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山下達郎 シアターライブ 1983-2012を見た夏の日 [ライブ・コンサート]

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私は山下達郎氏の音楽が好きである。もうかれこれ
41
年近い(2019年現在)。
1人のミュージシャンにこれほどコミットしたことは実は達郎さんを除いて他にない。おまけに私のブログの中でこの記事だけがダントツにアクセス数が多い。
達郎さんのファンはかなり濃い人が多く、音楽にも詳しい人おり、加えて
70年代のデビュー時からライブハウスで見ているような人もいるので、その方々に比べれば私のファン度なんぞは全く大した事はない。

2019年のツアー開始が迫る5月29日夜、陰を落とすような情報が公開された。達郎さんの長年の盟友であるキーボード・プレイヤーの難波弘之氏が白板症という口蓋の病気でツアー離脱するというのだ。

達郎さんがご自身のラジオ番組内でゲネプロに入ると言っていたことから推察すると、6月6日の市川市民会館は既に延期対応になったが、宇都宮以降はまだ公表がない。

2019年5月30日、難波さんのfacebookに以下のコメントがアップされた。

皆様、ご心配をおかけしましてすみません。たくさんのメッセージありがとうございます!

達郎バンドのメンバーやツアーのスタッフ、そしてEraスペシャルのメンバーや和久井さんはもちろん、様々な方からお見舞いと励ましのメッセージを頂きました。
特に、入院時期と重なってしまい、せっかく初日を目指して練り上げていた中での達郎の公演延期は、メンバーやスタッフはもちろん、楽しみに待っていてくださった皆さんに対しても、大変申し訳なく、残念です。
とは言え、あり過ぎる候補曲にまだ迷っているものの、達郎リハは絶好調で続いておりますし、二日のセッションライブは普通に行います。
どうか皆さん、あまりご心配なく!


達郎さんの心中は想像もつかないが、リハは進んでいるようなので、その言葉を信じよう。

また難波さんほどの一流キーボードプレイヤーで、尚且つ50本のツアースケジュールにピッタリと開いていて、達郎さんのような高い要求に応えられる演者は、残念ながら日本には殆どもう居ないと言っていいが、誰かを探し当てるしかないだろうから、我々は待つしかない。
それでも、Show must go onの世界でもあり、対応しなければならない。大変の仕事である。

1ファンとしては、難波さんの一日も早い回復と復帰を祈り、また達郎さんや関係者の方が2019年ツアーを導いて下さる事を心から祈るばかりである。

 

 

さて、話を戻す。
そもそも達郎さんがデビューした当時である1975年頃、私はまだ田舎で中学・高校に通っていた時代だ。従って情報も殆どなく、ラジオからDown Townがかかってきたのを聴いた記憶がある程度だ。

ちなみに私の特技は達郎さんの唄マネである。周囲では結構評判が高く、クリスマスの時期になると俄かに声がかかる。(笑)[わーい(嬉しい顔)] 

自分で作った曲に多重コーラスを施すこともあるが、実際やってみると本当に難しいのが良く分かる。タイミング、ピッチ、ニュアンスなど声を数多く入れれば入れるほど音響的な処理が難しくなる。それなりな感じにはなるのだが、とてもON THE STREET CORNERのようには簡単にならない。やはり達郎さんはレベルが違いすぎるのだ。


私の最初の達郎さんの音楽との出会いは、1975年のSUGER BABE時代の名曲DOWN TOWNだった。当時まだ私は田舎の高校生で、深夜ラジオ(主にオールナイトニッポン)から流れるのを聞いていた程度だ。山下達郎という人物を意識はしていなかったし、私の周囲の友人にも全く居なかった。

私が達郎さんの音楽を意識し直したのは1978年に東京の大学に入学のため、上京をしてからだった。田舎から出てきた私の最初の友人となった調(しらべ)君が“Go Ahead”をカセットに録音して渡してくれたのだ。

貧乏大学生の私の自宅の4畳半にはAIWAのカセットデッキとヘッドフォンしかなく、ターンテーブルが無かった。そんな中で私はもらったカセットを聞くともなく毎日聞いていた。
そして何度も聞いている間に妙なハマり方をしてきた。特に達郎さんの声が私のハマった最初のポイントだった。アカペラも新鮮だった。
私は高いキーで歌える男性歌手に魅力を感じる傾向があったからだ。
だから中学、高校時代はずっと井上陽水さんやサイモンとガーファンクルなどのファンだった。長野県の山奥の田舎の学生なんて洋楽ファンも少ないし、スティービー・ワンダーだって理解されるギリギリな感じだった。

