トム・ダウドはロック、ポップ、ジャズ、ソウルミュージックやリズム&ブルーズのアーティストたち関わった伝説的なレコーディングエンジニアであり音楽プロデューサーだ。クラプトンと出会ったのはクリームの1967年のアルバム“Disraeli Gears”の時だ。
同じ年、14歳のロン・アルバートは、仕事を得るために16歳だと偽り、マイアミにあるマック・エマーマンのクリテリア・スタジオに行き、その直後、エンジニアのキャリアをスタートし始める。兄でミュージシャンのハワードは、以前からロンを自分のバンドの音響や照明の面倒を見させており、1969年にヴェトナム戦争従軍ら帰還すると弟の職場に潜り込んだ。


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Photo: Elliott Landy / Redferns
Eric Clapton performing live at the time of 'Layla'.

「サンフランシスコで陸軍を除隊になったんだ。そしてマイアミに戻る前、ニューヨークに飛んで結婚したのさ」ハワードはそう回想する。
「弟のロンがマイクの全リストを送ってきたので帰省途中、解説を読みながらマイクがどんな形をしているかなどを見ておいたんだ。それでスタジオに着いて直ぐにやった事は、今までのやり方を全部ひっくり返してしまうということだった。結果的にそれは功を奏したんだ」
「当時のレコーディング・エンジニアは、ドラムを録音する時、バスドラに1本、スネアに1本、オーバーヘッドマイク1本って具合だった。俺の場合はそういうやり方に反して、全てのシンバル、ドラムセットなど全てにマイキングをしたのさ。だってその方が道理に適っていたし、以前からそうするべきだったんだよ。それによって様々な実験的なマイキングを試すことになりドラムスティックにも立てたが、これは上手く行かなかったな」

「我々が幸運だったのは、クリテリア・スタジオにはマークっていう機械オタクが居た事だね」とロンが付け加える。
「彼はドイツ、オーストリアなどに旅行に行き、素晴らしいコンデンサーマイクを買い集めていたんだよ。でもこれらのマイクは基本的にストリングスやホーンといったオーケストラ用に使われていたんだ。俺達のようなロックのレコーディングには使用させてもらえなかった。ハワードが来て、なんであのマイクが使えないんだ?っていうから、許可されないんだよって答えていたんだが、それでも“なんでなんだ?”って言うんだよ。それで我々はまだ誰もやったことがない、タムなんかにもコンデンサーマイクを使用し始め、後に“ファットアルバートドラムサウンド”と呼ばれるものを構築したんだ。これらはヨーロッパ製の素晴らしいコンデンサーマイク群によってもたらされたんだが、以前のように2つから3つのマイクで録音する方法とは対抗するものだった。ハワードは殆ど独りでこの方法を編み出したんだよ」

ヘッドマイクは2本でいい!

1970年、ロンとハワード兄弟は、Curtis, Jerry(カーティス・ジェリー) Wexler and Jimmy Douglass(ウェクスラー&ジミー・ダグラス)のプロデュース、Arif Mardin(アリフ・マーディン)の編曲で、Billy Preston(ビリー・プレストン) and the Memphis HornがフィーチャーされたR&B界の名サックスプレイヤー“King Curtis(キング・カーティス)”のアルバム“Everybody's Talkin'”で初めて一緒にエンジニアとしての仕事をすることになった。
この作品は、比類のない音楽的影響を及ぼし、その後アルバート兄弟がプロデューサー兼エンジニアとして関わった、Aretha Franklin, Frank Zappa, the Rolling Stones, Jimi Hendrix, Joe Cocker, Jimmy Page, Johnny Winter, James Brown, Joe Walsh, Wishbone Ash, the Average White Band, Buddy Miles, Crosby, Stills & Nashそして, もちろん, Claptonthe Allmansなどの多くの作品に道を開いた。

「時折私(ハワード)は、ロンがサウンドを整えている間、スタジオのブースに行き、バンドの中に混ざって、アレンジや曲に関わるようにしていた」とハワードは兄弟のユニークな共同作業を語ってくれた。
「他の時だったが、私がマイクをセッティングし、ロンがコンソールの前に座ってサウンドを調整していた。お互いに手を取り合ってやっていたよ。決まり事はなかったな。両方ともコンソールの前に居る時は、4本の手があったから非常上手くやっていたよ。何かやるべきことがあれば、ロンは理解していて私が何かああしろこうしろという前にやってたな。以心伝心さ」

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Photo: Michael Ochs Archive / Redferns
Derek & The Dominos (left to right):
Eric Clapton, Bobby Whitlock, Jim Gordon and Carl Radle..

