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1983~84年 ローディー時代の景色 Part-7 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

あれま、リストラ予告?:
    

 あれは何時だったろうか。 1983年の夏だっただろうか。石川セリさんの神泉町にあったMACスタジオでのリハーサルが終了した直後、マネージャーのT氏から話しがあるのでと呼び出された記憶がある。石川セリさんの新宿厚生年金会館でのコンサートは1983年7月11日(月曜)という記録があるので1983年7月上旬の何処かだろう。

3月から正式に開始した憲司さんの仕事もそこそこ慣れては来た時期だ。ただなんとなく余り評価をされてない感じの中での呼び出しだったの心の底が疼く。
まあ、当時の私は本当に未熟者だったのは間違いない。「懺悔の値打ちもない私」なんて曲があったが、当時の私はそんな感じだろうか?


さて私は、当時西麻布から引っ越して富ヶ谷に住居を変えた憲司さんの送り届けが終わってから渋谷区神泉の交差点近くの喫茶店に二人で入った。今のYUSEN本社ビルのある周辺だ。
現在に至っては当時の詳しい会合の内容は覚えてないが、要するに当時の私の立場は余り良くなくて、このままだと後任を探すかもしれない・・というような話しだったと思う。
はっきり後任を探すという明確な言葉はなかったかもしれないが、”もっとしっかりやってくれないとかなりマズイ”みたいな感じだったように思う。

この時点でT氏や憲司さんが後任を本気で探そうとしていたのか、この時点では私に喝を入れるためにそう表現したのかについては分からないが、今にして思うとこの時点では前者だったろうと思う。ここまでには、憲司さんの楽器車をぶつけて破損させたり、スタジオで憲司さんの大切なギターを倒したりして、彼等から見ると私の仕事ぶりはとても不安定で、任せられないという感じだったかもしれない。実際そういう事実があったからだ。自分がT氏の立場だったとしても当時の私をそう見るのは自然だと思う。

しかしTマネージャーの話はいつものように曖昧としており、具体性を欠いた内容だったので、私の何が問題になっていて改善すべきかは良く分からなかった。私が全般的に表現できない程酷いと思われていたのかもしれないし、単に彼が説明が下手だったのかもしれない。言い方は悪いが、要するにダラダラした説教が延々と続いたという印象しかない。彼も私に対して憤懣があったのだろう。

音楽業界は元々体育会系的な部分があり、廻りを見て自分で立ち位置や仕事を考えろ!的な業務風習が強い場所だった。細かく教えるという感じはなく、周囲の同じような職種の仕事の出来る人間から盗めという職人的な環境と感覚があったと思う。
それはこの業界で働く人々が肌感覚でキャリアを積み上げて来たからに相違ない。
私はその時点でそうした環境に生きる人間として不適格だったのだろう。今の自分だったら当時の自分のような人間にどう対応するかを考えてみたが、少しは噛んで含ませると思う。業界や仕事に関して殆ど何も知らない人間に気合いや自助努力だけで業務レベルを合わせろというのは難しいし、効率が悪いからだ。
またもし改善の見込みがないのなら、それを客観的に提示して理解をしてもらうようにするだろう。
”周囲が自分をどのように見てるか分かっているだろう・・”という指摘に対して私自身も対応しなければならない部分は確かにあるが、そうであればT氏は果たしてご自身の当時の日常の行動は果たしてそれらをキチンと理解していたのだろうか?というシンプルな疑問はあった。
いずれにしてもボーヤ家業は直ぐに取替がきく仕事だったため、T氏の対応は当時の業界として至極標準だったかもしれない。

いずにしてもT氏は、マネージャーとして現場を預かる責任者として、私への叱咤激励をしなければならなくなったということだったのだろう。憲司さんからアイツ何とかしろと言われて困っていたのはT氏かもしれないからだ。
しかし全般的には世間話やよもやま話のような事が多かったので、聞いている私としては集中力を欠いてきた事は確かだった。ひょっとしたら彼の親切心で頭の悪い私に、理解出来るように分かりやすくしてくれたのかもしれなかったが・・・。

 いずれにしても話の流れで何を言わんとしているか位は当時の頭の悪い私にだって分かった訳で、「これはやばいな・・・」と思い始めてはいた。
しかも結構本気で他のヤツを探す意向を持っているように聞こえた事もあり、私は「はい・・もっと頑張ります」みたいな感じでしか返事のしようもなかっただったろう。前述したが、私は当時、かなり愚鈍な人間だったのだ。

