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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-8 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

1983年8月~10月:ヒットスタジオと今は無きAlfa studio-A


夜のヒットスタジオのエピソード)
  
 
  

1983年8月1日月曜日、石川セリさんがフジテレビ「夜のヒットスタジオ」に出演し彼女の新曲「BOY」を唄うため、憲司さんと他のメンバーは新宿区河田町にあったフジテレビに入る。フジテレビに入る前、近所(新宿にあった御苑スタジオだったろうかと思っていたが四谷にあったスタジオのようだ)で事前の演奏リハーサルをした記憶がある。
番組の出演は、いわゆる彼女のシングル&アルバムのプロモーションを兼ねている。
当時「夜のヒットスタジオ」は視聴率も良く、TBSの「ザ・ベストテン」と競いあっていた音楽番組だったが、「夜のヒットスタジオ」は当時ですら放送開始16年を経過したモンスター番組だった。


CX-河田町.jpg

当時河田町にあったフジテレビ。
今見るとNHKに似てますね。


現在お台場にあるフジテレビは当時新宿区河田町にあったのだが、私は初めてこのフジテレビの中に入る。
「夜のヒットスタジオ」の当時の司会者の情報を取ろうとWikipediaで2012年1月の段階の記載を見ると(情報の正確性の担保は不明だが・・・)、司会・芳村真理&井上順とあった。
当時の記憶を辿ってみたが、芳村真理さんの記憶があるが、井上さんについては私の記憶は曖昧だがそうだったのかもしれない。

「夜のヒットスタジオ」は完全にガチの生放送だったので本番前にカメリハが3回あった。そのため売れっ子のアイドルはリハ全部に立ち会えないため、当日着る服を持った別のスタッフが立ち位置を決めて照明やカメラのチェックをし、2回目でダミータレントを使った音声関係やカメラ割りに準じた動きのリハをし、夕方になって本人を入れたゲネプロ(通しリハ)を行う流れだった。

ヒットスタジオはフジテレビ内で最大のスタジオで行われていた。
当時のスタジオ内は、出演歌手以外に演奏部分を担当するダン池田とニューブリードと言うバンドがおり、出演歌手はニューブリードの生演奏で唄う方式だったからだ。今にして思えば豪勢な番組であるし、歌手は生歌を聴かせる訳で、今のように口パクではないので、それなりの実力が垣間見れる。

出演歌手の座る左隣(画面では右隣)に、出演者のバンド用の機材を置いておく場所があるのだが、私が楽器をセッティングをする場所はまさにここだった。
余談だが、ダン池田はその後、芸能界の暴露本を出して業界から葬られてしまった。またこの日の局内の移動中にエレベーターからダウンタウンのお二人が出てきたが、彼らはこの時代から売れっ子で輝いていたが、2018年の現在も売れっ子なので凄い事だと思っている。

当時、搬入口から楽器を入れ、スタジオまでの長い通路をエッチラオッチラ運ぶやっとスタジオに到着する。出演歌手たちの座る隣に(画面右側)、機材をセッティングするのだが、バンドの数が多いと設置場所取り争いになってしまう。
楽器位置は予め決まっている訳ではなく、早いもの勝ちなので(このルールは現場で初めて知った)、関係者の皆さんは、血眼になって管理下の楽器の場所の確保しようとする。
ただ、出演バンドが多いと最初のセッティングを崩されてしまうこともあり、担当としてはハラハラしながら見ていた感じだ。

カメリハ後、楽器のセッティングを再度確認し、ギターは本番直前まで手元において置いた。当時中森明菜さんが出演していたのだけは記憶している。他にも当時の有名アイドルがたくさんいたはずだが、不思議にも殆ど記憶にない。

石川さんの本番前に関連ミュージシャンの楽器をセッティングし本番。放送時では演出のためスタジオ一杯のスモークを使用したのだが、このスモークは楽器に非常に悪影響がある。それはスモークに大量の油分が含まれていたからだ。
本番は全部生演奏で生歌だ。
最近のガキタレやK-POPのように口パクなんていう事はない。(例外的にオリジナルカラオケを使い生演奏とシンクロする事はあった)
だから当時のアイドル歌手は例外を除いて歌が上手かったし個性豊かだった。今のアイドルにあの実力は全く感じられない。
しかしこの番組は出入りのミュージシャンには必ずしも優しい環境ではなく、メインの出演者はともかくそれ以外の人たちは、人数も多いため百羽一絡げという感じだった。