「我々はいつも自分達が(他のエンジニア連中より)有利なポジションにいると思っていたんだ」とロンが付け加える。
「多くの違うグル―プと仕事をしていた時は、例えばギターやドラムのヤツがハワードと親しくて、歌手やキーボードが僕と親しい場合、レコーディングに際して両者を対抗させるような感じに出来るんだよ。(例えば)今僕はヴォーカルの作業中だから、他の(バンドの)連中はハンバーガーでも買ってきてくれっていう感じで、(作業環境を作るのは)思い通りだったよ。我々の初期の師匠とも言えるトム・ダウドから、バンドのレコード制作とは猛獣使いと似ていると教えられていたんだ。ライオンは常にトラとは別の檻に入れておかなくてはならないとね。また同時に相手がリードシンガーでなくてもバンドのメンバー全員に尊敬と威厳の念を持てと言われてたね」

「トムは自分の哲学を我々に押し付けたりしなかったが、彼自身のスタジオやニューヨークにあるアトランティックのスタジオ中の幾つかでは貫かれていたね。トムは、好きなものは自分の近くに置くべきで、嫌いなものは遠ざけるべきと信じていたんだよ。

夕食のテーブルに座って嫌いなものがあったらその皿は遠ざけて近くに置かないだろう。その理屈をスタジオのコンソールのフェーダーにも応用していたんだ。つまり通常とは間逆に設置されていて、音量を大きくする場合は、フェーダーを手前に下げるという感じにしていたんだよ。
トムのスタジオでミックスをする時は、トムがオーディオ的な意味で両刀使いだったので、とても難しかった。彼はいわゆる普通の卓では(音量を上げる際に)フェーダーを上げる方法でやっていたが、自分のスタジオでは(音量を上げる際に)フェーダーを下げる方法でやっていたんだ。アトランティックのスタジオは、トムのために逆フェーダーを取り付けた特注のMCIのコンソールを注文するはめになった。当時、そんなモノを記事で読んだ事もないし、人から聞いたこともないし自分の目で見たこともなかった。完全にトム・ダウトオリジナルの卓だったんだよ」

「当時の我々は幸運な事に、クリテリア・スタジオでMCIの創立者で機器デザイナーでもあるJeep Harned(ジープ・ハーンド)の協力の元で、MCIの全ての機材の実験場として活用することが出来るという非常にユニークな環境にいたんだ。また運の良いことに、ハワードは右利きで、俺(ロン)は左利きだったんだ。それで卓の前に2人で座る時に、例えばパーカッションを左利き側に、ギターを右利き側に配置してオーバーダブするような事になると、俺からするとパーカッション側を、ハワードからするとギター側に手を伸ばしてイジルのが面倒になるんだよ。
(補足:この発言は、ハワードが卓の右に座り(右利きだから)、ロンが左(左利きだから)に座っていることを想定していると思われる)
この当時まで、全てのサブグループ(フェーダー)は、コンソールの右側にあったんだ。それでMCIはサブグループ(フェーダー)をセンターに配置した試験用機器を作り、それが500シリーズのコンソール卓になったんだよ。サブフェーダーがセンターになったことで、ハワードの右手、俺の左手が中央部に届くようになった。それで面白いのは、これが(その後のレコーディング卓の)世界的基本フォーマットになったってことなんだよ。サブ・グループをコンソールのセンターのスイートスポットに配置したっていうのは、なかなか良いアイデアだったな」

最上のもの:

その間Eric Clapton(エリック・クラプトン)は、Cream(クリ―ム)やBlind Faith(ブラインド・フェイス)のようなスーパーグループで経験した過剰とも言える試練から逃れるため、1970年の春、何人かのミュージシャンの組み合わせ・・、Delaney & Bonnie(デラニー&ボニー)のキーボード奏者でシンガーのBobby Whitlock(ボビー・ウィットロック)、ベースのCarl Radle(カール・ラドル)、そしてドラマーのJim Gordon(ジム・ゴードン)によるバンドに参加する。Eric & The Dynamos(エリック&ザ・ダイナモス)と名乗っていたバンドは、彼らの最初のお披露目ライブで、司会者によってDerek & The Domino(デレク&ザ・ドミノス)と紹介されそれがバンドの通称となる。彼らは直ぐにイギリスでのサマーツアーに突入し、その後マイアミに飛び、アルバート兄弟が'Bacteria(バクテリア)'と表現している、Laylaやその他の最上のラブソングを収録した2枚組のアルバムを録音する。