その後もT氏の話は延々と続き、後半の方は失礼ながら、早く話しが終わらないかな?という感じだった。私はT氏に「大変申し訳ないですがお風呂に行きたいのでそろそろいいでしょうか?」と話題とは全く関係ない発言をした記憶がある。
T氏はそれを聞くと、ちょっと苦笑気味に呆れた感じだったが、「もうそれならいいよ・・」と大きな溜息をついて”どうしょうもないヤツだな、お前は・・”というような表情をされて別れた記憶がある。
まあ、そりゃそうだろうな・・と今の私でも思う。井上陽水さんの”傘がない”じゃないが、あの夜の私の最大の問題は風呂に行けるか・・だったりした訳だ。リストラされようとしているのに、風呂の心配するのか?と言われるのは覚悟の上だが、要点は理解出来たから、それ以上聞く話もなかったというのが当時の私の考えだったと思う。
まあ、確かに当時の私はどうしようもない奴であると今更ながらに思う。
T氏の気持ちも分からんでもない。


 T氏が私を叱咤激励しようとしている話を中断させた自分態度について、今の自分自身が振り返ってもかなり失礼な人間だなと思っている。
反面、当時の自分にとって風呂に入らないで寝るのはそれ以上に困った事だったことも事実だ。おまけに夏だったということもある。
私は彼等から見て要領を得ないし不安定な仕事ぶりだったのだろうが、私としてはそうした話はある程度理解出来たという事で、彼とそれ以上話をしても無駄な感じがしたのも事実だった。一生懸命というだけでは社会は受け止めてくれないのだなあという虚無感はあったが、これも若気の至りというもんだと今更ながらに思う次第だ。

実はちょっと驚くべき後日談がある。
2017年2月になってから、当時の事を裏付ける話しを知る事になったのだ。実は、私の後任については、1983年4月から既に面談を開始しており(つまり私が働き始めて1カ月後…)、7月のセリさんのライブ時には私はお払い箱になっている予定だったらしいのだ。ここに記載しているT氏のリストラのお話しは、そのタイミングでしてきたのだろうと思う。当時の私は知るよりもなかったが、人生、チェックメイト状態だったのだ。ただし、当時面談を受けた方は、就職先の内定が決まったらしく、憲司さんのボーヤを最終的に断ったということだ。これは、T氏から働く上での経済的条件の提示がキチンとされなかったこともあったらしい。就職の内定が決まっている人にボーヤの経済条件を提示したら100%逃げられるのを分かっていたから言わないで引き延ばしをしていたのだろうと思うが、私以上の条件を出せるか出せないかを決めるのはT氏ではなく憲司さんだったので、T氏は憲司さんに確認するのを長い時間躊躇していたのだろうと思う。
だから、何となく引き延ばし、悪いようにしないからと面談相手がやりますと言って逃げられない状態になってから、実は、と切り出そうと画策していたんじゃなかろうかと推察する。
この話は当時ボーヤの仕事をお断わりを入れた方から直接聞いた話なので事実としては確かだ。
仮にだが、この時点で私がリストラにあっていたら、多分音楽業界へそれ以上踏み入れる事もなかったし、その後、坂本龍一氏と仕事することも、サザンと仕事することも、アミューズに入る事もなく、ニッポン放送の人たちと出会う事もなく、また当然だが現在私が働いている会社に入る事もなかったと言える。従ってこの事は、私のその後の人生を大きく左右する事だったのだ。

かように人生とは、自分ではどうにもならない事で動いてしまう事があることを改めて知った次第なのだ。 


さて、結局私はクビにならずそのまま仕事を続けた。この話をされた4ヶ月後の1983年の11月頃~年末にかけて何度も「君は年内(でクビ)だから」と言われ、仕事納めの日にもダメを押されるように言われていたのにも関わらずにだ。
私は結局
1984年春になっても何もなかったように、継続して働き続けていた。
その理由は後々分かるのだが、いずれにしてもこのいい加減な人事通達に精神的にも振り回された点についてだけは今でもハッキリとした嫌な記憶が残っている。私の心の奥底に未だにしつこく消せないワダカマリがあるのはこのせいかもしれない。

そういう訳で私はその後の人生で、他人に対していい加減な人事通達だけはしない、他人に対して出来るだけ謙虚さを失わないようにと誓ったのだ。そういう意味でこの経験は反面教師となった。



 石川セリ.jpg


 憲司さんがアレンジ等で参加している石川セリさんのアルバム「BOY(廃盤)」
このアルバムに付帯したコンサートは一度だけ東京厚生年金会館で開催。
アンコールで井上陽水氏が客席から登場し沸かせた。上手でそれを見ていた私は心の底で歓喜した。私にとってアイドルとも言える陽水さんを真近で見た数少ない経験だったからだ。なお、本作からシングルカットされた「BOY」という曲は1983年8月にはフジテレビの夜のヒットスタジオにも出演し生歌を披露している。