当然我々のような下っ端には控室もないため、スタジオ前で本番開始までの間を過ごすしか他無かった。本番はスタジオ内で出番の準備のために待機。セリさんの出演前のCM時間中に楽器のセットをし、その後本番。トラブルもなく終了した。本番中、現場のモニターを見て視聴者が見ている風景との随分と違いがあることを感じていた。

華やかな芸能界の現場というものを体感しながら、その周辺には多数の見えない人材がうごめいていることを知り、画面の向こうとこちらの現実を理解した。
この日の出演者で覚えているのは中森明菜さんだ。何を歌ったのかは忘れてしまったが、小柄で顔の地位さな彼女は印象的だった。

番組生番組なので22時に始まり23時前には終了。生放送は時間が見えているのでいい。
番組は現場のスタジオの隅でずっと見ていた。番組が終わらないと楽器の撤去が出来ないからだ。私がヒットスタジオの放送の現場を見たのはこの時だけだが、The 芸能界の空気が充満した現場だった。

撤収は番組終了後の23時から。翌日は楽器関係を全部メンテに出した。

この日のメンバーはドラムスは故・青山純氏、ベースは富倉安生氏、キーボードは中村哲氏だったと思う。
 

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私の記録によると当時のスケジュールは以下のようになっていた。

日にちが飛んでいる日は、憲司さんがアレンジ等の作業をしており私の稼働がなかったからだ。


(1983年8月)


8月1日:

12時~15時、四谷スタジオで石川セリさんの夜のヒットスタジオの出演のためのリハーサル。15時30分に河田町のフジテレビ入り。テレビスタジオ内に楽器のセッティングをするが、非常に限られた場所のため、楽器にとっていい位置の争奪戦となることを現場で知る。スタジオの傍で別の収録をしていたダウンタウンの2名を初めて生で見かける。当時既に売れっ子。未だに売れっ子。スゴイよね。
22時に本番スタート。


8月2日:

昨日のテレビ出演で、機材がスモークを被ったため、機材点検の日となる。 スモークにはかなりの油分が含まれており、回線に張り付くと故障の原因になるからだ。なかなか面倒だ。


8月11日:

13時~24時、田町のALFAスタジオでREICOのミックス作業。 REICOは堀口和男氏と田口俊

氏によるユニットバンド。

デビューアルバム情報:
http://musicave.exblog.jp/2739141/

メンバーの2人は2017年現在、音楽学校の講師をなさっているようだと検索で出てきている。


8月12日:

13時~24時、ビクター301St。高橋真理子さんのミックス作業。



8月13日:

13時~20時30分、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。夜は大学時代の先生と仲間たちと赤坂で久々の食事会。


8月14日:

司さん家族が神戸に帰宅のため羽田に送迎。憲司さんから5000円のこずかいを貰う。とても有難かった。 


8月19日:

19時~、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。


8月20日:

10時~、渋谷公会堂で行われた高橋幸弘氏のソロ・コンサートのゲスト出演。 この時の事はボンヤリと覚えている。この時代、高橋幸弘氏は会場を満員にしていたと思う。


8月21日:

13時~、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。


8月26日:

13時~27時、サウンドINNスタジオ。MIEというアーティストのリズム録音。


8月30日:

13時~、ヨロシタミュージック(乃木坂)で打ち合わせ。
19時からエピックソニーで打ち合わせ。(多分大江千里さんの件だろう)




 
(1983年9月)

9月5日:
15時~18時、エピックソニーで打ち合わせ。(多分大江千里さんの件だろうか?もしくはソロアルバムの発売の件だろうか?)


9月6日:
13時~18時、ビクター202St。高橋真理子さんのミックス作業。夜ミーティング。


9月9日:
信濃町ソニーのカッティングルームで憲司さんのアルバム「外人天国」のアナログ盤のカッティング作業。カッティングは小鐵 徹氏だったのだろうか?・・。違うな、小鐵さんはビクターの人だから信濃町ソニーでやる訳がない・・。調べておこう。


9月14日:13時~、エピックソニーで打ち合わせ。この当時のエピックには相当な活気があった。


9月15日:14時~19時、赤坂のTAMCOスタジオにて石川セリさんのライブ音源作業。


9月16日:
19時30分~24時、六本木ソニーSt(B) にて石川セリさんのライブ音源の作業。


9月17日:
14時~17時、青山スタジオにて、「外人天国」のジャケット関連撮影。
19時30分~24時、六本木ソニーSt(B) にて石川セリさんのライブ音源の作業。