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Duane Allman with his trademark groovy sideburns and 'tache.
Photo: Michael Ochs Archive / Redferns

 


1998
年末、トム・ダウドがオールマンブラザースバンドの“Idlewild South”にロンやハワードと共に関わっていた時に、ある事がどのようにして起こったかを教えてくれた。

「ある日、私(トム・ダウド)は、レコーディングセッション中でバンドは録音中だった。そしたらスタジオの秘書が来てRobert Stigwood(ロバート・スティグウッド)から私に電話だと云うんだ。この電話は断れなかったから、録音中だったが電話に出たんだ。バンドが演奏を終わってコントロール・ルームに戻ってきた時もまだ私は電話中だったんだ。電話が終わり、受話器を置くと、メンバーに録音中の電話について断りを入れてから彼らに電話の内容を説明をすることにしたんだ。
”今Robert Stigwood(ロバート・スティグウッド)と話していたんだ。エリック・クラプトンのマネージャーだ。しばらくエリックとは連絡をしてなかったが、どうやらエリックがここでレコーディングをしたいらしいというんだ・・・”と云うと、デュアンが、“そいつって・・”と云うなり、クリームのある有名な曲のフレーズを弾いたんだ。それで私はそうだと答えた。すると“ここでレコーディングをしたいっていうのかい?”というので“そういう話のようだね”と答えた。デュアンは“じゃあ、彼がここでレコーディングしている時、ちょっと見に寄ってもいいかな・・?”というので、“二人共通点があるから上手く行くと思うし問題は無いはずだ”と答えたよ。そして後は成り行きに任せただけさ」

「数週間後、エリックとボビー・ウィットロックや周りの連中がスタジオに現れた。私はまだ彼らの楽曲が最終段階まで詰められていなかったので、一緒になって曲を煮詰めた。演奏は全て録音し、これは絶対にイントロだ、とかこれは曲に入らないとか指示しながら曲をまとめていったんだ。そんな作業をしている最中、電話が鳴った。デュアンからで、奴らは来ているか?といい始めた時に、現場の作業中の音が流れたんだ。そしたらデュアンが“連中がいるな!ちょっと寄ってもいいか?”と云うので、私はコントロール・ルームにいたエリックに“デュアン・オールマンと電話で話しているんだが、ちょっとスタジオに顔を出しても構わないか?と言っている”と伝えたんだ。エリックは私を見ると、“これを演奏している男の事か?”と、Wilson Pickett(ウィルソン・ピケット)のレコードに収録されている'Hey Jude'の後奏をギターで弾き始めたんだ。私はそうだと答えると、エリックは“じゃあ(来て)1発やってもらおうか”と云ったんだ。それで一緒に演ることになったのさ」

Wilson Pickett - Hey Jude (w/ Duane Allman)  
https://www.youtube.com/watch?v=0y8Q2PATVyI


「こうして全てのパーツが揃った訳さ。その日の夜、私はDerek & The Dominosのメンバーをマイアミ・ビーチのコンベンションセンターに連れて行き、Allman Brothers Bandの野外コンサートを見せたんだ。そしてコンサートが終了すると(デュアンを含む)皆でスタジオに戻ったって訳さ。ジャムセッションが始まりアイデアが交換され、デュアンがエリックのギターを抱え始めたのさ。エリックはデュアンにどうやっている演奏しているかを見せ、デュアンはエリックにスライド技法と呼ばれているボトルネック奏法を見せたんだ。2人とも昔から知り合いのようだった。デュアンはバンドのギグの予定があったのでその日の夜の間にスタジオを出なくてはならなかった。しかし2~3日後、デュアンは仕事の義務から解放されて(スタジオに)戻ってきて、あとは歴史が作られたって訳さ」

パワーアップしたレズリースピーカー:


(参考映像)

http://www.youtube.com/watch?v=El0CwSLS_g4


Laylaのレコーディングセッションでユニークだったのは、我々(アルバート兄弟)が手掛けたフェンダーギター用のレズリー(スピーカー)だろう。エリックはこの組み合わせ(ギターとレズリー)に心を奪われていて、頻繁に使っていたよ」とロン・アルバートは語る。