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「外人天国」のレーディングに関する記憶:

 1983年11月1日に発売される憲司さんの最後のソロ・アルバム「外人天国」は結局エピックソニーからの発売になった。本作はレコーディング前に発売元メーカーが決まっていなかったらしく、当面の制作費をヨロシタ・ミュージックが拠出することでプロジェクトが進んでいた。これはマネージャーのT氏がレコーディング・スタジオで同業者から同じ質問を受けていた時にそのように応えていたので確かであろう。実はレコード会社の流通のない前提でのアルバム制作というのは、余り例がない。当時の常識としては、原盤制作をアーティスト事務所がする場合でも、事務所としてはかなりの投資額となる原盤制作を回収するためには、事前にレコード会社の流通を決めておかなければ回収方法の目途が立たないため、メーカー流通を決めないで原盤制作することはしない。これはあくまでも推測だが、本アルバムの制作には憲司さんの主張・要望を当時のヨロシタミュージック側が受け入れ、制作終了までにメーカーを事務所側で決めるという流れで作っていたのだろうと思う。
最終的にエピックソニーからの発売が決まる直前、渋谷区道玄坂にあった高級シャブシャブ屋「田や」で、当時のエピックの社長であった丸山茂雄氏と憲司さん、Tマネージャーの3名が会食していた記憶がある。
これは発売決定に際してのご挨拶なのだろうと思う。丸山氏は、丸山ワクチンを開発したお父上を持つご長男で、音楽業界で丸山氏の手腕はかなり評判だった。
私は道玄坂のYAMAHAの前で車を停めて車内でずっと(少なくとも2時間以上)車内で待っていたからこの時の記憶は確かだ。
当時のソニーミュージックは、原盤権を持たない国内音源を自社から発売しない方針の会社だったので、ヨロシタミュージックがエピックに原盤権を有料移譲したことでレコードの発売を可能にしたのだろう。もちろんソニー側も前作の「春がいっぱい」の売れゆきから、支払った原盤を回収できるというある程度の見通しで買い取ったに違いない。しかし実際レコード会社内部でどのような意見が交わされたかについては分からない。
その後、2000年代になって再発版の紙ジャケットCDがソニー系列から出ているが、この事実を見ても、ヨロシタ側がソニー側に原盤権を完全に譲渡し成立させていた事情は推察される。

私が憲司さんの配下で仕事を始めた1983年3月の段階で、外人天国の収録される予定の一定程度の曲はリズム録音が終わっており、全く最初からリズム録りから始まったのはタイトル曲の「外人天国」や、「AT LAST I AM FREE」「DANCE YOUR WAY TO GOD」など数曲だったろう。「外人天国」は当時まだ珍しい英語のRAPをフィーチャーした楽曲であり、かなり意欲的な作品だった。ラップを使った音楽では、これより数年前の佐野元春氏の「Communication Break down」が有名だが、彼は日本語でラップしていた。憲司さんのは英語だったが、発音がとても綺麗で驚いた記憶がある。

さて、レコーディング中のある日、憲司さんのギターダビングを六ソのBスタで終えた後、狭いブースに展開されている楽器セットを移動して吉田美奈子さんのコーラスダビングの用意を始めた。ブースには憲司さんの楽器と憲司さん、そして吉田さんがひしめき、私は二人に注意をしながらギターの撤去を始めた。その時、不覚にも憲司さんが最も大事にしているオールドのストラトキャスターが倒れてしまったのだ。憲司さんの表情がかなり歪んだ。このギターに相当な愛着を持っているのは知っていたので、私の心中は穏やかでなかった。憲司さんは私を面と向かって怒るような事をしなかったが、それ故私は事態を重く受け止めざるを得なかった。


1998年11月の憲司さんの葬儀に行った際、このギターが置かれているのを見て、心の中に様々な記憶が去来したものだ。ずっと大事にしていたんだ・・と。私の中の罪悪感が蘇った瞬間だった。