1978年という年は、サザンが6月にデビューし、CHAR、原田真二などが輩出され、日本のロックシーンが俄かに活況を呈してきた時期と重なる。
ただ、達郎さんはまだ超マイナーなミュージシャンだった。CM作家をやったりコーラスアレンジをやったりして口糊を凌いでいた時期だ。後々詳しく知るようになるが、荒井~松任谷由実さんのコーラスなんかを達郎さんがやっていたのはこの70年代後半の時期に重なる。以下の達郎さんがユーミン関係で参加した曲を列挙しておく。達郎さんという切り口でユーミンを聞いてみるのも楽しいかもしれない。ipodだったらプレイリストで簡単に作れそうだそ。

山下達郎氏が参加したユーミン関係のコーラス参加作品

1974年 「MISSLIM」 荒井由実:
「生まれた街で」(シュガー・ベイブと吉田美奈子)
「瞳を閉じて」(シュガーベイブ)
「12月の雨」(シュガーベイブ):秀逸なコーラスワークが聴ける!

「あなただけのもの」(吉田美奈子、山下達郎、鈴木顕子<現・矢野顕子>、大貫妙子)
「たぶんあなたはむかえに来ない」(シュガー・ベイブ、吉田美奈子)

1975年 「コバルトアワー」 荒井由実
「ルージュの伝言」間奏で達郎のコーラスがフューチャー。当時からこのコーラスは印象的だった。
「少しだけ片想い」

1976年 シングル
「翳りゆく部屋」 荒井由実:爆発的なコーラスが印象に残る楽曲です。

1976年 「14番目の月」 荒井由実:
「天気雨」
「避暑地の出来事」
「14番目の月」
「さざ波」
※なお大貫妙子、吉田美奈子とともに参加。

1978年 「流線形'80」 松任谷由実:
「真冬のサーファー」:達郎さんが全面的フィーチャーされている曲。

1979年 「OLIVE」 松任谷由実:
「甘い予感」
「稲妻の少女」
※ 吉田美奈子と参加、「稲妻の少女」では多重コーラスが堪能できる。

さて、“Go Ahead”のジャケット画を見る限り、達郎さんがイケメンじゃないことは確かだったが、ビジュアルとのギャップが益々私を惹きつけた。きっとこの人は凄い人だと感じたのだ。
おまけにこれだけの才能なのに、周囲で注目している人が居なかった点も天の邪鬼な私のサブカル心をくすぐった。今思うに、達郎さんってアメリカのポップアートに造詣が深いのでこういう感じになったのだろうと推察する。一般的な評価をともかく、私はデザインも音楽も好きなアルバムだ。


GO AHEAD! (ゴー・アヘッド! )







達郎さんの曲調は洋楽的で、歌詞も印象派的な匂いを感じていた。そしてこのアルバムによって初めてアカペラという言葉を知ることになる。
その後私は、80年代に入ってからこのアルバムの1曲目のOVERTUREという曲を、「男の36回ローン」で買ったTEACの244という4チャンネルレコーダーを使い、自分の声を重ねて録音し、アカペラ・コピーを試してみることになる。出来上がりは友人にはバカ受けだった。

1979年のアルバム“Moon Glow”(当時はLP)を渋谷の道玄坂にあったヤマハ楽器店(現在は自転車屋)で買った際、調君の親戚の女性が働いていた事で、“Come Fly With Me”(下写真)というプロモ盤をもらう。当時700枚を宣伝用で生産したらしい。
この年の6月2日、コンサートツアー
FLYING TOUR '79 PART-1』全4公演を開始する。

実は6月27日の大阪サンケイホールのライブは達郎さんにとって初の大阪のライブだった。実は当時のライブ演奏はビデオ映像で撮影されておりプロモーション用オンリーの宣伝用のビデオとしてまとめられているが一般解禁されていない。
遥か昔だが、幸運にもこの映像を全編見る機会があったのだが、「ついておいで」で始まるライブは、当然Go Ahead以前の曲で構成されており、LOVE CELEBRATIONのような、現在ではほとんど演奏されないような曲も含まれていた。(アレンジはレコードと異なりテンポが速い)

クリーム色のストラトキャスターを演奏する若干26歳の達郎さんのパフォーマンスは、現代の26歳のミュージシャンと比較すると物凄い高いレベルである。当時のメンバーは以下だ。

上原裕(Drums)
田中章弘(Electric Bass)→最近は高中正義氏のライブで見かけます。
椎名和夫(Guitars)
難波弘之(Keyboards)→今でも達郎さんのバンドの要。
吉田美奈子(Background Vocal)
大貫妙子(Background Vocal)