「このセットには、(改造によって)可変式で大きく(ヴィブラート周期の)スピードを替えられる装置を付けてあったんだ」とハワードが付け加える。「おまけにスピードを調整することが出来たんだ」とロンは続けた。


「このレズリーが設計された過程では、2つのフットペダルがあったんだ。1つはレズリー本体のスイッチをオン・オフするためで、これだとギターアンプだけで鳴るか、ギターアンプとレズリー本体の両方が鳴っているかを選択できる。もう1つのスイッチはローター(レズリースピーカーの中で回転する羽)のオン・オフ用で、これによってローターの回転のある無しを制御できた。足元のスイッチを操ることで効果の度合いやオンオフを調整することが可能になったのさ。でも我々にはこれだけでは不十分だったので定常的に(ローター)スピード調整が可能な約14kgほどはある大型の可変装置を考案したのさ。この機械は、モーターの回転速度を電圧でコントロールできるように設計していて、それまでは不可能だった半減速でもどのようなスピードでも自分たちが好きな早さでローターを廻す事が出来るようになったのさ。ハワードはハモンドオルガンのB3奏者だったので、B3のレズリーのスロースピン(遅い回転)に慣れ親しんでいて、回転のオン・オフを左手で行っていたんだ。それで(以前のレズリーの回転速度の効果と比較すると)速くもなく遅くもない速度によって生み出されるこのサウンドを、ギターにも取り入れることにしてみたんだ。その上でペダルを使ってオン・オフすることで、(ローターが)動いたり止まったりするのと同じような効果を得られるようになり、エリックのお気に入りのサウンドになったのさ」

止まらない音楽:


エンジニアのハワード・アルバートが振り返る当時のオールマンブラザースバンドの日常。

「連中は腹を空かせた貧乏ミュージシャンだった。古いウイーバーゴ製のツアーバスに住んでたよ。スタジオを一歩出ると文字通りギュウギュウ詰めの生活環境だった。スタジオでレコーディングの仕事が無い時もそこに住んでたなあ。彼らの家()はスタジオの駐車場だったし、他に行く所が無かったんだ。だからいつもスタジオの近くに居たんだが、(そういう事情もあって)デュアンは色々な連中のセッションに顔を出していたよ。当時の彼らは若くてハングリーだった。我々が望む事について何でも尊重してくれていたし、彼らがいつも我々の周りに居てくれたお陰でとても創造的な瞬間を掴むことが出来たんだ。結局当時、バンドをレコーディングするに際して、2人のリードギターと2人のドラマー、ハモンドB3オルガンや驚異的にメロディックなフレーズを演奏するベーシストと一緒にやる方法論なんて確立されていなかったからね。それに当時のデュアンのスライドギターは彼のキャリアを通じて絶頂期だったよ」

「当時を振り返って自分達の環境が物凄く特別だったと思うのは、僕ら兄弟間で行った様々な実験的試みだけではなく、トム・ダウドが、彼のエンジニア兼プロデューサーとしての初期のキャリアにおいて、文字通り僕らを信頼し見守ってくれた事なんだ。彼は発想豊かな人だったし、僕らにもそう感じていてくれたみたいで自由にやらせてくれたんだ。だから“君たちが自由にやりたくなったら俺(トム)はお役御免だ”という感じだったのさ。実際これは我々にとって物凄いチャンスをもらったようなものだった。トムは、夜10時、11時、深夜頃までには家に帰ってしまったからね。でもオールマンの連中とのセッションは(その時間でも)終わってないんだ。おまけに彼らは他に行く場所も無かったからね。我々は一晩中レコーディングして、そういうのを幾晩もやり、昼頃になるとトムがスタジオにやって来るんだ。で、我々の成果を聞くのさ。彼に承認されるか、否決されてやり直しなったとしても、我々にとって最低限のクリエイティブな時間を持てるという点において満足だったよ」

「あの当時、多くの“友愛”に満ち溢れていたんだよ」とロンが付け加える。特にアトランティック・スタジオでのセッションにおいてそうだったのは、お互いを良く知っていて理解していたからなんだ。Karl Richardson(カール・リチャードソン/エンジニア)がやってきて我々がやっていたプロジェクトに関わったり、彼がやっていたプロジェクトに我々が関わったりという具合だった。カールは間違いなく“Layla”で重要な役割を果たしている。ただセッションの95%には関わっていない。Chuck Kirkpatrick(チャック・カークパトリック/ミュージシャン/エンジニア)も同様だ。だからレコーディングセッションが徹夜状態になったある時点から、カールやチャックが加わってダビング作業をしていたのは特に変なことじゃなかったんだ」