エピックからの発売が迫る中、宣伝方針やイニシャルの数字の設定(初回プレス枚数)、レコードのジャンル分けなどが憲司さんの期待していたものと違っていたりしたために、Tマネージャーに対して叱咤が飛んでいた覚えがある。また、ロックと明記して欲しかったらしいがフュージョンになっていたなど、細かい点にも不満をぶつけていた。こうした仔細な点はなかなかミュージシャンを入れて確認を取らないものだが、自分の作品であるという意識の強いミュージシャン側からすると、意図しない色を付けられた事には不満があったろうと思う。
私もその後にミュージシャンのマネージャーを経験する事で、T氏の仕事の大変さを思い知る事になるのだが、T氏がメーカーとの間で本作の売り込みや戦略構築に文字通り奔走していた事は疑いない。マネージャーとはそういう生き物だからだ。
前作1981年発売(アルファーレコード)の「春がいっぱい」は10万枚程のセールスがあったと聞く。しかし時代が過ぎ、ソニー側が出す冷酷なマーケティング・データを突き付けられて、作品のイニシャル製造数、掛けられる宣伝費や人員や戦術についてマネージャー側が反論出来なくなってしまうという現実もある。宣伝費は、イニシャル枚数、つまりメーカーの営業サイドが全国の店舗側からの注文数を積み上げてきた情報によって逆算される。仮に1万枚で3000円の定価だとすると、売上は3000万円だが、メーカーへの売り上げは、これの約半分程度の15~1600万円だ。宣伝費予算の一般的料率は、このメーカー売上の8%程度となる。この場合、約120万円程度だ。10万枚が見込めれば宣伝費の予算は1200万円程度という事だ。前作の「春がいっぱい」は、YMOのメンバーや関係者が全員参加し、メーカー側の販売戦略もYMOの勢いに乗った部分もあったと見られていたとしても否定出来ない部分は残る。
T氏もこの辺りの調整ではかなりご苦労をしたと推察される。ビジネス的な側面は一義的にアーティストとは無関係に思えるが、実際、アーティストはビジネスと無関係ではやって行けない。そういう意味でもT氏の存在は重要だった。
T氏が憲司さんのマネージャーである以上、久しぶりのアルバム発売に最高の舞台を用意しようと思わないはずはなく、相当に頑張ったのだと思う。実際T氏はこのアルバムを本当に愛していた。
しかし現実のマーケットとの差異を埋めるのは本当に難しく、ここら辺が体を切り刻むような思いで作品を生み出すミュージシャンとマーケットという冷酷な現実に直面するスタッフ間の大きな溝になる部分だ。


ネット時代になり、当時のプロモーションの一環が伺えるサイトを見つけた。当時同じ事務所だった坂本さんのラジオ番組に出演した際の音声だ。エピックの山本さんという宣伝担当者が登場するが、推測の域を出ないが、彼はその後、ドリカムを世に出してSME内で出世街道を歩んだ方ではないだろうか? ここでは憲司さんが、自分のアルバムに自身のボーカルを入れている理由を語っているが、教授のコメントも含めて極めて興味深い。


サウンドストリート(坂本龍一)大村憲司特集
http://mmaehara.blog56.fc2.com/blog-entry-3201.html

 

「春がいっぱい(アルファレコード/1981年2月21日発売)」は、セールス的にも一定の成功していたと聞くが、その後ソロアルバムを出せる機会に恵まれていなかった訳であるため、憲司さんの本作への思いは並々ならぬものだったろう。全作の売れ行きにも関わらず本作のレコード会社が決まらないまま制作に入っていたという理由は、今の私には十分良く理解できる。憲司さんには申し訳ないが、当時のレコード会社は、「春がいっぱい」のセールスがYMOの影響下で成し遂げられた部分があったと分析していただろうという事だ。
そして「外人天国」は結果的に、~本作は私個人としても様々な思い出が詰まっている作品であるが~ 残念ながらセールス的には全く振るわなかった。
音楽作品に限らず質と売上がリンクしないケースは決して珍しくないが、業界内の作品への評価はともかく、結果論的にはこれが本作への市場からの回答だったと考えるしかない。

音楽をビジネスをやっている観点からすると、このアルバムの結果は後々憲司さんのキャリア形成に響く事になる。簡単に言えば本作品が大村憲司氏の最後のオリジナル・アルバムになったという事だ。

ただし2003年、私の友人が本作の紙ジャケットによる再発売に尽力し、現在に至るまで作品そのものが伝わっている事は幸いだった。
またCD化された音は、アナログ盤よりも遥かに音が良かった事は幸いだった。正直当時のアナログ盤は音質的に若干抜けが悪かったと思う。(あくまでも個人的感想)
いずれにしても作品とはこうした愛情を持った人たちに受け継がれて行くものなのだろう。しかし残念ながら憲司さんが生きている間に本作のCD化は叶わず、憲司さんがそれを見届ける事もなかったのは残酷な現実だった。


さて、以下は当時のスケジュール帳と私の当時の日記の記録を元に再現した1983年4月~5月のスケジュールの一部だ。記載の無い日でも憲司さんは狸穴のマンション等でアレンジ等の仕事をしていたりするので、本人の稼働の全てが網羅されている訳ではない事を予め断っておく。