さて、"Come Fly With Me"は、後にCD化され、Come AlongⅠとして登場するのだが、小林克也氏の軽妙な英語のDJによって繰り出される数々の名曲を聞いて益々ハマってしまった。小林氏はその頃まだ世間に名前が出ていない頃だったが、こんな英語の上手い日本人が存在するなんて・・・と驚いたものだ。現在でもBS朝日でベストヒットUSAをやっているが、英語の曲の紹介は古希を迎えても全く衰えない。

いずれにしても当時達郎氏の音楽を語れる友達は周囲に調君しかおらず、初期のプチ・タツマニマとしては寂しい境遇だった。
大学時代の週末の深夜、車で友人と湘南方面を目指す際にカーステでヘビロテしてたが、友人連中には殆ど理解されなかった。連中はサザンやユーミンがお好みだったが、それはそれで私も好きだった。

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そんな中、週刊少年ジャンプ(チャンピオンじゃないか?というご指摘もあったが・・。私はチャンピオンを買わない人だったのだが・・・。記憶が曖昧・・)に連載をしていた「とり・みき」さんが女の子のキャラクターに山下達郎とテキストで書かれた
LPまがいのものを抱えさせて登場させたシーンを何度か見て、メジャーな人でも達郎さんを認めている人がいる事に強く心を支えられ、自分たちの感性が満更でもないと感じた事もあった。
そんな時代だった。

1979年になるとJAL沖縄路線のCMに”Let's Kiss The Sun”が使用され、画面内に彼の名前もクレジットされる。
確かコカコーラのアカペラのCMも1979年だった。
この時も達郎さんの名前がクレジットされ、自分の息子の活躍を見る親のような気分でとても嬉しい思いだったが、なんでこの才能のある人がもっと売れないのかと、日本の若者たちの音楽嗜好の偏向具合と無理解さに本気で憤っていた頃だ。

私が達郎さんのコンサートに初めて行ったのは19801223日の中野サンプラザだった。今じゃ考えられないが、マクセルのカセットCMに本人が出演してRIDE ON TIMEが流れていた。ジャケットはマクセルのポスターが巻かれており、後年、ファンクラブの会報のインタビューで、ポスター写真をジャケットに採用することだけは死ぬほど拒否したらしいとあった。

契約で縛りがあったため、事務所の社長が苦肉の策として、ポスター仕様にしてジャケットに巻きつけて二重構造とする方法で解決をしたらしいが、あのジャケットの裏にこんな話があったんだと改めて驚いた。

さて、RIDE ON TIMEは
大ヒットし、あっと言う間にスター扱いになったのだ。この曲を最初に聞いたのはニッポン放送のオールナイトニッポンで、確かタモリさんの日だった。冒頭1曲目にかかったが、AMラジオから流れてくるピアノの音がうねる波の音のように感じた。

曲のヒットと共に、芸能人関係者が昔から彼に注目していたなどというコメントを出し始める。ご本人にとっては70年代の長い日陰者扱いが嘘のような大変化だっただろう。

(マクセルCM:残念だが海で撮影したヴァージョンじゃないが・・。)
http://www.youtube.com/watch?v=9srsJW7BXgQ&playnext=1&list=PLD058070462D17EED&feature=results_main


私はこっそり友達と育てていたサブカルのアイドルが世間で陽の目を見てしまったことに嬉しくも悲しくもあった。ファンとはわがままなもんである。
その後も達郎さんのツアーは、1ツアーに必ず
1ライブを見に行く事になり、それは幸運にも今日まで続いている。
当時はチケットを買うのにさほど苦労しなかったが、やがて取り難い状況が発生したためファンクラブにも入る。

いつのコンサートか忘れたが、達郎さんが「いつまで現役でステージに立てるか分かりませんが、その内レコード会社の制作部長か何かになっているかもしれません」とMCで発言していた事があった。当時の感覚としては40歳を超えて現役のロック歌手をやっているなんて想像を超えていた。その達郎さんも2013年2月4日で還暦となった。隔世の感がありますなあ。



2011-12
年に行った60本を超えるライブツアーでは、もはや死ぬまで現役を貫くしかないとMCで語り意気込みを示してくれた。
それは私の初めてのライブ体験から
39年余りが経過しており、立場は違うが、お互い自分のキャリアの先を考える年齢になったなと感慨深かった。
そして私はまだ達郎さんの音楽を支持している。多分人生で一番聴いたミュージシャンかもしれない。なんで飽きないのかと思う時もあるのだが、やっぱりイイんだよねえ。良く出来てるし。毎回発見があるし。職人芸ってそういう感じを味わえるんですよ。
彼の音楽をマンネリという人もいるが、個性の強いミュージシャンは反動的におのずと誰でもマンネリズムが生じる。

