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1983年 ローディー時代の景色 Part-5 [ボーヤ時代 1983年]

ローディー(ボーヤー)家業の日常について:

初めて遭遇した坂本龍一氏:
 

 後年一緒に仕事をすることになる坂本龍一氏(以後「教授」と呼ばせて頂きます)を初めて見たのは銀座にあるONKIOスタジオビル5階にある第2スタジオだった。当時教授はこのスタジオをホームグラウンドにしていた。当時このスタジオには名だたるミュージシャンや歌手のレコーディングが行われていた。ユーミンの80年代全盛期もそうだし、山下達郎さん、竹内まりやさんなども時折使っており、故・大村雅明さんというアレンジャーも松田聖子さんなどをやっていた。

私の淡い記憶では、この時の仕事は、大貫妙子さんのアルバム・レコーディングに大村憲司さんがギターダビングで呼ばれたというシチュエーションだったろう。当時の教授は
34歳。YMO後期作品の作業や、戦場のメリークリスマスの音楽作業などをやっていた時代だ。大貫妙子さんは、1975年に大瀧詠一氏のナイアガラ・レーベルからデビューした山下達郎氏が率いる伝説のバンド「SUGAR BABE」にヴォーカリストとして在籍し、解散後ソロに転身していた方だ。
教授と大貫さんはこの時代からミュージシャンとして親交があった。(当時の教授は、バンカラ風な井出たちで髪の毛も女性のような長い髪だった)


このONKIO HAUSスタジオには、楽器搬入用の別ルートがなく、ONKIOビルの駐車場からビルに通じる狭い通路を通って、1Fのホールに楽器を一旦集めて上階のスタジオに搬入する方法しかなかった。
関係者通路と楽器搬入のための通用門が駐車場からの細い1本道しかなく、加えて傾斜もあっておまけに非常に狭かったために、楽器搬入をする人間にはすこぶる評判が悪かった。
また一般客と楽器搬入のエレベーターが共用だったので、楽器搬入で関係者を待たせる事が頻発し、使い勝手が悪く、この点においても楽器を扱う人間からはも一般の録音関係者からも評判が悪かった。でも音質や機材、スタッフは一流だったので仕方ない。

エレベーターに乗せた楽器を5階の第2スタジオの入り口に運んで行くと、スタジオの扉が開いていたので、スタジオ内にいた教授の背中と横顔が見えた。SSLのコンソールを操って制作中の音楽を立ち姿でモニターしていた。
私は彼を間近で見るのは初めてだったが、当時の印象は、男ですら惚れ惚れする程カッコ良かったという記憶がある。
SSLのコンソールに陣取って作業をしている彼の姿には後光が差して見えたものだ。時代を作っている一線級のミュージシャンとは当時の私にとって神のように眩しい人たちだった。

私は奥のブース内で憲司さんの楽器をセッティングしながら、コントロールルームとを隔てるガラス越しに初めて見える教授の姿をチラチラ見ながら作業をしていた。コントロールルーム内では、到着した憲司さんと教授が笑顔で話しをしている姿が見えていた。この時大貫さんがいたかどうかは記憶が薄いが、同じセッションの別曲の仕事で呼ばれた事があった際に、大貫さんがスタジオにいたのはハッキリ記憶している。
(教授がLINN DRUMというデジタルサウンドのドラムで遊んでいるのを大貫さんが笑いながら見ていたのを覚えているからだ)

私は、楽器セッティングし終えると、コンソール卓前にあったソファーに独り座って一連の作業に聞き耳を立てていた。教授はいつものボソっとした話し方で憲司さんと会話をしており、スタジオ内の彼らの作業風景はコントロール・ルームとブースを挟んだガラスに映り込むぼんやりとした映像で垣間見る事が出来ただけだった。

しかしこの日は教授がどのような音楽作業をしているのかを生で体験出来る絶好のチャンスだったから心躍っていた。実際、私の目や耳や脳には相当なアドレナリンが出ていたはずだ。