「コンソールの上にはいつも全ての手が乗っていた状態だった。何故ならデュアンが家に帰ってからエリックが演奏したいと言い出したり、エリックが家に帰ってしまってからデュアンが演奏したいと云う場合、誰かがケアーしてあげなくちゃならない。このセッションではMack Emerman(マック・エマーマン/エンジニア)も多少貢献している。貢献の詳細は忘れてしまったがね。
多分彼は様々な場所でのダビングに参加していたと思う。ただ殆どの作業はハワードと私(ロン)がメインで取り仕切り、それに続くカールやチャックなどがあの歴史的レコーディングセッションを下支えた訳さ。誰もがあの作品の貢献したと思っている。実際、再発盤のボックスセットの'Layla'を見ると、チャックが律儀に手書きで記録したあの美しくも有名なトラックシートを見る事ができるだろう。僕らなんかはトラックシートにぞんざいな文字で記録するんだが、チャックは次の日に来て全て清書し直すんだよ。ちょっと変な行為でもあったが、お陰で偉大なる永遠の記録として残ったんだからね。だって現代でもキチンと読めるからね」

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チャックの清書によって上質保存された
当時のトラックシート

 

'Layla'のセッションの時、クリテリア・スタジオの小さい方のスタジオであるBスタのコントロールルームには、MCI社製の24イン、16アウトのカスタムメイドの卓が窓際に置かれていた。セメントの壁にはアルテックのLansing 9844というラージスピーカーがソフトマウントされていたんだが、そのお陰で部屋の低域が充実したんだ。加えて大型のMCI社製大型で黒い16トラックのテープマシーンJH16、通称“'Dumbo”が鎮座していた」

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アルテック社製9844スピーカー

「あのレコードは、3つのセクションで成り立っていた」とロンが付けくわえた。
「インプット(入力)部分は左、中央部はマイク入力用、ドラックの割り振りとエコーの送りと戻しで右側の端には伝統的なミックス要のセクションが装備されていた。非常に先進性があって良く考えられた設計をしていた。'Layla'だけではなく Average White Band(アベレージ・ホワイト・バンド)やAretha Franklin(アレサ・フランクリン)と同様にJimi Hendrix(ジミー・ヘンドリックス), Joe Cocker(ジョー・コッカー)それにAllman Brothers(オールマンブラザース), Johnny Winter(ジョニー・ウィンター)やLeon Russell(レオン・ラッセル)なんかでも使用されたコンソールなんだよ



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MCI社製のJH-16レコーダー
(16チャンネル)

 

1976年、イギリスにいてSutherland Brothers & Quiverというバンドのレコーディングをしていた時、あるドラマーが親友でもあったことでセッションに顔を出して演奏をしてくれたんだ。そのドラマーからDave Gilmour(デイブ・ギルモア)という1人の紳士を紹介されたんだ。ある週末、デイブの農場で開かれたバーベキュー・パーティに招かれ、彼の家の納屋を改造して作ってあったスタジオに連れて行かれたんだ。ドアを開けると我々の目の前にクリテリアの古いBスタにあった例のコンソール卓が鎮座してたのさ。デイブはそれが我々が手掛けたコンソールだとは知らなかったし、我々もそれが彼の自宅のスタジオにあるなって全く知らなかったという訳さ。不思議な因縁だろう。」

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フロリダのオーディオ・ヴィジョンスタジオでの
アルバート兄弟の現在の様子。

「現在ヒットファクトリースタジオとして知られているクリテリアのBスタのコントロール・ルームが来客用のラウンジに改装されている間、前述のアルテックのLansing 9844sスピーカーはハワードのリビングルームのテレビ用スピーカーとして利用されていたんだ。」

Duane Allmanが初めてドミノスのセッションに加わった時、バンドは既に3つの曲、つまり'I Looked Away', 'Bell Bottom Blues' and 'Keep On Growing'.を録音していた。デュアンは、'Nobody Knows You When You're Down And Out'でこのセッションでギターデビューをし、その後は他のアルバムでもあの神業ともいえるスライドギター奏法で貢献してくれたのさ。それらの演奏はクラプトン自身の演奏に影響を与え、T-Bone Walkerのヴォーカルリフから拝借したことで生み出された、ロック史で最も有名とされているギターリフによって'Layla'は別次元になり、楽曲のオープニングを確固たるものにしたのさ」