桑田さんだろうが、ローリングストーンズだろうが、個性的なミュージシャンには指紋の如く識別可能な個性が現れる。
その副作用をマンネリと言う人もいるが、別に嫌になったら聞かなきゃいいし、私には気にならない。好き嫌いは個人の嗜好の問題なので議論に適さない。

逆にある日突然達郎さんがマリリン・マンソンみたいに大変身された方がこっちが困る。予定調和を支持している訳じゃないが、個性を大幅に逸脱するために策を弄して欲しいとも思っていないだけだ。そうやって消えていった人も多い。

達郎さんのファンはそれぞれの理由でずっと達郎さんを応援していると思うが、私の主たる支持理由は、「圧倒的な音楽性」「頑固なまでの職人気質」を貫いているからだと自己分析している。
「心は売っても魂は売らない」という一徹さは、現代人にはなかなか貫徹できない部分だ。社会で長く生きていると人生が妥協の産物だと思い知らされる。もちろん達郎さんも妥協が全くない訳じゃないだろうが、
そういった意味を踏まえ、自分に不足しているものを必死に体現している彼は、私や他のファンの方々にとって時代を超えた“憧れのアイドル”なのだと思っている。

私もかつて20年程音楽業界に身を置き仕事をしてきたが、ミュージシャンが自己表現を徹底的にやり続けるというのはかなり至難の業だというのを現場で見ている。

ミュージシャンのクリエイティブは、どうしてもビジネス(つまり金の問題)との折り合いから時間的、予算的・時間的に制限が加わる事が排除出来ない事実があるからだ。

達郎さんもMoon Glow以前にはそういった場面に遭遇していると語っている。“Go Ahead”が自分の最後の作品だと腹をくくって作ったというコメントからもその様子が伺える。
企業は、年度内にキチンと売れて回収出来ないものは作れないというのは、年度毎で会計を締めなければならない企業の副作用とも言える。償却出来なければ、企業のBSに残価が在庫として蓄積される。場合によっては特損対象となり、企業側からすれば営業利益を圧迫する直接的な原因となる。

アーティストは作品の質の向上のために無制限のクリエイティビティーを追及したがる傾向があるが、ビジネス的に儲けが出なければその行為を続けさせて上げられないという鶏と卵の構図のせめぎ合いが絶対に避けられない。

結局この解決の方法は幾つかしかないが、ミュージシャンが金のリスクを取れるのであれば自分で稼いだ金を原盤制作に再投資をすることだろうし、レコード会社がそのミュージシャンに本気で賭けることができれば資金投資をするだろう。
しかし事はそんなに簡単ではない。

いずれにしてもクリエイティブとビジネスの折り合いはいつも解決の難しい問題なのだが、達郎さんはそうした修羅場を数々超えてきたに違いない。

私にしても、多くの市井の人々にしても、日常で多くで妥協や折り合いをつけながら生きている。選べない上司、クライアントに対して自分の正論を貫けない悶々とした日々など、サラリーマンをしていると人生が妥協の産物になっていて腹立たしいと感じる人は多いだろうことは前述したとおりだ。
核心的部分は出来るだけ拘ろうと頑張ったりもするが、自我を貫き通すのはそれなりの覚悟とエネルギーが必要だし、サラリーマンなんぞをやっていると、給料と人事という人質を取られており、年齢が上になるほど成果の度合いも高くなり、比例して悲哀の度合いも高くなる。

自営業にしたって客がいなければ成り立たず、頭を高くしてばかりもいられない。

達郎さんが自身の生活の全てにおいて、自我を貫き通し、全く妥協をしないで生きているとは思っていないが、少なくともクリエイティブにおいて職人的観点から拘りを貫いているのは達郎さんの発言からも作品からも分かるし、そんな姿勢を戦いながら貫いている姿は羨ましくも神々しくもある。

達郎さんの音楽スタイルである「強いリズムと美しいメロディー」は時代を超えて変化がない。きっと私はこのシンプルさを美しくて心地よいと感じているのかもしれない。

サンプリングやシンセの発達した80年代後半に、こうした保守的な音楽性向は古めかしいと評価する人たちも多かったが、達郎さんは時代時代の目新しいものを慎重に取りこんだ事によって時代にその風化に耐えている。むしろ当時の時代を先取りした音楽は最も早く朽ちて行ってしまったと言える。
最新のものは最も早く最古になるのは世の習いだ。

シンプルなコンセプトや目新しさだけに走らない音楽作りは、30年を超える時代に負けない音楽を作り出した一因だろうし、達郎さんの支持者がなかなか減らない理由かもしれないとも思う。
もはや自分はガラパゴスを貫くと言い切る彼のスタンスには、どこかしら日本のファンの心理に共有感があるのだろう。
過日の中国での反日デモやグローバル化の果てに訪れたアメリカの超格差社会に直面すると、グローバル化に路を求める故の多大なリスクを改めて考えてしまう。