スタジオ内の会話に耳をそばだてていると、作業中の音をプレイバックしながら憲司さんに大雑把な演奏イメージを説明をしていた様子だった。
その後、憲司さんはブースに移動し何度か演奏をし、その演奏を聞き、教授が憲司さんの所まで行き、譜面にスコアーを書いて指示をしながら作業が進むという感じだった。スタジオ内を走りながら憲司さんの指示を出す教授を見て、メディアを通じて見る印象よりもアクティブな人だなと感じた。
当時のギターダビングは数時間程度だったと思うが、当時の私には最先端のプロのサウンド構築の現場を見れるという本当に貴重な経験と体験をした一瞬だった。
 

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 憲司さんと教授の仕事はその後も散発的にあったが、私の中で最も印象的なレコーディングは、当時の教授の奥さんだった矢野顕子さんの「オーエスオーエス」というアルバムに収録されている「おもちゃのチャチャチャ」のレコーディングの時である。

この時の作業もONKIO2スタジオだったと記憶している。何故このセッションをよく記憶しているかと言うと、日本の古典的童謡が、かくも斬新で革新的にアレンジされたというプロフェッショナルの仕事ぶりを見せられたという衝撃があったからだ。

ギターダビングの日だったのでベーシックのオケはある程度出来上がっており、スタジオのモニターから流れる音は、ある程度の全体像が見える程度にまで仕上がっていた。この日教授が憲司さんに要請したのは、リズムギターとブリッジのギターソロだった。特にギターソロは何度かの思考を重ねた後、以下のような感じで録音された。

(1)ギターのメロディーラインは最終的には教授の指示譜面で演奏。

(2)ギターの音色は憲司さんが教授と相談しながら作る。

(3)憲司さんが作った音をベースに、教授の指示でコントロール・ルーム内に設置してあった、教授の機材であるMXRのピッチトランスポーザー(写真)を使ってオクターブ下(だったと思う)を足して録音。

(4)出来上がった音は、ギターシンセとも言うような不思議な音色と世界感を持ったもので、「おもちゃのチャチャチャ」の持つ世界観を反映させたものになった。

MXR PITCH TRANS.jpg

MXR Pitch Transposer

 この日憲司さんと教授は、「おもちゃのチャチャチャ」以外に「ラーメンたべたい」のギターダビングをしたと記憶している。本作も優れた楽曲であり、憲司さんのイントロと16ビートのサイドギターが渋く光っている。この日のレコーディングには矢野さんは居なかったと思う。


「ラーメン食べたい」は、その後のミュージシャンにも影響を与える楽曲となったが、こうした楽曲と演奏、歌唱は、矢野さんの独特な感性でしか生まれないものだと思った。

後日、本アルバムの別の曲で憲司さんが同じスタジオに呼ばれている。曲は「GREENFILEDS」である。この時は、矢野さんがスタジオに居た記憶がある。
レコーディングではこの曲のギターソロと幾つかのダビングをしたように記憶している。特にあのダイナミックなギターソロは、憲司さんのアドリブで、かなり早いタイミングでOKが出てスタジオ内が演奏に湧いたように覚えている。ああいった音が太くて印象的なフレーズは憲司さんのお得意だった。音数少なく印象的な音色のソロを弾くギターリストは少ないが、憲司さんはいつもそういう部分でハイスコアーを出す人だった。スタジオ内もこのソロが出た時、教授と矢野さんから歓声が上がった記憶がある。
この曲のダビングの時点では、最終版で聴く事が出来る、壁のように分厚い山下達郎さんコーラスはまだ入っていなかったと記憶している。達郎さんは1980年以降、自身がヒットアーティストになってからは、他のアーティストのコーラス仕事を引き受ける事が激減したが、矢野さん、教授、竹内まりやさんは別格で、彼らの仕事は受けていた。
近年では嵐、星野源さん位だろう。
 
GREENFILEDS
https://www.youtube.com/watch?v=4vDteEMu6tY

また私はこのレコーディング時に、矢野顕子さんが周囲のスタッフから「姫」と呼ばれていることを知る。何故そう呼ばれていたかの理由は不明であるがとにかく彼女はそう呼ばれていた。ちなみに教授は「殿」とは呼ばれていなかった。

