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1983年2月 ローディー時代の景色 Part-1(80年代を垣間見る) [ボーヤ時代 1983年]


【ローディー生活の開始:1983年2月】

このページにご興味を持って頂き恐縮です。
Part-1~10までという長文で、中身が長いので読み疲れるかもしれませんが、1980年代の音楽業界を違った視点で描いたものです。
田舎町で育ちながら、音楽が好きになり、音楽業界に憧れる余りに不器用な方法で業界に潜り込んだ、全くもって生き方が下手くそな男(おまけに文章も下手くそ・・・)の20代前半の話です。

読み始めた方には恐縮だが、この男に華々しい栄光は訪れません。
それでも若さにかまけて自分の好きな事に人生を賭け、失敗とは言えないまでも成功とも言えない、ちょっとだけ中途半端な感じで音楽業界を去って、また同じ業界に戻った男の話です。

この男は自分の夢の幾つかを叶え、憧れだった数多くの優秀で素晴らしいミュージシャンたちに出会い、彼らと多くの時間を共有し、魔法の時間を経験をし、その後、それなりの作品に仕事と名前の痕跡と爪痕を残しました。
こうした時間を経て、その経験が生かすことによって、映像と放送を融合したビジネスで悪くない成果を上げることも出来ました。


その男も2019年秋で還暦を迎え定年退職しました。
沢山のコンサートを自分の目で見て、同時に仕事でも関わりました。
以下は人生を通じて直接コンサートを見たミュージシャンです。
正直、もう十分見ましたね。(笑)

(敬称略)
井上陽水、吉田拓郎、泉谷しげる、サザンオールスターズ、ユーミン、坂本龍一、細野晴臣、高橋ユキヒロ、YMO、山下達郎、矢沢永吉、RCサクセッション、Char、原田真二、キャンディーズ(解散ライブ)、綾香、
竹内まりや、矢野顕子、八神純子、大貫妙子、由紀さおり、上原ひろみ、奥田民生、福山雅治、小田和正、
高中正義、大村憲司、井山大今、JUDY AND MARY、サニーデイ・サービス、ローザ・ルクセンブルグ、
ザ・ストリート・スライダーズ、BO GUMBOS、thee michelle gun elephant、BOWOW、紫、
ムーンライダーズ、カスケード、Mr.Children、小坂忠、萩原健一、BOOWY、The Surf Coasters、出川哲朗、

Eric Clapton、Jeff" Beck、Steve Winwood、Miles Davis、Procol Harum、Sting、Prince、Steely Dan、Simon & Garfunkel、Peter Gabriel、U2,B.B.King、David Bowie、Serge Gainsbourg、
Dr. John、The Neville Brothers、Prince、Billy joel、Jamiroquai、The Chemical Brothers、Bob Dylan、Brian Setzer、Cheap Trick、Tedeschi Trucks Band、Queen(オリジナル&再結成)、The Doobie Brothers、Daryl Hall & John Oates、Boston、Brian Setzer、Journey、Madonna、Cyndi Lauper、
Michael Jackson(初来日)、Paul McCartney、George Harrison、Ringo Starr、Elton John、The Police、Phil Collins、Genesis、Dick Dale、The Ventures、PENGUIN CAFE ORCHESTRA、BTS、2PM、Super Jounir、Seventeen、NU'EST等。 

紆余曲折した男の最後の職場は、大手上場企業グループ会社でした。
これから読んで頂く男の話、つまり私の仕事ぶりや職場環境を考えると、現在のそれを想像することは難しいかもしれません。

そういう意味で私は、ちょっとだけ運が良かった男なのかもしれません。
40代の幸運な転職がなかったら悲惨が老後になりかけたからです。

これほどの情熱を音楽産業に注いで参りましたが、現在はとても冷めた目で見ております。
正直言って
音楽産業やミュージシャンにシンパシーを感じなくなったのです。
もちろん今でも素晴らしい才能が産まれ、大衆に影響を及ぼしていますし、私も日常的に音楽と接して生きております。
それに反するかのような感覚ですが、この複雑怪奇な感覚は上手く説明出来ません。


さて、文章が稚拙なのでですます調すら統一してない文章で恐縮ですが、時間をかけて直しますので、よろしくお願いいたします。 

それではスタート!