9月18日:
私の25歳の誕生日。18時~、六本木ソニーSt(B) にて石川セリさんのライブ音源の作業。誕生日は仕事だったので何も特別な事をしなかったのだろう。誰もおめでとうとも言ってくれなかったはずだ。
だから多分ちょっと寂しい気持ちを押し殺して夜を過ごしていたんだと思う。
私の20代は前半は、クリスマスも含め、殆ど華やかに過ごした思い出が全くない。そういう意味で鬱屈した20代を過ごしていたかもしれない。そのお陰で随分と精神的には鍛えられた。

9月19日:12時~サウンドINN「A」st。市ヶ谷近くの四番町にあった。

9月20日:13時~17時、信濃町ソニー2st。


9月21日:13時~18時、信濃町ソニー2st。


9月22日:19時~、KRSスタジオ。井上陽水氏のレコーディング。
(中学時代から井上陽水氏の大ファンだった私なのにこの時の様子は記憶がない。多分本人が居なかったのか??)
憲司さんはその後の1986年、クラムチャウダーのツアーの音楽監督として井上陽水氏のサウンドに関わる事になるが、残念ながら私はこの時代、シンセ関係の業務に移行してしまっていて忙しく、他のアーティストのライブを見るチャンスが本当に無かった。80年代で欠かさず見ていたのは山下達郎さんだけだったろうと思う。


9月25日:
12時~18時、六本木ソニーSt(A)、大江千里氏。新曲のリズム。次のシングルだろう。メンバーは19時からのスケジュールも鑑みて以下のメンバーだったはずだ。
19時からは信濃町ソニー1Fのリハーサルスタジオにて深夜まで憲司さんのバンドのリハーサル。ドラムスは故・青山純氏、ベースは富倉安生氏、キーボードは中村哲氏の4名編成。


9月26日:
12時~18時、六本木ソニーSt(B)、大江千里氏。


9月27日:
18時~24時、六本木ソニーSt(B)、大江千里氏。中村哲氏のダビング関係。


9月30日:

12時~18時、六本木ソニーSt(B)、大江千里氏。中村哲氏のダビング関係。
 
どの時点か記憶がないが、8月から9月にかけて憲司さんのソロアルバム「外人天国」がエピックソニーから発売されることが決定していたはずだ。以前のブログ内でこの日の事を書いたが、改めて記載しておく。ある日の夜、渋谷の道玄坂の「田や」というシャブシャブ店で憲司さん、マネージャーのTさん、そして当時のエピックソニー社長だった丸山茂雄氏が会合を持っていた。私は道玄坂のYAMAHA渋谷店(現在は自転車屋)の前で車に乗ったまま2時間半ほど待っていた記憶がある。会合が終わると3名は笑顔を浮かべて店から出てきた。憲司さんは丁寧に丸山氏にお辞儀をしていたのがとても印象的だった。ちなみにこの丸山氏のお父上は、あの有名な丸山ワクチンを発明した方だ。

この時にエピックとの発売契約の合意が出来た時だったのだろう。本作はレコードメーカーを決めないでヨロシタミュージック主導(出資)でアルバム制作を実行していたが、なんとか発売に漕ぎ着けたようだった。ヨロシタが原盤をエピックに有償譲渡したと聞いている。
ヨロシタの社長の大蔵さんが原盤をエピックに有償譲渡したという事はそういう事なんだろう。
なお、道玄坂の「田や」は現在は存在していない。
 


(1983年10月)


10月3日:
13時~24時、信濃町ソニーSt(3)、大江千里氏の歌入れ。

10月8日:
12時~18時、信濃町ソニーSt(3)、大江千里氏の歌入れ。18時からミックス作業。


10月12日:
12時~13時30分、信濃町ソニー、大江千里氏のカッティング作業。


10月16日:
17時30分から憲司バンドのリハーサル。信濃町ソニースタジオ1Fのリハスタだったろう。


10月18日:
14時~16時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。
16時からONKIO HAUSビル1Fの喫茶店「エル」にて打ち合わせ(もしくは取材)。
私はどこかで待機していただろう。


10月19日:
15時~20時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。


10月21日:
16時~18時、ONKIO HAUS(銀座)2stにて、教授の仕事。


10月24日:
13時~18時、ONKIO HAUS(銀座)1st(私の記憶は6stなんだが・・)にて、教授の仕事。この日18時30分から武道館でデビッド・ボウイのライブ(レッツダンスツアーだ)の予定が入っていたが、スタジオ作業が若干延びる。私は必死に武道館へ車を走らせるが、途中で渋滞。結果的にコンサートの冒頭が開始されていた時間に到着。私はここで帰宅になる。
(この時代のデビッド・ボウイを見ていないのが悔やまれるが、私の経済状況や仕事環境ではとても前もってチケット買って見には行けなかった。正直残念だ。