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 当時憲司さんが制作していた彼のソロアルバム「外人天国」に教授がキーボード・ダビングの作業で六ソ(六本木ソニースタジオ/現在は閉鎖、消滅)に来たのは1983年の前半だったろうか。当時の教授の楽器のアシスタントだった金丸君が大量の楽器をBスタに搬入して来た。
Bスタは作りが狭く、私が入る余地が無かったので録音に直接関係のない人間は、外のロビーで待っていたが、時折スタジオの扉が開く度に聞こえて来るダビングされた音の印象は、想像を超えて素晴らしい体験だった。特に「外人天国」1曲目のSLEEP SONGの冒頭は、E-MULATOR-1というサンプラーとPROPHET-5というアナログシンセによって作られた傑作だが、音色の妙が光る仕事で一流のプロの技を見せつけられた一瞬だった。本作のイントロ部分は以下のURL内の「曲目リスト」にある視聴コーナーで聞くことが出来る。
 

(HMV ONLINE) 

http://www.hmv.co.jp/product/detail/1983403


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矢野顕子氏・オーエスオーエス・ツアーにまつわる記憶

 1984年6月に矢野顕子さんの「オーエスオーエス」のLP(当時はまだCDが世に出たばかりで全く主流ではなかった)が発売されるにあたり、オーエスオーエス・ツアーが開催される事になった。本ライブは東京・渋谷公会堂の2回と大阪で1回という計3回だけというレアなものであった。
当時のライブのサポートメンバーは、教授の他に大村憲司氏(Electric Guitar)、高橋幸宏氏(Drums、Vocal)、吉川忠英氏(Acoustic Guitar)、浜口茂外也氏(Percussion)が生で演奏し、同期するテープ上の演奏音源として細野晴臣氏(Bass)、山下達郎氏(Chorus)が参加している。つまりこのライブでは、ステージ上にベース演者がおらずテープ演奏のみであり、こうした試みは日本初であった。加えて教授が使用したモンスターサンプラー「Fairlight CMI」が少なくとも日本で初めてライブステージで使用された事は特筆すべき事だったと思う。今でもライブの一部がYOU TUBEで見る事ができるが、教授が演奏している鍵盤はFairlightのものでまだMIDIが装備されていない時代なので、他のシンセとは同期していない。またその上に載っているのがProphet-5だ。当時教授が使用していたイフェクター類は、Roland SDE2000というデジタルディレイ、Rolandのディメンジョン4、Rolandのフェイザー、MXRのオクターバーが中心だったと思う。

このステージデザインを立花ハジメ氏が担当している。とても美しいステージセットだった。
また、演奏面だけで見ると事実上のYMOが揃っていた訳だが、細野さんはテープ上にいるだけなので、ビジュアル的には2/3YMO+1ということだ。

私は、音楽業界に入って初めてYMOの3名のメンバーが揃っているのを見たのは、ある人物の葬式の控室だった。当時の私は現場仕事が忙しく、彼らの近くで仕事をしていた割には、遂にYMOのライブを生で見る機会がなかった。
その代わりある日、ONKIOのレコーディング終わりで、憲司さんの車に同乗してきた教授が録音中のYMOの制作中の新作のいくつかをカーステで披露してくれた事があり、他の人よりも早く聴く事が出来たというような小さな役得があったが・・・。
時期的には「SERVICE」の音源だったに違いない。

 

 さて本ライブのリハーサルは、東京渋谷区本町にあるLEOミュージック内のリハスタで行われた。(2012年現在LEOミュージックは同じ場所にあるようだ)
渋公が6月19日だったので6月上旬からリハは始まっていたはずだ。今でも忘れられないのは初日である。
スタッフは午前中から楽器のセッティングや音のチェックをしていたはずだ。私は憲司さんと一緒にリハスタに入ったため、楽器のセッティングは最後の方であった。やがて上記のメンバーが集合。スタジオ内に異様な緊張感が走る。特に教授所属のヨロシタ・ミュージックと矢野さん所属のヤノ・ミュージックの関係者の緊張感は空気を伝わるような感じだった。この緊張感を持った空気を文字で言い表すのはかなり難しい。

そして、各メンバーが到着し、それぞれの楽器をチェックする中、憲司さんのアンプから継続的なノイズが出ており中々消すことが出来なかった。
遠因にあったのは、憲司さんの楽器と本人の入りが同時だったため、事前にセッティングされチェックされていた楽器群に比べてリハのスタートまでのギター廻りのチェック時間が殆ど無かった点もある。もうちょっと気を利かせて楽器だけ先に入れてセットし、その後憲司さんを迎えに行けば、ダミーのギターでもチェックは出来ていたが、当時はそこまで仕事がコナレテいなかったのだ。