 私は大学を卒業し社会人となり198242日から「ニューフォトスタジオ」という千駄ヶ谷近くの街場の写真スタジオに入社しました。(現在は閉店)

最寄りの駅は国鉄・原宿駅。まだJRと言われる以前の時代です。
これから記載する出来事は、1983年2月から1984年6月の間に私に起こった事です。
あれから40年数年近い時間が経過しました。
以後の記載通り、ボーヤという底辺の仕事を入り口にして音楽業界に入った私は、約19年近くかその世界におりました。

その間、ボーヤ、シンセのプログラマー、アーティストマネージメント、音楽制作、音楽作家など、仕事は多岐に渡りました。大成功と言えるキャリアはありませんでしたが、多数の著名作品に関わる事が出来、幸運な体験と仕事をしたと思っております。
ある意味で歴史の1ページに触れた部分もあるでしょう。


その後、42歳で音楽業界を離れ衛星放送業界に転身し、そこで韓流ブームの波に乗り自分のキャリアに大きな変化を受ける事になりました。
特に日本でのドラマ映像の二次的ビジネス(DVD事業、配信事業、イベント事業)で大きな成果を上げたために外様である私でが生え抜き社員を差し置いて管理職にもなることが出来た訳です。
ボーヤ上がりにしては悪くない出世だったと自負しておりますが、若い頃に描いていた自分が大人になった時のイメージとはちょっと異なりました。

それでも還暦間際になってまでもエンタメ業界で生き続けられた事は幸せでしたし、韓流や中国ビジネスに関われた事は、昨今の日韓関係問題や日中の微妙な関係性に心を痛める部分はありながらも、私の人生にとって大きな転換点になってくれたと言っていいでしょう。
同時に中韓関係に関しては、自分で様々に学び、その結果厳しい目線で見るようにもなりました。

音楽・エンタメ業界で社会人人生を全う出来たのはこの上ない喜びでした。
それでも定年退職が迫る過程においては、標準的な社会人労働者としての一旦の区切りに対して一抹の寂しさも感じております。

もちろん今後、体力、気力の問題もあって仕事に関していつまでもやれるものなのかは分かりません。
それでも働いている方が自分にも社会にもいいだろうと思って考えています。
2015年になって職場の方針で所在地が原宿のど真ん中のビルに移転した際、
社会人一年生の時代に毎日降り立った原宿が最寄りになった事で人生の巡り合わせというものを痛感しました。

そして2017年年末、グループ本社の意向でとある大手音楽メーカーの傘下に私の職場が統合されることになり、私や仲間の社員らは大手音楽グループ会社の社員となった。これも俯瞰してみればある意味では運命の一つだと言えるだろう。
実はその音楽グループは、私が大学卒業時にオーディションとバイトの応募で落とされた経験を持つ会社なのだ。人生はままならないと言うが、私の人生は正にままならない感じを絵で描いていると言っていい。

さて1982年4月、22歳の春に入社した「ニューフォトスタジオ」を選択した流れの詳細は、後述するが、直接のキッカケは日刊アルバイトニュース(後のFROM A)の掲載記事を読んだからである。

実は
最初に入社したこの会社は2017年中頃に事業撤退しておりました。
オーナーのMさんは、まだご存命のようなのだが、デジタルカメラ時代になり、小規模の写真やを維持するのも潮時なのだろうと推察する次第です。
店舗も彼も引退の時期を迎えたのでしょう。
残された店舗跡を見たが、そこにはもう当時の痕跡は無く、変わらない光景は、その店舗があったマンションの建物だけでした。

これを加筆している時点の私の職場は六本木に位置しているのだが、私のエンタメ業界の「入口と出口」が六本木エリアとなった事にちょっとした人生の不思議さを感じた次第です。
そう、私の音楽業界の入り口は、まさに今の職場のある隣のビルの5階で始まり、36年後、殆ど同じ場所と言っていい土地で定年を迎える事になったのですから…。

私は学生時代から(正確には中学生時代から)この世代に有りがちなのだがミュージシャンを目指して生きておりました。
しかし当時の私は頭で考えるだけでなかなか行動の伴わない人間でもありモヤモヤした時間を長く過ごしたと思います。

それでもレコード会社数社にデモテープを送ったりしていたのですが、私の音楽が採用される事はなく結局そのまま大学卒業の日を迎えてしまい、実に困り果てることになったという顛末になった訳なのです。