「セッション中、クラプトンとデュアンはスタジオにあったボールドウィンピアノを背にして、いつも寄り添っていたよ。また他の3名のメンバーやら彼らの機材やらでクリテリア・スタジオのBスタのライブ・ブース内はかなりギュウギュウだったよ。もし、コントロール・ルームからガラス越しにブース内を見ているとすると、ピアノは左側に置かれていたとハワードは回想する。そしてピアノの閉じられた蓋の上にはエリックやデュアンが使っていたフェンダーのツイードのチャンプアンプが置いてあったな」


「我々はいつもクリエイティブじゃければならなかったんだ。」ロンが付け加えた。
「録音ブースのスペースは、それほど大きい訳じゃなかった。だからメンバー全員をそこに入れる算段をしなければならなかったのさ。ピアノは壁際の一角を占領していたし、(モニター用の)キューシステムは基本的な事しかできなかった。ステレオでしか送れない音声を各人に1回線分しか確保できなかったから、自分の演奏を(個別の音量で)モニターするのは至難の業だったのさ。だから演奏者のモニター環境を確保するために、小さいギターアンプを使っていたんだ。そうしないと皆がとんでもない大音量で演奏し始めるからね。そうなるとピアノやドラムの音は、なかなかギターの音から隔離した状態で録音出来ないんだよ。おまけにデュアンとエリックには生のドラムやピアノ、ハモンドオルガンの音がキチンとモニター出来難い環境だったので、僕はAKG414というタイプのマイクをピアノの中に突っ込んで蓋を閉めると、(ピアノを)キルト布で3重に巻いてガムテープで留めたのさ」

 

「シュアー製のSM57とエレクトロヴォイス製の635sマイクは、ギターアンプを録音する時に使用したね。部屋の反対側ではBobby Whitlock(ボビー・ウィットロック)がハモンドを弾きレズリースピーカーが鳴っており、何本かのSM57を使って上部、下部を補足した。部屋左の最も奥まった角にはドラム・ブースがあり、アルバートによって宇宙船のようにされた円形のブースの中にはJimmy Gordon(ジミー・ゴードン)のドラムセットが組んであり、望遠鏡みたいな形をしたソニー製のECM51でハイハットを狙い、2本のノイマン製のU47をオーバーヘッドに、同じくノイマン製のKM84をスネアに、アルテック製の633ソルトシェイカーをバスドラに、そしてノイマン製のU87をタムに配置したんだ。隣のブースにいたCarl Radle(カール・ラドル)のベースは、DIDirect Injection/卓と楽器を音響的に直接接続する機器)」で対応した」

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ソニー製のECM51マイク

 

「当時、ベースアンプに関するマイキングについてはエンジニア間で様々な論争があったよ」とロンは振り返る。

「あるグループは(ベースアンプにマイクを立てる)自分達のやり方を信奉していたしな。我々は彼らをなだめすかしながらも自分達のやり方を貫いたのさ。ミックスの際にベースアンプをマイクで拾った音を使うのは稀だった。ベースアンプをマイクで拾った音を使う事でユニークで特別なサウンドにならない限り、その使用については全く論理的じゃないと考えていたからね」

 

 

文字通り全てを録音した!



「当時、我々は全てを録音していたんだ」とロンは続ける。
「テイクワンを録って1度再生して聞き直す、テイクツーを録って1度再生して聞くっていう手順は踏まなかったんだ。全てを録音するために常時レコーダーを廻し続けていたのさ」
「スタジオに足を踏み入れると、誰かがリフを弾いていたり、何かを演奏し始めたり、あれを試そう、これを試そうというという感じだったんだ」とハワードが付け加える。
「とにかくずっと録音していたんだ。そうしている内に、全員がこのテイクだ!っていう瞬間が来るんだよ。それから細かい部分をあちこち修正するのさ。普通、1曲録音するのに3回~4回通しで演奏するんだが、その前には既に3~4時間も演奏しているんだけどね」

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クリテリア・スタジオの今日の姿。
ヒット・ファクトリーに買収され、レイラが録音されたスタジオBは、
完全にリフォームされたクライアント用のラウンジになっている。
 

 