私が初めてボウイのライブを見たのは1990年5月東京ドームで開催されたSound + Vision Tour。
アリーナの前方で見る事が出来、本当に感動した。ジャンボスタンドには客が居なかったので、往時と比較すると集客が落ちていたようだが、このライブは素晴らしく記憶にも残っている。
そして次は亡くなる前の日本最後のライブとなった2004年3月に武道館で開催されたA Reality Tourだ。この時の神々しいボウイの姿は忘れられないが、残念ながらこの公演が日本最後で、幸運にも私はそれを目撃した一人となった。(ジェームスブラウンの武道館ライブも彼の最後の来日になり、私はそれを見ていた)


10月26日:
14時~18時、日活スタジオ。仕事内容不明。日活スタジオは六本木にあり、当時の防衛庁傍のビルにあった。楽器搬入がし難いビルで、ここでの仕事は大変だった。今ではビルも変わり風景も変わってしまった。
19時~24時、ビクター401 stにて、広瀬かおるさんというアーティストのリズム録音。彼女は「RCA/AIR」という当時の山下達郎氏がいたレーベルから出た期待の女性新人歌手だったが、残念ながらヒット作品に恵まれなかった。


10月27日:13時~19時、信濃町ソニー「S」リハーサルルームで、憲司さんバンドのリハ。このリハは、レコード発売に合わせたお披露目ライブのために行われていたと思う。T氏はツアーブッキングを組んでいた時期なのだろう。

19時から24時は六本木ソニーのAstでリズム録音。アーティスト不明(岩崎雄一氏?)。


10月28日:
12時~17時30分、信濃町ソニー「S」リハーサルルームで、憲司さんバンドのリハ。
19時30分から24時は六本木ソニーのBstでダビング。アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。


10月29日:
13時~24時、六本木ソニーのBstで作業。アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。


10月31日:
13時~15時、ルーテン別館にて矢野顕子さんとの対談。アルバムの宣伝用取材。
15時30分~24時、六本木ソニーのBstで作業。アーティスト不明(岩崎雄一氏のアルバム?)。
 この頃になると憲司さんのバンドのリハーサルが開始される。どのような場所でライブをやるのかは当時の私には不明だった。信濃町ソニースタジオのリハーサルスタジオが使用できた背景には、エピックからの発売が可能になったからだろう。リハ用のスタジオ使用料金も格段に安いらしい話はマネージャーのT氏から聞いた。またレコード発売が近づくに従いプロモーション活動も増えてくる。

車_S.JPG
当時不注意で楽器車に損害を与えていた。
こうした点は今でも申し訳なく思っている。


 

アルファーレコードにあったStudio-A:(2017年6月15日追加)
 
JRの田町駅を下車し、田町駅東口交差点の角にAlfaミュージックと自社スタジオのStudio-Aがあった。現在は別のビルが建ち、その面影を偲ぶ程度になっている。
70年代~80年代にかけてAlfaミュージックは様々なヒットアーティストを輩出した。
ユーミン、YMO、シーナ&ロケッツ、カシオペア、タモリ、スネークマンショー、ハイ・ファイ・セットなど数限りない。そのビルの5階にあったStudio-Aでは、本当に様々な名盤が作られた。タモリさんがレコードを出していたなんて、現代の人は知らないだろうと思う。
ユーミンの荒井由実時代は、基本的に全てここで制作されているし、初期のYMOの作品もここでレコーディングされている。
また私の尊敬する山下達郎さんも時折このスタジオに出入りしていたが、どうやらツアーのリハーサルをやっていたようだ。

1983年から84年にかけて、私も憲司さんの仕事に同行してこのスタジオに行く機会が多かった。
ネットでスタジオの写真や情報を探してもなかなか出てこないので、情報が消え初めているように思う。そういう意味を込めて、私の知っている情報だけをここに記する。
本当は当時のエンジニアさんたちやミュージシャンの話が聞きたいが、それは別の人に譲る。