今にして考えれば恐ろしい事なのですが、その間、就職活動は全くせず、とにかくデモテープを送ってデビューの可能性を探していたのが当時の私だったのです。
バカを通り越しているのですが、それが当時の私の能力でした。
ニューフォトスタジオへの入社は大学卒業を目前に控え、社会人となって放り出される事を真剣に自覚し、止むえず生活を維持するためだけの消極的な選択行為としてこの会社に就職しただけでした。
それも日刊アルバイトニュースを情報源として働き場所を決める当たりは、全く人生を舐めているとしか言いようがありません。
結局、私は社会人になって一度もキチンとした就職(入社)試験というものを受けないまま今日まで生きてきてしまったのだが、当時の私のヘアスタイルは社会性のかけらも無いカーリーヘアーだった事を考え併せてみると、普通の社会人になるつもりなど無かった事をアカラサマに体現していたと言っていいでしょう。

今にして思えば幼稚と言われても反論出来ない精神構造を持った若者でした。

ニューフォトスタジオは、前述のように、写真家のA・M氏が経営する街場の写真屋であったのですが、彼はYAMAHAの楽器を利用するミュージシャンを撮影するカメラマン契約をしていた人物でもあったため、音楽業界へのキッカケが掴めるかもしれないという淡い期待だけでこの会社を選択した訳なのです。

当時の月額給与は額面で10万円。(新卒者の平均が12万円強の時代)
しかし入社後の私を待ちうけていたのは、毎日暗室で写真を焼く暮らしで、僅かな残業代しか伴わない薄給生活でした。
特に西武ライオンズ関係のクライアント先の要望で、西武ライオンズがリーグ優勝戦線に入ってくる時期になると、当夜の試合の模様や選手関係の写真を翌朝までに焼いて納品する必要があり、当然、深夜業務が日に日に増え始め、その割に残業代が少額であったために(月額で1000円程度)毎月の給料明細を見て唖然させられる日々に困惑する日々でした。

入社当初は、最低2年は勤めてから音楽業界への機会を伺おうと思っていたのですが、私は入社の年の秋口頃には早くもやる気と希望を失いつつあったのです。
またこの会社にいても音楽業界への道は開かれないだろうと結論を下し始めており、あとは退社を何時にするかという気持ちでした。

そして
19831月初頭、新年も明けて会社が始まって間もない時期(確か1月7日だったと思う)に、事前の予告もせず社長に辞表を提出し、最初の就職先を退職することになりました。
今思うとかなり身勝手な退社だったと思っております。
若気の至りとして許して欲しいという気持ちですが、今にして思えば随分と短絡的な人間でした。

社会人として勤務を始めてたった10か月後でした。

前述のように、学生時代からミュージシャンになるつもりだった私は、大学卒業後の人生設計をキチンとたてられないままであるにも関わらず、就活などは一切しなかったのです。
就活代わりにしていたのは、
CBSソニーオーディションへの挑戦とCBSソニーのバイトの応募でした。
しかし大学の卒業式が行われる1982年
320日を前にしてCBSソニーオーディションは落選が決定、レコード会社のバイトすらも不採用という状況でした。
(2014年になって仕事で初めて市ヶ谷のソニーミュージックの黒ビル、六番町のビルに入った時は、ちょっとした感慨すらあった・・・。)

実は大学卒業直前、音楽仲間からとある著名なプロのギターリスト(2017年故人となった方)M氏のローディー職への紹介を受けて話を進めていたが、給与が
6万円(大卒初任給12万円の時代。2013年に換算すると月給10万円<2013年の大卒初任給を約20万円として>という感じだろう)だったことや、大学の音楽仲間連中やバイト先の年長者から否定的な助言を受けたことで心根が揺れてしまい、このローディー話を一旦引き受けた後に断ってしまった経緯がありました。
当時この話を持ち込んでくれた彼には大変に迷惑をかけ申し訳なかったと思っているが、あの話を受けていたらちょっと違った人生になっていたのかもしれないと思う事もございます。

ここでちょっとだけだが、1982年の事象と音楽を振り返っておこう。
以下のリストは主な出来事と当時のヒット曲だ。 

28 ホテルニュージャパン火災発生で33人死亡。
2
9 日本航空350便墜落事故、24人死亡。

42 アルゼンチン軍がフォークランド諸島を占領(フォークランド紛争勃発)。

614 フォークランド紛争終結(フォークランド諸島の領有権はイギリスが獲得)。

817 フィリップスが世界初のCDを製造。

101 ソニーが世界初のCDプレーヤー、「CDP-101」発売。当時は高額商品だった。

104 フジテレビ、「森田一義アワー笑っていいとも!」を放送開始。その後30年を超える長寿番組となる。

1110 中央自動車道が全線開通。これによって田舎への帰省が本当に楽になった。

1124 中曽根康弘・行政管理庁長官、自民党総裁予備選で圧勝。

1127 1次中曽根内閣発足。田中派の7人入閣。

124 米映画『E.T.』が日本で公開。

12 日本電信電話公社、カード式公衆電話、テレホンカード発売。

1982年のヒット曲:

細川たかし 「北酒場」
あみん「待つわ」
近藤真彦「情熱熱風・せれなーで」「ふられてBANZAI」「ハイティーン・ブギ」
田原俊彦「君に薔薇薔薇という感じ」「原宿キッス」「誘惑スレスレ」
松田聖子「赤いスイートピー」「渚のバルコニー」「小麦色のマーメイド」
中森明菜
「少女A」「セカンド・ラブ」
郷ひろみ「哀愁のカサブランカ」

坂本龍一・忌野清志郎「い・け・な・いルージュマジック」→衝撃的だった!

サザンオールスターズ「チャコの海岸物語」「匂艶 THE NIGHT CLUB
⇒80年代に入ってサザンはアルバムアーティストのイメージが強く意外とシングルが売れないバンドになっていたがこの後から安定的なヒット作品を量産するようになる。

シブがき隊 NAINAI 16」「100%…SOかもね!」「ZIG ZAG セブンティーン」
中島みゆき「悪女」「誘惑」「横恋慕」
中村雅俊「心の色」「恋人も濡れる街角」
山下久美子「赤道小町ドキッ」
一風堂「すみれ September Love」→売れてましたな!
もんた&ブラザーズ「DESIRE
シュガー「ウエディング・ベル」
ザ・タイガース「色つきの女でいてくれよ」
上田正樹「悲しい色やね」→売れてましたな!
渡辺徹「約束」
アラジン「完全無欠のロックンローラー」⇒一発屋の典型となった。

河合奈保子「夏のヒロイン」「けんかをやめて」「Invitation
柏原よしえ「ハロー・グッバイ」「渚のシンデレラ」「花梨」
オフコース「YES-YES-YES
沢田研二「おまえにチェックイン」「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」
矢沢永吉「YES MY LOVE」→コカコーラのCMに使われていた。

Johnny
「ジェームス・ディーンのように」「$100BABY
西城秀樹「南十字星」「聖・少女」
⇒2018年5月逝去。合掌。

松山千春「夜よ泣かないで」「夢の旅人」
さだまさし「しあわせについて」
増田けい子「すずめ」
RC
サクセション「SUMMER TOUR

薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」→角川映画のテーマ。角川映画の時代だった。
松本伊代「センチメンタル・ジャーニー」
小泉今日子「私の16才」「ひとり街角」
堀ちえみ「潮風の少女」
大橋純子「シルエット・ロマンス」→売れてましたな!
五木ひろし「契り」

山下達郎「あまく危険な香り」
⇒勝新太郎氏主演の刑事ドラマの主題歌だった。達郎さんは勝さんとの記者会見にも出席していたが、彼にとってはテレビに映った最後のメディア会見になったんじゃないだろうか?

アン・ルイスLa Seson
研ナオコ「夏をあきらめて」→サザンの名曲のカバー。
三好鉄生「涙をふいて」
高樹澪「ダンスはうまく踊れない」→作曲は井上陽水



ホテルニュージャパンの火事は当時の経営者の稚拙さが悲惨だったし、翌日の日航機羽田沖の墜落も、機長の心身症が原因というもので過去に例のない惨劇に日本中が驚いた。

またこの年初めて世の中にCDが出現。デジタル音楽時代の幕開けになった。
CDはその後1997年をピークにマーケットを縮小。2016年においては2000億円程度の市場となる。
私の予想では10年以内に1000億円を切り、20年以内にレコード会社の殆どは消滅か吸収事業に変化するだろうと思う。(つまりCDを買う主な層である50代以上がお金を使えるのはその位が限界ということだ。)

CDの登場当時は、1980年代初頭という新しい時代を予感させるに相応しい製品が登場した事に興奮を覚えていた。
ヒット曲のリストを見ると、日本のポップ状況が多様だと分かる。演歌あり、歌謡曲、ロックあり。現在のようにAKBと嵐しか年間チャートに思い浮かばない時代と比べると音楽文化環境が豊かに思えるのは私の偏見だろうか?
またこのリストにいる歌手群で現在でも一線で活躍している人たちは極僅かと分かる。時代の風雪に耐えるというのはかくも過酷ということだろう。