そんな達郎さんの全時代を網羅したオールタイムベスト盤がこの時代になって発売されるのも感慨深い。レコードメーカーの違う原盤権の処理や選曲はさぞかし大変だったろう。
CDジャケットは、私と友人の調君だけが達郎さんを好きだった、タツマニアの孤立期に唯一著名人で達郎さんを表だって応援していた”とり・みき”さんが描いている。


OPUS 〜ALL TIME BEST 1975-2012〜(初回限定盤)






この夏、
1983年から2012年の19年間に渡る達郎さんのライブ映像を集約した映画が公開された。このライブ映像にはある特徴がある。
それは主役が“演奏(
Performance)”だという点だ。
毎回の舞台美術は演劇的演出が施されているが、照明も特殊効果も決して演奏を邪魔することはない。そういう意味でこの映画は全く映像的ではない。時代も様々なため、映像の質も均一でない。

しかし圧倒的な達郎さんの演奏は時代を超えて素晴らしく、演奏が主役の映画であるために、観客はシンプルに演奏に集中することができる。
彼のライブにはアトラクション的な過剰舞台演出が不要だと理解するのに時間はかからない。そうした事から達郎さんがライブの本質を徹底的に突き詰めていることが分かる。
また映画を見ていると達郎さんのギターの弾き方がハッキリ見えて嬉しい。それに結構色白の方ですよね。

音楽産業はCD売上の不振によってビジネスモデルの変化を余議なくされている。達郎さんでさえも音楽ビジネスの変化により激減するCDによる印税収入は、以前のような売上を期待できない状態だろう。

2005年以降からは、ここ数年間かなり不定期だったライブツアー活動を定期的に開始したのは、こうした事情が少なからずあり、ビジネスの変化の影響が色濃かったことは伺える。

しかし達郎さんには数十年に渡って蓄積してきた圧倒的ライブパフォーマンスという大きな得意技があったため、厳しい時代の変化にも柔軟に対応出来たと言える。それでも長年一緒だったメンバーの交代はかなりシンドイ事だったろう。音楽の根幹が変わってしまう可能性もあるからだ。

音楽業界の人に聞いても、今後はライブパフォーマンスで集客の出来ないミュージシャンは殆ど行き残れないという声が圧倒的だ。そんな中で達郎さんはキャリアも音楽制作もパフォーマンスも一級品のレベルにある。

私はミュージシャンを目指す若い人たちに、お金を取って音楽を生業にするというのはこのレベルのミュージシャンと同列の世界に入るのだという事を改めて認識してもらうためにも是非ご覧になって頂きたいと思う。
そんな強烈な個性をもった職人ミュージシャンと同じ時代の息吹を感じ、音楽が一番面白い時代を共有出来た我々は幸運と言えるのではないだろうか?


そんな彼の仕事に対するインタビューが掲載されている。是非ご参考に。


★職人でいる覚悟:山下達郎が語る仕事

Part-1~4:

http://www.asakyu.com/column/?id=1028

http://www.asakyu.com/column/?id=1031

http://www.asakyu.com/column/?id=1034

http://www.asakyu.com/column/?id=1037

朝日新聞:フロントランナーの記事 

http://doraku.asahi.com/hito/runner2/121016.html


 

補足記事:山下達郎を売るための全包囲PR

http://adv.asahi.com/modules/feature/index.php/content0576.html

補足記事:開業女医に力与えた山下達郎の「空白の3年間」

http://dot.asahi.com/aera/2012092800055.html




ぴあ Special Issue ~山下達郎“超ぴあとコラボでこんな雑誌も発売された。インタビューやデータも多くてファンには堪らん内容でした。「生タツの記録と記憶」のコーナーでは、1980年の欄に私が投稿したコメントが掲載されていた。編集部がリライトしていたが、リライトの方が文面が的確になっていた。ちょっとした嬉し恥ずかし経験になりました。自分の人生の経緯と達郎さんとの音楽のシンクロ具合が改めて分かった次第。"FOR YOU"発売前にツアーが始まって、まだ知らない曲が4曲位続いた時の模様をコメントしている人がいたが、懐かしい思い出だ。確かモーニング・グローリーは上手にあった生ピアノを達郎さんが弾いて歌ったような記憶がある。


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私は達郎さんのギターを持って演奏している立ち姿が好きだ。
ブラウンのテレキャスと
右手の結婚指輪と時計のセットがおなじみの姿。
2019年5月、奥様の映画の再上映に伴って達郎さんのシアタームービーの再上映が決定。
改めて見ておきたい。以下はシアタームービーの曲目リストと、不祥私の解説です。