「他のトラックにおいて修正やオーバーダブをしないのにも関わらず、OKテイクから残るのは基本的にはリズムギターとドラムのみだった」とロンは語る。
「ストーンズやDerek & The Dominosのようなバンドは、元のアイデアに戻ったり、多くの修正を施したりするということは本当に必要とされるまでしなかったので、ライブ演奏中のミュージシャン間の化学反応を大切にしていたんだ。そうでなければそもそもバンドで演奏する意味なんて初めからなくなるからね」

これに反してクラプトンは、'Layla'のリードヴォーカルをライブルームに設置されたノイマン製のU87の前に立って、数夜かけてヴォーカルをダビングした。数テイクの中からチョイスされたあとUrei社製のコンプレッサーで処理された。

ロン・アルバートは、「トム・ダウドはスタジオにいる人間のムードを読む五感のようなものがあった。ヴォーカルが今夜のうちに録れそうかどうかなどはいち早く察していた」と回想する。
「彼の凄いところは、プロデューサーとして、ミュージシャンが(演奏やアイデアの)引き出しをなくしているような時でも、まだ十分なアイデアの余地があるかのように配慮し、パフォーマンスし易くするために十分な時間や環境を与え、別に日にやり直して、もう一度演れるようにしてあげることなんだよ。彼は絶対に“今夜のお前ら全然だめだ、もう止めよう”みたいな感じでミュージシャンを追い込むことはしなかった。本音では今夜はひどい出来で、全然録れそうもないなって思っていても、おくびにも出さなかった。そういう時彼は、もう一度、別の日の夜に彼らとトライして、キチンと録る事にかけて、ピカイチの才能だったね」

(補足:クラプトンの自伝によれば、当時の彼は極度のアルコール依存とドラッグでシラフでいた事が殆どなかったと言っている。当時のスタジオ内のクラプトン(やメンバーたち)が、常に酔っぱらっていたかハイになっていただろうことは記述からも容易に想像がつくが、そういう環境下であのパフォーマンスを引き出したダウドの手腕と功績はもっと評価されるべきものかもしれない。日本にも音楽プロデューサーを名乗る人は数多いが、本当の意味での音楽プロデューサーとは、本来どうあるべきかについて、ダウドの考え方やアプローチは参考になるだろう。)

 


テープ編集の芸術:


「前述したギターとレズリースピーカーの組み合わせによる効果は別にして、'Layla'で使用されたイフェクターは唯一“EMT”というテープループ式のエコーマシーンとJim Gordon(ジム・ゴードン)のパーカッション部分にダビングしたテープを使った逆回転シンバルだけだった。当時はそんなにイフェクター類に恵まれていなかったんだ」とロン・アルバートは振り返る。


「当然プラグインなんてなかったしね。今みたいにプラグインに恵まれデジタル機器に囲まれている時代からみると、自分達があの環境下で(あのようなサウンドを)どうやって作れたのかが不思議な位なんだが、何とかやりくりしてたんだと思う。編集という部分を考えても、ハワードは信じられない位“マルチテープの編集”に長けていたんだ。もちろんこのアイデアの根源はトム・ダウドなんだがね。ハワードはその辺りではちょっと遅れていたかもしれないが・・。
とにかくハワードはテープ編集の名手で、曲にマッチした素晴らしいイフェクトを編み出してくれたのさ。
編集の秘訣の1つには、我々が演奏を録音する際のテープ上のトラックの配置があった。一番典型的なのは、今日でも一般的な方法でもあるが、アナログ録音の場合、95%のセッションでは1トラック目にバスドラを配置し、2トラック目はスネアって具合なんだ。だが通常ハワードと私は、ベースギターとバスドラという配置していたんだ。こうすることで、テープをカットするためのキッカケとなる(音の開始の)タイミングをキチンと掴むことができるのさ。テープの中央部に当たる8チャンンルから10チャンネル付近で垂直に対して45度のアングルでテープを切り、別に切ったテープと1つに貼り合わせると、音の頭の部分はまだテープに残るんだよ」
「(編集後も)音の前後関係はキチンと継続されたんだよ」とハワードは続ける。
「もし多少のノイズがあったとしても、認知出来ない範囲に埋もれるからね」

コーダ(後奏)について:


'Layla'

 