1983年4
月:

41日:
憲司さんの仕事仲間のドラマー、青山純氏(故人)がアメリカンクラブで結婚式を行う。神戸から帰って来た憲司さんも参加。山下達郎、まりや夫妻などの豪華参加者も見かける豪華な式だった。
私は会場の出口付近の隅で所在なく立ち尽くしていただけだった。


4
11日:
憲司さん、渋谷パンテオン(現在のHikarieの場所にあった映画館)にて「戦場のメリークリスマス」の試写会に参加。会場には大島監督(故人)、出演者(デビッドボウイは不在だがビートたけしさん、教授の姿はあった)や試写に来ていた山城新伍氏(故人)などがいた。山城さんを見かけたのはこれが最初で最後だったがとにかくカッコいい人物に見えた。
私も会場内の後方左端で映画を見ていた。
スクリーンに登場するお化粧をした教授にはちょっと違和感を持ったものだったが音楽のインパクトは今でも覚えている。BL映画の走りと言っていいだろう。
過日、大島監督の訃報を受け、この時の様子を思い出したが、末席ながらエンタメ業界の華やかな一面を体験した時期であった。


4
16日:
12時~18時、六本木ソニーSt(A)にて憲司さんのソロアルバム作業。


4
20日:
12時~17時、六本木ソニーStにて憲司さんのソロアルバム作業。その後18時~2030分、教授の仕事。


4
21日:
12時~18時、田町のALFAレコードスタジオにて「鉄生(当時の芸名は三好鉄生/現在は三貴哲生と名乗っているようだ)」の録音。19時~24時、六本木ソニーSt(B)にて憲司さんのソロアルバム作業。ALFAレコードスタジオのスタジオについては、このシリーズのPart-6で別途スタジオの記憶を記載をしているので見て欲しい。


4
22日:
12時~24時、六本木ソニーSt(A)⇒(移動) (B)で憲司さんのソロアルバム作業。


4
27日:
18時~24時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。


 

1983年5月:

59日:
12時~19時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。


5
10日:
18時~2630分、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。吉田美奈子さんのコーラス作業。


5
11日:
18時~、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。吉田美奈子さんのコーラス作業。


5
12日:
16時~27時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。ギターダビングだったと思う。


5
13日:
16時~26時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。ギターダビングだったと思う。


5
14日:
14時~28時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。吉田美奈子さんのコーラス作業とペッカーさんのパーカッションのダビング作業。この日、憲司さんの一番大切にしていたフェンダーのストラトキャスターというギターを、コーラス作業のために狭いスタジオブース内に作業スペースを作るため、設置されていたギターを撤去している最中に倒してしまう。ギターを僅かに傷つけたために、当時私にとって痛恨の大事件だった。繊細な憲司さんの心に傷を付けた事については、今でも申し訳ない事をしたと思っている。

516日:
14時~22時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。


5
17日:
13時~17時、TAKE OFF スタジオ(場所不明)で浅川マキさん(故人)の録音作業。


5
21日:
12時~15時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバム作業。Bottom of the bottle」の最終ダビング作業を終える。その後、憲司さんは羽田へ移動し、神戸へ帰る。


5
25日:
憲司さん、東京に戻る。富ヶ谷のマンションに送る。


5
27日:
12時~1830分、ONKIOスタジオ(銀座)でセッション。


5
28日:
12時~21時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバムのミックス作業開始。


5
29日:
12時~26時、六本木ソニーSt(B) で憲司さんのソロアルバムのミックス作業。


5
31日:
13時~18時、ビクタースタジオ401stにて、飯島マリさんリズム隊のレコーディングに憲司さんが参加。プロデュース&アレンジは教授。この時、初めてデジタル(FM音源)のシンセ、YAMAHAのDX-7という革命的なデジタルシンセを目撃。廊下に置かれており、飯島マリさんのデビューアルバムには、発売したてのYAMAHAのDX-7がふんだんに使用されている。当時20万円位の楽器だったろうか・・・。MIDIも装備していたが当時は説明を聞いても理解できなかった。飯島マリさんのレコーディングを見ながら才能豊かな彼女を羨ましく感じていた。彼女はその後マクロスのテーマが代表的な作品となり現在でも人気だ。

その後、
19時~28時まで六本木ソニーSt(B)

憲司さんのソロアルバムのミックス作業。


外人天国(紙)

外人天国(紙)

  • アーティスト: 大村憲司
  • 出版社/メーカー: Sony Music Direct
  • 発売日: 2003/08/06
  • メディア: CD

つづく。


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