·     曲目リスト(シアタームービー)

(自分のメモ用のため一部ネタばれありのためご用心/尚、記憶違いの記述はご容赦を)


01
SPARKLE

1986.7.31@中野サンプラザホール(PERFORMANCE '86

33歳の達郎さん。実は私、とある仕事の都合でこの前年の9月にご本人と会っている。仕事だったので特にファンだとは言えず、モヤモヤしたがとてもドキドキした光景を思い出す。その際、とある人が写真を撮ってくれたが、さすがに公開できないので悪しからず。
さて、この曲を初めて聞いたのはサンプラザのライブだったが、私の記憶が確かならまだ”FOR YOU”が発売される前での演奏だったはずだ。ライブツアーにアルバムの発売が間に合わなかった時だったと思う。
本曲はライブアルバム“
JOY”でも聞く事ができるのだが、信じられない程に圧倒的だ。コーラスの佐々木久美さんが今に比べてかなり痩せている。(失礼) またコーラスには故CINDYさんの姿も見える。SD画質なので43の画格だ。
この当時のツアーは、自分の座席がサンプラの1階のちょっと後方だったので、改めて演奏の様子が確認出来た次第で嬉しい。この曲をコピーした事があるが、本当に唄いながらギター弾くの難しいんだよねえ。特にラストのフェイク部分は圧倒的で誰にも真似出来ない。最近こんな凄い演奏する33歳のミュージシャンなって居ない気がするが・・・。
全くの余談になるし自慢したくて書くつもりではないが、「JOY」に収録されている1986年10月9日の郡山市民文化センターの本曲の収録映像を見た事がある。本映画ではサンプラザでのバージョンだったが、次曲のLOVELAND ISLANDが演奏されたコンサート(ツアー千秋楽)のバージョンを見ている。演奏は2曲目だった。ジャケットにネクタイ姿の達郎さんなのだが、CDの音源でも分かるような物凄い演奏を見せてくれる。当時の映像はフルバージョンで残っているようだが、この映画では
サンプラザホールになっていた。
 

02LOVELAND, ISLAND

1986.10.9@郡山市民文化センター(PERFORMANCE '86

赤いシャツが印象的な映像に変わりライブでは終盤に演奏される本作が2曲目に登場。本映像は、当時収録を目的とする追加公演的な形式で演奏されたものだという。
またこの曲は当時サントリービールのCMソングとして作られた曲で、
サンバのリズムに乗って踊る女性の踊りのテンポに合わせて作られた曲だという。
演奏終盤に多少の御愛嬌があるパフォーマンスだが、演奏そのものは圧倒的。
本演奏はアルバム“
JOY”で聞ける音源と同じはずだ。
この曲も高気圧ガール同様、ギターのカッティングがポリリズムなので見た目より演奏しながら唄うのが難しい。
アルバムFOR YOUが発売になった時には、前述のようにサントリービールのCMソングとして
タイアップされており、I LOVE YOUという歌詞の部分は
”サントリービール”という歌詞に置き換えて唄ったバージョンで放送されていた。
当時シングルカットの要望もあったが、本人の意思でカットされなかったという。



03)メリー・ゴー・ラウンド

1985.2.24@神奈川県民ホール(PERFORMANCE '84-'85

スパゲッティーのイルミネーションが釣り上げる演出があったのは確かに覚えている。
こんなポップな舞台装置だったっけ?と今更ながらに思う。青山純さんと伊藤広規さんのリズムは最強の音をしている。
当時のライブだとこの曲の直後に二人の長いリズムバトルがあったと記憶しているが
残念ながら本映画には出てこない。
最近のライブでは昔のような演奏廻しが少なくなったが、以前はかなり長いソロパートがあった。
私はこの曲の詞の持っている映像的で現代抽象画的なアプローチが好きだ。


 

04SO MUCH IN LOVE

1986.10.9@郡山市民文化センター(PERFORMANCE '86

アカペラコーナーからの一曲。本当に歌が上手いなあ・・と思わず小声で呟いてしまった。
あの細い体で何であんなに声量あるのかねえ・・。

05)プラスティック・ラブ

1986.7.31@中野サンプラザホール(PERFORMANCE '86

このヴァージョンのアルバム“JOY”と同じだ。女性の音域をライブで歌うのはなかなか難しいものだが得意のファルセットで歌いこなしてくれる。コーラスとのコンビネーションが素晴らしい。