のレコーディングが完全に終わると、ドラマーのJimmy Gordon(ジミー・ゴードン)が、ピアノの辺りをうろつき始め、あの曲をこの上なく優しく、また愛らしくウィットを持ち、緊張感のあるブルースロックに先導された世界観に対して、完全に対立したようなコーダ(後奏)を思いついたんだ。
「このサウンドを聞いて痺れたことで、皆が“曲の中に取り込んでしまえばいいじゃないか?”と言い出したんだ。いわゆるLaylaのパート1とも言える部分にはピアノは入っていない。パート2はジミーが演奏するピアノで幕を開け、パート3はパート1と2がスムーズに繋がるように、ピアノソロの終盤で、誰もがクールだなと感じ始めた辺りでバンド全員の演奏が戻ってくるのいいだろうということになった」

結局“Layla”の入ったアルバムのレコーディングは約3週間かかった。その内1週間はミックス作業に費やされた。アルバート兄弟とダウドは、文字通り全ての指をつかってフェーダーの上げ下げをした。時代はまだコンピューター管理のオートミックスの前だったのだ。

「ある種の感情や性的緊張があのアルバムに記録されていることで、時代の象徴となったのは、かなり控え目な言い方だろうし、音の中に点在するドラッグの影響は、良い方向に出ていたと思うよ」とロンは語った。
「あのセッション中のドラッグ使用は、本当の深刻な時があったからね・・・」
ハワードは「ただ幸いなことにドラッグがあからさまな悪影響を与えなかったんだ」と付け加えた。

その後、19795月にベースのCarl Radle(カール・ラドル)がドラッグとアルコールによって亡くなった。
1970
年の最後の3ヵ月にはまるでその後の全ての未来を予言しているようでもあった。バンドがイギリスとアメリカでLayla” のアルバムを引っ提げてツアーをしていた時、Bell Bottom Blueや編集して短縮バージョンになった”Layla”がアメリカのチャートを駆け上っていた。ただ、イギリスではアメリカのような初期的な成功は見られなかった。
1972
年のバンドの解散、ヘロイン中毒によるクラプトンの一時的なリタイア、またDuane Allman(デュアン・オールマン)のバイク事故による早過ぎる死にも関わらず、“The History Of Eric Clapton”という編集盤のアルバムで'Layla'7分版のフルバージョンとして再リリースされ、発売から約10年かけ、その年の夏のシングルとしてアメリカとイギリスの両方のチャートでトップ10入りするという偉業を成し遂げた。

補足:クラプトンのライブは日本国内で数限りなく行われていたが、“Layla”がコーダまで演奏されたバージョンで披露されたのは確か2001年の武道館が初めてだったのではないでしょうか?
(間違っていたらごめんなさい)
いつもは演奏されないあのピアノのフレーズが出てきた時は”ドキッ”としたものだ。確かこの時の模様はNHKのBSで放送されたと思われます。私も武道館の1階南東の席で堪能致しました。

EricClapton_AlbumCover_History_of_EC[1].jpg

 

エリックとパティ・ボイドについて言えば、エリックの粘りは報われたと言って良いだろう。ボイドはジョージ・ハリスンと別れ、'Layla'がレコーディングされてから9年後、エリックと再婚した。しかしその結婚生活も1988年には終わりを迎える。だが自分の横恋慕を題材にした愛の賛歌は永遠に残ることとなった。
曲のコーダは、Martin Scorsese(マーティン・スコシージ/orスコセッシ)の1990年の古典的名作映画グッドフェローズの中で使われ素晴らしい効果を生み出した。
また1992年にクラプトンが出演したMTVのプログラム“Unplugged”で披露したアコースティックバージョンは、彼のキャリアの中で最大とも言える成功を収めた。それでも、苦痛を秘めたリードヴォーカル、時間を超越したギターのリフや、ピアノとスライドギターを組み合わせたコーダは、この曲をロックの名作にし、永遠と歴史に残る作品となったのだ。

クラプトンの言葉を借りれば、「何かを所有しようという強力な力、私はその力に心地良さを感じたことは一度もない。だから演奏する度に圧倒されるのさ」ということになるだろう。



以上。


(事実関係等に誤認等があればお知らせください。修正し、訂正させて頂きます)

2014年3月15日に一度校正済み


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コメント 4

makimaki

読みました
by makimaki (2014-03-14 23:19) 

コロン

ありがとうございます。お粗末様でした。
by コロン (2014-03-17 11:45) 

マッピー

確認ですがジョージ・ハリソンとジョイントした日本でのライブでクラプトンは「レイラ」を演奏したのですか?
by マッピー (2018-02-13 12:52) 

コロン

「レイラ」はやらなかったと思われます。
by コロン (2018-02-13 18:52) 

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