あれこれやっていたが、中々消えずにいたために、マゴマゴした感じになっていた時、突然教授の怒号が響いた。

「何やってんだよ! 早くヤレよ!」
と言うや否や、ヘッドフォンを外し、前に投げ捨て、ヨロシタの楽器セクションのチーフのF氏の元へ走りだし、胸ぐらを掴んだ。その瞬間リハスタが凍りついた。

F氏は「スイマセン・・」と教授に言うが、教授は「スイマセンじゃないだよ、何でチェックしてないんだよ!」とリハが始まる前に楽器の問題をクリアーしていなかった点を責めた。しかしこの場で言い訳することは出来ない空気だった。スタッフの仕事は、ミュージシャンが入った段階でスムーズにリハが開始できるようにするのがプロとしての義務だからだ。

矢野さんは「ほらあ・・もう・・(怒らせちゃダメじゃない・・)」と不安気な声を出すが、とにもかくにも私を含めた楽器関係者はオロオロした感じで対処に追われる。でも私のような知識も経験もないボンクラはウロウロするばかりで何の役にも立たない。アンプに問題があるのか、他の要因なのかも分からないのだ。

そして楽器スタッフたちは、狼狽えながら、何とかこのノイズの原因が、教授が使用しているフェアライト(FAIRLIGHT CMI)という新しいサンプラー機器が発信する原因不明なデジタルの電子ノイズで、直ぐ隣に座っていた憲司さんのギターのマイクがそのノイズを拾ってアンプで増幅し、音として出していたことを突き止めることが出来た。

それは憲司さんがギターの角度を変えるとノイズのレベルが変化した事で判明したのだ。スタッフは憲司さんに謝りながら場所の移動を促し、その後リハが開始された。私がこのリハで覚えている風景はこれだけである。

当時はまだデジタル機器の黎明期で、スタッフもデジタルの電子ノイズに対して知識も経験もないため、本質的原因を探るのが大変に難しい時代だったこともある。
また日本では誰もFairlightををライブで使った事のない、機材やシステムを先駆けてやっていたのは教授周辺にいるミュージシャンだけだったため、周囲のスタッフは常にこうした革新技術との闘いを強いられていた。多分、広尾にあった輸入代理店のナニワ楽器もこんなことまでユーザーに伝えていなかったんではないだろうか?


だから全ては手探りの時代だったのだ。

 私はこの時に教授が怒ったのを初めて見たのだが、人生でこんなに怒った人を見たことがなかったので肝の竦む思いだった。
でも彼の立場からすれば、プロデューサーとして色々と段取りをしている事が初日からの機材系のトラブルでキチンと音楽的な部分を進行出来ないという事が容認出来なかっただろう事は十分理解出来る。

本来であればそうしたリスクを軽減するために参加しているミュージシャン側の持ち込み楽器を事前に確認にするなどで対応をする方法もあるが、当時は、ミュージシャンの動向を忖度して、スタッフが彼らとの細かい物理的で事務的な調整をするような事が何となく出来ない空気があったのは事実だ。(今でも同じだろうと思うが・・)

これは当時の我々だけでなく他のミュージシャンでも多くみられた傾向だった。ミュージシャンにとって音楽以外の段取りや進行に関わる決め事や打ち合わせは興味を惹かれないのだろう。

しかし正直言うとこういう点はずっと効率的ではないな・・と思っていた。しかし雰囲気的に言える人と言えない人がいるような世界であり、仕方ない。
先ほども書いたが、もう少し私の気が効いていれば、ダミーのギターなどで仮の調整やチェックをしておきリスクを排除する方法もあった。今となっては遅きに失しているが・・・。残念だ。

しかし結果が全てなのがこの世界に限らず、仕事の本来の在り方でもある。いずれにしても初日のこの件でスタッフ全体が一層ふんどしを締めた事は言うまでもなく、その後は大きなトラブルが表面化することはなかった。