06
)こぬか雨

1994.5.2@中野サンプラザホール(Sings SUGAR BABE

確かSings SUGER BABEは東京でしか公演をやらなかったと記憶している。
それ故チケットが争奪戦になったライブだった。
このライブは音楽業界に居た時代だったので、
コネを駆使して何とかチケットをゲットして見に行けたっけなあ・・・と思い出した次第。
映像がこの映画の中の映像の日だったかはちょっと記憶が曖昧だが、
ゲストに大貫妙子さんが出たことでも話題だった。
本曲では佐橋氏とのギターの掛け合いが見もの。
(ちなみにピックを使ってのリードソロが苦手という達郎さんだが、本演奏はピックを使用している)。
ソロとリズムギター時に足元のイフェクターを切り替える達郎さんの姿もとらえている。

07)煙が目にしみる(SMOKE GETS IN YOUR EYES

1999.2.4@東京・NHKホール(PERFORMANCE '98-'99

この映画に登場するライブの中で、自分がライブに参加した事を唯一記憶しているものだ。
確か1列目の上手側の座席だったろうか。
普通に買ったのになんであんないい席取れたんだろう?と今でも思う。
この演奏は確かに本当にすごかった。
青のスーツも覚えている。
たしか唄う直前のMCで”こういう風に歌うとディナーショーとか揶揄する連中がいるが・・”と
ちょっと怒った感じのコメントをしていたような記憶があるが・・・。
とにかくこのパフォーマンスは、見ていてその素晴らしさに仰天+鳥肌したのを今でも覚えている。


 

08)ずっと一緒さ

2008.12.28@大阪フェスティバルホール(PERFORMANCE 2008-2009

残念ながら2011年に閉館した大阪フェスティバルホールでの演奏。
達郎さんには愛着のあったホールらしい。
この映像からハイビジョンになるのだが、まだフル解像度映像ではない。
語りかけるような歌唱が印象的。
確かステージ下手後方から撮影していた映像カットもあったと記憶しているが、印象的だった。


 

09DOWN TOWN

2008.12.28@大阪フェスティバルホール(PERFORMANCE 2008-2009

同じく大阪フェスティバルホールでの演奏。いつ聞いても良い曲だ。
曲や歌詞の持つポップな映像感は時代を超えても褪せることがない。


 

10)希望という名の光

2012.4.1@神奈川県民ホール(PERFORMANCE 2011-2012

震災以来、本楽曲が違ったベクトルを持ったという中盤のMCや語りかけるような演奏が印象的。
最初は地味な曲だな・・という印象だったが、聞くごとに歌詞の深みにはまってお気に入りの曲になった。
”だからどうぞ泣かないで そんな古ぼけた言葉でも 
”魂で繰り返せば あなたのため祈りを刻める”なんて
人生を重ねないとなかなか書けない詞です。
NHKの高倉健さんのインタビュー特番で判明したが、
「あなたへ」という主演映画を撮影している時期に、
この曲を毎朝聞いていたという発言があった。
ファンとしては嬉し情報だった。

11)今日はなんだか

2010.10.27@神奈川県民ホール(PERFORMANCE 2010

SUGER BABE時代の楽曲。うねるような16ビートに絡みつく、

ゆったりとしたメロディーラインが印象的な曲だ。


12)アトムの子

2012.4.30@大宮ソニックシティ(PERFORMANCE 2011-2012

ビートが効いた本曲は、ライブの空気感を大きく変えてくれる。
音域の広い曲なのでヴォーカルの負担が重いはずだ。
バックでずっと鳴っているTOMの音は録音済の音源だろう。
ここから映像はフルハイビジョンになり明瞭さが格段に増す。
ステージ上の小物まではっきりと確認できるので、
使用されている楽器等の機材類の様子まで楽しめる。
やっぱりゴジラのフィギュアありましたね。
このゴジラ80年代からずっとステージに立ってるよね。
もはやレギュラー陣ですわ。


 

13RIDE ON TIME

2012.4.30@大宮ソニックシティ(PERFORMANCE 2011-2012

1980年の名曲の登場。途中の歌のフェイクに対応した舞台上の演者の反応は見ていて面白い。
また大宮のお客さんの粋な掛け声はちょっとやられたって感じ。
なかなか客もやるな!って感じ。
唄は30代前半のイメージそのままだった。


 

14)恋のブギ・ウギ・トレイン

2012.4.30@大宮ソニックシティ(PERFORMANCE 2011-2012

アン・ルイスさんに書いた曲のカバーだ。作詞は吉田美奈子さん。
完全なディスコナンバーでアルバム“
JOY”にも収録されている。
ライブでは終盤に演奏されることが多く、盛り上げるナンバーだ。


 