さてこうした時代背景の中、私の大卒卒業後の進路は暗雲が一杯に立ち込めていた。
今にして思えば将来へのビジョンも恐ろしいほど曖昧だったし、人生設計は皆無という戦慄を覚える程の阿呆振りだと感じている。
とても私の下の甥がパラサイトをしながら夢追い人をやっている体たらくを笑えない。それでも親の庇護から脱して自立して生きようという気概に溢れていたことは事実だ。


当時の給与や生活について詳しく書くと、給与の額面は
10万円で手取り88千円。大卒平均が12万円弱と言われた時代だ。
当時の私の家賃(風呂なし・トイレあり、世田谷区祖師谷大蔵)が
32千円だったから、給与残金が56千円程度で生活はギリギリであった。
1日の食費等は約1,000円程度だった。(2012年度でも大学生の平均が1日1,000円程度だというニュースを聞いて大変に驚いているが・・)。
2012年に直すと額面176千円(手取り156千円)の生活レベルだ。
(しかし驚くべき事なんだが、2013年の日本の貧困率はアメリカに次いで世界で2位。20%に近い数字の労働者の方々が年収200万円以下なのだ。当時の私の給与は貧困層以上だがそれでもギリギリの線だ)


社会人1年生の生活は、毎日暗室で写真を焼く日々で、残業代もロクに出ない。また期待していた音楽業界への道は、少しも近づかないというナイナイづくしであった。そのため精神的に疲弊し、かといって自分の未来について相談相手もなく、次第に仕事へのやる気を無くして行った。何とか将来を見据えてヴォーカルスクールだけは通っていたが、まあ活動に奥深さが全くなく、非常に稚拙な人物だっというのが当時の私だろう。

前述のように、入社当時は最低でも
2年は我慢と心に誓っていたが、そんな気持ちも何処えやら、年末には会社を辞めるという気持ちが強くなり、もはや心身が限界を超えてしまっていた。今で言うと心身症だろう。それでも私は孤独に強い部分があり、独りで耐え忍んでいたと思う。
昨今の若い人も結構我慢せずに辞める人が多いと聞くが、当時の自分を振りかえると彼らの事を批判など出来ようもない。まあ若い故の未熟さだったと言っておこう。

ただ、今の若い方に助言ができるとすれば、現在の行動は全て未来に意味のある形として繋がっており、良くも悪くも現在の「行動と選択の累積」でしか未来は訪れないという事だろう。

さて、年明けの
19831月7日金曜日、会社が始まった最初の週の終わり、不満で爆発しそうだった私は、帰宅間際に社長に辞表を提出し、そのまま会社を飛び出してしまう。
今にしてみれば「ただの無礼者」である。

飛び出した私は、仮初め(かりそめ)の自由を取り戻したかのように感じていたが、次の一手を持っていた訳では無かった。
目の前の不満を取り除く事にしか視点が行かないという当時を振り返ると、非常に愚かな人間だった。
(実は、辞めた先の会社の社長さんには、後年私が坂本龍一氏のシンセのアシスタントをして働いていた際、読売ランドのライブ会場でバッタリと会った。高名な教授のアシスタントをしていると知って喜んでくれたのは有難かったし、どうやってその仕事にたどり着いたのかと、彼も驚いた様子だった。)


 次の日から音楽業界への就職活動を始めるが、コネもなく、具体的な方法も検討せず、ただ、闇蜘蛛に歩き廻っていた。まさに若くして絵に描いたような泥縄人生である。
そんなある日、渋谷の道玄坂にあった
YAMAHA楽器店二階(現在は閉店)を訪れた。

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YAMAHA渋谷店(2010年6月20日撮影)
現在ここは自転車屋になり、左に並ぶ店舗群も2014年末に消滅。


2階のバンドメンバーなどを募集する掲示板コーナーを見ていると、ギターリストの大村憲司氏のローディー募集の張り紙が目に止まった。当時の私の印象としては、”この人物についての認識は、YMOの海外ツアーなどで演奏をしていた方なので名前にホンノリと記憶があった”という程度だった。
そう言えば渋谷の道玄坂下の電気屋(現在のプライムビル辺り)のテレビでL.Aからのライブ中継を放送していた時に見かけたな・・・という記憶が蘇ったのはこの時だった。