AFLA STUDIO.jpg 

Studio-Aの見取り図は、写真の通りだ。
狭いエレベーターを降りると目の前にスタジオの入り口(スタジオのドアまではちょっと急な坂になっていた)とその左手にはスタジオ利用者の待合場所とレコード会社のスタッフの飲食場を兼ねた10畳程度の広さのロビーがあった。
運河側の窓からは、ちょっと遠くにボーリング場が見え、窓の下にはビルと運河に沿って作られた駐車場と運河が見えていた。この光景については、後年、ユーミンさんの著書にも書かれていたが、彼女も私も同じ光景を記憶していた事になる。ちょっと話は逸れるが、この駐車場は非常に使い勝手が悪かった。
ビルの東と北面の1階部分の外壁に沿ってL字型にスペースが確保されており、一番奥(東面の運河側)に車を停めるはめになると、出る際に車道側に近い車を全て動かしてもらわないと出れないというものだった。

e00113_ph03[1].jpg 

 さて、Studio-Aの基本構造は、コントロールルームと大型のブースに分かれていた。
写真はネットから探しあてたもので、いつの時代か不明だ。
卓の上にスモールモニタースピーカーがないから、70年代終盤かもしれない。
1983年時点でStudio-Aに設置されていたコンソールが写真のものかについては自信がない。
ただ、Studio-Aは、当時のレコーディングスタジオの主流だったNEVEやSSLと言ったものを使用していなかった事は確かだ。
トライデントだったかな??(誰か教えて下さい)

→APIというご回答をコメント欄から頂いております。思い出しました。これで正解です。ありがとうございました。

写真ではにわかに分からないが、コントロールルームの広さは、ざっと30畳程度、写真で見える奥のブースは、80畳程度はあったろうか?
ブースは天井も高かったので、オーケストラのセッションも可能だったはずだ。
コンソールの前にはベッドのように大きいソファーが鎮座しており、後年読んだ細野晴臣氏の著書には、このソファでよく寝ていたと書いてあったが、普通に座ると足を前に投げ出すような感じになる位の大きさだったと言えば理解してもらえるだろうか?
またこのソファーの前には1M強程度のスペースがあった。
このスタジオ、コンソールの前は広いのに後ろは意外と狭い。
エンジニアが卓の中央に座る辺りの後ろにはマルチテープレコーダーが置かれていたので、ミュージシャンやアシスタントは卓の両サイドのスペースに居る事が多かった。
またシンセがスタジオで活躍する時代には、置き場所に困ったと思う。

とにかくこのスタジオでは、日本の名盤と呼ばれる作品が数多く輩出された。
最もポピュラーな例は、荒井由実(ユーミン)と初期のYMOだろう。
スタジオの音には独特の響きがあるが、特に荒井由実の当時の作品にはそれが顕著だ。
アナログ時代のあのような音圧と音質感は、現在のデジタルレコーディングでは残念ながら出ない。

 私の好きな山下達郎さんの70年代後半~80年代前半のアルバムは六本木ソニースタジオで制作されているが、彼のインタビューでも語られているように、当時の音は再現不可能だ。
彼の元には当時のアルバムのアナログ再発の依頼が寄せられるらしいが、当時の音を超えられないという理由で再発をしないと発言している。

そういう意味でも、Studio-Aにしても六本木ソニースタジオにしてもスタジオの記憶を
留めてくれているのは、もはや当時の「音」だけなのだ。

このスタジオでギターリストの安田裕美氏に何かの仕事でスタジオで会う事が出来、感激した記憶がまだある。私は彼と陽水さんの演奏を中高生時代、コピーしていたので、彼の演奏への思い入れが強かった。安田さんは、初期~売れていた頃までの井上陽水さんのアコギで参加しており、クレジットで知っていた名前の人だった。私にとってStudio-Aにまつわる部分での記憶の1つは、ギターリストの安田裕美(男性)氏に会った時だ。ジージャンとジーパン姿だったと思う。笑顔が印象的な方だった。

もう1人は、達郎さんがロビーで女性コーラス2名に指導をしている風景だ。
多分ツアーのリハをやっていたのだろうと思うが、彼が歌いながら2名にメロラインを教えていた。
そうかあ、こんな風に指導してやっているんだなあ・・なんて思いながら聞き耳を立てていたが、
このスタジオではそういう風景が展開していたのだ。

我々の時代と共にあった音楽を作った場所や音楽は、どうやら我々の時代で消えて行く運命のようだ。Studio-Aは、1995年に閉鎖されたという。六本木ソニースタジオも現在は閉鎖されている。新大久保のフリーダムスタジオも2016年末で閉鎖。斜陽の音楽業界を象徴するようなスタジオ閉鎖が続く時代になり、ミュージシャンにとっても厳しい時代になっている。

つづく 


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コメント 2

ハプニングスY

大変楽しく読ませていただいています。
生々しい記述が満載でwミュージシャンの端くれとしては、圧倒されることしきりです。
ALFA,Studio-Aのコンソールについてですが、
松武秀樹さんと寺田康彦さんの対談の中に「API」であったという記述があります。
ご参考までに。
by ハプニングスY (2018-11-20 00:02) 

コロン

恐縮様です。「API」ですね。ありがとうございました。
by コロン (2018-11-20 14:50) 

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