実はこのライブ、ライブ全編に渡って8chのマルチ・テープ音と生演奏がシンクロする必要があった。そのためサポートメンバー全員は、ライブ用の特製CUE BOX(確か8ch仕様/ドラムス、Key、ベース、歌、ピアノ、Gtr、Percのモニター音量を別々に設定できる)だったか・・)にヘッドフォンをつけてクリックと実演奏をモニターするという当時としては初の方法を取っていた。いわゆるレコーディングスタジオと同じような環境だ。

矢野さんはサポートメンバーのような方法でヘッドフォンをつける訳に行かず、通常のモニタースピーカーを聞いて演奏をしていたため、テープに記録されているクリック音を聞くことが出来ないため演奏曲の頭を知る方法がなく、矢野さんのピアノの上に視覚的にカウントの進捗が赤い点滅式ライトで分かるような形にしたオリジナル機器が置かれ、それを操作することで解決策とした。

 

さて、東京・渋谷公会堂の本番当日、リハが始まる段階で、矢野さんがピアノ左上に置かれた例の視覚型クリックモニター機についてある要望を出した。彼女曰く「2段に組まれていた赤のライトの8ビートの動きが全て視覚的に見えるのは、出だしのリズムが取りにくい」という点と、「曲が終わった際に機器のリセットを自分でやらなくてはならないのは何とかならないのか?」という2点だった。

いずれももっとな意見だったが、ゲネプロまでにそうした要望が出てなかったため、当日の開演までに時間がなく全ての解決はできなかった。
「8ビート」の問題は8個のインジケーターの内下部に配置されていた4つ分の赤のライトに黒のガムテープ等を使って覆い隠して当面を解決した。見た目が悪くなったので、ご本人はちょっと不満気だったが、処置としては致し方なかった。

「リセット」の問題は、関係者が本番当日ではどうにもならない技術的問題だったので。リハ中にこの指摘があれば、機器的対応をしたのだろうが、本番日では出来ることに限界があった。まあ、彼女の要望ば最もな点もあったので、スタッフ側がもう一歩先を読んでおけば解決出来た問題でもあった。
とにかく、関係者が本人をどうにか説得し、納得してもらったと記憶している。演奏する本人からすると場合によって忘れてしまう可能性があり、また一々自分でリセットするのは煩わしい問題だったことだろうが、当時としてはこれでも最新の方法だった。

リハ後教授は、「ヘッドフォンモニターだから全員の演奏が凄く良く聞こえる」と言っていた記憶がある。セッティングの最終確認をする際に各メンバーのヘッドフォンを何人かで装着して音の確認をしたが、高橋氏のモニターレベル(音量)は鼓膜が破れるかと思う程の凄い音量で、あれで演奏しているのかと思うと大変に驚いた。

東京公演が終わり、大阪に移動する日の直前、私は憲司さんと同行するように言われる。本来は別のステージ・ローディーが憲司さんの対応をするはずだったが、憲司さんの要請で予定が変わったようだ。多分慣れていない人間に自分の機材を触らせるよりは私の方がまだマシだったのだろう。
私は生まれて初めて飛行機に乗って大阪に到着。羽田で見たANA機は眩しく見えた。もちろんライブツアーへの参加も初めてだ。ちょっとした興奮を覚えていたと思う。
楽器関係者からは、私はとにかく憲司さんのセッティングだけをキチンとやって欲しいと言われた。
東京で行ったように楽器関連のセッティングをし、ギターの弦を変え、チューニングをしメンバー入りを待った。そういう意味で私の役割は限定されており、難しい事もなかった。
本番中、私は舞台上手袖のドレープス(カーテン)の脇からメンバーの演奏を垣間見ながらトラブルへの対処準備をしていた。

私の目前では高橋幸宏氏が演奏していたため、常に生音が聞こえていたのだが、この日の高橋氏の演奏は鬼気迫るものがあり、ドラムの事が良く分からなかった当時の私にも「凄い演奏だな・・」と感じるものがあった。
後日聞いた話だが、高橋氏は「今日の演奏で私は思い残す事はありません」と言ったそうなので、きっとそういう事だったのだろう。 