告知の条件を読み、心の中で色々な葛藤をしながら書かれていた電話番号に連絡してみた。電話をすると、担当者はTさんという男性で、六本木ソニースタジオにいると伝えられスタジオの電話番号を教えてもらった。
プロのレコーディングスタジオに連絡するという行為そのものがドキドキしたが、Tという人物が私の電話に応対し、明日午後に面接をするのでスタジオに来て欲しいと伝えられた。私は履歴書を準備して翌日指定時間に着くように六本木に出かけて行った。

19832月の小雪の舞う寒い日であった。(つづく)

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<1983年11月にオープンしたレコードショップのWAVE。このレコードショップの出現は、日本の音楽文化の革命的な象徴であった。とにかく店員が音楽に詳しく、かなりマニアックな洋楽レコードでも店員が見つけ出してくれたし、在庫も数多くあったため、ミュージシャンに限らず多くのクリエイター関係者にとって重宝した店だった。残念ながらHMVやTOWERレコードの進出で影が薄くなり、加えて六本木ヒルズの開発に伴い1999年12月に閉店。象徴は時代と共に消えていった。
Scritti Politti (スクリティ・ポリティ)の「キュピット&サイケ」を買ったのもここだった。CDを物色中の中山美穂さんを見かけたこともあったっけ。あんな美しい女性を見た事はそれまで無かったなあ。

WAVEビルの1Fには「雨の木(RAIN TREE)」という業界人が集まるコーヒーショップがあり、いつもレコード会社のディレクターやテレビ局の人間、タレント事務所の社長が打ち合わせをしており業界関係者には有名な場所となった。またこのビルの6-7階には「SEDIC」というレコーディング・スタジオがあり、数多くの80年代の音楽制作が行われていた。後年私は何度もこのスタジオを訪問するが、仕事で失敗した記憶しかない。(後年、大沢誉志行アレンジの仕事にシンセプログラマーとして呼ばれ、MC-4のデータをテキパキ入力出来ず、スタジオ仕事を遅延させた記憶・・・)
現在はビルもなく、この場所には当時の面影もないが・・・。80年代、ここを含む六本木周辺は、バブルにひた走る日本の事象面において、中心的で象徴的な場所だったが、私はずっと低所得者層であった。

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1983年を象徴したキーワード群である。「女帝」とは三越社長・故・岡田茂(1995年死去)の寵愛を受け、三越を私物化し我物顔をしていた故・竹久みち(2009年死去)の事である。「少し愛して~」はサントリーのウイスキーのCMのキャッチコピーで、女優で故人となった大原麗子氏が出演で話題となった言葉である。「軽薄短小」や「とらばる」などの言葉で分かるように、日本全体が軽薄になり、調子に乗り始めて来た兆候が出ている。また北朝鮮による大韓航空機撃墜事件などの政治テロ事件など小説のような話が現実に起きていた時代でもある。


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岡本克也

はじめまして。
大村憲司さんのローディー時代のお話、興味深く拝見させていただきました。
私は小学6年生の時に、YMOのワールドツアーの映像をテレビで見て、そこで大村憲司さんのことを知りました。
高校生の時からギターを弾くようになり、そこで、大村さんのギタープレイを再認識しました。フレーズが上品で、音が良くて、派手さはなくても渋いプレーを放つ大村さんのことを尊敬していました。
Liveもよく見ました。高橋幸宏さん、矢野顕子さん、小林健史さん、江戸屋レコードのオムニバスライブなどで大村さんのお姿を何度も見ました。
音楽業界でローディーという最も条件的にも、肉体的にも大変な思いをされていたと察します。
大村憲司さんというギタリストを遠くから見ていただけの1ファンにとってはとても興味ふかいお話ばかりで感銘しました。

最近発行された"大村憲司のギターが聞こえる”というリットーミュージックの書籍の作者の方が、このブログを見て、本作りの参考にされたというエピソードも素敵です。

大村憲司さんが亡くなってもうすぐ20年になります。
今でもご存命だっtら、どのような音楽をやられていたか?
想像することしかできませんが、惜しいばかりです。

興味ふかいエピソードの数々、発表されるにはご躊躇も多々あったと思いますが、本当にありがとうございます。

岡本克也
katsuya.okmt1203@gmail.com
by 岡本克也 (2018-07-15 22:32) 

コロン

岡本様

コメントを頂き恐縮様です。
励みにさせて頂きます。
by コロン (2018-07-17 09:37) 

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