15)さよなら夏の日

2010.8.14@石狩湾新港樽川埠頭横 野外特設ステージ(RISING SUN ROCK FESTIVAL 2010 in EZO

オープニング映像にちょこっと出てきたRISING SUNの映像はこれだった。
達郎さんのラジオでは聞いた事があったが、やっぱり映像で見ると印象も異なる。
若い女性の観客が“さよなら夏の日”を達郎さんの唄に合わせて唇を動かしながらそっと歌い、
涙する映像に釣られて私も泣いてしまった。
赤いシャツが印象的でした。
初めて達郎さんを見た人にはどのように見えて聞こえたのかな?
映画館の外はまだ残暑が厳しい季節だったが、
確かにさよなら夏の日にぴったりの初日の公開日だった。



竹内まりあさんがコーラス隊に交じっている曲があるがそれは見てのお楽しみ。
残念ながらライブでは一度もセットリストから漏れた事がなかったLet's Dance Babyはシアターライブでは登場しませんでした。

私にブログ記事にしては、沢山の方が訪問されているようです。最後まで読んだ人がいらっしゃったらここで御礼を申し上げておきます。

2019年もツアーがありますねえ。楽しみです。60歳を超え70歳も見えてきた達郎さんがどんなパフォーマンスを見せてくれるのか期待感が高まります。個人的にはなんとか2公演分は席の確保したいが、最近は本当にチケットが取れない。
特に東京近郊はねえ・・・。
昨今の東京公演は女性のお客さんが増えたせいか、客層が良い感じになり、達郎さんも演奏に集中出来ている感じが好きだ。
皆さまがグッドフィーリングで盛り上げることこそが彼のパフォーマンスを向上させるので頑張りましょう。


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コメント 5

おじゃまします

すばらしい! 山下達郎の音楽に関する一考察ですね。
とても面白く読ませていただきました。

シアターライブよかったですよね。
私的に うれしかった事。
①達郎さんが昔から今まで ずっと結婚指輪をはめていた事・
ギターの手元が UPになるたび確認!
 我が家はいつの間にか相方はしなくなった

②達郎さんのお顔はなんだかんだ言われてきましたが
映画ではっきり見るたび
むしろ イケテル顔なのではとすら思った。
ヘアースタイルでd損していただけ! 大泉洋のようなクリクリにしたら
すごく いい顔と思った

③近影のキャップをかぶった姿は
とても安心してみていられ 
ホラネ! いい顔 すてきジャン!

④達郎さん 好みの女性のタイプは背の高い人って
どこかで読んだけど
まりあさん 背がすごく高いのね!
おキレイなのと 背の高さにびっくり。

長々とごめんなさい。
詳しく書いてくださり
シアターライブを家にいて
もう一度楽しむことができました。ありがとうございました。

by おじゃまします (2012-08-30 17:19) 

FULL MOON

個人的にオープニング映像のバックで流れていた、今までのツアーで使われていたアカペラのイントロダクションのメドレーに感動してしまいました。「さすが!」と唸ってしまいました。最後の「Your Eyes」もライブテイクのバージョンを使っていただければ、もっと満足でしたが・・・あれは実際にライブに足を運んでくれた方々への特別な曲なのでしょうね。素敵な夏の一日を頂いた様な、そんな余韻の残る内容でした。
by FULL MOON (2012-09-09 22:50) 

あんがす

今年を振り返るに、改めて達郎さんのシアターライブに参加された方の感想を見たいと思い、辿り着きました。
直接達郎さんに関係ない話ですが、とり・みきさんが早くから達郎さんのことを漫画で描いていたのは当時まったく気づきませんでした。
ちなみにその頃のとり・みき氏はジャンプではなくチャンピオンだったような気がします。
私が達郎さんの存在を知ったのは何を隠そう、チャンピオンの巻末のほうにあった音楽の紹介記事だったことを思い出しました。
by あんがす (2012-12-30 19:38) 

コロン

雑誌はチャンピオンだったでしょうかね・・。もう昔でアヤフヤな記憶なのでご勘弁を。(笑)

>達郎さんの存在を知ったのは何を隠そう、チャンピオンの巻末のほうにあった音楽の紹介記事
そうなんですか。それは知りませんでした。1979年以前は達郎さんに興味を持っている人はマイナーでしたからねえ。メディアも全く取り上げなかったですし。
思えばよくぞ35年に及ぶキャリアになったと思います。
Go Aheadで終わらなくて本当に良かったです。
by コロン (2013-01-11 16:43) 

僕の中の少年

もうあれから1年経つんですねー。LIVEには行ったことがなかったので感激しました。LET'S DANCE BABYがなかったのは残念でしたが今年のツアーで観てきたいとおもいます。
by 僕の中の少年 (2013-08-14 23:47) 

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