ツアー自体は大きなトラブルもなく終了したが、これだけの労力をかけて3回だけというのは少し勿体無い感じもした。矢野さんの立場では”それだから良いのよ”というかもしれないが、事務所や関係者としては、内容が凄く良かった事もあり、またかなりの経費と労力をかけて行ったライブイベントだったので、もう少し大勢に見せたかったという感慨もあったと推察する。実際、脇で隙間から見ていても素晴らしいライブだったのだ。客として見たかったという感じだ。

またビジネス的には製作原価の償却をして、利益を出したかったというのは経営者側の本音だったのではと思う次第だ。しかし当時のミュージシャンたちはそんな視点で音楽をやっていない。(現代ではそんな幼稚な事を言ってもいられなだろうが・・・)
またこのライブのフロントPAをやったのは普段レコーディングエンジニアをしている飯尾氏だったと思う。

レコーディングのエンジニアリングとライブのエンジニアリングは共通している部分もあれば違う部分もありチャレンジングな人選でもあったと思うが、結果的には良かったようだ。それでもレコーディングエンジニアをライブエンジニアとして使う事は稀だ。特に会館で使用するPA機器は、スタジオとは全く異なるものが多く、スピーカーのチューニングや会館の鳴りの掴み方など、レコーディングエンジニアが普段やらない仕事も多い。
いずれにしてもこのライブは舞台袖から見ていても素晴らしいのがハッキリ分かった。

当時の私には理解出来るはずもない事柄だが、当時、このツアーには事務所の人間も多数関わっており、それらを鑑みると、純粋な意味でコンサートだけで営業利益が出ていたかどかは微妙だろう。当時にしてもミュージシャンの純粋な音楽への意向が強く働くため、特に金にまつわる事を理由に公演回数をこなそうというのはミュージシャンへの説得としては弱かった。
当時のコンサート・ツアーは、LP(当時はアナログ盤しか発売していない時代)の販売宣伝のために行なっているという要素が極めて強く、アーティストもメーカーも、コンサートは宣伝目的という意識も強かったので、こうした経費は、CDを売ることで関連経費を回収するというモデルだったが、 当時としてもそれに見合う結果が得られたかは私が知る由もない。現在であればミュージシャンの実入りの問題も考えて、最低でも10本以上はやっただろうと推察する。
本ライブの単独のDVD版は残念ながら既に絶版になっているが、もし見る機会があれば本当にオススメする。実に素晴らしいパフォーマンスであり演出であった。尚、演奏の一部はYOU TUBEで見ることが出来るようなので参考にして欲しい。

(オーエスオーエスライブ)

http://www.youtube.com/watch?v=ynU8RWz9Qxc

オーエスオーエスライブ1984 [DVD]


 






参考:フェアライト(FAIRLIGHT CMI)について

教授の手元に届いたのはおそらく1983年から84年にかけてだったろう。フェアライト(FAIRLIGHT CMI)についてはその後私自身も使用者の一人になるので詳細は今後書こうと思うが、教授が1984年10月に発売した「音楽図鑑」は、本機の存在が大きく貢献している。
当時の価格で1500万円という高価なサンプラー機器で、CPUは8ビット(任天堂に初期のファミコンと同じ)、8インチの1DDディスクに記録出来たサンプル時間は約10-11秒程度だった。オーエスオーエスの3回のライブにおいて教授がステージ上で演奏していたのは基本的に本機である。
多分日本のライブ演奏で本機を実際に使用したのは教授が初めてだったろう。
当時は本機にはMIDIが装着されておらず(1985年になって実現)、本機から他のシンセをコントロールすることは出来なかった。ライブ時の教授は、本機専用の白い専用キーボードを演奏していたと記憶している。この白い専用キーボードは本当の大きく重い代物だった。鍵盤も通常のキーボードよりも重めだった。

現在本機の生産は中止されているが、2011年にアニバーサリーバージョンが受注生産で発売されたと記憶している。現在ではiアプリとして本機の音を楽しめるらしい。らしい時代になったもんである。音楽図鑑は、本機が存在していなければ完成していなかったと思う。そういう意味で、フェアライトを存分に使った世界でも最初のアルバムと言えよう。


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ティータイム

はじめまして、こんにちは。
フェアライトで検索していたらたどり着いた者です。
貴重なショットやお話を興味深く拝見させていただきました。
ただ、ただ関心するばかり。
貴重なお話、これからも楽しみにしております。

by ティータイム (2012-01-12 00:27) 

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